『否(いな)とだけ言うもの』

一 ダイモニオン

 その声は、いつも命令形だった。

 ――するな。

 理由を言ったことは一度もない。

 霧島カナデが七歳の冬、団地の地下倉庫にある赤い鉄扉へ手をかけたとき、声は初めて聞こえた。耳からではなかった。歯の裏側で、冷たい針金が震えたような声だった。

 するな。

 カナデは手を離した。

 翌朝、管理人が扉を開け、壊れた冷凍庫の中から男の死体を見つけた。誰にも見つからずに三日、そこにあったらしい。

 声はそれからも、ときどき彼女を止めた。

 横断歩道へ踏み出すな。差し出された薬を飲むな。その男に電話をかけ直すな。署名するな。振り返るな。

 声に従った結果、何が避けられたのか分からないことも多かった。けれど従わなかった二度には、いずれも血が出た。一度は自分の血で、もう一度は他人の血だった。

 大学でソクラテスを読んだとき、カナデはようやく声に名前を与えた。

 ダイモニオン。

 何をせよとは言わず、何をするなとだけ告げるもの。

 カナデは哲学者にはならなかった。人間の言葉に潜む矛盾を調べる仕事に就いた。警察や弁護士から取り調べ記録を預かり、供述がどこで誘導され、どの前提がすり替えられたかを指摘する。肩書は「対話分析士」。世間にはほとんど知られていない職業だった。

 その夜、彼女の事務所へ木戸環が持ち込んだのは、古いVHSテープだった。

「妹から届いた」

 環は濡れたコートを脱がず、テープを机へ置いた。三十四歳。音響技師。ドキュメンタリー番組の録音で何度か組んだことがある。普段は大声で笑う男だが、今夜は口角が左右で違う高さに引きつっていた。

 白いラベルに、黒い油性ペンでこう書かれている。

  弁明 第三十七巻

  被験者 木戸沙知

「沙知さんは?」

「五日前から連絡がない。最後の仕事先は戸答村。県境の山の中にある、廃村みたいなところだ。古い食肉処理場を撮るって言ってた」

「警察には」

「話した。成人の自主的な失踪だってさ。それから、これを再生した」

 環は喉を鳴らした。

「全部?」

「最後まで」

 彼の胸ポケットでスマートフォンが振動した。電源は切れているはずなのに、画面が白く灯った。

 文字が一行だけ表示されていた。

  あなたは一人で見ましたか?

 環は端末を伏せた。

「三日前から、こうだ。電話も、テレビも、電気ポットの表示窓も。俺の声で質問してくることもある」

「答えた?」

「最初の二つだけ」

「何と聞かれた」

「『あなたは木戸環ですか』。だから、はいって。次が『木戸沙知を助けたいですか』。それも、はい」

 カナデはテープへ手を伸ばした。

 ――するな。

 指先が止まった。

 環が彼女の顔を見た。

「聞こえたのか。例の声」

「再生はしない」

「でも、中身を見ないと場所も分からない」

「あなたが説明して」

「説明しようとすると、細部が抜ける。見たはずの場面が、質問だけ残して消えていくんだ」

 事務所の天井灯が一度、消えた。

 暗闇の中で、環の声がした。

「霧島カナデは、そこにいますか?」

 本人の口は閉じたままだった。

 照明が戻る。

 環は両手で自分の喉を押さえていた。

「今のは俺じゃない」

「分かってる」

「返事をするな」

「分かってる」

「それも返事じゃないのか?」

 環の問いに、カナデは答えなかった。

 机上のVHSテープが、からりと音を立てた。中のリールが、再生機にも入っていないのに半回転した。

二 弁明テープ

 戸答村まで、車で四時間かかった。

 夜半から降り始めた雨は、山へ入るころには泥を空から流し込むような勢いになっていた。携帯電話は圏外。カーナビの地図から県道が消え、最後には環の妹が送ってきた位置情報だけが、黒い画面の中央で点滅していた。

