壁の底に海がある

一 壁が波を立てる夜

 海のない世界で、コヨミの家だけが毎晩、波の音を立てた。

 ざあん。

 ざあん。

 夜半になると、黒い石造りのエスカ館は、遠い浜辺を丸ごと飲み込んだように鳴った。廊下の壁紙が息をし、閉めたはずの窓に塩の粒が浮かび、壁の内側を小さな爪が何百本も走った。

 けれど、空に浮かぶオルバ島には海どころか川さえない。

 島の下にあるのは、千尋の雲海と、そこをゆっくり泳ぐ空鯨だけだ。水は夜露を集める塔と、島の中央に掘られた大井戸から得るものだった。その大井戸も、三日前から一滴も水を吐いていない。

 十三歳のコヨミは、寝台の上で目を開けた。

 まただ。

 壁の向こうで、何かが濡れた足を引きずっている。

「……お母さん?」

 呼んだ声は、波音に溶けた。

 母のマレが死んで四年になる。父のジルは、母の名を口にするたびに眉間へ深い溝を刻んだ。だからコヨミも、昼間はなるべく言わないようにしていた。

 夜だけは別だった。

 夜の壁は、ときどき母の歌に似た音を返した。

 コヨミが耳を当てると、壁の内側で、かり、かり、と爪が止まった。

 次の瞬間、寝台脇の壁紙がぷくりと膨らみ、銀色の鼻先が突き出た。

「ねずみ?」

 オルバ島にねずみはいない。少なくとも大人たちはそう言う。地面のない島では穀倉を荒らす小動物は生き残れず、百年前に絶えたのだ、と。

 だが、それは確かにねずみだった。

 濡れた灰色の毛、ガラス玉のような青い目、針ほど細い銀色の尾。前脚には、青い泥がついている。

 ねずみはコヨミを見上げ、壁紙を噛み始めた。

 かりかり、びりびり。

 古い壁紙の下から、黒ずんだ漆喰が現れる。そこには何本もの線が刻まれていた。

 コヨミは燐灯を近づけた。

 線は階段になり、廊下になり、地下へ伸びる水路になった。館の見取り図だ。けれど、コヨミの知る地下室よりさらに下に、何層もの空間が描かれている。

 いちばん深い場所には、渦巻きの印。

 その横に、母の字があった。

――海は消えたのではない。

 奪われたのだ。

 潮心を返せ。

 コヨミの喉が鳴った。

 そのとき、廊下の向こうで床板がきしんだ。

「コヨミ。起きているのか」

 父の声だ。

 コヨミは反射的に燐灯を消した。ねずみは破れた壁紙の穴へ滑り込み、銀の尾だけを一度振って消えた。

 扉が開く。

 ジルは旅装のままだった。肩幅の広い体に古い革外套を羽織り、片手に木箱を抱えている。空潜りだったころの傷が左頬を斜めに走っていた。

「明日の朝、避難船が来る。荷物はこれだけにしろ」

 木箱の中には、母の写真板、工具、着替えが二組。

 十三年暮らした家を畳むには、あまりに小さい箱だった。

「避難しない」

「大井戸は枯れた。水務院は島を閉鎖する。議論は終わりだ」

「終わってない。水はある」

 コヨミは壁紙を指した。

 だが、父が燐灯を掲げると、そこにあったはずの地図はただのひび割れに戻っていた。母の文字もない。

 ジルの顔から血の気が引いた。

「壁を開けたのか」

「ねずみが――」

「この家にねずみはいない」

「いたよ。青い泥がついてた」

 父はコヨミの肩をつかんだ。強すぎる指に痛みが走る。

「地下へ行くな。壁の音を追うな。お前の母さんも、同じことを言った」

 父はそこで口を閉じた。

「お母さんは落盤で死んだって言ったじゃない」

「そうだ」

「じゃあ、どうして壁の音を追ったことを知ってるの」

 ジルは答えなかった。

 ただ、扉の外から鍵をかけた。

 ざあん。

 ざあん。

 波の音は、今夜に限って、笑っているようだった。

二 肋骨の地図

 翌朝、オルバ島の空は赤かった。

 二つある太陽の小さいほうが、雲海の端から血豆のように昇っている。中央広場には避難用の帆船が三隻つながれ、水務院の青い制服を着た役人たちが住民を急き立てていた。

「一人、手荷物一箱まで! 家畜は置いていけ! 鐘が三度鳴ったら桟橋を封鎖する!」

 泣く子ども。鳥籠を抱く老人。井戸の縁に額をつけるパン屋。

 空鯨の群れが島の下を通り、巨大な影が広場を横切った。

 コヨミの部屋の鍵は、窓から入ってきたエナが開けた。

「町長の娘って便利ね」

 赤毛を三つ編みにしたエナは、細い針金を髪へ戻した。

「役所の鍵はみんな同じ作りだもの」

「それ、町長の娘の台詞じゃないよ」

 窓枠に腹をつかえさせながら、ミティトが言った。パン屋の息子で、丸眼鏡と工具帯を身につけている。工具帯には金槌、ねじ回し、砂糖菓子、なぜか小さなフライパンまで下がっていた。

