夫婦残高
差し押さえ予告の封筒は、いつもより少しだけ丁寧に郵便受けへ差し込まれていた。
まるで、こちらの生活を壊すことを申し訳なく思っているみたいだった。
「今度は何?」
台所から茜が訊いた。
「電気代」
真一は嘘をついた。
封筒の右上には、赤い字で「最終」とある。三年前に始めた小さな喫茶店は、二年で潰れた。残ったのは業務用エスプレッソマシンのローンと、保証人になってくれた叔父への気まずさと、利息で太った一千八百万円の債務だった。
妻の雲宮茜、三十四歳。夫の雲宮真一、三十五歳。結婚六年目。
二人の夫婦生活は、借金ほど完全に破綻してはいなかったが、胸を張って健全とも言えなかった。
以前は、肩が触れればその先を想像した。今では、肩が触れると、どちらが先に風呂へ入るかを相談した。寝室でのことは、さらに面倒だった。誘えば断られる気がする。断れば傷つける気がする。だから真一はカレンダーを眺め、茜は眠そうなふりをし、二人とも相手に気を遣ったまま、相手の気持ちだけは確かめなかった。
差し押さえ予告を裏返すと、もう一通、見覚えのない薄桃色の封筒が落ちた。
宛名は「雲宮真一・茜 ご夫妻」。差出人はなかった。
中には、白いカードが一枚だけ入っていた。
あなた方の相互理解には、換金価値があります。
夫婦残高を担保に、債務を清算しませんか。
今夜二十三時、相互理解換金所・第零支店。
裏面には地図と、黒い文字で短い注意書きがあった。
お二人でお越しください。
一人で来店された場合、愛情は査定対象外となります。
「怪しい」
カードを見た茜は即答した。
「うん」
「行くの?」
「行かない理由を、金額で説明できる?」
茜は冷蔵庫に貼られた返済予定表を見た。予定というより、敗戦の記録だった。
「できない」
二人は二十三時の十分前に家を出た。
相互理解換金所・第零支店は、閉店した結婚式場の地下にあった。
入口には看板がない。灰色の扉に、小さなインターホンが付いているだけだった。
「雲宮です」
真一が名乗ると、すぐに鍵が開いた。
中は銀行と産婦人科と古いホテルを足したような造りだった。壁は薄い桃色。受付の脇には給水機があり、その横に避妊具の自動販売機が置かれている。値段は一箱一万円だった。
「高っ」
真一が思わず言うと、受付にいた女が顔を上げた。
「安心は、たいてい後払いにすると高くつきます」
年齢の分からない女だった。三十代にも五十代にも見える。黒いスーツを着て、両手の指に一本ずつ、合計十本の細い結婚指輪をはめていた。
「担当の水城です。ご来店ありがとうございます」
水城は二人を奥の部屋へ通した。
そこには向かい合わせの椅子が二脚と、円形のテーブルが一つあった。テーブルの中央には透明な皿があり、白いチップが十二枚積まれている。
一枚一枚に日付が刻まれていた。
結婚した月から、半年ごとの年月だった。
「これ、なんですか」
「お二人の夫婦残高です」
水城は座らずに答えた。
「夫婦とは、互いについて知っていると信じる二人が、知らない部分を月賦で買い続ける契約です。お二人は六年間で、十二単位の共有記憶を積み立てました」
「記憶を、換金するんですか」
茜が眉をひそめた。
「正確には、相互理解の精度に投資していただきます。これから六問、お互いについての質問をします。質問ごとに、一枚から三枚まで賭けてください。相手の回答を当てれば、賭けた枚数と同数の未来残高が加算されます。外せば、そのチップは回収されます」
「未来残高?」
「まだ起きていない思い出です。過去と違って、傷も汚れもありません。金融商品としては優秀です」
水城は微笑んだ。
「最終残高が十八枚に達すれば、債務一千八百万円を全額清算します。途中でやめることもできます。ただし、失った残高は戻りません」
「単なるクイズでしょう」
真一は言った。
「夫婦にとって、単なるクイズほど危険なものはありません」
水城は二台の薄い端末を差し出した。
「先ほど別室で入力していただいた問診票が、正解データです。ご自身が選んだ答えは変更できません。なお、露骨な内容は扱いません。当所は品位より、気まずさを重視しております」
茜が端末を受け取り、真一を見た。
