『因果鍋ナベキチと七福地下街の夜明け炒飯』
一 深夜零時の厨房忍者
包丁がまな板を叩く音には、嘘がない。
トン、トン、トトトン。
七福地下街の最奥にある大衆食堂「まんぷく屋」で、湯島タマキは玉ねぎを刻んでいた。時刻は午前零時三分。十三歳が包丁を握るには遅すぎる時間だったが、店の立ち退き期限を数えるには早すぎる時間でもあった。
壁には、九頭龍フーズから届いた銀色の通告書が貼られている。
――明日の「メトロ・キッチン・クラッシュ」にて地元代表が敗北した場合、七福地下街は完全自動食堂区画へ再開発される。
要するに、負ければ店は消える。
「消えるなら消えるで、片づけが楽かもね」
タマキは誰にともなく言った。強がりだった。玉ねぎのせいではない涙が出そうになり、さらに細かく刻んだ。
そのとき、閉めたはずのシャッターが内側へ膨らんだ。
ガン。
もう一度。
ガガン。
三度目で、鋼鉄のシャッターが紙のように裂けた。
黒い装甲をまとった三人の影が、煙とともに店内へ滑り込んでくる。顔は鏡面の面頬で覆われ、背には包丁を束ねた異様な鞘。胸元には九つの蛇頭を組み合わせた企業紋章が光っていた。
「第九号因果調理器を引き渡せ」
「注文なら食券を買って」
「抵抗は調理工程に含まれない」
「じゃあ、閉店後です」
タマキは玉ねぎをひとつ投げた。
先頭の影が指を振る。刃が一閃し、玉ねぎは空中で八等分になった。切り口がそろいすぎて、床へ落ちても崩れない。
「厨房忍者……」
地下街の噂でしか聞いたことがなかった。巨大食品企業が、レシピ盗難、料理人の引き抜き、競合店の“衛生的消去”に使う非公認の実働部隊。笑い話だと思っていた。笑っている場合ではなかった。
三人が散開する。
一人は冷蔵庫へ。一人は食器棚へ。最後の一人は、祖母が粗大ごみ置き場から拾ってきた、へこんだ銅色の炊飯器へ向かった。
「それ、壊れてるよ」
忍者の手が炊飯器の蓋に触れた瞬間、炊飯器がしゃべった。
「壊れているのは貴公らの献立倫理である」
蓋が跳ね上がった。
内部から六本の細い脚が飛び出し、炊飯器は蟹のように卓上へ立った。側面の引き出しが開き、銀色のおたまが射出される。
「局所無重力おたま、起動」
ぽこん、と間の抜けた音がした。
次の瞬間、厨房忍者三人が天井へ激突した。
鍋、皿、刻んだ玉ねぎ、タマキの前髪まで、ふわりと宙へ浮く。タマキは作業台の縁をつかみ、片手で黒い中華鍋を引き寄せた。
「そこの若き調理者! わたしの腹部右側、青い取っ手を引け!」
「青いの三本あるけど!」
「未来の家庭用品に色覚配慮が足りなかったことを、いま謝罪する! 真ん中だ!」
タマキが取っ手を引くと、炊飯器の腹から二本の箸が飛び出した。
「食感交換箸。挟んだ二つの硬さを入れ替える!」
「説明が雑!」
天井に張りついた忍者の一人が、指先から鋼線を放った。タマキは中華鍋で受ける。甲高い音。火花が散った。
彼女は箸で、床に浮かぶ完熟トマトと、忍者の胸当てを同時につまんだ。
ぱちん。
トマトが石のように硬くなり、忍者の装甲が熟れた果実のようにへこんだ。
「なにっ」
タマキは硬化トマトを中華鍋で打った。
カァン!
