『声の家賃』
借金には音がある。
督促状の薄い紙が玄関の床を擦る音。
知らない番号から鳴り続ける携帯電話。
受話器の向こうで、名前だけを丁寧に呼ぶ男の声。
瀬名垣慎司は、そのどれも嫌いだった。
けれど、いちばん嫌いなのは、何も鳴らない夜だった。
音がしないと、次に何が鳴るのかを考えてしまう。
午前二時十三分。
古いワンルームの郵便受けが、かたん、と鳴った。
慎司は布団の中で目を開けた。電気は止められている。窓の外の街灯だけが、天井に鉄格子のような影を落としていた。
郵便受けから滑り込んだのは、黒い封筒だった。
表には、白いインクでこう書かれていた。
《瀬名垣慎司様
債務残高 二千百四十三万円
完済の機会は一度だけ
本日二十三時 鳳山荘》
裏には地図と、短い注意書きがあった。
《遅刻した場合、機会は失われます。
警察、弁護士、第三者への相談は自由です。
ただし、その場合も返済期限は延長されません》
慎司は笑った。
喉の奥で、乾いた音がしただけだった。
まともな話ではない。
だが、まともな方法はもう全部使い切っていた。
会社は潰れた。家は売った。妻は娘を連れて出ていった。自己破産を勧められたが、慎司にはそれだけはできない理由があった。
三年前、彼が現場責任者をしていた改修工事で、一人の作業員が落ちた。
安全帯を掛ける親綱は、予算を切り詰めるため、古いものを流用していた。
署名したのは慎司だった。
刑事責任は問われなかった。
だが、死んだ男の妻が法廷の廊下で言った。
「法律に払わなくていいなら、誰に払えばいいんですか」
慎司は答えられなかった。
それから、会社の運転資金、示談金、下請けへの未払いを埋めるため、借りられる場所からすべて借りた。最後に残ったのが、円環ファイナンスという、看板すらない貸金業者だった。
黒い封筒には、その会社の印が押されていた。
慎司は夜明けまで封筒を見つめた。
そして二十二時四十分、地図に記された山沿いの廃住宅地に立っていた。
一 鳳山荘
雨は細く、途切れずに降っていた。
鳳山荘は、斜面に食い込むように建っていた。二階建ての木造アパートで、外壁は黒ずみ、軒下には濡れた洗濯ばさみがいくつも残っている。住人が消えたあとも、生活の口だけが開いたままになっているようだった。
門柱には、解体予定を告げる赤い紙が貼られていた。
その上から、誰かが爪で何度も線を引いている。
玄関前には、慎司のほかに四人いた。
灰色のコートを着た細身の女。二十代の終わりほどで、濡れた髪を耳に掛ける仕草だけが妙に落ち着いている。
高価そうなスニーカーを履いた若い男。携帯を取り上げられたことに腹を立て、舌打ちを繰り返していた。
首の太い中年男。誰より大きな傘を差しながら、誰にも入らせようとしない。
そして、背の曲がった老人。黒い帽子を目深にかぶり、鳳山荘の二階を見上げていた。
「揃いましたね」
玄関が内側から開いた。
現れた男は、三十代後半に見えた。黒いスーツ、銀縁の眼鏡、濡れていない革靴。口元には、相手を安心させるためだけに作られた笑みがあった。
「円環ファイナンスの木原亮介です。今夜の進行を務めます」
木原は一人ずつ、携帯電話と財布を透明な袋に入れさせた。
次に、玄関脇の古いインターホンを指した。
「入居確認をします。ボタンを押し、お名前と債務残高を」
「入居?」
灰色のコートの女が聞いた。
「便宜上の表現です。今夜だけ、皆さんにはこの建物の住人になっていただく」
若い男が鼻で笑った。
「そういう芝居、いらねえんだけど。勝ちゃチャラなんだろ?」
「もちろん」
若い男はインターホンのボタンを押した。
「雁葉拓海。千四百九十万」
ざ、とスピーカーが鳴った。
その奥で、幼い子どもが息を吸ったような音がした。
雁葉は眉をひそめたが、すぐに離れた。
首の太い男が続いた。
「守屋絃成。六千三百万」
「堂島美冬。八百七十万円」
灰色の女は美冬というらしい。
老人はしばらく黙っていた。木原に促され、ようやくボタンを押す。
「相良源一。五百六十万」
その声を聞いた瞬間、インターホンの奥で、こつ、と何かが鳴った。
相良の指が震えた。
木原の笑みが、ほんの少し深くなった。
最後に慎司が押した。
「瀬名垣慎司。二千百四十三万円」
ざああ、と雨より濃い雑音が流れた。
その中に、女の声が混じった気がした。
――聞きました。
「今、誰か」
慎司が振り向くと、木原はもう玄関を開けていた。
「中へ。ゲームは二十三時ちょうどに始まります」
廊下は、建物の外観から想像するより長かった。
