『墜空の鐘』

 空は上にあるものだと、誰が決めた。

 ガク・アマハラにとって、空は足の裏にもあった。

 雲海に浮かぶスズナリ島。その底には、街を支える黒い岩盤と、樹木の根のように張り巡らされた鉄骨がある。さらに下は、光すら届かない天底だ。落ちれば最後、戻った者はいない。

 ガクは腰の命綱を確かめ、島の裏側からぶら下がっていた。

「あと三メートル! 右に振って!」

 頭上の通信管から、オヴァオの声が落ちてくる。

「右って、俺から見て右か?」

『空から見て右!』

「空は全部、空だろ!」

 怒鳴り返しながら、ガクは錆びた梁を蹴った。身体が大きく振り子のように揺れ、指先が目的のものをかすめる。

 赤い布の人形。

 今朝、突風で広場から飛ばされた、六歳の少女サグスの宝物だ。

「よっ――と!」

 ガクは人形をつかんだ。その瞬間、島の奥で、獣がうなるような音がした。

 ごおん。

 岩盤が震える。鉄骨から赤錆が降り、命綱の留め具が半分抜けた。

「うわっ!」

 ガクの身体が天底へ落ちる。

『ガク!』

 通信管の向こうでオヴァオが叫んだ。

 だがガクは、落ちながら笑った。

「まだ下がある!」

 左腕の射出器を構え、引き金を引く。鋼の鉤が飛び、別の梁に食い込んだ。鋼線が伸びきり、肩が抜けそうな衝撃とともに落下が止まる。

 揺れる視界の向こうで、ガクは見た。

 島の中心を貫く巨大な青い結晶――浮核。その表面を、黒い亀裂が走っている。

 一本ではない。蜘蛛の巣のような亀裂が、心臓を締めつけるように広がっていた。

「……オヴァオ」

 返事はなかった。

 見なくても、彼女には分かったのだ。

 スズナリ島が、死にかけている。

一 島が落ちるまで

「七十二時間」

 町役場の大会議室で、島長は言った。

「技師団の計算では、それが限界だ。三日後の正午、浮核は完全に砕ける」

 窓の外では、いつもの夕暮れが街を赤く染めていた。屋根の風見鶏が回り、パン屋の煙突から白い煙が上がり、広場では子どもたちが鐘の音に合わせて家へ走っていく。

 何も変わらないように見える。

 だが会議室に集まった大人たちは、誰も窓を見なかった。

「帝国の避難艇は?」

「二隻だけだ。乗れるのは合わせて四百人」

「この島には二千人いるぞ!」

「次の便は?」

「最短でも十日後だ」

 怒号が飛び交う。

 壁際に立つガクは、泥だらけの作業着のまま拳を握っていた。隣のオヴァオも、油のついた頬をぬぐおうとしない。

 島長が机を叩く。

「静かに! まず子どもと負傷者を乗せる。残る者は――」

「落ちるのを待つのか?」

 ガクの声に、全員が振り向いた。

「浮核を交換すればいい」

「交換用の浮核がどこにある」

「王都グラン・ベル」

 会議室の空気が凍った。

 老人の一人が、かすれた声で言う。

「あそこは二十年前に墜ちた」

「墜ちたんじゃない。雲海の下に引っかかってる。古い地図にはそう書いてある」

 ガクは机に一枚の紙を広げた。父の遺品から見つけた、焼け焦げた航路図だ。雲海の渦の中心に、小さな鐘の印がある。

「王都の中央塔には『暁鐘』があった。百の島を浮かせられるほどの力を持つ、世界最大の浮核だ。それを持ち帰れば――」

「おとぎ話だ!」

 議員が吐き捨てた。

「仮に本当にあったとしても、グラン・ベルへ通じる竜骸嵐を越えられる船はない。しかも中央塔は帝国が封鎖している」

「船ならある」

 オヴァオが窓の外を指した。

 役場の裏、廃工場の屋根から、木と鉄を継ぎはぎした小型艇の尾翼が突き出ている。左右の翼は不格好で、船首には白い歯が描かれていた。

「ツバメ零号。最高速度は帝国艇の一・三倍」

「墜落速度の間違いだろう!」

「昨日まではね。今朝、翼が二枚増えた」

