夜鳴き塔の逃亡者たち
雲より下へ落ちたものは、二度と戻らない。
浮環都市アルカ=ミレでは、幼い子どもでさえそう教わる。硬貨も、帽子も、人間も。都市を支える巨大な環の外へ出れば、そこには乳色の雲海が果てしなく広がり、その下が大地なのか、海なのか、それとも世界の底なのかを知る者はいない。
ただし、借金だけは別だった。
借金は落としても、必ず戻ってくる。
一 赤紙と地図
リソイが家の扉に貼られた赤紙を見つけたのは、風曜日の朝だった。
〈第七码頭拡張工事につき、雨樋横丁の全住戸を五日後に収用する〉
赤紙には評議会の黒い歯車印が押され、その下に補償額が記されていた。家族四人が一月暮らせるかどうかという額だ。
「五日って、パン種より気が短いじゃないか」
隣家の大柄な少年ガラムが言った。彼は十五歳で、石臼を一人で持ち上げられるが、難しい話を聞くと眉毛が同じ方向へ寄っていく。
「第七码頭なんて上層にあるのに、なんで横丁を壊すんだよ」
針金細工のゴーグルを額に載せたトビが、赤紙を爪で弾いた。
「支柱を増やすんだって。ほら、ここ」
リソイは工事図の小さな注記を指した。十四歳の彼女は、亡き父の地図工房を母と守っていたから、線と縮尺を読むのは大人より早い。
「雨樋横丁の下に古い空洞がある。そこを埋めて新しい杭を通すつもりなんだ」
「空洞じゃないよ」
末っ子のエルが、扉の陰から言った。十二歳で、痩せた頬に灰色の髪がかかっている。彼は音に妙に敏感だった。水道管の向こうを鼠が走っただけで、何匹か言い当てた。
「夜になると、下で音がする。ずっと遠くで、誰かが弓を引いてるみたいな」
トビが肩をすくめた。
「鼠の舞踏会さ」
「鼠は七拍子で踊らない」
エルは真顔だった。
その日の午後、四人はリソイの家の屋根裏に集まった。立ち退きを止める方法を探すためだったが、評議会の命令をひっくり返す法律書も、家を丸ごと移す飛行船も、もちろん見つからなかった。
見つかったのは、父の古い測量箱だった。
箱の底板は二重になっていた。トビが錆びた留め金を外すと、中から油紙に包まれた薄い金属板が出てきた。青銅の表面に、蜘蛛の巣のような線が刻まれている。
リソイは息を止めた。
「これ……都市下層の図だ」
アルカ=ミレは一枚の円盤ではない。古い時代の環、橋、船殻、塔、墜落した宮殿までを何百年も継ぎ足した都市だ。公式地図に載るのは人が日常使う部分だけで、その下には忘れられた街路が幾層も眠っている。
金属板の隅には、翼の生えた王冠と、短い文が彫られていた。
〈風盗王ミュモンの最後の蔵。都市を買い戻すだけのものを収める〉
トビの目が丸くなった。
「風盗王って、二百年前に税船を七隻さらって、評議会の金庫を空にしたっていう?」
「最後は雲海へ落ちた」ガラムが言った。
「落ちたことになってるだけかも」
リソイは板を明かりにかざした。雨樋横丁の真下から、廃止された水路、旧鐘楼、細長い塔を経て、都市の外縁へ線が続いている。終点には王冠印。
「これが本物なら、横丁を買える」
「偽物なら?」とエル。
「五日後に追い出される。それは何もしなくても同じ」
リソイは測量箱から父の折り畳み羅針盤を取り出した。
「今夜、行く」
ちょうどそのとき、屋根の上で何かが爆発した。
二 屋根から落ちてきた殺人犯
瓦と煤煙と一緒に、男が天井を突き破って落ちてきた。
男は食卓を真っ二つにし、床を転がり、片膝をついた。黒い外套は焼け焦げ、左腕から血を流していた。短く刈った髪、頬を横切る古い傷。右手には折れた飛行翼の操縦索を握っている。
四人が声も出せずにいると、男は人差し指を唇に当てた。
「静かに」
