『喰名様』

 人間は、心臓が止まったくらいでは死なない。

 誰かが名前を呼ぶかぎり、そいつはどこかに残っている。

 逆に言えば――名前をなくした人間は、息をしていても、もうこの世のものじゃない。

一 帰ってきた名前

 山あいの雨代村に着いたとき、空は泥を溶かしたような色をしていた。

「最終は六時だ。乗り遅れるなよ」

 降り際、運転手が念を押した。

「今夜は祭りだろ。日が落ちたら、村の外の人間は名前を呼ばれても返事すんな」

「なんすか、それ」

「知らないなら、それでいい」

 バスは雨煙を巻き上げ、逃げるように坂を下っていった。

 八代朔、十六歳。

 五年ぶりに戻った故郷は、記憶よりずっと小さく、ずっと息苦しかった。

 軒先には白い提灯が吊られている。どの提灯にも家族の名前が墨で書かれ、なぜか文字の面を家側に向けていた。道を歩く村人は、朔と目が合っても会釈ひとつしない。

 スマートフォンは圏外。

 蝉は鳴いていない。

 代わりに、山のどこかで鐘が鳴った。

 ごうん。

 一度だけ。

 朔はポケットから、折り目だらけの便箋を取り出した。

『朔へ。

 七月十三日、鐘が九つ鳴る前に雨代へ戻れ。

 結良を連れて帰れ。

 今度こそ、名を渡すな。

              祖母・千鶴』

 祖母は三日前に死んだ。

 葬式は昨日、村の者だけで済ませたらしい。父は「山の家を片づけてこい」と鍵を渡した。便箋のことを見せても、酔った老人の書き間違いだと言った。

 結良なんて人間は知らない、と。

 父も、母も、親戚も、誰もがそう言った。

 朔の妹、八代結良。

 笑うと左の犬歯がのぞく。卵焼きは甘い方が好きで、怖いときだけ朔の服の裾を二回引く。

 五年前、この村で消えた。

 写真からも、戸籍からも、家族の記憶からも。

 覚えているのは朔だけだった。

「やっと来た」

 声は、背後からした。

 朔は反射的に振り向いた。

 バス停の屋根の上に、赤い雨合羽の少女が腰かけていた。

 裸足のつま先から、黒い雨水がぽたり、ぽたりと落ちている。年は九つか十。前髪の奥の目は、雨の夜みたいに暗い。

「八代朔」

 少女は、確かめるように彼の名を呼んだ。

「今夜、あんたの名前をもらう」

 朔は少女を見上げた。

「その前に聞く。お前、誰だ」

「名前はない」

「嘘つけ。名前がないやつが、人の名前を欲しがるかよ」

 少女は少し笑った。

 その笑い方を、朔は知っていた。

 左の犬歯が、ほんの少しのぞいた。

「……結良」

 少女の顔から笑みが消えた。

「その名前で呼ぶな!」

 突風が吹いた。

 白い提灯が一斉に裏返り、家族の名前が道の方を向いた。

 どこからともなく、子どもの声がした。

 ――やしろ、ゆら。

 少女が朔の手首をつかんだ。

「走れ!」

 路地の奥で、何かが立ち上がった。

 人の形をしていた。

 だが、顔のあるべき場所には、濡れた和紙が一枚貼りついている。紙の中央が口の形に裂け、そこから細長い舌が垂れていた。

 舌には、びっしりと名前が書かれていた。

 ――やしろ、ゆら。

 ――やしろ、ゆら。

 ――やしろ、ゆら。

 三度目が終わる前に、少女は朔を空き家の戸口へ引きずり込んだ。

 直後、戸板の向こうを、濡れた足音が通り過ぎた。

 べたり。

 べたり。

 べたり。

 朔は息を殺した。

 少女の手は氷みたいに冷たかった。

「今のは何だ」

「空人。名前を食われた人間の残りかす」

「お前は」

「トワ」

「名前、あるじゃねえか」

「これは名前じゃない。あんたが忘れないためにつけた傷みたいなもの」