赤い弾丸が飛び、忍者の面頬を直撃する。面頬は無事だったが、首が九十度近く回った。忍者は無言で天井から落ち、客席のソファへ埋まった。
残る二人が同時に跳ぶ。
炊飯器が叫ぶ。
「重力、戻す!」
「先に言って!」
すべてが落ちた。
皿が割れ、鍋が鳴り、玉ねぎが降り注ぐ。タマキは中華鍋を傘にした。忍者たちは着地したが、床一面の玉ねぎで足を滑らせ、見事な開脚を披露した。
タマキは一人の足首をおたまで払い、もう一人の背へ小麦粉の袋を叩きつけた。白煙が爆発する。
「撤退」
短い命令が飛んだ。
三人は煙幕の中へ消えた。破れたシャッターの向こうから、最後の声だけが落ちてくる。
「明日の競技場で回収する。黒峰ゼン総料理官の未来に、異物は不要だ」
静寂が戻った。
炊飯器は六本脚で作業台の中央へ歩き、偉そうに一回転した。
「危機は去った。まず、わたしを炊飯器と呼んだ無礼について話し合おう」
「炊飯できるの?」
「できない」
「じゃあ何」
「西暦二一八八年製、食卓文明保全端末、第九号因果調理器。個体名ナベキチ」
「炊飯器じゃん」
「断固として違う。なお、保温はできる」
店の奥で、祖母のキヨがいびきをかいた。
タマキは壊れたシャッター、天井にめり込んだ玉ねぎ、石になったトマトを見回した。
「未来って、弁償してくれる?」
「未来はたいてい、請求書だけを過去へ送る」
二 明日の味は登録済み
ナベキチの説明は、長く、偉そうで、ところどころ電池切れで止まった。
二一八八年、人類の食事は「万能美味指数」によって完全管理されている。年齢、体調、遺伝子、購買履歴、失恋回数まで計算し、誰にとっても不快でない味が一秒で生成される。栄養は完璧。満足度も九十九・八パーセント。
しかし、世界中の食卓から、言い争いも、好物の奪い合いも、焦げた失敗作も消えた。
誰も新しい料理を作らなくなった。
「すべてが美味なら、すべてが同じだ」とナベキチは言った。「味覚単一化災害。その起点が、明日のメトロ・キッチン・クラッシュで黒峰ゼンが発表する“嗜好演算香辛子”なのだ」
「じゃあ、その香辛子を壊せば?」
「歴史改変安全規約により、未来機器が過去の人物または調味料を直接破壊することは禁止されている」
「さっき忍者を天井にぶつけたよね」
「あれは室内環境の一時的再配置である」
「便利な規約だね」
「ゆえに、過去の料理人が料理で勝たねばならない」
ナベキチの蓋が、くるりとタマキへ向く。
「湯島タマキ。貴公が出場せよ」
「やだ」
「即答!」
「店を継ぐ気ないし。料理人にもならない。高校は地下街の外へ行く。その先は、もっと遠く」
「店が消えてもよいのか」
タマキは返事をしなかった。
厨房の奥には、何十年も火に焼かれて黒光りする中華鍋が吊られていた。祖母のキヨが若いころから使っている鍋だ。母も使った。母は五年前、海外の厨房へ行ったきり帰っていない。
タマキにとって料理は、誰かをつなぎ止めるものではなかった。
むしろ、遠くへ行くための切符に見えた。
「出場者はおばあちゃんで登録してる」
「キヨ殿の右手首は腱鞘炎。高出力の鍋振りは不可能」
「なんで知ってるの」
「未来に医療記録が残っている」
「個人情報!」
「未来では個人情報も万能美味指数に混ぜられる」
「最悪だな未来」
奥の引き戸が開いた。
キヨが寝巻き姿で立っていた。小柄な体、白髪を後ろで丸め、右手首には湿布。騒ぎを全部聞いていた顔だった。
「出な、タマキ」
「起きてたの」
「忍者が天井に刺さって寝てられるほど、年寄りは鈍くないよ」
「でも」
「店を守れとは言わない。あんたが外へ行きたいなら行けばいい。ただし、逃げるのと出ていくのは違う。明日、負けてから出ていくんじゃ、背中にずっと負けた店を背負うことになる」
キヨは黒い中華鍋を外し、タマキへ差し出した。