 環は助手席で眠らなかった。

「三つ目の質問が来た」

「いつ」

「さっき、トンネルの中で。カーラジオから」

「何と」

「『助けたい相手が、もう妹でなくても助けますか』」

「答えてない?」

「ああ」

「今後、質問文を復唱しないで。文の中に前提が埋め込まれている」

「前提?」

「『もう妹でなくても』という部分。答えがはいでもいいえでも、沙知さんが妹ではなくなった可能性を受け入れさせられる」

「言葉遊びで人が呪われるのか」

「言葉遊びで戦争も裁判も始まる。呪いだけ例外とは限らない」

 環は笑おうとして失敗した。

 午前零時十二分、二人は戸答村へ入った。

 家々は残っていたが、灯りはなかった。軒下には風化した牛の頭骨が吊られ、雨を受けて白く光っている。道路の終点に、低いコンクリートの建物が現れた。

 石鉢食肉処理場。

 錆びた看板の下に、白い作業着の老婆が立っていた。傘も差していない。濡れた髪が頬へ貼りつき、笑うと歯が三本しか見えなかった。

「木戸さんだね」

 環が車を急停止させる。

「妹はどこだ」

「中で待っているよ」

 老婆は建物の奥を指した。

「夜は冷える。問いかけは、温かい部屋でした方がいい」

 カナデは車を降りた。雨のにおいに、鉄と脂の甘い臭気が混じっている。

「あなたは?」

 老婆の目が細くなった。

「土門イネ」

「この処理場の管理者?」

「質問が多い女だね」

「答えたくなければ、答えなくていい」

「それを本当に信じているのかい?」

 カナデの奥歯で、声が震えた。

 ――答えるな。

 カナデは黙った。

 イネの笑みが消えた。

「なるほど。持ってきたんだね。否の子を」

 処理場の中は、廃墟ではなかった。

 蛍光灯が点き、床は濡れたばかりのように光っている。壁に沿って肉吊り用のレールが走り、天井から太い鉤が並んでいた。奥では大型の背割り鋸が低く唸っている。刃は止まっているのに、モーターだけが回っていた。