 胸を張るオヴァオに、議員たちは頭を抱えた。

 島長だけが、ガクの地図を見つめていた。

「ガク。その地図は、父親のものか」

 ガクはうなずいた。

 ラディア・アマハラ。

 七年前、帝国の大実験を破壊し、数十人を死なせたとされる男。スズナリ島では今も、その名を口にする者は少ない。

 空を救うはずだった英雄。

 そして、空を裏切った大罪人。

「父さんは、暁鐘を探していた。理由は分からない。でも、この地図の最後に書いてある」

 ガクは焼けた余白を指でなぞった。

 ――鐘は奪うものではない。分けるものだ。

「俺は父さんを信じる。だから行く」

 会議室の奥で、誰かが笑った。

 乾いた、冷たい笑いだった。

「罪人の息子らしい、無謀な結論だ」

 扉の前に、青い外套の青年が立っていた。

 腰には細身の剣。胸には、翼をかたどった銀の徽章。

 帝国蒼天騎士団。

 青年は外套を払い、まっすぐガクを見る。

「久しぶりだな、ガク」

「……セイガ」

 セイガ・ロウ。

 かつて同じ路地を走り、同じ空を見上げた幼なじみ。

 七年前の事故で父を失い、スズナリ島を去った少年。

 今は帝国最年少の空騎士だった。

「帝国命令を伝える。旧王都グラン・ベルへの侵入は、何人たりとも許可しない」

「島が落ちるんだぞ」

「知っている。だから避難艇を寄越した」

「四百人分だけな」

「四百人を確実に救う。それが現実だ」

 セイガの目は、昔よりずっと遠かった。

「全員を救うと言って全員を死なせる。それがお前の父親のやり方だった」

 ガクの拳が動くより早く、オヴァオが二人の間へスパナを差し込んだ。

「役場で殴り合うなら、床を汚さないで」

「オヴァオ、そこ?」

「そこよ」

 セイガは一瞬だけ目を伏せ、踵を返した。

「明朝、避難艇を出す。グラン・ベルへ向かう船を見つけた場合は、撃墜する」

 扉が閉まる。

 沈黙の中、島長が深く息を吐いた。

「許可は出せん」

 ガクは地図を丸めた。

「分かった」

「諦めるのか?」

「許可をもらうのを」

 オヴァオがにやりと笑う。

 その夜。

 スズナリ島の鐘が十二回鳴ると同時に、廃工場の屋根が吹き飛んだ。

 ツバメ零号が、煙と火花を噴きながら空へ飛び出した。

二 落ちた王都へ

「右舷、帝国艇二隻!」

 オヴァオが操縦桿を蹴り倒す。

 ツバメ零号が横倒しになり、青白い砲撃が翼のすぐ脇を抜けた。熱で塗装が泡立つ。

「一・三倍速いって言ったよな!」

「直線なら!」

「今、直線だぞ!」

「向こうも速いの!」

 後方から、帝国の追撃艇が迫る。白銀の船体に四枚翼。比べるのも失礼なほど美しい。

 ツバメ零号は、空飛ぶ工具箱だった。

 だが工具箱には、工具箱なりの戦い方がある。

「ガク、尾翼の赤いレバー!」

「これか?」

「それは絶対に引かないで」

「じゃあ、どれだよ!」

 砲弾が船尾に当たり、甲板が跳ねた。ガクの手が赤いレバーにぶつかる。

 がこん。

 船体の下から、空の酒樽が二十個飛び出した。

 追撃艇の一隻が樽の群れに突っ込み、派手に姿勢を崩す。

「絶対引くなって言っただろ!」

「役に立ったぞ!」

「中身が入ってたら、もっと役に立ったのに!」

「何にだよ!」

 残る一隻が上空へ回る。

 その船首に、青い外套が立っていた。

 セイガだ。

「止まれ、ガク!」

 拡声器越しの声が、風を裂く。

「次は警告ではない!」

「止まったら島が落ちる!」

「お前が行っても同じだ!」

「行かなきゃ、同じかどうかも分からない!」

 セイガが手を上げた。

 追撃艇の砲口が光る。

 そのとき、正面の雲が割れた。

 巨大な骨が現れる。

 翼を広げたまま化石になった、空竜の骸。山ほどもある肋骨が、嵐の中に何百本と連なっている。

