『影縫い』

――御影町奇譚――

一 影が先に笑う

 人間の影は、夜になると一度だけ、持ち主より先に笑う。

 そんな話を兄から聞いたのは、星谷壱成が九歳の夏だった。

 兄の朔は、その三日後に消えた。

 それから七年。

 壱成は、誰かの影が笑うところを、ずっと待っていた。

「おいネヌド。聞いてんのか?」

 放課後の旧校舎。窓の外では、夏祭りの準備をする生徒たちが校庭を走り回っている。

 壱成は脚立の上で、廊下の天井に赤い提灯を吊っていた。下では親友の大庭虎太郎――通称コタが、ガムテープを口にくわえて見上げている。

「聞いてる。『今年こそ彼女がほしい』だろ」

「違えよ! 今夜、体育館の裏に行くなって話。商店街のババアが言ってた。日が落ちたら、影縫いさまが出るんだと」

「祭りの晩だけ働く神様か。ずいぶん公務員的だな」

「笑いごとじゃねえって。影を縫われたら、次の朝には中身が空っぽになるらしいぞ」

 壱成は鼻で笑い、提灯の紐を結んだ。

 そのときだった。

 脚立の下に落ちたコタの影が、ゆっくりと顔を上げた。

 影に顔などない。

 それでも壱成には、はっきり見えた。

 黒い輪郭の中央に、白い歯だけが浮かび、にたりと笑った。

「――コタ、動くな」

「は?」

 影の右手が、持ち主より先に持ち上がった。

 黒い指先が床板を掻く。ぎち、ぎち、と古い釘を抜くような音がした。

 壱成は脚立から飛び降り、コタを突き飛ばした。

 直後、床から細長い何かが突き出した。

 錆びた縫い針だった。

 人間の腕ほどもある針が、ついさっきまでコタの影があった場所を貫いている。針の穴には、濡れた黒髪が何百本も束ねて通されていた。

「う、うわあああっ!?」

 コタが尻もちをつく。

 針は床へ溶けるように沈み、影の中へ消えた。

 廊下の端で、誰かが拍手をした。

 学級委員の御影叶だった。

 白い夏服。腰まで届く黒髪。整いすぎた顔は、いつも通り人形のように無表情だった。

「さすがね、星谷くん。縫い目が見えるんだ」

「何の話だ」

「とぼけなくていい。あなたのお兄さんも、同じ目をしていたから」

 壱成の喉が、ひゅっと鳴った。

「……朔を知ってるのか」

「今夜、九時。御影神社の裏門へ来て」

 叶はコタの影を見下ろした。

 笑っていた口は消えている。代わりに、足首のあたりへ赤い糸の輪が三重に巻きついていた。

「急いだほうがいいわ。その子、今夜の『針代』に選ばれた」

二 御影町の禁じごと

 御影町には、三つの禁じごとがある。

 一つ。日没後、他人の影を踏んではならない。

 二つ。八月十六日の夜、鏡を伏せずに眠ってはならない。

 三つ。山の上から自分の名を呼ばれても、決して返事をしてはならない。

 子供はみな、物心つく前から叩き込まれる。

 理由を尋ねても、大人は「昔からそうだから」としか答えない。

 壱成は昔から、その言葉が嫌いだった。

 昔から続いているというだけで、人を黙らせるものは、たいてい腐っている。

 夜九時。

 壱成はコタを家に押し込み、「何があっても明かりを消すな」と言い残して御影神社へ向かった。

 町は祭りの明かりで赤く染まっていた。

 太鼓の音。焼けた醤油の匂い。笑う人々。

