『恋の衣装は、まだ準備中!』

※登場人物は全員二十歳以上です。

 大学祭前日の午後六時。

 服飾サークル「シーム」の作業室には、ミシンの音と、雨が窓を叩く音だけが響いていた。

 佐伯悠真、二十歳。大学二年生。

 人と話すより糸と話すほうが得意で、派手な服を作るくせに、自分は一年中、黒いパーカーとジーンズ。そんな彼は、最後の縫い目を確かめながら、ようやく息をついた。

「よし。これでステージ衣装、全部――」

 完成。

 そう言い終えるより先に、作業室の扉が勢いよく開いた。

「佐伯くん、助けて!」

 飛び込んできたのは、星川莉央。二十歳。同じ大学の二年生で、演劇サークルの看板役者だ。

 長い髪は雨粒をまとい、頬は走ってきたせいで赤い。普段なら誰もが振り返るほど堂々としている彼女が、今は大きなスポーツバッグを胸に抱え、泣きそうな顔をしていた。

「どうしたの、星川さん」

「壊れたの。明日の主役衣装」

「どこが?」

「背中のファスナー」

 莉央は作業台にバッグを置き、中から銀と青のドレスを取り出した。

 大学祭の目玉、演劇サークルのヒーローショー。

 莉央が演じるのは、宇宙王国の姫騎士ルミナ。細身のドレスに短いマント、肩には星形の装飾。悠真が一か月かけて仕立てた自信作だった。

 だが、背中のファスナーは途中で歯が外れ、布まで噛み込んでいる。

「本番用を着て最終リハーサルしてたら、悪役にマントを踏まれて……」

「これはひどいな」

「直る?」

「直す。何時まで?」

「明日の朝九時」

「間に合わせる」

 悠真が即答すると、莉央は胸の前で両手を合わせた。

「ありがとう! 佐伯くん、本当に神様!」

「神様じゃなくて、地味な裁縫係」

「神様はだいたい裏方にいるのよ」

 さらりと言って笑う。

 その笑顔を正面から受け、悠真は針を一本落とした。

「と、とりあえず、壊れ方を確認したい。着た状態で布の張りを見ないと」

「うん。じゃあ、着替えるね」

 莉央は部屋の隅にある簡易試着室へ向かった。

 三本の支柱に厚いカーテンを掛けただけの、頼りない設備だ。

 カーテンが閉まり、衣擦れの音がする。

 悠真は作業台の上だけを見ることにした。

 糸。針。はさみ。指ぬき。

 実に平和で、理性的な景色である。

「佐伯くん」

「はい」

「後ろ、上がらない」

「ファスナーが壊れてるからね」

「そうじゃなくて。腕が届かないの。少し手伝って」

 カーテンの隙間から、莉央が顔だけを出した。

「目、つぶっててくれたらいいから」

「いや、目をつぶったら直せない」

「じゃあ、背中だけ見て」

「その注文、難易度が高くない?」

「職人魂でなんとかして」

 職人魂とは、ずいぶん便利な言葉らしい。

 悠真が試着室へ入ると、莉央は背中を向けて立っていた。

 ドレスは腰までしか閉まっておらず、白いインナーと、すらりとした背中がのぞいている。細い肩ひもの上に、濡れた髪が張りついていた。

「……佐伯くん?」

「見てない」

「見ないと直せないって自分で言ったでしょ」

「必要なところだけ見てる」

「耳まで赤いけど」

「作業室が暑い」

「冷房、二十度よ」

 逃げ道が消えた。

 悠真は咳払いをし、布を噛んだファスナーに指を添えた。

「少し引っ張るよ」

「うん」

「痛かったら言って」

「それ、なんだか言い方が――ひゃっ」

 指先が、背中の肌をかすめた。

「ご、ごめん!」

「冷たかっただけ。大丈夫」

 莉央はそう言ったが、肩がぴんと上がっている。

 悠真も手の置き場がわからなくなり、ファスナーの金具をつまんだまま固まった。

 その瞬間。

 ガタン、と試着室の支柱が傾いた。

「え?」

「危ない!」

 悠真は反射的に片手で支柱をつかみ、もう片方の手で莉央の肩を抱き寄せた。

 カーテンが半分落ちる。

 莉央の身体が、悠真の胸にぶつかる。

 銀色のドレスは背中が開いたまま。悠真の手のひらには、驚くほど近い体温があった。

 二人の顔が、十センチも離れていない。

 莉央の睫毛が震えた。

 悠真は息を止めた。

 雨音だけが、急に大きくなった気がした。

「……佐伯くん」

「はい」

「支柱、もう大丈夫?」

「あ。うん」

「じゃあ、その……手」

 悠真の手はまだ、莉央の肩を抱いていた。

「ごめん!」

 勢いよく離れる。

 今度は悠真の肘がカーテンに引っかかり、残っていた布まで全部落ちた。

「きゃっ!」

「見てない!」

「だから今は見ないと危ないってば!」

 悠真は目を閉じたままカーテンを拾おうとし、丸椅子につまずき、布を頭からかぶって転んだ。

 暗闇の中で、莉央の笑い声が弾けた。

「もう……佐伯くん、真面目すぎ」

「真面目で悪かったね」

「悪くないよ。むしろ、そこが――」

 言葉が途中で止まる。

「そこが?」

「なんでもない。早く直して、職人さん」

 顔を出した悠真が見たのは、背中を向けた莉央だけだった。

