『外れスキル【余白】で追放された俺、世界の設定を書き足せると気づいたので、滅亡予定の辺境都市で無双します』
「セドイ。今日限りで、お前を《白銀の聖剣》から追放する」
王都冒険者ギルドの二階。
金貨一枚もする個室で、勇者ルカスはそう言った。
窓際には、神官セレナと弓使いのバルツがいる。二人とも俺と目を合わせようとしない。
テーブルの中央には、黒曜迷宮を攻略した証である竜眼石。その隣には、山のような金貨袋が積まれていた。
俺の前に置かれているのは、銅貨三枚だけだった。
ずいぶん分かりやすい。
「理由を聞いても?」
「戦えない。回復もできない。荷物持ちと記録係なら、もっと安く雇える」
ルカスは自慢の金髪をかき上げ、腰の聖剣を鳴らした。
「そもそも、お前の天恵は【余白】とかいう意味不明の外れスキルだろう? 黒曜迷宮を踏破できたのは、俺の聖剣とセレナの加護のおかげだ。お前は俺たちの名声にぶら下がっていただけだ」
「そうか」
「反論しないのか?」
「事実じゃない部分はあるけど、もう決めたんだろ」
俺が言うと、ルカスは鼻で笑った。
反論したところで、時間の無駄だ。
それに、俺は三年間、この連中に何も説明してこなかった。
ルカスの聖剣には〈刃こぼれしない〉。
セレナの法衣には〈呪いを一度だけ肩代わりする〉。
バルツの靴には〈足音を獣に聞かれない〉。
ほかにも、鎧、矢筒、水筒、薬瓶、野営道具。
俺は毎晩、仲間が眠ったあとで、装備品に見える“白い余白”へ短い一文を書き足していた。
彼らは自分たちが一流だから、毒沼でも倒れず、魔獣の群れにも見つからず、百回剣を打ち合わせても武器が折れないのだと思っている。
まあ、それはそれで幸せな勘違いだ。
「分かった。今まで世話になった」
俺は立ち上がり、背負い袋を肩にかけた。
そして扉へ向かう前に、三人の装備へ指を向ける。
目に見えないインクが、空中へほどけた。
俺が書いた文章は、俺の魔力で維持されている。
契約を切れば、余白は元に戻る。
「何をした?」
「俺が預けていたものを返してもらっただけだ」
「負け惜しみか。さっさと消えろ」
「ああ。それと一応、忠告しておく」
俺は聖剣を指さした。
「その剣、三日以内に鍛冶屋へ持っていったほうがいい。芯に亀裂が入ってる」
ルカスは腹を抱えて笑った。
「聖女から授かった聖剣だぞ? お前ごときが鑑定したつもりか!」
俺は肩をすくめ、銅貨三枚をテーブルに残した。
「退職金はいらない。その代わり、二度と俺の仕事を自分の手柄にするな」
そう言って、俺は《白銀の聖剣》を辞めた。
その三日後、本当に聖剣が折れることになるのだが――そのときの俺は、もう王都から百キロ離れた街道を歩いていた。
天恵【余白】。
十歳の祝福式でその名が出たとき、神官は首をかしげた。
攻撃でも防御でも、生産でもない。古い文献にも記録がない。
鑑定板には、能力説明すら表示されなかった。
ただ、空欄だけがあった。
だから外れスキルと呼ばれた。
けれど俺には、昔から見えていた。
剣の銘の横、契約書の末尾、魔法陣の切れ目、誰も気に留めない小さな空白。
そこへ指で文字を書くと、現実が少しだけ変わる。
壊れかけの椅子に〈次に座る者が立つまで壊れない〉と書けば、一人分だけ持ちこたえる。
濁った井戸に〈夜明けまで毒を沈める〉と書けば、朝までは安全な水になる。
鈍った短剣に〈縄だけはよく切れる〉と書けば、鋼鉄の鎖さえ断てる。
何でもできるわけではない。
すでに書かれた性質を消すことはできず、本物の余白に、一文だけ。
しかも、無茶な内容ほど魔力を食う。
――少なくとも、俺はそう思っていた。
王都を出て四日目。
昼食代を惜しんで森の木の実をかじっていると、前方から悲鳴が聞こえた。
「止まれ! 馬車を囲め!」
街道の曲がり角で、十人ほどの盗賊が一台の馬車を襲っている。