左右に六つの扉が並んでいる。
一号室から五号室まで。
いちばん奥だけ、番号札を剥がした跡があり、上から新しい板が打ちつけられていた。
板の隙間から、黒い髪のようなものが一本、垂れている。
慎司が目を凝らしたとき、木原が手を叩いた。
「こちらです」
元は共同食堂だったらしい部屋に、五脚の椅子が円形に並んでいた。
中央には透明な箱があり、その中に白い玉が十個、赤い札が五枚入っている。
壁には五本の透明な筒が縦に取りつけられ、それぞれ一号室から五号室までの数字が振られていた。筒の下には電光表示板がある。
木原は全員が座るのを待ち、白い玉を二個ずつ配った。
玉は陶器に見えたが、持つと金属のように重い。
「ゲーム名は《空室なし》」
雁葉が吹き出した。
「だっさ」
「規則は単純です」
木原は気に留めなかった。
「皆さんには、それぞれ一部屋ずつ割り当てます。相良さん一号室、堂島さん二号室、瀬名垣さん三号室、雁葉さん四号室、守屋さん五号室」
各人の前に鍵が置かれた。
「一回の集金につき、各自二個の家賃玉を受け取る。廊下にある各部屋の郵便受けへ、一個ずつ投入してください。同じ部屋へ二個入れてはいけません。自室へ入れられるのも一個までです」
美冬が言った。
「つまり、自分だけでは自分の部屋を守れない」
「ご理解が早い」
木原は透明な筒を指した。
「投入された玉はここへ集まり、部屋ごとの合計が表示されます。最も少ない部屋が《滞納室》です」
「同数なら?」
相良が初めて顔を上げた。
「それまでの累計支払額が少ない部屋。それも同じなら、管理側の抽選です」
「抽選ねえ」
相良の口元が歪んだ。
木原は赤い札を一枚ずつ配った。
表には《引越》と印刷されている。
「滞納室の住人には、集金まで六十秒が与えられます。その間に限り、この引越札を使える。一度だけ、任意の一人と部屋を強制交換できます。拒否はできません」
「そのあとは?」
慎司が聞いた。
「集金人が来ます。滞納室にいる方は失格です」
「失格ってのは、具体的にどうなる」
守屋が身を乗り出した。
「別室へ移っていただきます。最後の一人になった時点で、債務は全額免除。加えて一千万円をお支払いします」
「命の保証は?」
美冬の問いに、木原は一拍だけ黙った。
「暴力を使うゲームではありません」
「答えになってない」
「参加を強制はしません。今なら帰れます。ただし、契約上の返済期限は明朝九時です」
誰も立たなかった。
立てる人間なら、最初からここに来ていない。
木原は腕時計を見た。
「では、二十三時。第一回集金を始めます」
二 第一回集金
三分間の投票時間が始まった。
守屋がすぐに椅子から立った。
「先に話をまとめるぞ」
大きな体で輪の中心を塞ぎ、他の四人を見下ろす。
「全員、自分に一個。残り一個は俺の五号室だ。俺が安定して玉を集めりゃ、次から俺が配分を指示できる。勝手に動くより安全だ」
「あなたが安全になるだけでは?」
美冬が言う。
「仕切る奴が必要なんだよ。女は黙ってろ」
雁葉が笑った。
「いや、俺は乗るね。こういうのは胴元作った方が早い。守屋さん、俺の四号にも一個くれよ。若いの二人で回そうぜ」
「誰が若いの二人だ」
「見た目の話」
相良は二人を見ず、白い玉を指で転がしていた。
「一個は票。もう一個は借りだ。誰に入れたか、口で言っても証拠は残らん」
「じいさん、怖がってんの?」
雁葉が顔を寄せる。
「怖がっているさ。怖くない者から先に死ぬ場所を、昔からよく知っている」
残り二分。
慎司は美冬を見た。
彼女も慎司を見ていた。
「互いに一個ずつ」
美冬が小声で言った。
「残りは?」
「自分」
それだけなら、二号室と三号室に二個ずつ入る。
最低限の相互保証だ。
「裏切らない根拠は」
「ない。だから、最初は小さく信じるしかない」
慎司は頷いた。
五人は順番に廊下へ出た。
郵便受けは、各部屋の扉に口のように開いている。
慎司は三号室へ一個。
二号室へ一個。
白い玉が金属板を転がり、壁の中へ落ちていく。
ころん。
ころころ。
途中で、別の玉とぶつかる音。
そのあと、壁の奥からもう一つ、遅れて音が返った。
――ころん。
誰も入れていないはずの、奥の板張りの向こうからだった。
慎司が振り向くと、板の隙間の黒い髪が、さっきより長く垂れていた。
「時間です」
共同食堂へ戻ると、透明な筒に玉が落ち始めた。
一号室、一個。
二号室、三個。
三号室、二個。
四号室、一個。
五号室、三個。
守屋が満足そうに笑った。