 竜骸嵐。

 旧王都への道を塞ぐ、風の墓場だ。

「突っ込むよ!」

 オヴァオが叫ぶ。

「正気か!?」

「正気で造った船じゃない!」

 ツバメ零号は、空竜の肋骨の隙間へ飛び込んだ。

 上下左右から白い骨が迫る。乱気流が船体をもみくちゃにし、羅針盤の針が狂った虫のように回る。

 ガクは船首へ走り、父の地図と景色を見比べた。

 地図には航路がない。

 代わりに、小さな点がいくつも打たれている。

「オヴァオ、骨じゃない! 影を追え!」

「影?」

「月の光が当たってない骨だ!」

 オヴァオは一瞬で理解した。

 風に磨かれた骨は白く光る。だが安全な風の筋にある骨だけ、雲がまとわりつき、影になっている。

 ツバメ零号が右へ、左へ、急降下する。

 追ってきた帝国艇は旋回しきれず、翼を骨にこすった。

 セイガが甲板から跳ぶ。

 風が彼の足元に集まり、青い翼になる。

 風紋。

 生まれつき空気を操る力を持つ者だけが使える、空騎士の技だ。

 セイガは風の翼で骨を蹴り、ツバメ零号へ飛び移った。

「なっ――」

 抜かれた剣が、ガクの喉元で止まる。

「終わりだ」

 ガクは笑った。

「昔から、お前は着地だけは下手だったよな」

「何?」

 セイガの長靴の下で、甲板がぱかりと開いた。

 修理用の落とし戸だ。

 セイガが落ちる。反射的に風を集めようとした瞬間、ガクはその腕をつかみ、勢いのまま船外へ投げた。

 セイガは風の翼を開いて追撃艇へ戻る。

「次はちゃんと玄関から来い!」

 ガクが叫ぶと、セイガは本気で腹を立てた顔をした。

 その直後、竜骸嵐の風が反転した。

 巨大な渦が、三隻を一度にのみ込む。

「オヴァオ!」

「舌、噛むよ!」

 世界が回る。

 骨と雲と稲妻が混ざり合い、上下が消える。ツバメ零号は木の葉のように吹き飛ばされ、最後に何かへ激突した。

 音が途切れた。

 ガクが目を開けると、空が下にあった。

 いや。

 空の上に、街が逆さまに浮かんでいた。

 尖塔。宮殿。幾重もの水路。崩れた橋。

 二十年前に雲海へ沈んだ王都グラン・ベルは、巨大な空竜の背骨に引っかかり、傾いたまま眠っていた。

 街の中央には、一本の鐘塔が立っている。

 雲を突き抜けるほど高い、黒い塔。

 その頂で、黄金の鐘がかすかに光っていた。

「暁鐘……」

 オヴァオが息をのむ。

 ツバメ零号は広場へ不時着していた。左翼は折れ、推進器から黒煙が上がっている。

「飛べる?」

「飛ぶだけなら」

「帰れる?」

「それは飛んでから考える」

「最高だな」

「褒めてないで手伝え」

 二人が工具箱を降ろしたとき、背後で石が鳴った。

 青い外套が、崩れた像の上に降り立つ。

 セイガも来ていた。追撃艇は見えない。彼一人だ。

「ここから先へは行かせない」

 ガクは射出器を構えた。

「島を見捨てろって?」

「違う」

 セイガは鐘塔を見上げる。

「暁鐘は、帝都を救うために必要だ」

 遠くで、雷とは違う低い音が響いた。

 雲海の彼方。帝都のある方角で、空そのものが黒く盛り上がっている。

「百年に一度の大雲震が始まった。七日後には、空を裂く規模の嵐が帝都を襲う。暁鐘があれば、帝都を雲より高く持ち上げられる」

「だからスズナリを落とすのか」

「帝都には八十万人いる」

 セイガの声は揺れなかった。

「二千人と八十万人。選ぶべき答えは明白だ」

「人の命を、算数みたいに言うな」

「算数もできない正義は、ただの願望だ!」

 初めて、セイガが声を荒らげた。

「七年前、お前の父は『全ての島を救う』と言った! 帝都浮上計画を止め、装置を暴走させた! 俺の父も、四十七人の技師も死んだ! それでもまだ、お前は同じことを言うのか!」

