品名:あなた

 駅の遺失物係から葉書が届いたのは、妻のいない日曜日だった。

 もっと正確に言えば、私は妻を持ったことがないはずの日曜日だった。

 葉書は役所の通知のような薄い灰色で、表には私の住所と名前――波谷圭介――が、妙に整った活字で印刷されていた。

  水無瀬駅 遺失物保管室

  品名:日曜日の朝

  特徴:焦げたシナモン、二人分のコーヒー、女性の笑い声

  保管期限:今月十四日

 いたずらにしては、趣味が悪い。

 私は葉書を捨てようとして、手を止めた。

 焦げたシナモン。

 その文字を見た瞬間、台所の奥で誰かが笑った気がした。

 明るく、少し息の抜ける笑い方だった。知らない声のはずなのに、胸の奥が、その声の続きを知っていた。

 水無瀬駅は、会社へ通っていた頃に毎日使っていた駅だった。けれど、遺失物保管室などあっただろうか。

 駅員に葉書を見せると、若い駅員は一瞬だけ私の顔を見てから、改札脇のコインロッカーを指さした。

「一番右のロッカーを押してください」

「開けるんですか」

「いいえ。押すだけです」

 言われた通りにすると、ロッカーの列そのものが低い音を立てて奥へずれた。その向こうに、下り階段が現れた。

 壁には〈零番線・遺失物保管室〉と書かれた古い案内板が掛かっていた。

 階段の先には、昭和の病院の受付のような小窓があった。白い手袋をした老女が、分厚い帳簿をめくっている。

「お名前を」

「波谷圭介です」

「品物の特徴は」

 私は葉書を読み上げようとした。ところが口から出たのは、別の言葉だった。

「パンケーキの端だけ黒くて、コーヒーは彼女の分だけ砂糖が二つです」

 老女は顔を上げなかった。

「お間違いないようですね」

 差し出されたのは、透明なビニール袋だった。中には何も入っていない。ラベルに〈日曜日の朝〉とだけ書かれている。

「空ですよ」

「紛失物というものは、持っているうちは見えないことが多いんです」

 意味を尋ねる前に、小窓はぴしゃりと閉まった。

 帰宅して袋の封を切った。

 次の瞬間、私は台所にいた。

 いや、実際には自分の部屋のソファに座っていたのだと思う。それでも目の前には、朝の光を受けた白い食卓があり、焦げたパンケーキがあり、向かいには髪を後ろで束ねた女がいた。