美冬は慎司を見て、小さく頷いた。二人の約束は守られた。
電光表示が点滅する。
《最低 一号室/四号室》
《累計 同数》
《抽選中》
相良と雁葉が、同時に透明な筒を見た。
機械音が鳴った。
《滞納室 一号室》
六十秒の表示が始まる。
59。
58。
雁葉が大声で笑った。
「じいさん、最初から終わってんじゃん!」
相良は立ち上がった。
慌てる様子はない。
赤い引越札を取り、雁葉の胸に押しつけた。
「交換だ」
雁葉の笑いが止まった。
「は?」
「一号室と四号室を交換する」
「待てよ。おい、冗談だろ。俺の部屋だぞ」
「今からお前の部屋は一号室だ」
木原が二人の鍵を交換した。
「規則です。拒否はできません」
「ふざけんな!」
雁葉が相良の襟をつかもうとした瞬間、天井のスピーカーが鳴った。
《暴力行為は即時失格となります》
雁葉の手が止まった。
42。
41。
「なあ、じいさん。金払う。勝ったら半分やる」
「勝ったあとに払うと言う者から、昔はよく取り立てた」
「じゃあ札! 俺の引越札やる! 今返せよ!」
「使えるのは滞納室の住人だけだ。今の滞納室の住人は、お前だ」
雁葉は木原を見た。
「抽選やり直せ。いくらだ。俺、外に金あるから」
「残り三十秒です。移動してください」
扉の向こうで、こつ、と音がした。
全員が黙った。
こつ。
廊下の奥。
板で塞がれた場所から。
こつ。
今度は少し近い。
「何だよ、これ」
雁葉の声が掠れた。
《残り二十秒》
木原は一号室の扉を開けた。
「中へ」
「別室に行くだけだろ? そう言ったよな?」
「ええ。集金後、こちらで確認します」
その言い方に、慎司は寒気を覚えた。
何を確認するのか、木原は言わなかった。
雁葉は逃げようとした。
だが玄関の電子錠が赤く光り、開かない。
守屋が道を塞いだ。
「ルールはルールだ。さっさと入れ」
「てめえ、さっき組むって」
「組む前に落ちたんだろ」
残り十秒。
雁葉は泣きそうな目で全員を見た。
最後に美冬と目が合った。
「助けて」
美冬は視線を逸らさなかった。
ただ、動かなかった。
慎司も動けなかった。
木原が雁葉を一号室へ押し入れ、扉を閉めた。
鍵が外側から回る。
0。
照明が消えた。
暗闇の中で、廊下を裸足で歩く音がした。
ぺた。
ぺた。
ぺた。
一号室の前で止まる。
三度、ノック。
こん。
こん。
こん。
「誰だよ」
扉の向こうから、雁葉の声。
「開けろよ。おい、木原。もういいだろ」
返事はなかった。
代わりに、幼い声がした。
「おかあさん。家賃のひと、きたよ」
雁葉が息を呑む。
「誰だ。中に誰かいるのか?」
一号室の中で、何かが床を這い始めた。
爪が畳を引っ掻く。
ゆっくり、雁葉へ近づいていく。
「やめろ。来るな。来るなよ」
がたん、と扉が内側から揺れた。
細い隙間から、黒い液体が染み出した。
それは水ではなかった。
濡れた髪の束だった。
雁葉の悲鳴が一度だけ上がった。
直後、部屋の中で白い玉が転がった。
ころん。
ころころ。
ころん。
慎司は数えた。
一個。
二個。
三個。
四個。
雁葉が持っていたのは、もう使った二個だけのはずだった。
照明が戻った。
木原は一号室の鍵を開けた。
部屋には誰もいなかった。
窓は釘で塞がれ、押し入れも空だった。
畳の中央に、雁葉のスニーカーが左右揃えて置かれている。
その片方から、白い玉が一個、ゆっくり転がり出た。
美冬が口元を押さえた。
守屋の顔から血の気が引いている。
相良だけが、目を閉じたまま呟いた。
「まだ、あの子は数えているのか」
木原が一号室の扉を閉めた。
「雁葉様、失格。残り四名です」
「どこへ行った」
慎司が詰め寄る。
「失格者の処遇は非公開です」
「あれを演出だと言うのか」
「私は、暴力を使うゲームではないと申し上げました」
木原は笑っていた。
だが眼鏡の奥の目は、一号室を見ようとしなかった。
「第二回集金は、十分後に始めます」
三 数えられない玉
共同食堂へ戻っても、誰も椅子に座らなかった。
守屋が最初に口を開いた。
「今のは仕掛けだ」
自分に言い聞かせるような声だった。
「床下に穴がある。煙か何かで見えなくして、下へ落とした。そうに決まってる」
「ここは斜面に建ってる。床下に回収路を作る空間はある」
慎司は答えた。
建築現場にいた経験から、可能性だけなら否定できなかった。
だが、一号室の畳に切れ目はなかった。
何より、あの髪はどこから入ってきた。
美冬が相良を見た。
「あなた、知っているんですか」
「何を」
「さっき、“まだ数えているのか”と言った」