 白い面をつけた大男が、床の水をゴムべらで排水口へ押していた。

 面には目の穴しかない。口の位置は、太い糸で縫い合わされていた。

「孫の継だよ」とイネが言った。「喋らない。利口な子だ」

 継は二人へ一度だけ頭を下げた。袖口から覗く手首には、無数の古い噛み傷があった。

「沙知!」

 環が叫ぶ。

 遠くで、金属の扉を叩く音がした。

「兄さん!」

 女の声だった。

 環が走り出す。

 ――追うな。

 カナデは彼の腕をつかんだ。

「離せ!」

「その声を沙知さんだと確認していない」

「俺が間違えるわけない!」

 扉の向こうから、もう一度声がした。

「環、私だよ。木戸沙知だよ」

 今度は環自身の声だった。

 環の顔から血の気が消えた。

 イネが背後で鍵を回した。入口の鉄扉が閉まる。

「夜明けまで、三時間と四十分」

「何の時間だ」

「弁明の時間さ。答えきれたら帰れる。答えられなければ、ここに残る」

 天井のスピーカーが、ざらついた息を吐いた。

 次に流れた声は、幼い男児のものだった。

「木戸環は、妹を助けに来ましたか?」

 環の唇が動く。

 カナデは平手で彼の頬を打った。

「答えないで」

「でも、はいだ。俺はそのために――」

「目的を確認する質問じゃない。あなたに『木戸環』という名札を付け直す質問」

 スピーカーが笑った。笑い声だけは、疑問形ではなかった。

三 答えになる肉

 処理場の時計は、すべて午前三時五十二分を指していた。

 秒針だけが逆に回っている。

 イネは二人を、かつて検査室だった部屋へ案内した。壁一面にビデオテープが並んでいる。背には名前と日付。棚の最上段から最下段まで、数百人分あった。

 中央には三台の業務用デッキと、古い音声卓が置かれていた。

 環が機械へ近づく。

「三トラック録音だ。一本は時刻信号、一本は音声……いや、ラベルに『名』『問』『答』ってある」

 カナデは棚から一本を抜いた。

  名  藤崎伸吾

  問  御子柴倫

  答  藤崎伸吾

 ケースの中に、紙片が挟まっていた。

第一問 あなたは藤崎伸吾か。

 回答  はい。

第二問 あなたは人を殺したことがないか。

 回答  ない。

第三問 人を見殺しにした者は、人を殺した者か。

 回答  場合による。

第四問 あなたは妻を見殺しにしたか。

 回答  はい。

第五問 では、あなたは人を殺したことがないか。

 回答  ない。

 判定  不一致。

 紙の末尾には、赤い指紋があった。

「単純な矛盾だ」と環が言う。

「単純に見えるよう編集されている」

「どういう意味だ」

「第二問の『殺した』と第三問の『見殺し』は、同じ定義ではない。第五問では定義が混ぜられている。普通の対話なら、言葉の意味を確認し直せば済む。でも、ここでは訂正が許されない」