「また焦がした」

 私が言うと、女は肩をすくめた。

「日曜くらい、失敗してもいいの」

 それから、あの笑い声。

 私は彼女の名前を知っていた。

 奈緒。

 記憶が消えると、部屋は元に戻った。

 ただ、頬だけが濡れていた。

 台所の戸棚を開けると、奥に見覚えのないマグカップがあった。縁が少し欠けていて、底にNと書かれていた。

 それが前からあったのかどうか、思い出せなかった。

 二枚目の葉書は、翌朝届いた。

  品名:左手薬指の重さ

  特徴:銀色、内側に十一月二日

 透明な袋を開けると、指に輪がはまった感覚が戻った。

 区役所の前で、奈緒が笑いながら私の手をつかんだ。写真を撮ってくれた通行人が「もう少しくっついて」と言い、私たちは照れながら肩を寄せた。

 三枚目は〈五月の病室で言えなかったこと〉

 四枚目は〈水族館の暗がりでついた小さな嘘〉

 五枚目は〈奈緒が眠る前に必ず言った言葉〉

 私は毎日のように零番線へ通った。

 受け取るたび、私の人生は広がっていった。

 奈緒は辛いものが苦手だった。眠れない夜には床に座って古い映画を見た。子どもの名前を二人で考えたこともあった。結局、その名前を呼ぶ日は来なかった。

 楽しいものだけではなかった。

 私が仕事を辞めた冬。家賃のことで口論した夜。病室の花瓶に挿した花が、朝には一本だけ折れていたこと。

 それでも、どの記憶にも確かに私たちはいた。

 私は結婚していた。

 そして、何らかの理由で、妻のことを丸ごと忘れていた。

「なぜ、こんなものが駅に落ちていたんです」

 十度目に保管室を訪れたとき、私は老女に尋ねた。

「忘れたから、落としたんでしょうか」

 老女は帳簿に判を押しながら答えた。

「順序が逆です」

「逆?」

「心が手を離したものを、人はあとから忘れたと呼ぶんです」

「誰が手を離したんです」

 老女は初めて私を見た。

「それを知りたいなら、残りもお引き取りください」

 その日の葉書だけは、縁が赤かった。

  品名:指輪を外した夜

  特徴:割れたグラス、玄関の施錠音、女性の声

 特徴の最後には、鉛筆で一語だけ書き足されていた。

  「怖い」

 小窓の向こうで、赤い封筒が待っていた。

 私は受け取らなかった。

「これは私のものではありません」

「ラベルを間違えることは、ほとんどありません」

「ほとんど、でしょう」

 私は葉書をカウンターへ置き、階段を駆け上がった。

 その夜から、玄関の鍵を三度確認する癖がついた。

 なぜそんなことをするのか、自分でも分からなかった。

 奈緒の名前を検索すると、古い住所録の断片が一件だけ見つかった。

 水無瀬駅から二駅先の、川沿いのマンションだった。

 夕方、その建物の前で待っていると、六時過ぎに女が帰ってきた。

 記憶の中の奈緒より髪が短く、目尻に薄い線が増えていた。それでも一目で分かった。

「奈緒」

 呼ぶと、彼女は足を止めた。

 だが振り返らない。

「奈緒、僕だ」

 肩がわずかに揺れた。

 彼女は鞄の持ち手を強く握り、早足で建物の中へ入った。

 追おうとして、私はガラス扉に映った自分を見た。

 奈緒は六年分、年を取っていた。

 私は記憶の中と同じ、三十四歳のままだった。

 その場で新聞記事を探した。

 日付を六年前に絞り、水無瀬駅の名を入れる。

 小さな記事が一つ出た。

 〈水無瀬駅六番線で男性転落、死亡〉

 死亡した会社員の名は、波谷圭介。

 記事には、証明写真のような私の顔が載っていた。

 目撃者の証言として、こう書かれていた。

 〈男性は直前まで、ホーム上で女性と激しく口論していた〉

 その夜、部屋へ戻ると、最後の葉書が床に落ちていた。

 黒い縁取りのある、厚い紙だった。

  最終処分通知

  品名:波谷圭介(男性・三十四歳)

  所有者:波谷奈緒

  拾得場所:水無瀬駅六番線

  保管期限:本日十七時

 時計は十六時三十二分を指していた。

 零番線の保管室へ着いたとき、十六時四十七分だった。

「私は、品物なんですか」

 老女は否定しなかった。

「私は死んでいる?」

「波谷圭介さんは、六年前に亡くなっています」

「では、私は何です」

 老女は背後の棚を示した。

 透明な袋や赤い封筒、古びた箱が、天井まで並んでいた。

「波谷奈緒さんの中に残っていた、波谷圭介さんです」

 私は笑おうとしたが、喉が鳴っただけだった。

「私は子どもの頃のことも覚えている。父の顔も、学校も」

「奈緒さんがあなたから聞いた話です。見せてもらった写真です。眠りながら口にした言葉です。人は、自分の中に他人を一人ずつ飼っている。その人がいなくなったあとも、よく似た顔で暮らし続ける」