「六問なら、いける?」
「六年一緒にいるんだぞ」
「その言い方、もう外しそう」
水城が一枚目のカードをめくった。
第一問。
茜が、夫婦生活のあとで最も腹が立つ真一の行動はどれか。
A すぐに洗面所へ行く。
B 背中を向けて眠る。
C 「大丈夫だった?」と何度も確認する。
D 記録アプリを開く。
「待って」
真一は顔を上げた。
「記録アプリって、健康管理のためのやつだよな」
「質問には答えられません」
水城が言った。
「いや、茜に」
「もっと答えられない」
茜は腕を組んだ。
真一には理屈があった。
茜は潔癖ではないが、寝具の汚れには細かい。終わったあと真一が先に洗面所へ行くと、置き去りにされたような顔をすることがある。だからAだ。
ただ、Dも気になる。二年前、真一は夫婦生活を改善しようとして、睡眠時間、飲酒量、会話時間、親密な時間の有無を表計算に記録していた。データを取れば問題が見えると思ったのだ。
三週間で茜に削除された。
「一枚で」
真一はチップを一枚、前へ出した。
「A」
茜の端末が光った。
正解は、D。
「あれ、ほんとに嫌だった」
茜が言った。
「改善したかったんだよ」
「私、故障した家電じゃないから」
水城がチップをつまんだ。
日付は、結婚一年目の四月から九月。
透明な皿の下に細い溝が開き、チップが吸い込まれた。
その瞬間、真一の頭の奥で、柔らかいものが切れた。
潮の匂いがした。
雨の音。黄色い傘。茜の濡れた髪。ホテルの狭いベランダ。何か大切な場面だったはずなのに、指で触れた霧のように消えていく。
「ねえ」
茜の顔が青ざめた。
「私たち、新婚旅行、どこに行ったっけ」
「沖縄だろ」
真一は答えた。
知識としては分かる。写真も見たことがある。だが、そこにいた自分がいない。
水城が小さく鼻歌を歌った。
知らない旋律だったが、なぜか胸が痛んだ。
「那覇の雨は温かいですね」
水城は独り言のように言った。
「今の、どういう意味ですか」
「残高は市場へ流動化されました。次へ進みますか」
真一と茜は顔を見合わせた。
帰るべきだった。
それでも、テーブルの上には差し押さえ予告が置かれていた。水城がいつの間に持ってきたのか分からない。赤い「最終」の文字が、十二枚から十一枚になった白いチップより現実的に見えた。
「続けます」
茜が言った。
第二問。
真一が、現在の夫婦生活で最も望んでいることはどれか。
A 回数を増やすこと。
B 新しい工夫を試すこと。
C 茜の方から誘われること。
D 上手だと褒められること。
「これは二枚」
茜は迷わずチップを出した。
「C」
真一の端末が光った。
正解、C。
皿の中央に、金色のチップが二枚現れた。日付の代わりに「未使用」と刻まれている。
「分かるんだ」
真一は少し恥ずかしくなった。
「分かるよ。回数の話をするとき、あなた、必ず最後に『別に毎日じゃなくていいけど』って付けるから」
「そんなに回数が欲しいわけじゃない」
「うん」
「ただ、たまには、必要とされたい」
茜は一度うなずいた。
「私も、誘うと応じなきゃいけない契約が始まる気がしてた」
「誘って途中でやめてもいいだろ」
「今まで、そう言ったことなかった」
真一は言葉に詰まった。
水城は二人の沈黙が熟すのを待ち、次のカードをめくった。
第三問。
茜が、避妊について確認したいタイミングはどれか。
A その場の直前。
B 前日まで。
C 終わったあと。
D 真一に任せたいので、確認は不要。
「二枚。B」
今度は真一が即答した。
正解だった。
「雰囲気を壊したくないのかと思ってた」
真一が言うと、茜は呆れた顔をした。
「安心してる方が、雰囲気を楽しめるの。直前に探し始めて、ない、コンビニ行く、ってなる方がよっぽど壊れる」
「それは一回だけだろ」
「一回で十分、歴史になるの」
水城が金色のチップを二枚加えた。
残高は十五枚になった。
「あと三枚」
真一は口元を緩めた。
「いける」
その慢心は、第四問で値札を付けられた。
第四問。
親密な時間の途中で茜が黙るとき、真一が最も恐れていることはどれか。
A 自分の体を見られていること。
B 早く終わらせたいと思われていること。
C 茜が断れずに合わせていること。