その直後、横丁の上空を複数の翼音が通り過ぎた。
窓から見ると、灰色の滑空甲冑を着た執行官たちが屋根から屋根へ降りている。胸には銀の輪を断ち切る剣の紋章。都市評議会直属の追跡局だ。
街角の音声筒が一斉に鳴った。
〈市民に告ぐ。特級逃亡犯セイ・ラドンが雨樋区へ侵入した。元境界警備官。大評議長殺害の容疑。武装しており、極めて危険――〉
床の男が、疲れたように目を閉じた。
トビが囁いた。
「屋根から殺人犯が降ってきた」
「雲よりましだ」と男は言った。
リソイは壁の包丁を取った。切っ先は震えていたが、男へ向けた。
「出ていって」
「三十秒だけ隠れ場所を貸してくれ」
「大評議長を殺したの?」
「殺していない」
答えがあまりに速かったので、嘘にも本当にも聞こえた。
階下で扉が叩かれた。
「追跡局だ。開けろ!」
男――セイ・ラドンは部屋を見回し、青銅板を見つけた。その顔から血の気が引いた。
「それをどこで手に入れた」
「父の箱」
「裏返せ」
リソイは動かなかった。
「早く。彼らが探しているのは俺だけじゃない」
板を裏返すと、煤で汚れた面に、ごく細い銀線が走っていた。さっきまで何もなかった場所に文字が浮かぶ。
〈第七弦を風律機へ。窓が開く前に〉
エルが板へ耳を近づけた。
「鳴ってる」
階下の扉が蹴破られた。
ルシェレは床板を指した。
「この家に地下雨水槽は?」
「台所の下」とリソイ。
「案内しろ。追跡局の先頭はイザル・ケインだ。扉一枚、嘘一つで止まる男じゃない」
「だからって殺人犯と逃げるの?」
階段が軋んだ。
ルシェレは懐から黒い水晶片を出した。中に淡い像が揺れている。誰かの声が封じられた記録晶だった。
「大評議長を殺した者の証拠だ。評議会はこれを取り戻すため、お前たちの横丁ごと掘り返す。地図の終点にあるものもな」
先頭の足音が屋根裏の扉の前で止まった。
「セイ・ラドン」
扉越しの声は低く、怒鳴っていないのに部屋全体へ届いた。
「逃げ道はない。子どもを巻き込むな」
ルシェレが苦笑した。
「ほらな。もう俺たちが一緒だと見抜いてる」
リソイは包丁を置き、青銅板を丸めて上着へ差した。
「台所まで十五歩。床蓋の蝶番は右」
ガラムが割れた食卓を扉へ押しつけ、トビが煙玉を投げた。屋根裏が黄色い煙で満ちる。
五人は階段ではなく、洗濯物用の滑車索を伝って窓から階下へ飛び降りた。
床蓋へ滑り込む寸前、リソイは煙の向こうに追跡者を見た。
長い灰色の外套。片目に真鍮の焦点鏡。手には短銃ではなく、捕縛用の鋼索弩。イザル・ケインは走らず、慌てず、床に落ちた水滴と、開いた窓と、揺れる滑車索を一度ずつ見た。
それだけで、彼は正しい床蓋へ歩き始めた。
三 追う者
雨水槽の底には、都市の古い喉が口を開けていた。
石積みの排水路は子ども一人が屈んで通れるほど狭く、冷たい水が踝まであった。ガラムが先頭で鉄格子を持ち上げ、リソイたちは闇へ潜った。
ルシェレは左腕を布で縛りながらも、足を止めなかった。
「灯りは使うな。ケインは煤の匂いを追う」
「犬かよ」とトビ。
「犬より執念深い」
「友達?」
「昔は上官だった」
背後で床蓋が開く音がした。
ルシェレは全員を止め、水路脇の細い亀裂を指した。五人が身を押し込むと、彼は自分の血を指につけ、水路の分岐へ点々と垂らした。その先は急な落水口だ。
ほどなく焦点鏡の青白い光が近づいた。
イザル・ケインは血痕を見つけ、落水口を覗いた。だが飛び込まない。膝をつき、水面へ手を触れる。
「流れが乱れていない」
後続の執行官が尋ねた。
「偽装ですか?」
「血は本物だ。道が偽物だ」
ケインの焦点鏡が、隠れている亀裂へ向いた。
