帰れ!家路くん
――放課後最速伝説――
チャイムの「キーンコーンカーンコーン」の、一つ目の「キ」が鳴った。
二つ目の「ー」が伸びるころ、家路直人(いえじ・なおと)の席はもう空だった。
「き、起立――って家路ィ! まだホームルーム終わってないぞ!」
担任の叫びは、廊下に残った一筋の風へむなしく吸い込まれた。
直人は走る。
右手に鞄。左手に脱ぎたての上履き。口には、昼休みに結び終えておいた靴ひも。
「帰宅奥義・壱式――チャイム先読み!」
三階の教室から階段へ。
踊り場では手すりを軸に九十度ターン。
廊下をふさぐ柔道部員の群れを、落ちていたプリントを拾うふりで低くかわす。
昇降口では革靴を床へ置き、そのまま両足で滑り込む。
「弐式――上履き脱皮!」
上履きだけが、セミの抜け殻のように下駄箱前へ残った。
校門脇の用務員が、腕時計を見る。
「十六時〇〇分十二秒……また記録を縮めやがった!」
直人は振り返らない。
「帰宅は、振り返った瞬間に遅刻になる」
意味はよくわからないが、声だけはやたら格好よかった。
私立・青春全力学園から商店街までは徒歩十五分。
直人は三分四十秒で駆け抜けた。
家路精肉店の前では、揚げたてのコロッケが黄金色の湯気を上げている。
「ただいま!」
「おかえり、直人! ちょうどキャベツが切れたよ!」
店の奥から母の声が飛んだ。
直人は制服の上にエプロンを装着し、包丁を握った。
彼が一秒でも早く帰る理由。
それは、家業を手伝うためである。
「お兄ちゃん、おなかすいたー!」
「三十秒待て。千切りを終えたら、昨日のカレーを温める」
「わーい!」
そして小学二年生の妹・ひなの夕飯を作るためでもある。
決して、冷蔵庫に一個だけ残った限定プリンを母に食べられる前に確保するためだけではない。
七割くらいは、それではない。
翌朝。
校門をくぐった直人を、巨大な横断幕が迎えた。
『青春とは、放課後である!』
「朝から帰りたくなる文章だな」
その下に、金色の学ランを着た男が立っていた。
生徒会長、滞在永久(たいざい・とわ)。
背は高く、髪はなぜか常に向かい風を受けているように逆立っている。
「全校生徒に告ぐ!」
永久が拡声器を掲げる。
「本日より我が校は、全員部活動制を導入する! 放課後を何となく過ごす者、すぐ帰る者、家でごろごろする者――そのすべてを、部活動の輝きで包み込む!」
拍手が起きた。
主に、永久の両脇に並んだ生徒会役員から。
直人は掲示板の細かい規則を読んだ。
『無所属の生徒は、午後七時まで校内美化活動に従事すること』
「人質の取り方が行政なんだよ」
「家路直人!」
永久がまっすぐ指を突きつけた。
「昨日、君は終礼前に下校したそうだな!」
「チャイムは鳴った」
「一音目しか鳴っていない!」
「チャイム側の努力不足だ」
「音に責任を押しつけるな!」
永久は咳払いし、金色の腕章を光らせた。
「君のような若者を放ってはおけん。今日中に入部届を出したまえ。さもなくば、美化活動だ」
「何時までだ」
「午後七時」
直人の顔から血の気が引いた。
「その時間、家ではコロッケが売り切れている」
「世界の終わりみたいに言うな!」
「うちの店にとっては終わりだ」
永久は胸を張った。
「心配はいらん。柔道部、野球部、吹奏楽部、盆栽筋トレ部、どこでも好きな部を選びたまえ!」
「最後の部は何を育てたいんだ」
「盆栽と上腕二頭筋だ!」
「欲張るな」
直人はその場で踵を返した。
「待て! どこへ行く!」
「帰る」
「まだ朝だぞ!」
「危険を感じたら早めに避難する主義だ」
だが、直人の進路へ一人の女子生徒が飛び出した。
「その帰宅力――見つけたあああっ!」