 最後に入ってきたシイは、裸足だった。彼女は石工の家の子で、靴を履くと石の声が聞きにくいと言う。

 シイは部屋へ入るなり、壁へ頬をつけた。

「下で、たくさん走ってる」

「ねずみ?」とコヨミ。

「たぶん。けど、追われてるみたい」

「何に?」

 シイはしばらく黙った。

「壁に」

 ミティトが砂糖菓子を噛む音だけがした。

 コヨミは三人に、夜の地図と母の言葉を話した。エナは鼻で笑わず、ミティトは菓子を落とさず、シイは壁から耳を離さなかった。

「潮心が本当に水を出せるなら、島を捨てなくてすむ」とエナが言った。「父さんは水務院に逆らえない。でも、水が見つかれば閉鎖命令は取り消せる」

「地下探検かあ」

 ミティトは工具帯を鳴らした。

「昼飯までに戻れる?」

「避難の鐘が鳴るのは正午」とコヨミ。

「その前に見つける」

「昼飯より大事なものがあるとは知らなかった」

 入口は、母の部屋にあった。

 四年前から閉ざされたままの部屋。父は鍵を首に下げていたが、エナの針金はここでも役に立った。

 室内には薄い埃が積もり、机の上には母の星図、棚には雲海の生物を描いた標本帳が残っていた。窓辺の鉢植えだけが枯れた土になっている。

 銀尾のねずみは、暖炉の中で待っていた。

 コヨミを見ると、煤けた煉瓦の一枚を前脚で叩く。

 押すと、暖炉全体が低くうなり、横へずれた。

 その奥に、人ひとりがやっと通れる穴が開いていた。冷たい風が吹き上がり、塩と鉄と、古い雨の匂いがした。

「戻るなら今よ」とエナ。

「きみが言う?」とミティト。

「確認しただけ」

 四人は穴へ入った。

 壁の中には、館の廊下と平行に細い通路が伸びていた。柱の隙間を無数のねずみが走り、青い足跡を残していく。

 ところどころに、白い棒が組まれていた。

 ミティトが一本を燐灯で照らし、眼鏡を持ち上げた。

「これ、木じゃない」

「骨?」とコヨミ。

「大きな獣の肋骨だ。空鯨より細いけど、人間よりずっと大きい」

 肋骨には小さな文字がびっしり刻まれていた。

 エナが読み上げる。

「『第一潮路、封鎖。第二潮路、封鎖。下層民二百七名、移送。名を記すことを禁ず』」

 その下には、爪で削ったような別の文があった。

――名を忘れるな。

 壁は食べても、ねずみは覚える。

 ねずみたちは四人の足元で立ち止まった。

 何百もの青い目が、一斉にこちらを見上げる。

「ねえ」とミティト。「いま僕、昼飯のほうが大事だって思い直した」

 通路の先で、鐘が一度鳴った。

 地上の避難鐘ではない。

 もっと低く、深く、腹の底を揺らす音だった。

 肋骨の階段が、闇の中へ続いている。

 コヨミは母の写真板を胸元へ入れ、降りた。

三 祖先の食卓

 階段は百段を越えても終わらなかった。

 上では乾いた島風が吹いていたのに、下へ行くほど空気は湿り、壁に水滴が浮かび始めた。やがて石段は黒い貝殻で覆われ、足元でぱきぱきと砕けた。

「海って、本当にあるのかな」とエナ。

「あるよ」とコヨミは言った。

「見たこともないのに?」

「見たことがないから、ないってことにはならない」

 シイが振り返った。

「石も同じこと言ってる」

「石はなんて?」

「『思い出せないだけだ』って」

 階段の終わりに、巨大な食堂があった。

 長卓には百人分の銀食器が並び、皿の上には白い塩が山になっている。天井から吊られた燭台には青い火が灯り、誰もいないのに椅子が一脚ずつ、ぎい、と引かれた。

 壁にはエスカ家の歴代当主の肖像画。

 どの顔も細長く、黒い礼服を着て、胸に渦巻きの紋章をつけている。コヨミと同じ灰色の目をしていた。

 いちばん古い肖像だけ、顔が描かれていなかった。

 代わりに、頭の位置から何十本もの白い根が伸び、額縁の外へ続いている。

 銀尾のねずみが、卓上へ飛び乗った。

 塩の山を掘る。

 中から、真鍮の筒が出てきた。

 コヨミが蓋を開けると、薄い皮紙が一枚入っていた。

 母の筆跡だった。

――コヨミへ。

 あなたがこれを読むころ、私は戻れなかったのだと思う。

 ごめんなさい。

 文字が一度、滲んでいた。

――潮心は宝ではない。

 私たちの祖先が奪い、鎖につないだ命です。

 エスカ家は底海の水を独占するため、そこに暮らしていた人々を追い立て、潮門を閉じました。井戸の水は、その海から盗んだ雫でした。

