『帰り星の地図』

一 赤札の町

 世界の果てには崖がある、と大人たちは言った。

 杭上町ウルバの子どもたちは、それが嘘だと知っていた。世界の果てにあるのは崖ではない。役所の赤い札である。

 赤い札は、まずパン屋の煙突に貼られた。次に共同浴場の扉、魚干し場の柱、学校の鐘楼。最後には、ユノの家でもある古い潮見塔の、ひび割れた玄関にも貼られた。

 ――王道院告示。第七浮橋建設のため、杭上町ウルバを九日後に撤去する。

 撤去、という言葉は、家や店や墓地まで、机の上の消し屑みたいに扱った。

「九日もあれば、王都まで歩いて抗議できる」

 町長の息子ロノが言った。十五歳で、背だけは大人並みに高く、考えはいつも靴ひもより先にほどけた。

「王都まで歩いたら十二日。途中で雲鮫に食われなければね」

 葬儀屋の見習いサビが答えた。彼女は黒い仕事着の袖をまくり、赤札の糊を小刀で削っていた。削っても削っても紙は剥がれない。役所の糊は、税金と同じでしつこい。

「じゃあ走る」とロノ。

「走ると十日。食われる確率は上がる」

「おれを食う雲鮫は腹を壊すぞ」

「それは同意する」

 錠前屋の息子キリが、塔の窓枠に腰かけたまま笑った。十三歳。ポケットというポケットに針金と歯車と飴玉を詰め、必要なものを探すたびに不要なものを二十個落とす少年だった。

 床に耳をつけているのは、十歳のテッタだ。彼は町じゅうの建物が眠っているときの声を聞けた。少なくとも本人はそう言っていた。

「塔が怒ってる」とテッタが言った。

「役所に?」ユノは訊いた。

「ううん。ぼくらに。『いつまで頭の上で会議をしている』って」

 ユノは、自分のかかとの下にある石床を見た。

 潮見塔は、町がまだ三本の杭しかなかった時代から立っている。今では七百を超える家が、雲海の上へ打ち込まれた黒い杭と、そこに渡した板の道にしがみついていた。塔の上には錆びた風見魚、下には使われなくなった潮時計。そのさらに下がどうなっているかは、誰も知らない。

 ユノの父エイダンだけは知っていたのかもしれない。

 彼は地図師だった。七年前、夢潮の観測へ出たきり戻らなかった。残したものは、埋めかけの地図、片方だけの手袋、そして「帰り星」という、意味のわからない言葉だった。

 母は父の話をしなくなった。ユノも訊かなくなった。訊かないことに慣れると、胸の中に小さな空き部屋ができた。そこには何も置かない。扉も開けない。そうすれば、部屋があること自体を忘れられる。

