喝采のない夜に、魔法少女は嘘をつく

 私は、魔法少女に救われたかったわけではない。

 救われる群衆の一人でいることに、耐えられなかったのだ。

一 最前列の悪役

 汐見市に最初の「欠落獣」が現れたのは、八年前だった。

 名前を忘れた人間の影から生まれ、持ち主の代わりに泣き、怒り、最後には街を食べる。銃弾も炎も効かなかったそれを倒したのが、十二歳の少女だったため、人々は彼女を魔法少女と呼んだ。

 それから魔法少女は増え、欠落獣も増えた。

 理由を説明できる大人はいなかったが、戦いは毎晩のように配信された。市の防災アプリには「星装者ライブ」という機能まで追加され、避難経路の横に、彼女たちの戦闘映像と応援ボタンが表示されるようになった。

 私は応援ボタンを押したことがない。

 押す暇があれば、見るべきものがあったからだ。

 白銀の魔法少女――《灯標のアルカ》こと天城玲奈は、右足を踏み込む前に必ず左肩をわずかに落とす。光槍を投げるときは三本目だけ軌道を遅らせる。敵を倒した直後、誰にも見えない角度で息を吐く。笑顔を作るのは、そのあとだ。

 私は八百二十七本ある彼女の公開映像を、すべて時系列で保存していた。

 その夜、汐見中央駅に現れた欠落獣は、巨大な鏡の塊だった。

 鏡面には、逃げ惑う人々の「なりたかった姿」が映っていた。医者になった会社員。母親になった老女。死ななかった少年。映像を見た者は足を止め、自分ではない人生に指を伸ばした。