 潮心を解けば、海は戻る。

 けれど、館も、島も、今の形ではいられない。

 選ぶのは、あなたであってはならない。

 子どもに祖先の罪を背負わせてはいけない。

 そこで文章は途切れていた。

「じゃあ、誰が選ぶの?」コヨミは呟いた。

 肖像画の中で、誰かが笑った。

 四人が顔を上げる。

 歴代当主たちの口が、ゆっくり開いていた。黒い絵具の奥に、人間のものではない細かな歯が並んでいる。

『血が来た』

『鍵が来た』

『潮守の娘が来た』

 声は絵からではなく、四方の壁から響いた。

 ミティトが塩の皿を投げた。皿は肖像画へ当たり、青い火花を散らす。

「絵がしゃべる家は売れないよ!」

「売る予定だったの?」とエナが叫び返す。

 床が傾いた。

 卓も椅子も、四人ごと食堂の奥へ滑り始める。壁が大きな口のように開き、その向こうで暗い水が渦を巻いていた。

「柱につかまって!」

 エナが卓布を柱へ巻きつけた。シイがエナの腰をつかみ、ミティトがシイの足首にしがみつく。

 コヨミも手を伸ばした。

 指先がミティトの手袋に触れた。

 けれど、肖像画から伸びた白い根がコヨミの足へ絡みついた。

『お前は残れ』

『海を閉じろ』

『家を守れ』

「離して!」

 コヨミは母の真鍮筒で根を殴った。一本が切れた瞬間、床の裂け目から水が噴き上がる。

 冷たい塊が全身へぶつかった。

 コヨミは暗い水路へ吸い込まれた。

「コヨミ!」

 友だちの声が遠ざかる。

 上も下もわからない。息が胸の中で爆発しそうになる。暗闇の中、銀色の尾だけが稲妻のように泳いでいた。

 コヨミはそれを追った。

 だが、指は何もつかめず、意識は青い闇へ沈んだ。

四 父親は穴へ降りる

 ジルは、避難船の桟橋で娘がいないことに気づいた。

 正確には、気づいていた。

 コヨミが素直に船へ乗るはずがないことも、彼女の部屋の窓が開いていたことも、母の部屋の鍵穴に新しい傷があったことも。

 それでも彼は、桟橋へ来るかもしれないという愚かな望みにしがみついていた。

 第一の鐘が鳴り終わるころ、エナとミティトとシイが館から飛び出してきた。

 三人とも泥と塩にまみれている。

 コヨミはいなかった。

 ジルは走った。

「どこだ」

 ミティトが口を開きかけ、閉じた。

 エナが一歩前へ出た。

「地下の水路に落ちました。私たちのせいです」

「入口は」

「暖炉です。でも――」

「案内しろ」

 ジルの声があまりに静かだったので、三人は逆らわなかった。

 母の部屋で暖炉を開けた瞬間、ジルは四年前へ戻った。

 あの夜も、壁が波を立てていた。

 マレは「下に水がある」と言い、工具と地図を持って穴へ入った。ジルは幼いコヨミを寝かしつけてから追うつもりだった。

 ほんの一刻。

 ほんの一刻だけ遅れた。

 地下で大きな音がし、館の北棟が沈んだ。瓦礫の下から見つかったのは、マレの外套と、血のついた真鍮の留め具だけだった。

 遺体はなかった。

 それでもジルは、死んだことにした。

 そうしなければ、毎晩あの穴へ降りてしまうからだ。

 コヨミまで連れていかれないよう、壁の音を迷信と呼び、地下室を塞ぎ、娘の好奇心を叱りつけた。

 守るためだった。

 少なくとも、ずっとそう言い聞かせてきた。

「おじさん」

 シイが肋骨の階段で立ち止まった。

「怖い?」

「怖くない」

「嘘。石に伝わる」

 ジルは答えず、古い空潜りの呼吸器を口へくわえた。腰には命綱、背には圧縮空気の筒。二度と使うつもりのなかった装備だ。

「怖いまま進むのと、怖くないふりをして止まるのは、違うよ」

 シイはそう言って、先へ降りた。

 子どもに教えられる日が来るとは思わなかった。

 食堂では、床が元へ戻っていた。

 長卓の端に、コヨミの靴が片方落ちている。

 ジルが拾うと、壁の中で無数の爪が走った。

 かり、かり、かり。

 ねずみたちが肖像画の裏からあふれ出す。数百、数千。銀色の尾が川のように床を流れ、食堂の奥へ向かった。

「追うぞ」

「ねずみを?」とミティト。

「あれは娘を追った」

 ジルにはわかった。

 ねずみは、四年前にもマレを追ったのだ。

 彼らは食堂の裂け目から、さらに古い回廊へ入った。