 イネが椅子へ腰を下ろした。

「先生は言っていたよ。人間は、一つの体に一つの答えを入れておけない。昨日の正義と今日の都合が、同じ口から出る。だから空くんだと」

「何が」

「中身がさ」

 隣室で、何か重いものが床へ落ちた。

 続いて、女のすすり泣き。

 環が動こうとした。カナデが前へ立つ。

「御子柴倫はどこ」

 イネは棚の奥を見た。

「先生は、もう『どこ』にはいない」

「死んだ?」

「それは質問かい?」

「確認」

「同じことだよ」

 天井スピーカーから、男の声が落ちてきた。

「同じでないと、どうして言える?」

 低く、疲れた声だった。

 カナデは知っていた。

 御子柴倫。かつて大学で彼女に対話論を教えた講師。十年前、被験者を三十六時間眠らせず尋問し、虚偽の自白を引き出す実験を行って追放された男。

 彼は授業でいつも言っていた。

 質問は無罪だ。

 答えだけが責任を負う。

「御子柴先生」とカナデは言った。

「私を先生と呼ぶことは、私が人間だという回答になるのではないか?」

「呼称は存在証明ではない」

「存在しない者を呼べるのか?」

「物語の人物は呼べる」

「では、君は今、物語と話しているのか?」

「そうかもしれない」

 男の声が、満足そうに息を吸った。

「曖昧さへ逃げれば、矛盾しないと思うか?」

「曖昧さを作ったのは質問の方」

「君の中の声は、そう教えたのか?」

 カナデの首筋が冷えた。

 環が振り返る。

「なぜ知ってる」

「彼女の母親が、ここから何を持ち出したか、君は聞いていないのか?」

 カナデは机の下で拳を握った。

 母は戸答村の出身だった。

 それを知ったのは葬儀のあとだ。戸籍の附票に村名が残っていた。だが母は生前、故郷について一言も話さなかった。

「否の子」とイネが囁いた。「あんたの母親は、問いから否だけを切り離した。赤ん坊だったあんたへ入れて、逃げた」

「何を切り離した」

「悪魔の口さ」

 隣室の扉が内側から膨らんだ。

 一度。

 二度。

 三度目に、蝶番が飛んだ。

 木戸沙知が這い出してきた。

 髪は血と水で顔へ貼りつき、白いシャツの肩が裂けている。両手首には録音テープが何重にも巻かれていた。立ち上がろうとして、左脚が逆方向へ曲がった。

「兄さん」

 沙知は笑った。

「私は、誰?」

 環が駆け寄った。

 カナデの声が叫んだ。

 ――触らせるな。

 遅かった。

 沙知の右手が環の首をつかんだ。女の細腕とは思えない力で、彼を壁へ投げつける。環の後頭部が棚へ当たり、テープが雨のように落ちた。

 沙知の口から、十人ほどの声が同時に出た。

「これは木戸沙知ですか?」

 環は床で息を詰まらせた。

「沙知だ」

「人間ですか?」

「そうだ!」

「人間は、こんな声を出しますか?」

 環の目が揺れた。

 否定すれば、妹を人間ではないと認める。

 肯定すれば、目の前の異常を人間の性質として受け入れる。

 どちらを選んでも、次の問いで裂かれる。

「答えは定義できない」とカナデは言った。「『人間』を生物学的分類として聞いているのか、人格として聞いているのか不明だから」

 沙知の首が、ゆっくりカナデへ向いた。

「質問されたのは、あなたですか?」

 ――答えるな。

「木戸環への質問を、私が分析しただけ」

「分析は回答ではないのですか?」

「違う」

 言った瞬間、部屋の蛍光灯がすべて弾けた。

 暗闇で、カナデは自分の失敗に気づいた。

 違う。

 否定した。

 自分から。

 床の下で、巨大な機械が起動した。背割り鋸の回転音が一段高くなる。レール上の鉤がいっせいに動き、暗い天井を金属の群れが走った。

 沙知が環を引きずり、処理室へ向かう。

 白い面の継が横から飛び込み、沙知の腕へ体当たりした。面が外れる。

 継には舌がなかった。

 切断面は古く、喉の奥に黒い穴だけが見えた。

 彼は声にならない息を吐き、カナデへ音声卓を指さした。

 卓上の三つの入力ランプが点灯している。

 名。

 問。

 答。

「環!」

 カナデは叫んだ。「あの配線を見て!」

 沙知に首を絞められながら、環が卓へ目を向ける。

「問の出力が……答の判定器へ分岐してる」

「逆は?」

「パッチすればできる!」

 スピーカーから御子柴の声。

「質問を答えとして扱えば、何が起きると思う?」

「あなたが一番よく知っているはず」

「知っていると、私が答えたか?」

「今、知識を否定しなかった」

「否定しないことは、肯定か?」

 機械音の中で、カナデは笑った。

「ようやく見えた」

「何が?」

「あなたが質問しかできない理由」

四 質問は無罪か

 継が沙知を押さえ込んでいる間に、環は床を這って音声卓へ近づいた。

 沙知は泣きながら継の顔を爪で裂いた。継は声を出せない。血を流しながら、それでも離さない。

 カナデはテープ棚を見渡した。

 すべてのケースに、同じ名が「問」の欄へ記されていた。

 御子柴倫。

「あなたは質問に真偽がないことを利用した」とカナデは言った。「人に矛盾を作らせ、自分だけは何も主張していないことにした。だから何百回問うても、あなた自身は空かない」

「質問に真偽があるのか?」

「命題としてはない。でも、前提への責任はある」

「誰がそう決めた?」

「あなた」

 スピーカーの雑音が止まった。

「藤崎伸吾に『妻を見殺しにしたか』と聞いた。質問した時点で、妻がいて、妻が死に、彼が救えた可能性を前提に置いた。その前提を使って彼の回答を矛盾と判定した。質問の前提に力がないなら、あなたの判定も成立しない」