「九日後には、塔も引き倒される」サビが言った。「怒るなら今のうち」

 そのとき、床下で、こつん、と音がした。

 全員が黙った。

 もう一度。

 こつん。

 まるで、下から誰かが石を叩いている。

 テッタが顔を上げた。

「『遅い』って」

 キリが床板の継ぎ目を探り始めた。サビは小刀で埃を掻いた。ロノは松明を持って役に立っている顔をした。ユノは、父が使っていた書き物机を動かした。

 机の脚の下に、星形のくぼみがあった。

 ユノは首に下げた真鍮の方位器を握った。父の遺品だ。針は北を指さず、たいていユノの心臓のほうを向いている。役立たずなので、お守りにしていた。

 方位器は、星形のくぼみにぴたりとはまった。

 ごとり、と床が沈んだ。

 石板が円を描いて開き、冷たい風が吹き上がった。風には塩と苔、それから雨に濡れた古い本の匂いがした。

 階段が、塔の底より深い暗闇へ続いていた。

「おれは町長の息子として、こういう危険な穴には入らないよう命じる」ロノが言った。

「了解」サビは松明を奪った。「町長の息子は留守番」

「待て。命じる側として同行しないと、命令が守られているか確認できない」

 ユノは方位器を外した。裏蓋が開き、今までなかった薄紙がはみ出した。

 紙には、父の字で一行だけ記されていた。

 帰り星を見つけた者は、すべての道をひとつの家へ結べる。

 その下に、細い線で地図が描かれていた。潮見塔の地下から始まり、存在しない海を渡り、白い貝のような都へ至る地図。

 隅には、もう一行。

 ユノへ。追ってくるな。だが、町が帰る場所を失うなら、この地図を信じろ。

 七年遅れで届いた父の言葉は、謝罪も説明もなく、相変わらず勝手だった。

 ユノは薄紙を握りしめた。

「帰り星を持ち帰る」

「本気?」キリが訊いた。

「すべての道がウルバへ来るなら、王道院は町を潰せない。新しい浮橋も、ここを通すしかない」

「地図の文句を、そのまま信じるの?」

「信じない。でも、赤札よりはまし」

 サビが笑った。「立派な基準」

 テッタは階段の闇を覗き込んだ。

「下のほうで、海が寝返りを打ったよ」

 五人は、九日分の食料を三日分にまとめ、縄、毛布、工具、葬儀用の蝋燭、町長室から無断で借りた非常用笛を背負った。

 誰も、塔の向かいの倉庫に人影があることに気づかなかった。

 回収屋ヴァルカ・ドロウは、赤銅色の義手で窓枠を撫でながら、薄く笑っていた。王道院が町を壊す前に、価値のあるものを安く買い叩く。それが彼女の商売だった。

「すべての道を、ひとつの家へ」

 彼女は部下のジャルとメリを振り返った。

「子どもは宝の匂いを嗅ぐ。大人は、子どもの後をつければいい」

二 塔の下の遊び場

 階段は九百九十九段あった。

 キリが数え、サビが途中で「千三十七」と嘘をつき、ロノが混乱し、テッタが「階段が笑ってる」と報告したので、正確な数は誰にもわからない。

 最下段には、子どもの背丈ほどの扉があった。表面に五つの手形が刻まれている。

 ユノたちが手を当てると、扉の向こうから声がした。

『一番持っていきたいものを、ここへ置いていけ』

 石の棚がせり出した。

「罠だね」とキリ。

「扉が条件を提示しただけ」とロノ。「交渉の余地がある」

「町長の息子らしい。扉に税金でも払わせる?」

 サビは腰の小刀を棚へ置いた。扉は動かない。

 キリは工具袋を置いた。動かない。

 ロノは非常用笛を置き、考え直して拾った。

 テッタは空の掌を見せた。「ぼくが一番持っていきたいのは、みんな」

「それは置けない」とユノ。

「だから、この扉は意地悪だ」

 テッタが五つの手形を順に押した。石の手形は、五人が同時に触れられる間隔で並んでいる。

「一人ずつ置いていけ、とは言ってない」

 五人は顔を見合わせ、手形に掌を当てたまま、空いた手で隣の手を握った。

『持っていくものは、ひとつか』

「ひとつだよ」とテッタ。「ばらばらに数えなければ」

 扉は、しぶしぶ開いた。

 向こうには、巨大な地下遊技場が広がっていた。

 石の滑り台。骨のような白い梁から吊るされた縄橋。壁一面に描かれた、顔のない子どもたち。彼らは星を蹴り、月を輪にして回し、黒い海から逃げていた。

「昔の王様は、ずいぶん趣味が悪い遊び場を作ったんだな」とロノ。

 サビは壁画を見上げた。「王様のためじゃない。避難所よ」

 遊技場の中央に、錆びた水車があった。地図の線は、その下へ続いている。

 キリが歯車を調べ、ユノとサビが水車を押した。ロノは掛け声を担当した。テッタは梁の上を歩く小さな影に話しかけていた。

 水車が半回転したとき、遠くで鉄扉の閉まる音がした。

「後ろから誰か来る」とテッタ。

 次の瞬間、遊技場の入口でヴァルカの声が響いた。

「ご苦労さま、探検家諸君」

 彼女は長い革外套を着て、赤銅の義手に鉤爪を取り付けていた。後ろには、痩せたジャルと丸いメリ。二人とも大人で、二人とも子どもより迷いやすそうな顔をしていた。

「その地図を渡せば、町を一軒だけ買い取ってあげよう」ヴァルカは言った。「五人で仲良く住めばいい」

「塔も?」ユノが訊いた。

「塔は石材にする」

「じゃあ断る」

 ヴァルカが指を鳴らした。

 ジャルが縄橋へ飛び乗った。キリは水車の留め金を引き抜いた。

 ぎぎぎ、と水車が逆回転し、遊技場じゅうの仕掛けが目を覚ました。

 石の滑り台が跳ね上がる。床板が波打つ。壁画の子どもたちが一斉に口を開け、そこから七年分の埃を吐いた。

「走れ!」

 五人は水車の下へ飛び込んだ。穴の底には、木樽が五つ並んでいる。

「これは絶対、乗るものじゃない」とサビ。

「ほかに道がない!」

「だから乗るけど、正しいとは認めない!」

 樽は地下水路へ滑り落ちた。

 ユノの樽は壁に三回ぶつかり、キリの樽を追い越し、ロノの悲鳴を飲み込み、暗闇の中を転がった。背後でヴァルカたちも別の樽に乗ったらしく、大人らしくない罵声が追ってきた。