 だが、誰も地面を見ていない。

 無数の影が、人波の足元でざわざわと蠢いていた。

 持ち主とは違う方向へ首を曲げ、神社の山を見上げている。

 裏門で待っていた叶は、巫女装束の上に黒い雨合羽を羽織っていた。

 手には古びた革表紙の帳面と、白木の小刀。

「コタは家に置いてきた」

「無駄よ。印をつけられた影は、どこへ逃げても引かれる」

「なら、引っ張るやつをぶん殴る」

「神様を?」

「腹が減ったからって高校生を食う神様なら、なおさらだ」

 叶はほんの少しだけ目を細めた。

 笑ったのかもしれない。

「ついてきて」

 裏門の先は、立入禁止の鎮守林だった。

 叶は迷いなく獣道を進み、苔むした石祠の前で止まった。

 祠には扉がない。

 正面を塞いでいるのは、巨大な鏡だった。

 曇った鏡面に壱成と叶の姿が映る。

 ただし、壱成の隣に立つ叶には、影がなかった。

「お前……」

「私は生まれつき、鏡にも水にも影が映らない。御影家では、そういう子を『空身』と呼ぶ」

 叶は白木の小刀で掌を浅く切った。

 血を鏡へ塗ると、鏡面が水のように波打つ。

 そこに、七年前の夏が映った。

 炎に包まれた神社。

 泣き叫ぶ九歳の壱成。

 そして、壱成を背に庇う十七歳の朔。

『弟じゃない』

 鏡の中の朔が、誰かへ言っている。

『針代なら、俺を使え。こいつには何も見えてない。何も知らない』

 白装束の大人たちが朔の両腕を掴む。

 朔は振り返り、幼い壱成へ笑いかけた。

『ネヌド。お前の影は、お前のもんだ。誰にも縫わせるな』

 映像が途切れた。

 壱成は鏡へ拳を叩きつけた。

 ひびは入らない。かわりに、拳から滲んだ血が鏡の奥へ吸い込まれていく。

「朔は……町の連中に連れていかれたのか」

「正確には、御影家と町の古老たちに。あなたが本来の針代だった。朔さんは身代わりになった」

「どこにいる」

 叶は石祠の足元を指した。

 土の中から、かすかな声が響いていた。

 ――いっせい。

 懐かしい、兄の声だった。

 ――返事をするな。

 壱成が息を呑んだ瞬間、町中の太鼓がぴたりと止んだ。

 山の下から、コタの悲鳴が上がった。

三 針代

 壱成は獣道を駆け下りた。

 叶も追う。

 祭りの人波は、凍りついたように動きを止めていた。

 屋台の店主も、浴衣の子供も、太鼓を叩いていた青年も、全員が同じ方向を向いている。

 壱成たちの高校だ。

 校舎の窓という窓から、黒い糸が空へ伸びていた。

 何千本もの糸が月を覆い、巨大な縫い目を作っている。

「始まった……」

「何がだ!」

「影送り。印をつけた人間を、夜の穴へ縫いつける儀式」

 祭りの群衆が、一斉に口を開いた。

「ハリヲ」

「カエセ」

「ハリヲ」

「カエセ」

 同じ声だった。

 老若男女、全員の喉から、濡れた子供の声が出ている。

 その足元で、影が持ち主から剥がれ始めた。

 黒い皮膚のようにめくれ、立ち上がる。顔のない影人形が、糸に引かれて学校へ歩いていく。

「町の人間は操られてるのか」

「いいえ」

 叶の声は冷たかった。

「見ないふりをしているだけ。昔から」

 校門の前に、コタがいた。