相良は帽子を脱いだ。
白髪が頭皮に貼りついている。
「年寄りの独り言だ」
「嘘」
美冬は一歩近づいた。
「この建物を見たときから、あなたは知っていた」
相良は答えなかった。
守屋が二人の間に割り込む。
「次は相良を落とす。こいつは引越札を使った。もう逃げられない」
慎司と美冬へ指を向ける。
「俺たち三人で相互に入れる。自分に一個、残りを順に回す。相良には誰も入れない。奴の自票一個だけだ」
「その次は?」
慎司が聞く。
「三人になったら話し合う」
「最後は一人だ」
「だから何だ」
守屋の目が細くなる。
「全員助かるゲームじゃない。今さら善人ぶるな。さっき雁葉を助けなかったのは、お前も同じだろ」
慎司は言い返せなかった。
助けられなかったのではない。
自分が一号室へ入るのが嫌で、動かなかった。
守屋はそこを正確に突いていた。
「まず相良。これは決定だ」
美冬が慎司を見る。
慎司は小さく頷いた。
ほかに策はなかった。
第二回集金。
部屋は入れ替わっている。
一号室は封鎖。
二号室が美冬。
三号室が慎司。
四号室が相良。
五号室が守屋。
慎司は三号室へ一個、二号室へ一個入れた。
約束どおりだ。
玉を入れる直前、彼は爪で表面を強く擦った。
小さな三日月形の傷がつく。
壁の中を玉が落ちた。
ころころ、と右へ流れたあと、かち、と金属音がした。
慎司は動きを止めた。
この建物の壁は薄い。
三号室の郵便受けから共同食堂の筒へ向かうなら、音は左へ流れるはずだ。
今は右へ行った。
配管の途中に、切替器がある。
全員が戻ると、筒へ玉が落ちた。
二号室、三個。
三号室、一個。
四号室、二個。
五号室、二個。
慎司は透明な筒へ顔を寄せた。
三号室には、自分の票と美冬の票、二個あるはずだった。
「堂島」
慎司が低く呼ぶ。
「私は入れた」
美冬は即座に答えた。
「三号室に一個。嘘じゃない」
守屋が笑う。
「女の言葉を信じた結果だな」
電光表示が点滅した。
《滞納室 三号室》
六十秒。
慎司の心臓が強く打った。
美冬が裏切った。
そう考えるのが最も簡単だった。
だが、透明な四号室の筒に落ちた二個のうち、一個に三日月形の傷がある。
慎司が自分で三号室へ入れた玉だった。
機械が票を移した。
木原が操作したのか。
それとも、建物が。
52。
「瀬名垣、札を使え」
守屋が言う。
「相良と交換しろ。最初からそのための同盟だ」
相良は黙っている。
引越札はもうない。
慎司が相良を選べば、計画どおり相良が消える。
だが、表示は操作されている。
木原は誰かを落とすため、数字を作っている。
なぜ慎司を選んだ。
守屋の袖口に、白い粉がついていた。
廊下の壁を擦った跡だろう。
そのポケットが、四角く膨らんでいる。
携帯は預けたはずだ。
何を隠している。
38。
「早くしろ!」
守屋が怒鳴る。
慎司は赤い札を握った。
相良を落とせば、残るのは守屋、美冬、自分。
守屋は次に美冬と組み、自分を落とすだろう。
美冬を落とせば、守屋と相良に挟まれる。
守屋を落とせば、最大の支配者を消せる。
だが、守屋が木原と通じている証拠はない。
選ぶとは、証拠がないまま他人の命に値段をつけることだった。
28。
「瀬名垣さん」
美冬が言った。
「私を信じろとは言わない。でも、その玉の傷を信じて」
彼女も気づいていた。
22。
慎司は守屋の胸に引越札を押しつけた。
「交換だ」
守屋の顔が凍った。
「お前、何を」
「三号室と五号室を交換する」
「話が違う!」
「話は、相良を落とすだった。数字を変える話は聞いてない」
「俺がやったって証拠があるのか!」
「ない」
慎司は守屋の鍵を取った。
「だから、賭けた」
木原が二人を交換させた。
慎司は五号室へ。
守屋は三号室へ。
残り十秒。
守屋は木原にすがった。
「俺は御社に六千万借りてる。俺を消したら回収できないぞ。こいつらより価値がある。俺は営業で、まだ稼げる。娘だっている。来月、中学に上がるんだ」
慎司の足が止まった。
守屋は胸ポケットから、小さな写真を落とした。
制服姿の少女が笑っている。
隠していた四角いものは、写真入れだった。
0。
三号室の扉が閉まった。
守屋は最後まで写真へ手を伸ばしていた。
照明が消える。
廊下の奥から、裸足の音。
ぺた。
ぺた。
ぺた。
今度は、子どもの足音が一つ多い。
たた。
たた。
たた。
三号室の前で、二つの足音が止まった。
こん。
こん。
こん。
「待て!」
守屋が扉を殴る。
「瀬名垣! 娘に伝えろ! 俺は逃げたんじゃない! 金を作ろうとしたんだ!」