 私も見た。

 黒いドレスをまとい、灯標のアルカと向かい合う私自身を。

 救われる側ではなかった。

 彼女に槍を向けられていた。

 ぞくりと、背骨の内側が冷えた。

「……そうか」

 私はやっと、自分の憧れに名前をつけた。

 彼女の隣に立ちたいのではない。

 彼女の視界を、私だけで満たしたかったのだ。

 鏡の欠落獣が腕を振り上げた。駅の天井が割れ、ガラス片が雨のように降る。

 白い閃光が横切った。

「伏せて!」

 アルカの光槍が、落下する瓦礫をまとめて縫い止めた。

 私は伏せなかった。

 彼女の左肩が落ちる。

 次に右足。

 遅れて三本目。

「左、二歩!」

 思わず叫ぶと、アルカは反射的に従った。直後、彼女のいた場所を鏡の牙が噛み砕いた。

 一瞬だけ、彼女と目が合った。

 警戒と驚きと、ほんの少しの怒り。

 胸が熱くなった。

 ああ。

 私は、ずっとこの目を向けられたかった。

 アルカはすぐに戦いへ戻った。光槍を鏡面へ突き立て、砕けた破片を空中で環状に並べる。

「大丈夫。私が、全部守るから」

 決め台詞と同時に、環が太陽のように燃えた。

 欠落獣は消えた。

 歓声と通知音が駅を満たした。

 私は笑わなかった。

 最後の瞬間、アルカの右手が震えていたからだ。

 翌朝、旧校舎の資料室で、私は天城玲奈が吐くところを見た。

 口からこぼれたのは血ではなく、黒い光の粒だった。

「見た?」

 彼女は床に片膝をついたまま言った。

「何をですか」

「今の」

「先輩が、昨日の欠落獣の破片を体外へ排出しているところなら」

「最悪」

 玲奈は額を押さえた。

 同じ高校に通っていることは知っていた。二年生。生徒会の会計。成績は上位、運動は中の上。昼休みは購買の焼きそばパンを買い、牛乳は残す。

 ただし、それが灯標のアルカだとは知らなかった。

「あなた、昨日の子でしょ。左へ二歩って叫んだ」

「はい」

「どうして分かったの」

「先輩は、右側から大きな攻撃が来るときだけ左耳を動かします」

「私、犬?」

「犬はもっと分かりやすいです」

 玲奈は呆れたように私を見た。

 変身していない彼女の瞳は、映像で見るより薄い茶色だった。英雄の目ではない。寝不足の高校生の目だ。

 それが嬉しくて、同時に腹立たしかった。

 私だけが知っていたかった。

「名前は?」

「望月澄香です」

「望月さん。昨日のことは忘れて」

「無理です」

「即答しないで」

「人は、意志で記憶を消せません」

「じゃあ、口を閉じて。これ以上、近づかないで」

 その言葉は、槍より正確に胸へ刺さった。

 私は反射的に笑った。

「嫌です」

 玲奈の眉が寄る。

 あの目だ。

 昨夜、鏡の向こうで夢見た目。

「あなたね――」

 校舎中の時計が、同時に逆回転を始めた。

 窓の外が暗くなる。

 午前十時十二分だった空が、墨を流したような夜へ変わった。

 校内放送から、聞いたことのない声がした。

『終稿時刻になりました』

 紙を何枚も重ねて裂くような声だった。

『現在、汐見市に存在する星装者は三名。夜明けまでに一名を選定します』

 玲奈の顔から血の気が引いた。

「まさか、今年なの」

「何が始まるんですか」

 窓ガラスに、黒い文字が浮かぶ。

 ――英雄を一人。

 ――悪役を一人。

 ――死者を一人。

 文字が剥がれ、折れ、黒い紙の鳥になった。

 鳥は私の肩へ止まった。

『観客席に、適任者がいました』

「離れて!」

 玲奈が腕を伸ばすより早く、紙のくちばしが私の耳元へ触れた。

『望月澄香。あなたは誰より魔法少女を見てきた。誰より理解し、誰より歪んでいる』

「褒め言葉として受け取ります」

『では、代価を』

 胸の奥から、一枚の紙が引き抜かれた。

 痛みはなかった。

 代わりに、世界の輪郭が黒い線で縁取られた。

 制服がほどけ、夜色の布へ変わる。袖口には白い余白。右手には細身の万年筆。左手には、私が十年使ってきた観察ノートとよく似た黒い本。

 表紙に銀色の文字が浮かんだ。

 《欄外注記》

「澄香!」

 玲奈が初めて、私の名前を呼んだ。

 それだけで、変身の恐怖が消えた。

 紙の鳥は笑った。

『ようこそ、最前列へ。あなたの役は――悪役です』

 私は鏡代わりの窓に映る自分を見た。

 ずっと夢見た姿だった。

 なのに、少しも嬉しくなかった。