 裸足で、寝間着のまま、ふらふらと歩いている。両目は閉じ、足首の赤い糸が体育館の裏へ伸びていた。

「コタ!」

 壱成が肩を掴む。

 コタの首が、骨の限界を無視して百八十度回った。

 閉じた瞼の下から、黒髪が溢れ出す。

「ネヌド」

 コタの口が、兄の声で言った。

「来るな」

 次の瞬間、コタの影から無数の針が飛び出した。

 壱成は咄嗟に腕で顔を庇う。

 肉を裂く痛み。だが針は腕を貫かず、皮膚の上で止まっていた。

 壱成の腕に、黒い線が浮き上がる。

 生まれつきあった、細い痣だ。

 痣は指先まで走り、縫い針の形になった。

「縫い目が見える者は、ほどくこともできる」

 叶が叫ぶ。

「その針を掴んで!」

 壱成は自分の腕へ刺さった黒髪を握った。

 熱い。生きた蛇の束のように暴れる。

「ふざ……けんなっ!」

 力任せに引き抜く。

 ぶちぶちぶち、と空気の裂ける音がした。

 コタの足元に縫いつけられていた赤い糸が、一気にほどける。

「がっ……!」

 コタが地面へ崩れた。

 同時に、体育館の壁が縦に割れた。

 コンクリートの裂け目ではない。

 壁そのものに巨大な唇が現れ、糸で縫い合わされていたのだ。

 ほどけた赤い糸が、最後の一針を引き抜く。

 唇が開いた。

 中には体育館ではなく、逆さまの町が広がっていた。

 天井から家々がぶら下がり、道のかわりに黒い川が流れている。

 川面には、数え切れない子供たちの顔が浮かんでいた。

 全員、口を縫われている。

 長い腕が闇から伸び、コタの体を掴んだ。

「コタ!」

 壱成は手を伸ばした。

 指先が触れる寸前、コタは唇の奥へ引きずり込まれた。

 叶が小刀を構える。

「行くなら、戻れないかもしれない」

「最初から戻る気で行く」

「どうやって?」

 壱成は壁の口を睨んだ。

「コタと朔を連れてだ」

四 裏御影

 唇をくぐった瞬間、上下が反転した。

 壱成は黒い川へ落ちた。

 水ではない。冷たい影の塊が、耳や鼻から体内へ入り込もうとする。

 腕の痣が熱を放った。

 黒い影が悲鳴を上げ、壱成から離れる。

 叶が川岸から白い縄を投げた。

 壱成は掴み、這い上がる。

「ここが……夜の穴か」

「御影町の裏側。『裏御影』よ」

 空はなかった。

 頭上には、逆さまになった現実の町が透けて見える。

 祭りの人々が歩くたび、その影だけが裏御影へ垂れ下がり、木の根のように揺れていた。

 足元の道には、無数の歯が敷き詰められている。

 踏むたび、かちかちと鳴った。

 遠くに学校がある。

 現実とは逆に、校舎が地面へ突き刺さり、屋上だけがこちら側へ出ていた。黒い糸は、その中央にある体育館へ集まっている。

「昔、この土地には大きな穴があった」

 歩きながら、叶が話し始めた。

「底のない穴。夜になると、死者の影が這い出して生者へまとわりついた。影に食われた人間は、中身を失って動く殻になる。村人は穴を『夜喰い』と呼んだ」

「それを神社が塞いだ?」

「最初の御影――誉路という少女が、自分の背骨を針に、髪を糸にして穴を縫ったと伝えられている。でも人間の骨は永遠にはもたない。だから十三年ごとに、新しい針代を捧げる」

