『垂直生活者の手記』

七月二日。

朝、右手を枕から引き離すのに二十七分かかった。

汗で貼りついたのではない。指先の皮膚が、布地の繊維を一本ずつ選び、親しいものを離すまいとするように吸いついていた。力をこめると、枕カバーのほうが裂けた。

私は裂け目を見つめた。そこから白い綿が覗いていた。傷口から骨が見えるときも、こんなふうなのだろうと思った。

市役所の戸籍記録係へ、体調不良で遅れると電話した。係長は「発熱は」と訊き、ないと答えると、「では出勤できるのでは」と言った。指が寝具から離れない、と説明しかけたが、言葉にした途端、それは私自身の不始末のように聞こえた。

「医師の証明があれば病休扱いにします」

係長はそう言って切った。

洗面所へ行こうとして、今度は足の裏が床に吸いついた。歩くたび、薄いゴムを剥がすような音がした。鏡のなかの私は、寝不足の三十三歳の男にしか見えなかった。だが、手首から肘にかけて、針の先ほどの黒い点が幾列も並んでいた。

母から留守番電話が入っていた。今夜は誕生日だから、姉も来る、好物の鯖寿司を買っておく、と言う。

私は折り返さなかった。

昼過ぎ、カーテンを閉めようとして転んだ。咄嗟に壁へ手をつくと、掌がそこへ固定された。外そうともがくうち、もう片方の手、両足も壁へ吸いついた。

気づけば私は、畳から一メートルほど上の壁面に、四肢を広げて貼りついていた。

恐怖より先に、恥ずかしさが来た。

誰にも見られていないのに、私は服の裾を直した。

七月三日。

昨夜は天井で眠った。

眠るつもりはなかった。壁から降りる練習をしているうち、天井の隅へ辿りつき、そこが不思議に落ち着いたのだ。部屋を上から見ると、机も椅子も冷蔵庫も、地上の重力を信じきっている者たちの家具に見えた。

人間は、床を疑わない。

床が自分を支えること、椅子が自分の重さを引き受けること、階段が次の高さへ続いていることを、毎朝、祈りもせずに信じている。私はその信仰から外れてしまったらしい。

黒い点は昨日より大きくなった。小さな鱗のようでもあり、乾いた種のようでもある。爪は薄く尖り、指の関節が一つ増えた。痛みはない。痛みがないことが、もっとも恐ろしい。

人は痛みによって、まだ自分の身体の内側にいると知るのではないか。

冷蔵庫の牛乳は生臭く感じた。代わりに、窓辺に置いてあった熟れすぎた桃を皮ごと食べた。汁が顎を伝うと、舌の奥が歓んだ。

午後、係長からメールが届いた。

〈無断欠勤二日目です。状況を報告してください。なお、戸籍附票の入力が滞っています〉

私は返信欄に、〈私の身体が戸籍の記載と一致しなくなりました〉と打った。

送信する前に消した。

戸籍には、名前、生年月日、父母、配偶者、死亡年月日が記される。皮膚の材質や、壁を歩けるかどうかを書く欄はない。人は書類の上では、驚くほど頑丈だ。

夜、手首の内側が痒くなった。掻くと、白い細糸が一本、皮膚の裂け目から伸びた。

糸は月明かりを受け、私の机から天井まで、一本の細い直線を作った。

私はそれを切ろうとしたが、鋏では切れなかった。

七月四日。

言葉を失う前に、書くことにした。

人は顔より先に、文体を失うのかもしれない。朝の挨拶が短くなり、返事が遅れ、やがて誰かの名を呼ぶことさえ億劫になる。そのとき人は、まだ人間の顔をしている。だから私は、指が文字を押せるうちは記す。

夜明け前、窓から外へ出た。

七階の外壁に足を置くと、怖さはなかった。怖さは、落ちる可能性を前にして生まれる感情だ。今の私には、壁も地面と同じだった。

街は裏返って見えた。

ベランダには、乾ききらないシャツ、吸い殻の入った缶、子どもの赤い靴があった。窓の向こうで、知らない老女が仏壇へ水を供え、若い男が流し台で泣き、乳児を抱いた女が暗い部屋を何度も往復していた。

