否定の声

 最初に声を聞いたとき、私はそれを良心だと思った。

 二度目には、死んだ父の声だと思った。

 三度目には、私自身の声になった。

 私は、古い音を直す仕事をしている。

 正式には音響資料修復士。黴びたカセット、磁性体の剥がれたオープンリール、針を落とせば砕ける蝋管から、もうこの世にいない人間の咳払いや、雨の日の駅のアナウンスや、誰にも届かなかった告白を拾い上げる。勤務先は東京の外れにある小さな研究所で、看板には「音響文化財保存室」とあるが、同僚はそこを音の霊安室と呼んでいた。

 六月の終わり、庄司征一教授から小包が届いた。

 庄司教授は古代哲学、とりわけソクラテスの宗教経験を研究していた。大学時代の恩師であり、私にこの仕事を紹介してくれた人でもある。三年前に大学を辞めてからは、各地の民間信仰と「内なる声」の採集を続けていた。

 箱には、黒いDATテープが一本だけ入っていた。

 ラベルには白い油性ペンで、D‐17、とある。

 同封の便箋には、教授の細い字で三行だけ書かれていた。

〈芦田君。これはダイモニオンではない。

 禁止の形を借りた、もっと飢えたものだ。

 七分四十秒より先を、一人では聞くな。〉

 ソクラテスが耳にしたというダイモニオンは、何かをせよとは命じず、しようとすることを「するな」と差し止めるだけだった、と伝えられている。教授はいつも、その点を強調した。