 玲奈が、泣きそうな顔をしていたからだ。

二 誓いには値段がある

 終稿戦には、四つの規則があった。

 一つ。星装者は胸に「印」を持つ。

 一つ。夜明けの時点で、燃えている印は一つでなければならない。

 一つ。印を失った者は欠落獣になる。

 一つ。最後の一人には、過去を一行だけ書き換える権利が与えられる。

『単純でしょう』

 紙の鳥――《編集者》は言った。

 旧校舎を出ると、市内の人間は全員、眠ったように動きを止めていた。車は道路の中央で静止し、落ちかけた雨粒まで空中に留まっている。

 動いているのは星装者と欠落獣だけ。

 そして、街中のモニターには私たちの姿が映っていた。

「配信されているの?」

 私が尋ねると、編集者は翼を広げた。

『眠っている市民は夢の中で観ています。彼らの期待が、物語を進める』

「物語じゃない」

 玲奈が低く言った。

『人が続きを望んだ瞬間、現実は物語になります』

 編集者の黒い目が、私を映した。

『特にあなたは、続きを望む力が強い』

 私は否定できなかった。

 八百二十七本の映像。

 勝利のたびに次を待ち、傷つくたびに目を離せなかった。

 玲奈の幸福ではなく、玲奈の物語を欲しがっていた。

「澄香、変身を解いて」

「方法が分かりません」

「印を渡せばいい」

「渡したら欠落獣になるんですよね」

 玲奈は黙った。

 編集者が楽しげに首を傾げる。

『英雄は、いつも説明が足りません』

「お前は黙って」

『では、第三の星装者をご紹介しましょう』

 遠くで鐘が鳴った。

 商店街のアーケードを、赤い糸が一気に走る。街灯、看板、自動販売機、止まった人々の指先。糸はすべてを結びながら、私の喉元へ迫った。

 玲奈が光槍で切り払う。

 切れたはずの糸は、空中で結び直された。

《契糸のリベル》

 玲奈が息を呑む。

 アーケードの屋根から、一人の少女が降りた。

 赤い短衣。腰まで届く黒髪。両手の指には、銀の指輪が十個。

「天城玲奈」

 少女は感情の薄い声で言った。

「その子から離れて。新しい星装者なら、まだ誓約に慣れていない」

「矢来依織、待って。戦う必要は――」

「ある」

 依織は右手の人差し指を立てた。

 そこから伸びる赤い糸が、私の小指へ絡みつく。

「望月澄香。私は今から、あなたの能力を確認する。確認が終わるまで、私を攻撃しないと約束できる?」

 視界の端に文字が浮かんだ。

 ――返答には注意せよ。

 私の本が勝手に開く。

 白紙の上に、依織の能力についての注釈が現れた。

 《誓鎖》。問いかけに対して相手が同意した場合、その約束を物理法則へ変える。破った者は、あらかじめ示された代価を失う。術者は相手より重い代価を賭けなければならない。

「代価は?」

 私が聞くと、依織は一瞬だけ目を細めた。

「あなたが破れば、右手の感覚を失う。私が先に攻撃すれば、弟の名前を忘れる」

 玲奈が息を呑んだ。

「依織、それを賭けるのは――」

「黙って」

 依織の声が硬くなる。

 弟。

 過去を書き換えたい理由は、おそらくそこにある。

「分かりました。確認が終わるまで、あなたを攻撃しません」

 赤い糸が私の小指へ溶け込んだ。

「澄香!」

「大丈夫です。約束を破らなければいい」

「そういう問題じゃない!」

 玲奈が怒鳴る。

 私は少し嬉しくなった。

 だが、その感情を見透かしたように、依織が言った。

「あなた、本当に気持ち悪いね」

「よく言われます」

「褒めてない」

「知っています」

 依織は指を振った。

 赤い糸が無数に分かれ、私の両手両足を囲む。攻撃ではない。檻だ。

「能力を使って」

「対象がいません」

「私に使えばいい」

「攻撃になるかもしれません」

「ならない範囲で使うと約束して」

 追加の誓約。

 条件を積み重ね、こちらの選択肢を狭める。依織は力ではなく、会話で戦う。

 私は彼女を観察した。

 右足にだけ泥がついている。街の西側から来た。左の薬指の指輪だけ古い。赤い糸がそこへ触れるたび、わずかに震える。腰のポーチには折り紙の鶴。

 戦闘中なのに、一度も鶴を背に回さない。

 守っている。

 本の最初の頁に、能力の条件が浮かんだ。

 《欄外注記》。対象を三十秒観察し、「今、最も望んでいること」を正しく記し、その人物が次に選び得る行動を一文で書く。記述が人物像に沿っていれば、十秒以内に現実となる。