扉の向こうで、女が囁いた。
「払えない人は、みんなそう言いました」
守屋の声が途切れた。
次に聞こえたのは、壁の中で何か重いものが引きずられる音だった。
共同食堂の周囲を、ゆっくり一周する。
ずる。
ずる。
ずる。
慎司の真後ろで止まる。
壁紙が内側から膨らんだ。
人の顔の形になる。
口のあたりが開き、守屋の声で言った。
「証拠、なかったんだろ」
慎司は動けなかった。
美冬が彼の腕を引いた瞬間、壁紙は元に戻った。
照明がつく。
三号室は空だった。
畳の上に少女の写真だけがあり、濡れた子どもの指跡が五つ、笑顔の上を横切っていた。
「守屋様、失格」
木原の声は震えていた。
慎司は彼を見た。
「お前も怖いんだな」
「何のことでしょう」
「これはお前たちの仕掛けじゃない」
木原の笑顔が消えた。
ほんの一瞬だった。
しかし慎司には十分だった。
木原は数字を操作できる。
だが、集金人までは支配できない。
このゲームは、恐怖を演出しているのではない。
本物の何かを、規則の形に閉じ込めようとしている。
四 六号室
残り三人。
美冬は二号室。
相良は四号室。
慎司は五号室。
第三回集金までの十分間、相良は共同食堂を出た。
木原が止めようとしたが、相良は廊下の奥、板で塞がれた場所まで歩いた。
板の前に立ち、帽子を胸に当てる。
「十八年か」
美冬が追いついた。
「ここが、六号室なんですね」
相良は頷いた。
「昔はな」
慎司も近づく。
板の隙間から、冷たい空気が漏れていた。雨の匂いではない。長く閉じた押し入れと、古い乳歯のような匂い。
「何があった」
相良は板を見たまま話した。
「七五三掛郁美という女が住んでいた。息子は伊吹。父親はいない。家賃を四か月滞納した」
「あなたが取り立てた?」
「当時の俺は、木原不動産の回収係だった」
木原の顔を、美冬が振り返る。
進行役は共同食堂の入口に立ち、黙っていた。
「木原亮介の父親が大家だ。あの男はまだ学生だったが、父親の仕事を手伝っていた」
相良は続けた。
「冬の夜、俺たちは六号室の外から鎖を掛けた。荷物を運び出されないためだ。電気も水も止めた。翌朝には親戚が金を持ってくると、女は何度も言った」
「なぜ開けなかったんです」
美冬の声が硬くなる。
「金を払わずに出ていくと思った。見せしめにもなる。俺たちは廊下のインターホンで、払え、払えと一晩中言った」
相良の手が震え始めた。
「夜中、子どもが泣き止んだ。次に女が笑い始めた。細い声で、家賃なら声で払います、と言った。朝、鎖を外して入ったら、誰もいなかった」
「消えた?」
「窓は内側から釘で塞がれていた。押し入れにもいない。ただ、壁一面に黒い手形があった。母親の大きい手と、子どもの小さい手。それから、インターホンに録音が残っていた」
相良は古い声を真似るように、低く言った。
「聞きました。あなたの名前も、部屋も、借りたものも」
慎司は玄関で聞いた声を思い出した。
――聞きました。
「木原の父親は六号室を板で塞いだ。だが、滞納者を追い込むたび、どこかの部屋で三度ノックが鳴るようになった。取り立てた社員が一人ずつ消えた。最後に父親も消えた」
「それで、このゲームを?」
「年に一度、借金を抱えた者をここへ入れる。名前と借金をインターホンに聞かせ、滞納室を作る。あれは指定された部屋へ行く。何人か食わせれば、一年は静かになる」
美冬が木原を睨んだ。
「私たちは供物?」
木原は腕時計を見た。
「第三回集金を開始します。作り話に付き合う時間はありません」
「相良さんをここへ呼んだのも、復讐のため」
「債務者を平等に選定しました」
相良が笑った。
「お前の親父と同じだ。規則にすれば、自分の手が汚れていないと思える」
木原の頬が引きつった。
「投票してください」
三人は白い玉を二個ずつ受け取った。
慎司と美冬は、廊下の角で短く言葉を交わした。
「互いに一個。自分に一個」
「相良さんは一個になる」
「彼はもう札を使ってる」
美冬は唇を噛んだ。
「助ける?」
慎司は答えられなかった。
相良は多くの人間を追い詰めた。
雁葉を身代わりにもした。
だから消えていいのか。
その問いに、正しい答えを出せる時間は三分しかない。
この場所では、時間の短さそのものが暴力だった。
相良が二人の横を通った。
「俺には入れるな」
「何を言ってる」
「三回目の集金が来る前に、俺はここへ戻るつもりだった。木原から金を借りたのも、そのためだ」
「死ぬために?」
「払うためだ」