 水路の先が青白く光った。

 五つの樽は、順番も品位もなく宙へ飛び出した。

 そこに地下はなかった。

 上にも下にも、夜の海が広がっていた。

 波は空へ向かって崩れ、星は水底で揺れている。黒い紙で折ったような船が、細い桟橋に繋がれていた。桟橋の看板には、古い文字でこう書かれている。

 最終便 帰郷港ゆき

 出航 昨日の真夜中

「乗り遅れてる」とロノ。

「七年くらいね」とユノ。

 船の中から、枝角の仮面をつけた船頭が顔を出した。

『まだ出ていない。帰る船は、いつも昨日に出る』

 船頭の声は、耳ではなく、子どもたちが一度だけ家出を考えた夜の記憶から聞こえた。

『運賃は、二度と帰りたくない場所をひとつ』

 ユノは潮見塔を思った。父の空の部屋。母の閉じた口。毎朝同じ角度で軋む階段。

 二度と帰りたくない、と言えなくもない。

 けれど、言ってしまったら本当に帰れなくなる気がした。

 サビが先に口を開いた。

「去年、死人を運んだときに落ちた泥沼。靴も一緒に埋めた。あそこには二度と帰りたくない」

 船頭は首を傾げた。

『場所は場所だ。しかし、おまえの心はまだ靴を惜しんでいる』

「惜しんでない。いい靴だったとは思うけど」

 キリがポケットを探り、小さな鍵を出した。

「学校の掃除用具入れ。三時間閉じ込められた」

『おまえは中から錠を分解し、楽しかった』

「ばれたか」

 テッタが船頭へ近づいた。

「ぼくらには、二度と帰りたくない場所なんてないよ。嫌な場所も、そこに置いてきたものがあるから」

『ならば運賃がない』

「これをあげる」

 テッタは背負い袋から、赤い札を取り出した。潮見塔の扉から剥がしたものだ。

「九日後のウルバ。ぼくらが何もしなければ、もう帰れない場所になる」

 船頭は長いあいだ黙った。

 やがて赤札を受け取り、仮面の口もとへ差し入れた。紙を噛む音がした。

『運賃は、未来でもよい』

 五人が船へ乗り込むと、桟橋の端にヴァルカたちが転がり出た。

「待て!」

 ヴァルカの鉤爪が船べりを掴む。

 船頭は竿を突き、桟橋を離れた。

『追加料金だ』

「後で払う!」ヴァルカは義手一本でぶら下がり、ジャルとメリは彼女の脚にぶら下がった。「私はつけ払いが利く顔だ!」

『そうは見えない』

 それでも紙の船は沈まなかった。

 八人分の重みと、三人分の悪態を乗せて、船は夢潮へ滑り出した。

三 昨日の海

 夢潮には、距離の代わりに未練が流れていた。

 船は、帰れなかった兵士たちの歌を横切り、名前を忘れた島の影をくぐり、空を泳ぐ逆さ鯨の腹の下を進んだ。鯨の背には小さな村があり、家々の煙突から、まだ起きていない朝の煙が昇っていた。

