『四つの空を喰うもの』
※本作に登場する「アウィナ」は、プエブロ諸文化から着想を得た架空の共同体です。実在するズニ、ホピ、その他の先住民文化・信仰を直接描写したものではありません。
一 空の罠
砂漠では、空が最初の罠になる。
青すぎる空は距離を奪い、白すぎる太陽は時刻を奪う。岩山は手を伸ばせば届きそうに見え、歩けば一日かかる。乾いた大地は何も隠していないようでいて、人間の判断だけを巧妙に埋める。
篝野景虎は、双眼鏡の向こうに浮かぶ台地を見て、依頼を断らなかった自分を早くも罵っていた。
切り立った赤い岩壁の上に、黄土色の集落跡が貼りついている。四角い家々が段々に重なり、屋根と道と広場が一枚の巨大な階段を作っていた。谷底から見れば、それは天へ昇る町というより、空から逃げ遅れた町に見えた。
「烏梯子の台地」
隣でマヤ・サンドヴァルが言った。黒髪を布でまとめ、風に舞う砂をゴーグル越しに睨んでいる。
「祖母は、あそこを町とは呼ばなかった。蓋、と呼んでいたわ」
「何の蓋だ」
「それを確かめに来たんでしょう、トレジャーハンター」
「文化財回収業者だ」
「博物館を馘になった文化財回収業者」
「肩書に経歴を入れるな」
背後で乾いた笑いがした。
依頼人のレナード・ヴォスは、砂漠に似合わない白い麻のスーツを着ていた。五十を越えた鉱山王で、金で買えないものを見ると、値札が見つかるまで眠れない男だった。その後ろには、護衛のクレイ・ブーンが立っている。首ほど太い腕、短く刈った髪、腰には大型拳銃。発掘よりも埋葬に向いた人材である。
「蓋の下には、“夜明けの心臓”がある」
ヴォスは言った。
「黒い石で作られた球体だ。十二年前、ハルバーグ調査隊が発見し、直後に消息を絶った。私は記録を買い取った。君たちは石を持ち帰る。私は報酬を払う。単純な話だ」
トケレの口元が硬くなった。
「アウィナの口承では、黒いものは宝じゃない」
「口承は市場価格を持たない」
「だから生き延びることもある」
景虎は二人の間に立つ風向きを読んだ。険悪さは砂嵐より早く育つ。
「日没まで六時間だ。喧嘩は帰り道にしよう」
彼らは岩壁に残る古い足場穴へ金属杭を打ち、二百メートルの垂直面を登った。途中から人工の窪みが現れた。手のひらほどの段が、岩を縫うように上へ続いている。アウィナの人々が梯子を外したあとも使える、秘密の登路だったのだろう。
最後の縁を越えたとき、景虎は奇妙なことに気づいた。
鳥がいない。
空には風がある。谷には灌木がある。だが、羽音も鳴き声もない。
段状集落の中心には円形の広場があり、その床に黄土、朱、藍、白の四本の帯が描かれていた。色は中心の黒い円を避け、互いに触れずに巡っている。
トケレは膝をつき、指先で色土を確かめた。
「新しい」
「何年前だ」
「少なくとも十二年よりは新しい」
ブーンが拳銃を抜いた。
その瞬間、背後で石が落ちた。
登ってきた岩棚が、音もなく壁の中へ引き込まれていく。続いて広場の四方から石扉がせり上がり、彼らを町の中心に閉じ込めた。
どこかで、機械の回る音がした。
ざらついた男の声が、広場じゅうに響いた。
『ようこそ、レナード』
ヴォスの顔から、初めて血の気が引いた。
『十二年かかったな。君が自分で来るまで』
「ハルバーグ……」
景虎はヴォスを見た。
「死んだ調査隊長と、ずいぶん親しそうだな」
返事の代わりに、広場の中央が割れた。
黒い円の下から、地底へ降りる螺旋階段が現れた。冷たい空気が吹き上がり、土と鉄と、古い井戸の底に似た匂いを運んでくる。
『日没までに四つの部屋を越えろ。君たちが宝を持ち出すに値するなら、出口は開く。値しないなら――この町が、君たちを持ち帰る』
声が途切れた。
ヴォスは拳を握り、すぐにいつもの笑みを作った。
「生存者がいる。好都合だ」
「あなたを名指しした」トケレが言った。「何を隠しているの」
「下へ行けば分かる」