「十三年ごと……」

「朔さんは、本来の年ではなかった。あなたが穴に見つかったせいで、儀式が早まった」

 壱成は足を止めた。

「俺が?」

「九歳のあなたは禁じごとを破った。山で名前を呼ばれて、返事をした」

 記憶が蘇る。

 兄と虫取りをした夕暮れ。

 山の奥から聞こえた、母の声。

 もう亡くなっていた母の声。

『いっせい』

 幼い壱成は、返事をした。

 その直後、自分の影が二つに増えた。

 朔は壱成の口を塞ぎ、二つ目の影を踏みつけた。

 そして三日後、消えた。

「俺のせいで、朔は……」

「違う」

 叶が強い声で遮った。

「子供が一度返事をしたくらいで、命を奪われていいはずがない。悪いのは、犠牲を当然にした大人たちよ」

 その言葉に、わずかな震えが混じっていた。

「お前は、どうしてここまで知ってる」

「今夜、私が次の針になる予定だったから」

 叶は黒い雨合羽を脱いだ。

 巫女装束の背中に、赤い糸で大きな円が縫いつけられている。

 円の中心には、白木の針。

「空身は影を持たない。だから夜喰いに食われず、長く封じられる。御影家が何代も待ち望んだ、最高の針代よ」

「ふざけるな。自分で来たのか」

「私一人で十三年もつなら、その間に町を出る子供は大勢いる」

「それで納得したつもりか」

「納得なんてしてない!」

 叶の声が、裏御影に響いた。

「怖いに決まってるでしょう! 死にたくない。神様も町も、みんな大嫌い。でも私が逃げたら、代わりに誰かの影が選ばれる。今夜は、それが大庭くんだった」

 壱成は何も言えなかった。

 叶は唇を噛み、前を向く。

「だから終わらせる。私を針にして、内側から夜喰いを裂く」

「一人で格好つけるな」

「あなたに何ができるの」

「まだわからん」

 壱成は拳を握った。

「でも、わからないまま他人が食われるのを見るより、百倍ましだ」

 叶は呆れたように息を吐いた。

「本当に、朔さんにそっくり」

 そのとき。

 歯の道が一斉に鳴った。

 かち、かち、かち、かち。

 二人の前方に、制服姿の生徒たちが立っていた。

 顔には目も鼻もない。

 口だけが耳元まで裂け、その口を黒髪で縫い閉じられている。

 先頭の胸に、名札がついていた。

 星谷朔。

「兄貴……?」

 生徒たちの口の糸が、ぶつりと切れた。

 何十もの口が同時に開く。

「おかえり、ネヌド」

五 縫われた子供たち

 制服の群れが襲いかかってきた。

 壱成は先頭の一人の拳をかわし、腹へ膝を叩き込む。

 手応えがない。制服の中身は空洞だった。

 人形は腰から折れ、その裂け目から黒い腕が何本も飛び出す。

「ちっ!」

 壱成の頬を爪がかすめた。

 叶が白木の小刀で腕を切り落とす。切断面から血ではなく、子供の笑い声が噴き出した。

「こいつら、何なんだ!」

「歴代の針代よ! 体は朽ちても、影だけが縫い目に残されてる!」

 人形たちの名札は、すべて違っていた。

 暁村トヨ。十二歳。

 山科清吉。九歳。

 御影初音。十四歳。

 知らない名前。知らない子供たち。

 だが、町の慰霊碑には一人も刻まれていない。

「なんで兄貴の名札まである!」

「影縫いさまは、いちばん新しい針代の姿を使う!」

 群れの奥から、一人の少年が歩いてきた。

 十七歳のままの朔だった。

 焼け焦げた夏服。右目には黒い糸が縫いつけられ、左腕は肩から先が巨大な針へ変わっている。

「ネヌド」

 声だけは、記憶のままだった。

「帰れ」

 壱成は動けなかった。

 七年間、何度も夢に見た。

 生きていてほしいと思った。

 会ったら殴ってやるとも思った。

 何も言わず消えたことを、謝らせるつもりだった。

 けれど目の前の兄は、生きても死んでもいなかった。