「命令ではなく制止だ。神託というより、行為の直前に立つ見えない手だよ」

 私は、その比喩が好きだった。

 見えない手が、崖へ向かう肩をそっと押さえる。良心とは、その程度の静かなものだと思いたかった。

 テープを業務用デッキに入れ、波形を監視しながら再生した。

 最初の二分は雨音だった。屋根ではなく、葉の厚い森に降る雨。遠くで、金属板が風に鳴っている。

 三分を過ぎると、低い呼吸が混じった。牛か豚のものだろう。だが数が多すぎた。ひとつの肺が息を吐くと、谷全体が続けて息を吐くようだった。

 五分十二秒。誰かが床を引きずられる音。

 六分三秒。男の声で、「まだだ」と聞こえた。

 七分三十五秒。無音。

 私は停止ボタンに指を置いた。

 教授の注意に従うなら、残り五秒で止めるべきだった。

 七分三十六秒。

 右のスピーカーから、微かな衣擦れがした。

 七分三十七秒。

 左のスピーカーで、唇が開く湿った音。

 七分三十八秒。

 父が、私の名を呼んだ。

「真澄」

 十二年前に川で死んだ父の声だった。

 記憶より少し若く、私を叱るときより少し優しい。

「その手を離すな」

 私は停止ボタンから指を離した。

 その瞬間、デッキの表示が七分四十秒になった。

 音が弾けた。

 獣の悲鳴でも、機械の軋みでもない。何千人もの人間が、同時に何かを思い出したような、短い吸気だった。

 私は反射的に停止ボタンを押した。

 部屋が静かになったあとも、右手の人差し指だけが震えていた。

 その夜、教授の携帯に電話をかけた。電源が入っていないという自動音声が返った。

 研究室にも、自宅にもつながらなかった。

 翌朝、見知らぬ女性が保存室を訪ねてきた。

 月倉澪と名乗った。三十代半ば、短く切った髪に、雨で濡れた黒いジャケット。ドキュメンタリー映像の制作をしていて、半年ほど教授の調査に同行していたという。

「先生が消えました」

 彼女は机にスマートフォンを置いた。

 画面には、地図上の一点と、教授からの最後のメッセージが表示されていた。

〈六倉谷。旧月ヶ瀬食肉衛生研究所。

 D‐17を芦田君へ。

 彼なら声の裏側を見つけられる。〉

「送信は九日前です。それから既読がつかない。警察には相談しました。でも、あの場所に研究所があった記録自体がほとんど残っていないそうです」

「六倉谷というのは」

「砥守県の北端。地図から消えた集落です」

 彼女は私をまっすぐに見た。

「一緒に来てください。先生があなたを指名した理由を知りたい」

 断るべきだ、と私は思った。

 そのとき、胸の奥で父の声がした。

 行くな。

 私は、行くと答えた。

 六倉谷へ向かったのは、私と月倉、それに彼女の撮影助手である潮倉岳の三人だった。

 潮倉は二十八歳で、長身に無精髭、肩から下げたカメラを自分の臓器のように扱った。怪談を信じないことを、怪談より熱心に信じている男だった。

「再生したら死ぬテープ?」

 高速道路を降りたところで、潮倉は笑った。

「だったら配信したら一晩で世界が終わりますね。広告収入が入る前に」

「死ぬとは言っていない」

「じゃあ、何が起きるんです」

「わからない」

「その答え、いちばん再生数が伸びるやつだ」

 月倉が助手席から振り返った。

「岳。現地では、私が許可するまで生配信もクラウド同期も切って」

「山奥で電波が入るならね」

 最後の集落で道を尋ねると、古い雑貨店の女主人が、私たちの車のナンバーを一人ずつ読み上げた。年齢は八十を越えていただろう。背中は曲がっていたが、目だけが濡れた石のように澄んでいた。

「六倉へ何しに行く」

 月倉が教授の写真を見せると、女主人は一度だけ瞬きをした。

「この人を見ませんでしたか」

「見たよ。戻ってはこなかった」

「研究所までの道を教えてください」

 女主人は店の奥から紙の地図を持ってきた。赤鉛筆で、林道から分かれる細い線を引いた。

「烏返しの橋を渡って、杉が三本ねじれてる所を右。舗装が切れたら、あとは谷の底だ。雨が強くなったら橋が沈む」

 代金を払おうとすると、女主人は青い頭のマッチ箱を私の手に押しつけた。

「あそこじゃ、止める声が先に歩く」

「止める声?」

「名前を呼ばれても返事するな——なんて言えば、もう声の仲間だ」

 女主人は、歯のない口で笑った。

「従うなとも、逆らうなとも言わん。声のせいで決めるな。それだけ覚えとき」

 店を出ると、雨が降り始めていた。

 烏返しの橋は、コンクリートの欄干が半分崩れていた。下を流れる川は赤茶色に濁り、木の枝や白い発泡箱を押し流していた。

 橋を越えると、携帯電話の表示から電波の棒が消えた。

 林道の終点に、錆びた門があった。

〈月ヶ瀬食肉衛生研究所〉

 文字の半分は蔦に覆われていた。

 門の向こうには、平屋の管理棟、黒ずんだ宿舎、そして谷の斜面に食い込むような巨大な工場が見えた。窓はほとんど割れ、搬入口には肉を運んだらしいレールが闇の中へ伸びている。

 雨のせいか、施設全体が呼吸しているように見えた。

 屋根から落ちる水が、壁の裂け目へ吸い込まれていく。排水口からは白い湯気が上がっていた。

「廃墟にしては、温かそうですね」

 潮倉がカメラを回した。

 私たちは管理棟から調べた。

 机も棚も残っていたが、書類は床で泥になっていた。壁の安全標語だけが読めた。

〈確認してから動け〉

〈機械を信じるな〉

〈声がしても止まるな〉

 最後の一枚は、赤い塗料で文字を塗り潰されていた。

「ここ、普通の食肉研究所じゃないですね」

 月倉が、資料棚から革表紙の帳面を見つけた。

 中には日付と数字が並んでいた。

〈豚 四二頭 終末呼気採取〉

〈牛 一一頭 声門閉鎖反応良好〉

〈作業員 三名 制止反応同期せず〉

 最後の頁だけ、筆圧が紙を破るほど強かった。

〈対象は命令に従うのではない。

 可能性をひとつずつ失う。〉

 工場へ通じる廊下の扉には、内側から無数の引っかき傷がついていた。

 潮倉が取っ手に手をかけたとき、天井のスピーカーが鳴った。

 電源など入っていないはずだった。

 ざ、と砂を噛むような雑音。

 次に、女の声。

「その扉を開けるな」

 三人とも動かなかった。

「聞こえました?」と月倉が言った。

「ええ」

 潮倉は取っ手を握ったまま、にやりと笑った。

「じゃあ、期待に応えないと」

 扉を開けた。

 向こうは解体室だった。

 天井のレールから、何百本もの鉄鉤がぶら下がっていた。壁際には、乾燥した豚の顎が棚いっぱいに並べられている。一つ一つの口に、古いラジオのスピーカーが詰め込まれていた。