「これは“黒月”。あたしの鍋だ。あんたの母親も、一度だけ勝手に持ち出して、底をへこませて帰ってきた」
「一度だけ?」
「三十七回だね」
「一度じゃない」
「料理人の申告は、だいたい盛りつけてある」
タマキは鍋を受け取った。重い。だが、手になじんだ。
ナベキチが満足げに脚を鳴らす。
「よろしい。では勝利のため、未来調理器具を惜しみなく――」
「使わない」
「何?」
「さっきの箸は使う。面白いから。でも、未来の道具だけで勝ったら、その未来と同じでしょ」
ナベキチは三秒黙った。
「十三歳にして、わたしの存在意義を論破するのはやめてもらいたい」
「手伝って。料理は、あたしが作る」
三 七つの湯気を集めろ
競技の題目は、朝六時に発表された。
――一皿で、この都市を目覚めさせよ。
「抽象的すぎる!」とタマキは叫んだ。
「料理大会の題目は、具体的にすると仕入れ担当から苦情が来る」とナベキチが答えた。
残り十二時間。
タマキは、まんぷく屋の定番である炒飯を選んだ。
冷や飯、卵、ねぎ、塩、胡椒。ごまかしの利かない料理だ。キヨの炒飯は、口に入れた瞬間こそ素朴だが、噛むほど米の甘みと鍋の香りが立つ。
だが、黒峰ゼンが未来の香辛子を持ち出す場で、普通の炒飯では勝てない。
「未来道具、貸して」
「先ほど使わないと」
「“だけで”勝たないと言ったの。道具に罪はない」
「この柔軟な倫理観、料理人として大成する兆候である」
ナベキチの腹から、眼鏡が出た。
「香り字幕眼鏡。匂いを言葉として視認できる」
タマキが掛けると、厨房の空気に文字が浮かんだ。
冷や飯からは〈昨日の夕方〉。
醤油差しからは〈蓋を閉め忘れた〉。
冷蔵庫からは〈謝罪を要求する〉。
「冷蔵庫が怒ってる」
「三日前の餃子を放置したためである」
「おばあちゃん!」
「聞こえないねえ」
試作が始まった。
一皿目。卵を先に炒め、米を投入。火力は十分。だが字幕には〈勝ちたい〉〈負けたくない〉〈店を取られたくない〉が濃く浮かび、味は舌へ殴りかかるように塩辛かった。
二皿目。食感交換箸で米の外側を煎餅のように硬くし、内側を粥のように柔らかくした。理論上は完璧な対比のはずが、噛んだナベキチの蓋が吹き飛んだ。
「口腔内で地殻変動が起きた!」
三皿目。三秒発酵瓶で醤油を熟成させた。瓶を開けると、醤油が老人の声で「最近の若い豆は」と説教を始めたため、封印した。
四皿目。余熱前借りコンロで、明日の火力を借りた。
炎が天井まで上がり、シャッター修理に来た業者が帰った。
「だめだ」
タマキは床へ座り込んだ。
香り字幕眼鏡の向こうで、どの皿にも同じ文字が浮いている。
〈自分のことばかり〉。
キヨが皿をひと口食べた。
「腕は悪くない。耳もいい。米が跳ねる音で水分を見てる。けど、誰を起こしたい炒飯なのさ」
「誰って、審査員」
「顔も知らない相手に、目覚めろって怒鳴ってどうする」
そのとき、店先からパンの匂いが流れ込んだ。
香り字幕眼鏡に、やわらかな文字が浮かぶ。
〈朝六時四十分。眠い子に持たせる〉。
向かいのパン屋「麦星堂」の主人、ムギコが、焼きたての食パンを並べていた。
タマキは立ち上がった。
「地下街を起こす味……」
七福地下街には、七つの通りがある。パン屋、魚屋、焼き鳥屋、漬物屋、喫茶店、屋上菜園、そして、まんぷく屋。
毎朝、最初に漂う匂いも七つ。
「集めよう」とタマキは言った。「この街の、朝いちばんの湯気を」
ナベキチが腹から七本の小瓶を出す。
「香気蓄音瓶。匂いと、その場で発された言葉を保存できる」
「そういう便利なの、もっと早く出して」
「道具は物語上、必要な時点で出すのが未来の礼儀である」
最初は麦星堂。
ムギコは鶏皮を焼いて取った油を、小さな壺に入れてくれた。パンの艶出しに使うため、毎朝少量だけ作るという。