「地図にない」キリが薄紙を覗いた。

「夢の地図は、見たものを描くんじゃない」ユノは父の言葉を思い出した。「見失いたくないものを描くの」

「便利なようで、測量士泣かせだね」

 地図の線は、紙の上でゆっくり動いていた。白い都へ向かう一本だけが濃い。

 船尾では、ヴァルカたちが縄でまとめられていた。船頭が「騒音も荷物」と判断したからだ。

「子どもたち」とヴァルカが穏やかに呼びかけた。「ひとつ教えておく。宝は、見つけた者のものではない。持ち帰れた者のものだ」

「じゃあ、あなたのものにはならないね」とサビ。「縄もほどけない」

 メリが小声で言った。「親方、だから出発前に結び方を練習しようって」

「黙れ」

 船は、無数の扉が木の実のように生えた森へ着いた。

 船頭は五人を岸へ下ろした。ヴァルカたちは下ろさなかった。

『白都ネムリガイへ行くなら、帰り鴉を追え。扉を開くな。どれも、おまえを知っているふりをする』

 森では、枝ではなく蝶番が軋んだ。

 赤、青、金、石、骨。大小さまざまな扉が幹から生え、その隙間から光や匂いが漏れている。

 最初の扉の向こうから、焼きたての蜂蜜パンの匂いがした。

「これは罠だ」とキリが言った。

「よくわかったわね」サビ。

「罠でも、匂いまで嘘とは限らない」

 キリが取っ手へ手を伸ばす前に、黒い鳥が頭を蹴った。鳥の嘴には、小さな家の形をした白い印がある。

「帰り鴉だ!」

 五人は鴉を追った。

 扉は次々に声をかけてきた。

 サビには、亡くなった姉の声。

 ロノには、町長である父の「よくやった」という声。

 キリには、百個の錠が同時に開く音。

 テッタには、何も聞こえない静けさ。

 ユノには、父の声がした。

『ユノ。ここだ』

 青い扉だった。潮見塔の父の部屋と同じ色。下のほうに、ユノが六歳のとき蹴って作った傷まである。

『遅かったな』

 責めるような言い方まで同じだった。

 ユノは立ち止まった。

 扉の隙間に、父の横顔が見えた。少し白くなった髪。机に広げた地図。振り向けば、七年がなかったことになる。

「ユノ」

 サビが手首を掴んだ。

「本物かもしれない」

「本物なら、扉の向こうから呼ばない」

「どうしてわかるの」

「あなたの父親は、人を呼びつける前に自分で歩く人だったんでしょ」

 ユノは笑いそうになり、同時に泣きそうになった。

 青い扉の向こうで、父の顔が歪んだ。

『おまえが来なかったから、私は帰れなかった』

 ユノは取っ手から手を離した。

「それは父さんの言い方じゃない。父さんなら、自分の失敗を地図のせいにする」

 扉が牙を剥いた。

 五人は走った。帰り鴉は森の最奥、鏡のような湖へ飛び込んだ。

 湖面は割れず、黒い穴になった。

 その向こうに、白都ネムリガイがあった。

 街は、巨大な貝殻の内側に築かれていた。螺旋を描く白い道。真珠の塔。窓の一つ一つに、帰りを待つ灯がともっている。

 だが街の外側には、何もなかった。

 空も海も星もない。あるのは、貝殻を抱える巨大な指だけだった。

 指は山脈より太く、灰色の皮膚には閉じた扉が鱗のように並んでいる。

 ネムリガイは、何者かの掌の上に載っていた。

 その何者かは、暗闇の中で眠っていた。

 テッタが耳を塞いだ。

「この街、建物じゃない」

「じゃあ何?」ロノが訊いた。

「蓋だよ」

 背後で、鉤爪が木に食い込む音がした。

 ヴァルカが森の岸へ這い上がってきた。縄は切れ、外套は破れ、片方の眉が焦げている。ジャルとメリも続いた。

「船頭に未来をひとつ売った」彼女は言った。「高くついたよ」

「何を売ったの?」テッタ。

 ヴァルカは一瞬だけ答えなかった。

「私が老いて死ぬ未来だ」

 彼女は笑った。

「だから急がないとね」

四 白都ネムリガイ

 街の門には、文字ではなく、帰宅したとき最初にする動作が刻まれていた。

 靴を脱ぐ者。鍋の蓋を開ける者。窓を開ける者。眠る子の額へ触れる者。

 五人がそれぞれの印へ触れると、門は音もなく開いた。

 ネムリガイの通りに人影はなかった。

 それでも店は営業していた。空の椅子が髪を切り、見えない手が鍋をかき混ぜ、誰もいない窓から「おかえり」と声が落ちてきた。

 道は歩くたびに形を変えた。ユノが父を考えると上り坂になり、町を考えると潮見塔へ似た角を曲がる。キリが食べ物を考えるたび菓子屋が増え、サビが死者を考えるたび窓の灯が一つ消えた。