 部屋の中央に、湯気の立つ紙コップが置かれていた。

 まだ新しいコーヒーの匂いがした。

「先生はここにいる」

 月倉が言った。

 その背後で、スピーカーが再び鳴った。

「振り向くな」

 声は、今度は父のものだった。

 私は振り向かなかった。

 考えるより早く、首の筋肉が固まった。

 目の前のステンレス壁に、私たちの姿が歪んで映っていた。

 三人の後ろに、もう一人立っていた。

 白い作業着。頭には黒い防音用の耳当て。顔の部分だけが、濡れた紙のようにぼやけている。

 私は反射に映ったその人物と目が合った。

 次の瞬間、潮倉が振り向いた。

「誰もいないですよ」

 本当に、そこには誰もいなかった。

 だが床には、裸足の濡れた足跡が残っていた。

 足跡は私たちの間を抜け、工場の奥へ続いていた。

 日没までに教授を見つけることはできなかった。

 工場の地下へ降りる階段は、電子錠のついた鉄扉で塞がれていた。電源は落ちているはずなのに、錠の表示だけが赤く点灯していた。

 私たちは宿舎の一室を拠点にした。

 床は傾いていたが、雨をしのげる。潮倉が発電機を回し、月倉が撮影データの確認を始めた。私はD‐17を携帯用デッキに入れ、波形をノートパソコンへ取り込んだ。

 七分四十秒以降には、二十一分ぶんの信号が記録されていた。

 耳ではほとんど聞こえない低周波が、規則正しく並んでいる。拡大すると、波形は人間の発話に似ていた。ただし、時間の向きがところどころ逆転している。

「音声認識にかけられますか」と月倉が聞いた。

「普通の言葉じゃない。けれど、位相を反転すれば——」

 解析ソフトが突然、文字を吐き出した。

〈窓を見ろ〉

 私は画面から顔を上げた。

「どうしたんです」

「今、文字が」

 表示は消えていた。

 その代わり、窓の外に人が立っていた。

 白い作業着の男。

 雨に打たれながら、両手を窓ガラスにつけている。顔は庄司教授だった。頬が落ち、髭が伸び、耳から黒いものが垂れていた。

「先生!」

 月倉が立ち上がる。

 教授は口を動かした。

 開けるな。

 私には、そう見えた。

 次の瞬間、部屋の照明が消えた。

 発電機の音も止まった。

 暗闇の中で、玄関の扉を叩く音がした。

 三回。

 間を置いて、三回。

「先生です」

 月倉が手探りで扉へ向かう。

 潮倉が腕をつかんだ。

「待って。さっき、開けるなって言った」

「外にいるのは先生よ」

「先生の形をした何かかもしれない」

 潮倉の声は、もう笑っていなかった。

 扉を叩く音が強くなった。

 ドン、ドン、ドン。

 天井裏でも、同じ音が鳴った。

 床下でも、同じ音が鳴った。

 やがて、四方の壁が、内側へ入りたがる巨大な指で叩かれているように震え始めた。

「開ける」

 月倉が言った。

「声が何と言おうと、外にいるのが庄司先生なら助ける」

 彼女は扉へ進んだ。

 その言葉には、恐怖とは別の芯があった。

 私は懐中電灯をつけ、閂を外した。

 扉の外には誰もいなかった。

 泥の上に、教授の眼鏡だけが落ちていた。

 背後で潮倉が叫んだ。

 振り向くと、窓の内側に教授がいた。

 部屋の中だ。

 教授は濡れた作業着のまま、潮倉のすぐ後ろに立っていた。両耳には、錆びた釘が一本ずつ深く打ち込まれていた。

 口が開いた。

 声は出ない。

 教授は人差し指を唇に当てたあと、床へ倒れた。

 教授は生きていた。

 脈は弱かったが、傷口の血はほとんど止まっていた。自分で耳を潰したらしい。月倉が救急箱で処置をし、私たちは教授を毛布に寝かせた。

 意識を取り戻すと、教授は声を出そうとせず、ノートと鉛筆を求めた。

〈声は音ではない。〉

 最初に、そう書いた。

〈音は入口にすぎない。

 あれは、行為を選び直す瞬間にいる。〉

「D‐17は何なんです」

 教授は少し考え、続きを書いた。

〈巣の地図。