「上に残る選択肢は?」
景虎は閉じた四方の石扉を調べ、首を振った。
「ない。少なくとも、あいつがそう思わせたい間は」
彼は腰のロープを締め直し、暗い階段へ足をかけた。
「宝探しの第一原則だ。罠を作った人間が用意した道を、用意された意味のまま歩くな」
二 水の部屋
螺旋階段は、古い地下礼拝室へ続いていた。
壁は磨かれた土で塗られ、雲、雨、発芽する穀物、手をつなぐ人々が幾何学模様に組まれている。中央には床から突き出た石の円筒があり、その上に錆びた鋼鉄の装置が据え付けられていた。
古いものと新しいものが、傷口を縫い合わせたように同居している。
装置には腕一本を差し込める穴があった。内側には、白い陶片を並べた歯車が見える。壁の反対側には石扉。その上の裸電球が、弱々しく点滅していた。
『第一の部屋。水』
ハルバーグの声が天井から降った。
『砂漠で水を独占する者は、仲間の命を飲む。扉を開きたいなら、一人が腕を差し入れ、骨が止め金になるまで回せ』
ブーンが装置を覗き込み、舌打ちした。
「イカれ野郎の悪趣味だ」
『クレイ・ブーン。君は三人を井戸に沈めた。水が欲しかったからではない。誰かが溺れるのを見たかったからだ』
ブーンの拳銃が天井へ向いた。
「どこにいる!」
『君が最もよく知る場所だ。人の手が届かないところに』
ヴォスが冷たく言った。
「腕を入れろ、ブーン」
護衛が振り返った。
「冗談だろ」
「君の契約には危険手当が含まれている」
「腕一本の値段じゃねえ」
「帰れば三本分払う」
ブーンはヴォスを睨み、やがて拳銃をホルスターへ戻した。左腕を穴へ差し入れ、奥の把手を掴む。
「回せ」
ヴォスが命じた。
把手が半回転したところで、陶器の歯が動いた。
肉を削る音は、思ったより小さかった。
ブーンの叫びは大きかった。
景虎は装置へ飛びついた。腕を抜こうとしても、鋼鉄の爪が肘を固定している。歯車がもう一段進み、血が円筒の側面を伝った。
「止めろ!」
『止めれば扉は閉じたままだ』
景虎は声を無視して壁を見た。
雲。雨。穀物。手をつなぐ人々。
四方の壁に、それぞれ一つずつ、色土で塗られた手形がある。黄土、朱、藍、白。人の胸の高さ。装置よりずっと古い。
「トケレ、あれは何だ」
「四つの家族の印。共同の仕事を始めるとき、同時に触れたと言われている」
「全員、手形へ!」
ヴォスは動かなかった。
「意味があるのか」
「ブーンの腕より高くつくと思うなら、立っていろ」
景虎は黄土の手形へ掌を押し当てた。トケレが藍へ。ブーンは拘束されているため届かない。景虎はヴォスを睨んだ。
「二つ押せ!」
ヴォスが朱へ左手、白へ右手を当てた。
壁の中で、重い石が滑った。
装置の回転が止まる。
四つの手形を結ぶ細い溝から水が流れ、中央の円筒へ集まった。血を洗い、見えない水車を回し、鋼鉄の爪を解除する。
ブーンが腕を引き抜き、床へ崩れた。皮膚は裂けていたが、骨は無事だった。
石扉が開く。
天井の声が、しばらく黙った。
景虎は救急包帯を巻きながら言った。
「古い仕掛けは四人で動かすようにできていた。お前が腕の装置を足した」
『古い仕掛けは、人間を信じすぎていた』
「逆だ。お前は信じられなさすぎた」
『その違いを、最後まで覚えていられるかな』
声が消えた。
トケレは水の溝に触れた。流れはすでに止まり、床の血だけが薄く広がっている。
「祖母の言葉がある。“苦痛を捧げ物と取り違えるな”」
彼女は鋼鉄の装置を見た。
「これはアウィナのものじゃない」
「分かってる」景虎は答えた。「ここを作った人々は、誰かを殺すためじゃなく、誰も一人で開けられないようにした」
ヴォスは開いた扉の向こうを見ていた。
「説教は後だ。日が沈む」
彼だけが、床の血を踏まないよう歩いた。
三 骨の声
次の通路は、町の真下を横切っていた。