「炒飯なら、バターよりこっち。米が軽くなるよ」
瓶には、焼けるパンの香りと、ムギコの声が入った。
次は魚屋「青波」。
主人のゲン爺は、頭と腹を丁寧に取った煮干しを渡した。
「苦みを嫌って全部取るなよ。朝は少し苦いくらいで目が覚める」
三つ目、焼き鳥屋「鳥々」。
炭で真っ黒に焼いた長ねぎの外皮を、店主の双子が押しつけてきた。
「捨てるところじゃないの?」
「中の甘いとこだけ使え。焦げは香りの玄関だ」
四つ目、漬物屋「土星堂」。
赤じそと梅酢に漬けた玉ねぎ。店番の老婆が笑う。
「酸っぱいのは、眠気にも未練にも効くよ」
五つ目、喫茶店「カーテンコール」。
焙煎に失敗して焦がしたコーヒー豆を、粉にしてひとつまみ。
「入れすぎれば地獄。足りなければ気づかれない。その境目が大人の味さ」
六つ目、地下街の屋上菜園。
小学生のソラが育てた青じそと、小さな青唐辛子。
「辛くないやつ選んだ」とソラは胸を張った。
タマキがひとかじりすると、頭頂部から火が出そうになった。
「嘘つき!」
「ぼくには辛くない」
「舌がどうなってるの!」
最後は、まんぷく屋。
キヨは何も渡さなかった。
「うちの味は、あんたが決めな」
七本目の瓶だけが空だった。
タマキは黒月を見つめた。
外へ出たい自分。店が消えるのは嫌な自分。母を待っているわけではないと言いながら、入口の鈴が鳴るたび顔を上げる自分。
どれも、まだ料理の匂いにはならなかった。
ナベキチが静かに言った。
「空の器は欠陥ではない。未来を入れる場所だ」
「たまに、いいこと言うね」
「たまに、は不要である」
その瞬間、屋上の給水塔が爆発した。
四 ネオン屋上追撃戦
水煙の向こうから、黒い人影が十人、降ってきた。
厨房忍者の増援だ。
先頭の忍者が、七本の香気蓄音瓶を収めた箱を奪う。背中の噴射器が青く光り、隣のビルへ跳んだ。
「返せ!」
タマキは黒月を背負い、非常階段を駆け上がった。ナベキチが六本脚で追うが、遅い。
「待て! わたしは階段の規格と相性が悪い!」
「未来で足を長くしといて!」
「家庭用品に脚力を求めるな!」
タマキは屋上の縁を蹴った。
下には、朝の仕込みを始めた地下街の排気口。白い湯気が柱になって上がっている。彼女は黒月を両手で掲げ、湯気を受けた。
中華鍋が帆になる。
タマキの体が、隣の屋上へふわりと運ばれた。
「鍋は飛行器具ではなぁい!」
背後でナベキチが叫び、遅れて排気口から射出された。六本脚をばたつかせながら、タマキの肩へ激突する。
厨房忍者が振り向いた。
「追跡者を処理する」
包丁が飛ぶ。
タマキは黒月を盾にした。三本が弾かれ、一本が鍋のへこみに刺さる。
「お母さんのへこみ、初めて役に立った!」
前方の忍者が箱を抱えたまま、広告ホログラムの足場へ跳ぶ。巨大な合成肉の映像が宙に浮かび、その表面を走っていく。
タマキも飛び乗った。
足元で、十メートルのハンバーグが笑顔を作る。油の照りは映像なのに、広告用の匂いだけは本物だ。香り字幕眼鏡に〈購買せよ〉〈購買せよ〉〈購買せよ〉が洪水のように流れた。
「趣味の悪い味!」
忍者が振り返り、腰から二本の電熱包丁を抜いた。
斬撃が赤い軌跡を描く。
タマキは黒月で受け、回転した。鍋底で一撃。忍者はかわす。二撃。刃が鍋の縁を削る。三撃目、忍者の足が広告ハンバーグへ沈んだ。
映像の更新が一瞬遅れたのだ。
タマキはその間を逃さない。
「ナベキチ、食感交換箸!」
「人間と映像の硬さは交換できない!」
「じゃあ、あの箱とこいつの装甲!」
「箱が柔らかくなるぞ!」
「中身だけ取る!」
箸が飛んだ。
タマキは空中でつかみ、忍者の胸当てと箱を挟む。
ぱちん。
箱が布のようにたわみ、装甲が薄い木箱の硬さになった。タマキは黒月を横薙ぎに振る。
ゴォン!