 同時に、卵。〉

 潮倉が乾いた笑いを漏らした。

「卵を東京へ送ったんですか」

 教授は目を伏せた。

〈壊す方法があると思った。

 逆位相の音を作れるのは芦田君だけだ。〉

「僕をここへ呼ぶために?」

〈すまない。〉

 そのとき、発電機が勝手に再始動した。

 照明が一度、二度、明滅する。

 潮倉のカメラから、女の声が流れた。

「岳、立つな」

 潮倉の顔から血の気が引いた。

「母さん……」

 彼の母親は去年、癌で亡くなったと月倉から聞いていた。

「録音です」と私は言った。「あなたの記憶を使っているだけだ」

「そんな声、録ってない」

 カメラがまた言った。

「天井を見上げるな」

 潮倉は見上げた。

 直後、梁から錆びたボルトが落ち、彼の頬を掠めた。ボルトは床板に突き刺さった。

 潮倉は息を呑んだ。

「警告した」

「偶然です」

「でも、当たった」

 教授が激しく首を振り、ノートに書いた。

〈最初は助ける。

 信用させるために。〉

 カメラの液晶に、文字が浮かんだ。

〈ここにいるな〉

 潮倉はカメラを投げ捨てた。

「外へ出ます」

「待って」と月倉が言った。

「ここにいるなって言われたから出るの?」

「逆だ。ここにいたらまずいってわかったからです」

「それを決めたのは誰?」

 潮倉は答えなかった。

 雨具をつかみ、部屋を出た。

 月倉が追い、私も続いた。

 外では雨が横殴りになっていた。懐中電灯の光の先で、潮倉が工場へ走っていく。彼のカメラは宿舎に置いてきたはずなのに、どこからか母親の声が響いていた。

「右へ行くな」

 潮倉は左の通路へ曲がった。

「止まるな」

 歩調を速めた。

「階段を上るな」

 地下へ降りた。

 声は命じていない。

 選択肢を消しているのだ。

 右を失い、停止を失い、上を失う。残された一本の道を、自分で選んだと思わせながら進ませる。

「潮倉! 声を聞くな!」

 私が叫ぶと、教授が背後から私の腕をつかんだ。

 血で濡れたノートを突きつける。

〈その言い方をするな。

 禁止は、あれの口になる。〉

 地下の解体室で、機械が動き始めた。

 長年止まっていたはずのコンベヤーが唸り、天井の鉤が連なって進む。排水溝から黒い水が溢れ、床を薄く覆った。

 潮倉は室内の中央に立っていた。

 頭上から垂れた鉄鉤が、ゆっくり彼の背へ近づいている。

「動いて!」

 月倉が叫んだ。

 潮倉は振り返った。

 顔に、泣き笑いのような表情が浮かんでいた。

「母さんが、動くなって」

「それはお母さんじゃない!」

「でも、一度助けてくれた」

 鉄鉤が彼の肩とカメラのストラップの間に入り込んだ。

 私は駆け寄ろうとした。

 父の声が、耳元で囁いた。

「近づくな」

 足が止まった。

 鉤が上昇した。

 潮倉の身体が床から持ち上がる。ストラップが喉に食い込み、彼は両手でそれを掻きむしった。

「助け——」

 次の鉤が背中の肉を裂いた。

 声は悲鳴に変わった。

 コンベヤーの先で、円形の分割刃が回転を始めた。刃にこびりついていた黒い塊が遠心力で壁へ飛び散る。

 月倉が非常停止レバーへ走る。

 スピーカーが教授の声で言った。

「触るな」

 月倉の手が一瞬だけ止まった。

 その一瞬で、潮倉は刃の向こうへ運ばれた。

 私たちは、最後まで見なかった。

 見なくても、何が起きたかは音でわかった。

 機械が止まったあと、潮倉のカメラだけがコンベヤーから落ちた。

 液晶には、撮影を示す赤い丸が点灯していた。

 非常停止レバーを引いたことで、地下の電子錠が解除されていた。

 教授はふらつきながら、さらに下へ続く階段を指さした。

 月倉は潮倉のカメラを拾った。

 両手が震えていた。

「持っていくのか」と私は聞いた。

「岳が撮ったものだから」

 その返事に、声への服従も反抗もなかった。

 ただ、彼女自身の理由があった。