壁龕には木と粘土で作られた祭具が並んでいる。鳥の嘴、雲の段、穀物の房、稲妻の折れ線。人の顔を写したものは一つもない。誰かになるための仮面ではなく、人間ではないものを人間の尺度に呼び寄せる形だった。
ブーンの息が荒い。
「休ませろ」
「止血はしてある」ヴォスが言った。「歩け」
「この先でてめえを撃つかもしれん」
「その腕で当てられるなら、報酬を上げよう」
景虎は二人の会話を聞き流し、足元を照らした。
砂の上に、裸足の跡がある。
新しい。
右足だけ。
「止まれ」
全員が足を止める。
闇の奥から、子供の声がした。
「おかあさん」
トケレの肩が震えた。
もう一度。
「おかあさん、くらいよ」
声は英語だった。だが発音の一部が、録音を巻き戻したように歪んでいる。
景虎は懐中電灯を向けた。
通路の先に、小さな人影が立っていた。
いや、人ではない。
子供の背丈に積み上がった骨だった。肋骨が籠のように開き、その隙間を黒い糸が縫っている。頭蓋骨は横向きに据えられ、眼窩から濡れた膜が垂れていた。右足だけが人間の足で、腐敗せず、白く膨らんでいる。
「おかあさん」
頭蓋骨の歯が動かずに、声だけが出た。
ブーンが撃った。
銃声が地下を殴り、骨の塊が砕ける。黒い糸が壁へ飛び散った。
次の瞬間、壁龕の祭具が一斉に震えた。
乾いた木の内側から、何十本もの黒い糸が這い出す。糸は床の血痕へ群がり、吸い、太くなった。濡れた髪の束のようなものが、波となってブーンの脚に絡みつく。
「離せ!」
彼は撃ち続けた。弾丸は土壁を穿つだけだった。
景虎がナイフで糸を切る。刃に触れた部分は縮むが、切断面からさらに細い繊維が生えた。トケレが祭具棚の油皿を蹴り倒し、マッチを投げる。
炎が走った。
黒い糸は甲高い笛のような音を立てて退いた。
だが、一本だけがブーンの包帯の中へ潜り込んでいた。
彼の左腕が膨らむ。
皮膚の下を何かが肩へ向かって走り、鎖骨を越え、首筋へ達した。
「切れ」
ブーンが言った。
「腕を切れ!」
景虎がベルトを肩口へ巻こうとしたとき、ヴォスが一歩退いた。
その目は護衛ではなく、故障した道具を見ていた。
「間に合わない」
「黙れ!」
ブーンが拳銃を向ける。
引き金を引く前に、彼の顎が横へずれた。
口の中から黒い束が溢れ、上顎と下顎を内側から押し開く。首が不自然に伸びた。眼球が同時に白濁する。
そして、ブーンの声で言った。
「帰れば、三本分払う」
ヴォスが初めて叫んだ。
景虎は油皿の炎を上着へ移し、ブーンだったものに投げつけた。黒い繊維が燃え上がり、骨と肉を操る糸が暴れる。人影は壁に何度も頭を打ちつけ、最後には自ら火の中へ身を折った。
煙の向こうで、複数の声が重なった。
「おかあさん」
「離せ」
「三本分払う」
「暗いよ」
景虎たちは走った。
背後で、焼けた骨が四つん這いになって追ってくる音がした。
四 息の部屋
三人が次の石扉を押し開けると、背後の通路が落盤した。
完全な暗闇。
続いて、天井の赤い灯が点いた。
部屋は小さく、円形で、壁に四つの木製の呼吸面が掛けられていた。中央には古い石の柱。柱の周囲には新しい鋼鉄管が巻かれ、圧力計の針がゆっくり下がっている。
扉が閉じた。
空気を吸い出す音が始まる。
『第二の部屋。息』
ハルバーグの声。
『四人のために作られた部屋へ、三人で来た。だが空気は一人分しかない。壁の面を選べ。一つだけが外気につながっている』
ヴォスが最も近い木面を引き剥がし、口へ当てた。
何も起きない。
「どれだ!」
『最も価値ある者が選べばいい』
圧力計が下がる。
景虎は壁の四面を調べた。それぞれ形が違う。鳥、雲、穀物、渦。裏側から細い革管が伸び、壁の穴へ消えている。
トケレが咳き込みながら言った。
「四つは別々じゃない」
「何だって?」
「アウィナの歌では、鳥が雲を呼び、雲が穀物を育て、穀物の殻が渦を描き、渦が鳥を空へ返す」
景虎は四本の革管を引き出した。先端の形が、それぞれ雄と雌に分かれている。