護衛は二人。片方は肩を斬られ、もう片方は槍を折られていた。
逃げてもよかった。
俺はもう冒険者パーティーの一員ではないし、剣の腕も並だ。
ただ、馬車の扉から、小さな女の子が顔を出していた。
泣きながら、倒れた護衛へ手を伸ばしている。
「……仕方ないな」
俺は足元の小石を拾った。
どこにでもある、丸い石だ。
その表面には、自然が削り残した細い白線が見える。
俺は指先に魔力を集めた。
淡い青色の文字が浮かぶ。
〈投げれば、悪意ある者の額に当たる〉
「おい、そこの旅人! 余計な真似を――ぶへっ!」
小石が盗賊の額に命中した。
男は白目をむいて倒れる。
俺は二個目、三個目と拾った。
ひょい。
ごつん。
ひょい。
ごつん。
「な、なんだこの石は!」
「避けろ!」
「避けても当たるぞ!?」
一分もしないうちに、九人が額を押さえて転がった。
最後に残った頭領らしき大男が、女の子を人質に取ろうと馬車へ走る。
「小細工ばかりしやがって!」
男の槍が、扉の前に立った銀髪の女性へ突き出された。
間に合わない。
そう思った瞬間、俺の目に、槍と女性のあいだにある空間の余白が見えた。
物ではない。
紙でも、武器でも、魔法陣でもない。
世界そのものの、まだ何も書かれていない場所。
俺は無意識に、そこへ一文を書いた。
〈この一歩は、届かない〉
槍の穂先が止まった。
いや、男は全力で走っている。足も動いている。なのに、一歩分の距離が永遠に縮まらない。
「は?」
大男が間抜けな声を出した。
俺も同じ気分だった。
世界にも、余白があるのか。
俺は男の背後へ回り、首筋を手刀で打った。
巨体が地面に沈む。
静かになった街道で、銀髪の女性が俺を見つめていた。
二十歳前後だろうか。旅装の上からでも育ちのよさが分かる。青灰色の瞳は、驚きよりも強い好奇心に輝いていた。
「今のは、空間魔法ですか?」
「たぶん違う」
「たぶん?」
「俺も初めてやったから」
女性は数秒黙り、それから吹き出した。
「命を救われた直後に笑うのは失礼ですね。申し遅れました。私はミレイア・フェルセン。北辺都市フェルセンの領主代行です」
「領主代行?」
「父が病に伏しているので、今は私が街を預かっています。こちらは妹のトリリンです」
女の子が馬車から降り、俺の外套をつかんだ。
「石のお兄ちゃん、ありがとう!」
もっと格好いい呼び名はなかったのだろうか。
ミレイアは倒れた盗賊たちと、俺の腰にある安物の短剣を見比べた。
「セドイ様。差し支えなければ、目的地を伺っても?」
「特に決めていない。仕事を探しながら北へ行くつもりだった」
「それなら、フェルセンへ来てください」
彼女は、迷いなく言った。
「我が街はいま、滅亡の危機にあります。ですから、あなたのような規格外の方を雇えるなら、少しも遠慮している場合ではありません」
「滅亡?」
「はい。六日後、古竜が目覚めます」
ずいぶん物騒な再就職先だった。
北辺都市フェルセンは、美しい街だった。
山脈から流れる青い川。赤い屋根。中央広場には巨大な日時計があり、城壁の外には麦畑が広がっている。
ただし、人々の顔は暗い。
家財を荷車へ積む者。神殿で祈る者。商店の扉へ板を打ちつける者。
六日前、天文塔が凶兆を観測した。
北の休火山に封じられていた終焉竜ヴァルグリムが目覚め、フェルセンへ飛来する。
古い記録によれば、その黒炎は城一つを三呼吸で灰にするという。
「王都へ援軍を求めましたが、近隣を治めるカルゼン侯爵に握り潰されました」
領主館の執務室で、ミレイアは地図を広げた。
「侯爵は以前から、この街の銀鉱山を欲しがっていました。鉱山の権利を譲れば兵を出す、と」
「譲らないのか?」
「譲れば、鉱夫の賃金は半分になり、冬を越せない家が出ます。それに、兵が来ても古竜に勝てる保証はありません」
