『夏の底のねむり神』
一 空から魚が降る日
その年の夏、空から魚が降った。
最初の一匹は、青貝岬の郵便局長の紅茶に落ちた。
銀色の小魚は、カップの中で二度はね、局長の鼻に熱い紅茶を浴びせてから、ひとつまみの塩になった。
逆さ潮だ、と年寄りたちは言った。
十二年に一度、干上がった古海の魚が空の海へ帰ろうとする日。もっとも、魚が本当に空へ帰れるわけではない。屋根や洗濯物や人の頭に降り、たいていは昼までに塩へ変わる。
青貝岬の子どもたちは、魚を追い回した。
鱗は光に透かすと七色に光り、笛に貼ればよい音が出たし、靴底に入れると足が速くなるという噂もあった。
アサヒは魚を追わなかった。
岬の入口に立てられた、新しい看板を見ていた。
白銅公社・第七採掘区
本区域は八月三十一日をもって閉鎖する
住民は期日までに退去されたし
看板はまっすぐで、白く、正しく、青貝岬の曲がった家々にはひどく似合わなかった。
「閉鎖って、何を閉めるんだろうね」
隣にいたトトが言った。十一歳で、いつも工具箱を背負っている。箱の中身は釘、ばね、焦げたパン、用途不明の歯車が半々だった。
「わたしたち」
エベスが答えた。十三歳。髪を短く刈り、腰に石弓を下げている。
「ここを掘るんだよ。岬の下に夢塩があるって、公社の連中が騒いでた」
夢塩は、眠る前に舐めると会いたい人の夢を見られるという。ひとかけらで銀貨三枚。もっと大量に使うと、目を覚ましたあとも夢が消えなくなる、とも言われていた。
「ばあちゃんは?」
アサヒは聞いた。
「出ていかないって。柱に自分を縛るらしい」
「うちの親父も。井戸に隠れるって」
「うちの母さんは、公社の人を井戸に入れるって」
三人は看板を見上げた。
空から落ちてきた魚が一匹、看板の「退去」の文字にぶつかり、塩になった。
「宝を見つけよう」
トトが言った。
「急に頭がおかしくなった?」
エベスが尋ねた。
「前からだよ。ほら、こういうときは宝だろ。古い王さまの金貨とか、巨人の奥歯とか」
「巨人の奥歯で土地代が払えるの?」
「大きさによる」
アサヒは笑わなかった。
母がいなくなってから、青貝岬の家はずっと、いなくなった人を待つための場所だった。玄関の壁には母の黄色い外套がかかり、窓辺には母が好きだった風鈴がある。祖母は毎週、母の分までパンを焼いた。
ここを出たら、母は帰ってこられない。
その夜、魚の雨は強くなった。
屋根を小さな尾が叩き、家じゅうが遠い拍手のような音に包まれた。
アサヒは雨漏りを受ける桶を探して、屋根裏へ上がった。
梁の上から木箱が落ちた。母の箱だった。失踪した七年前から、祖母が一度も開けなかった箱。
蓋には錆びた羅針盤が埋め込まれていた。
針は北ではなく、いつも青貝岬の沖――何もない塩の平原を指していた。
天窓から魚が一匹飛び込み、箱の上で塩になった。
一枚の鱗だけが、羅針盤のガラスに貼りついた。
すると、針がくるくる回り始めた。
箱の底が、かちりと音を立てて外れた。
二重底から、油紙に包まれた地図が出てきた。
古海を横切る赤い線。眠り影の平原。逆さ灯台。白睡宮。最後に、巨大な船の絵。
王冠船ノクティル
七つ目の鐘が鳴る前に
眠るものを起こしてはならない
地図の裏には、母の字で短く書いてあった。
アサヒへ。
ここまで来たら、帰り道を選びなさい。
アマネ
アサヒは何度も読み返した。
母は、自分がいつかこの地図を見つけると知っていた。
そして地図の先へ行くことも。
翌朝、アサヒは地図をエベスとトトに見せた。
「宝船」
トトの目が、魚の鱗より明るくなった。
「罠」
エベスは言った。
「たぶん両方だ」
アサヒは地図を巻いた。
「行く。宝があれば岬を買える。なくても、母さんがどこへ行ったかわかる」
エベスはため息をつき、石弓の弦を確かめた。
「じゃあ、食料はわたしが用意する。トトに任せたら歯車を食べることになる」
「油をつけたら案外――」
「食べない」
三人が出発の相談をしていると、背後から祖母の声がした。
「子どもだけで古海を渡るのは、魚の腹に家を建てるより馬鹿だよ」
祖母イネラは、腕を組んで立っていた。
怒っているときの目だったが、手には旅用の水筒が四つあった。
「だから、大人を一人つける」
「誰?」
アサヒが聞いた。
祖母は岬のはずれを指した。
そこには、廃業した映画館があった。