夕焼け色のポニーテール。二年生の夕日ミチル(ゆうひ・みちる)だった。
彼女は直人の両手をつかみ、ぶんぶん振った。
「ねえ君、帰宅部に入らない!?」
「入った瞬間、帰らせてくれるなら」
「もちろん!」
「入る」
「決断が新幹線!」
ミチルは廊下の隅に置かれた、掃除用具入れほどの扉を開いた。
中には机が一つ。椅子が二つ。壁一面に学校周辺の地図。数十個のストップウォッチ。そして大量の非常用ビスケットが積まれていた。
「ここが帰宅部の部室よ!」
「狭い」
「正確には、帰宅部予定地よ!」
「予定地がロッカー」
「去年までモップが住んでた」
「モップに返してやれ」
ミチルは机に一枚の申請書を広げた。
「帰宅部はまだ非公認なの。学校側は『帰るだけなら部活動ではない』って言う。でも違う! 帰宅には技術がある! 安全な経路選択、時間管理、忘れ物防止、寄り道への抵抗、夕飯に間に合うという強い意志!」
「最後だけ妙に具体的だな」
「私は証明したいの。帰ることは、逃げることじゃない。自分を待つ場所へ向かう、立派な前進だって!」
直人は、少しだけ目を細めた。
「いいことを言った直後で悪いが、その非常用ビスケットは何だ」
「帰れなかった日の食料」
「思想と現実がケンカしてる」
「公認条件は三人以上。それと、生徒会の実技審査に合格すること。私は部長。君が二人目。あと一人だけいれば――」
そのとき、扉の外から声がした。
「あのう。ここ、体育館ですか?」
細身の男子生徒が顔をのぞかせた。
胸の名札には「一年・道草マワル(みちくさ・まわる)」とある。
ミチルが首をかしげた。
「体育館は校舎の反対側だけど」
「そうなんですか。朝八時に教室を出たのに、まだ着かなくて」
「今、九時だぞ」
「途中で、窓の外の雲が犬に見えまして」
「一時間見るな」
マワルは地図を見て感動した。
「すごい! 学校から家までの道が描いてある!」
「地図はだいたいそういうものよ」
「僕、家が学校の真向かいなんですけど、毎日帰るのに六時間かかるんです」
直人が初めて、恐怖に似た表情を浮かべた。
「才能が逆向きだ」
ミチルはマワルの肩をつかんだ。
「君、帰宅部に入らない!?」
「家に帰れるようになりますか?」
「なる!」
「入ります!」
こうして、帰宅の天才、帰宅の理論家、帰宅できない男。
奇跡的にかみ合っていない三人がそろった。
放課後四時。
校庭中央に、全校生徒が集められていた。
永久は朝礼台の上で、両腕を広げた。
「これより、帰宅部公認実技審査――『帰宅阻止大作戦』を開始する!」
「審査名に悪意が出すぎてる!」
ミチルのツッコミが校庭に響く。
ルールは単純だった。
午後五時までに、帰宅部三人全員が正門の外へ出ること。
ただし、校内の各部活動は、勧誘という名目で自由に三人を妨害してよい。
失敗すれば、帰宅部は解散。
三人は永久直属の「泊まり込み青春研究会」へ入れられる。
「名前の時点で家に帰す気がない」
直人は腕時計を合わせた。
永久が高らかに笑う。
「家路君! 放課後は学校で仲間と汗を流すためにある! 一人でさっさと帰る君に、青春を語る資格はない!」
「俺は帰ってから家族とキャベツを刻む」
「汗の種類が地味だ!」
「一日百玉をなめるな」
開始地点は一年一組の教室。
正門までは、普通に歩けば五分。
だが、廊下には運動部が並び、階段には文化部が陣取り、校庭には巨大な障害物が築かれていた。
直人は鞄のベルトを締めた。
ミチルは地図を丸めた。
マワルは窓の外を見ていた。
「見てください。あの雲、コロッケに似てません?」
「開始前から寄り道するな!」
午後四時。
号砲が鳴った。