 トワは朔の手を離した。

「鐘が九つ鳴れば、喰名様が起きる。そうなったら、結良は完全に食われる」

「まだ生きてるのか」

「生きてはいない。死んでもいない。名前だけが、腹の中に残ってる」

「だったら取り返す」

「無理」

「五年前も、みんなそう言った」

 朔は便箋を握りしめた。

「だから俺だけが覚えてる」

 トワはしばらく黙っていた。

 やがて、赤いフードを深くかぶる。

「……あんた、昔からそういう顔だけは得意だった」

「どんな顔だよ」

「勝てない喧嘩を始める顔」

二 名隠しの夜

 祖母の家は、村外れの石段を上った先にあった。

 玄関の注連縄は切れ、庭の井戸には大きな石蓋が置かれている。蓋には爪で引っかいたような跡が、内側から外へ向かって何本も走っていた。

「井戸を見るな」

 トワが言った。

「もう見た」

「水面を見るなって意味。顔を覚えられる」

「誰に」

「下にいるものに」

 家の中は、祖母が生きていたときのままだった。

 仏壇には祖父と祖母の位牌。隣に、空の位牌がひとつある。名前の部分だけが削り取られ、木屑が畳に落ちていた。

 居間の柱には、子どもの背丈を記した傷が二列あった。

『朔 十一歳』

 その横は、何度墨を塗ってもにじみ出したような黒い染みになっている。

 朔が指でなぞると、染みの奥に小さな文字が浮かんだ。

『ゆら 九歳』

 胸の奥で、五年間凍っていたものが音を立てて割れた。

「いたんだ」

 朔はつぶやいた。

「やっぱり、いた」

 トワは背を向けた。

「証拠が欲しかった?」

「俺がおかしくなったんじゃないって、誰かに言ってほしかった」

「言ったところで、楽にはならないよ」

「それでもだ」

 朔は柱に額を当てた。

 五年前、結良が消えた翌朝。

 母は朝食の皿を三枚しか並べなかった。父は子ども部屋の二段ベッドを見て、「どうして下まで使ってるんだ」と笑った。

 朔が結良の話をすると、二人は怯えた目で彼を病院へ連れていった。

 薬を飲まされた。

 カウンセラーに何度も訊かれた。

 妹はどんな顔ですか。声は。好きなものは。最後に会ったのは。

 答えるたび、結良の輪郭だけが鮮明になり、家族の中で朔だけが異物になった。

「朔」

 トワの声で我に返る。

 少女は祖母の部屋の床板を一枚外していた。

 中から現れたのは、黒い漆塗りの箱だった。

 箱の蓋には、金で一文字。

『名』

 中には、筆が一本と、薄い帳面が入っていた。

 筆の軸は白骨のように細く、穂先だけが赤い。帳面の表紙には祖母の字で『名返し』とある。

 最初の頁には、たった一行。

『名前は文字ではない。呼ぶ者の記憶である。』

 次の頁からは、名を食われた者を呼び戻す術が記されていた。

 一、奪われた者の影を踏む。

 二、その者の名を、血で書く。

 三、名を呼びながら、その者だけの記憶を語る。

 ただし、と赤い字が続く。

『知らぬ者の名は返せない。

 愛なき声は、喰名様の声と同じである。』

「婆ちゃんは、これで結良を助けようとしてたのか」

「五年かけて、喰名様の腹を探してた」

「どうして死んだ」

「見つけたから」

 トワが帳面の最後を開いた。

 そこには四十八人分の名前が並んでいた。

 古びた字で、男の名、女の名、幼い子の名。どれも墨が雨に濡れたように揺らいでいる。

 頁の下に祖母の走り書きがあった。

『天明六年。飢饉の年、雨代は峠を越えてきた四十九人の子を蔵に閉じ込めた。

 食糧を奪われることを恐れ、村は子らの名を記録から消し、存在しなかったことにした。