看板の下で、ひとりの男が口を開けて眠っていた。
二 役に立たない案内人
男の名はバドといった。
年齢は本人の申告では三十七、村の記録では四十六、顔つきでは六十だった。昔は古海の渡り案内人だったが、今は映画館の切符売り場に住み、働かず、借金取りが来ると「本日の上映は中止です」と言って窓を閉めた。
祖母はバドの鼻に水を一滴落とした。
「雨だ!」
バドは飛び起きた。
空を見て、晴れていることを確かめると、今度は祖母を見た。
「なんだ、イネラか。雨より悪い」
「この子らを逆さ灯台まで連れていきな」
「いやだ」
「即答かい」
「子どもは嫌いだ。歩くのが遅い。質問する。腹が減る。勝手に穴へ入る」
「全部あんたのことじゃないか」
「だから嫌いなんだ」
祖母はアサヒの地図を見せた。
バドの顔から、寝ぼけた色が消えた。
「どこで見つけた」
「母さんの箱」
「アマネの……」
バドは地図に手を伸ばしかけ、やめた。
それから立ち上がり、映画館の裏へ回った。
しばらくして、六本脚の灰色トカゲを引いて戻ってきた。荷運び獣のオムレツである。気難しく、頭が悪く、なぜか帽子を食べる癖があった。
「逆さ灯台までだ」
バドは言った。
「そこから先は帰る。宝があろうが、母親が踊っていようが、俺は知らん」
「母さんを知ってるの?」
アサヒが聞いた。
「昔、道を教えた。それだけだ」
嘘だ、とアサヒにはわかった。
大人は大きな嘘をつくとき、たいてい小さなものを見つめる。
バドは、オムレツの爪を見ていた。
四人と一匹は、魚の雨がやんだ朝に青貝岬を出た。
古海は、昔は本当に海だった。
今は白い塩の平原が地平線まで続き、珊瑚の塔や、半分砂に埋もれた船の骨が点々と立っている。昼は熱で空が曲がり、夜は地面の下から波の音がした。
出発から半日で、バドは旅費の半分を失った。
街道沿いの宿場で、甲虫競走を見つけたからだ。
「これは賭けじゃない」
バドは言った。
「将来性のある甲虫への投資だ」
彼が選んだ甲虫は、出走の鐘が鳴ると仰向けになり、眠った。
「おまえの親戚じゃないの」
エベスが言った。
「長旅では休息が大事なんだ」
「負けたよ」
「長い目で見ろ」
「いま見えてるのは借金だけ」
宿場の主人は、代金を払えないならオムレツを置いていけと言った。
オムレツは主人の帽子を食べた。
結局、トトが即席で作った「自動走行甲虫」を本物の競走に出し、金を取り戻した。中身はぜんまいと石鹸箱だった。途中で蓋が外れ、歯車が飛び散ったが、他の甲虫が驚いて全員逃げたため、規則上は優勝になった。
「子どもも役に立つだろ」
トトが胸を張った。
「おまえは子どもというより事故だ」
バドは答えた。
夕方、一行は笑い橋に着いた。
橋は巨大な獣のあばら骨でできていて、渡ろうとすると骨の口が開いた。
『通行料は、まだ誰も笑ったことのない話』
バドが前に出た。
「俺に任せろ。昔、王都で三百人を笑わせた」
「どうやって?」
「舞台が壊れて落ちた」
バドは十分かけて、酒場の椅子と王さまの鼻についての長い話をした。
誰も笑わなかった。
橋も黙っていた。
バドは焦り、身振りを大きくした。その拍子に足を滑らせ、オムレツの背へ落ちた。驚いたオムレツが走り、バドの上着だけが角に引っかかって脱げた。中に着ていたシャツには、赤い刺繍で「世界一の案内人」と書かれていた。
エベスが吹き出した。
トトが転げ回った。
アサヒまで笑った。
橋の骨が、かたかたと震えた。
『その話は初めてだ』
橋が開いた。
「狙いどおりだ」
バドは上着を拾った。
「顔が赤いよ」
「夕日のせいだ」
その夜、四人は橋の向こうで野宿した。
アサヒが目を覚ますと、バドが火のそばで、母の地図を見ていた。
「盗む気?」
「返す気だ。青貝岬へ」
「いやだ」
「この先は、道じゃない」
バドは低く言った。
「人が歩くために作られた場所じゃない。アマネは地図を見つけて、そこへ行った。戻らなかった。それが答えだ」
「でも、母さんは僕に書いた」
「死人だって手紙は書く。届くのが遅いだけだ」
アサヒは地図を奪い返した。
「母さんは死んでない」
「そう思うのは勝手だ。だがな、会いたいという気持ちは道しるべにならない。あれは沼だ。進んでるつもりで、沈む」
「じゃあ、どうして来たの」
バドは答えなかった。
火に小枝を投げ、背を向けて寝た。