「帰るのはそっちだ、馬鹿兄貴」

 壱成は笑おうとした。

 声が震えた。

「七年も門限破りやがって。ばあちゃん、まだ毎晩お前の飯を仏壇に置いてんぞ」

 朔の左目が揺れた。

 次の瞬間、針の腕が壱成の胸を貫いた。

 ――ように見えた。

 針は胸の一寸手前で止まり、壱成の制服だけを引き裂いた。

 心臓の上に、黒い縫い目が浮かんでいる。

「お前の中に、夜喰いの欠片がある」

 朔の声が低くなる。

「あの日、山で返事をしたときに入った。俺が針になっても、完全には塞げなかった。だから夜喰いは、お前を通して外へ出ようとしてる」

「なら俺ごと縫えって?」

「そうすれば町は助かる」

 朔の背後で、歴代の針代たちが一斉に首を傾けた。

「町は助かる」

「町は助かる」

「町は助かる」

 壱成は兄の針を素手で掴んだ。

 掌が裂け、血が滴る。

「その言い方、大嫌いなんだよ」

「ネヌド」

「町って誰だ。祭りで笑ってる連中か。見て見ぬふりした大人か。名前も残さず、子供を穴に捨てたやつらか」

 腕の痣が脈打った。

 朔の針に刻まれた無数の縫い目が見える。

 一つ一つが、人間の名前だった。

「こいつらを食って生き残る町なら――」

 壱成は針を握りしめた。

「一回、ぶっ壊れろ!」

 黒い痣が針へ走る。

 ばつん、と音がした。

 朔の腕から、一本の糸がほどけた。

 名札に「暁村トヨ」と書かれた人形が立ち止まる。

 顔のないはずの少女に、目が浮かんだ。

『おかあちゃん』

 小さな声。

 少女の影が制服から抜け、光の粒になって昇っていく。

 朔が目を見開いた。

「ほどいた……?」

「見えるんだよ。お前らを一つの化け物に縫い合わせてる、腐った糸が」

 叶が革表紙の帳面を開いた。

 びっしりと名前が並んでいる。

「これは御影家の祭祀録。捧げられた子供たち全員の本名と命日が書かれてる」

「それを早く言え!」

「名前を呼べば、影を個人に戻せるかもしれない!」

 叶が叫ぶ。

「暁村トヨ! 明治六年、八月十六日!」

 また一本、糸が切れた。

 少女の影が完全に解け、暗い空へ昇る。

 それを合図に、すべての人形が苦しみ始めた。

 胸を掻きむしり、喉を鳴らす。

 体育館の方向から、地鳴りが響く。

 何かが、怒っている。

 朔が壱成を突き飛ばした。

「遅い! 夜喰いが目を覚ました!」

 校舎の地面が盛り上がる。

 黒い糸が束になり、天を突くほど巨大な影が立ち上がった。

 頭は鳥居。

 胴体は無数の子供の腕。

 腹には、糸で縫われた円形の口。

 口の内側で、コタがもがいていた。

「ネヌド! これ夢だよな!? 夢って言え!」

「残念だが、お前の夢にしちゃ趣味が悪すぎる!」

 壱成は走り出した。

六 夜喰い

 夜喰いの腕が振り下ろされる。

 壱成は歯の道を蹴って跳んだ。

 直後、地面が砕け、何千本もの歯が散弾のように飛ぶ。

 肩に突き刺さる。

 痛みを無視して、壱成は夜喰いの腕へしがみついた。

 腕を構成する子供の手が、一斉に壱成を掴む。

 爪が皮膚へ食い込み、闇の中へ引きずり込もうとする。

「山科清吉! 慶応二年、十二月三日!」

 後方で叶が名を読む。

 一組の手が光になって消えた。

「御影初音! 明治十九年、八月十六日!」

 また一組。

 名前を呼ばれるたび、夜喰いの体に穴が開く。

 その穴から、夜明け前の青い光が差し込んだ。

 壱成は腕を駆け上がる。

 夜喰いの腹へ飛び移り、縫い合わされた口へ両手をかけた。

「コタ! 生きてるか!」

「半分くらい死んでる!」

「なら残り半分で踏ん張れ!」

 口を縫う糸は、他より太い。

 壱成の目には、赤黒い縄として見えた。その結び目の中心に、自分の名前がある。