「考えるな」とロノが言った。

「今の命令が一番難しい」とキリ。

 地図の線は、街の中心にある真珠宮を指していた。

 しかし宮殿へ近づくほど、道は五つに分かれた。

 ユノが振り返ると、仲間がいなかった。

 代わりに潮見塔の台所があった。

 朝の光。焦げた粥の匂い。母が窓を開け、父が机に地図を広げている。

「やっと起きたか」と父が言った。

 七年前と同じ顔だった。

 ユノは十四歳なのに、椅子の高さも手の大きさも七歳へ戻っていた。

「今日はどこへ行くの?」

「どこにも。地図師を辞めた」

 父は紙を丸め、炉へ放り込んだ。

「おまえたちと暮らす。もう二度と出ていかない」

 胸の空き部屋が、急に暖炉になった。

 ユノは父へ駆け寄りかけた。

 そのとき、床下から、かすかな声がした。

『ユノの寝相は、雲嵐より悪い!』

 キリの声だった。

 父は聞こえないふりをした。

『それでも朝は蹴られた側が起こす!』

 サビの声。

『ユノは怒ると左の鼻だけ膨らむ!』

 ロノ。

『ユノは、帰りたいって言う代わりに、帰る道を探す!』

 テッタ。

 台所の壁に亀裂が入った。

 父がユノの肩を掴む。

「聞くな。ここにいれば、何も失わない」

「失わないんじゃない」

 ユノは父の手を見た。

 地図師だった父の指には、いつも墨が染みていた。目の前の父の指はきれいだった。

「何も増えないんだ」

 ユノは台所の窓を開けた。

 光が裂け、幻が砕けた。

 彼女は真珠宮の廊下に立っていた。四方の扉の向こうから、仲間の名を呼ぶ声がする。

 ユノは走った。

 キリは、天井まで積まれた菓子と工具の部屋にいた。どんな錠も彼が触れれば開き、見えない観客が喝采していた。

「キリ!」

「あと一個だけ!」

「六歳まで夜尿症だった!」

「それは秘密だろ!」

 幻が怒って崩れた。

 サビは、亡くなった姉と葬儀屋の庭でお茶を飲んでいた。

「サビ! あなた、泣くとしゃっくりが三回出る!」

「二回よ!」

 三回しゃっくりが響き、庭が消えた。

 ロノは町長室で勲章をつけていた。父が誇らしげに肩を叩いている。

「ロノ! 非常用笛をまだ返してない!」

「もっと重大な秘密にしろ!」

「怖いとき、靴下を左右で替える!」

「なぜ知ってる!」

 町長室が裏返った。

 テッタは、音のない白い部屋で眠っていた。

 ユノたちは名前を呼んだ。返事がない。

 壁も床も、何の声も持たない。テッタがずっと望んでいた静けさだった。

 サビが白い床へ耳を当てた。

「聞こえないなら、こっちから聞かせる」

 四人は、ウルバの音を真似た。

 キリは錠前屋の金槌を。

 ロノは学校の鐘を。

 サビは葬列の太鼓を。

 ユノは、潮見塔の階段が朝に三度軋む音を。

 白い部屋の中央で、テッタが目を開けた。

「うるさい」

「知ってる」ユノは手を差し出した。「帰ろう」

 五人が揃うと、真珠宮は幻を諦めた。

 最後の扉が開き、円形の広間へ通じた。

 天井には星が一つだけ浮かんでいた。

 星というより、針のない方位器に似ていた。銀白の輪の中で、小さな光が呼吸している。

 帰り星。

 その下に、一人の男が座っていた。

 髪は白く、頬は痩せ、両手は墨で黒かった。

「来るなと書いたはずだ」

 ユノは七年ぶりに父を見た。

 考えていた言葉は百個あった。

 なぜ帰らなかった。

 母さんを何だと思っている。

 私は待っていない。

 会いたかった。

 口から出たのは、別の言葉だった。

「字が小さすぎる」

 エイダンは目を瞬き、それから笑った。

 笑い方まで変わっていなかったので、ユノは腹が立った。

「父さん。帰り星を借りる」

「駄目だ」

「町がなくなる」

「だからこそ駄目だ。あれは家を救わない。ひとつの家だけを、世界の中心にする」

 エイダンは帰り星を見上げた。

「昔、ネムリガイの王たちは、すべての道が宮殿へ帰るよう願った。旅人も、商人も、兵士も、死者の夢も。道を奪われた村は地図から消えた。帰れない者の未練が夢潮に溜まり、やがて街の下に眠るものを呼んだ」

 床の奥で、低い鼓動がした。

「家なき客」とテッタが呟いた。

 エイダンの顔色が変わった。

「その名を、どこで聞いた」

「街が夢で言ってる。『扉のないものが、扉を欲しがっている』って」

「私は帰り星を止めるために残った。あれが選ばれないかぎり、客は眠る」

「七年も?」ユノの声が尖った。「手紙も出さずに?」

「こちらでは七晩だと思っていた」

「こっちでは七年」

 父は、初めて本当に傷ついた顔をした。

 その顔を見て、ユノは少しも楽にならなかった。

「帰って謝って」とユノは言った。「私じゃなく、母さんに」

「帰路は閉じた。帰り星を動かせば開くが、客も目を覚ます」

「じゃあ、別のやり方を探す」キリが言った。「扉ってのは、開くか閉じるかだけじゃない。外すこともできる」

「星は錠前じゃない」

「錠前じゃないものほど、分解したくなる」

 そのとき、広間の入口で拍手が響いた。

 ヴァルカが立っていた。

「美しい再会だ。だが、家族の話は家でやってくれ」

 鉤爪が伸びた。

 帰り星が、天井から引き剥がされた。

五 銅母の家

 ヴァルカが帰り星を義手へ嵌めた瞬間、真珠宮のすべての扉が開いた。

 開いた先は、同じ家だった。

 赤い屋根。高い煙突。磨かれた窓。長い食卓。誰も座っていない椅子が百脚。

「私の家だ」

 ヴァルカの声は震えていた。

「北の戦で焼かれた。私は十一歳だった。逃げる途中で母を失い、弟を失い、名前まで変えた。どれだけ稼いでも、どれだけ家を買っても、人は出ていく。道が外へ続いているからだ」