アサヒは長いあいだ眠れなかった。
地面の下で、海が寄せては返していた。
三 眠る影の平原
翌日の午後、太陽が三つに見え始めた。
本物はひとつで、あとの二つは熱の幻だとバドは言ったが、そのうち一つは瞬きをした。
「見なかったことにしろ」
バドは言った。
「古海では、気づかれたものから道に迷う」
眠り影の平原には、黒い人影が無数に落ちていた。
人の姿はない。影だけが地面に横たわり、眠っている。
寝返りを打つ影も、指を動かす影もあった。
「昔ここで、千人の兵隊が一度に眠った」
バドは説明した。
「身体は起きて帰ったが、影は残った。それ以来、この辺りでは昼寝をするな」
「影が置いていかれるの?」
トトが聞いた。
「運がよければ影だけだ」
一行は足音を忍ばせて進んだ。
平原の中央で、風が止まった。
塩の粒が空中に浮き、鈴のような音を立てた。
バドの顔色が変わった。
「息を止めろ。眠り風だ」
遅かった。
トトが工具箱を抱えたまま倒れた。
エベスが膝をついた。
オムレツは六本の脚を順番に折り、きれいに丸くなった。
アサヒも目を閉じた。
次に目を開けたとき、青貝岬の家にいた。
窓から夏の光が入り、台所で母が歌っていた。
黄色い外套。黒い髪。七年前と変わらない背中。
「母さん」
母は振り向いた。
「遅かったね」
アサヒは走った。
母の腕に飛び込みたかった。
だが床が妙に柔らかい。
家の板ではない。巨大な生き物の皮膚のように、ゆっくり上下している。
窓の外を見ると、青貝岬はなかった。
家は暗い海の上に浮かび、その海の底には星が沈んでいた。
母が手を伸ばす。
「こっちへおいで。もう、何もなくならないよ」
その声の背後で、別の声がした。
人間の声より低く、遠く、耳ではなく骨に響いた。
ミツケタ
母の顔の中で、何かが目を開けようとした。
アサヒの頬に、激痛が走った。
目を開けると、バドが靴で叩いていた。
「痛い!」
「起きたか。なら成功だ」
「手でやれよ!」
「手は荷物を持っていた」
バドは片手に水筒、もう片方にオムレツの尻尾を握っていた。エベスとトトも起き上がり、ぼんやりしている。
地面を見ると、四人の影は身体から少しずれ、まだ横になっていた。
バドが影を蹴ると、嫌々ながら足元へ戻った。
「いま、母さんを見た」
アサヒは言った。
「それは母親じゃない」
「声も顔も同じだった」
「だから違う。あそこにいるものは、会いたい顔を使う」
「何がいるの」
バドは地平線を見た。
白い平原の向こうに、逆さ灯台が見え始めていた。塔は地面から空へ伸びず、空から地面へ垂れ下がっている。
「眠る神さま」
バドは言った。
「昔の人間は、ヨルムルと呼んだ。世界ができる前から眠っていて、俺たちの夢を見ている。あるいは、俺たちのほうが、あいつの夢の中にいる」
「どっち?」
トトが聞いた。
「わからん。確かめようとした連中は、だいたい帰ってこなかった」
エベスは石弓を握り直した。
「アマネさんは、その神さまを探しに行ったの?」
バドはしばらく黙り、それから言った。
「弟を取り戻すためだ」
アサヒは息を止めた。
「僕に弟はいない」
「生まれる前に死んだ。アマネは、その子の泣き声を夢で聞くようになった。夢塩を使い、もっと深く眠り、最後には地図を見つけた」
「止めなかったの」
「止めると約束した」
バドは笑わなかった。
「逆さ灯台まで一緒に来て、怖くなって逃げた。だから、今度もそこまでは行く。先へは行かん」
アサヒは怒鳴りたかった。
母を置いて逃げたのか、と。
けれどバドの顔には、七年分の言い訳が全部なくなったあとの顔があった。
遠くで、鐘が鳴った。
一つ。
逆さ灯台の鐘だった。
地図の端に書かれた文字が、赤く浮かんだ。
七つ目の鐘が鳴る前に。
四 逆さ灯台
逆さ灯台は、空に浮かぶ黒い岩から吊り下がっていた。
塔の先端が塩の地面へ突き刺さり、入口は地下にあった。空の岩がどうして落ちないのか、誰も知らない。影だけが地面から空へ伸びていた。
入口の前には、白銅公社の掘削車が三台止まっていた。
「先回りされた」
エベスが言った。
白い制服の男たちが、穴の周りに杭を打っている。
中央に、細身の男が立っていた。銀縁眼鏡、真っ白な手袋、金色の前歯。
白銅公社の調査監督、オベロだった。
青貝岬へ退去看板を立てた本人である。
「おや」