「成立しないと、死者は生き返るのか?」

「結果は規則の正しさを証明しない」

「規則が間違っていても人を殺せるなら、正しさに何の意味がある?」

「あなたが欲しいのは正しさじゃない。免責」

 環が卓の下蓋を開けた。色褪せたケーブルが束になっている。

「カナデ、パッチはできる! でも『名』のトラックが必要だ。誰の質問として判定させる?」

「御子柴倫」

「ラベルだけじゃ認識しない。本人の名乗り音声が要る」

 イネが立ち上がった。

「やめな!」

 彼女は肉切り包丁をつかみ、環へ向かった。

 継が片腕を伸ばし、祖母の足首をつかむ。イネは迷わず、その手の甲へ包丁を振り下ろした。

 刃が骨に当たる。

 継の指が開いた。

 イネがもう一度、包丁を上げる。

 沙知の口から老人の声がした。

「土門イネは、孫を愛していますか?」

 イネの腕が止まった。

「黙れ」

「愛する者の手を切れますか?」

「黙れ!」

「では、愛していませんか?」

「愛してる!」

「今、切ったのは誰の手ですか?」

 イネの顔が崩れた。

 包丁が床へ落ちる。

 彼女は自分の両頬をつかみ、左右へ引いた。皮膚が裂けるほど強く。

「違う、違う、違う」

 背後の鉤が降りた。

 継が祖母を突き飛ばした。鉤はイネの作業着だけを貫き、彼女を宙吊りにした。イネは暴れ、作業着が首へ食い込む。

 継は切られた手で、環の配線を手伝い始めた。

「名乗り音声」とカナデは呟いた。

 棚を探す。

 御子柴は用心深い。自分の質問は無数に残しても、宣言は残さないはずだ。

 しかし、最初から質問しかできなかったわけではない。

 大学を追われる前。実験記録。講義。自己紹介。

 カナデは棚の端に、色の違うケースを見つけた。

  弁明 第一巻

  被験者 御子柴倫

 手を伸ばす。

 ――取るな。

 声は今までになく強かった。

 頭蓋の内側へ爪を立てられたように痛む。

 カナデの指が止まった。

 スピーカーから、御子柴が囁く。

「なぜ取らない?」

「質問で命令している」

「君を止めたのは私か?」

「違う」

「また否定した」

 音声卓の「答」ランプが赤く点滅した。

 カナデの左耳から、温かいものが流れた。血だった。

「君はその声を自分の味方だと思っているのか?」

 ――答えるな。

「一度でも理由を聞いたか?」

 ――答えるな。

「禁止されなかった選択が正しかったと、どうして分かる?」

 ――答えるな。

「君の人生を削ってきたものを、なぜ良心と呼べる?」

 カナデは呼吸を止めた。

 声が彼女を守った。

 そう思ってきた。

 だが、声は危険を説明したことがない。避けた未来を見せたこともない。カナデが従うたび、声は生き延びた。それだけかもしれない。

 赤い鉄扉を開けていたら、死体を見ただけだったかもしれない。

 飲まなかった薬は、ただの鎮痛剤だったかもしれない。

 電話をかけ直さなかった男は、謝ろうとしていたのかもしれない。

 声は正しさを示したのではない。

 選択肢を消した。

「ソクラテスのダイモニオンは、善を教えなかった」とカナデは言った。「ただ、行為を止めた」

「では、それは知恵か?」

「違う」

「悪魔か?」

「それも、まだ決めない」

「決めないことは、逃げではないか?」

「決めないことを選んでいる」

 カナデはケースをつかんだ。

 声が絶叫した。

 ――するな。

 ――するな。

 ――するな。

「初めて理由が分かった」

 カナデは小さく言った。

「お前も消えるからだ」

 ケースをデッキへ押し込む。

 テープが走り出した。

 若い御子柴の声が流れた。

『記録番号一。被験者兼実施者、御子柴倫。これより、対話による自己同一性の――』

「名、取れた!」と環が叫ぶ。

 スピーカーが一斉に唸った。

「過去の私と今の私は、同じか?」

「あなたが全被験者へ適用した規則では、同じ」

「その規則が正しいと認めるのか?」

「あなたを裁く間だけ借りる」

「不正な規則で裁く者は、正しいか?」

「正しくない」

「ならば、君も空くのではないか?」

「私は正しいと名乗っていない」

 環が二本のケーブルを差し替えた。

「問から答へ、回した!」

 卓上のランプが変わる。

 名――御子柴倫。

 問――空白。

 答――御子柴倫。

 その瞬間から、スピーカーを通る御子柴の質問は、すべて彼自身の回答として記録され始めた。

「何をした?」

 一つ目。

「私の声を、誰の答えとしている?」

 二つ目。

「質問は回答になり得るのか?」

 三つ目。

 カナデは音声卓の波形を見た。

「もっと話して」

「私に命令できると思うか?」

「今の問いは、私に命令権がないことを前提にした」

「前提が回答だと、誰が証明した?」

「あなたが死者で証明した」

「死者は証人になれるか?」

「あなたのテープでは、なっている」

 機械の内部で、何かが噛み合わなくなった。

 回転音が震え、棚のテープが一斉に巻き戻り始める。何百ものケースの中から、細いフィルムが這い出した。黒い帯が床を埋め、蛇の群れのようにカナデの足へ絡みつく。

 スピーカーの声が、初めて焦りを帯びた。

「私が一人だと、誰が言った?」

「今の問いは、あなたが複数である可能性を前提にした」

「一つの声が複数であってはならないか?」

「さっき『私の声』と言った。一人称単数で所有した」

「文法が存在を決めるのか?」

「あなたは被験者の文法で存在を決めてきた」

「私は御子柴倫なのか?」

「自分の名を疑った」

「私は御子柴倫ではないのか?」

「自分の名を否定した」

 卓上の判定灯が点いた。

 不一致。

 処理場のどこかで、人間とも獣ともつかない悲鳴が上がった。

五 悪魔の一人称

 床が割れた。

 音声卓の後ろに隠されていた昇降台がせり上がる。

 椅子に縛られた男が現れた。

 御子柴倫だった。

 写真で見た十年前より、ほとんど老いていない。ただし皮膚は蝋のように白く、喉から無数の磁気テープが引き出され、壁のデッキへ接続されていた。唇は糸で縫われていたが、質問は喉の裂け目から直接漏れている。