 四十八人の名は産婆の板書より判明。

 最後の一人は、名を持たぬ赤子。

 忘れられた子らの声は混ざり、名を喰う神となった。』

 その先は、紙が黒く焼け焦げていた。

「喰名様は神なんかじゃない」

 朔は言った。

「この村が作った化け物だ」

「だから村は、五年ごとに一人の名前を食わせて眠らせる」

「五年前、食われたのが結良か」

 トワは答えなかった。

「答えろ」

「違う」

 少女の声がかすれた。

「あの夜、呼ばれたのはあんただった」

 記憶が、雷のように脳裏を裂いた。

 夏祭りの夜。

 幼い朔は、井戸の奥から聞こえた祖母の声に返事をした。

 ――朔。

 振り向いた先に、白い顔。

 喉から何かを引き抜かれる感触。

 そこへ結良が飛び込んできた。

『その名前、あげない!』

 小さな両手で、朔の胸から伸びる黒い舌をつかんだ。

 そして叫んだ。

『私の名前をあげる! 私は八代結良!』

「やめろ……」

 朔は耳を塞いだ。

 だが記憶の声は止まらない。

『お兄ちゃんの名前、返して!』

 闇が結良をのみ込む直前、泣きじゃくる朔は妹の手を握って言った。

『名前がなくなっても、俺がつける!』

『なんて?』

『トワ。ずっと、忘れないって意味だ!』

 記憶が途切れた。

 目の前の少女が、悲しそうに笑っていた。

「私は結良じゃない」

 トワは自分の胸を押さえた。

「あの子が消える瞬間、あんたの中に残した、最後のひとかけら。だから顔も、声も、あんたの記憶どおり。結良本人は、喰名様の中にいる」

「だったら、お前も結良だ」

「違うよ」

「俺がそう呼ぶ」

「だから呼ぶなって言ってる!」

 トワの叫びと同時に、家の外で鐘が鳴った。

 ごうん。

 二つ目。

 窓ガラスに、白い手形がついた。

 ごうん。

 三つ目。

 庭の井戸から、子どもの笑い声があふれた。

「時間がない」

 トワは筆を朔へ押しつけた。

「喰名様が欲しいのは、あんたの名前。結良が奪った獲物だから」

「俺の名前を食わせれば、結良は返るのか」

「そんな顔するな」

 トワは朔の頬を叩いた。

「自分を差し出すのは、戦うって言わない。逃げるって言うんだよ」

 その言葉は、結良がよく言ったものだった。

 喧嘩で負けそうになると、いつも生意気に腕を組んで。

 朔が何か言う前に、玄関の戸が音もなく開いた。

 白装束の男たちが立っていた。

 先頭は、雨代神社の宮司・紫堀紬吾。痩せた老人で、片目に黒い眼帯をしている。

「千鶴さんは、最後まで余計なものを残した」

 紬吾は帳面を見た。

「その残り名を渡せ、朔。今ならまだ、村は助かる」

「こいつを結良の代わりに食わせる気か」

「残り名は魂ではない。記憶の澱だ」

「じゃあ、なんで怯えてる」

 紬吾の眉が動いた。

「化け物に情を持つな」

「五年前も同じこと言ったんだろ。妹一人を消して、村が助かるなら仕方ないって」

「四百人と一人を比べた。それだけだ」

「人間を数で呼ぶな」

 朔は赤い筆を握った。

「名前で呼べ」

 男たちが一斉に札を構えた。

 トワが朔の背中へ手を当てる。

「走れる?」

「勝てない喧嘩なんだろ」

「うん」

「じゃあ、始めるぞ」

三 喰名様

 朔は障子を蹴破って庭へ飛び出した。

 白装束の男が札を投げる。空中で札は黒い縄に変わり、朔の腕へ絡みついた。

「名前を書け!」

 トワが叫ぶ。

「何を!」

「自分の!」

 朔は親指を噛んだ。

 血を穂先に含ませ、腕に絡む縄へ一気に筆を走らせる。

『八代朔』

 文字が赤く燃えた。