 彼女は帰り星を握った。

「なら、すべての道を私の家へ帰らせる」

 白都の道が、音を立てて捻じれた。

 窓の灯が一斉にヴァルカの家へ吸い込まれる。森の扉が枝から千切れ、空を飛んで宮殿へ突き刺さる。夢潮の向こうで、無数の町の道標が、一本ずつ白く消えた。

 ユノの地図から、ウルバの名が薄くなった。

「やめろ!」

 エイダンが飛びかかった。ジャルが杖で殴り、父は床へ倒れた。

「親方」とメリが怯えた声を出した。「床が、息してます」

 鼓動が止まった。

 次に、街全体が大きく持ち上がった。

 貝殻の外側で、山脈より巨大な指が動いた。

 暗闇の奥に、目が開く。

 目ではなかった。家へ帰る者が最後に振り返る、あの一瞬の空白だった。そこには瞳も光もなく、見られた者の胸から「ここではないどこか」を引き出した。

 家なき客が起きた。

 白都の壁に生えた扉が、内側から叩かれ始める。

 一枚、二枚、百枚。

 扉が破れ、黒い腕が伸びた。腕には指がなく、代わりに小さな玄関が並んでいる。その一つ一つの奥で、誰かが「おかえり」と囁いていた。

 ロノが非常用笛を吹いた。

 甲高い音が広間を貫き、全員が我に返った。

「町の避難訓練では!」ロノは叫んだ。「笛が鳴ったら、最年少を中央に、動ける者が外側!」

「こんな避難、想定されてない!」キリ。

「想定外でも手順は手順だ!」

 五人はテッタを囲み、エイダンを起こした。黒い腕が床を這う。サビが葬儀用の蝋燭へ火をつけ、投げた。死者を導く青い炎が、腕を一瞬だけ退かせる。

「帰り星を取り戻す!」ユノ。

「どうやって止める?」サビ。

 エイダンは額の血を拭った。

「星は、所有者が『家』と定めた場所へ道を集める。別の家を名指せば、奪い合いになるだけだ」

「じゃあ家を選ばなければ?」キリ。

「星は命令を待ち続ける」

「命令する人が一人じゃなければ?」テッタが言った。

 床下の声を聞くように、彼は目を閉じた。

「昔の子どもたちが壁に描いてた。星を蹴って、みんなで輪にしてた。王様が使う前は、あれは道を集める道具じゃない。道を分ける遊びだったんだ」

 ユノは地下遊技場の壁画を思い出した。顔のない子どもたちが、月を輪にして回していた。

 父の地図にも、白都へ来る線は一本だった。けれど出ていく線は、薄く、無数に描かれている。

「帰り星は、方位器じゃない」ユノは言った。「分岐器だ」

 ヴァルカの家が広間を覆い始めた。壁紙が真珠の柱を飲み、空の椅子が床から生える。

 ヴァルカは長い食卓の先に立ち、帰り星を掲げた。

「ここへ帰れ!」

 その声に応えて、街じゅうの扉が家へ向いた。

 ジャルとメリまで、夢見るように食卓へ歩き出す。

 ユノたちは反対側から駆けた。

 キリが床に転がり、ヴァルカの義手の留め具へ針金を差し込む。

「錠前じゃないんだろう?」サビ。

「だから難しい!」

 ヴァルカが鉤爪を振り下ろした。ロノが非常用笛で受け、笛は真っ二つになった。

「町長室の備品が!」

「今それ?」

 サビがヴァルカの外套を食卓へ縫いつけた。テッタは帰り星へ両手を伸ばした。

 星の光が彼の腕を駆け上がる。

「聞こえる」

 テッタの目から涙がこぼれた。

「帰れなかった人が、みんな違う場所を呼んでる」

「全部聞かなくていい!」ユノは叫んだ。

「でも、聞こえるんだ!」

 黒い腕が天井を破り、家なき客の影が広間へ降りてきた。

 それは形を持たなかった。失くした家の数だけ形を変えた。焼けた小屋。沈んだ船室。誰も待っていない宮殿。幼いユノには、父の背中に見えた。

 エイダンが影の前へ立った。

「私が扉を閉じる。おまえたちは星を――」

「また残るつもり?」

 ユノは父の腕を掴んだ。

「地図師は、迷ったとき一人で決めるの?」

「ユノ」

「一人で決めたから、七年迷ったんでしょ」

 父は言い返せなかった。

 キリが義手の留め具を外した。

 帰り星が宙へ落ちる。

 ユノ、キリ、サビ、ロノ、テッタ、エイダン、そして反射的に手を伸ばしたヴァルカの、七人の指が同時に触れた。

 白い光が弾けた。

『どこへ帰る』

 声は、星からではない。

 世界じゅうの戸口から聞こえた。

 ヴァルカが叫ぶ。

「私の家へ!」

 光が彼女へ傾く。