地上を歩いていたころ、私は建物を箱だと思っていた。だが外壁を這うと、箱には無数の薄い皮膚があり、その一枚ごとに、誰かの眠れない夜が貼りついていると知った。

交差点の信号が、誰もいない道路へ律儀に色を変えていた。

私は隣のビルまで糸を伸ばしてみた。手首の奥が熱くなり、白い線が闇を渡った。身体を預けると、糸は私の重さを受け止めた。

一瞬、空中にいた。

落ちているのでも、飛んでいるのでもない。二つの建物のあいだに、借りものの時間として吊られていた。

そのとき、遠くで金属の軋む音を聞いた。

音というより、足の裏へ届く震えだった。

三棟先のビルで、窓清掃用のゴンドラが傾いていた。作業員が一人、手すりの外へ投げ出された。彼の安全帯は外れ、身体が暗がりへ落ちた。

考えるより先に、私は壁を蹴った。

白い糸が手首から走り、男の腰へ絡みついた。衝撃で肩が抜けるように痛み、私は向かいの壁へ叩きつけられた。

男は四階の窓の高さで揺れていた。

助け上げると、彼は私の顔を見て悲鳴を呑みこんだ。私の頬にも、黒い鱗が広がっていたのだろう。

「化け物」と言われる覚悟をした。

だが男は息を整え、最初にこう言った。

「会社には黙っててくれ。安全帯を掛け忘れたのがばれる」

私は笑った。笑ったつもりだった。

口から出たのは、紙をゆっくり裂くような音だった。

七月五日。

昨日の救助を撮った映像が、インターネットに上がっている。

〈外壁を走る謎の生物〉

〈新宿に巨大ヤモリ?〉

〈CGではない証拠〉

〈自治体は事実確認中〉

再生回数は百八十万。私の命は、数字になってから初めて大勢に気づかれた。

映像のなかの私は黒い影で、顔は見えない。糸で男を吊り上げたところだけが何度も繰り返され、音楽がつけられ、笑い声や拍手の記号が重ねられていた。

コメント欄には、正義の味方だ、害虫だ、捕まえて研究しろ、税金で駆除しろ、と書かれていた。

正義と駆除は、画面の上では隣り合っている。

市役所から一斉メールが届いた。

〈市内で確認された未同定生物について、接触・撮影を避け、発見時は危機管理室へ通報してください〉

送信者は、私と同じ庁舎の三階にいる課だった。

その後、係長から個別にメールが来た。

〈体調はいかがですか。復帰見込みだけでも回答ください〉

私はしばらく画面を見た。

〈復帰した場合、未同定生物として通報される可能性があります〉

そう打って、また消した。

夕方、母から荷物が届いた。鯖寿司、桃、替えの下着、薬局で買った風邪薬。小さな紙に、母の字で「無理をしないこと」とあった。

私は鯖寿司を食べられなかった。桃だけを四つ食べた。

夜、街へ出ると、私は昨日より速く動けた。壁を蹴り、糸を渡し、ビルの隙間を振り子のように進んだ。窓明かりが上下に流れ、風が鱗の隙間を冷やした。

力を得た、と思った。

同時に、力に見つかった、と思った。

力とは所有物ではない。こちらを使うために、身体のなかへ住みつく別の意志だ。

地上から、誰かが私を指さした。

「いた!」

歓声が上がった。

私は逃げた。

ヒーローと呼ばれるのが、化け物と呼ばれるより怖かった。

化け物なら、何も期待されない。

七月六日。

深夜二時、古い雑居ビルの屋上で、少年を見つけた。

縁の外側に立っていた。学校の制服を着て、靴を揃えて脱いでいた。

足の裏から伝わる震えで、私は彼が泣いていると知った。涙そのものではなく、呼吸のたびにコンクリートへ落ちる小さな震えが、壁を通って私の掌へ届いた。

私は屋上の給水塔の陰から出た。

少年は振り返り、悲鳴を上げる代わりに、目を細めた。

「動画のやつ?」

私は頷いた。

声を出すと、もう人間の言葉にならないことが増えていた。だから携帯電話の画面へ文字を打った。

〈そこは危ない〉

少年は笑った。

「危ないから来たんだよ」

〈死にたいのか〉

彼はしばらく答えなかった。街の光が、濡れた頬を青くした。

「死にたいっていうより」

彼は言った。

「落ちたら、誰か来るのか知りたかった」

私は彼の言葉を理解しすぎた。