 縄の表面に無数の口が開き、悲鳴を上げてちぎれる。

「名返しの筆……!」

 紬吾が目を見開いた。

「千鶴さんは、それまで渡したのか」

「名前は文字じゃないんだろ」

 朔は筆を振り抜いた。

 赤い墨が弧を描き、迫る男たちの白い面を真二つに割った。

「俺が俺を忘れないかぎり、こいつは何度でも書ける!」

 石垣を飛び越え、村の中央へ駆ける。

 鐘は四つ、五つと鳴った。

 家々の戸が閉まり、道から人影が消える。

 白い提灯だけが風もないのに揺れていた。内側を向いていた名前が、ひとつずつ、道の方へ回っていく。

 ごうん。

 六つ目。

 井戸から黒い水が噴き上がった。

 水は空へ落ち、雲を染める。地面に映る朔たちの影だけが、逆さまに沈んでいった。

「影を踏まれるな!」

 トワが叫ぶ。

 路地から空人が現れた。

 一体、二体、十体。

 顔のない大人。首の長い老婆。四つん這いで走る子ども。濡れた和紙の顔をひくつかせ、名前の書かれた舌を垂らしている。

 朔は筆で自分の名を書き、赤い一閃を放った。

 先頭の空人が裂ける。

 だが中から血は出ない。代わりに、細切れの呼び声が噴き出した。

 ――おかあさん。

 ――さぶろう。

 ――わたしをみて。

 ――ここにいる。

 朔の腕が止まった。

「こいつら……」

「食われた人たちだよ」

「斬ったらどうなる」

「もっと細かく忘れられる」

「先に言え!」

「聞かなかった!」

 空人の爪が朔の肩を裂いた。

 傷口から血ではなく、赤い文字がこぼれる。

『朔』

 一画ずつ、名前が剥がされていく。

 トワが飛びつき、空人の顔を両手で挟んだ。

「誰なの!」

 空人は答えない。

 ただ、首から下げた小さな木札に、かすれた桜の絵があった。

 トワが叫ぶ。

「桜の髪飾り! 右手の火傷! あんた、豆腐屋のお婆ちゃんでしょ!」

 近くの家の戸が開いた。

 中から老人が顔を出す。

「……カネ?」

 空人が震えた。

「母ちゃんか」

 老人はよろめき出てきた。

「右手の火傷は、俺をかばって鍋をひっくり返したときの……母ちゃん。紫堀カネ!」

 朔は空人の影を踏んだ。

 筆を走らせる。

『紫堀カネ』

 赤い文字が空人を包んだ。

 和紙の顔に皺が浮かび、目と鼻と口が戻っていく。

 老婆は一瞬だけ、息子へ笑いかけた。

 そして淡い光になり、雨へ溶けた。

「これが名返し……」

「一人ずつやってたら夜が明ける」

 トワが振り返った。

 道の先、雨代神社の鳥居が黒く染まっていた。

「だから、腹を裂く。中にある名前を全部返す」

 ごうん。

 七つ目。

 村中の提灯が消えた。

 闇の中で、何百人もの声が同時に囁いた。

 ――なまえを、ちょうだい。

 ごうん。

 八つ目。

 鳥居の奥から、巨大な手が伸びた。

 指は五本ではない。細い子どもの腕が何十本も束になり、一本の指を作っている。

 ごうん。

 九つ目。

 次に肩が、胴が、頭が現れた。

 喰名様。

 それは、濡れた人間を積み重ねて作った山だった。

 無数の背中と手足が互いを抱きしめ、ひとつの巨体を形作っている。頭部には顔がなく、古い蔵の扉が縦に二枚ついていた。

 扉が開く。

 中は口だった。

 暗い喉の奥へ、何千枚もの木札が歯のように並んでいる。札に刻まれた名前が、苦しそうにうごめいていた。

 喰名様が身をかがめる。

 口の中から、祖母の声がした。

「朔」

 朔の足が止まった。

「帰っておいで」

 優しい声。

 幼いころ、熱を出した夜に何度も聞いた声。