ルシェレが歯を食いしばった。
「走れ」
鋼索弩が放たれた。鉤が石壁へ食い込み、網が広がる。ガラムが錆びた樋を引き倒して網を逸らし、全員が水路を駆けた。
前方は行き止まりだった。
「地図ではここに階段!」リソイが叫んだ。
エルが壁へ耳をつける。
「向こうが空洞。トビ、下から三番目の石」
トビが工具を差し込み、石をこじる。隠し錠が外れ、壁全体が内側へ倒れた。
その先には、逆さまの街路があった。
天井から家々がぶら下がり、窓も扉も下を向いている。かつて都市の環が半回転した際、捨てられた区画らしい。床に相当するものはなく、雲海まで続く暗い竪穴へ、何十本もの鎖橋が張られていた。
「地図を持っていても、これは聞いてない」ガラムが言った。
背後から追跡局の灯りが迫る。
ルシェレは一番細い鎖橋へ飛び乗った。
「重い順に渡るな。揺れが重なる」
五人は間隔をずらして走った。真下には雲が渦巻き、ときおり巨大な影が泳いでいる。
半分まで渡ったとき、対岸に別の執行官隊が現れた。
「挟まれた!」
ルシェレは橋の留め金へ短剣を当てた。
「向こうの隊はケインの部下じゃない」
銀の紋章は同じだが、彼らの肩には黒い三角印があった。評議官ハルヴァの私兵章だ。
私兵たちは捕縛を命じなかった。無言で連発弩を構えた。
矢が雨のように飛んだ。
ルシェレが留め金を切った。鎖橋が片側から外れ、全員の体が宙へ投げ出される。リソイは鎖へしがみつき、ガラムがエルを抱え、トビは悲鳴を上げながら工具袋を歯でくわえた。
橋は振り子のように竪穴を横切り、逆さの家の屋根へ激突した。
瓦を突き破って転がり込んだ部屋には、椅子も机も天井へ釘づけされていた。
対岸でケインが私兵隊長の胸ぐらを掴むのが見えた。
「発砲許可は出していない!」
「ハルヴァ評議官の命令だ。逃亡犯は即時処分――」
ケインは相手を殴り倒した。
だが次の瞬間には、切れた鎖橋の残りへ鋼索を撃ち込み、自らも竪穴へ飛び出していた。
「助けてくれたんじゃないのかよ!」トビが叫ぶ。
ルシェレは苦い顔をした。
「職務違反と追跡中止は、あの男の中では別の話だ」
四 夜鳴き塔
逆さ街を抜けた頃には、都市の夜鐘が九つ鳴っていた。
地図の線は、外縁に傾いて立つ細い塔へ続いていた。塔は周囲の建物から孤立し、錆びた一本橋でしか渡れない。窓は最上階に一つだけ。そこから、弦楽器の音が流れていた。
エルが立ち止まった。
「ずっと聞こえてた音だ」
旋律は美しいというより、必死だった。高い音が夜空へ細い針を打ち込み、低い音が何か重いものを押し返している。七拍子ごとに、奏者はわざと一音を外した。その外れた音を聞くたび、リソイは背後の暗闇が一歩遠ざかるように感じた。
塔の扉は鍵がかかっていなかった。
中の階段は異様に急で、壁にはびっしりと楽譜が貼られていた。どれも同じ旋律の変奏だが、紙の端には震える字で注意書きがある。
〈完全な和音を作るな〉
〈窓の外の星を数えるな〉
〈拍手が聞こえても振り返るな〉
最上階には、白髪の老人が一人いた。
老人は窓に背を向け、七本弦の黒いヴィオルを弾いていた。目には布を巻き、指先から血が滲んでいる。窓の外には星空ではなく、光を吸うような真っ黒な面が広がっていた。
「戸を閉めろ」
老人は演奏を止めずに言った。
ガラムが扉を閉める。
「レム・オルクさん?」リソイは地図の余白にあった名を読んだ。
「その名で呼ばれたのは久しぶりだ。地図師の娘だな」
「父を知ってるの?」
「知っていた。彼はここへ来て、下の風律機を見つけた。評議会が掘り当てる前に、道を封じると言っていた」