 地下二階は資料庫だった。

 金属棚に、蝋管、レコード、ワイヤーレコーダー、カセット、オープンリールが年代順に並んでいる。ラベルには動物の種類と頭数、その横に短い文が書かれていた。

〈まだ生きたい〉

〈ここから出せ〉

〈殺さないで〉

〈いやだ〉

 奥の壁一面に、創設者・月ヶ瀬冬蔵の研究記録が貼られていた。

 月ヶ瀬は元大学講師で、倫理学を教えていた。論文不正で職を追われた後、家業の屠場を改造し、動物の死の直前に起こる声門反射と脳波を収集し始めた。

 赤いインクで、こう書かれていた。

〈生命は死を前にして、未来を否定する。

 その否定を同期させれば、行為を差し止める純粋な知性が生まれる。〉

 別の紙には、ソクラテスの横顔が描かれ、その口から無数の線が伸びていた。

〈倫理とは、選択ではなく禁止の総体である。

 善を命じる必要はない。悪へ至る道をすべて閉ざせばよい。〉

 教授が鉛筆を走らせた。

〈月ヶ瀬は間違えた。

 道を閉ざすものは、残った道を善にするのではない。

 ただ、そこしか歩けなくする。〉

 資料によれば、最初の実験では事故が減った。

 作業員は、刃の破損やボイラーの異常を事前に「声」で知らされた。誰もがそれを守護霊と呼んだ。

 半年後、作業員たちは小さな判断まで声に委ねるようになった。

 どの靴を履くか。

 誰と食事をするか。

 妻に本当のことを話すか。

 病院へ行くか。

 声は決して「せよ」と言わなかった。

 ただ、「するな」を増やした。

 やがて一人の作業員が、十七時間、解体室の中央に立ち続けて死んだ。彼には、座るな、歩くな、声を出すな、水を飲むな、と聞こえていた。

 その翌年、蒸気管が破裂した。

 二十三人の作業員が、非常口の前で逃げずに焼け死んだ。

 生き残った月ヶ瀬の記録には、最後に一行だけあった。

〈ついに、完全な良心が完成した。〉

「良心じゃない」

 私の声が資料庫に響いた。

「これは、判断を食べる寄生虫だ」

 教授は頷いた。

〈録音を聞いた者が、声によって行為を変える。

 その差分を巣にする。

 従っても育つ。逆らっても育つ。

 声を基準にした時点で、選択を奪われる。〉

 月倉が教授を見た。

「じゃあ、どうやって壊すんです」

 教授は資料庫の奥にある防火扉を指した。

 扉には大きく、白い文字で書かれていた。

〈発声槽〉

 教授は新しい頁に、ゆっくりと書いた。

〈声とは無関係の理由で、ひとつ選ぶ。

 それを連続させる。

 難しいが、それしかない。〉

 防火扉の向こうから、潮倉の声がした。

「入るな」

 月倉の顔が凍った。

「岳?」

 返事はない。

 次に、潮倉の母親の声。

「澪を信じるな」

 父の声。

「教授を置いていくな」

 最後に、私自身の声。

「この扉を開けるな」

 私は取っ手に手をかけた。

「僕は中の記録を焼く」

 月倉が私を見る。

「声に逆らうため?」

「違う。東京へ持ち帰らせないためだ」

 教授が、初めて微笑んだ。

 私は扉を開けた。

 発声槽は、地下に造られた礼拝堂だった。

 天井まで届く鉄骨の枠に、無数の喉が吊るされていた。

 豚、牛、山羊、犬。そして人間のものと思われる小さな舌骨。乾燥し、革のように縮んだそれらが真鍮の管につながれ、巨大なパイプオルガンを形作っている。

 床の中央には、円形の槽があった。

 黒い液体が満ち、表面を細かな泡が覆っている。泡が弾けるたび、誰かの「いや」が聞こえた。

 槽の周囲を、D‐1からD‐17までのテープが回っていた。

 機械に電源はない。

 それでもリールは回り続け、テープは喉の間を縫うように走っている。

 教授が最下段の装置を指した。

 重油の供給弁と、古い焼却炉の点火レバーだった。

 月倉が首を振った。

「先生も一緒に出ます」

 教授はノートに書いた。

〈私は外へ出られない。〉

「耳を塞いだでしょう」

〈遅かった。