 星谷壱成。

 夜喰いの欠片が、内側から囁く。

 ――ほどけば、おまえが穴になる。

 ――町中の影が、おまえから溢れる。

 ――兄も、友も、すべて食える。

 壱成の右腕が黒く染まり始めた。

 指が細長く伸び、針へ変わる。

「ネヌド!」

 朔が飛びつき、壱成の腕を押さえた。

「そいつの声を聞くな!」

「聞いちゃいねえよ」

「嘘つけ。昔からお前、怖いときほど強がるだろ」

「七年ぶりに会って説教かよ」

「兄貴だからな!」

 二人の腕が、夜喰いの糸に絡め取られる。

 朔の体から黒い血が噴き出した。

「俺はもう針の一部だ。夜喰いが死ねば、俺も消える」

 朔は壱成を見た。

 右目を縫っていた糸がほどけ、昔の顔に戻っていく。

「それでいい。今度こそ、お前を助けられる」

 壱成は朔の額へ頭突きを食らわせた。

「痛っ!」

「勝手に満足してんじゃねえ!」

「お前、化け物相手でも兄貴を殴るのか!?」

「兄貴だから殴ったんだ!」

 壱成は朔の襟を掴む。

「俺は助けられっぱなしで終わる気はねえ。お前も帰る。叶も死なせない。コタも吐き出させる。町の連中には、全員で土下座させる」

「無茶苦茶だ」

「知ってる」

 朔は、七年前と同じ顔で笑った。

「なら、無茶のやり方を教えてやる」

 朔は自分の左腕――骨の針を根元から折った。

 凄まじい絶叫が裏御影を揺らす。

 針から噴き出した黒髪が、朔の全身を切り裂いた。

「兄貴!」

「最初の誉路は、背骨を針にした。だが、伝承には続きがある」

 朔は骨の針を壱成へ渡した。

「穴を縫ったのは、一人じゃない。村の全員が自分の影を一寸ずつ差し出したんだ。誰か一人を犠牲にする話へ変えたのは、後の御影家だ」

 叶が息を呑む。

「祭祀録の最後の頁……破り取られていた部分……」

「一人分じゃ足りないなら、全員から少しずつ借りろ」

 朔が夜喰いの腹を指す。

「影は命じゃない。光がある限り、また生まれる」

 壱成は骨の針を握った。

 腕の痣と一体化し、熱く脈打つ。

「叶! 町の全員の影を、ここへ引けるか!」

「神楽鈴があれば。影送りの術を逆に使う!」

「やれ!」

「簡単に言わないで!」

 叶は巫女装束の袖から小さな鈴を取り出した。

 白木の小刀で背中の赤い円を切り裂く。

 縫いつけられていた糸が解け、血が舞った。

 叶は痛みに顔を歪めながら、それでも鈴を振る。

 しゃん。

 澄んだ音が、裏御影を渡った。

 現実の町に垂れ下がっていた無数の影が、一斉にこちらを向く。

 叶が叫ぶ。

「御影町に生きる者へ告ぐ! これは神の命令ではない! あなたたちが見捨てた子供たちの名を呼べ! そして影を一寸、返しなさい!」

 祭祀録を読み上げる声が、町中の人間の口から響き始めた。

「暁村トヨ」

「山科清吉」

「御影初音」

「小田巻平太」

「星谷朔」

 一人、また一人。

 忘れられていた名が、百年以上の夜を越えて呼ばれる。

 人々の影の先端が細い糸となり、夜喰いへ集まった。

 黒ではない。

 朝焼けのような、薄い金色の糸だった。

 壱成は骨の針へ通す。

「夜を縫うんじゃない」

 夜喰いが吠えた。

 鳥居の頭が割れ、巨大な眼球が現れる。

 眼球には御影町の景色が映っていた。祭りも、家も、学校も、すべてを飲み込もうと瞳孔が開く。

 壱成は口の縫い目へ針を突き立てた。

「朝までの道を、縫いつける!」

 骨の針が走る。

 町中の影を束ねた金色の糸が、夜喰いの体を貫く。

 右肩から左脇へ。

 鳥居の頭から腹の口へ。

 無数の子供たちの名前を避け、夜喰いだけを縫い止める。

 そのたび、影の巨体が裂けた。

 裂け目から朝の光が噴き出す。

 夜喰いの口が開き、コタが吐き出された。