リソイは胸の奥がきしむのを感じた。父は三年前、測量事故で雲海へ落ちたと聞かされていた。
「父は落ちたんじゃないの?」
老人の弓が一瞬だけ鈍った。
「落とされた」
ルシェレが黒い水晶片を取り出した。
「ハルヴァか」
「そうだ。彼はこの都市を支える古代機構を兵器だと思っている。だが、あれは鍵ではない。錠だ」
窓の向こうで、何かがゆっくり擦れる音がした。
塔全体が震え、壁の楽譜が一斉にめくれた。
エルが耳を塞いだ。
「外に、たくさんいる」
「いるのではない」老人は言った。「一つだ。だが、こちら側の数え方では形を保てぬ。昔の者は〈耳のない聴衆〉と呼んだ。世界の外から、音の隙間を覗いている」
「その曲で閉じ込めてる?」
「不完全な音楽は、あれに理解できない。理解できぬものを、あれは嫌う。二百年、奏者が代わりながら窓を閉じてきた」
トビが老人の血だらけの指を見た。
「休憩は?」
「曲の間に八秒ある」
「それは休憩じゃない」
老人はかすかに笑った。
「今夜で弦が尽きる。ハルヴァが下の風律機から第七弦を抜いたからだ。あれが戻らなければ、夜明け前に窓が開く」
リソイは青銅板を広げた。
「終点が風律機?」
「そして風盗王ミュモンの蔵でもある。彼はこの秘密を守る代わりに、都市の富を盗んだ。金も、権利証も、すべて下へ隠した」
ルシェレが階段の方を見た。
「ハルヴァは工事を口実に、真上から掘るつもりだ」
「五日後じゃない」老人が言った。「掘削は今夜始まる。赤紙は住民を家から出すためではない。死者の数を減らすためでもない。ただ、目撃者を減らすためだ」
遠くで金属が裂ける音がした。下層を巨大な掘削機が進んでいる。
その直後、塔の扉が三度叩かれた。
「追跡局、イザル・ケイン」
老人は演奏したまま言った。
「入れ。戸を壊されると音が狂う」
ケインは一人で上がってきた。外套は裂け、額から血を流していたが、鋼索弩はリソイたちへまっすぐ向いている。
「セイ・ラドン。終わりだ」
ルシェレは両手を上げた。
「俺を連れていけば、ハルヴァは証拠を消し、風律機を開ける」
「証拠を渡せ」
「渡した追跡官が三人死んだ」
「私を四人目に数えるな」
黒い窓の向こうで、見えない指が硝子をなぞった。
ケインの焦点鏡が勝手に回転し、窓へ焦点を合わせた。彼の顔色が変わった。
「これは何だ」
老人が答える前に、塔の下から爆発音が響いた。
私兵隊が橋を渡ってくる。先頭の兵が拡声石で叫んだ。
〈評議官命令。逃亡犯、協力者、塔の奏者を全員処分せよ〉
ケインはゆっくり鋼索弩を下ろした。
「ラドン。逃げる道は?」
「ある」
「先導しろ。逮捕は後だ」
トビがリソイへ囁いた。
「やっぱり友達なんじゃない?」
「聞こえている」と二人の男が同時に言った。
五 都市の腹
レム・オルクは演奏を続けるため塔に残った。
「第七弦を持ち帰れ」と彼は言った。「ただし覚えておけ。地図は道ではない。曲だ」
リソイが問い返す前に、老人は足元の隠し踏板を蹴った。床が開き、六人は暗い滑走路へ落ちた。
塔の内部を螺旋状に下る金属樋だった。背後から私兵も飛び込んでくる。火花と矢が飛び交う中、トビは工具袋から磁石を投げ、分岐器を切り替えた。追ってきた三人が別の樋へ流され、遠くで鐘のような悲鳴がした。
樋の終点で、六人は巨大な空洞へ投げ出された。
そこは都市の腹だった。
何百本もの支柱が上下左右へ伸び、その間を古い歯車と風車と水路が走っている。都市全体が、眠りながら呼吸する獣の骨格に見えた。中央には、黒い岩盤を穿つ評議会の掘削機。三本の回転刃が青い火を散らし、封印扉へ迫っている。
地図の線は、空洞を渡る保守橋と一致していた。