 外れた場合、記述は術者に返る。

 成功の代価は、誰かに憧れた記憶。現実を大きく曲げるほど、より多く、より大切な記憶を自分で差し出さなければならない。

 私は、依織をまだ憧れていない。

 そのとき、アーケードの奥から小さな欠落獣が這い出した。

 眠った子どもの影から生まれた、歯だらけの犬。

 犬は私ではなく、近くに倒れている幼児へ飛びかかった。

 依織の左手が動く。

 私を囲んでいた糸の半分がほどけ、幼児を包んだ。

 その隙に私が逃げられると分かっていても、彼女は迷わなかった。

 胸の内に、鋭い感情が生まれた。

 美しいと思った。

 勝利より先に、知らない子どもを選ぶ人を。

 これで、代価ができた。

 私は万年筆を走らせる。

 ――矢来依織が今、最も望んでいるのは、弟との約束を守ること。

 依織の目が見開かれる。

 ――だから彼女は、勝つための糸ではなく、守るための糸を選ぶ。

 赤い檻がすべてほどけた。

 糸は欠落獣を包み、幼児から引き離す。

 玲奈の光槍がその中心を貫いた。

 黒い犬は、紙吹雪のように散った。

 私の本から一行が消える。

 同時に、胸の中から何かが抜け落ちた。

 依織を見ても、もう美しいとは思わなかった。

 なぜ彼女を信用してよいと思ったのか、分からない。

 ただ、記録だけが残っている。

「……これが、あなたの代価」

 依織が呟いた。

「みたいです」

「軽いと思ってる?」

「いいえ」

 私は自分の声が震えているのを聞いた。

「人を好きになった理由から順に消えていく。たぶん、かなり悪趣味です」

 編集者が、どこかで笑った。

『優れた力には、優れた欠落が必要です』

 依織は赤い糸を引き戻した。

「玲奈。あいつを倒す方法を知ってる?」

「知らない」

「嘘」

「……知らないのは本当」

「じゃあ、知っていることを全部話して」

 玲奈は唇を噛んだ。

 私は、その沈黙を知っていた。

 アルカが決め台詞を言う直前と同じ沈黙。

 真実より、安心させる言葉を選ぶときの間だ。

「玲奈先輩」

 私は言った。

「今度は、『大丈夫』以外でお願いします」

三 英雄の作り方

 玲奈の妹、天城灯は、八年前の最初の欠落獣に食べられた。

 死体は残らなかった。

 残ったのは、姉へ助けを求める声だけだった。

 その夜、《編集者》は八歳の玲奈に現れた。

 星装者になり、人々を救い、十分な期待を集めれば、いつか過去を一行だけ直せると告げた。

「私は信じた」

 玲奈は、止まった観覧車の下で話した。

「信じるしかなかった。灯がいなくなったことを、そのままにして生きるなんて無理だったから」

 依織は黙っている。

 彼女の弟もまた、欠落獣に名前を奪われ、五年間眠り続けているという。

 二人とも、過去を欲しがっていた。

 私は違った。

 欲しかったのは未来だった。

 玲奈が次にどう戦うのか。何を言うのか。どこまで壊れても笑うのか。

 最低だと思う。

 だが、自分の欲望に正しい名前をつけたくらいで、人は正しくなれない。

「期待って、応援のことですか」

 私が尋ねると、玲奈は首を振った。

「もっと広い。『この子なら助けてくれる』『この子は負けない』『最後には笑う』。そう思われるほど、私の《救済光輪》は強くなる」

「代価は?」

「期待された救いを、裏切れない」

 玲奈は右手の手袋を外した。

 腕には、無数の黒い亀裂が走っていた。

「私は守る相手を一人選べる。その人が私を信じている間、傷も恐怖も、全部こちらへ移せる。そして『大丈夫』と言えば、溜めた傷を光に変えて撃ち返せる」

「信じなくなったら?」

「傷が戻る」

 私は中央駅で震えていた右手を思い出す。

「先輩は、何人ぶん溜めているんですか」

 玲奈は答えなかった。

 街中のモニターには、眠る市民の夢がコメントとなって流れていた。

 《アルカなら勝つ》

 《いつも通りでしょ》

 《あの黒い新入り、悪そう》

 《アルカを傷つけたら許さない》

 私の胸の印が、熱を持つ。

 役割が決められていく。

 白い英雄。

 黒い悪役。

 赤い敗者。

「終稿戦は、期待を一番集めた星装者を完成させる儀式なんだと思う」

 玲奈が言った。

「完成?」