忍者が広告の笑顔を突き破って飛んだ。
タマキは柔らかくなった箱へ手を突っ込み、瓶をつかむ。
六本。
「一本足りない!」
最後の一本――麦星堂の鶏油と朝の声を入れた瓶――は、別の忍者の手にあった。
その忍者は屋上の端に立ち、瓶を高く掲げた。
「黒峰総料理官より伝言。記憶は味の不純物である」
「返して」
「好みは争いを生む。失敗は食材を無駄にする。個々の記憶を除き、全員へ最適な味を配る。それが食の平等だ」
「それ、あんたの言葉?」
忍者は黙った。
「言わされてる味は、すぐ分かる。包丁の音がつまらないから」
タマキは踏み込んだ。
忍者は瓶を足元へ叩きつけた。
ぱりん。
鶏油が屋上へ散り、瓶に入っていたムギコの声が、朝風の中へほどける。
――眠い子に持たせるんだよ。
タマキの拳が止まった。
忍者はその隙に煙幕を放ち、消えた。
割れた瓶のそばで、油が朝日に光っていた。
「一つ、失った」とナベキチが言う。
「違う」
タマキは指で油をすくい、舐めた。香ばしい鶏皮の匂い、その奥に、焼きたてのパンを紙袋へ詰めるムギコの手の動きまで思い出せた。
「入った。ここに」
自分の胸を指す。
ナベキチは蓋を少し開け、また閉じた。
「非効率的な記憶媒体である」
「未来の機械より、壊れにくいよ」
「それは、これから証明せよ」
競技開始まで、あと三時間だった。
五 メトロ・キッチン・クラッシュ
メトロ・フードドームは、旧地下鉄の巨大操車場を改造した競技場だった。
三万人の観客席。中央には二つの厨房。上空には食材搬送ドローン、実況用カメラ、消火用の泡噴射砲。床の下を、廃熱再利用の炎が走っている。
東厨房に、タマキとナベキチ。
西厨房に、九頭龍フーズ最高総料理官、黒峰ゼン。
ゼンは白い調理衣の上から黒い外骨格を装着していた。背中から四本の機械腕が伸び、それぞれ包丁、杓子、香辛料筒、温度計を持つ。人間の両腕と合わせて六本。顔の半分は銀色の味覚分析面で覆われている。
彼が一歩出るだけで、観客席が静まった。
「料理に物語は不要だ」
ゼンの声がドームへ響く。
「空腹、栄養、快感。それらを正確に満たせばよい。母の味、故郷の味、思い出の味――すべて、再現可能な神経反応にすぎない」
機械腕が一本、透明な筒を掲げた。
中で、黒銀色の粒子が渦巻いている。
「嗜好演算香辛子。食べる者の生体信号を読み、その者が最も欲する味へ変化する。嫌いな者はいない。失敗もない。これが未来だ」
「その未来から、苦情を言いに来た炊飯器がいるよ」
「炊飯器ではない!」
ナベキチの訂正だけが、きれいにドームへ反響した。
審査員は三名。
世界料理批評家の舌代実千留。
都市衛生判定AI、K-8。
そして、市民代表として抽選された、屋上菜園のソラ。
「なんであんたがいるの!」
「応募したら当たった!」
「辛さの基準がおかしい審査員!」
開始の鐘が鳴る。
ゼンの六本腕が動いた。
牛、豚、鶏、海老、豆腐、香味野菜。すべてが空中で正確な立方体に切り分けられ、六つの鍋へ同時に落ちる。炎が青、白、紫と変化し、香辛子の粒子が螺旋を描いた。
速い。
だが、速さより恐ろしいのは、音だった。
一つの無駄もない。包丁、油、鍋、食材。そのすべてが軍隊の行進のように同じ拍子を刻む。
タマキは目を閉じた。
「びびったか」とソラが遠くから叫ぶ。
「聞いてるの!」
彼女は冷や飯を指でほぐした。
米は昨夜から網に広げ、表面だけ乾かしてある。内側には水分が残る。卵は全卵と卵黄に分けた。煮干しは頭を取り、腹の苦みを半分だけ残して粉にした。焦がしねぎの内側、梅酢玉ねぎ、青じそ、青唐辛子、コーヒー粉。
黒月を熱する。
鍋肌が変わる音を聞く。低い金属音が、やがて薄い鈴のような響きへ変わる。
「今」
鶏油。
割れた瓶の分は、ムギコがもう一度作ってくれた。けれど、タマキは香気蓄音瓶へ入れなかった。自分で匂いを覚えるためだ。
煮干し粉を入れる。
油の中で、海の匂いが開く。
卵白、次に米。黒月を振る。米粒が跳ねる音は、まだ重い。焦らない。鍋底へ広げ、水分を飛ばす。