「つなげるんだ」
ヴォスが彼を押し退けた。
「一人分だと言った」
「言ったのはハルバーグだ。作ったのは別の人間だ」
景虎は鳥の管を雲へ、雲を穀物へ、穀物を渦へつないだ。最後に渦の管を鳥へ戻すと、四つの木面が一つの輪になった。
だが空気は来ない。
圧力計は赤域へ入った。
視界の端が暗くなる。
トケレが床へ膝をついた。
「中心……」
彼女は石柱を指した。
柱の根元に、指一本ほどの小さな穴がある。景虎が耳を寄せると、かすかな風音がした。
四本の管を輪にするだけでは足りない。輪の中央へ、もう一本が必要だ。
景虎は自分の水筒から細い飲料管を抜き、輪と石柱の穴をつないだ。
外気が流れ込んだ。
四つの面が同時に低い音を鳴らす。笛の和音だった。
壁の排気口が開き、部屋に風が満ちた。
三人は床に伏し、むさぼるように呼吸した。
ハルバーグは何も言わない。
景虎は息を整え、天井の赤い灯を見上げた。
「一人分の空気じゃない。四つを一つにすれば、全員分になる」
『だが君たちは一人を失った』
「あれはお前の罠と、下にいる化け物のせいだ」
『違う。彼は彼自身の選択で傷つき、血を流し、呼ばれた』
「傷つけた装置を作ったのはお前だ」
短い沈黙。
『君は、責任という宝を他人に持たせるのが上手いな、篝野景虎』
景虎の表情が止まった。
トケレが彼を見る。
『七年前、カンボジア北部。崩落した祠堂。君は石板を回収し、助手を置いて逃げた』
「調べたのか」
『私は君を選んだ』
景虎は答えなかった。
あの日、助手の柴崎は落下した梁に脚を挟まれた。水位が上がっていた。石板を捨てれば梁を持ち上げられたかもしれない。景虎は「助けを呼ぶ」と言い、石板を抱えて外へ出た。戻ったとき、祠堂は水没していた。
誰も彼を罪に問わなかった。
だからこそ、罪は腐らずに残った。
ヴォスが立ち上がった。
「告解は済んだか。扉が開いたぞ」
景虎は彼を見た。
「ハルバーグ調査隊を置き去りにしたのは、あんただな」
ヴォスは上着の埃を払った。
「彼らは契約に違反した。発見物を渡さず、封鎖すべきだと主張した。私は補給を止めた。それだけだ」
「砂漠の台地で?」
「判断したのはハルバーグだ。残ると」
トケレの声が低くなる。
「あなたは最初から、あれが何か知っていた」
「可能性を知っていた」
ヴォスは開いた扉へ向かった。
「未知の生物組織。乾燥状態で数百年、あるいは数千年休眠し、血液に反応して再構成する。医療にも軍事にも使える。文明を変える価値がある」
崩れた通路の向こうから、ブーンの声がした。
「報酬を上げよう」
三人は同時に振り返った。
石の隙間から、黒い糸が一本、静かに伸びていた。
五 蓋の下
最後の通路は下り坂だった。
古い壁画は途中から途絶え、岩そのものが黒く焼けている。土器片や木材はなく、代わりに、ガラス化した石が蝋のように垂れていた。
トケレが懐中電灯を当てる。
「隕石の衝突跡?」
「地下で?」
「落ちたんじゃない。突き上げたのかもしれない」
景虎は冗談だと思いたかった。
やがて通路は、巨大な空洞へ出た。
天井のどこかで、ハルバーグの声がした。
『第三の部屋。記憶。ここでは、持ち帰ろうとしたものが、君たちを覚える』
町の真下に、もう一つの町があった。
だが、人間のための町ではない。
黒い柱が何百本も天井から下がり、床から伸び、互いに肋骨のような橋を架けている。表面は石に見えるが、呼吸するたびわずかに膨らんだ。柱の間には、ハルバーグ調査隊の装備が吊られていた。テント、発電機、録音機、酸素ボンベ。そして、人間。
十一体の遺体が、黒い糸で壁へ縫い留められている。
その中央に、男が座っていた。
年齢は七十前後。頬は落ち、白髪は肩まで伸びている。両脚は膝から先がなく、切断面から黒い根が床へ潜っていた。胸には古いマイクが括りつけられ、指先は配電盤のスイッチに置かれている。
「ようこそ」