D 明日の返済を思い出されること。
「三枚」
茜が言った。
真一は止めようとした。
「二枚にしない?」
「分かるから」
茜はDを選んだ。
正解は、Cだった。
水城の手が三枚の白いチップを取る。
結婚二年目の冬。
三年目の夏。
四年目の春。
「待って」
茜が手を伸ばしたが、水城は止めなかった。
三枚のチップが、順番に溝へ落ちた。
一枚目で、真一は茜に結婚を申し込んだ場所を失った。
二枚目で、二人で拾った猫が家に来た日の匂いを失った。
三枚目で、喫茶店を開く前夜、茜が何を言ってくれたかを失った。
出来事は残っている。
駅前でプロポーズした。
猫の名前はムギだった。
茜は開業を応援してくれた。
だが、記憶の中から体温だけが抜け落ちた。新聞記事を読むように、自分の人生を知っている。
茜はこめかみを押さえた。
「私、何て言った?」
「何が」
「お店を開く前の日」
「分からない」
「私も分からない」
水城は回収したチップを掌で転がしていた。
「立派なことをおっしゃっていましたよ」
「どうして、あなたが知ってるの」
「市場は、よく知っています」
茜が立ち上がった。
「帰る」
「現在残高は十二枚です」
水城は静かに言った。
「今お帰りになれば、債務は残り、失った四単位も戻りません」
「脅してるの?」
「会計です」
「同じでしょ」
「いいえ。脅しには感情があります」
茜は椅子の背をつかんだまま、真一を見た。
真一も帰りたかった。
ただ、帰れば、明日には口座が凍結される。家具が運び出される。茜の給料まで返済へ吸い込まれる。自分の失敗のせいで。
「あと二問だけ」
真一は言った。
「取り返せる」
「今のあなた、ギャンブルする人の顔してる」
「俺は賭け事なんかしない」
「だから怖いの。慣れてない人は、負けを取り返すことしか考えなくなる」
正しかった。
正しいから、真一は腹が立った。
腹が立った自分が、さらに情けなかった。
「じゃあ、どうする」
「私に決めさせないで」
「聞いただけだろ」
「あなたの借金なのに、最後の判断だけ私に渡さないで」
部屋が静かになった。
水城は十本の指輪を眺めている。
真一は椅子に座り直した。
「続けたい。俺が決める。でも、茜が嫌なら、やめる」
「それ、矛盾してる」
「矛盾したまま聞いてる」
茜はしばらく黙り、やがて座った。
「二問だけ」
「うん」
「賭ける枚数は、相談する」
「うん」
水城が第五問を置いた。
茜が最近、触れられることを避けていた最大の理由はどれか。
A 真一への魅力を感じなくなった。
B 仕事で疲れていた。
C 子どもを望むか決められず、親密さが結論を迫るものに感じた。
D 断ったあと、真一を慰める役まで引き受けるのが苦しかった。
真一は選択肢を見つめた。
Aなら終わりだ、と最初に思った。
Bなら楽だ、と次に思った。
Cはあり得る。結婚四年目から、双方の親が子どもの話をするようになった。二人は「そのうち」と答え続けた。そのうち、という言葉は便利だった。期限がないふりをして、毎日少しずつ迫ってくる。
だが、真一の目はDから離れなかった。
断られた夜、彼は黙り込んだ。責めないように気をつけていた。ため息もつかなかった。だから自分は優しいと思っていた。
けれど茜は、そんな真一の機嫌を戻すために、翌朝いつもより明るく話した。朝食を少し豪華にした。肩を揉んだ。
断るたびに、後処理をしていた。
「三枚」
真一は言った。
茜が眉を上げた。
「大丈夫?」
「大丈夫じゃない。でも、D」
正解は、Dだった。
金色のチップが三枚現れた。
茜は笑わなかった。
「断ることそのものより、その後がしんどかった」
「黙ってれば、責めてないことになると思ってた」
「黙ってる人の空気って、すごくしゃべるよ」
「ごめん」
「謝るだけじゃなくて、次から聞いて。今日は抱きしめるだけにする、とか。何もしないで寝る、とか。選べるようにして」
「分かった」
「それと、子どものことも、親密な時間と分けて話したい」
「分かった」
「二回目の分かったは、ちょっと軽い」
「じゃあ、今度はちゃんと話す」
「それでいい」
残高は十五枚。
第六問は、茜が真一を当てる番だった。