 彼の胸が膨らむたび、棚のテープが回った。

「これは私か?」

 答トラックへ録音される。

「この体が私でなければ、誰だ?」

 不一致灯が明滅する。

「私が誰であるか、君は知っているか?」

 赤いランプが増える。

 御子柴の体が、椅子の上で折れた。肩が後ろへ外れ、肋骨が皮膚を内側から押す。それでも声は問い続ける。

「知っていると言わないのか?」

「知らない」

 カナデは答えた。

 ダイモニオンが頭の中で暴れた。

 ――言うな。

「知らないことを知っているのか?」

「少なくとも、知らないものを知っているとは言わない」

「それはソクラテスの真似か?」

「名前を借りただけ」

「借りた言葉は、君の答えか?」

「今は私が責任を持つ」

 御子柴の目が開いた。

 眼球はなかった。空洞の奥で、ビデオの走査線のような光が上下している。

「では、君の中の否にも責任を持つか?」

 カナデの口が勝手に閉じた。

 舌が上顎へ張りつく。

 声はもはや忠告ではなかった。筋肉へ入り込み、彼女の発話そのものを止めようとしている。

 問いと否。

 御子柴が問い、カナデの内側が否定する。

 二つは互いを呼んでいた。

「私たちは一つではないか?」

 ――違う。

「私が問うから、お前は否と言えるのではないか?」

 ――違う。

「問いのない否に、意味はあるか?」

 ――違う。

 カナデは理解した。

 内なる声は、彼女へ答えているのではない。

 御子柴の中のものへ答えていた。

 二十七年間、距離を隔てた問答が、彼女の頭蓋の内側で続いていたのだ。

 御子柴の喉から黒いテープが伸び、カナデの顔へ向かう。

 継が飛びつき、両腕で束をつかんだ。テープは刃物のように彼の掌を裂く。血が黒い帯を伝い、デッキへ吸い込まれた。

 背割り鋸がレールを走り始めた。

 本来は吊るした枝肉へ移動する巨大な円刃が、火花を散らしながら音声卓へ迫る。

「環、消去装置は?」

「卓の右! 赤いレバー!」

 カナデはレバーへ手を伸ばした。

 ――するな。

 腕が固まる。

 御子柴の空洞の目が笑った。

「自分の体すら動かせず、自由を語るのか?」

 カナデは左手で、右手の小指をつかんだ。

 力を込める。

 骨が折れた。

 痛みで筋肉の拘束が一瞬ほどける。

 その一瞬に、彼女は赤いレバーを引いた。

 音声卓の下で、巨大な消磁コイルが起動した。

 空気が重くなる。

 デッキの映像が歪み、すべてのスピーカーから何百人もの声が噴き出した。

 はい。

 いいえ。

 違う。

 覚えていない。

 許してくれ。

 質問を変えてくれ。

 私は私だ。

 私は誰だ。

 声は互いを食い合い、最後に一つの低い振動へ潰れた。

 御子柴の喉のテープが燃え始める。

「消せば、君の否も消えるのではないか?」

 カナデはレバーを押さえ続けた。

「そうだろうね」

「それでも消すのか?」

「これは答えじゃない」

「何だ?」

「選択」

 御子柴の口を縫っていた糸が、内側から一本ずつ切れた。

 唇が開く。

 これまで質問しかできなかったものが、初めて宣言を作ろうとしていた。

「私は――」

 カナデの頭の中で、否の声が最後の絶叫を上げた。

 ――言わせるな。

 今度だけ、カナデは従った。

 卓上のマイクを引きちぎり、御子柴の口へ押し込んだ。彼の宣言は音にならず、マイクの内部で歪んだ電流へ変わる。

 環が主電源の遮断器を蹴り落とした。

 暗転。

 背割り鋸だけが惰性で回り、闇を横切った。

 継が御子柴の椅子を蹴り、レールの下へ押し出す。

 円刃が椅子の背を砕いた。