エリック・ハルバーグは、生きた声で言った。
ヴォスが拳銃を抜く。
「石はどこだ」
ハルバーグは笑った。
「十二年ぶりの挨拶がそれか」
「私は君を捜索した」
「補給機を引き返させたあとで?」
「石はどこだ」
ハルバーグは空洞の中央を顎で示した。
黒い柱に囲まれた台座の上に、拳ほどの球体が浮いていた。
完全な黒ではない。表面に星空のような光点があり、見る角度によって深さが変わる。球の中に夜空が閉じ込められているのではなく、夜空の向こうから球を覗かれているようだった。
トケレが息を呑む。
「夜明けの心臓……」
「アウィナの名は違う」ハルバーグが言った。「“四つの空を喰うもの”。彼らは崇めなかった。封じたんだ。地上に町を築き、重い土壁と共同の儀式で、何世代も蓋を守った」
「なぜ罠に変えた」景虎が訊いた。
「守り手がいなくなったからだ」
ハルバーグの目に熱が宿った。
「石は人の神経を読む。恐怖を、記憶を、声を学ぶ。だが共同体の中では広がれない。人が互いを見捨てず、痛みを分け、息をつなぐ限り、宿主を一つに絞れない。アウィナはそれを知っていた」
「だから共同で解く仕掛けを作った」
「そうだ。美しい。だが脆い。共同体が消えれば、ただの空室になる」
「だから殺人機械を足した?」
「私は試験を本物にした」
景虎は配電盤の横に並ぶ監視鏡を見た。細い光学管が各部屋へ伸びている。ハルバーグは十二年間、侵入者を見ていた。
「違うな。お前は答えを変えた。誰かを犠牲にしなければ進めないと思わせた」
「それが人間の本性だからだ」
「本性を証明したい奴は、いつも証明しやすい実験を作る」
ハルバーグの笑みが消えた。
ヴォスが台座へ歩き出す。
「議論は終わりだ」
「触るな」ハルバーグが言った。
「君は私をここへ呼んだ」
「君を裁くために呼んだ」
「裁判官が壁に根を張るものか」
ヴォスは球体へ手を伸ばした。
景虎が止めるより早く、彼の指が触れた。
空洞全体が脈打った。
十一体の遺体が同時に顔を上げる。
ハルバーグの胸から黒い根が飛び出し、ヴォスの腕へ突き刺さった。ヴォスは拳銃を連射した。弾丸がハルバーグの胸と喉を破る。
老人は血を吐きながら笑った。
「選んだな、レナード」
黒い球体が溶けた。
液体の夜がヴォスの手を覆い、皮膚の下へ沈む。腕の血管が黒く染まり、肩、首、頬へ広がった。彼は叫びながら球体を振り払おうとしたが、すでに球は存在しなかった。
ハルバーグの身体から根が抜ける。
十二年間彼を生かしていたものが去り、老人の顔が一瞬で乾いた。眼球がくぼみ、皮膚が骨へ張りつく。
最後の息で、彼は景虎に言った。
「日没で、蓋が開く」
空洞の天井から、地鳴りが落ちてきた。
「閉じ方は」
ハルバーグの唇が動いた。
「四つを……中心へ」
そこで彼は死んだ。
ヴォスが立ち上がる。
黒い筋は顔の半分を覆っていた。だが目には理性が残っている。むしろ以前より澄んでいた。
「素晴らしい」
彼は自分の指を眺めた。爪の下から黒い糸が伸び、空中で形を探る。
「記憶がある。彼ら全員の。アウィナの守り手も、ハルバーグの隊員も。これは石ではない。図書館だ」
口元が裂けるほど笑う。
「私が出口になる」
背後の十一体が壁から剥がれ落ちた。
景虎はトケレの手を掴んだ。
「走れ!」
六 四つの扉
黒い町が目覚めていた。
柱が折れ曲がり、橋が腸のように蠢く。吊られていた遺体が落下し、四つん這いで追ってくる。彼らは走りながら、ハルバーグの配電盤から奪った地図を広げた。
出口へ続く線は一本だけ。
だが、その先には「第四室」と記されていた。
景虎とトケレが石扉を抜けると、正方形の広間に出た。四方に扉がある。黄土、朱、藍、白。中央には黒い円。最初の広場と同じ構図だ。
天井の亀裂から夕陽が一本、差し込んでいる。光は赤く、細い。日没まで数分。
石板に古い文字が刻まれていた。
トケレが読む。