 私は九日間、あれを考え続けた。

 身体の中に道ができている。〉

 教授の袖口が動いた。

 皮膚の下を、細い紐のようなものが這っている。首筋へ上り、顎の下で止まった。

 教授は口を開いた。

 釘で耳を潰して以来、初めて出した声だった。

「燃やすな」

 教授自身が驚いた顔をした。

 両手で口を押さえる。

 だが指の隙間から、別の声が続いた。

「澪を助けるな」

 天井の喉が一斉に膨らんだ。

 工場全体が息を吸う。

 コンベヤーが動き、奥の暗闇から何かが運ばれてきた。

 潮倉だった。

 身体は途中で不自然に折れ、作業着のように鉄鉤へ掛けられていた。胸の前にはカメラが食い込み、割れたレンズが眼球のようにこちらを向いている。

 潮倉の顎が上下した。

「見るな」

 月倉は目を逸らさなかった。

「岳を連れて帰る」

「もう——」

「身体じゃない。記録を」

 彼女はカメラを胸に抱いた。

 潮倉の腕が跳ね上がった。

 天井のレールから外れ、彼の身体が私たちへ落ちてくる。

 教授が月倉を突き飛ばした。

 潮倉と教授が床へ倒れる。潮倉の口から、何人もの声が噴き出した。

「触るな」

「逃げるな」

「立つな」

「殺すな」

 教授は潮倉の身体を抱えたまま、私に点火レバーを示した。

 私は供給弁へ走った。

 父の声がした。

「真澄、水へ入るな」

 視界が川の色に染まった。

 十二年前の夏。

 増水した川で、父は流木に足を挟まれていた。私は岸に立ち、ロープを持っていた。飛び込めば届くと思った。だが頭の中で、父と同じ声がした。

 入るな。

 お前まで死ぬ。

 私は動けなかった。

 父は最後まで、私に「来るな」と叫んでいた。

 あの声が良心だったのか、恐怖だったのか、今でもわからない。

 私は生き残った。

 父は死んだ。

「お前はまた、助けない」

 声が言った。

 そのとき、月倉の足元が崩れた。

 床板の下は、発声槽へ続く排水路だった。彼女は縁に片手でぶら下がり、黒い液体が下から指を舐めている。

「芦田!」

 私は手を伸ばした。

「触るな」と父が言う。

 私は、父の言葉を否定しようとした。

 逆らうために月倉をつかもうとした。

 その瞬間、天井の喉が嬉しそうに震えた。

 逆らうこともまた、声を中心にした選択なのだ。

 私は目を閉じた。

 月倉がここまで来た理由を考えた。

 潮倉のカメラを抱えている理由を考えた。

 教授を見つけたとき、声より先に扉へ向かった姿を思い出した。

 彼女は生きている。

 私には届く。

 だから助ける。

 私は月倉の手首をつかんだ。

 黒い液体の中から無数の手が伸びたような感触がしたが、離さなかった。肩が抜けそうになるまで引き、彼女を床へ戻した。

 喉のオルガンが、不協和音を上げた。

 いくつものリールが逆回転を始める。

「今です!」

 月倉が叫んだ。

 私は重油の弁を開いた。

 床下を液体が走る音がした。

 点火レバーは錆びついて動かなかった。

 教授が潮倉の身体を押さえたまま、首を振る。

 早く行け、と口の形で示した。

 月倉は教授へ戻ろうとした。

「先生を置いていけない」

 教授は血まみれの手でノートをつかみ、最後の頁を破った。

〈私は残る。

 君たちを逃がすためではない。

 私が、ここで終わらせたいからだ。〉

 そして、潮倉の身体ごと回転刃の歯車へ身を投げた。

 機械が激しく震え、レールが止まる。

 教授の白い作業着が歯車に巻き込まれた。

 発声槽のすべての喉が、教授の声で叫んだ。

「行くな!」

 月倉は泣きながら、青い頭のマッチを取り出した。

 雑貨店の女主人が私に渡したものだ。

 一本目は湿気で消えた。

 二本目は折れた。

 三本目に火がついた。

「投げるな」と、私の声が言った。

 月倉は炎を見つめた。

「私は、この人たちの声を外へ出さない」