同時に担任が教壇へ立った。
「えー、帰る前に、最後に一つだけ連絡が――」
直人の眉が動く。
「来たな。生徒会奥義『終わらない終礼』」
担任はプリントをめくった。
「まず来週の時間割変更について。それから再来週の遠足について。それから昨日、廊下に落ちていた輪ゴムについて――」
「輪ゴムは明日でいいだろ!」
ミチルが叫ぶ。
「先生の『最後に一つ』は、ラーメン屋の『秘伝』くらい数がある」
直人は静かに机を持ち上げた。
「どうするの?」
「終礼は、着席して聞けばいいんだな」
三人は机と椅子を持ったまま廊下へ出た。
直人が先頭、ミチルが中央、マワルが最後尾。
座った姿勢のまま、三人は机ごと高速で移動する。
「では次に、下校時の注意を――って、家路! 移動するな!」
「聞いています」
「ものすごく遠ざかりながら言うな!」
三人は机を台車のように滑らせ、第一関門へ突入した。
廊下の両側に、卓球部員がずらりと並んでいる。
「勧誘開始ィ!」
数百個のピンポン球が発射された。
「入部届に判子を押すまで通さん!」
白い弾丸が廊下を埋める。
ミチルが地図を盾にした。
「直人君!」
「帰宅奥義・参式――忘れ物回避!」
直人は飛んできた球を、鞄、筆箱、教科書、給食袋へ次々と収納した。
「忘れ物は、見つけた瞬間にしまう!」
「それ他人の備品!」
最後の一球を口で受け止め、直人は卓球部主将の横をすり抜けた。
「強い……! だが、その球は返してくれ!」
「明日返す」
「忘れ物を増やしてる!」
階段では書道部が待ち構えていた。
巨大な筆で、床一面に『止』の文字を書いている。
「我らの墨を踏まずに通れるものなら通ってみよ!」
ミチルが叫ぶ。
「床が真っ黒よ!」
直人は窓を開けた。
「なら、床を通らなければいい」
「まさか外壁を!?」
「いや、隣の階段を使う」
「普通!」
派手な覚悟を決めた書道部員たちが、筆を持ったまま固まった。
「ぐっ……常識という名の裏技……!」
「裏じゃない。廊下の突き当たりだ」
四時十二分。
三人は二階まで下りた。
次の角を曲がった瞬間、甘く香ばしい匂いが鼻をくすぐった。
料理研究部が、廊下一面に揚げ物屋台を並べている。
「揚げたてコロッケ、一個無料でーす!」
直人が止まった。
「直人君!?」
「衣の音がいい」
「敵よ!」
「ジャガイモは敵味方で分けられない」
料理研究部長がにやりと笑う。
「さあ家路君。ここで食べていかないか? ソース二度がけも認めよう」
「卑劣な……!」
直人の額に汗が浮かぶ。
黄金色のコロッケ。
細かなパン粉。
割れば立ち上る、肉とタマネギの湯気。
手が伸びる。
そのとき、直人のスマートフォンが震えた。
『兄ちゃん、きょうはコロッケ何個のこしとけばいい? ひな』
直人の目に光が戻った。
「……四個だ」
「え?」
「妹が二個。母が一個。俺が一個」
料理研究部長が鼻で笑う。
「ここなら一人で十個食べられるぞ!」
「家で食う一個のほうがうまい」
直人は屋台の横を走り抜けた。
「な、なぜだ!? 揚げ物に家族補正があるというのか!?」
「ある!」
ミチルがなぜか胸を張った。
マワルだけは、ちゃっかりコロッケを三個もらっていた。
「君は何してるの!」
「二個目を食べたら、一個目が恋しくなって」
「感情が周回してる!」
四時二十五分。
三人は旧校舎へ入った。
正門への最短路は、その先の渡り廊下だ。
しかし、中は美術部と迷路研究会の共同制作によって、完全な迷宮に変わっていた。
壁にはだまし絵。
床には矢印。
扉を開けると同じ部屋へ戻り、鏡の中では自分が勝手に部活勧誘をしている。
「帰宅部へようこそ!」
「鏡の俺まで勧誘側に回るな」