「“東の扉は水を求める者へ。南の扉は火を求める者へ。西の扉は実りを求める者へ。北の扉は息を求める者へ”」
「どれが出口だ」
「続きが削られてる」
壁のスピーカーが鳴った。
ハルバーグの録音ではない。
ヴォスの声だった。
『一つ選べ』
四つの扉が開く。
黄土の向こうには水面が光り、朱の向こうには梯子を照らす炎があり、藍の向こうには穀物を満載した貯蔵室、白の向こうには青空が見えた。
『一つだけが本物だ。間違えれば、残りの人生を私の中で過ごす』
背後の通路から、遺体たちの足音が近づく。
トケレは白い扉を見た。
「風を感じる。本物かもしれない」
景虎は床へ膝をついた。
四つの扉から来る風は、すべて同じ温度だった。幻ではない。だが出口とも限らない。
中央の黒い円に触れる。
冷たい。
縁に、四つの小さなくぼみがある。雫、炎、穀粒、渦の形。
「扉じゃない」
「何?」
「四つを選ぶんじゃない。四つを中心へ持ってくる」
ハルバーグの最後の言葉。
四つを、中心へ。
景虎は水筒を振った。ほとんど空だが、底に数滴残っている。雫のくぼみへ垂らした。
トケレがポケットから乾燥トウモロコシを一粒出した。行動食の袋からこぼれたものだ。それを穀粒のくぼみへ置く。
景虎はマッチを擦り、炎のくぼみで燃やした。
最後は渦。
トケレが顔を寄せ、息を吹き込む。
黒い円の下で、何かが外れた。
中央床が沈み、丸い縦穴が現れる。中には縄梯子ではなく、向かい合う二列の足場があった。一人では降りにくい。二人が互いの肩を支え、交互に体重を預ける構造だ。
古い仕掛けは、最後まで一人を想定していなかった。
「先に降りろ」景虎が言った。
「一緒に」
「そういう作りだ」
背後の石扉が破裂した。
ヴォスが入ってくる。
白いスーツは血と黒い粘液に染まり、右腕は肩から先が人の形を失っていた。何本もの細い指が枝分かれし、床を探る。背後には骨の群れ。
「中心か」
彼の口から、ハルバーグ、ブーン、子供、知らない女たちの声が重なった。
「やはり君は役に立つ、篝野景虎」
景虎はトケレを縦穴へ押し込み、自分も続いた。
ヴォスの長い指が伸び、景虎の足首を掴む。
冷たい針が皮膚へ刺さった。
頭の中に、他人の記憶が流れ込む。
暗い地下室で歌う人々。火を囲む家族。乾いた年に水を分ける手。空から落ちてきた黒い光。感染した者を殺さず、町の下へ運び、何世代も見張る人々。
そして、柴崎。
水の中で梁に挟まれ、景虎の背中へ叫ぶ助手。
――石板を捨ててくれ。
景虎は腰の革鞄を見た。
ハルバーグの地図、録音テープ、壁から回収した小さな土板。証拠であり、歴史であり、彼がまた「持ち帰るべきもの」と呼んだ品々。
足首を掴む指が肉へ沈む。
「君は捨てられない」ヴォスが言った。「それが君だ」
景虎は鞄の留め金を外した。
「七年前まではな」
鞄をヴォスの顔へ投げつける。
反射的に、黒い指が獲物を掴んだ。
その一瞬、足首が自由になる。
景虎は縦穴へ落ちた。
トケレが下で彼の腕を掴む。二人は互いを支えながら足場を降りた。
頭上で、ヴォスが鞄を引き裂く。
土板が割れた。
録音テープがほどけ、黒い糸へ絡みつく。
景虎は胸の奥が裂けるのを感じた。
だが足を止めなかった。
七 夜明けの心臓
縦穴の底には、円形の機械室があった。
ただし機械は金属ではない。石の歯車、木の軸、磨かれた雲母板。天井から伸びる四本の柱が、一枚の巨大な円盤を支えている。円盤には太陽を表す放射線が刻まれ、中央に拳ほどの穴が開いていた。
トケレが壁を読む。
「“四つの空が闇に呑まれるとき、地の中心へ朝を通せ”」
「太陽光で焼くのか」
「封じるの。殺せないから」
四本の柱には、広間と同じ色が塗られている。それぞれの根元に回転桿があるが、鋼鉄の鎖で固定されていた。
ハルバーグの改造だ。
鎖は一か所の巻き上げ機へ集まり、そのレバーには文字が刻まれている。
ONE REMAINS BELOW.