 そこでは壁そのものが白い肉のように脈打っていた。石に見えたものは、巨大な貝殻と骨を何層も塗り固めたものだった。中に、人の手や顔の形が浮いている。

 壁の一部が盛り上がり、老人の顔になった。

 眼窩には小さな歯車が回っている。

『ジル・エスカ』

 声を聞いた瞬間、血の中に冷たい針を打たれたようだった。

『三十八代目の潮守。妻を失い、娘を失いに来たか』

「お前は何だ」

『家だ』

『お前の血が築いた、永遠の家だ』

 回廊の壁すべてに口が開いた。

『海は貪る。空も、町も、子も。われらは閉じ込めた。ゆえにオルバは栄えた。水を量り、命を量り、秩序を与えた』

『妻は愚かだった。扉を開こうとした』

『娘はまだ間に合う』

『潮心を閉じよ。お前の血を一滴捧げれば、娘を返そう』

 ジルの足が止まった。

 壁の奥から、コヨミの声がした。

「お父さん、助けて」

 息ができなくなる。

 もう一度。

「暗いよ。お父さん」

 ジルは壁へ手を伸ばした。

 その手を、ミティトが工具で叩いた。

「痛っ」

「すみません。でも、それ、コヨミじゃないです」

 ミティトは震えながら、壁の下を指した。

 声がするたび、白い根が唇のように動いている。

 シイは両耳を塞いでいた。

「石の声じゃない。石の中で、人の名前を食べてる」

 エナが肖像画から持ち出した銀皿を壁へ投げる。皿が刺さり、黒い液が噴いた。

 壁が絶叫した。

 同時に、ねずみたちが一斉に白い肉へ噛みついた。

 かりかりという音は、家がねずみを飼っている音ではなかった。

 ねずみが、家を食い止めている音だった。

「道を開けてくれていたのか」とジル。

 銀尾のねずみが足元へ現れ、青い泥のついた前脚で先を示した。

 ジルは壁に背を向けた。

「娘の声を使うな」

『お前は守れない』

「知っている」

 その言葉を口にすると、胸の奥で何かが壊れた。

 同時に、別の何かが動き始めた。

「だから、探しに行く」

五 標本宮の少女

 コヨミが目を覚ました場所には、天井がなかった。

 頭上いっぱいに黒い水が広がり、その中を光る魚の群れが星座のように泳いでいる。コヨミは透明な鐘形の器に入れられ、海底らしい白砂の上に置かれていた。

 鐘の内部には空気がある。

 外側では、背に帆を持つクラゲ、脚が樹木の枝になった蟹、腹の中で青い火を灯す長魚がゆっくり通り過ぎた。

 海だ。

 絵本より暗く、夢より大きい。

 どこまでも続く水が、世界の重さそのものになってコヨミの周りへ立っている。

「すごい……」

 思わず漏らした声に、鐘の上から金属音が返った。

『発声を確認。陸棲人類、若年個体。保存状態、良好』

 海底から細い腕が何本も伸び、鐘を持ち上げた。

 運んでいるのは、真鍮と珊瑚でできた巨大な人形だった。頭は水槽になっており、中で白い目玉が一つ浮かんでいる。

「出して!」

『希少標本は収蔵する。逃走は劣化を招く』

 人形はコヨミの鐘を、海底に並ぶ無数の透明容器の間へ置いた。

 そこは宮殿のように広い標本庫だった。

 容器の中には、石の羽を持つ鳥、眠ったまま歌う蛇、三つの影を持つ小人、そして見たことのない海の生き物が囚われている。

 どの容器にも、古いエスカ家の渦巻き紋が刻まれていた。

『底海封鎖以前の生態系を保存する。潮守の命令は永続する』

「潮守はもういない」

『訂正。血統個体を確認』

 白い目玉が、コヨミを見た。

『新たな潮守を登録する』

 鐘の床から銀色の針が伸びた。

 コヨミは母の真鍮筒で針を叩き折った。人形の腕が鐘へ向かう。

 そのとき、容器の隙間から灰色の小さな影が飛び込んだ。

 銀尾のねずみだ。

 水中なのに平気で泳ぎ、コヨミの鐘の頂上へ取りつく。前歯で真鍮の留め具を噛み始めた。

『害獣を確認。排除』

 人形の腕がねずみへ伸びる。

 コヨミは折れた針を拾い、鐘の内側に並ぶ小さな穴へ次々と差し込んだ。どれかが開閉装置のはずだ。

 一つ目。何も起きない。

 二つ目。鐘の中へ海水が細く噴き出す。

 三つ目。

 隣の容器が開いた。

 中から、薄い布のような生き物が飛び出した。翼の幅は馬車ほどもあり、透き通った体内を青い光が走っている。頭には二本の長い触角。傷ついた片翼に、古い革紐が巻かれていた。