「住民を避難させるのは?」
「老人と子どもを含めて一万二千人。山道は狭く、全員が安全圏へ出るまで十日は必要です」
つまり、間に合わない。
窓の外には、補修中の城壁が見える。
石材は古く、魔法障壁を生む刻印もほとんど消えていた。
その城壁の上に、俺には巨大な文字が見えた。
〈フェルセン防壁。残存出力十二パーセント。終焉竜来襲時、推定耐久時間――四・七秒〉
そして文章の末尾に、空白がある。
俺は目をこすった。
「セドイ様?」
「街にも、説明文がある」
「はい?」
「いや、こっちの話だ」
王都を離れてから、俺の【余白】は明らかに変わった。
以前は物に残された隙間しか見えなかったのに、いまは場所、現象、果ては人の魔法にまで文章が浮かぶ。
パーティーにいた頃、俺は毎日、百を超える装備へ魔力を流し続けていた。
その維持をやめたことで、本来の力が戻ったのかもしれない。
試しに、自分自身を見てみる。
〈リオ・クローデル。天恵【余白】。世界に残された未確定領域へ、一文を追記する〉
その下に、さらに小さな文字があった。
〈魔力量測定不能。理由――既存尺度の上限を超過〉
「……測定不能って、ゼロじゃなくて上限越えだったのか」
祝福式の神官は、鑑定板が真っ白になったのを見て「魔力なし」と判断した。
まさか、板のほうが音を上げていたとは。
俺は少しだけ、遠い目になった。
三年間、夜ごと何百個もの装備を強化しても、魔力切れになったことはない。
なぜ疑問に思わなかったのだろう。
「何か分かりましたか?」
「ああ。たぶん、街を守れる」
ミレイアが息をのむ。
「本当ですか?」
「まだ試したいことはある。でも、少なくとも四・七秒よりは長くできる」
俺は城壁へ向かった。
古代魔法の刻印に手を触れる。
石壁の余白へ、指先で一文を書いた。
〈この壁は、守ろうとする意志の数だけ強くなる〉
瞬間。
街全体が、鐘のように鳴った。
城壁に埋もれていた金色の線が一斉に輝き、百年分の汚れと苔が光に弾かれる。崩れていた石材が自ら浮き上がり、元の場所へ収まっていく。
中央広場から歓声が上がった。
補修に当たっていた職人が、腰を抜かしている。
俺の目の前で、説明文が変わった。
〈フェルセン防壁。残存出力――算定不能。住民一万二千四百八十一名の防衛意志に接続〉
「……やりすぎたか」
「いま、何をしたんです?」
追いついたミレイアが、光る城壁と俺を交互に見た。
「一文、足しただけだ」
「一文で、廃れていた古代防壁を完全復旧させたのですか?」
「完全かどうかは、竜に殴らせてみないと」
「その確認方法は却下します」
彼女は即答したあと、口元を押さえた。
笑っている。
暗かった街に、ほんの少しだけ希望が戻った。
それから五日間、俺はフェルセン中の余白を探した。
干上がりかけた貯水槽には、〈雨水を一滴も無駄にしない〉。
治療院の薬棚には、〈必要な者へ渡るまで効能を失わない〉。
避難路の石畳には、〈子どもと老人を転ばせない〉。
何でもかんでも強くするのではなく、必要な場所へ、必要な一文だけを書く。
書くたびに街の人たちは驚き、やがて俺を見つけると、妙なお願いをするようになった。
「兄ちゃん、この鍋に〈料理が勝手にうまくなる〉って書いてくれ!」
「料理人の腕が上がらなくなるから駄目だ」
「じゃあ〈焦げてもおいしい〉!」
「まず火加減を覚えろ」
パン屋の少年には、〈早起きできる枕〉を頼まれた。
宿屋の女将には、〈夫が隠し酒をできない棚〉を頼まれた。
トリリンには、〈宿題が自分で終わる鉛筆〉を頼まれた。
全部断った。
「セドイは意外と厳しいのですね」
領主館の食堂で、ミレイアが笑う。
「余白は、怠けるためにあるんじゃない。足りないものを補うためにある」
「では、私に足りないものも補えますか?」
向かいに座る彼女の顔には、疲労が濃い。