真一が一人で欲求を済ませたあと、最も強く感じることはどれか。
A 茜に隠している罪悪感。
B 自分の年齢への焦り。
C 夫婦でいる意味が薄れる不安。
D 誰にも気を遣わずに済んだ安堵と、その安堵を感じたことへの寂しさ。
「こういうのも聞くんだ」
真一は額を押さえた。
「品位より気まずさを重視しております」
水城が答えた。
茜は二枚を賭けた。
「D」
真一は顔を上げた。
「なんで」
「私も同じだから」
端末が光った。
正解、D。
金色のチップが二枚加わる。
残高、十七枚。
あと一枚。
真一は息を吐いた。
「もう一問ですか」
「通常問題は終了です」
水城はテーブルの下から、黒い箱を二つ出した。
「最終精算へ移ります」
黒い箱には、ボタンが二つ付いていた。
白いボタンに「共同継続」。
赤いボタンに「単独清算」。
水城は二人の間に仕切りを立てた。互いの顔も手元も見えなくなる。
「最終精算の規則を説明します」
壁に数字が映った。
二人とも「共同継続」
残高を十八枚とし、共同債務を全額清算。
一人が「単独清算」、一人が「共同継続」
単独清算を選んだ者の債務を免除し、二千万円を支給。
共同継続を選んだ者は、全債務と残存記憶を引き受ける。
二人とも「単独清算」
債務は双方に残る。夫婦残高は全額回収。
「ずるい」
仕切りの向こうで茜が言った。
「金融商品は、だいたいそう言われます」
「話し合いは?」
「できません。制限時間は三分。押したボタンは変更できません」
真一は白と赤を見た。
理屈は簡単だった。
茜が白を押すなら、自分は赤を押した方が得をする。借金は消え、二千万円まで手に入る。
茜が赤を押すなら、自分も赤を押すしかない。白を押せば、すべてを背負わされる。
どちらの場合も、赤が合理的だ。
そして茜も、同じ計算をしている。
二人とも合理的に赤を押せば、二人とも失う。
真一の喉が乾いた。
借金は自分が作った。
茜には逃げる権利がある。むしろ赤を押すべきだ。二千万円を持って、この六年間を捨てて、やり直せばいい。
それなら、自分も赤を押すべきだ。茜が出ていくなら、せめて自分の記憶まで相手に背負わせる必要はない。
赤いボタンが、救命具に見えた。
残り二分。
仕切りの向こうからは、何も聞こえない。
茜は何を考えている。
さっき、自分と同じだと言った。
一人で済ませたあとの安堵と寂しさ。
子どもを望むか決められないこと。
断ったあとまで、真一の感情の面倒を見ていたこと。
茜は六年間、真一が思っていたよりずっと疲れていた。
なら、赤だ。
赤を押す。
そう考えた瞬間、真一は気づいた。
自分はまた、茜のためだと言いながら、茜の選択を先回りしている。
彼女は逃げたいかもしれない。
残りたいかもしれない。
どちらでもいい。どちらを選ぶかは、茜のものだ。
信じるというのは、相手が裏切らないと予測することではない。
裏切れる自由を相手に残したまま、自分の手を決めることだ。
残り一分。
真一は白いボタンに手を置いた。
茜が赤を押せば、自分は終わる。
それでも、白を押す。
借金を背負わせたのは自分だ。最後の一回くらい、相手の答えを操作しようとせず、自分の答えだけを出したかった。
真一は「共同継続」を押した。
箱の中で、硬い音がした。
仕切りが下がる。
茜の前の白いボタンが、光っていた。
二人とも、しばらく何も言えなかった。
水城が拍手をした。
「最終残高、十八枚。債務は清算されました」
壁の数字が、
18,000,000
から、
0
へ変わった。
真一は椅子の背にもたれた。力が抜け、笑いとも泣き声ともつかない息が出た。
「どうして白にした?」
茜に訊いた。
「あなたが赤を押すと思ったから」
「それなら、赤にするだろ」
「うん。だから、赤にしようとした」
「じゃあ、なんで」
「私も、勝手にあなたの答えを決めるの、やめた」
二人は笑った。
新婚旅行の笑い方ではなかった。
その笑い方は、もう失われている。
けれど、今の二人にしかできない笑い方だった。
「回収された記憶は戻りますか」
真一が水城に訊いた。
「戻りません」
「勝ったのに?」
「債務は清算されました。過去は別会計です」
「どこへ行ったんです」