 ガクは言葉を失った。

 セイガの父、ガド・ロウ。

 笑うと髭が跳ね、子ども二人を肩に乗せて街を走る、大きな男だった。

 事故の日から、ガクはセイガと話せなくなった。

 何を言っても、父を奪った事実は消えないと思っていた。

「……俺は、父さんが正しかったって証明しに来たんじゃない」

 ガクは射出器を下ろさなかった。

「この島の人たちを、生かしに来たんだ」

「同じだ」

「違う。父さんが間違ってたなら、俺が別の答えを出す」

 鐘塔の奥で、赤い光がともった。

 石畳が割れ、黒い鎖が噴き出す。鎖は空中で絡み合い、翼を、爪を、長い顎を形づくった。

 機械仕掛けの竜が、広場を引き裂いて立ち上がる。

 その胸には、古い王家の紋章。

「侵入者排除機構……!」

 オヴァオが工具箱を抱えて走る。

「議論は後! あれ、話を聞く顔じゃない!」

 機械竜が吠えた。

 音の衝撃だけで、三人の足元が崩れ落ちた。

三 鐘塔の番人

 傾いた王都を、三人は走った。

 背後から機械竜が迫る。鎖の翼が建物を薙ぎ、石の家々が紙のように砕けた。

「右!」

 オヴァオの声で、ガクは水路へ飛び込む。

 直後、竜の爪が頭上を通過した。風圧で身体が転がる。

 セイガが剣を振る。

「蒼刃!」

 刃にまとった風が三日月形に飛び、竜の首を切り裂く。

 だが断たれた鎖は、磁石に引かれるようにつながった。

「再生するぞ!」

「見れば分かる!」

 ガクは水路の縁へ鉤を撃ち込み、鋼線を巻き取った。身体が宙を走り、竜の顎の下へ潜り込む。

 胸の紋章。その中央だけ、鎖ではなく青い結晶でできている。

「オヴァオ、あれが核だ!」

「壊しちゃ駄目!」

「なんで!?」

「暁鐘と同じ回路につながってる! 壊したら鐘も止まる!」

「注文が多いな!」

 竜の尾が迫る。

 ガクは鋼線を外し、落ちた。

 尾の下をすり抜ける。

 足元には、底のない亀裂。

 セイガが風を放ち、ガクの身体を横へ吹き飛ばした。ガクは石橋の欄干へしがみつく。

「助けたつもりか?」

「お前を倒すのは俺だ。落下死では報告書が面倒になる」

「帝国って大変だな!」

 機械竜が口を開く。

 喉の奥に光が集まる。

 オヴァオが鐘塔へ続く昇降機を見つけ、扉をこじ開けた。

「二人とも、早く!」

 三人が飛び込んだ瞬間、光の奔流が広場を消し飛ばした。

 昇降機が上昇する。

 古い鎖が悲鳴を上げ、箱が激しく揺れた。

「一時休戦だ」

 セイガが剣を収める。

「鐘塔の頂へ着くまで」

「着いたら?」

「俺が暁鐘を確保する」

「じゃあ休戦は頂上の一歩手前までだな」

 オヴァオが二人の頭をスパナで軽く叩いた。

「壊れかけの昇降機で殺気を出すな。振動が増える」

 箱の壁には、古い壁画が残っていた。

 空に浮かぶ無数の島。その中央で、鐘を鳴らす人々。

 オヴァオが油灯を近づける。

「変ね」

「何が?」

「暁鐘が島を持ち上げるなら、力は鐘から外へ流れるはず。でもこの絵は逆。島から鐘へ、光が集まってる」

 セイガが眉をひそめる。

「装飾画だ」

「技師は装飾にも配管図を描く。性分なの」

 昇降機が止まった。

 扉の先は、巨大な機械室だった。

 何千枚もの歯車が静止し、天井から無数の鐘が吊り下がっている。中央には、人の背丈ほどの台座。

 台座のくぼみは、細長い涙の形をしていた。

 ガクの胸元が熱くなる。

 父から残された、黒い金属のペンダント。

 幼い頃から一度も外したことのないそれが、台座と同じ形をしている。

「まさか……」

 ペンダントをくぼみにはめる。

 金属音が一つ。

 眠っていた歯車が、次々に動き始めた。

 機械室の奥で光が集まり、一人の男の姿を結ぶ。