 火花の中で、御子柴の体は黒いテープの塊へほどけた。肉ではなく、記録が切断される音がした。

 細い悲鳴が一秒だけ続き、途切れた。

 同時に、カナデの内側から声が消えた。

 音が消えたのではない。

 そこにあった空間ごと、なくなった。

 彼女はその静けさに足を取られ、床へ膝をついた。

 天井の鉤が停止する。

 沙知の体から力が抜けた。環が受け止める。

 吊られていたイネが床へ落ち、咳き込んだ。継は血まみれの手で祖母の首から作業着を外した。

 イネは孫の傷を見た。

「継」

 継は答えなかった。

 答えられないのではない。

 答えないことを選んだ顔だった。

 処理場の奥で火が上がった。消磁コイルの熱が、ほどけたテープへ燃え移っている。

 環が沙知を背負う。

「出るぞ!」

 カナデは立ち上がった。

 誰にも止められなかった。

六 答えのない朝

 四人が処理場を出たとき、雨はやんでいた。

 イネは来なかった。

 入口に立ち、燃える建物を見ていた。継が戻ろうとすると、彼女は首を振った。

「行きな」

 それが命令だったのか、願いだったのか、誰も確かめなかった。

 継は白い面を地面へ置き、カナデたちと山道を下りた。

 夜明けは、山の端を薄い灰色にした。

 沙知は環の背で目を覚ました。最初に何かを言おうとして、やめた。

 環も質問しなかった。

 やがて沙知は、自分から言った。

「兄さん」

「うん」

「私、あそこへ行った」

「うん」

「ごめん」

「帰ってきた」

 それだけで十分だった。

 県道へ出るころ、処理場の方角から黒煙が上がった。消防と警察が到着したのは二時間後だった。焼け跡から人骨が多数見つかったが、御子柴倫の遺体は発見されなかった。

 記録媒体も、ほとんど残らなかった。

 ただ一本、「弁明 第三十七巻」と書かれたVHSテープだけが、環の車の後部座席にあった。

 ケースは空だった。

 それから三か月、カナデは声を聞かなかった。

 道路を渡るときも、契約書へ署名するときも、夜中に背後で物音がしたときも、歯の裏側は静かなままだった。

 静けさは自由に似ていた。

 同時に、崖の縁に似ていた。

 ある朝、カナデは地方裁判所の証言台に立った。戸答村の事件ではない。誘導尋問によって作られた自白の分析を説明するためだった。

 書記官が氏名を尋ねた。

 以前なら、名を答えるだけで胸の奥に小さな制動がかかった。名乗ることは、自分を一つの形へ固定することだからだ。

 今は何も聞こえない。

「霧島カナデです」

 自分の声だった。

 弁護士が最初の質問をした。

「被告人の供述は、嘘だったと断定できますか?」

 法廷の全員が答えを待った。

 はいか、いいえか。

 カナデは質問の中に置かれた前提を見た。供述全体を一つの真偽へ押し込め、断定できないなら信用できるように見せかける枠。

 彼女は言った。

「その聞き方には答えられません。供述のどの部分を、どの時点の認識について尋ねているのか、分けてください」

 弁護士が眉をひそめる。

「答えを拒否するのですか?」

「いいえ。質問を拒否しています」

 その否定は、頭の中から来なかった。

 カナデ自身が選び、カナデ自身が口にした。

 閉廷後、彼女は裁判所の裏口にある赤い鉄扉の前で立ち止まった。

 偶然だった。地下倉庫へ通じる、ありふれた防火扉。幼い日の扉と同じ色をしている。

 取っ手へ手をかける。

 声はない。

 危険がないからなのか、警告するものが消えたからなのか、知る方法はなかった。

 カナデはしばらく考えた。

 それから、扉を開けた。

 向こうには、朝の光があった。

 答えはなかった。

 だから彼女は、自分で歩き出した。