ミチルは地図を広げた。
「おかしい。校舎の構造が変えられてる。このままじゃ間に合わない!」
直人が壁を軽く叩く。
「壊すか」
「校舎を!?」
「冗談だ」
「真顔だから止めにくいのよ!」
その横で、マワルがふらふらと歩き出した。
「こっちです」
「待て。そっちは『行き止まり』と書いてある」
「はい。だから気になります」
「帰宅に最も不要な好奇心!」
マワルは行き止まりの壁に近づき、隅に落ちていたビー玉を拾った。
「きれいだなあ」
ビー玉を光へ透かす。
その光が壁の小さな穴を通り、反対側へ差した。
マワルが首をかしげる。
「この壁、向こうから風が来ます」
ミチルが壁紙をはがした。
そこには、工事用の細い通路が隠されていた。
「正門側へ抜ける連絡路よ!」
「なぜわかった?」
「行き止まりを見ると、その先へ行きたくなるんです」
直人はうなずいた。
「才能が、少しだけ前を向いたな」
「褒められた!」
「九十九度くらい横向きだが」
三人は隠し通路へ飛び込んだ。
四時四十一分。
校庭へ出た。
正門までは百メートル。
だが、その間には、野球部のノック、サッカー部のシュート、陸上部のハードル、園芸部の食虫植物、吹奏楽部のやたら壮大な行進曲が待ち構えていた。
永久は正門前の特設やぐらから叫ぶ。
「これぞ我が校が誇る、部活動連合陣形――青春大渋滞!」
「青春が交通障害になってる!」
ミチルが地図を見た。
「右から抜ける! 陸上部のハードルは三秒ごとに高さが変わるわ!」
「マワル、俺の後ろにつけ」
「はい!」
三人は走った。
野球部の白球が飛ぶ。
直人は鞄で受け、サッカー部のボールを足で返し、ハードルをくぐり、食虫植物へ料理研究部でもらったコロッケを投げた。
巨大なハエトリグサが、満足そうにもぐもぐした。
「植物に油物はどうなんだ」
「今日だけは胃もたれしてもらう!」
吹奏楽部の大太鼓が鳴る。
風圧でミチルの地図が舞い上がった。
「あっ!」
地図を追ったミチルの足が、ハードルに引っかかった。
体が前へ投げ出される。
「部長!」
直人は止まった。
正門まで、あと二十メートル。
時計は四時五十七分。
一人なら間に合う。
振り返れば、間に合わないかもしれない。
永久の声が飛んだ。
「どうした家路君! 帰宅とは結局、自分だけ早く帰るための行為だろう! 仲間を置いていけば、君一人は門を出られるぞ!」
直人は一歩、正門へ向かい――。
次の瞬間、反対方向へ走った。
倒れたミチルを抱き起こす。
「直人君……!」
「三人で帰る」
「でも時間が!」
「帰宅部だろ」
直人はミチルの腕を肩へ回した。
「帰るってのは、誰かを置いて消えることじゃない。待ってる人のところへ、無事にたどり着くことだ」
永久の表情が揺れた。
直人は続ける。
「妹には、俺が帰るまで腹をすかせて待てと言ってある」
「言い方がひどい!」
「カレーは鍋に入っている」
「ちゃんとしてた!」
ミチルは笑い、立ち上がった。
「走れる。行こう!」
三人は再び正門へ向かった。
しかし、永久が自ら門の前へ立ちはだかる。
「通さん!」
「会長!」とミチルが叫ぶ。「どうして、そこまで帰宅を嫌うの?」
永久は歯を食いしばった。
「……家に帰っても、誰もいなかったからだ」
校庭が静まった。
「父も母も忙しかった。夕食はいつもラップのかかった皿。だから私は思った。学校に残れば、誰かがいる。部活動を増やせば、誰も一人で帰らなくて済むと!」
ミチルがゆっくり言った。
「学校が居場所でもいい。でも、みんなを閉じ込めたら、それは居場所じゃなくて居残りよ」
「ぐっ……!」
「それに」とマワルが言った。「会長も帰ってみたらどうですか。今日は誰かいるかもしれません」