五日間、ほとんど眠らずに避難計画と防衛準備を進めていた。
「睡眠だな」
「情緒がありません」
「領主に必要なのは、甘い言葉より判断力だろ」
「正論ですが、少しくらい迷ってください」
俺は空になった茶器へ湯を注いだ。
ミレイアは、侯爵の要求を拒み続けている。
鉱山を差し出せば、自分だけは助かる。妹も、父も、領主家の家臣も逃がせる。
それでも彼女は、一万二千人を置いていかなかった。
この街の防壁が彼女の意志に応えたのも、当然だと思う。
「なあ、ミレイア」
「はい」
「どうして、初対面の俺を街へ連れてきた?」
彼女は少し考え、窓の外を見た。
「盗賊を倒したから、ではありません」
「違うのか」
「あなたは、倒れた護衛を最初に助け起こしました。名乗るより先に。あれを見て、この方なら力を預けても大丈夫だと思ったのです」
俺は返事に困った。
ルカスたちは、俺の力を知らなかった。
知ろうともしなかった。
ミレイアは、力を見抜いたから信じたのではない。
力以外のところを見て、信じた。
「買いかぶりだ」
「では、買ったままにしておきます。返品は受け付けません」
「領主って強引なんだな」
「滅亡寸前ですから」
そのとき、街の北で爆発音がした。
窓ガラスが震える。
次いで、警鐘が鳴った。
予定より一日早い。
終焉竜が来た。
北門へ駆けつけると、山の向こうが黒く染まっていた。
雲ではない。
翼だ。
一度羽ばたくたび、森が波打つ。鱗の隙間から赤い光が漏れ、角の周囲では雷が踊っている。
全長百メートルを超える黒竜が、夕空を覆い隠していた。
城壁の上では、衛兵たちが震えながら弓を構えている。
それでも、誰一人逃げていない。
金色の防壁が、彼らの意志に呼応して輝いた。
「全員、配置につけ!」
ミレイアの声が飛ぶ。
「攻撃は私の命令まで待て! 市民の避難を優先! 北区画が空になるまで、必ず持ちこたえる!」
恐怖に負けかけていた兵たちの背筋が伸びた。
そのとき、南側から派手な軍旗が近づいてきた。
カルゼン侯爵家の紋章だ。
「援軍?」
ミレイアの副官が声を上げる。
だが、先頭にいる男を見て、俺は眉をひそめた。
白銀の鎧。
折れた聖剣の代わりに、豪華な大剣を背負っている。
ルカスだった。
後ろには、セレナとバルツもいる。三人とも包帯だらけだ。
「セドイ! やはりここにいたか!」
ルカスは、俺を見つけるなり怒鳴った。
「お前が妙な呪いをかけたせいで、俺の聖剣が折れた! 迷宮では魔獣に囲まれ、セレナの法衣も裂けた! 今すぐ元に戻せ!」
「忠告しただろ。鍛冶屋へ持っていけって」
「あれはお前が壊したようなものだ!」
「元々の亀裂を、俺が三年間止めていただけだ」
ルカスの顔が引きつった。
セレナが青ざめ、バルツは自分の靴を見下ろす。
ようやく気づいたらしい。
「では……迷宮で毒が効かなかったのも、矢が尽きなかったのも……」
「全部じゃない。お前たち自身の実力もあった。ただ、自分で思っていたほど無敵ではなかった。それだけだ」
「ふざけるな!」
ルカスが大剣へ手をかけた。
その後ろから、肥えた中年男が馬を進める。
紫の外套に、宝石だらけの指輪。カルゼン侯爵本人だった。
「内輪揉めはあとにしろ」
侯爵は城壁の向こうに見える古竜を一瞥し、鼻を鳴らした。
「ミレイア嬢。最後の機会だ。鉱山譲渡の証文へ署名せよ。さすれば我が軍が、貴族街の住民だけは避難させてやる」
「ほかの市民は?」
「間に合わん。平民など、また増える」
城壁の上で、空気が凍った。
ミレイアは証文を受け取らなかった。
「お帰りください、侯爵」
「正気か?」
「ええ。私の街に、守る命を選ぶ援軍は不要です」
「ならば、全員まとめて焼かれるがよい!」
侯爵が馬首を返す。
その瞬間、終焉竜が咆哮した。
空気が震え、馬が暴れた。
黒竜の赤い目が、まっすぐルカスを見ている。