 ユノは潮見塔を思った。母の黙った背中。朝の軋む階段。赤札。父の空の椅子。

 完璧な家ではない。

 だからこそ、自分たちで帰り続けなければ、家ではなくなる。

「ウルバへ」

 星が揺れた。

「でも、ウルバだけじゃない」

 キリが言った。「錠前屋の裏口。親父が昼寝してるところ」

 サビが続く。「共同墓地。死んだ人にも帰る場所は要る」

 ロノは唇を噛んだ。「町長室。父さんが、誰もいないときだけため息をつく椅子」

 テッタ。「音が多すぎる世界。ぼくが聞くのをやめても、なくならない場所」

 エイダンはユノを見た。

「妻のところ。謝るために」

 ヴァルカの顔が歪んだ。

「ひとつを選べ! そうでなければ、何も持てない!」

「持たなくていい」ユノは言った。「帰る場所は、所有するものじゃない」

 彼女はヴァルカの手を強く握った。

「あなたの家も、道を閉じなければ、帰れる場所になれる」

 ヴァルカは、焼けた家の幻を見た。

 食卓の百脚の椅子。そのどれにも、彼女は誰かを座らせようとしなかった。出ていけないようにすることばかり考えていた。

 赤銅の義手が震える。

 やがて彼女は、帰り星から指を離した。

「私の未来を、船頭から買い戻せると思うか」

「知らない」とサビ。「でも、今より悪い交渉はない」

 ヴァルカは笑った。初めて、勝ったふりではない笑いだった。

「生意気な葬儀屋だ」

 七人――今は六人――の手の中で、帰り星が輪になった。

 光は一本の道を選ばなかった。

 無数の細い糸にほどけ、白都じゅうの扉へ走った。

 奪われた道が、それぞれの町、それぞれの家、それぞれの墓、それぞれの船へ戻っていく。

 家なき客が身をよじった。

 帰れない未練を食べていたものに、帰路が戻ったのだ。

 黒い腕が崩れ、腕に並んだ小さな玄関が開いた。そこから人影が一人ずつ歩み出し、自分の道へ消えていく。

 最後に残った影は、扉のない、ただの夜だった。

 エイダンが真珠宮の大扉へ駆けた。

「閉じるぞ!」

 キリが蝶番へ飛びつく。サビとロノが扉を押す。テッタは街の声を聞き、軋みの弱い瞬間を叫ぶ。

「今! 次、三つ数えて!」

 ユノとエイダンが並んで押した。

 父の肩は、記憶より細かった。けれど温かかった。

 家なき客の夜が隙間から覗く。

 それはユノに、父がもう一度いなくなる未来を見せた。

 今度は母がいなくなる未来。

 仲間が町を出る未来。

 潮見塔が崩れる未来。

 すべて本当に起こりうる。

「だから何だ!」

 ユノは叫び、扉を押した。

「帰るって、なくならないことじゃない!」

 扉が閉じた。

 最後の隙間で、夜は小さくなり、針の穴ほどになり、消えた。

 真珠宮が静まった。

 帰り星はもうなかった。

 代わりに、七人の掌へ、小さな白い線が一本ずつ残っていた。どれも別の方向を指し、手をつなぐと輪になった。

 街の向こうで、昨日の船の汽笛が鳴った。

六 帰る者たち

 帰りの船では、誰もあまり話さなかった。

 紙の船頭は、ヴァルカを見ると枝角の仮面を傾げた。

『未来を売った者が、戻ってきたか』

「返品したい」ヴァルカは言った。「未使用だ」

『未来は、一度考えただけで使用済みになる』

「では買い戻す。代わりに、私の家をひとつ」

『帰りたい家か』

 ヴァルカは首を振った。

「誰かを閉じ込めるために買った家だ。もう要らない」

 船頭はしばらく考え、その家の鍵を受け取った。

『釣りが来る』

 彼はヴァルカへ、白い髪を一本渡した。

「これは?」

『老いだ。少しずつ使え』

 ヴァルカは髪を眺め、外套の内ポケットへ大事そうにしまった。

 紙の船は昨日を抜け、夢潮を渡り、地下水路の桟橋へ戻った。

 塔の階段を上るあいだ、エイダンは何度も立ち止まった。

 七晩しか経っていない彼には、ユノが一段上るたび七年ぶん大きくなるように見えるのだろう。

「母さんは、怒ってる」とユノが言った。

「当然だ」

「たぶん、最初に殴る」

「当然だ」

「そのあと、もっと怒る」

「それも当然だ」

「帰る?」

 エイダンは、長い階段の上の暗がりを見た。

「帰る。帰ったあと、どうなるかわからなくても」

 ユノは頷いた。

 地上へ出ると、朝だった。

 そして九日目だった。