オベロは四人を見て微笑んだ。
「地図が自分から歩いてきた」
その背後には、白い布で目を隠した人々が並んでいた。白瞼会――夢塩を神聖なものとして崇める者たちだ。目隠しの下で、全員が眠っているように首を揺らしていた。
「尾行したのか」
バドが言った。
「岬を出る子ども三人、大人一人、脚が六本のトカゲ。見失うほうが難しいでしょう」
オベロは手を差し出した。
「地図を。青貝岬の立ち退きは撤回しましょう。補償金も出す」
「嘘だ」
アサヒは言った。
「大人の約束を、そう簡単に疑うものではありません」
「大人が言うな」
エベスが石弓を向けた。
オベロの笑みが、ほんの少し細くなった。
「私は宝には興味がない。欲しいのは、その先です。眠る神の夢は、現実を作り替える力を持つ。正しく掘り出せば、病気も貧困も、死さえなくせる」
「採掘して瓶詰めにして売る気だろ」
バドが言った。
「善意には費用がかかります」
二つ目の鐘が鳴った。
その音で、白瞼会の者たちが一斉に顔を上げた。
「地図を」
オベロが繰り返した。
バドは地図を取り出し、オベロへ投げた。
「バド!」
アサヒが叫んだ。
地図は風に乗り、オベロの手へ――届く直前、オムレツが首を伸ばして食べた。
全員が止まった。
「地図を食べた」
トトが言った。
「見ればわかる!」
バドはオムレツの首を抱えた。
「吐け! 紙は帽子じゃない!」
オムレツは満足そうにげっぷをした。
口から赤い光が漏れ、地面に線を描いた。地図の道筋が、そのまま塩の上に投影された。
線は公社の掘削穴ではなく、灯台の影の中へ続いていた。
「走れ!」
バドが叫んだ。
四人と一匹は影へ飛び込んだ。
冷たい水へ落ちたような感覚があり、次の瞬間、逆さ灯台の内部にいた。
階段は下から上へ伸びているのに、身体は天井へ向かって落ちた。アサヒたちは叫びながら階段の裏側へ着地し、そのまま塔の中を駆けた。
背後で白瞼会の人々が追ってくる。
彼らは目隠しをしたまま、壁を歩き、天井を這った。
「なんであいつら、道がわかるんだ!」
トトが叫ぶ。
「寝てるからだ!」
バドが答えた。
「ここじゃ起きてるほうが迷う!」
三つ目の鐘。
灯台の奥で、巨大な歯車が回り始めた。
階段が折りたたまれ、壁が床になり、床が縦穴へ変わる。
エベスが石弓を撃った。
矢に結んだ縄が梁へ絡み、四人は縦穴を振り子のように越えた。
最後のバドが飛んだとき、オムレツが彼のズボンを噛んだ。
「そこじゃない! 腰帯だ!」
布が裂ける音がした。
対岸へ転がったバドは、上着を腰に巻いた。
エベスは見ないふりをし、トトは笑い、アサヒはこんなときなのに少しだけ安心した。
塔の最下部――空から見れば最上部――に、白い石の扉があった。
扉には四つの手形と、一つの丸い穴。
「四人で手を置いて、穴に何か入れる」
トトが言った。
「鍵は?」
アサヒは地図を見た。正確には、オムレツの腹から床へ映った赤い地図を見た。
丸い穴の横に、小さく魚の印がある。
アサヒはポケットから、空から降った魚の鱗を取り出した。
穴へ入れると、鱗は青い目玉のように光った。
四人が手形へ手を置く。
扉の向こうから、長い寝息が聞こえた。
四つ目の鐘が鳴った。
白い石の扉が、まぶたのように開いた。
五 白いまぶたの地下
扉の先には、夜があった。
地下なのに、頭上には星が広がっていた。
ただし星は空にあるのではない。黒い水の底に沈み、ゆっくり揺れている。石の道が、水面すれすれに続いていた。
オムレツの腹に映る地図は、一本の赤い線を水の向こうへ伸ばしている。
「落ちるな」
バドが言った。
「この水は深さがない。落ちたら、どこまででも沈む」
「どういう意味?」
「言ったとおりだ。ここでは説明が役に立たん」
道の両側に、白い像が並んでいた。
王冠をかぶった者、翼のある者、魚の頭を持つ者。どの像も両手で耳を塞いでいる。
アサヒたちが通り過ぎると、像の口が動いた。
『アサヒ』
母の声だった。
アサヒは立ち止まりかけた。
バドが背中を押した。
「呼ばれても振り向くな」
『アサヒ、痛いよ』
『暗いよ』
『どうして置いていくの』
声は次第に幼くなり、最後には赤ん坊の泣き声になった。
アサヒは耳を塞いだ。
それでも声は頭の内側から聞こえた。
トトの横では、工具箱の中から父親の声がしていた。
『おまえの作るものは、いつも壊れる』