「朔」

 二度目。

 トワが朔の耳を塞いだ。

「聞くな!」

「千鶴さんは、お前を待ってるよ」

 三度目の呼び声が、トワの手をすり抜けた。

「八代――」

 朔は自分の舌を噛んだ。

 血の味とともに叫ぶ。

「俺の名前は、田中太郎だ!」

 喰名様の口から伸びた黒い舌が、空中で迷い、近くの石地蔵へ突き刺さった。

 地蔵の胸に『田中太郎』の文字が浮かび、次の瞬間、粉々に砕ける。

「嘘の名前を食わせた……?」

 追いついた紬吾が呆然とした。

 朔は口元の血を拭う。

「婆ちゃんの帳面、余白に落書きが多いんだよ」

「それで逃げ切れると思うな」

 紬吾の背後に、村人たちが集まっていた。

 全員、白い面をつけ、胸に自分の名を書いた木札を抱いている。

「朔。残り名を渡せ」

「断る」

「四十九人の名を呼べば、喰名様は完全に目覚める。村は一夜で食い尽くされる」

「だから五年ごとに子ども一人を差し出すのか」

「我々は生きなければならない」

「名前を消して生き残ることを、生きるって言うな!」

 紬吾は眼帯へ手をかけた。

「ならば見ろ」

 黒布の下に、目はなかった。

 空洞の奥で、小さな口が開いた。

「私の娘も、二十五年前に食われた」

 口が、かすかな少女の声を出す。

 ――おとうさん。

 紬吾の頬を涙が伝った。

「名を返そうとして、妻も、弟も、十一人が死んだ。それでも喰名様は消えなかった。千鶴さんも失敗した。犠牲を選ばぬという綺麗事で、全員を殺す気か」

 朔は答えられなかった。

 喰名様の腕が持ち上がる。

 空を覆うほど巨大な掌が、村へ振り下ろされた。

「朔!」

 トワが突き飛ばした。

 掌が地面を打つ。

 家々が跳ね、石畳が波のように割れた。白い提灯が宙を舞い、書かれた名前が一斉に剥がれる。

 剥がれた名は黒い蛾となって、喰名様の口へ吸い込まれた。

 村人の一人が面を落とした。

 下には何もなかった。

 隣の者が首をかしげる。

「……誰だ、お前」

 名前を失った男は、自分の顔を探すように両手で掻きむしった。

 朔は祖母の帳面を開いた。

 四十八人の名が震えている。

「紬吾」

「呼び捨てにするな」

「一人じゃ無理だ」

 紬吾が朔を見る。

「だから全員で呼ぶ」

「何を言っている」

「喰名様は、村が忘れたから生まれた。だったら、村が思い出せばいい」

「名を読むだけでは足りない。記憶がない」

「記憶なら、こいつの中にある」

 朔は喰名様を指した。

「腹を開けて、返してもらう」

「どうやって近づく」

 朔は少し笑った。

 トワが、その顔を見て青ざめる。

「やめて」

「欲しがってるものをやれば、口は開く」

「朔、やめろ!」

 朔は胸に筆を当てた。

 血で、大きく自分の名を書く。

『八代朔』

 文字が心臓の鼓動に合わせて光った。

「喰名様!」

 朔は巨体を見上げた。

「俺の名前が欲しいんだろ!」

 喰名様の動きが止まる。

「くれてやる。食えるもんなら、食ってみろ!」

 トワが腕をつかんだ。

「忘れられるよ」

「お前が覚えてろ」

「私は消えかけてる!」

「五年前、約束した」

 朔はトワの手を握り返した。

「今度はお前の番だ」

 喰名様の口から、黒い舌が放たれた。

 朔の胸を貫く。

 痛みはなかった。

 もっと恐ろしいものが、内側から引き抜かれた。

 母が呼ぶ声。

 父が書いた誕生日カード。

 教室の名簿。

 友人のスマートフォンに登録された連絡先。

 自分で自分を呼ぶ、心の声。

 すべてが一本の赤い糸となり、喰名様へ吸い込まれていく。