 ぼさぼさの黒髪。よれた作業着。笑うと片方だけ上がる眉。

「父さん……」

 七年ぶりに見る、ラディア・アマハラの姿だった。

 光の記録は三人へ背を向け、機械を操作している。

『記録、最終日』

 懐かしい声が響いた。

『帝都浮上計画は中止できない。評議会は、暁鐘を単なる巨大浮核だと考えている。違う。これは力を生む装置じゃない』

 壁画と同じ光景が空中に現れる。

 無数の島と、その中央にある鐘。

『暁鐘は、浮力を分配する装置だ。一つの島を高く上げれば、その分だけ他の島が落ちる。帝都を嵐の上へ逃がすには、周辺三十七島を天底へ沈める必要がある』

 セイガの顔から血の気が引いた。

『ガドは住民の退避時間を稼ぐと言って、主回路に残った。俺は鐘の舌――起動鍵を外し、計画を止める』

 光の中へ、もう一人の男が現れた。

 大きな背中。跳ねる髭。

 ガド・ロウ。

『おいラディア。うちのせがれに伝えとけ』

『自分で言え』

『それができりゃ苦労しねえ。……あいつは頭が良すぎる。だから、いつか命を数で選ぼうとする』

 ガドは笑った。

『そのときは言ってやれ。正しい答えってのは、たいてい選択肢の外にあるってな』

 セイガが一歩、光へ近づく。

「父さん……」

『ガクにも伝えろよ』

『なんて?』

『落ちる前に足元を見ろ、だ。あいつ、怖がらなさすぎる』

 二人の男が笑う。

 次の瞬間、記録の中で警報が鳴った。

『ラディア、行け!』

『ガド!』

『鐘を、誰にも独り占めさせるな!』

 閃光。

 記録が途切れる。

 機械室に残ったのは、歯車の低い音だけだった。

 セイガはうつむいたまま動かなかった。

 ガクも、声が出なかった。

 父は英雄だった。

 そう叫びたかったはずなのに、胸に浮かんだのは誇らしさではない。

 もっと話したかった。

 馬鹿なことを言って、怒られて、一緒に笑いたかった。

 たったそれだけだった。

「……ガク」

 オヴァオが台座の下を指す。

 新しい文字が浮かんでいる。

 ――起動鍵を確認。

 ――接続浮核、二。

 ――再分配可能浮力、ゼロ。

「二つ?」

「スズナリ島と、帝都だ」

 セイガが顔を上げる。

 彼の胸の徽章が青く光っていた。帝都の浮核とつながる、騎士団の認証具だ。

「今、暁鐘を鳴らせばどうなる」

「どちらかを上げるには、もう一方を落とすしかない」

 オヴァオが答える。

 遠くで、機械竜の咆哮が響く。

 昇降機の鎖が切れた。

 逃げ道が消える。

 セイガはゆっくりと剣を抜いた。

「なら、俺は帝都を選ぶ」

 ガクも射出器を構える。

「俺は選ばない」

「答えになっていない」

「選択肢の外に答えがあるんだろ」

「父たちの言葉にすがるな! 時間がないんだ!」

「だから探すんだよ!」

 鐘塔が大きく揺れた。

 天井を突き破り、機械竜の頭が現れる。

 青い結晶の目が、三人を捉えた。

四 選択肢の外

 竜の顎が閉じる。

 ガクとセイガは左右へ跳び、オヴァオは台座の下へ滑り込んだ。

 歯車が砕け、無数の鐘が落下する。大小の音が重なり、塔全体が震えた。

「オヴァオ! 暁鐘を動かせるか!」

「鍵はある! でも分ける力がない!」

「力ならある」

 ガクは竜の首へ鉤を撃ち込んだ。

 巻き取り。

 身体が一気に引き上げられる。

「この島には浮核がある!」

「壊れかけだよ!」

「壊れかけでも、ゼロじゃない!」

 竜の頭に着地したガクは、鎖の隙間へ腕を突っ込む。内部で回る歯車が袖を裂いた。

 竜が暴れる。

 ガクは振り落とされまいとしがみつく。

「スズナリの力を帝都へ、帝都の力をスズナリへ流す! ぐるぐる回せば――」