一人、下に残れ。
レバーを押さえ続ける者だけが鎖を緩め、もう一人が四本の柱を回せる。日光が通れば、機械室は焼ける。下に残った者は助からない。
ハルバーグが最後に用意した答え。
「私が残る」トケレが言った。
「却下」
「これは私たちの――」
「アウィナの仕掛けじゃない。ハルバーグの答えだ」
景虎は巻き上げ機を調べた。新しい鋼鉄。古い木枠へボルト留めされている。レバーを押すと鎖が緩むが、手を離せばばねで戻る。
上から黒い液が一滴落ちた。
天井の穴に、ヴォスの顔が現れる。
「誰が残る?」
顔の半分はすでに骨だけだった。だが、黒い糸が筋肉の代わりに笑みを作っている。
「それが人間の最も美しい瞬間だ。誰かを選ぶときだ」
景虎は周囲を見た。
石の歯車。木の軸。雲母の反射板。古い構造には、自己犠牲を要求するものが一つもない。
新しい巻き上げ機だけが、一人を必要としている。
「選ばない」
景虎は上着を脱ぎ、レバーへ巻きつけた。だが布では力が足りない。
ヴォスが天井から降り始める。黒い指を壁へ刺し、蜘蛛のように。
トケレが拳銃を拾った。ブーンのものが、縦穴の足場に引っかかっていたのだ。撃つ。弾丸がヴォスの肩を砕くが、黒い糸が穴を縫い閉じる。
「痛みは記憶になる」
ヴォスが複数の声で囁く。
「記憶は私になる」
景虎の目が、ヴォスの腰に留まった。
金属製の試料ケース。黒い生物を運ぶため、ヴォスが用意した強化ケースだ。腰鎖で身体につながれている。
「トケレ、あいつを中央へ誘え」
「どうやって」
「宝を見せる」
「もう持ってないでしょう」
景虎は首から下げていた古い方位磁石を外した。真鍮製。蓋には博物館時代の標本番号が刻まれている。
「黒い石は球じゃなかった」
彼は大声で言った。
「ハルバーグが隠した核は別にある。お前が飲んだのは外皮だ」
ヴォスの動きが止まる。
景虎は方位磁石を握り、黒い円盤の中央穴へ掲げた。雲母の反射で、真鍮の表面が黒く光る。
「本体はこれだ」
「嘘だ」
「なら、なぜ欲しくなる?」
黒い糸が一斉に方位磁石へ向いた。
生物は欲しがっているのではない。ヴォスの欲望を読み、その形を真似ている。
ヴォスは天井から飛び降りた。
トケレが横へ転がる。景虎は方位磁石を巻き上げ機の向こうへ投げた。
ヴォスが追う。
その腰鎖が、巻き上げ機の歯車へ触れた。
景虎は試料ケースを蹴り込み、鎖を歯へ噛ませた。
回転が始まる。
ヴォスの身体がレバーへ引き寄せられ、その重量で押し下げられた。四本の鎖が緩む。
「今だ!」
景虎とトケレは二本ずつ柱へ飛びついた。
回転桿を回す。
石の歯車が、何百年ぶりかの音を立てる。黄土の柱が東へ、朱が南へ、藍が西へ、白が北へ向きを変えた。円盤上の雲母板が連動し、上方の細い光を捕らえる。
だが光は赤い。
夕陽では足りない。
ヴォスが腰鎖を引きちぎろうと暴れる。黒い指が巻き上げ機へ絡み、鋼鉄を曲げる。
「日が沈む!」トケレが叫んだ。
景虎は円盤を見上げた。
刻まれた放射線は太陽ではない。
四方から中央へ集まる線だ。
「朝を通すんじゃない」
彼は気づいた。
「朝を作るんだ」
四本の柱の裏側に、小さな火皿がある。
景虎は残りのマッチを全部擦った。トケレも油の染みた包帯を裂き、火を移す。四つの火皿に炎が灯る。
夕陽の方が何千倍も明るい。それでも仕掛けが求めていたのは強さではない。四方から分け合われ、同時に中心へ届く光だった。
雲母板が火を反射し、光を何度も重ねる。
黄土、朱、藍、白の光が中央へ集まり、一本の白い柱になった。
人工の夜明け。
光がヴォスを貫いた。
黒い糸が絶叫した。
それは声ではなく、今まで奪ったすべての声を同時に吐き出す音だった。子供、ブーン、ハルバーグ、名も知らぬ守り手たち。ヴォスの身体から黒い繊維が剥がれ、光を避けて壁へ逃げる。