 朔の胸から文字が消えた。

 紬吾が眉をひそめる。

「……あれは誰だ」

 村人たちがざわめく。

「知らない子だ」

「なぜここにいる」

 朔は自分の手を見た。

 指の輪郭がぼやけていく。

 自分が誰だったのか、思い出せない。

 名前のない恐怖が、喉を塞いだ。

 そのとき。

「朔!」

 トワの声がした。

 闇の中に、赤い一画が浮かぶ。

「八代朔! 十六歳! 負けず嫌いで、嘘が下手で、泣くと鼻が赤くなる!」

 二画目、三画目。

 消えた名前が、空中に書き直されていく。

「卵焼きの端っこを妹にくれる! 怖いくせにお化け屋敷では先を歩く! 五年間、誰に笑われても結良を忘れなかった!」

 赤い文字が完成した。

『朔』

 名が、胸へ戻る。

 朔は息を吸った。

「――そうだ」

 ぼやけた顔に目と口が戻る。

「俺は、八代朔だ!」

 朔は黒い舌をつかみ、喰名様の口へ向かって走った。

 舌が巻き戻る勢いに乗り、鳥居を蹴り、巨体の腕を駆け上がる。

「紬吾!」

 朔は帳面を投げた。

 老人が受け取る。

「四十八人を呼べ! 村中に聞こえるように!」

「記憶がないと言ったはずだ!」

「名前から始めろ!」

 朔は叫んだ。

「思い出すのは、そのあとだ!」

四 腹の中

 喰名様の口の中は、五年前の夏祭りだった。

 赤い提灯。

 綿あめの匂い。

 射的の音。

 だが人間には誰一人、顔がない。

 朔はぬかるんだ参道へ落ちた。

 隣にトワが転がる。

「ついてくんなって言っただろ」

「言われてない」

「今言う。帰れ」

「帰る場所がない」

 トワは立ち上がった。

 赤い雨合羽の裾が、黒く透け始めている。

「それに、あんた一人じゃ結良を見つけられない」

 祭りの人波が二人へ迫る。

 顔のない客たちは、すれ違いざまに朔の耳元で名乗った。

 ――私は誰。

 ――ぼくは誰。

 ――名前を返して。

 声を聞くたび、頭の中に知らない人生が流れ込む。

 雪の日に生まれた記憶。

 妹と分けた一個の柿。

 母に叱られ、蔵の陰で泣いた夕暮れ。

 峠を越えれば飯があると信じ、裸足で歩いた夜。

 すべて、四十九人の子どもたちの記憶だった。

「喰名様が食ってたのは、名前だけじゃない」

 朔はこめかみを押さえた。

「名前にくっついた人生ごと、ここに閉じ込めてたんだ」

 祭囃子が止んだ。

 参道の先に、古い蔵が現れる。

 戸の隙間から、細い指が何本も伸びていた。

 朔が近づくと、戸に墨文字が浮かんだ。

『ここにいない』

 その下に、何度も何度も同じ言葉が重ねられている。

『いなかった』

『知らない』

『名前などない』

 朔は筆を構えた。

「これを消せばいいのか」

「違う」

 トワが首を振った。

「上から書くの」

 朔は血を穂先に含ませた。

 戸いっぱいに、四文字を書く。

『ここにいた』

 蔵が震えた。

 中から、泣き声が爆発した。

 戸が開き、黒い手が何百本も伸びてくる。朔の腕、足、首へ絡みつき、爪を立てた。

「お前たちは、ここにいた!」

 朔は叫んだ。

「村が忘れても、いなかったことにはならない!」

 外の世界から、かすかな声が届いた。

 紬吾の声だった。

『一人目――相原、いち』

 黒い手の一本が止まる。

 皺だらけの小さな指が、少女の手へ変わった。

 村人たちの声が、恐る恐る続く。

『相原、いち』

 祭りの人波から、一人の少女が抜け出した。

 顔に目鼻が戻る。

 少女は朔を見て、深く頭を下げた。

 その姿が光となり、蔵の天井へ昇っていく。