「火力不足」とナベキチが言う。「余熱前借りコンロを使え。明日の熱を十二秒――」
「借りない」
「この局面で意地を張るな!」
「明日の朝を作るのに、明日の火を使い切ったら意味ないでしょ」
タマキは足元の廃熱弁を蹴った。
大会設備の熱風が立ち上がる。規定上、厨房内の設備はすべて使用可能だ。黒月を傾け、風を鍋底へ吸わせる。
炎が伸びた。
「それは本来、足元暖房用である!」
「温かいなら火!」
米が軽くなる。
ぱら、ぱら、ぱら。
音が雨から砂へ変わった。
卵黄を回しかける。米粒の一つ一つへ薄い膜ができ、金色に光る。焦がしねぎの甘い芯、細かく刻んだ梅酢玉ねぎ。青唐辛子は種を抜き、ほんの少し。
観客席に香りが届き始めた。
そのとき、照明が消えた。
非常灯が赤く点灯する。
上空の食材ドローンが一斉に向きを変え、タマキの厨房へ急降下した。機体の腹が開き、黒装束の厨房忍者が飛び出す。
「競技妨害!」と実況が叫ぶ。
審判AIが即答する。
「規約第八十一条。食材を直接汚染しない範囲の企業間工作は、演出として許容」
「そんな規約、消せ!」とタマキが怒鳴った。
「改訂申請は大会終了後に受理」
五人の忍者が包丁を構える。
タマキは鍋を振り続ける。止めれば米が蒸れる。逃げれば焦げる。
「ナベキチ!」
「承知!」
ナベキチの腹が開き、白い筒が飛び出した。
「湯気分身器!」
厨房の蒸気が集まり、タマキの姿をした白い分身が二十体現れる。全員が中華鍋を振っていた。
忍者が混乱する。
一体を斬る。湯気。
二体目。湯気。
三体目は、なぜかキヨの姿になり、忍者の頬を平手打ちした。
「投影データに祖母が混ざった!」
「教育効果を優先した!」
タマキは本体のまま、鍋を振る。
忍者の一人が香気蓄音瓶の箱へ迫る。
ナベキチが体当たりした。小さな銅色の胴体と、黒い装甲がぶつかる。忍者はよろめいたが、別の一人が電熱包丁を振り下ろす。
刃が、ナベキチの蓋を貫いた。
「ナベキチ!」
火花が散る。
六本脚のうち三本が止まった。それでもナベキチは忍者の足へしがみつく。
「鍋を……止めるな!」
タマキは歯を食いしばった。
黒月を振る。
米が跳ぶ。
忍者が迫る。
タマキは左手で卵の殻を投げた。忍者が刃で払う。その一瞬、足元へ鶏油を落とす。滑った忍者の背を、鍋の柄で打つ。
別の忍者が背後から刃を突き出す。
タマキはしゃがむ。刃が頭上を通る。黒月を炎へ置いたまま、食感交換箸で忍者の靴と、茹で上がった豆腐を挟む。
ぱちん。
靴底が豆腐の柔らかさになった。
忍者の足が床へ沈む。
「料理をなめるな!」
「その台詞の用法は正しいのか!」とナベキチが火花を散らしながら突っ込んだ。
タマキは最後の忍者を、湯気分身ごと黒月の風圧で吹き飛ばした。
照明が戻る。
西厨房では、ゼンの料理が完成していた。
巨大な白磁の鉢に、赤黒い麻婆豆腐。表面を銀色の香辛子が星のように流れている。
「全人類最適麻婆――《無争の宴》」
審査員の前へ運ばれる。
舌代実千留がひと口食べた。
目を見開き、次に、涙を流した。
「これは……亡き父が、雪の日に作った豆腐煮……」
K-8の表示板に、解析不能の記号が走る。
「幼年学習期間に入力された、初期充電施設の電解液風味を検出。快適度、最大」
ソラは夢見るように笑った。
「お母さんのカレーだ。今日、帰ってくる前の」
観客席へ、麻婆の香りが広がる。
三万人が一斉に、自分だけの懐かしい匂いを感じた。
泣く者。笑う者。空中へ手を伸ばす者。
だが、誰も隣の人を見ていない。
全員が、自分の記憶の中へ閉じ込められていた。
「投票を開始する」とゼンが言った。「全員が最も欲する味。反対票は存在しない」
ナベキチの片目に当たる表示灯が、弱く点滅した。
「嗜好演算香辛子が、換気系統へ接続されている。このままでは、食べていない者まで味覚誘導を受ける」
「止められる?」
「未来機器は、香辛子を直接破壊できない」
「規約、ほんと役に立たないね」
「ただし、別の料理の香りを拡散することはできる」
ナベキチは、七本の香気蓄音瓶を入れるはずだった腹部を開いた。
六本しかない。