「王冠印はあの扉の向こう」リソイが言った。
ケインは掘削機の配置を見ていた。
「ハルヴァは正規隊を下げ、私兵だけを置いている。記録を残す気がない」
「まだ俺を殺人犯だと思ってるか?」とルシェレ。
「証拠を検証するまでは容疑者だ」
「融通が利かないな」
「君が逃げるたび、私の評価書に同じことが書かれる」
保守橋へ踏み出した瞬間、警報鐘が鳴った。
掘削機の上に、紫の礼服を着た男が立っていた。評議官ハルヴァ。細身で、白い手袋をはめ、戦場には不似合いなほど整った姿をしている。
「ケイン執行官」
ハルヴァの声は空洞中の音声管から響いた。
「反逆者への協力とは残念だ。君の規律だけは買っていたのだが」
「大評議長殺害事件の捜査権限を私へ戻してください」
「不要だ。犯人はそこにいる」
ルシェレが水晶片を掲げた。
「大評議長の最後の記録だ。あんたが風律機の使用に反対した彼を刺した」
ハルヴァは笑った。
「記録晶は加工できる」
「だから全員殺すのか?」
「都市を救うためだ」
掘削機の刃が封印扉へ食い込み、空洞に低い唸りが満ちた。
「我々は雲海の一都市に閉じ込められている。外敵も、飢饉も、落下も、すべて力がないから恐れる。古代の風律機は世界の外へ届く。あの力を制御すれば、都市は二度と脅かされない」
エルが耳を押さえた。
「違う。向こうが、こっちの音を覚え始めてる」
ハルヴァが手を上げる。
「撃て」
私兵が一斉に発砲した。
ケインの鋼索弩が唸り、天井の歯車へ鉤を打ち込む。六人は索へ掴まり、橋から飛び降りた。矢の群れが足元を通り過ぎる。
彼らは振り子のように空洞を横断し、掘削機の背後へ着地した。
「地図は?」ルシェレが叫ぶ。
リソイは走りながら青銅板を見た。線は封印扉の前で途切れ、七つの点になっている。
「扉に七つの錠!」
トビが先に滑り込み、点と同じ位置にある円形錠を見つけた。
「鍵穴がない!」
エルが壁へ耳をつける。
「錠じゃない。音叉だ。違う高さで鳴る」
七つの円盤を順に叩く必要がある。しかし順番は地図に書かれていない。
リソイは父の言葉を思い出した。地図は、読む方向を変えると別のものになる。
青銅板を九十度回した。
道の線が五本の平行線を横切り、七つの点が音符の位置へ並んだ。
「地図は道じゃない。曲だ」
ガラムが拳で円盤を叩き、トビが工具で高い音を出し、エルが順番を叫ぶ。
「低、低、高、真ん中――一つ空けて、下、上!」
最後の円盤をケインの弩床が打った。
封印扉が開いた。
六 風律機
扉の向こうは宝物庫ではなかった。
少なくとも、最初はそう見えなかった。
円形の広間いっぱいに、途方もなく大きな楽器が組まれていた。床から立つ金属弦、天井へ伸びる風管、回転する共鳴輪。都市を吹き抜ける風そのものを弓にして奏でる装置――風律機。
中央には黒い弦が一本、祭壇のような台に張られていた。人の腕ほど太いのに、触れずとも震えている。
「第七弦」エルが囁く。
その周囲には、箱が山のように積まれていた。蓋の割れた箱から、古い金貨がこぼれている。別の棚には巻物、印璽、土地証書。二百年分の盗品が、乾いた光を放っていた。
トビは金貨を一枚拾い、噛んだ。
「本物だ」
ガラムの眉毛が離れた。
「横丁、買える?」
「横丁どころか、上層の議事堂まで買えるかも」
リソイは笑いかけたが、すぐに止めた。
風律機の向こう側で、人影が動いた。
ハルヴァが別の通路から入ってきたのだ。白手袋は血で濡れ、手には細身の音響銃がある。背後には私兵隊。
「装置から離れろ」
ルシェレがリソイたちの前へ出た。
「ここで撃てば弦が傷つく」
「だから貴様を先に撃つ」