『二人目――石動、宗太』

『石動、宗太』

 少年が一人、顔を取り戻した。

『三人目――宇津木、ハナ』

『宇津木、ハナ』

 名が呼ばれるたび、蔵を作っていた黒い板が一枚ずつ剥がれ落ちる。

 その向こうに、巨大な肉の壁が見えた。

 壁には無数の木札が埋まっている。

「結良!」

 朔は走った。

 札には、近年食われた村人たちの名があった。

 指で触れると、記憶が流れ込む。

 豆腐屋のカネ。

 紬吾の娘、澄香。

 五年前、祭りの日に笑っていた結良。

「あった!」

 肉の壁の奥深く、小さな木札が埋まっていた。

『八代結良』

 朔が手を伸ばす。

 しかし札の上に、赤い雨合羽の少女の手が重なった。

「待って」

 トワだった。

「これを抜いたら、私は消える」

 朔は息をのんだ。

「お前は結良の残りなんだろ。だったら戻るだけだ」

「たぶん、戻らない」

 トワは静かに言った。

「私は、あんたが五年間かけて作った結良。思い出すたび、少しずつ本物と違っていった。あんたに都合よく笑って、あんたの知らないところでは何も考えない」

「そんな言い方すんな」

「結良本人は、もっと意地悪だった」

「知ってる」

「ピーマンも残した」

「俺の皿に入れてた」

「お兄ちゃんのこと、たまに本気で嫌いだった」

「俺もだよ」

 トワは笑った。

 左の犬歯がのぞく。

「じゃあ、本物を連れて帰って」

「お前も来い」

「無理だって」

「名前が二つあっちゃいけないって、誰が決めた」

 朔は筆を握った。

「結良は、父さんと母さんがくれた名前だ。トワは、俺がつけた名前だ。どっちもお前だろ」

「私は人間じゃない」

「知るか」

 朔は木札の表へ『八代結良』をなぞり、裏へ新たな名を書いた。

『トワ』

 二つの名前が赤く輝いた。

「俺が呼ぶ。だから消えるな」

 トワの目から、初めて涙が落ちた。

「ほんと、勝てない喧嘩ばっかり」

「勝つまでやるからな」

 二人で木札を引いた。

 肉の壁が絶叫する。

 喰名様の腹の中で、祭りの景色が崩れ始めた。

 木札の奥から、白い着物の少女が落ちてくる。

 九歳の結良。

 五年前と同じ姿で、目を閉じていた。

 トワの体が透ける。

「トワ!」

 朔が手を伸ばす。

 トワは結良の胸へ、そっと掌を重ねた。

「忘れないで」

「忘れるか」

「私のことじゃない」

 トワは蔵の奥を見た。

 そこに、一人の赤ん坊がいた。

 黒い泥にまみれ、口だけを開けて泣いている。

 顔はない。木札もない。

 四十九人目。生まれたときから、誰にも名をつけられなかった子。

 外の声が、四十八人目の名を呼び終えた。

『――蓮見、弥吉』

 肉の壁はほとんど崩れている。

 それでも赤ん坊だけが残り、泣き声を上げた。

 その声が、喰名様そのものだった。

 名前がない。

 呼ぶことができない。

 呼べないから、返せない。

 赤ん坊の口が大きく裂けた。

 闇が渦を巻き、解放された四十八人の光を再び吸い込み始める。

「朔!」

 トワが叫ぶ。

 朔は赤ん坊の前に膝をついた。

「お前の名前は、わからない」

 赤ん坊の泣き声が強くなる。

「誰が産んだかも、どんな字をつけるはずだったかも知らない」

 筆を持つ手が震えた。

「でも、お前がここにいたことは知ってる」

 朔は赤ん坊の胸へ筆を当てた。

 名前ではない。

 たった一つの言葉を書いた。

『いた』

 赤ん坊の泣き声が止まった。

「名前がなくても、お前は一人だった。四十九分の一じゃない。食い物を欲しがって、怖くて泣いて、誰かに抱かれたかった、一人の子どもだった」