正確には――ルカスの胸元を。
鎧の上に、黒い宝石が吊られていた。
黒曜迷宮の最奥で、彼が戦利品として持ち帰った竜眼石だ。
俺の目に、宝石の説明が浮かぶ。
〈終焉竜ヴァルグリム制御鍵。王権認証部品。封印施設より取り外されたため、休眠命令を解除〉
「ルカス、その石を今すぐ外せ!」
「何?」
「それが竜を起こした。元の祭壇から持ち出したんだろ!」
「これは俺が迷宮を攻略した証だ! 渡せるか!」
黒竜が口を開く。
喉の奥に、太陽のような光が生まれた。
まずい。
「総員、伏せろ!」
ミレイアが叫ぶ。
黒炎が放たれた。
山を削りながら迫る、破滅の奔流。
夜が昼に変わり、熱だけで遠くの木々が燃え上がる。
俺は城壁の前へ出た。
「セドイ様!」
防壁の余白へ手を伸ばす。
すでに一文は書いてある。
本来なら、二つ目は加えられない。
だが、城壁の説明文のさらに外側に、誰にも使われていない細い空間があった。
文章の余白ではない。
余白という概念そのものの、余白。
俺は笑った。
「外れスキルにしては、ずいぶん融通が利くじゃないか」
指を走らせる。
〈この街では、炎は人を照らす光にしかならない〉
黒炎が城壁へ衝突した。
爆音は、しなかった。
破滅の炎は無数の光へほどけ、街の上を舞った。
赤、青、金、紫。
夏祭りの灯籠のような火の粒が、夕暮れのフェルセンを照らしている。
熱はない。
子どもたちが避難所の窓から手を伸ばし、歓声を上げた。
終焉竜が、困惑したように首を傾げる。
城壁の上も、侯爵軍も、誰一人声を出せなかった。
「……竜の息を、消した?」
ミレイアがつぶやく。
「消してない。灯りにした」
「そのほうが、もっとおかしいです」
もっともだ。
黒竜は再び息を吸い込んだ。
「同じ手は二度――」
「たぶん何度でも効く」
二発目の黒炎も、花火のように散った。
三発目は、街の日時計をきらきら光らせた。
古竜は口を閉じた。
少し傷ついた顔に見える。
だが、問題は解決していない。
竜を倒せば、墜落だけで街が潰れる。そもそも、この竜は命令に従っているだけだ。
俺はルカスへ向き直った。
「鍵を渡せ」
「断る! 侯爵閣下は、この石に金貨一万枚の価値があると――」
「命より高いのか?」
「俺は勇者だ! この竜は俺が倒す!」
ルカスが大剣を抜き、城壁から飛び降りた。
無謀ではあるが、身体能力だけなら本当に一流だ。風魔法で跳躍し、黒竜の鼻先へ斬りかかる。
「聖光斬!」
白い斬撃が、黒い鱗へ直撃した。
ぱきん。
大剣が根元から折れた。
「な……」
黒竜が前脚を軽く振る。
ルカスは虫のように弾き飛ばされ、城壁へ突っ込んだ。
俺が書き足した防壁が衝撃を受け止めたので死んではいない。
壁に人型の穴は開いたが。
「勇者様!」
セレナが駆け寄る。
ルカスの胸元から、制御鍵がこぼれ落ちた。
俺はそれを拾う。
黒竜の目が、俺を捉えた。
巨大な翼が羽ばたく。
突風で兵士たちが倒れるなか、俺は城壁を蹴った。
靴の余白へ、一文。
〈次の一歩だけ、空を地面として踏める〉
一歩。
空中に光の足場が生まれる。
書く。
踏む。
また書く。
俺は階段を駆け上がるように、百メートルの空を昇った。
「人間……王鍵ヲ……返セ……」
終焉竜の声が、頭の中へ直接響く。
怒りではない。
苦痛に満ちた声だった。
近づいて、ようやく分かる。
竜の額には巨大な魔法陣が刻まれ、その半分が焼け落ちている。
命令文が壊れ、同じ行動を繰り返しているのだ。
〈第一命令。王都を侵す敵を焼却せよ〉
〈第二命令。王鍵の保持者を王権代行者として認証〉
〈第三命令。王統断絶時―― 〉
最後が空白だ。
古代王国は滅び、正統な王はいない。
なのにルカスが鍵を持ち出したせいで、竜は彼を王権代行者と誤認した。
そしてルカスがフェルセンを「攻略対象」と口にした。