相良は慎司へ、錆びた小さな鍵を渡した。
「六号室の板の右下。古い点検口がある。中に管理人室へつながるインターホン線が残っている」
「それで何ができる」
「あの女は数字を見ていない。声を聞いている。誰かが滞納室を読み上げるたび、その声を道にして来る」
相良は木原を見た。
「呼ばせろ。自分の名前を、自分の声で」
「どうやって」
「借金取りは、相手が怯えると余計に喋る」
投票が終わった。
筒に玉が落ちる。
二号室、三個。
四号室、一個。
五号室、二個。
《滞納室 四号室》
六十秒。
相良は動かなかった。
引越札はすでにない。
美冬が彼の前に立つ。
「あなたは、雁葉さんを犠牲にした」
「ああ」
「今さら一人消えて、払ったことになると思う?」
「ならんだろうな」
「逃げたいですか」
相良は少し考えた。
「逃げたい。だから、ここに立っていられる。死にたいだけなら、こんなに怖くはない」
残り三十秒。
六号室の板の向こうで、子どもが鼻歌を歌い始めた。
音程のない、同じ二音の繰り返し。
相良は四号室の前へ行った。
扉を開ける前に、慎司へ言う。
「この家から出ても、名前は置いていけない。忘れるな」
「どういう意味だ」
相良は答えず、部屋へ入った。
0。
照明が消える。
三度のノック。
こん。
こん。
こん。
四号室の中から、相良の声がした。
「七五三掛さん。あの夜、開けなかったのは俺だ」
廊下の奥で、女が息を吸う。
「伊吹君。泣いていたのを聞いていた。聞こえないふりをした」
扉の隙間から、白い指が一本入った。
「払えるものはない。命でも足りん。だが、俺の名前は置いていく」
相良はインターホンに登録したときと同じ声で言った。
「相良源一。五百六十万円。四号室」
女の声が答えた。
「聞きました」
扉が、内側へではなく、壁の奥へ沈み始めた。
四号室全体が暗い穴へ引き込まれる。
畳も、天井も、相良の姿も、遠ざかる。
相良は最後までこちらを見ていた。
「あと二人だ」
子どもの声が言った。
穴が閉じた。
そこには最初から部屋などなかったように、平らな壁だけが残った。
木原が後ずさる。
「違う」
初めて、彼の口から取り繕わない言葉が出た。
「毎年、三人で止まる。三人払えば、朝まで来ない」
六号室の板が、内側から膨らんだ。
大きな手形が一つ。
小さな手形が一つ。
その下に、濡れた指で文字が書かれる。
《あと 二へや》
美冬が木原を見る。
「あなた、今年の規則を知らないみたいですね」
五 最後の二部屋
木原は共同食堂へ逃げ込み、内側から操作盤を叩いた。
玄関の電子錠が二重に掛かる音がした。
「ゲームを続行します」
声だけが急に冷静さを取り戻していた。
「最後の一名が決まれば、契約どおり債務は免除される」
「三人で止まると言った」
慎司が問う。
「過去の傾向です。規則ではありません」
「お前は俺たちと同じだ」
美冬が言う。
「数字が守ってくれると思って、ここへ入った」
「黙れ」
「借金を背負わせれば、誰かを部屋へ押し込めると思った。でも、あれはあなたの契約書を読まない」
「黙れ!」
木原は壁のボタンを押した。
二号室と五号室以外の表示が消える。
白い玉が四個、箱の中へ落ちた。
「最終集金です」
慎司と美冬は玉を二個ずつ受け取った。
残る部屋は二つ。
規則では、同じ部屋へ二個入れられない。
つまり、二人とも二号室と五号室へ一個ずつ入れるしかない。
「必ず二対二になる」
美冬が言った。
「累計で決めるつもりだ」
慎司は表示板の記録を見た。
二号室の累計は九。
五号室は七。
低いのは五号室。
今の住人は慎司。
彼の引越札はもうない。
最終戦に見せかけて、結果は始まる前から決まっている。
守屋を犠牲にして五号室へ移った、その選択まで含めて、今ここへ戻ってきた。
「私の札を使う」
美冬が赤い札を出した。
「使えるのは滞納室の住人だけだ」
「規則なんて」
「今、破れば木原が何をするかわからない。扉を開ける前に俺たちを閉じ込める」
「じゃあ、あなたが」
「まだ終わってない」
慎司は六号室の方を見た。
相良から受け取った錆びた鍵がある。
二人は投票のため廊下へ出た。
木原の声がスピーカーから追う。
《残り二分》
慎司は二号室へ一個、五号室へ一個入れた。
美冬も同じようにした。
玉が壁の中を転がる。
かち。
右へ。
かち。
左へ。
切替器の音。
木原は最後まで数字を操作するつもりだ。
美冬が六号室の板の前にしゃがんだ。
右下の壁紙を剥がすと、小さな鍵穴が現れた。
錆びた鍵を差す。
回らない。
《残り一分三十秒》