人が助けを求めるとき、必ずしも助けそのものを望んでいるわけではない。自分の重さが、世界のどこかへ伝わるか確かめたいのだ。床が軋むように。壁が震えるように。

私は一歩近づいた。

少年も一歩退いた。踵の半分が宙に出た。

〈名前は〉

「柊」

〈柊。こちらへ〉

「そっち、化け物じゃん」

〈そうかもしれない〉

「怖くないの?」

私は自分の手を見た。指は長くなり、関節は節くれだち、黒い鱗が月光を鈍く返していた。

〈怖い〉

〈怖いから、落ちないようにしている〉

少年は泣きながら笑った。

その瞬間、屋上扉の向こうで足音がし、彼は驚いて踏み外した。

私は糸を放った。

細い身体が宙で止まった。彼は声も出せず、下を見た。十五階ぶんの夜が、口を開けていた。

引き上げたあと、柊は私の腕の鱗へ触れた。

「痛い?」

私は首を振りかけ、やめた。

〈わからない〉

〈わからないのが、いちばん痛い〉

屋上扉が開き、警察官と、泣き崩れた女が駆けこんできた。女は柊を抱きしめた。警察官は私へ懐中電灯を向けた。

私は縁を越え、壁へ降りた。

背後で柊が叫んだ。

「ありがとう!」

その言葉は、追ってくる光より速く、私の背中へ届いた。

七月七日。

姉が来た。

合鍵で部屋へ入り、私がいないと思ったのだろう。私は天井の暗がりにいた。

姉は腐った鯖寿司を捨て、窓を開け、床に散らばった桃の種を拾った。それから、壁に掛かったカレンダーが斜めになっているのを直した。

私は子どものころから、傾いた額縁や時計を放っておけなかった。家族の誰も気にしない程度の角度でも、私だけは椅子へ上り、水平になるまで直した。

姉が帰ろうとしたとき、私はカレンダーへ糸を伸ばし、ほんの少し右へ動かした。

姉は止まった。

ゆっくり天井を見上げた。

私を見つけても、叫ばなかった。

「璃久?」

その名を聞いた途端、黒い殻の内側で、何かが崩れた。

私は壁を伝って降りた。姉は二歩退いたが、逃げなかった。口元を押さえ、泣きながら、何度も私の名を呼んだ。

携帯電話に打った。

〈母には言わないで〉

「言えるわけないでしょう」

〈ごめん〉

「何に謝ってるの」

〈全部〉

姉は怒った。

「そうやって、何でも自分の責任にするの、やめなよ」

私は文字を打てなかった。

十年前、大学の友人だった修司から、夜中に三度電話があった。私は翌朝が早いという理由で、電源を切った。修司はその夜、歩道橋から落ちた。

誰も私を責めなかった。だから私は、自分で責めるしかなかった。

助けられなかった者は、死者の代わりに裁判官を体内へ飼う。

姉はそのことを知っていた。

「今度は街じゅうの人を助けるつもり?」

〈わからない〉

「無理だよ」

〈わかっている〉

「わかってない顔してる」

私は笑おうとした。姉は泣いた。

帰り際、姉は机の上に新しいノートを置いた。

「せめて、どこにいるか書いて」

私はそのノートへ、最初の一行を書いた。

——私はまだ、名前を呼ばれると振り向く。

七月八日。

危機管理室は私を「垂直移動体」と呼ぶことにしたらしい。

テレビでは専門家が、未知の感染症、軍事技術、集団幻覚、宣伝企画の可能性を論じている。私の映像の横に、害虫駆除会社の広告が流れた。

一方で、私の顔を模した仮面が売られ始めた。黒い目と尖った顎をつけた子ども用の玩具である。

私は一夜のうちに、恐怖と商品になった。

係長から最後のメールが来た。

〈連絡がないため、規定に基づき処分手続きを進めます。貸与品の職員証は返却してください〉

職員証には、変化する前の私の顔がある。

昼休み、庁舎の外壁を登った。監視カメラを避け、三階の戸籍記録係の窓まで行った。ガラスの向こうで、同僚たちは弁当を食べていた。私の机には、別の職員が座っていた。引き出しの上に「要返却物」と書かれた箱があり、私の名前が貼られていた。

私は職員証を窓の隙間から投げ入れた。

それは床へ落ち、小さな音を立てた。

誰も気づかなかった。

帰り道、高架橋の継ぎ目から、異様な震えを感じた。

古い歩行者デッキ。駅と商業ビルを結び、朝夕には何千人も通る。支柱の一本が、内部で細かく裂けていた。目には見えない。だが掌を当てると、疲れた歯が軋むような振動がした。