エベスの背後では、母親の声がした。
『強いふりばかりして、誰にも頼れない子』
バドの周りには、何も聞こえないようだった。
「バドには声がないの?」
アサヒが聞いた。
「ある」
バドは前を向いたまま答えた。
「自分の声だ。いちばんうるさい」
道の先に、円い部屋があった。
中央には食卓があり、十人ほどの骸骨が椅子に座っていた。海賊の帽子、錆びた鎧、宝石の指輪。全員が皿へ顔を伏せ、眠るように静かだった。
壁には船の名が彫られている。
王冠船ノクティル
「船は?」
トトが見回した。
「ここが船の中なんだ」
エベスが言った。
よく見ると、部屋の壁は石ではなく、巨大な船の船腹だった。
長い年月のあいだに岩と一体になり、地下宮殿の一部になっている。
船長席の骸骨は、胸に革袋を抱えていた。
アサヒが触れると、骸骨の顎が落ちた。
「怒ってる?」
「笑ってるんじゃない」
トトが言った。
「歯が三本しかないけど」
革袋の中には、航海日誌があった。
塩で固まった頁をエベスが慎重にはがす。
夏暦三百二年。
我らは王の命により、白睡宮へ宝を運ぶ。
宝とは金貨ではない。
眠り主を縛る、七鐘の心臓である。
次の頁。
王は死者を夢から連れ戻そうとした。
我らは命令に背き、鐘の心臓を隠した。
神は願いを叶えない。
願いと願う者を、区別なく呑み込む。
さらに次。
もしこの日誌を読む者がいるなら、
宝を持ち帰ってよい。
ただし、小さな青い鐘には触れるな。
あれは七つ目の音である。
「宝を持ち帰ってよい」
トトが嬉しそうに繰り返した。
「後半も読め」
エベスが言った。
五つ目の鐘が鳴った。
船全体が震え、骸骨たちの頭が一斉に持ち上がった。
アサヒたちは身構えた。
だが骸骨は襲ってこなかった。
船長が骨の指で、奥の扉を指した。
扉の向こうは、罠の回廊だった。
最初の床には、銀の硬貨がびっしり敷かれていた。
トトが一枚拾うと、壁から槍が飛び出した。
バドがトトの襟を引き、槍は工具箱を貫いた。
「僕の箱!」
「命より箱か」
「中身による!」
トトは箱から飛び出したばねと釘をかき集めた。焦げたパンは槍に刺さっていた。
二つ目の部屋には、十二の扉があった。
地図の赤い線は、すべての扉へ分かれている。
扉の上には文字が刻まれていた。
最も欲しいもののない扉を選べ
一番目の扉の向こうから、金貨の音。
二番目から、ごちそうの匂い。
三番目から、青貝岬の人々の笑い声。
四番目から、アサヒの母の歌。
アサヒは目を閉じた。
「欲しいもののない扉なんてない」
トトが言った。
「ある」
エベスが十二番目の扉を指した。
向こうから、バドのいびきが聞こえていた。
「俺のいびきは欲しくないって?」
「本人だけで十分」
十二番目の扉を開けると、細い通路が続いていた。
三つ目の部屋では、天井から砂が降り始めた。
出口には錆びた錠が三つ。
トトが工具を広げる。
「一分あれば開く」
「砂で埋まるまで三十秒だ」
エベスが言った。
「じゃあ二倍急ぐ」
「計算が変だぞ」
バドが錠を蹴った。
一つ目が外れた。
エベスが石弓で二つ目を撃ち抜いた。
三つ目はアサヒが、母の羅針盤の縁を差し込み、ひねった。
針が激しく回り、錠の内部で何かが噛み合った。
扉が開く。
砂と一緒に四人と一匹が転がり込んだ。
そこが宝物庫だった。
金貨の山。
青い宝石。
王冠、杯、古い剣。
象ほど大きな真珠。
青貝岬が百回買えるほどの財宝が、船倉いっぱいに積まれていた。
そして中央の台座に、小さな青い鐘があった。
鐘は鳴っていない。
なのに、見つめていると、頭の中で自分の名前を呼ばれる。
アサヒは金貨の山の下に、巻物の筒を見つけた。
開くと、王家の紋章と古い土地証文が現れた。
青貝岬および地下三千尋は
そこに住み、潮を守る者たちの共有地とする。
王権、公社、神殿のいずれもこれを奪えない。
「これがあれば」
エベスの声が震えた。
「公社を追い出せる」
「金貨も少し持とう」
トトは袋を広げた。
「少しって、持てるだけ」
そのとき、入口で拍手がした。
オベロが立っていた。
白瞼会の人々を従え、片手に銀の短銃を持っている。
「見事です」
オベロは言った。
「子どもは、大人が危険だと判断した場所へ、ためらいなく入っていく。実に便利だ」
白瞼会がバドを取り押さえた。