「そんな都合よく――」
永久のスマートフォンが震えた。
画面には、母からのメッセージ。
『今日は早く帰れそう。カレー作って待ってるね』
永久の目に涙が浮かんだ。
「か、母さああああん!」
「今だ!」
「感動を踏み台にした!?」
三人が正門へ飛び込む。
だが永久は涙を拭い、反射的にレバーを引いた。
「それとこれとは別だ! 審査は審査!」
鉄の門が閉まり始める。
時計は四時五十九分五十四秒。
「あと六秒!」
正門まで十メートル。
ミチルは足を痛めている。
マワルはなぜか、さっき拾ったビー玉と大量の部活勧誘チラシを持っている。
直人は周囲を見た。
転がったボール。
倒れたハードル。
風にはためく地図。
朝礼台の横に置かれた、車輪つきの演台。
「部長。地図を広げろ」
「え?」
「マワル。チラシを全部投げろ」
「せっかく集めたのに!」
「入部する気だったのか」
「どの部もお菓子をくれたので!」
「心だけ帰宅部を出てるぞ!」
三人は演台へ飛び乗った。
ミチルが地図を帆のように広げる。
マワルがチラシを空へ投げる。
吹奏楽部の大太鼓が、最後の一打を鳴らした。
ドンッ!
風圧が地図を押した。
演台が走り出す。
「帰宅奥義・最終式――」
直人が床を蹴る。
「ただいまへの一直線!」
「技名は格好いいけど乗り物が演台!」
四時五十九分五十八秒。
演台はハードルを踏み台に跳ねた。
五十九秒。
閉じる門の隙間へ、三人が突っ込む。
永久が叫ぶ。
「間に合うなああああ!」
直人が手を伸ばした。
正門の外へ。
午後五時。
演台は門を抜け、商店街の八百屋の段ボールへ突っ込んだ。
キャベツが空を舞った。
直人は一玉を受け止める。
「今夜の分、確保」
「最後まで生活感!」
ミチルが笑った。
マワルは段ボールの中から顔を出した。
「ここ、僕の家ですか?」
「八百屋だ」
「惜しい!」
「何がだ」
校庭から歓声が上がった。
「合格だ!」
「帰宅部、すげえ!」
「俺も今日は帰ってゲームしたい!」
「私は犬の散歩がある!」
「俺は特に用事ないけど帰りたい!」
次々と生徒たちが正門を出ていく。
永久は流れに押され、気づけば門の外へ出ていた。
「わ、私はまだ学校に――」
直人は永久の肩をたたいた。
「カレーが待ってるぞ」
永久は夕日に照らされた帰り道を見た。
そして、鼻をすすった。
「……今日は、帰る」
「そうしろ」
「ただし明日からは、全員部活動制について再検討会議を――」
「何時までだ」
「午後七時まで」
「帰れ」
翌日。
帰宅部は正式な部活動として認められた。
部室は、モップの元住宅から、窓つきの立派な一室へ昇格した。
壁には新品の時計。靴箱。帰宅経路図。非常用ビスケット。
ミチルは涙を浮かべて部室の扉を開けた。
「やった! これで今日から、思う存分活動できるわ!」
直人は入室せず、廊下に立っていた。
「何してるの、直人君。部活を始めるよ!」
「活動内容は?」
「まず一時間、帰宅理論の講義。その後、筋力トレーニング。最後に今日の反省会を――」
直人は無言で入部届を取り出した。
上から大きく『退部』と書く。
「ちょっと待ってええええ!」
「帰宅部が帰れなくてどうする」
「正論だけど部長としては困る!」
チャイムの一つ目の「キ」が鳴る。
直人の姿が消えた。
「直人くーん!」
ミチルが廊下へ飛び出す。
その背後で、マワルが新しい部室の壁を見つめていた。
「あのう、出口はどこですか?」
「今入ってきた扉!」
「扉って、どれですか?」
「一個しかない!」
帰宅部の全国大会出場は、まだ少し先の話である。
なぜなら三人目が、部室から出られなかったからだ。
了