「人間でなくなるってこと」

 編集者が観覧車の頂上に現れた。

『言葉が過ぎます、天城玲奈』

「八年間、黙ってきた。もう十分でしょう」

『あなたは英雄です。英雄は、舞台裏を説明しない』

「私は高校生よ」

『観客はそう思っていません』

 観覧車が動き出した。

 ゴンドラの窓が一斉に目へ変わり、私たちを見下ろす。

『さあ、続きを』

 玲奈の胸の印が白く燃えた。

 彼女の手に光槍が現れる。

 穂先は私へ向いていた。

「玲奈?」

 依織が赤い糸を構える。

「ごめん」

 玲奈は泣きそうな顔で、それでも笑った。

「澄香が悪役になってくれれば、私は英雄でいられる」

 槍が放たれた。

 私は横へ跳ぶ。

 白光が地面を裂き、観覧車の柱を蒸発させた。

 映像で見たどの一撃より速い。

 私が彼女を信じているからだ。

 誰よりも長く、誰よりも強く。

「最初から、私を倒すつもりだったんですか」

「違う!」

 二本目。

 左肩が落ちる。

 右足。

 三本目だけ遅い。

 私は知っている。

 知っているから避けられる。

 そして、知っているから強くしてしまう。

「終稿戦が今年だと知っていたら、近づけなかった。あなたを巻き込みたくなかった」

「でも、巻き込まれたら利用する」

「灯を取り戻せるなら!」

 声が裏返る。

 その瞬間だけ、灯標のアルカではなく、妹を失った天城玲奈がいた。

 私は嬉しかった。

 ようやく彼女が、私に本音をぶつけた。

 その喜びが、自分でも嫌になるほど甘かった。

「いいですよ」

 私は本を開いた。

「悪役になります」

 依織が叫ぶ。

「澄香、挑発しないで!」

「挑発じゃない」

 私は玲奈だけを見る。

「先輩が本気で私を倒すなら、私も本気であなたを止める」

 黒い万年筆が長い刃へ変わった。

 コメントが爆発的に増える。

 《始まった》

 《黒い子、やばい》

 《アルカ負けないで》

 《最高》

 最高。

 その二文字に吐き気がした。

 私もずっと、同じ目で見ていた。

 玲奈が踏み込む。

 近距離では槍を短く持つ。映像の第百九十三夜、橋上戦と同じ。

 私は刃で受けず、柄を左肘で押した。

 軌道が逸れる。

 膝蹴り。

 来る。

 腹へ受けた。

 息が消える。

 痛い。

 映像では分からなかった。

 英雄の一撃は、こんなにも重い。

 地面を転がりながら、私は笑っていた。

「何がおかしいの!」

「やっと、同じ場所に立てたので」

「これは遊びじゃない!」

「知っています」

 私は立ち上がる。

「先輩は、知っていましたか」

「何を」

「見られる側は、見る側の欲望から逃げられない。でも見る側は、いつでも画面を閉じられる」

 万年筆の先を、街頭モニターへ向けた。

「だから私は、閉じさせます」

 私は配信へ割り込んだ。

 画面いっぱいに、私の顔が映る。

「汐見市の皆さん。灯標のアルカは、あなたたちを必ず救う英雄ではありません」

 玲奈の顔が凍る。

「やめて」

「彼女は嘘をつきます。怖がります。妹を取り戻すためなら、私を殺そうとします。皆さんの傷を引き受けているのも、いつか過去を書き換えるためです」

 コメントが止まる。

 次の瞬間、罵声で埋まった。

 《嘘だ》

 《アルカを貶めるな》

 《悪役の言うこと》

 《信じない》

 だが、疑いは生まれた。

 玲奈の腕の亀裂が広がる。

 信仰が揺れ、預かっていた傷が戻り始めたのだ。

 玲奈が膝をつく。

「やめて……それ以上は、みんなが」

「みんなより先に、自分を心配してください」

「できるわけないでしょう!」

 玲奈の背後に、巨大な白い環が開いた。

 何千人ぶんもの痛みが、黒い針となって彼女へ降り注ぐ。

 私は走った。

 悪役なら、ここで笑うべきだった。

 英雄が崩れる瞬間を、最前列で見届けるべきだった。

 けれど体は、物語より先に動いた。

 玲奈を突き飛ばし、黒い針の前へ出る。

 胸、肩、脚。

 冷たい痛みが突き抜けた。

 私は地面へ倒れた。

「澄香!」

 玲奈が私を抱き起こす。

「どうして」

「私が知りたいです」

 口から血が落ちる。

「先輩を壊したかったのに、壊れるところは見たくなかった」