 革紐には、真鍮の留め具がついている。

 母の外套のものだった。

「あなた、お母さんを知ってるの?」

 生き物は鐘の外からコヨミを見つめた。

 翼を一度打つと、青い光が明滅する。

 短く二度。長く一度。

 母が空鯨の群れと合図を交わすときに使っていた符号だ。

――知っている。

 コヨミは息を呑んだ。

「お母さんは、どこ?」

 光がゆっくり消える。

 生き物は海底を指し、次にコヨミの胸を指した。

 答えを聞く前から、わかってしまった。

 母はここまで来た。

 この生き物を助けた。

 そして戻らなかった。

 コヨミは目を閉じた。

 涙が浮いたが、鐘の中には海がないので、頬を伝って落ちた。

 母の真鍮筒の底に、もう一枚、薄い紙が張りついていることに気づいた。水滴で剥がすと、小さな文字が現れた。

――怖いとき、帰る方角だけを探さないで。

 助けを呼べる方角を探しなさい。

 海では、ひとりで泳ぐものほど早く沈む。

 コヨミは拳で鐘を叩いた。

「ねえ! みんな、聞こえる?」

 標本たちが目を開けた。

「ここから出たい人は、音を返して!」

 最初に、三つの影を持つ小人が容器を蹴った。

 次に石羽の鳥が嘴を鳴らし、歌う蛇が低く唸り、枝脚の蟹が鋏を打った。

 何十、何百の音が標本宮を満たす。

 真鍮人形が腕を広げた。

『騒音を検知。保存処置を――』

 巨大な海の生き物が人形へ体当たりした。

 白い目玉の水槽にひびが入る。

 銀尾のねずみが、ついに鐘の留め具を噛み切った。

 海水が一気に流れ込む。

 コヨミは息を止めた。

 生き物の背へ飛びつく。すると透明な翼がコヨミを包み、その内側に大きな空気の泡が生まれた。

「あなたの名前、ある?」

 青い光が、短く三度またたいた。

――ムウ。

「ムウ。潮心へ行ける?」

 長く一度。

――行ける。

 ムウが翼を打った。

 標本宮の天井が砕け、閉じ込められていた生き物たちが、夜空へ放たれる星のように海へ飛び出した。

六 名前を運ぶもの

 ジルたちは、地下の海へたどり着いた。

 洞窟の縁から見下ろすと、黒い水が果てまで広がり、遠くで巨大な影が跳ねている。天井には青い鉱石が瞬き、まるで星空が水の上ではなく下に落ちたようだった。

「世界の底に、こんなものが」

 エナは言葉を失った。

 ミティトだけが口を開けたまま、妙に実務的なことを言った。

「魚って、焼くとおいしいかな」

 海辺には小舟が一艘あった。

 骨で組まれ、ねずみの毛を編んだ帆がついている。船底に母の名が刻まれていた。

 マレ。

 ジルは指で文字をなぞった。

 舟を出すと、銀尾のねずみたちが次々と乗り込んできた。舳先、帆柱、ジルの肩。何百匹もいるのに、舟は沈まない。

 やがてねずみたちは、ひとつずつ小さな声で名を囁き始めた。

「ラウ」

「トケイ」

「セト」

「オリ」

「名なしの子」

「井戸番七番」

「歌を忘れなかった女」

 食堂の肋骨に刻まれていた、移送された人々。

 壁に食べられた名を、ねずみたちは何百年も運び続けていたのだ。

 シイが泣いていた。

「石が、軽くなってる」

 海の中央に、白い塔が立っていた。

 根元から無数の鎖が水中へ伸び、塔の頂上には黒い水の球が浮かんでいる。球の内側で、青白い光が脈打っていた。