だが四本の柱が作る輪から出られない。
古い石床の溝が輝き、光の格子を作った。
生物は中央へ押し戻され、縮み、拳ほどの球になり、さらに豆粒ほどに潰れていく。
ヴォスは人間の顔を取り戻した。
一瞬だけ。
「ケースを……」
彼は掠れた声で言った。
「私のものだ」
景虎は巻き上げ機に絡んだ試料ケースを見た。
「最後まで、それか」
白い光が閉じた。
ヴォスと黒い球は、円盤中央の穴へ落ちた。
石の蓋が閉まる。
機械室全体が沈み始めた。
「走るぞ!」
二人は反対側に開いた細い通路へ飛び込んだ。
八 空っぽの鞄
通路は地上へ向かっていた。
背後から崩落が追ってくる。土煙が足首を噛み、石片が肩を打つ。景虎とトケレは手を離さず、狭い斜面を這い上がった。
最後の土壁を突き破ると、夜の砂漠へ転がり出た。
そこは台地の北側、崖の中腹にある小さな棚だった。
町の上では、四本の光が空へ伸びていた。黄、赤、青、白。やがて光は中央へ傾き、一本の白い柱になる。地鳴りとともに段状集落の中心部がゆっくり沈み、土と石が巨大な蓋の形に噛み合った。
静寂。
その直後、遠くで雷が鳴った。
雲一つなかった空に、黒い雲が集まっている。
雨が降り始めた。
最初は大粒が一つ、二つ。やがて砂漠じゅうを叩く豪雨になった。乾いた谷が数分で濁流へ変わり、烏梯子の台地は水に囲まれた島になった。
景虎とトケレは岩棚の窪みで夜を越した。
朝、雨は止んでいた。
台地の上には鳥が戻っていた。小さな黒い影が、沈んだ広場の上を何度も旋回している。
救助隊が来たのは昼過ぎだった。
ヴォスの会社は、民間調査隊の遭難と地盤崩落を発表した。ハルバーグ調査隊の遺体については、一言も触れなかった。黒い生物の話を信じる者はいなかったし、信じさせる証拠もなかった。
景虎が持ち出した鞄は、地下に残った。
地図も、録音も、土板も。
彼は何も持ち帰れなかった。
三週間後、トケレは地域資料館の裏庭で景虎にコーヒーを渡した。周囲では、アウィナの集落跡を共同管理区域へ戻すための会議が続いていた。ヴォス社の採掘権は凍結され、台地への立ち入りも禁止された。
「報酬、出なかったでしょう」
「依頼人が地面の下だからな」
「後悔してる?」
景虎はしばらく考えた。
「方位磁石は惜しい」
「あれ、偽物の宝にしたやつ?」
「博物館を馘になった日に盗んだ」
トケレが眉を上げる。
「やっぱり泥棒じゃない」
「借りていただけだ。返却先がなくなった」
彼女は笑った。
その笑いが消える前に、景虎はポケットから一枚のものを出した。
薄い磁気テープの切れ端。
縦穴へ落ちる直前、鞄が裂けたときに上着へ絡みついたものだ。ほんの十センチ。録音内容は不明で、再生すれば崩れるかもしれない。
「持ち帰ってるじゃない」
「これは宝じゃない。証言だ」
「同じことよ。扱い方を間違えれば」
景虎はテープを彼女へ渡した。
「なら、預ける」
トケレは受け取らず、彼の掌を閉じさせた。
「一人で持つな、という話だったでしょう」
二人は資料館へ入り、保存担当者を呼び、テープを三人の前で封印袋に収めた。
後日、修復された音声には、ハルバーグの告白も、ヴォスの命令も入っていなかった。
聞こえたのは、地下で歌う人々の声だった。
古いアウィナ語を知る者は少なく、歌のすべては訳せなかった。ただ、繰り返される一節だけを、トケレはこう訳した。
――空は四つに分かれても、朝は分けられない。
景虎はそれを手帳へ書き写し、次の頁に、七年前に死んだ柴崎の名を書いた。
それから長いあいだ、何も書かなかった。
窓の外では、夕陽が町を赤く染めていた。
彼の足元には、いつも使っていた革鞄の代わりに、新しい空の鞄が置かれている。
その夜、篝野景虎は初めて、空っぽの鞄がこれほど重いことを知った。
(了)