 夢潮では一晩しか経っていなかったのに、ウルバでは約束の日が来ていた。

 潮見塔の外で、王道院の解体機が唸っている。鉄の脚を六本持つ、巨大な甲虫のような機械だ。役人が拡声筒で退去を命じ、町の人々は荷車を引きながら怒鳴り返していた。

 ユノの母マーヤは、塔の前に立っていた。

 片手に鍋。武器として持っている。

 最初にユノを見た。

 次にエイダンを見た。

 鍋が落ちた。

 エイダンは何か言おうとした。

 マーヤは彼の頬を平手で打った。

 町じゅうに響く、見事な音だった。

「七年よ」

「私には七日で――」

「七年よ」

「はい」

 もう一度、今度は反対の頬。

 それからマーヤは彼を抱きしめた。

 抱きしめたまま、背中を三回殴った。

 ユノは見ないふりをして、解体機へ向かった。

 王道院の監督官が赤札を掲げた。

「期限は過ぎた! 王令により、杭上町ウルバを撤去する!」

「待って!」ロノが飛び出した。「王道院規則、古道結節地に関する第十二条! 五本以上の現役道が交差する土地は、再測量まで工事を凍結する!」

 監督官は鼻で笑った。

「ここに交差する道は一本もない。浮橋はまだ未完成だ」

「今まではね」とキリ。

 五人は掌を重ねた。

 白い線が輪になる。

 潮見塔の風見魚が、七年ぶりに回った。

 地面の下で、古い歯車が噛み合う。

 町の七百本の杭から、白い光の道が伸びた。

 一つは王都へ。

 一つは北の焼け野へ。

 一つは空を泳ぐ逆さ鯨の村へ。

 一つは名前を忘れた島へ。

 一つは共同墓地の、死者が夢を見る場所へ。

 さらに百、千。

 道は町を中心に集まったのではない。

 町を通り、また別の場所へ続いた。

 ウルバは世界の中心ではなく、世界と世界のあいだにある結び目になった。

 監督官は規則書を開き、閉じ、また開いた。

「再測量には……少なくとも三年かかる」

 町の人々から歓声が上がった。

「三年あれば王都へ歩いて抗議できる!」ロノが叫ぶ。

「十二日で着くよ」とサビ。

「帰りは道がある」

 解体機は止まり、赤札は一枚ずつ剥がされた。

 回収屋ヴァルカは、その日のうちに町の借金証文を全部燃やした。

「善人になったわけじゃない」と彼女は言った。「道が増えれば商売が増える。先行投資だ」

 誰も信じなかったが、誰も訂正しなかった。

 ジャルとメリは潮見塔の修理を手伝った。メリは高所が苦手で、ジャルは釘をまっすぐ打てなかった。それでも人手にはなった。

 エイダンは家へ戻った。

 戻ったからといって、七年が消えたわけではない。

 マーヤは三日間、彼に台所で寝るよう命じた。三日後には納戸へ昇格した。ユノは、何を訊けばいいかわからない日が続いた。父も、十四歳の娘への話し方がわからなかった。

 だから二人は、潮見塔の最上階で地図を直した。

 言葉の代わりに線を引いた。

 夢潮へ続く道。

 白都へ続かない道。

 森の扉を避ける道。

 帰りの船が昨日に出ること。

 地図の余白に、エイダンが小さく書いた。

 家とは、道が終わる場所ではない。

 ユノはその下へ書き足した。

 また出ていくために、いったん帰る場所だ。

 エイダンは何も言わず、娘の文字の周りへ円を描いた。

 夕方、仲間たちが塔へ上がってきた。

 キリは新しい錠前を五つ持ち、サビはパンを一斤、ロノは町長室から正式に借りた非常用笛、テッタは「塔が寂しがっているから」という理由で古い椅子を一脚運んできた。

 五人は窓辺に座り、ウルバから伸びる光の道を眺めた。

 道の上を、見たことのない旅人たちが歩いてくる。

 角のある商人。紙の傘をさした幽霊。背中に小さな村を乗せた亀。帰る場所を探す者、帰る場所から逃げてきた者、まだどちらかわからない者。

「これから忙しくなるね」とキリ。

「町を救うより、町を続けるほうが大変」とサビ。

「町長の息子として、適切な委員会を――」

「まず赤札の糊を剥がして」

 テッタが床へ耳をつけた。

「塔が言ってる」

「何て?」ユノ。

「『今度は遅くなかった』って」

 その夜、潮見塔の灯は久しぶりに点いた。

 灯は帰る者のためだけでなく、これから出ていく者のためにも、雲海の上を照らした。

 そして世界の果てには、もう赤札はなかった。

 ただ、まだ描かれていない道があった。