壊れた命令が、それを敵国への進軍命令として処理したのだ。
「ヴァルグリム。お前は、街を焼きたいのか?」
「我ハ……守護兵器……王国ヲ……民ヲ……守ル……」
「なら、話は早い」
俺は制御鍵を魔法陣の中央へはめ込んだ。
欠けた線がつながり、空白が青く輝く。
そこへ、一文を書いた。
〈王統断絶時、最も多くの民を守ろうとする者を主と認める〉
世界が、静止した。
風が止まり、光の粒が空中で固まる。
遠いどこかで、巨大な本の頁がめくられるような音がした。
終焉竜の瞳から、濁った赤色が消える。
澄んだ金色へ変わった。
竜はゆっくりと地上を見下ろす。
城壁の最前列。
逃げずに立ち、一万二千人の避難を指揮しているミレイアを。
「新タナル主ヲ……確認」
翼を畳み、終焉竜ヴァルグリムが空中で頭を垂れた。
「命令ヲ。我ガ王」
ミレイアは呆然としていた。
俺は空中から叫ぶ。
「ミレイア! 命令してくれ!」
「わ、私がですか!?」
「この街で一番、皆を守ろうとしてただろ!」
彼女は周囲を見た。
兵士。市民。妹。病床の父がいる領主館。
そして、頭を垂れる古竜。
大きく息を吸う。
「終焉竜ヴァルグリム!」
その声は、街の隅々まで届いた。
「フェルセンの民を守りなさい! 誰一人、理不尽な炎で失わせてはなりません!」
「御意」
古竜が翼を広げる。
今度の咆哮は、恐怖ではなく誓いだった。
「これは我が軍の手柄である!」
すべてが終わった直後、カルゼン侯爵はそう主張した。
「我々が竜を追い詰めたからこそ、フェルセン家は服従させられたのだ! 従って、銀鉱山の管理権は――」
その面の皮の厚さだけは、古竜の鱗に勝てそうだ。
「侯爵様」
俺は、彼が持っていた鉱山譲渡の証文を指さした。
まだ署名欄は空白。
契約条件の末尾にも、小さな余白がある。
「何だ、平民」
「その証文、一行抜けていますよ」
俺は指で書き足した。
〈本契約に関する発言は、真実のみを口にできる〉
証文が光った。
「な、何をした!」
「では侯爵。援軍を出さなかった本当の理由は?」
「古竜がフェルセンを滅ぼしたあと、無人になった鉱山を奪うためだ!」
侯爵は自分の口を押さえた。
周囲の兵士たちが、一斉に彼を見る。
「王都への救援要請を握り潰しましたか?」
「三通とも燃やした! ついでに天文塔の予測を一日遅い内容へ書き換えさせた!」
「避難させるつもりだったのは?」
「自分の息がかかった商人と、鉱山技師だけだ! 平民など知るものか!」
広場が静まり返った。
侯爵は涙目で口を閉じようとするが、証文を握っている限り、質問には正直に答えてしまう。
ミレイアが衛兵へ命じた。
「カルゼン侯爵を拘束してください。証文と証言は王都監察院へ送ります」
「き、貴様ら! 私を誰だと――私は侯爵だ! 賄賂と脅迫で爵位を買っただけの無能だが、侯爵なのだぞ!」
自白が止まらない。
部下たちは目をそらし、侯爵を縛り上げた。
次に、ルカスが俺の前へ来た。
治療は受けたらしく、頭に包帯を巻いている。
セレナとバルツも一緒だ。
「セドイ」
声には、以前の勢いがなかった。
「戻ってこい。今度は報酬の二割……いや、三割をやる。お前の補助と俺の剣があれば、また最強のパーティーになれる」
「剣、折れてるぞ」
「新しいものを買う!」
「そういう話じゃない」
俺は三人を見た。
「俺が欲しかったのは、金貨の割合じゃない。仲間として、自分の仕事を見てほしかっただけだ」
セレナが唇をかむ。
「……ごめんなさい。私、加護が強くなったのだと思い込んでいました。あなたが毎晩、法衣を直していたことにも気づかなくて」
「私もだ」
バルツが頭を下げた。
「靴の手入れも、矢羽根の調整も、全部当然だと思っていた。謝って済むとは思わないが、本当にすまなかった」
二人の謝罪は受け取った。