「馬鹿」

「はい」

「本当に、最低」

「知っています」

 玲奈の涙が頬へ落ちた。

 彼女は震えながら、いつもの言葉を口にしようとした。

「だい――」

「嘘は、やめてください」

 玲奈の唇が止まる。

 私は言った。

「大丈夫じゃないって、言って」

 長い沈黙のあと、玲奈は子どものように泣いた。

「大丈夫じゃない」

 その瞬間、街中のモニターが割れた。

 英雄の台詞が、初めて書き換わった。

四 誰も見ていない舞台

『失敗です』

 編集者の声が、空から降った。

 黒い紙の鳥がほどけ、夜空いっぱいの文字になる。

 《英雄は弱音を吐かない》

 《悪役は英雄を救わない》

 《敗者は口を挟まない》

 文字は鎖となり、私たち三人の胸へ巻きついた。

『役割から外れた登場人物は、削除します』

 依織の胸の赤い印が、消えかけていた。

 彼女の足元から、欠落獣の影が広がる。

「依織!」

 玲奈が手を伸ばす。

「来ないで!」

 依織は自分の首へ赤い糸を巻いた。

「私は、夜明けまで人間でいる」

 糸の先を編集者へ向ける。

「あなたは、終稿戦の規則を守ると約束する?」

『当然です』

「代価を示して」

『私が規則を破れば、この終稿戦は無効となる。あなたが先に誓いを破れば、弟に関する記憶をすべて失う』

「釣り合ってない」

『では、私が破れば、過去に行われたすべての終稿戦も無効としましょう』

 編集者は自信に満ちていた。

 自分が規則そのものだから、破るはずがない。

 依織は笑った。

「約束する」

 赤い糸が夜空へ伸び、文字の群れを縛る。

「これで、あいつは自分の規則から逃げられない」

「でも、夜明けには印が一つでないといけない」

 玲奈が言う。

「誰かが消える規則は、変わってない」

「抜け道を探す」

 依織は私を見た。

「あなた、そういうの得意でしょう」

 なぜ彼女が私を信用するのか分からなかった。

 きっと、失った記憶の中に理由がある。

 私は本を開き、規則を一字ずつ読み直した。

 ――夜明けの時点で、燃えている印は一つでなければならない。

 星装者が一人でなければならない、とは書いていない。

「印を、一か所に集められればいい」

「どうやって?」

「編集者に持たせる」

 依織が眉を上げる。

「印を失ったら、私たちは欠落獣になる」

「失うのではなく、重ねます。三つを一つとして燃やす」

「そんなこと、可能?」

「編集者ならできる。あれは印を配った側です」

 問題は、どうやって自分から集めさせるか。

 私は夜空の文字を見た。

 編集者は人間ではない。

 表情も癖もない。

 だが、欲望はある。

 完璧な結末。

 予想どおりに進み、最後まで読まれる物語。

 三十秒、観察する。

 文字の出る順番。

 私たちが規則から外れたときだけ、同じ句読点が二度続く。

 焦っている。

 物語を制御できないことを恐れている。

 私は編集者を嫌っていた。

 けれど、その一貫性だけは――認めざるを得なかった。

 何百年、何千年、同じ目的のために人を役へ押し込めてきた。

 それを美しいとは思わない。

 だが、歪んだ完成度に一瞬だけ見惚れた。

 代価には、それで足りる。

 私は本へ書く。

 ――編集者が今、最も望んでいるのは、終稿戦を規則どおり完結させること。

 夜空の文字がざわめく。

 ――だから編集者は、三つの印を一つの結末へ束ねる。

 万年筆が止まった。

 十秒。

 九。

 編集者が抵抗する。

『不適切な注釈です。私は登場人物ではない』

「見られた時点で、あなたも物語の中にいる」

『私は編集する側です』

「私も、そう思っていました」

 八百二十七本の映像。

 彼女を理解しているつもりで、切り取り、並べ、意味を与えた。

 私も編集者だった。

 だから分かる。

「誰かの人生を勝手に物語へした者は、結末から逃げられない」

 三つの印が胸から浮かび上がる。

 白、赤、黒。

 光は空中で絡まり、一つの炎になった。

 編集者が悲鳴を上げる。

 私の中から、何かが消えた。

 編集者の一貫性に見惚れた、その一瞬。

 惜しくはない。