「足りない」とタマキは言った。
「空の七本目へ、貴公の香りを入れよ」
「まだ決まってない」
「料理は、完成してから意味が決まるのではない。誰かへ差し出した瞬間に、意味を持つ」
ナベキチの声が途切れた。
「わたしの時代では、誰も差し出さない。端末が各自へ配給する。だから……わたしは一度でよい。人間が、同じ鍋を囲むところを見たかった」
タマキは黒月を見る。
炒飯は九割までできている。
ここへ、何を足すか。
勝つための刺激ではない。
懐かしさへ閉じ込める記憶でもない。
この街に残ると誓う味でもない。
彼女は、空の七本目の瓶を手に取った。
「おばあちゃん」
観客席の最前列にいるキヨを見る。
「明日、店が残っても、あたしはいつか外へ行く」
キヨは鼻を鳴らした。
「知ってるよ」
「でも、帰ってきたら食べるものを残して」
「自分で作りな」
「じゃあ、作り方を忘れないで」
「そっちが先に忘れるんじゃないよ」
タマキは笑った。
瓶の中へ、声と匂いが入った。
〈行ってくる〉。
〈行ってらっしゃい〉。
〈帰った〉。
〈おかえり〉。
どれか一つではない。出ていく匂いと、戻る匂い。その間にある、まだ知らない時間の匂い。
七本目が満ちた。
「料理名、決まった」
タマキは鍋へ、コーヒー粉をほんのひとつまみ落とす。焦げの苦みが、煮干しと鶏油の香ばしさをつなぐ。火を止め、刻んだ青じそを混ぜる。
黄金色の炒飯を、深い丼へ盛った。
底には、強火で焼いた薄いおこげ。
中央には、ふわりとした米。
上には梅酢玉ねぎと焦がしねぎ。
そして別の小鍋で、煮干しと昆布の澄んだ出汁を沸かす。
「七福・夜明け返し炒飯」
最初は炒飯として食べる。
半分で、熱い出汁を注ぐ。
ぱらりとした米はほどけ、鍋底のおこげはゆっくり軟らかくなる。油の香りが湯気へ上がり、梅の酸味が出汁を締める。一つの器の中で、夜の残りものが朝の食事へ変わる。
「ナベキチ、七本とも使って」
「了解」
ナベキチが瓶を腹へ収めた。
蓋の亀裂から、激しい光が漏れる。
「香気拡散。出力上限を解除」
「壊れるよ」
「家庭用品は、使われて壊れるのが本懐である」
「炊飯器じゃないんでしょ」
「最後まで訂正させるな!」
七本の湯気が、ドーム天井へ噴き上がった。
焼きたてのパン。
朝の海。
炭火のねぎ。
梅酢。
焦がした豆。
青じそ。
そして、行ってきますと、おかえり。
嗜好演算香辛子の甘い幻が揺らぐ。
観客たちが、少しずつ隣を見始めた。
「それ、何の匂い?」
「うちの店のねぎだ」
「梅、酸っぱそう」
「腹減ったな」
「一口くれよ」
記憶の中へ閉じていた三万人が、現実の空腹を思い出す。
タマキの炒飯が審査員へ届いた。
舌代実千留は、まずそのままひと口。
米の一粒一粒は軽い。卵黄の甘み。鶏油の香ばしさ。煮干しの苦みが一瞬だけ舌を刺し、梅酢が切る。コーヒーは味として見つからない。ただ、焦げた鍋の奥行きだけを残す。
二口目。
実千留は出汁を注いだ。
湯気が立つ。
炒飯がほどける。おこげは中心を残し、外側から出汁を吸う。噛むたび、ぱり、ふわ、とろ、が順番に来る。
「完成した味ではない……」
実千留が呟いた。
「食べている途中で、次の料理になる」
K-8の表示板が激しく点滅する。
「評価値の固定不能。摂食時刻により食感が変動。個体差により梅酢の知覚順序が変化。統一スコア算出――不能」
ソラは三口で半分食べ、出汁を全部注いだ。
「うまい!」
「感想が雑!」とタマキ。
「でも、ぼくの青唐辛子、もっと入れてよかった」
「審査員失格!」
黒峰ゼンが無言で、タマキの丼を取った。
ひと口。
彼の銀色の分析面に、無数の数値が流れる。
二口。
数値が止まる。
三口目で出汁を注ぐ。
ゼンの六本の腕が、すべて静止した。
「これは、誰にとって最適な味だ」
「知らない」
「設計対象を答えろ」
「今日ここにいる人。明日ここにいない人。帰ってくる人。帰らない人。たまたま腹が減った人。みんな同じ鍋を食べても、同じ味にはならない」
「不完全だ」
「うん」
「再現性がない」
「あるよ。作り方は教える。でも、同じにはならない」