エベスが石弓を上げるより早く、オベロの銃が火を噴き、矢の弦を切った。
オベロは青い鐘へ歩み寄った。
「触るな」
アサヒが言った。
「触れなければ、ここまで来た意味がない」
「神は死者を返さない」
バドが叫んだ。
「日誌を読んだだろ!」
オベロの笑顔が消えた。
「私は息子を失った」
彼は静かに言った。
「熱病で。医者は間に合わなかった。妻は夢塩の中毒で、今も病院の壁に向かって、息子と話している」
白い手袋が、青い鐘を包んだ。
「世界が間違っているなら、直すべきでしょう」
「壊すことを、直すとは言わない」
アサヒは言った。
オベロは鐘を持ち上げた。
六つ目の鐘が、遠くで鳴った。
六 七つ目の音
青い鐘は、オベロの手の中でひとりでに揺れた。
音は聞こえなかった。
代わりに、世界からすべての音が消えた。
金貨の崩れる音も、誰かの叫びも、アサヒ自身の呼吸も。
完全な無音の中で、船倉の壁がゆっくり脈打ち始めた。
一度。
二度。
木の壁だと思っていたものに、青い血管が浮かんだ。
床板の隙間から、星の光が漏れる。
アサヒは理解した。
白睡宮は神を祀る建物ではない。
王冠船ノクティルは、神の眠る場所へ着いたのではない。
初めから、神の体内へ飲み込まれていたのだ。
船倉の天井が裂けた。
その向こうに、目があった。
大きさを考えることのできない目だった。瞳の中に夜空があり、星々がまばたきのたびに生まれ、消えた。まぶたの縁には、町ほど大きな透明な虫が群れている。
目はまだ閉じきっていた。
ほんの細い隙間から、こちらを夢見ている。
無音の中で、声がした。
カエシテアゲヨウ
オベロの前に、小さな男の子が現れた。
頬を赤くし、木馬を抱いている。
「父さん」
男の子が言った。
オベロは鐘を落とした。
膝をつき、両手を伸ばす。
白瞼会の者たちの前にも、それぞれ誰かが現れた。
死んだ親。失った恋人。若い自分。生まれなかった子。
彼らは目隠しを外し、泣きながら幻へ歩いた。
幻に触れた者から、身体が薄くなった。
紙に描いた絵のようになり、最後には折りたたまれ、巨大な目の隙間へ吸い込まれていく。
音が戻った。
叫び声。
船の軋み。
どこからともなく押し寄せる波。
「走れ!」
バドが白瞼会の腕を振りほどいた。
「七つ目が鳴り終わる前に、鐘を止めろ!」
青い鐘は床を転がり、ひとりでに鳴ろうとしていた。
鐘の内側には、黒い舌がある。
その先に、アサヒの母が立っていた。
黄色い外套。
少し疲れた笑顔。
今度は七年前ではなく、もし生きていたなら今ごろそうなっていたはずの顔だった。
「アサヒ」
母が言った。
アサヒの足が動いた。
「母さん」
「大きくなったね」
背後でエベスが何か叫んでいる。
トトがアサヒの腕をつかむ。
けれど母の声以外は、遠い水の中の音になった。
「探しに来てくれたのね」
「帰ろう。岬へ。ばあちゃんが待ってる」
「帰れるよ」
母は微笑んだ。
「ここなら、何度でも夏をやり直せる。あなたが小さかったころも、弟が生きている日も、ぜんぶ」
母の後ろに、青貝岬が現れた。
退去看板はない。家々は新しく、祖母は若い。見知らぬ小さな男の子が、アサヒの手を引いて走っている。
バドは立派な案内人の服を着て、みんなに尊敬されていた。
エベスの家族は喧嘩をせず、トトの機械は一度も壊れない。
完璧な夏だった。
だからこそ、アサヒは怖くなった。
母は、こんなふうに笑わない。
本当に嬉しいとき、母は口を閉じようとして失敗し、片方の頬だけ先に上がる。目の前の母は左右同じに笑っていた。
「あなたは誰」
アサヒが聞いた。
母の笑顔が止まった。
ワタシハ オマエノ ホシイモノ
「母さんは、どこ」
幻の母は少し首を傾けた。
その仕草の奥から、別の声が漏れた。
弱く、遠く、けれど今度こそ母の声だった。
『アサヒ。帰り道を選んで』
アサヒは母の羅針盤を握った。
針は幻の母ではなく、背後を指している。
エベス。トト。バド。オムレツ。いま生きて、怖がり、汗をかき、間違える者たち。
帰り道は、場所ではなかった。
アサヒは幻に背を向けた。
完璧な青貝岬が崩れた。
空が裂け、家々が裏返り、母の顔が夜の海へほどけていく。
オイテイクノカ
「置いていかれたのは、僕だ」
アサヒは言った。
「でも、僕は行く」
巨大な目が、ほんの少し開いた。
星のない宇宙が、こちらを見た。