ルカスは、まだ納得していない顔だ。
「俺は勇者だぞ。お前だって、勇者パーティーの一員という肩書きが必要なはずだ」
俺は背後を振り返った。
城壁の向こうでは、終焉竜が壊れた水路を前脚で器用に直している。
広場では、市民がミレイアを囲んで歓声を上げていた。
トリリンがこちらへ走りながら、「石のお兄ちゃん!」と手を振っている。
「間に合ってる」
俺が答えると、ルカスの顔が真っ赤になった。
その後、彼は侯爵から受け取った前金と、黒曜迷宮から無断で持ち出した制御鍵の件で監察院に連行された。
勇者資格は停止。
罰として一年間、王立図書館で古文書の写本を命じられたらしい。
一文字でも間違えると最初からやり直しだという。
余白の大切さを学ぶには、ちょうどいい仕事だと思う。
終焉竜騒動から三か月。
フェルセンは、滅亡どころか以前より賑やかになった。
古竜を一目見ようと、商人や冒険者が各地から訪れる。
ヴァルグリムは普段、北山の頂上で眠っているが、週に一度は街へ降りてきて、水路工事や荷運びを手伝う。
最初は悲鳴を上げていた住民も、今ではすっかり慣れた。
「ヴァル爺、そっちの材木持ってくれ!」
「承知シタ」
「畑を踏むなよ!」
「努力スル」
古代王国の最終兵器が、大工に叱られてしょんぼりしている。
平和で何よりだ。
カルゼン侯爵は爵位を剥奪され、銀鉱山へ送った違法徴税分を全額返還させられた。
セレナとバルツは新しいパーティーを組み、今度は装備の手入れを自分たちでやっているらしい。
そして俺は、領主館の一室を借りて暮らしている。
肩書きは、フェルセン特別補佐官。
仕事内容は、防壁の点検、古代文書の解読、街の相談事の処理。
あと、トリリンの宿題監視だ。
「セドイ、ここに名前を書いてください」
執務室で、ミレイアが一枚の書類を差し出した。
「新しい雇用契約か?」
「似たようなものです」
受け取って読む。
婚姻届だった。
「どこが似てるんだ」
「長期契約です。住居と食事つき。共同経営者として、領地運営にも参加していただきます」
「途中解約は?」
「原則認めません」
「強引な領主だな」
「滅亡寸前ではなくなりましたので、今は個人的な理由です」
ミレイアは平然としていたが、耳が赤い。
書類の署名欄には、二人分の余白がある。
「ここに〈必ず幸せになる〉と書けば、そうなると思いますか?」
彼女が尋ねた。
俺は少し考え、首を横に振った。
「書かない」
「どうして?」
「幸せは、最初から決められていないほうがいい。失敗したら話し合って、足りないところを二人で書き足せばいいだろ」
ミレイアは目を丸くしたあと、柔らかく笑った。
「では、まず何を書き足しますか?」
俺は羽根ペンを取った。
魔力ではなく、普通のインクにつける。
自分の名前を書き、その横へ短い一文を添えた。
〈毎朝、同じ食卓でお茶を飲む〉
「ずいぶん控えめですね」
「毎日続けるなら、これくらいがいい」
「分かりました」
ミレイアも署名する。
その横に、彼女はこう書いた。
〈ときどき、甘い言葉も添える〉
「これは契約条件か?」
「最重要項目です」
窓の外で、街の鐘が鳴った。
広場を走る子どもたち。荷馬車を引く商人。城壁の上で訓練する衛兵。北山からあくびをする古竜。
俺には今も、世界中の余白が見える。
書き足せる場所は、きっと無限にある。
けれど、何でも俺の望みどおりにすればいいわけではない。
人が自分で選び、自分で歩いたあとに残る、ほんの少しの足りない部分。
そこを支える一文であればいい。
俺は開け放った窓から、フェルセンの街を見渡した。
街の説明文の末尾に、新しい余白が生まれている。
指先を上げ、そっと書いた。
〈この街の明日は、今日より少しだけ幸せになる〉
鐘の音に重なるように、世界が頁をめくった。
そして俺たちの物語は、余白の先へ続いていく。
了