 潮心。

 塔へ近づくほど、海面に人の顔が浮かんだ。

 エスカ家の当主たちだ。

 口々に囁く。

『閉じよ』

『家を守れ』

『血を守れ』

『娘は海に食われた』

 ジルは耳を塞がなかった。

 怖れは消えない。

 だが、怖れの声と、真実の声は同じではない。

 塔のふもとで、舟が止まった。

 階段の上に、ひとりの女が立っている。

 濡れた黒髪。

 古い空潜りの外套。

 四年前と変わらない顔。

「マレ」

 ジルは舟から降りた。

 女は微笑んだ。

「遅かったね」

 声も同じだった。

 笑うと片方だけ上がる眉も、寒いと袖へ指を隠す癖も。

「コヨミは?」

「上にいる。潮心の中。私たちが行けば助けられる」

 女が手を差し出す。

 ジルは一歩近づいた。

 もう一歩。

 肩の銀尾が、激しく鳴いた。

 女の足元に影がない。

「マレなら、最初に娘の無事を言う」

 ジルは腰の鉤を投げた。

 鉤が女の胸を貫く。

 皮膚が破れ、中から白い根の束が噴き出した。女の顔が縦に割れ、歴代当主の顔が花弁のように開く。

『愚かな男だ』

 塔全体が震えた。

『妻の形を返してやった』

『娘の命も返してやる』

『ただ扉を閉じよ』

「返す?」

 ジルは命綱を柱へ巻きつけた。

「二人とも、お前のものじゃない」

 塔の階段を駆け上がる。

 子どもたちが続く。ねずみの群れは白い根へ飛びかかり、道を切り開いた。

 そのとき、はるか上方で爆音が響いた。

 エナが顔を上げる。

「解体鐘だ。水務院が館の基礎を爆破し始めた」

 岩盤に亀裂が走った。

 黒い海が大きくうねる。

「あとどれくらいだ」とジル。

「次の鐘まで十分。三度目で島の中心が落ちる」

 塔の頂上から、青い光が走った。

 短く三度。

 ジルは息を止める。

「コヨミだ」

七 潮心

 ムウは潮心の周りを旋回していた。

 黒い水の球は家ほど大きく、表面に無数の鎖が食い込んでいる。鎖の一本一本が、白い塔の壁へつながっていた。

 球の内部には、青い光の塊が浮いている。

 心臓のように、どくん、どくん、と脈打つたび、海全体が呼吸した。

 コヨミはムウの背から塔へ飛び降りた。

「コヨミ!」

 父が階段を駆け上がってくる。

 泥だらけで、頬の傷から血を流し、ひどく怒っているような顔をしていた。

 コヨミは怒鳴られると思った。

 だが、父は彼女を抱きしめた。

「息はできるか。骨は。頭は打ってないか」

「大丈夫。お父さんこそ――」

「怖かった」

 父の声が震えていた。

「お前がいなくなると思った。だから、閉じ込めてでも守ろうとした。お前の母さんにも、同じことをした。何も聞かず、危険だと決めつけた」

 コヨミは父の外套をつかんだ。

「私も、ひとりでできるって証明したかった。みんなを巻き込んだ」

「証明しなくていい」

「お父さんも」

 二人は少しだけ離れた。

 父は泣き笑いのような顔をした。

 第二の解体鐘が鳴った。

 塔が傾き、ミティトが階段を転がり落ちかける。エナとシイが腕をつかんだ。

「再会の続きはあと!」とエナ。

「島が落ちる!」

 潮心の前に、二つの台座があった。

 一方にはエスカ家の渦巻き紋。もう一方には、波を抱くねずみの紋。