青い鐘の舌が動く。
七つ目の音が鳴りかける。
エベスが切れた石弓を投げ捨て、腰の袋から石を出した。
「アサヒ、伏せて!」
石を投げる。
鐘に当たるが、弾かれた。
トトは穴の開いた工具箱をひっくり返した。
ばね、釘、歯車、石鹸箱、焦げたパン。
「こんなときにパン?」
「非常食だ!」
トトは歯車とばねを組み、石鹸箱へ押し込んだ。
「三秒後に、たぶん爆発する!」
「たぶん?」
エベスが叫ぶ。
「いつも壊れるから!」
トトは装置を鐘へ投げた。
一秒。
二秒。
何も起きない。
「やっぱり!」
エベスが叫んだ。
三秒目、焦げたパンが破裂した。
パンくずと火花が飛び、鐘の舌に絡んだ。
音が濁る。
バドが走り込んだ。
青い鐘を両手でつかみ、台座へ叩きつける。
鐘は割れなかった。
代わりに、バドの両腕が青く透け始めた。
彼の前に、若い日のアマネが現れた。
『今度こそ、一緒に来て』
バドの顔が歪んだ。
足が幻へ向く。
「バド!」
アサヒは叫んだ。
「また逃げるのか!」
バドは立ち止まった。
「子どもは嫌いだ」
彼は歯を食いしばった。
「本当に、嫌なことばかり言う」
バドは幻へ背を向けた。
青い鐘を抱え上げ、巨大な目の反対側――星の水へ投げた。
鐘は黒い水へ落ちた。
七つ目の音は、水の底で小さく鳴った。
完全な音ではなかった。
眠る神ヨルムルは、目を開かなかった。
ただ、寝返りを打った。
七 夏が海になる
世界が傾いた。
王冠船ノクティルが、岩から引きはがされる。
何百年ぶりかに帆柱が伸び、破れた帆がひとりでに開いた。
地下の黒い水が盛り上がり、星を浮かべた波となって船倉へ押し寄せる。
「宝!」
トトが金貨の袋を抱えた。
「一袋だけ!」
エベスは土地証文を服の中へ入れた。
「アサヒ、走って!」
オベロは息子の幻を抱こうとしたまま、動かなかった。
「オベロ!」
アサヒが呼んだ。
男の子の幻が、オベロの胸へ手を入れていた。
手ではなく、細い黒い根が、心臓へ伸びている。
「この子を置いていけない」
オベロは泣きながら言った。
「二度目なんだ」
「それは息子じゃない!」
「知っている」
オベロは笑った。
金色の前歯が見えた。
「知っていても、父親は愚かになれる」
波が彼と幻を呑み込んだ。
アサヒは一歩戻りかけた。
バドが肩をつかんだ。
「選んだのはあいつだ。おまえは自分の道を走れ!」
四人は船の上甲板へ駆け上がった。
食卓の骸骨たちが立ち上がり、帆綱を引いていた。船長の骸骨は舵輪を握り、歯の少ない口を大きく開けている。
「笑ってる」
トトが言った。
「今度はたぶんな」
バドが答えた。
ノクティル号は、地下宮殿の柱を砕きながら進んだ。
前方には石の壁しかない。
「出口は?」
エベスが叫ぶ。
オムレツの腹に映る赤い地図が、まっすぐ壁の向こうへ続いていた。
「船長を信じろ!」
アサヒは舵を取る骸骨を見た。
「骨だぞ!」
「バドよりは道に詳しそう!」
「それは否定できん!」
船が壁へ衝突する。
石が割れた。
その向こうには、逆さ灯台の縦穴があった。
水が一気に流れ込み、船を押し上げる。上ではなく、地面の方向へ。重力も道理も、眠る神の寝返りで混乱していた。
白瞼会の生き残りたちが階段にしがみついている。
エベスが縄を投げ、二人を船へ引き上げた。
トトは三人目へ工具箱の紐を投げた。箱は途中で底が抜けたが、紐だけは届いた。
「僕の箱、今日だけで何回死ぬんだ」
「物は死なない」
バドが言った。
「だから気楽だ」
船は灯台の入口を吹き飛ばし、古海へ飛び出した。
夜だった。
だが空には、魚が泳いでいた。
何千、何万という銀の魚が星のあいだを走り、逆さ潮の最後の群れが巨大な川を作っている。
ノクティル号は塩の平原を滑った。
地下からあふれた黒い水が船を運び、古海に一夜だけ海が戻った。
背後で逆さ灯台が崩れた。
空に浮いていた黒い岩がゆっくり落ち、地面へ触れる前に、眠る獣のような雲へ変わった。
船長の骸骨がアサヒへ敬礼した。
ほかの骸骨たちも、順に帽子を取った。
朝日が昇る。
光が骨に触れると、骸骨たちは白い鳥になった。
十羽の鳥は帆柱を一周し、東の空へ飛んでいった。
舵輪だけが残った。
「誰が操縦するんだ」
トトが聞いた。
全員がバドを見た。
「俺は陸の案内人だ」
バドは言った。
「海も元は陸だよ」
エベスが言った。