「貸して」
慎司は鍵を受け取り、押し込みながら少し持ち上げた。
古い錠は扉の重みで噛んでいる。現場で何度も見た故障だ。
左へ戻し、荷重を抜き、もう一度右へ。
がちり。
点検口が開いた。
中には、布巻きの古い電線と、新しい赤いケーブルが詰め込まれている。木原たちは昔の配線へ後付けでゲーム装置をつないでいた。
慎司は指で線を追った。
白が共通線。
青が各部屋。
赤い新線が共同食堂の放送設備。
その奥に、色の褪せた札がある。
《管理人室 呼出》
「つなげられる?」
美冬が聞く。
「線は生きてる。だが、呼び出すだけじゃ足りない。相良は、自分の声で名前を言わせろと言った」
《残り一分》
共同食堂の扉が開いた。
木原が出てくる。
手には黒い小型装置があった。
親指が赤いボタンに乗っている。
「点検口から離れてください。建物を損壊した場合、即時失格です」
「押すと何が起きる」
「全室の錠が閉まります。朝まで開きません」
「自分も出られないぞ」
「管理人室には別の出口がある」
木原は汗を流しながら笑った。
「あなた方とは違う。私は住人ではない」
美冬が一歩前へ出た。
「本当に?」
木原の視線が彼女へ向く。
その一瞬に、慎司は赤いケーブルの被覆を鍵の縁で削った。
銅線が露出する。
《残り四十五秒》
「木原さん」
美冬が言う。
「あなたのお父さんが消えたとき、何を聞いたんですか」
「時間稼ぎは無駄です」
「三度ノックされた?」
木原の親指が震えた。
「管理人室の内側から?」
「黙れ」
「お父さんは、最後にあなたの名前を呼んだんじゃないですか」
「黙れ!」
木原が赤いボタンを押した。
同時に、慎司は露出した赤線を《管理人室 呼出》の端子へ押しつけた。
火花が散る。
全館のスピーカーが耳を裂くように鳴った。
ざあああああ。
その雑音の中へ、木原の怒鳴り声が吸い込まれる。
「俺は管理人だ! 木原亮介だ! お前らを選ぶ側なんだ!」
古いインターホンが、声を反復した。
――管理人だ。
――木原亮介だ。
――選ぶ側なんだ。
廊下の灯りが一つずつ消える。
木原の顔から色が失われた。
「切れ。今すぐ線を切れ」
慎司は銅線を握ったまま離さなかった。
手のひらが焼ける。
「借りたものを言え」
「何?」
「玄関で俺たちに言わせた。名前と借金。お前も言え」
「私に債務はない」
美冬が木原の手から黒い装置を叩き落とした。
「ある。十八年分」
六号室の板が、内側から一度だけ強く叩かれた。
どん。
木原が後ずさる。
「違う。払った。毎年払った。お前たちみたいな連中を、三人ずつ」
インターホンがその声を拾う。
――毎年払った。
――三人ずつ。
子どもの声が、建物中のスピーカーから聞こえた。
「たりない」
《残り二十秒》
透明な筒へ玉が落ちる。
二号室、二個。
五号室、二個。
表示が点滅した。
《累計 二号室 十一》
《累計 五号室 九》
《滞納室 五号室》
木原が笑い出す。
「ほら、五号室だ! 瀬名垣、お前だ! 規則は変わらない!」
天井のスピーカーが、女の声で答えた。
「聞きました」
電光表示の数字が崩れた。
五号室の「五」が、ゆっくり線を増やし、見たことのない文字になる。
《滞納室 管理人室》
木原が共同食堂へ走った。
扉は開かない。
さっき自分で全室を施錠した。
廊下の奥から、裸足の音がする。
ぺた。
ぺた。
その隣に、小さな足音。
たた。
たた。
二つの足音は、二号室も五号室も通り過ぎた。
共同食堂の前で止まる。
木原は扉を叩いた。
「開けろ! 瀬名垣、線を戻せ! 契約書を出す! 二人とも完済にする! 金もやる!」
慎司は答えなかった。
扉の内側で、三度ノックが鳴った。
こん。
こん。
こん。
外からではない。
木原の背後からだった。
共同食堂の壁一面に、黒い手形が浮かび上がる。
大きな手。
小さな手。
そのどちらでもない手が、無数に増えていく。
雁葉。
守屋。
相良。
これまでこの建物で部屋へ押し込められた者たち。
木原が叫んだ。
「俺は住人じゃない!」
幼い声が答えた。
「なまえ、きいたよ」
壁が柔らかく窪み、木原の体を包んだ。
彼は眼鏡を落とし、指先で床を掻いた。
爪が剥がれ、細い血の線が残る。
「私は管理人だ。管理人は払わなくていい。取り立てる側だ。私は、私は――」
女の声が、すぐ耳元で囁いた。
「いちばん長く住んでいました」
壁が閉じた。
木原は消えた。
同時に、玄関の電子錠がすべて外れた。
六 退去
慎司と美冬は雨の中へ飛び出した。
振り返らなかった。