私は市役所へ電話した。

声が人間の言葉にならず、電話口の職員は「いたずらはおやめください」と切った。

メールも送った。写真を添え、場所を示した。

自動返信が来た。

〈お問い合わせを受け付けました。回答には二週間程度かかる場合があります〉

橋は、二週間も待てない。

私は支柱の亀裂へ糸を巻きつけた。何重にも、何重にも。

糸は強い。だが、街の重さは、それより強い。

七月九日。

朝七時四十二分。

橋が落ちた。

正確には、落ちはじめた。

通勤者で満ちたデッキが、中央からゆっくり沈んだ。最初の一秒、人々は立ち止まり、何が起きたのか理解しなかった。次の一秒で床が傾き、鞄と傘と身体が低いほうへ滑った。

私は橋の裏側にいた。

前夜から張っていた糸が一斉に伸び、手首の皮膚を裂いた。白い繊維が赤く染まった。

両側のビルへ新しい糸を放った。一本、二本、十本。橋全体を空中へ縫いつけるように張った。

肩が外れ、背中の殻が割れた。

上では、人々が叫んでいた。

一人の男が手すりを越えた。私は足から糸を出し、彼を掴んだ。女の子が滑った。別の糸で鞄ごと吊った。ベビーカーが宙へ出た。母親の手と車輪を同時に絡めた。

身体のどこから、これほどの糸が出るのかわからない。

自分が空洞になっていく感覚だけがあった。

救助隊が到着するまでの七分間、私は橋の下で、街の重さを支えた。

七分は短い。

七分は、人が生まれ、名づけられ、老い、死ぬのに十分な長さでもある。

最後に、杖をついた老女が滑った。

私は糸を放った。

届かなかった。

指先を掠め、老女は落ちた。

その顔を、私は見た。

驚きよりも、疲れたような表情だった。

私は叫んだ。喉から出たのは、人間の声でも獣の声でもなく、橋の鉄骨が折れる音に似ていた。

救助隊が橋を固定し、人々を避難させた。歓声が起きた。何百台もの携帯電話が私へ向けられた。

光のなかで、私は落ちた老女のことだけを考えていた。

救った人数は、救えなかった一人を薄めない。

一人の死は、百人の生で割り算できない。

私は糸を切り、橋の裏から闇へ身を投げた。

今度は落ちることが怖かった。

それが少し嬉しかった。

まだ恐怖がある。

まだ身体の内側に、私がいる。

七月十一日。

二日間、古い教会の鐘楼に隠れていた。

背中の割れ目から、新しい殻が覗いている。口はほとんど動かない。右目は複数の像を映すようになり、一つの蝋燭が七つに見える。

ニュースは、橋の事故を奇跡と呼んだ。

死者一名、重傷者三名、軽傷者二十七名。専門家は、未知の繊維が崩落を一時的に食い止めたと説明した。市長は会見で「垂直移動体の行為には一定の評価があり得る」と述べたあと、「安全確保のため、発見時は近づかないでほしい」と付け加えた。

私を讃える絵が、駅前に並んだ。

落ちた老女の名前は、小さな字幕で一度だけ流れた。

戸籍の死亡欄には、やがてその名と日付が入力されるだろう。以前の私なら、書類の不備を確認し、漢字を照合し、端末の確定キーを押した。

死は、役所では一つの処理になる。

だが今、私は彼女の指先が空を掻いた角度を覚えている。杖が回転しながら落ちたことも、靴の片方が橋に残ったことも。

記録とは、忘れるための制度なのかもしれない。

すべてを覚えていては、生きられないから、人は紙へ移し、番号をつけ、棚へしまう。

私は忘れられない。

壁を伝う震えが、街の苦痛を運んでくる。水道管の破裂、夫婦喧嘩で倒れた椅子、夜中に床へ座りこんだ誰かの膝、屋上へ向かう足音。

その全部に応えることはできない。

姉の言うとおりだ。

責任とは、すべてを救えるという思い上がりではない。

聞こえてしまった声に、聞こえなかったふりをしないことだ。

そして、届かなかった手を、届いた手の数で消さないことだ。

鐘楼の下で、誰かが私の名を呼んだ。

姉だった。

私は姿を見せなかった。

代わりに、糸でノートをゆっくり下ろした。

姉はそれを抱きしめ、しばらく泣いた。

それから、天井を見上げて言った。

「璃久。帰れなくても、生きてて」

私は鐘の裏側で、何度も頷いた。

鐘は鳴らなかった。

それでも震えは、掌へ伝わった。

七月十二日。

これが最後の記録になる。

指先が、もう小さなキーを押せない。姉の置いた鉛筆を糸で巻き、どうにか書いている。

夜明けの街を、高いところから見る。

地上では、新聞配達の自転車が走り、パン屋が灯りをつけ、始発電車が鉄の川のように動き出す。人々は今日も床を信じ、階段を信じ、橋を信じる。

その信仰は愚かではない。

信じなければ、一歩も歩けない。

私はもう、彼らと同じ道を歩けない。名前を呼ばれても、いつまで振り向けるかわからない。母の鯖寿司の味も、修司の声も、いずれ黒い殻の向こうへ薄れていくだろう。

だが、消えることと、無かったことは違う。

人間であった私が消えても、誰かの重さを感じたことは、糸の一本として残る。

鐘楼の外壁へ出る。

風が強い。

遠く、病院の屋上で金属の扉が開く震えがした。小さな足音が一つ、縁へ近づいている。

間に合うかはわからない。

助けられるかもわからない。

私は万能ではない。

だから行く。

壁を蹴る。

糸が朝焼けの空へ伸びる。

一瞬、私は街の上に吊られる。

落ちる者でも、飛ぶ者でもない。

ただ、落下と地上のあいだに身を置く、名のない一つの結び目として。

そして私は、次の壁へ手を伸ばす。

(了)