「では、この部屋は」

「保管品が自分を人間だと思っているあいだに見る、待合室のようなものです」

 私はカウンターをつかんだ。

「奈緒が私を忘れたから、私はここに来た」

「忘れたかったから、少しずつ置いていったのです」

 老女が帳簿を閉じた。

「あなたは、返しやすいものから先に自分へ戻した。日曜日の朝。指輪の重さ。眠る前の言葉。きれいなものばかりを集めて、ご自分を組み立て直した」

 背後の棚に、まだ大量の封筒が残っていた。

 〈夕食が冷めた理由〉

 〈真夏日に長袖を着たこと〉

 〈握りつぶされた携帯電話〉

 〈階段から落ちたことにした夜〉

 〈謝れば許されたと思った朝〉

「違う」

 口にした瞬間、その言葉を以前にも何度も使った気がした。

「私は、そんな人間じゃない」

「記憶は、持ち主に都合よく減ることがあります」

 老女は赤い封筒をカウンターに置いた。

 〈指輪を外した夜〉

 時計が十六時五十二分を指したとき、階段を下りる足音がした。

 奈緒が入ってきた。

 保管室の中では、彼女にも私が見えるらしかった。

 私と目が合うと、奈緒は驚かなかった。ただ、長く息を吐いた。

「まだ、いたのね」

「奈緒」

 懐かしい名前を口にしただけで、胸がほどけた。

「僕を引き取ってくれ。全部、思い出してくれ」

 奈緒は赤い封筒を見た。

「それ、受け取らなかったんでしょう」

「間違いだ」

「あなたは、嫌なことはいつも間違いにした」

 奈緒が封を切った。

 割れたグラスの音がした。

 玄関の前に立つ私がいた。奈緒は靴を履き、震える手で鍵を開けようとしていた。私はその手首をつかみ、扉を閉め、内側から鍵をかけた。

『怖いの』

 奈緒が言った。

 私は彼女を抱きしめようとした。

『分かってる。僕がいなくなるのが怖いんだろ』

『違う』

 記憶の中の奈緒は、私を見ていた。

『あなたがいるのが、怖いの』

 場面が水無瀬駅のホームへ飛んだ。

 奈緒は逃げ、私は追っていた。発車ベル。閉まりかける扉。私は彼女のコートをつかみ、彼女が振りほどき、後ろへよろめいた。

 そこから先は、轟音しかなかった。

 私は床に膝をついた。

「あれは……一度だけだ」

 奈緒は背後の棚を見た。

「一度だけなら、あんなにたくさん残らない」

「でも、日曜日の朝は本物だった」

「本物だった」

 奈緒の声は静かだった。

「だから、捨てるのに六年かかったの」

 私はカウンター越しに手を伸ばした。

「今の私は、君を傷つけない」

「今のあなたは、私の中にいたあなたよ。自分に都合の悪いことを見ないところまで、よく似てる」

 時計が十六時五十八分になった。

 老女が書類を一枚差し出した。

「所有者ご本人に、最終確認をお願いします。こちらのお品物は、波谷奈緒様がお忘れになった波谷圭介様で、お間違いありませんか」

 奈緒は私を見た。

 私は首を振った。

「名前を呼んでくれ。そうすれば、僕はまだ――」

「間違いありません」

 奈緒は署名した。

「処分をお願いします」

 老女が判を押した。

 赤い朱肉の音が、やけに大きく響いた。

 十七時。

 蛍光灯が一度、消えた。

 奈緒が駅を出ると、雨が降り始めていた。

 不思議なほど、頭の中が静かだった。

 長いあいだ鳴り続けていた冷蔵庫の音が、突然止まったような静けさだった。

 鞄から折りたたみ傘を出そうとして、一枚の紙が指に触れた。

 遺失物保管室の控えだった。

 奈緒は歩道の明かりの下で、それを開いた。

  遺失物返却済証

  品名:波谷圭介

  所有者:波谷奈緒

  返却理由:所有者による本人確認

 奈緒は何度も読み返した。

 処分を頼んだはずだった。

 紙の一番下に、小さな字で注意書きがあった。

 〈所有者が品名を確認し、自己の所有物であると認めた場合、当該遺失物は返却されたものとみなします〉

 背後で、誰かが笑った。

 少し息の抜ける、懐かしい笑い方だった。

 奈緒は振り返らなかった。

 家に着くと、台所から焦げたシナモンの匂いがした。

 食卓には、二人分のコーヒーが置かれていた。

 そして、誰もいないはずの浴室で、男の声が言った。

「日曜くらい、失敗してもいいだろ」