「同じ二つの杯で水を移しても、増えない!」

 オヴァオが叫び返す。

「じゃあ杯を増やせ!」

 オヴァオの手が止まった。

「……鐘は、誰にも独り占めさせるな」

 彼女は壁画を見る。

 百の島から、中央へ集まる光。

「そうか。これは二つの島で使う装置じゃない。全部の島をつなぐための装置なんだ」

 オヴァオは台座を開き、配線を引きずり出した。

「でも接続には、各島の浮核と同じ周波数の音がいる。今つながってるのは二つだけ」

「音を届ければいいんだな!」

 ガクは竜の頭を蹴り、吊り鐘の鎖へ飛び移った。

「ツバメ零号の通信機を使え!」

「竜に壊されてなければね!」

 オヴァオが機械室の外へ走る。

 竜の尾が彼女を狙う。

 青い風が弾けた。

 セイガの剣が尾を受け止める。長靴が石床を削り、血が腕を伝う。

「行け!」

 オヴァオは一度だけ振り返り、走った。

 セイガは竜を押し返す。

「勘違いするな。帝都を救うためだ」

「それでいい!」

 ガクは笑う。

「救いたいものがある奴は、仲間だ!」

「お前は昔から、言葉が雑だ!」

 竜が翼を広げた。

 鎖の羽根が雨のように飛ぶ。

 セイガは風の壁を張る。だが全ては防げない。一本が肩を貫き、二本目が腿を裂く。

 ガクは鋼線を鐘の柱へ巻きつけた。

「セイガ、風を上に!」

「何をする気だ」

「番人を、鐘撞きにする!」

 ガクは別の鉤を竜の胸へ撃ち込む。

 鋼線が竜と暁鐘の柱を結ぶ。

 意図を悟ったセイガが、剣を天井へ向けた。

「蒼天――昇竜!」

 爆発的な上昇気流が機械室を貫く。

 鎖の巨体が持ち上がる。

 ガクは鋼線の巻き取りを最大にした。

 竜が柱へ激突する。

 ごおおおおおん――。

 暁鐘が鳴った。

 音は塔を抜け、廃都を抜け、竜骸嵐を貫いて空へ広がる。

 だが台座の表示は変わらない。

 ――接続浮核、二。

「届いてない……!」

 ガクが歯を食いしばる。

 機械竜の胸の結晶が赤く染まった。鎖が膨張し、鋼線が一本ずつちぎれていく。

 次は同じ手が使えない。

 そのとき、壊れた通信管から雑音が鳴った。

『――ギ、聞こえる!?』

「オヴァオ!」

『ツバメ零号の通信機は生きてる! 暁鐘の音を全周波数に乗せた。でも、こっちから一方的に送るだけじゃ接続できない。向こうの島でも、同じ音を返してもらわないと!』

「どうやって」

『鐘でも、汽笛でも、鍋でもいい! 島じゅうの金属を鳴らしてもらう!』

「帝国の非常回線を使う」

 セイガが胸の徽章を外した。

「全ての登録島へ声を届けられる。ただし、命令権限は帝都にある。俺の階級では強制できない」

「命令じゃなくていい」

 ガクは徽章を受け取った。

「頼む」

「誰が、見知らぬ島のために浮力を渡す」

「知らない」

 機械竜が身を起こす。

 ガクは血のにじむ手で徽章を握った。

「でも、頼まなきゃゼロのままだ」

 徽章が光る。

 空に浮かぶ全ての島へ、少年の声が流れた。

五 鐘を鳴らせ

『聞こえるか!』

 朝の市場で。

 夜勤明けの工場で。

 雲海を渡る貨物船で。

 帝都の宮殿で。

 名もない小島の、名もない家で。

 古い受信器が一斉に震えた。

『俺はスズナリ島のガク・アマハラ! 俺たちの島は、もうすぐ落ちる!』

 ガクの声は震えていた。

 怖くないわけではない。

 断られるのが怖い。

 笑われるのが怖い。

 誰にも届かないのが、何より怖い。

『助けてくれ!』

 それでも叫んだ。

『力を全部くれとは言わない! ほんの少しでいい! 椅子から立つくらい、荷物を一つ下ろすくらい、島を一瞬だけ軽くしてくれ! 鐘を鳴らして、俺たちとつながってくれ!』