 だが、三人の胸から印が消えた途端、足元の影が大きく口を開いた。

 まだ駄目だ。

 印を重ねただけでは、所有者がいない。

 編集者へ移さなければ。

『拒否します』

 夜空の文字が巨大な刃となって降る。

 玲奈が前へ出た。

「私が守る」

「誰を?」

 私が聞く。

 玲奈は私と依織を見た。

 それから、眠っている街を見た。

 最後に、夜空の編集者を見上げた。

「全員」

『対象は一人だけです』

「知ってる」

 玲奈は、自分の胸へ手を置いた。

「だから、私が私を守る」

 白い環が、彼女自身を囲んだ。

 これまで玲奈は、誰かに信じられることでしか力を使えなかった。

 自分で自分を救えると、一度も信じていなかったからだ。

「天城玲奈」

 彼女は自分の名を呼んだ。

「怖くてもいい。失敗してもいい。灯を取り戻せなくても、生きていい」

 環が光る。

 誰の期待も借りていない、小さな光だった。

 だが、折れなかった。

「大丈夫じゃなくても、私は私を見捨てない」

 文字の刃が光へ突き刺さる。

 玲奈の全身に亀裂が走る。

 それでも彼女は立っていた。

 依織が両手の糸を編集者へ巻きつける。

「規則を確認する。夜明けの時点で、燃えている印は一つ。そうね?」

『そうです』

「その一つが、誰の胸にあるべきかは規定していない」

『星装者の――』

「規則には書かれていない」

 赤い糸が締まる。

 編集者が初めて言葉に詰まった。

 依織は自分の古い指輪を外した。

「これは弟が、七歳のときにくれたもの。おもちゃの指輪だけど、私には人生より重い」

 指輪を糸へ通す。

「私は、三つの印を編集者が受け取ることを要求する。あなたが拒否するなら、『規則を守る』という約束を破ったものとする」

『詭弁です』

「誓いは、解釈じゃなく言葉を縛る」

 赤い糸が夜空を引き裂く。

 三色の炎が編集者の中心へ押し込まれた。

 黒い紙の鳥が、巨大な人影へ変わる。

 顔のない編集者の胸で、ただ一つの印が燃えた。

 東の空が白み始める。

『……選定、完了』

 編集者の声が震えた。

『勝者は、私』

「そう」

 私は言った。

「あなたが物語の最後の一人です」

『ならば、願いを』

 編集者は自らへ命じるように呟いた。

 勝者は過去を一行だけ書き換えられる。

 その権利が、編集者に渡った。

 最悪の結末にも見えた。

 だが、私は本を閉じなかった。

 編集者を三十秒見た。

 欲望は分かっている。

 問題は、次に選び得る行動だ。

 完璧な結末を望む者が、勝者になった。

 物語には英雄も悪役も敗者もいる。

 けれど今、舞台に立っているのは編集者だけ。

 観客はまだ、続きを待っている。

 終われない。

 終わらない物語は、編集者にとって最大の失敗だ。

 私は最後の頁を開いた。

 この注記に使える代価は、一つしかなかった。

 天城玲奈に憧れた記憶。

 八百二十七本。

 左肩。右足。遅い三本目。

 焼きそばパン。残す牛乳。

 あの目を向けられたかった夜。

 全部。

「澄香、何を書くつもり?」

 玲奈がこちらを見る。

 私は答えなかった。

 答えれば、止められる。

 万年筆を握る。

 ――編集者が今、最も望んでいるのは、完全な結末。

 文字が滲む。

 玲奈の顔を見た。

 忘れたくない。

 初めてそう思った。

 ずっと、彼女を知り尽くしたかった。

 今は、知らない部分が残っていてほしかった。

 明日、何を食べるのか。

 どんな大人になるのか。

 妹を取り戻せない朝を、どう生きるのか。

 続きを見たいのではない。

 続いてほしかった。

 私は書く。

 ――だから編集者は、自分が始めたすべての終稿戦を「なかったこと」にして、物語の外へ消える。

『不可能です』

 編集者が叫ぶ。

「可能です。あなたは今夜の勝者で、過去を一行書き換えられる」

『私は、そのような結末を望まない』

「でも、あなたが消えれば終稿戦は完全に終わる。誰も続きを書けない。あなたの基準では、それが唯一の完結です」

『違う』

「違わない」

 残り三秒。

 編集者の胸の印が暴れる。

『私は編集者だ』

「いいえ」

 二秒。

「今は、最後の登場人物です」

 一秒。