 中央の碑文をエナが読む。

「『血は閉じ、名は開く。二つの意志が同時に触れたとき、潮は主を選ぶ』」

 壁の声が轟いた。

『娘を台座へ』

『その血で閉じよ』

『町へ一生分の水を与えよう』

『家も、名も、父も守られる』

 潮心の表面に幻が映る。

 崩れずに残るエスカ館。

 水で満ちた大井戸。

 食卓で笑う父と母。

 少し大人になったコヨミ。

 その外側では、名もない人々が乾いた地面に倒れていた。

「これが、祖先の選んだもの」とコヨミ。

「ああ」と父。

「潮心を開けば、島が壊れるかもしれない」

「ああ」

「みんな、助からないかもしれない」

 父はコヨミの目を見た。

「だから一緒に選ぶ。結果も一緒に背負う」

 コヨミは渦巻き紋の台座へ手を置いた。

 父も、その上へ手を重ねる。

 もう一つの台座には、銀尾のねずみが乗った。

 続いて、何百匹ものねずみが塔へ駆け上がり、互いの背に乗り、ひとつの大きな影を作った。

 囁きが海を満たす。

「ラウ」

「トケイ」

「セト」

「オリ」

「名なしの子」

「井戸番七番」

「歌を忘れなかった女」

「マレ・エスカ」

 最後の名を聞いたとき、ジルが目を閉じた。

 ねずみの群れの中から、母の声がした。

「返して」

 コヨミと父は同時に台座を押した。

 鎖が一本、弾けた。

 二本。

 十本。

 百本。

 壁が悲鳴を上げる。

『家が消える』

『血が薄まる』

『名が終わる』

『お前たちは何者になる』

 コヨミは叫び返した。

「これから決める!」

 最後の鎖が外れた。

 潮心が開いた。

 青い光が塔を貫き、底海のすべての生き物が一斉に歌った。

 音ではない歌だった。骨の内側、歯の根、涙の塩へ直接響く。世界が海を思い出す音。

 黒い水の球が砕けた。

 中から現れたのは宝石でも機械でもなかった。

 小さな魚だった。

 掌ほどの透明な魚。胸の奥に、星のような光を抱いている。

 魚はコヨミの額へ触れた。

 それから上を向き、泳いだ。

 水のない空間を。

 魚の通った場所に水が生まれた。細い流れは太い柱になり、塔を突き破り、岩盤を割り、地上へ向かって昇っていく。

「走れ!」とジル。

 ムウが塔へ舞い降り、翼を広げた。

 コヨミ、ジル、エナ、ミティト、シイが背へ乗る。ねずみたちは長い銀の帯になって後を追った。

 底海が持ち上がる。

 標本宮から逃げた鳥や蛇や光魚が、水柱の中を駆け上がる。

 白い塔が崩れ、壁に埋め込まれていた無数の顔が塩へ戻る。

 祖先の声が遠ざかった。

『戻れ』

『家を守れ』

『血を――』

 大波が声を飲み込んだ。

 ムウは上へ、上へ泳ぐ。

 館の地下を抜け、肋骨の階段を越え、祖先の食堂を突き破った。

 天井が落ちてきた。

 父がコヨミを抱え込む。

 コヨミは父の腕から顔を出し、ムウの触角へ青い合図を送った。

 短く二度。長く一度。

 右へ。

 ムウが翼を傾ける。巨石がすぐ横を落ちた。

 ミティトの工具帯からフライパンが飛び、岩に当たって甲高い音を立てる。

「あれ、母さんの形見だったのに!」

「初めて聞いた!」とエナ。

「今決めた!」

 第三の鐘が鳴った。

 エスカ館の中央塔が、地上から爆破された。