 朔が受け止める。

「うげっ……化け物の胃袋、めちゃくちゃ臭い……」

「喋れるなら生きてるな!」

 だが、最後の結び目が閉じない。

 糸が一寸、足りなかった。

 夜喰いの眼球が壱成を捉える。

 瞳孔から黒い杭が伸び、壱成の胸を貫いた。

「ネヌド!」

 痛みはなかった。

 胸の中にあった夜喰いの欠片が、歓喜していた。

 ――おまえが、最後の穴だ。

 壱成の足元から影が膨れ上がる。

 自分の姿ではない。

 巨大な口が地面いっぱいに開き、叶もコタも朔も飲み込もうとする。

「くそ……止まれ……!」

 骨の針が手から落ちる。

 朔が壱成の背中を抱いた。

「七年前、お前の影を踏んだとき、半分だけ俺に移った」

 朔の足元から、壱成と同じ形の影が伸びた。

「残りを持っていけ」

「やめろ!」

「これは犠牲じゃない。兄貴から弟への、ただの貸しだ」

 朔の影が糸になり、壱成の胸を通り抜ける。

 足りなかった一寸が満たされた。

 壱成は骨の針を拾い、最後の一針を通した。

「返済期限は、百年後だ!」

「利子つけるぞ!」

 二人で糸を引く。

 結び目が閉じた。

 裏御影に、朝日が昇った。

七 朝

 光は音を立てて降ってきた。

 夜喰いの巨体が透けていく。

 縫い合わされていた子供たちの影が、一人ずつほどけ、空へ昇った。

 泣いている子。

 笑っている子。

 親の名を呼ぶ子。

 誰も、化け物の顔はしていなかった。

 最後に残ったのは朔だった。

 十七歳の姿から、黒い糸が抜け落ちていく。

 焼け焦げた制服も傷も消え、あの夏のままの兄になる。

「帰れるんだよな」

 壱成が聞いた。

 朔は答えず、壱成の頭に拳を置いた。

 子供の頃、よくそうしたように。

「ばあちゃんに言っとけ。味噌汁、ちょっとしょっぱかったって」

「自分で言え」

「あと、仏壇のプリンは毎日替えなくていい。太る」

「死んでるやつが太るか!」

「それと――」

 朔の輪郭が光に溶け始める。

「でかくなったな、ネヌド」

 壱成は兄の腕を掴もうとした。

 指はすり抜けた。

「待てよ」

「もう待った。七年も」

「俺は、まだ何も返してない」

「返しただろ」

 朔は、解放されていく子供たちを見上げた。

「全員の名前を、朝まで連れてきた」

 光が強くなる。

 朔の姿が消える寸前、壱成は叫んだ。

「百年後、絶対取り立てに来い!」

「ああ」

 兄は笑った。

「影が先に笑ったら、俺だと思え」

 そして、消えた。

 裏御影が崩れ始める。

 逆さまの家々が砂になり、歯の道が白い花へ変わる。

 叶が壱成の腕を掴んだ。

「出口が閉じる! 走って!」

 コタを左右から抱え、三人は学校へ走った。

 背後から朝の光が追ってくる。

 体育館の口が閉じかけている。

 壱成はコタを投げ込んだ。

「扱い雑すぎるだろおおおっ!」

 叶が続く。

 壱成が飛び込む直前、足首を何かに掴まれた。

 振り返る。

 崩れる裏御影の底に、巨大な黒い穴が残っていた。

 夜喰いではない。

 もっと古く、もっと深い何か。

 穴の縁に、白い指が一本だけかかっている。

 ――いっせい。

 母の声。

 ――こっちへおいで。

 壱成は、その指を踏みつけた。

「二度も引っかかるか、ばーか」

 白い指が闇へ落ちる。

 壱成は現実の体育館へ飛び込んだ。

八 名前のある町

 目を覚ますと、壱成は保健室にいた。

 窓の外は朝。

 祭りの提灯が雨に濡れ、校庭へ散らばっている。

 隣のベッドではコタが大いびきをかいていた。

 腹には「胃洗浄済」と叶の字で書かれた紙が貼られている。

「起きた?」

 叶が窓辺に立っていた。

 巫女装束ではなく、いつもの制服だった。