斜面を下り、街灯のある道路まで走った。
午前四時過ぎ。
雨はいつの間にか止んでいた。
二人はコンビニの前で初めて立ち止まった。
美冬は笑おうとして、失敗した。
「借金、残りましたね」
「ああ」
「一千万円もなし」
「ああ」
「それでも、さっきよりましに思える」
慎司は焼けた手のひらを見た。
皮膚に、細い線が残っている。
電線の跡ではなかった。
小さな手のひらの形だった。
「堂島さん」
「美冬でいいです」
「美冬さん。借金は何に使った」
彼女はしばらく黙った。
「母の治療費、というのは半分だけ本当です。介護施設の金を使い込みました。最初は穴を埋めるつもりだった。次に借りれば戻せると思った。戻せないまま増えた」
「警察に行くのか」
「行きます。生きて出たから」
慎司は頷いた。
「俺も、破産の相談をする」
「払いたい相手がいるんじゃないですか」
「いる。だからこそ、闇金に払ってる場合じゃない」
言ってから、慎司は初めて、自分が借金と償いを同じものだと思い込んでいたことに気づいた。
苦しみ続ければ、誰かに払っていることになる。
そんな勘定を、死んだ者は望んでいないかもしれない。
美冬の携帯が入った透明袋は、鳳山荘に置いたままだ。
慎司のものも同じだった。
二人はコンビニの電話を借り、警察へ通報した。
夜が明けてから警察が鳳山荘へ入った。
建物の中に人はいなかった。
一号室から五号室まで、すべて空。
共同食堂も、透明な筒も、電光表示板も消えていた。
六号室を塞いでいた板を外すと、奥には部屋ではなく土壁があった。
壁の中から古いインターホンの録音機だけが見つかった。
テープには、十八年前の女と子どもの声が入っていた。
その後に、何十人もの名前と借金額が続いていた。
最後は、こうだったという。
《木原亮介。
十八年分。
管理人室》
円環ファイナンスの事務所は、その日のうちに空になった。
契約書も帳簿も持ち去られ、木原の行方はわからないままだった。
慎司は弁護士を通じて破産を申し立てた。
美冬は自首した。
守屋の娘には、父親の写真だけが匿名で送られた。
慎司は手紙を書こうとしたが、何度書いても「自分が選んだ」という一文の先へ進めなかった。
鳳山荘は一か月後に解体された。
作業員の一人が、基礎の下から白い玉を大量に見つけた。
数え始めると、必ず一個足りなくなる。
袋を変えても、人数を増やしても同じだった。
気味が悪いと、全部埋め戻された。
七 声の家賃
三か月後。
慎司は小さな電気工事会社で働き始めた。
給料の一部を、事故で死んだ作業員の遺族へ送った。受け取りを拒否される月もあったが、その分は別の口座に積み立てた。
借金の督促電話は減った。
眠れる夜も少しずつ増えた。
午前二時十三分。
新しいアパートのインターホンが鳴った。
慎司は目を覚ました。
画面には誰も映っていない。
ただ、白黒の砂嵐の中に、古い木造廊下が見えた。
鳳山荘の廊下。
奥に、番号を剥がした扉がある。
慎司は受話器を取らなかった。
呼び出し音が止まる。
しばらくして、玄関の郵便受けが、かたん、と鳴った。
床に白い玉が一個、転がっていた。
表面には、爪で三日月形の傷がついている。
あの夜、慎司が三号室へ入れた玉だった。
インターホンのスピーカーが勝手に入った。
ざああ、という雑音。
次に、慎司自身の声が流れた。
《瀬名垣慎司。二千百四十三万円》
玄関の外ではなく、部屋の中から、子どもが囁いた。
「ひとつ、たりない」
慎司は振り向いた。
押し入れの襖に、見覚えのない金属札が掛かっている。
《三号室
瀬名垣慎司》
襖の向こうで、白い玉が転がり始めた。
ころん。
ころころ。
ころん。
一個。
二個。
三個。
慎司は数えまいとした。
だが、数えないふりをすることは、聞こえないふりをすることと同じだった。
四個。
五個。
携帯電話が鳴った。
美冬からだった。
慎司は通話ボタンを押す。
「美冬さん」
返事はない。
遠くで、三度ノックがした。
こん。
こん。
こん。
そのあと、美冬の声が聞こえた。
ひどく小さく、濡れた声で。
《堂島美冬。八百七十万円。二号室》
電話の向こうで、女が答える。
「聞きました」
慎司の押し入れも、同時に答えた。
「聞きました」
襖が、内側から一寸だけ開く。
黒い髪の間に、子どもの目が一つ見えた。
「つぎの、しゅうきんです」
玄関の外で足音が止まった。
慎司はようやく理解した。
あの夜、彼らは鳳山荘から逃げたのではない。
部屋を持ち帰ったのだ。
三度、ノックが鳴った。
了