音響銃が鳴った。
目に見えない衝撃がルシェレを吹き飛ばし、共鳴輪へ叩きつけた。黒い水晶片が床を滑る。
ケインが弩を構えるが、私兵の矢が彼の肩を射抜いた。膝をつきながらも二発撃ち返し、音響銃をハルヴァの手から弾く。
「リソイ!」
エルの声で、リソイは見上げた。
天井の風管から、夜鳴き塔の旋律が流れ込んでいた。だが音が途切れ途切れになっている。老人の弦が限界なのだ。
第七弦を外すには、台座の三つの留め具を同時に解除しなければならない。
「ガラム、左! トビ、右! 私が中央!」
三人が散る。
私兵が追う。ガラムは金貨箱を蹴り倒し、床を滑る硬貨で兵を転ばせた。トビは共鳴輪の調律槌を投げ、照明管を割る。広間が明滅する。
リソイは中央留め具へ飛びついた。だが錆びて動かない。
背後で足音。
ハルヴァが落ちた音響銃を拾っていた。
「君の父親も、最後までその錠にしがみついた」
リソイの手が止まる。
「父を殺したのは、あなた」
「有能な地図師だった。都市より迷信を選んだのが惜しい」
銃口が上がる。
その前へケインが滑り込んだ。音の衝撃を胸に受け、背後の柱へ叩きつけられる。
「執行官!」
「錠を開けろ」
ケインは息を吐きながら言った。
「逮捕は……後だ」
リソイは父の羅針盤を留め具の隙間へ差し込んだ。蓋が歪み、針が砕ける。だが錠は回った。
三つの留め具が同時に外れる。
黒い弦が宙へ浮いた。
その瞬間、夜鳴き塔の音楽が止んだ。
完全な静寂が、広間を満たした。
次いで、都市の外から拍手が聞こえた。
一人分ではない。
千人でもない。
数という考え方そのものが腐るほどの拍手だった。
七 耳のない聴衆
風律機の中央に、窓が開いた。
壁でも空でもない場所が、縦に裂けた。裂け目の向こうには暗闇があり、その暗闇の奥に、巨大な何かの注意だけがあった。
目はない。
顔もない。
それでも、見られていると全員が理解した。
私兵の一人が叫び、裂け目へ矢を放った。矢は途中でゆっくりほどけ、金属、木、羽、火、時間という順番に分解されて消えた。
その兵も同じようにほどけ始めた。
ハルヴァは恐怖に顔を引きつらせながら、風律機の操作盤へ飛びついた。
「制御できる。音階を固定すれば――」
「完全な和音を作るな!」エルが叫んだ。
ハルヴァは七本の制御桿を一直線に揃えた。
風律機が、澄み切った和音を鳴らした。
裂け目が大きく開く。
向こう側から伸びてきたのは腕ではなかった。影でも触手でもない。曲の続きを要求する、巨大な空白だった。空白に触れた私兵たちは声を失い、輪郭を失い、存在していた理由まで消えていく。
ルシェレがよろめきながら立ち上がり、ハルヴァへ体当たりした。二人は操作盤の上を転がる。
「弦を塔へ!」
だが風律機から塔へ続く昇降管は、裂け目の向こう側にある。広間を横断しなければならない。
リソイは青銅板を見た。
地図の道は、ここで終わっていなかった。熱を受けた銀線がさらに浮かび、風律機の七つの足場を巡る経路を描いている。
その線もまた、楽譜だった。
「みんな、地図の上を走るの」
「何を言ってる?」トビ。
「この広間そのものが楽器。足場を踏むと音が出る。塔まで弦を運びながら、曲を続けるんだ」
七つの足場は、回転輪、吊り橋、風管の弁、鐘架へ散らばっている。一人では間に合わない。
リソイは指示を飛ばした。
「ガラムは低音の輪! トビは弁を三つおき! エルは全員の拍を数えて! ケインさん、上の鐘! ルシェレは弦を!」
「お前は?」とルシェレ。
「道を読む!」
彼らは走った。