 背中の傷には包帯が巻かれている。

「町は」

「全員、覚えてる。自分たちが何を見ないふりしてきたかも」

「都合よく忘れたりしないだろうな」

「忘れさせない」

 叶は革表紙の祭祀録を持ち上げた。

「今日、神社の境内で読み上げる。歴代の針代、百八人全員の名前を」

「神社の連中は許すのか」

「宮司なら、さっき警察に連れていかれた。ほかの古老も同じ」

「何したんだ」

「祭祀録には、誘拐と監禁と遺体遺棄の記録が百年分。伝奇より先に刑法が勝ったわ」

 壱成は吹き出した。

 笑うと胸が痛んだ。

「お前、案外えげつないな」

「褒め言葉として受け取る」

 叶の足元に、薄い影が落ちていた。

 壱成は目を見開く。

「影、できてるぞ」

 叶も気づき、そっと足を動かした。

 影は遅れずについてくる。

「初めて見た」

 叶はしゃがみ込み、自分の影へ触れようとした。

 指先が床に触れる。

「黒いのね」

「影だからな」

「もっと、きれいなものかと思ってた」

「お前のはちょっと性格悪そうだ」

「踏むわよ」

 そのとき、コタが飛び起きた。

「影を踏むなあああっ!」

 数秒の沈黙。

 三人は顔を見合わせ、笑った。

九 その後

 御影神社の本殿は取り壊された。

 跡地には、小さな石碑が建った。

 百八人の名前。

 年齢。

 生きた時代。

 わかる限りの家族の名。

 町は変わった。

 祭りは続いたが、影送りの儀式はなくなった。

 八月十六日には、子供たちの名を読み、百八個の灯籠を川へ流すようになった。

 大人たちは「知らなかった」と言った。

 壱成は、そのたびに訂正した。

「知ろうとしなかった、だろ」

 コタは暗い場所が苦手になった。

 それでも夏祭りでは、率先して体育館裏の見回りをしている。

 本人いわく、「次に化け物が出たら先制胃洗浄してやる」らしい。

 叶は御影家を出て、町の診療所に住み込みで働く伯母の家へ移った。

 巫女をやめても黒髪は切らなかった。

「似合うから」というのが本人の説明だが、壱成は知っている。

 風の強い日、叶は自分の髪が影を落とすのを、少し嬉しそうに眺めている。

 壱成の祖母は、朔の仏壇へ供える味噌汁を薄味にした。

 プリンは一日おきになった。

 そして壱成には、影がなくなった。

 晴れた日も、電灯の下でも、足元には何も映らない。

 朔から借りた一寸を、最後の縫い目へ置いてきたせいだと叶は言った。

「生活に支障はない」と医者は首を傾げた。

 写真にも鏡にも姿は映る。ただ、影だけがない。

 壱成は気にしなかった。

 影がなくても、腹は減る。喧嘩もできる。朝は眠い。

 何より、夜になっても、自分より先に笑うものはもういない。

十 影が先に笑う

 それから一年後。

 八月十六日の夕暮れ。

 壱成は石碑の前にプリンを置いた。

 百八人分ではない。朔の好物だった、安いカスタードプリンを一つ。

「利子だ。ありがたく食え」

 返事はない。

 山を下りる途中、背後から足音がした。

 振り返っても、誰もいない。

 西日が長い参道を赤く染めている。

 壱成の足元には、相変わらず影がない。

 だが、石段の下。

 ずっと先の鳥居のところに、人の影が一つ立っていた。

 持ち主はいない。

 十七歳くらいの背丈。

 少し猫背で、片手をポケットへ突っ込んでいる。

 影は壱成へ向かって手を上げた。

 壱成も手を上げる。

「返済には早すぎるぞ」

 影は肩をすくめた。

 その背後で、山より巨大な別の影がゆっくり起き上がった。

 頭は鳥居。

 腹には、縫いかけの丸い口。

 兄の影が振り返る。

 そして、持ち主より先に笑った。

「――次は、二人でぶん殴るぞ」

 壱成は拳を鳴らし、笑い返した。