八 新しい岸

 オルバ島の住民は、その日、島が二つに割れるのを見た。

 黒いエスカ館が中央から沈み、代わりに青い水柱が空へ噴き上がった。

 水柱は避難船の帆より高く、鐘塔より太く、二つの太陽の光を受けて七重の虹を作った。

 水は広場を走り、乾いた大井戸へ流れ込み、石畳の坂を下り、島の縁で止まった。

 止まった水は縁から落ちなかった。

 透明な壁のように盛り上がり、島をぐるりと抱く大きな輪になった。底海の古い魔法が、重力を水の内側へ曲げたのだ。

 オルバ島に、海岸が生まれた。

 住民たちが呆然と見守る中、崩れた館の跡から巨大な透明の翼が飛び出した。

 ムウは広場の上を一周し、五人を新しい砂浜へ降ろした。

 ジルは地面に触れるなり、コヨミの頭、肩、両腕、膝をもう一度確かめた。

「本当に折れてないか」

「折れてない」

「息は」

「してる」

「目は見えるか」

「お父さんが泣いてるのは見える」

「泣いてない」

「石に伝わる」とシイ。

 ジルは笑った。

 たぶん四年ぶりに、声を出して笑った。

 水務院はオルバ島の閉鎖命令を取り消した。

 取り消さざるを得なかった、と言ったほうが正しい。島の周囲に生まれた海は、百の浮遊島を潤せるほどの水をたたえ、しかも空鯨が子を産みに来る安全な入り江になった。

 エスカ館は跡形もなく消えた。

 地下から見つかった記録によって、エスカ家が何百年も水を独占し、底海の人々を犠牲にしてきたことも明らかになった。

 町の者の中には、コヨミたちを英雄と呼ぶ者もいた。

 災いを起こした一族と呼ぶ者もいた。

 どちらも、少しずつ本当だった。

 新しい海岸には、犠牲になった人々の名を刻む長い石碑が建てられた。

 最後の行には、こう彫られた。

 マレ・エスカ

 海を返そうとした者

 ジルは館の代わりに、港のそばへ小さな家を建てた。

 一階は船具店、二階は住居。扉には鍵をかけたが、コヨミの部屋の窓はいつも開いていた。

 エナは島で最初の水路法を作ると宣言し、ミティトは海魚を焼くための「絶対に爆発しない炉」を作って三度爆発させ、シイは浜辺で石と話す仕事を始めた。

 コヨミは、ムウとともに新しい海の地図を描いた。

 父は出航のたびに心配し、食料を余分に持たせ、帰る時刻を三度確認した。

 けれど、船を岸へ縛りつけることはしなかった。

 ある夕暮れ、コヨミは石碑の前で銀尾のねずみを見つけた。

 ねずみたちは、壁が崩れた日から姿を消していた。

 その一匹だけが、濡れた砂の上に座っている。

「もう、壁を噛まなくていいの?」

 銀尾は前脚で顔を洗った。

 それから海の向こうを向く。

 遠い水面で、透明な小魚が星のように跳ねた。

 銀尾は砂の上を走り、波へ飛び込む。銀色の尾が水中で一度きらめき、見えなくなった。

 コヨミは地図を広げた。

 まだ白い場所が、海の向こうにいくらでもある。

 背後から父の声がした。

「暗くなる前に戻れ」

 コヨミは振り返る。

「今日はね」

 父は一瞬だけ困った顔をし、それから頷いた。

「では、灯りを持っていけ」

 コヨミは燐灯を受け取り、海へ向き直った。

 もう、壁の中から波音はしない。

 海は隠されていない。

 海は、彼女たちの前にあった。