 機械竜の爪が迫る。

 ガクは横へ跳ぶ。床が砕け、身体が宙へ投げ出される。

 鉤を撃つ。

 不発。

 射出器の歯車が、血と砂で詰まっている。

 落ちる。

「ガク!」

 セイガが風の翼で飛び、ガクの腕をつかんだ。

 片腕だけで二人分の体重を支え、崩れた床からぶら下がる。

 ガクは徽章を離さない。

『俺は、あんたたちの名前も知らない! あんたたちも俺を知らない! でも、空のどこかで誰かが落ちそうになったとき、知らないからって手を放す世界にしたくない!』

 スズナリ島の広場。

 役場の受信器から流れる声を、島長と住民たちが聞いていた。

 六歳のサグスが、取り戻してもらった赤い人形を抱え、広場の大鐘を見上げる。

「これ、鳴らせばいいの?」

 島長は目を閉じた。

 そして、鐘楼の綱を握る。

「全員で引け!」

 二千人が綱に手をかけた。

 ごおん。

 スズナリの鐘が鳴る。

 壊れかけた浮核が、その音に青く脈打った。

 暁鐘の台座に文字が浮かぶ。

 ――接続浮核、三。

「三つ……?」

 ガクが息をのむ。

 セイガが苦しげに笑った。

「スズナリ自身も、助ける側に回ったんだ」

 遠く離れた鉱山島で、坑夫がつるはしを線路へ打ちつけた。

 かん。

 ――接続浮核、四。

 砂漠島の機関士が、蒸気汽笛を引いた。

 ぼおお。

 ――五。

 海賊船の船長が、酒瓶で大砲を叩いた。

「借りは高くつくぞ、見知らぬ小僧!」

 ――十二。

 修道院の子どもたちが、小さな銀の鐘を鳴らした。

 ――三十一。

 帝都では、評議会が回線を切れと命じていた。

 だが一人の老鐘守が、宮殿最上部の大鐘へ歩いていく。

「規則違反だぞ!」と兵士が叫ぶ。

 老鐘守は肩をすくめた。

「鐘は鳴らすためにある」

 帝都の大鐘が、空を震わせた。

 ――接続浮核、百七。

 台座の文字が加速する。

 百八十。

 三百。

 五百。

 世界中で音が生まれる。

 鍋を叩く音。

 剣を合わせる音。

 工場の槌。

 学校の鐘。

 船の汽笛。

 親が子へ渡した、小さな鈴。

 音は浮核へ届き、浮核は暁鐘へつながる。

 ――接続浮核、九百九十九。

 ――再分配可能浮力、必要量の九十八・七パーセント。

「足りない!」

 オヴァオの声が通信管から響く。

『あと一つ! あと一つ島がつながれば!』

 だが返事はない。

 機械竜が胸を開く。

 結晶に、王都中の光が集まっていく。

 最後の一撃。

 受ければ鐘塔ごと消える。

 セイガはガクを床へ投げ上げ、自分も這い上がった。

「俺が止める。お前は鐘を鳴らせ」

「一人じゃ無理だ」

「誰が一人だと言った」

 セイガが剣を構える。

 風紋が暴れ、青い外套が千切れ飛ぶ。

「お前は九百九十九の島を連れている」

 機械竜が光を放つ。

 セイガの風が真正面からぶつかる。

 青と赤の閃光が塔を割った。

 セイガの膝が折れる。

「ぐ……っ!」

 ガクは暁鐘を見上げる。

 鐘の舌は、起動鍵として台座にはまったままだ。

 鳴らすものがない。

 なら。

「俺が、舌になる」

 ガクは父のペンダントを台座から引き抜いた。

 警報が鳴る。

 全ての歯車が止まりかける。

「ガク、何を――」

 ペンダントを射出器の先端にはめる。

 残った鋼線を、自分の腰へ結ぶ。

 反対側を暁鐘の天辺へ撃ち込む。

 巻き取り器を逆回転。

 身体が、鐘の内側へ勢いよく飛ぶ。

「おおおおおおおおっ!」

 黒い金属と、少年の拳が、黄金の鐘を打った。

 ごおおおおおおおおん――。

 音が身体を貫く。

 骨が砕けるかと思った。

 視界が白く染まる。

 その中で、ガクは一つの音を聞いた。

 ちりん。

 小さな、小さな鈴。

 雲海の果て。

 地図にも名のない、たった一軒の家しかない浮島で、老婆が窓辺の鈴を鳴らしていた。

「聞こえたよ、坊や」

 島の浮核が、淡く光る。

 ――接続浮核、千。

 ――必要浮力、到達。

 ――全島同期。

 暁鐘が、目を覚ました。

六 空を殴れ

 世界が一度、静かになった。

 次の瞬間。

 千の浮核から集まった青い光が、竜骸嵐を突き抜け、グラン・ベルの鐘塔へ流れ込む。

 暁鐘から巨大な波が広がった。

 機械竜の光線がほどけ、無数の火花になる。

 鎖の身体が震え、胸の結晶から赤い色が消えていく。

 竜はゆっくりと翼を畳んだ。

 役目を終えた番人のように、鐘塔の周囲へ巻きつき、動かなくなった。

「オヴァオ!」

 ガクは床へ落ちながら叫ぶ。

『制御してる! 全島から一パーセント未満ずつ浮力を借りる! 高度低下、最大で二十センチ!』

「スズナリは!」

『上がってる!』

 スズナリ島。

 崩れかけた浮核へ、青い光が流れ込む。

 亀裂が止まる。

 落下を始めていた島が、雲を押し下げ、ゆっくりと持ち上がる。

 広場で、人々の歓声が爆発した。

 誰かが泣き、誰かが笑い、知らない者同士が抱き合う。

 サグスは赤い人形を空へ掲げた。

「ガク兄ちゃんが、島を持ち上げた!」

 島長は首を振る。

「違う」

 空の彼方から、まだ鐘の余韻が届いている。