ガラムが巨大輪へ飛び乗り、体重で回す。腹の底へ響く低音が鳴った。トビは風管の間を猿のように渡り、弁を開けるたび甲高い笛音を放つ。肩を負傷したケインは鋼索で鐘架へ上がり、弩床で不規則に鐘を打った。
エルは目を閉じ、裂け目の拍手の中から塔の旋律を拾った。
「七、七、五! 次は四を二回! ガラム、早い! トビ、一つ飛ばして!」
「最初からそう言え!」
「今、言った!」
不格好な音楽が始まった。
音は揃わず、何度も外れ、息切れし、工具が落ち、鐘がひび割れた。
だからこそ、裂け目の向こうの注意が揺らいだ。
耳のない聴衆は理解できないものを嫌う。
ルシェレは黒い弦を肩へ担ぎ、回転する足場を渡って昇降管へ向かった。ハルヴァが追いすがり、背中へ短剣を突き立てようとする。
リソイが叫ぶより早く、鋼索が飛んだ。
ケインの一射がハルヴァの手首へ巻きつく。
「評議官ハルヴァ」
鐘架の上から、ケインが言った。
「大評議長殺害、証拠隠滅、私兵による市民殺害の容疑で逮捕する」
「この状況で規則を読むのか!」
「この状況だからだ」
ハルヴァは索を切り、ルシェレへ飛びかかった。二人は昇降管前の細い橋で殴り合う。下には裂け目が広がり、足場の一部が現実ごと欠けていく。
ルシェレは負傷で動きが鈍い。ハルヴァの拳が頬へ入り、黒い弦が橋から滑り落ちた。
ガラムが回転輪から飛び降り、片手で弦を掴んだ。
その体が宙へ引かれる。
「重い!」
トビが風管から飛び移り、ガラムの腰帯を掴む。エルがトビを掴み、リソイがエルを掴んだ。四人が鎖のように橋から垂れ下がる。
「こういうの、宝探しでは普通なのか!」トビが叫んだ。
「初めてだから知らない!」リソイも叫び返した。
最上部のリソイの手が滑る。
そこへケインの鋼索が巻きついた。彼は負傷した肩で巻上機を引き、四人と弦を橋へ戻す。
ルシェレはハルヴァの短剣を受け流し、肘で顎を打った。
ハルヴァがよろめく。その足元で、橋の一部が空白に触れた。
「助けろ」
彼は片手で縁へしがみついた。
ルシェレは一瞬ためらい、腕を伸ばした。
ハルヴァはその手を取るふりをして、袖から小銃を抜いた。
発砲。
ルシェレは身を捻った。弾は昇降管の留め金を砕いた。管が大きく傾き、ハルヴァの手元から橋が消えた。
彼は悲鳴を上げて裂け目へ落ちた。
落ちながら、体が無数の白い手袋へ分かれ、その一つ一つがさらに小さな扉になり、すべての扉が同時に閉じた。
あとには何も残らなかった。
「弦を上へ!」リソイが叫んだ。
昇降管は壊れ、途中までしか動かない。夜鳴き塔まではまだ垂直の風道が続いている。
トビが操作盤を見た。
「風圧を最大にすれば、弦だけなら吹き上げられる。でも誰かが下で弁を手動固定しないと」
「俺が残る」とルシェレ。
「あなたは傷だらけ」とリソイ。
「ケインはもっと傷だらけだ」
「私は職務中だ」とケイン。
「だから融通が利かないって言ってる」
二人が同時に弁へ手をかけた。
エルが首を振る。
「一人じゃない。最後の音は二つ、わざとずらす。二人必要」
ルシェレとケインは顔を見合わせた。
「逮捕は?」
「後だ」
「さっきも聞いたな」
二人が弁を開く。
暴風が広間を貫いた。
リソイ、トビ、ガラム、エルは黒い弦へ四方から手を添え、風道へ押し込んだ。弦は唸りながら上昇する。
裂け目から空白が迫る。
ルシェレとケインが左右の弁を、わずかに違う拍で打ち鳴らした。
不完全な二音が重なった。
耳のない聴衆が、初めて身を退いた。
裂け目が細くなる。
風道のはるか上で、黒い弦が何かに嵌まる音がした。
そして夜鳴き塔から、レム・オルクのヴィオルが再び響いた。