 そう言って、重油の流れる溝へマッチを落とした。

 火は青く走った。

 発声槽の黒い液体へ届くと、谷の底から太陽が生まれたような光が上がった。

 乾いた喉が一つずつ燃え、真鍮管が熱で曲がる。回転していたテープが縮れ、そこに記録された声が一斉に再生された。

 するな。

 行くな。

 見るな。

 助けるな。

 生きるな。

 死ぬな。

 最後の二つは同時に響いた。

 どちらも選べなくなった声は、自分自身を噛み始めた。

 オルガンの中央に亀裂が走る。

 そこから吹き出したのは炎ではなく、黒い息だった。人の形に膨らみ、天井へ手を伸ばす。

 顔のない口が開いた。

「終わらせるな」

 私は月倉の腕をつかんで走った。

 逃げろと言われたからではない。

 生きて、潮倉と教授がここにいたことを伝えるために。

 私たちは排水路へ飛び込み、膝まである泥水を進んだ。

 背後で爆発が起き、熱風が背中を押した。

 トンネルの出口から外へ転がり出ると、工場の屋根が内側へ崩れた。

 雨の中、炎だけがまっすぐ立っていた。

 煙の奥で、巨大な何かが何度も首を振っていた。

 やがて斜面が崩れ、土砂が研究所を谷ごと呑み込んだ。

 私たちは翌朝、烏返しの橋の手前で救助された。

 夜のうちに橋の一部が流され、車は谷に残した。

 警察と消防は三日間捜索したが、旧研究所の地下施設を発見できなかった。地滑りで完全に埋まったと判断された。地表から見つかったのは、焼けた磁気テープ、動物の骨、庄司教授の眼鏡だけだった。

 潮倉の遺体も、教授の遺体も出なかった。

 月倉は撮影した映像を作品にしなかった。

 潮倉のカメラには、解体室へ入る直前までの映像しか残っていなかった。発声槽で撮ったはずの部分は、すべて黒い画面だった。

 ただし音声トラックには、一つだけ文章が記録されていた。

 人の声ではない。

 低周波を文字へ変換すると、こうなった。

〈選んだ理由を忘れるな〉

 月倉は、それを潮倉の言葉だと思いたいと言った。

 私は否定しなかった。

 東京へ戻り、D‐17の原本を焼却した。

 取り込んだデータも消去した。自動バックアップ、解析用の一時ファイル、音声認識サーバーの履歴まで確認した。

 それでも、声は消えなかった。

 朝、靴を履こうとすると、右を履くな、と聞こえる。

 電車のホームでは、白線の内側へ下がるな、と聞こえる。

 眠る前には、目を閉じるな、と聞こえる。

 私は、従わないことを目標にするのをやめた。

 逆らうこともやめた。

 右の靴を履くのは、右足が冷えているから。

 白線から下がるのは、到着する電車に乗って月倉との約束へ行くため。

 目を閉じるのは、明日も仕事をするために眠るから。

 理由を言葉にすると、声は少し遠のいた。

 だが一週間前、保存室の端末に見覚えのないテキストファイルが現れた。

 DAIMONION.txt

 作成日時は、六倉谷へ出発する三日前。

 作成者は、私になっていた。

 中には、ここまで私が書いてきた出来事が、一字一句同じ形で記されていた。

 最後の頁だけが空白だった。

 私は、この文章を書き写しているのではない。

 少なくとも、そう信じている。

 あの夜を自分の言葉で確かめるために、記憶から書いている。

 けれど一文を終えるたび、元のファイルにも同じ一文が増える。

 私が打つより、ほんの一秒だけ早く。

 これを読んだあなたに、信じるなとも、閉じるなとも言えない。

 禁止は、あれの食べ物だ。

 事実だけを書く。

 あなたは今、このファイルを閉じることも、最初から読み返すこともできる。

 どちらを選ぶにせよ、声ではなく、あなた自身の理由で選べる。

 私はここで文章を終える。

 声に止められたからではない。

 声に逆らいたいからでもない。

 六倉谷で死んだ二人のことを、これ以上あれの言葉で汚したくないからだ。

 だから、ここで句点を打つ。

閉じるな。