「みんなで持ち上げたんだ」

 鐘塔では、再分配を終えた歯車がゆっくり止まっていった。

 ガクは仰向けに倒れていた。

 全身が痛い。右腕は感覚がない。だが笑いがこみ上げてくる。

「……空を、殴った気分だ」

「鐘を殴ったんだ」

 隣でセイガが座り込む。外套はぼろぼろ、髪は煤だらけだった。

「しかも拳で。救いようのない馬鹿だ」

「褒めるなよ」

「褒めていない」

 オヴァオが階段を駆け上がってくる。

 彼女は二人の無事を確かめると、まずガクの頭をスパナで殴った。

「痛っ! 重傷者だぞ!」

「起動鍵を勝手に抜くな! 全系統が落ちるところだった!」

「でも成功した」

「成功した馬鹿が一番たち悪い!」

 オヴァオの目には涙がたまっていた。

 ガクは何も言わず、笑った。

 セイガが床に落ちた銀の徽章を拾う。

 暁鐘の記録は、徽章を通じて帝国全土へ送られていた。

 ラディアとガドの最後。

 帝都浮上計画の真実。

 もう誰にも隠せない。

「俺は帝都へ戻る」

 セイガは剣を鞘へ収めた。

「評議会を告発する。騎士団を追われるだろう」

「じゃあスズナリに帰ってくればいい」

「簡単に言うな」

「お前の家、まだ空いてるぞ」

「屋根に穴が開いている」

「オヴァオが直す」

「勝手に決めるな」

 三人の笑い声が、壊れた鐘塔に響いた。

 そのとき、塔全体が傾いた。

 オヴァオの顔が引きつる。

「暁鐘に力を集めたせいで、グラン・ベルを支えてた残留浮力がなくなったみたい」

「つまり?」

「この王都、今度こそ墜ちる」

 床が割れた。

 三人は同時に走り出す。

「ツバメ零号まで何分!?」

「全力で三分!」

「墜落まで?」

「二分!」

「足りないぞ!」

「空騎士が二人抱えて飛べば?」

「無理だ!」

「根性!」

「風紋は根性で増えない!」

 背後から王都が崩れる。

 橋を渡り、屋根を跳び、落ちてくる塔をかいくぐる。

 ツバメ零号は広場の端で、奇跡的に原形を保っていた。

 三人が乗り込む。

 オヴァオが始動レバーを引く。

 推進器は咳をしただけだった。

「飛ばないぞ!」

「さっき『飛ぶだけなら』って言ったよな!」

「あれから竜に踏まれた!」

 広場が割れ、船体が天底へ滑り始める。

 ガクは操縦席の横にある、赤いレバーを見た。

「これ、今度こそ引くなってやつか?」

「それは絶対に引いて!」

 ガクが引く。

 船尾が爆発した。

 隠されていた補助推進器が火を噴き、ツバメ零号は崩壊する王都から飛び出した。

 背後でグラン・ベルが雲海へ沈む。

 黄金の暁鐘だけが最後まで夕陽を返し、やがて白い雲の下へ消えた。

 ツバメ零号は片翼を失い、黒煙を上げ、三回転しながら竜骸嵐へ突っ込んでいく。

「オヴァオ!」

「帰ってから考えるって言ったでしょ!」

「まだ帰れてない!」

「じゃあ今から考える!」

 セイガが頭を抱える。

「俺は、なぜこいつらと一緒にいるんだ……」

 ガクは笑った。

 前方には、荒れ狂う風。

 その向こうに、帰るべき島がある。

「仲間だからだろ!」

 ツバメ零号は、雲を切り裂いて飛んだ。

終章 地図の端

 三か月後。

 スズナリ島の浮核は、千の島から届いた技師たちの手で修復された。

 助けを求めた一つの声が、空の島々を結ぶ新しい航路を作ったのだ。

 島の中央広場には、小さな鐘が建てられた。

 台座には、二人の技師の名が刻まれている。

 ラディア・アマハラ。

 ガド・ロウ。

 英雄としてではない。

 間違い、悩み、それでも誰かのために選択肢を増やそうとした、一人の人間として。

「ガク! 荷物、全部積んだよ!」

 修理されたツバメ零号の上で、オヴァオが手を振る。

 船体は以前よりさらに継ぎはぎだらけになり、両翼の長さも違う。だが船首の白い歯だけは、誇らしげに笑っていた。

 ガクは広場の鐘へ手を当てる。

「行ってくる、父さん」

 返事の代わりに、風が小さく鐘を鳴らした。

 ちりん。

 船着き場には、青い外套を脱いだセイガが立っている。帝国の告発を終え、裁判の証人として各島を回ることになったらしい。

「本当に乗るのか?」

「各島を最短で回れる船が、これしかなかった」

「最短で天底へ行ける船の間違いだよ」

「今すぐ降りたくなってきた」

 オヴァオが操縦桿を倒す。

 ツバメ零号が浮かび上がる。

 見送りの人々が手を振る。サグスが赤い人形を大きく掲げる。島長が帽子を取り、パン屋が焼きたてのパンを投げ、ガクが受け損ねてセイガの顔に当たる。

 笑い声の中、船は空へ出た。

 ガクは父の古い地図を広げる。

 そこには、まだ誰も行ったことのない空白が無数に残っている。

「まず、どこへ行く?」

 オヴァオが尋ねる。

 ガクは地図の端を指した。

 かつてなら、そこは世界の終わりだった。

 今は違う。

「決まってる」

 少年は、雲の向こうを見た。

「次の答えを探しに行くんだ」

 ツバメ零号の汽笛が鳴る。

 千の島の鐘が、それに応えるように風の中で揺れた。

 地図の端は、行き止まりではない。

 次の一行を書く場所だ。