 赤ん坊の顔に、小さな目が浮かんだ。

「忘れない」

 朔は言った。

「だから、もう誰の名前も食うな」

 赤ん坊は朔の指を握った。

 ほんの一瞬、笑った。

 そして朝日のような光になった。

 喰名様の巨体が、内側から裂けた。

五 名を呼ぶ朝

 夜明けの雨代村に、四十九人の子どもの笑い声が降った。

 黒い雨は透明に戻り、空人たちは次々に顔を取り戻した。

 すでに肉体を失っていた者は、家族に一度だけ笑いかけ、山の方へ消えていった。

 朔は神社の石段に倒れていた。

 胸の上には、結良が眠っている。

「朔」

 誰かが彼の肩を揺すった。

 父だった。

 昨日までは存在しないと言い張った妹の顔を見て、声もなく泣いていた。

「結良……」

 父が名前を呼ぶ。

 その一言だけで、五年分の忘却が崩れた。

 運動会で結良を肩車した記憶。熱を出した夜、背負って病院へ走った記憶。いなくなった朝、本当は胸に穴が開いていたのに、穴の理由さえ忘れていた日々。

「ごめん」

 父は何度も言った。

「ごめん、結良。ごめん、朔」

「俺じゃなくて、起きたら本人に言え」

 朔はかすれた声で答えた。

 紬吾は、崩れた鳥居の前に立っていた。

 眼帯の下の空洞から、淡い光が抜けていく。

 光は十二歳ほどの少女の姿になった。

「お父さん」

 紬吾は膝をついた。

「澄香」

「遅いよ」

「すまない」

「うん」

 少女は笑った。

「でも、呼んでくれたから、いい」

 朝日に溶ける娘へ、紬吾は最後まで名前を呼び続けた。

 それから、雨代村は祭りをやめた。

 代わりに毎年七月十三日、四十九人のための灯籠を川へ流すようになった。

 四十八基には判明した名前を。

 最後の一基には、朔が書いた二文字を記す。

『いた』

 村人は自分たちの祖先がしたことを、子どもに語る。

 恥も、罪も、消さない。

 忘れないことを、罰ではなく約束にするために。

 結良が目を覚ましたのは、三日後だった。

 五年前の姿のまま、病院のベッドで大きなあくびをした。

「お兄ちゃん、老けた?」

 第一声がそれだった。

「お前が変わってねえんだよ」

「え。うそ。じゃあ私、まだ九歳?」

「宿題五年分だな」

「もう一回消えようかな」

「ふざけんな」

 結良は笑った。

 左の犬歯がのぞいた。

 そして、朔の服の裾を二回引いた。

「ねえ」

「なんだ」

「私、変な夢見てた」

「どんな」

「赤い合羽を着た私が、ずっとお兄ちゃんを怒ってる夢」

 朔は答えなかった。

 結良の右手首には、見覚えのない赤い糸が巻かれていた。

 糸の結び目が、二文字の形に見えた。

『トワ』

「その名前、覚えてるか」

 結良は首をかしげた。

 少し考えてから、なぜか泣きそうな顔で笑った。

「うん。たぶん」

 退院の日、朔と結良は最終バスに乗った。

 雨代村が山の向こうへ消えていく。

 結良は窓に額をつけ、流れていく白い灯籠を眺めていた。

「お兄ちゃん」

「ん」

「名前って、なくなったらどうなるの」

 朔は少し考えた。

「誰かが呼べば戻る」

「誰も覚えてなかったら?」

「俺が呼ぶ」

「世界中の人を?」

「できるだけ」

「欲張り」

「兄だからな」

 結良は笑い、眠った。

 バスが峠を越える直前。

 誰もいないはずの最後部座席から、濡れた子どもの声がした。

「八代朔」

 朔は振り向かなかった。

 窓の外、朝日の中で、赤い雨合羽の少女が手を振っていた。

 呼ばれたのは、一度だけだった。