「逆だ」
舵輪が勝手に回った。
船は急旋回し、バドは帆柱へ顔からぶつかった。
アサヒたちは笑った。
白瞼会の人々まで、泣きながら笑った。
オムレツは、どこで拾ったのか船長の帽子を食べていた。
八 青貝岬の朝
八月三十一日の朝、白銅公社の解体隊が青貝岬へ来た。
住民たちは家の前に椅子を並べ、退く気のない顔をしていた。
祖母イネラは本当に柱へ自分を縛っていた。ただし縛られていたのは公社の現場主任のほうだった。
「規則ですから」
主任は困った声で言った。
「九時の鐘が鳴れば、作業を――」
遠くから、別の鐘がした。
波の音。
誰かが古海を指した。
干上がったはずの平原を、黒い船が走ってくる。
船底から星の水をまき散らし、破れた帆を朝日に光らせている。
船首にはアサヒ、エベス、トト。
舵には顔を腫らしたバド。
後ろには六本脚のトカゲと、目隠しを外した白瞼会の人々。
ノクティル号は岬の手前で止まらなかった。
「止めろ!」
エベスが叫ぶ。
「止めてる!」
バドが舵輪にぶら下がる。
「曲がってる!」
「船が言うことを聞かん!」
船は公社の退去看板を真っ二つにし、広場の噴水へ突っ込んで止まった。
しばらく、誰も何も言わなかった。
祖母が柱に縛られた主任を置いて歩いてきた。
アサヒを見上げる。
「遅かったね」
アサヒは船から飛び降りた。
祖母へ抱きついた。
「ただいま」
祖母はアサヒの頭を二度叩いた。
抱きしめる代わりだった。
エベスが土地証文を公社の主任へ突きつけた。
主任は王家の封印を確認し、顔を白くした。白銅公社の法律顧問が三人呼ばれ、三人とも別々の角度から白くなった。
王家の土地証文は今も有効だった。
青貝岬は住民の共有地で、公社には採掘権どころか、看板を立てる権利さえなかった。
トトが持ち帰った金貨は、村の借金を払い、屋根を直し、井戸を深くし、学校に新しい窓をつけても、まだ半分残った。
もっとも、金貨の袋には焦げたパンくずが大量に混じっていたため、銀行でずいぶん説明が必要だった。
白銅公社は撤退した。
夢塩の採掘計画は中止され、白瞼会の生き残りたちは、岬の空き倉庫を借りて「目を開けたまま暮らす練習」を始めた。
オベロは戻らなかった。
青い鐘も、眠る神も、古海の底へ沈んだ。
一夜だけ戻った海は昼までに消え、ノクティル号は広場で再び石になった。
アサヒは船長室の跡から、小さな真鍮の笛を見つけた。
三つの穴がある。
吹いてみると、母がよく口ずさんでいた三音が鳴った。
バドが隣に立っていた。
いつもの汚れた上着。額には大きなこぶ。
「アマネの笛だ」
彼は言った。
「逆さ灯台で、あいつが俺に投げた。逃げる俺に」
「どうして船に?」
「俺が落としたんだろう。七年前に。物は、人より帰り道を覚えてることがある」
アサヒは笛を握った。
「母さんは、あそこで死んだのかな」
バドは長く黙った。
「わからん」
やがて言った。
「だが、あそこにいた声は、最後におまえを帰した。夢だったとしても、それを選んだのはアマネだと思う」
「バドは逃げた」
「ああ」
「でも戻った」
「ああ」
「じゃあ、半分くらい許す」
「けちだな」
「残りは働いたら」
バドは嫌そうな顔をした。
「それは許されないほうがましだ」
九月一日、バドは廃映画館の前に小さな看板を出した。
古海案内所
安全、迅速、たまに遭難
子ども半額
ただし質問は禁止
その下に、エベスが勝手に書き足した。
大人も信用しないこと
トトは新しい工具箱を作り始めた。
今度の箱には脚がついていて、危険が近づくと持ち主を置いて逃げる設計だった。
青貝岬には魚の塩が残り、屋根も道も白く光った。
夕方になると、空の高いところを一匹だけ、銀の魚が泳ぐことがあった。
アサヒはときどき母の笛を吹いた。
三つの音は岬を渡り、古海へ落ちていく。
返事はない。
けれど地面の底から、遠い寝息が聞こえることがある。
そのたびにアサヒは、帰るべき家を見た。
曲がった煙突。
風に鳴る窓。
祖母の焼くパン。
友だちの笑い声。
切符売り場で昼寝をする、役に立たない案内人。
世界は正しくなかった。
なくしたものは戻らず、機械は壊れ、大人は約束を破り、夏は必ず終わる。
それでも、目を開けて歩くには、悪くない世界だった。
アサヒは笛をポケットへしまい、家へ走った。
空では魚が、秋の入口を探していた。