今度の音は太く、深く、都市のあらゆる梁と樋と窓を震わせた。完全ではない。老人の指は疲れ、弓は何度も掠れた。それでも旋律は、世界のこちら側にいる者すべての息づかいを巻き込み、巨大な拒絶の歌になった。
裂け目の向こうで、数えきれない拍手が一斉に止んだ。
窓は閉じた。
八 夜明けの所有者
朝、アルカ=ミレには珍しく雨が降った。
雲海から吹き上げた細かな雨が、屋根と橋と飛行翼を銀色に濡らした。
夜鳴き塔の最上階で、レム・オルクは椅子に座ったまま眠っていた。黒いヴィオルを抱え、穏やかな顔で、もう目を覚まさなかった。
エルは老人の弓を受け取った。
「僕が弾く」
リソイは心配になった。
「ずっと?」
「ずっとじゃない。風律機を直せば、都市の風が曲の半分を弾ける。残り半分は人が変えていく。完全にならないように」
トビが鼻をすすりながら言った。
「自動演奏に、わざと故障を組み込むわけだ。得意分野だな」
「お前の機械は最初から故障してる」とガラム。
「設計上の個性だ」
追跡局の正規隊が到着したのは、日の出直後だった。
ケインは黒い水晶片を提出し、風律機の記録管に残ったハルヴァの命令音声も確保した。ルシェレの手首には一応、捕縛環が嵌められた。
「本当に逮捕するの?」リソイが抗議した。
「脱走、官有翼の窃盗、執行官への暴行が残っている」
「大評議長殺しじゃないだろ」とルシェレ。
「それは取り下げられるだろう」
「暴行はお互い様だ」
「私は報告書に、自分が殴られた回数を正確に書く」
ケインは捕縛環の鍵を回した。
環は外れ、床へ落ちた。
「だが、証人が多すぎる。君が今朝、風道の混乱に乗じて逃亡したとしても、私一人の報告では覆せまい」
ルシェレは口元を歪めた。
「友達じゃないな」
「断じて違う」
二人は握手をしなかった。ただ互いに一度だけ頷いた。
宝物庫から運び出されたものの中で、金貨より大きな騒ぎを起こしたのは、一枚の古い羊皮紙だった。
〈都市創建憲章・第七码頭下層共同所有証〉
二百年前、風盗王ミュモンは評議会から金だけでなく、雨樋横丁を含む下層支柱の所有権そのものを盗み出し、住民共同体へ譲渡していた。評議会が証書を隠したため、効力だけが忘れられていたのだ。
収用命令は無効になった。
雨樋横丁の住民たちは、自分たちが立っている場所を初めて本当に所有した。
金貨の一部は家々の修理に使われ、残りは夜鳴き塔と風律機の保守基金になった。ガラムの家のパン屋には新しい石窯が入り、トビは工房を一つ与えられたが、三日で屋根を吹き飛ばした。エルは毎晩塔へ通い、決して同じようには弾かない曲を覚え始めた。
リソイは父の工房の看板を書き直した。
〈雨樋地図店――地上、地下、忘れられた道、逃亡経路〉
最後の項目はケインの要請で小さくした。
ルシェレは夜明け前に都市を離れた。どこへ行ったかは誰も知らない。だが一月後、工房へ差出人のない包みが届いた。中には父の砕けた羅針盤を直すための希少な星鉄と、短い手紙が入っていた。
〈追跡者に見つからない地図を一枚頼む〉
リソイは返事の代わりに、都市外縁から雲海へ降りる古い風道の図を描いた。ただし途中に、わざと一つだけ間違った曲がり角を入れた。
追跡者にも、逃亡者にも、完全な道を渡してはいけない。
完全なものは、世界の外にいる何かを呼ぶ。
その夜、雨樋横丁の下から七拍子の音楽が聞こえた。窓辺で耳を澄ませたリソイには、老人のヴィオル、エルの不器用な弓、風律機の低い唸りに混じって、遠くから二つの足音が追いつ追われつしながら拍を刻んでいるように思えた。
雲より下へ落ちたものは、二度と戻らない。
けれど音楽は、どれほど深い闇へ落ちても、誰かが続きを奏でるかぎり帰ってくる。
――了――