 編集者は、自分自身へ願った。

『すべての終稿戦が、始まらなかった過去を』

 世界から音が消えた。

 黒い文字が、一枚ずつ白紙へ戻る。

 観覧車の目が閉じる。

 モニターからコメントが消える。

 依織の赤い糸がほどける。

 玲奈の白い環が砕ける。

 編集者の体は、最後の頁のように静かに折り畳まれた。

『物語には、結末が必要です』

 消える直前、編集者は言った。

「人生には、なくてもいい」

 私が答える。

 朝日が昇った。

 胸の印が消え、魔装がほどける。

 本の頁から、八百二十七の夜が風になって飛び去った。

 私は目の前の少女を見た。

 白い服。薄い茶色の瞳。泣き腫らした顔。

 知らない人だった。

「澄香?」

 彼女が私の名前を呼ぶ。

 胸が痛んだ。

 理由は、もう分からなかった。

終章 名前から始める

 欠落獣は、その朝を境に現れなくなった。

 過去の終稿戦で消えた人々も戻った。

 ただし、すべてが元通りになったわけではない。

 八年前に欠落獣へ食べられた天城灯は帰らなかった。彼女の死は終稿戦ではなく、その前に起きたことだったからだ。

 矢来依織の弟も、すぐには目を覚まさなかった。

 けれど、少しずつ名前を取り戻した。最初に姉の名を呼んだのは、終稿戦から三か月後だったという。

 魔法少女たちは、普通の少女へ戻った。

 街はしばらく混乱したが、やがて配信アプリは削除され、戦闘映像は「大規模な集団幻覚」として処理された。

 人は、見たものを忘れるのが上手い。

 私も例外ではない。

 机の引き出しには、知らない少女の戦闘記録が大量に残っていた。

 八百二十七本の映像ファイル。

 癖、戦術、負傷歴、好きなパン。

 私の字で書かれているのに、読んでも心が動かなかった。

 ただ、最後のノートだけは捨てられなかった。

 頁はほとんど白紙で、最終頁に一文だけ残っていた。

 ――憧れは、遠くから仰ぐことではない。同じ泥に膝をつき、それでも相手を役ではなく人として見ること。

 誰へ向けた言葉か分からない。

 ある放課後、私は校門で天城玲奈に呼び止められた。

 顔と名前は知っている。

 二年生。元生徒会会計。最近、よく私の教室の前を通る人。

「望月さん」

「はい」

「今日、時間ある?」

「用件によります」

「焼きそばパンを半分、食べてほしい」

「変わった用件ですね」

「一人だと多いから」

「牛乳も買うんですか」

 玲奈が目を見開いた。

「どうして知ってるの」

「さあ」

 私にも分からない。

 ただ、彼女が牛乳を残すところを想像すると、胸の奥が少しだけ温かくなった。

 記憶はない。

 理由もない。

 それでも、失ったものの形だけが、心に残ることはあるらしい。

 私たちは購買裏の階段へ座った。

 玲奈は焼きそばパンを、きっちり半分に割った。

「私たち、前に会ったことがありますか」

 私が聞く。

 玲奈はしばらく黙った。

 何か安心させる嘘を探している顔だった。

 けれど、彼女は首を横に振った。

「ある。でも、あなたは忘れた」

「そうですか」

「聞かないの?」

「聞いてほしいんですか」

「……少し」

 私はパンを一口食べた。

「では、いつか話してください。あなたが話したくなった順番で」

 玲奈は笑った。

 決め台詞のあとに作る笑顔ではない。

 不格好で、目尻が少し下がる、ただの笑顔だった。

 初めて見るはずなのに、私はそれを見逃したくないと思った。

「ねえ、望月さん」

「澄香でいいです」

「じゃあ、澄香。私のことも、玲奈でいい」

「分かりました、玲奈先輩」

「先輩は残すんだ」

「そこは規則です」

「誰の?」

「今、決めました」

 玲奈先輩は、また笑った。

 私はもう、彼女の英雄譚を知らない。

 彼女がどれだけ強かったかも、どれだけ嘘をついたかも、どんな目で私を睨んだかも覚えていない。

 だから今度は、観察記録ではなく、会話から始めることにした。

「玲奈先輩」

「なに?」

「牛乳、残すならください」

「どうして残す前提なの」

「勘です」

 放課後の校舎に、誰のものでもない笑い声が響いた。

 画面も、拍手も、役名もない。

 それで十分だった。