水城は十本の指輪を軽く鳴らした。
「必要としている方のところへ」
「誰が、他人の思い出なんか必要とするんですか」
「思い出のない方です」
水城は出口の扉を開けた。
「どうぞ、未来残高を大切に」
翌朝、銀行のアプリから債務が消えていた。
差し押さえ予告の赤い文字も、ただの印刷に見えた。
真一は会社を休み、茜も午後から有給を取った。二人で区役所へ行って借入関係の書類を確認し、帰りに安いカレーを食べた。
「今日、どうする?」
夜、寝室で茜が訊いた。
以前なら、その質問だけで二人とも身構えた。
「話だけでもいい」
「抱きしめるだけでも?」
「何もしないで寝てもいい」
「じゃあ、今日は話して、途中で眠くなったら寝る」
「了解」
「それと、了解って言い方、仕事っぽい」
「分かった」
「その分かったは、まあまあ」
灯りを消したあと、二人は子どものことを話した。
結論は出なかった。
出なかったことに、どちらも少し安心した。
結論のない会話を続けられるなら、まだ夫婦でいられる気がした。
失った記憶は、日常のあちこちに穴を開けた。
写真を見ても、なぜ笑っているのか分からない。
ムギが初めて家に来た日の動画を再生すると、二人とも泣いた。悲しいからではなく、泣くべき記憶があるはずなのに、それを持っていないことが悲しかった。
それでも、新しい記憶は増えた。
茜が初めて途中で「今日はここまで」と言い、真一が「分かった」と答えた夜。
真一が誘われ、嬉しさのあまり歯磨き粉をシャツに落とした夜。
避妊具の買い置きを、特別なことではなく洗剤と同じように確認できた朝。
回数は増えなかった。
会話は増えた。
真一には、それでよかった。
相互理解換金所のことは、夢だったのかもしれないと思う日もあった。
借金が消えたという事実だけが、夢ではないと証明していた。
三か月後の日曜日、二人は駅前の商業施設へ出かけた。
改札を抜けたところで、白髪の男が茜を見て立ち止まった。
七十歳くらいだった。上等なコートを着て、胸元に小さな桃色のカードを下げている。
男の目に、突然、涙が浮かんだ。
「茜」
男は言った。
真一が前へ出た。
「どなたですか」
男は我に返ったように口を押さえた。
「すみません。初めてお会いします」
「じゃあ、どうして名前を」
男は胸元のカードを見た。
そこには、小さくこう書かれていた。
共有記憶体験サービス
商品番号SK-06-02
新婚期・沖縄・雨天
「妻を三年前に亡くしまして」
男は困ったように笑った。
「私たちは新婚旅行へ行けなかった。だから昨夜、半年分だけ買ったんです。目を閉じると、雨の匂いがして、あなたが黄色い傘を持っている。ホテルのベランダで、海が見えないと笑っている」
茜の顔から血の気が引いた。
男は真一を見た。
「あなたは砂糖を二つ入れた紅茶を飲んでいました。茜さんは甘すぎると言った。でも最後には、あなたのカップから一口飲んだ」
真一には、何一つ思い出せなかった。
男の声だけが、失われた自分の過去を正確に語っていた。
「海、きれいでしたね」
男は茜に言った。
茜は唇を震わせた。
「雨で、見えなかったんじゃないですか」
「ええ。だから、あなたはこう言った」
男は目を閉じた。
「見えないなら、想像した海は二人だけのものだね、と」
茜が泣き出した。
その言葉を、茜自身は覚えていなかった。
真一も覚えていなかった。
見知らぬ男だけが、二人きりだったはずの時間を持っている。
「返してください」
真一は言った。
男は首を振った。
「返し方が分かりません。もう、私の人生の中にある」
改札の向こうで、発車ベルが鳴った。
男は何度も頭を下げ、人混みの中へ消えていった。
真一と茜は、その場に立ち尽くした。
借金はなくなった。
だが、二人きりだったはずの六年間には、もう値札が付いていた。
やがて茜が、真一の手を握った。
「帰ろう」
「うん」
二人が歩き出したとき、背後から女の声がした。
「あーちゃん」
それは、真一が結婚一年目にだけ使っていた、茜の呼び名だった。
二人は振り返らなかった。
振り返らなくても分かった。
改札の向こうには、桃色のカードを下げた人々が何人もいて、全員が懐かしそうに、茜を見ていた。
了