「それを料理と呼ぶのか」
タマキは黒月を肩へ担いだ。
「それ以外、何て呼ぶの」
ゼンは丼を見下ろした。
遠い昔、修業時代に焦がした米の匂いがした。師に怒鳴られ、捨てようとした鍋を、同僚たちが勝手に出汁で煮て食べた夜。完璧ではなかった。だから、全員が好き勝手に胡椒や酢を足し、最後には鍋底までなくなった。
嗜好演算香辛子が見せた記憶ではない。
いま目の前の料理が、忘れていた記憶へ、新しい入口を開いただけだった。
ゼンは機械腕を下ろした。
「投票を続行せよ」
市民投票の表示板が動き出す。
最初、九頭龍フーズの《無争の宴》が圧倒していた。
だが、七福・夜明け返し炒飯を一口ずつ配る小皿が観客席へ回り始めると、数字が揺れた。
隣同士で味の感想が違う。
梅が強いと言う者。
煮干しが懐かしいと言う者。
コーヒーに気づいて得意げになる者。
出汁を先に注いで、炒飯を食べ損ねたと悔しがる者。
意見が割れた。
だから、会話が生まれた。
最終結果。
七福・夜明け返し炒飯、五一・二パーセント。
全人類最適麻婆《無争の宴》、四八・八パーセント。
わずか二・四ポイント差。
会場が爆発したような歓声に包まれた。
七福地下街の存続が決まった。
タマキはナベキチを抱き上げた。
銅色の胴体は熱く、表示灯は消えている。六本脚は垂れ下がり、蓋の亀裂から細い煙が出ていた。
「ナベキチ」
返事はない。
「保温しかできないくせに、無理するから」
キヨが厨房へ降りてきた。
「泣く前に、食わせな」
「機械だよ」
「食卓文明なんとかなんだろ。だったら、食卓へ置きな」
タマキはナベキチを卓上へ置いた。
残った炒飯を小皿へ盛り、出汁を注ぐ。湯気が、壊れた蓋を包んだ。
一秒。
二秒。
三秒。
ナベキチの表示灯が、弱く点いた。
「……塩分、〇・三パーセント過多」
タマキは笑いながら泣いた。
「第一声がそれ?」
「未来機器として、品質管理を……」
「生きてる?」
「因果航行機能、消失。高出力道具、使用不能。残存機能は、時計、献立記録、保温」
「ほぼ炊飯器じゃん」
「断固として……違……」
蓋が閉じた。
小さないびきのような保温音が鳴り始めた。
六 明日の朝
三か月後。
七福地下街は、以前より少しだけ騒がしくなった。
九頭龍フーズとの再開発契約は白紙になり、代わりに各店が共同で朝市を始めた。麦星堂のパンに鳥々の鶏油を塗り、青波の煮干しを土星堂の梅酢へ漬け、カーテンコールが「地獄と境目のコーヒー」を売った。
黒峰ゼンは九頭龍フーズに残った。
ただし、万能美味指数の開発部門を解散し、週に一度だけ七福地下街へ来る。まんぷく屋の端で黙って炒飯を食べ、毎回「火入れが甘い」と言い、毎回きれいに完食した。
厨房忍者たちはどうなったか。
三人がパン屋へ就職し、二人が魚屋で修業し、一人は屋上菜園でソラに青唐辛子を食べさせられて泣いた。残りは企業秘密である。
タマキは高校受験の案内を、店の壁へ貼った。
地下街の外。電車で一時間。寮へ入れば、店には毎日戻れない。
「行くのかい」とキヨが聞いた。
「行く」
「そうかい」
「反対しないの」
「反対したら、味が変わるのかい」
「変わらない」
「なら、食べてから行きな」
朝のまんぷく屋。
タマキは黒月を振る。
ぱら、ぱら、ぱら。
米の音は軽い。
鶏油、卵、ねぎ。今日は煮干しを使わず、昨日余った焼豚を刻んだ。梅酢玉ねぎの代わりに、ソラの菜園で採れたトマトを入れる。
同じ料理にはならない。
それでいい。
カウンターの隅で、ナベキチが目を覚ました。
「現在時刻、午前六時四十分。未来観測、不能。本日の天候、たぶん晴れ。献立予測、失敗」
「役に立たないね」
「未来とは本来、役に立たないものだ。まだ存在しないゆえ」
入口の鈴が鳴った。
朝の客が入ってくる。
タマキは皿へ炒飯を盛った。
「おはよう。今日のは、昨日と違うよ」
客が笑う。
「じゃあ、明日のは?」
タマキは黒月を火へ戻した。
鍋底から、まだ誰も聞いたことのない音がした。
「明日になったら、作る」
明日の味は、まだ誰の舌にも載っていない。