 ただ、鏡に映った彼女の頬は、悠真と同じくらい赤かった。

 壊れたファスナーは、交換が必要だった。

 悠真はドレスをマネキンに着せ、縫い目をほどき始めた。

 莉央はというと、帰ろうとはしなかった。サークル備品の大きなTシャツとショートパンツを借り、作業台の向かい側に座っている。

 Tシャツには、赤い糸で「縫えばなんとかなる」と書かれていた。

「本当に、それ着て帰るの?」

「だって服、雨でびしょびしょなんだもん」

「乾燥機、倉庫にあったはず」

「じゃあ、一緒に取りに行こう」

「場所、教えるから」

「一人で行くの、怖い」

「大学の倉庫だよ」

「夜の大学って、出るらしいよ」

「何が?」

「卒業できなかった先輩」

「生々しいな」

 莉央はくすくす笑い、椅子の上で膝を抱えた。

 大きすぎるTシャツの裾が、太腿の半ばまで落ちている。ショートパンツは履いているはずなのに、正面からは見えない。

 悠真は視線をドレスへ戻した。

「星川さん」

「なに?」

「その座り方、危ない」

「どこ見てるの?」

「見ないようにしてるから言ってる」

「ふふ。佐伯くんって、意外とちゃんと男の子なんだね」

「その評価、必要?」

「必要。いつも私をマネキンみたいに扱うから」

 はさみを動かす手が止まった。

「嫌だった?」

「逆。安心してた」

 莉央は膝に顎を乗せ、少しだけ目を伏せた。

「私、演劇サークルで目立つ役をもらうことが多いでしょ。写真を頼まれるのも、誘われるのも慣れてる。でも、衣装が少し短いとか、胸元が開いてるとか、そういう話ばっかりされると……なんだか、私じゃなくて、形だけ見られてる気がして」

「……うん」

「佐伯くんは、採寸のときも衣装のことしか言わなかった。『肩が動かしにくくない?』とか、『この生地なら照明を反射しすぎない』とか」

「仕事だから」

「今日だって、背中が開いてたのに、必死で目をそらしてた」

「それは普通だろ」

「普通にしてくれる人って、案外少ないんだよ」

 雨はまだ強い。

 窓の向こうで稲光が走り、少し遅れて低い雷鳴が響いた。

 莉央の肩が小さく跳ねた。

「雷、苦手?」

「ぜんぜん」

「今、跳ねたけど」

「演技」

「さすが看板役者」

「……ちょっとだけ苦手」

 もう一度、雷が鳴った。

 今度は莉央が椅子から立ち、悠真のそばへ来た。

 作業を見るふりをしているが、距離が妙に近い。柔らかな髪が、悠真の腕に触れる。

「そこ、縫い直すの?」

「うん。古いファスナーを外して、新しいのをつける」

「手伝える?」

「針、使える?」

「ボタンなら」

「じゃあ、マントの星飾りを補強して。ここ」

 二人は肩を並べて作業を始めた。

 莉央は意外に器用だった。

 けれど雷が鳴るたび、針先が止まり、少しずつ悠真に寄ってくる。三回目の雷のころには、二人の肩は完全に触れ合っていた。

「星川さん」

「作業中です」

「近い」

「照明が暗いから」

「机のライト、三つ点いてる」

「細かい男は嫌われるよ」

「覚えておく」

 莉央がむっとして、悠真の脇腹を指でつついた。

 そのとき、廊下から電子音が鳴った。

『衣装認識システム、起動します』

 二人は顔を見合わせた。

「今の、何?」

「たぶん工学サークルの展示」

 作業室の隣では、工学サークルが大学祭用の実験機材を組み立てていた。

 名称は「フィットミラー」。鏡の前に立つと、カメラが体格を読み取り、様々な衣装を画面上で試着できるという装置だ。

 便利そうだが、開発責任者の勅使河原杏奈先輩、二十一歳は笑顔でこう言っていた。

『だいたい安全。たまに服装データが暴走するけど、服が本当に脱げるわけじゃないから安心して』

 安心できる部分が少ない説明だった。

『認識対象を検索中……発見しました』

 作業室の壁に掛けられた大型モニターが勝手に点灯した。

 画面には、莉央の全身が映っている。

「ちょっと待って。いつ撮ったの!?」

「天井のカメラみたいだ」

 モニター上の莉央の服が、瞬時に切り替わった。

 宇宙姫のドレス。

 白衣の研究員。

 猫耳付きのカフェ制服。

 スポーツウェア。

 そして、真夏の海を思わせる大胆な水着。

「きゃああああっ!」

 莉央が両腕で自分の身体を隠した。

「画面だけ! 現実の服は変わってない!」

「わかってるけど、見ないで!」

「だから画面を消そうとしてる!」

 悠真がリモコンを探す横で、画面の水着は次々に形を変える。

 肩ひもの細いもの。腰にリボンのついたもの。布面積について設計者と話し合いたくなるもの。

『おすすめ度、九十八パーセント』

「おすすめしなくていい!」

 莉央は裁断用の大きな紙をつかみ、モニターへ投げつけた。

 紙はふわりと舞い、悠真の顔に張りつく。

「佐伯くん、見た?」

「見てない」

「一瞬、見てた!」

「消すために画面を見たんだよ!」

「何色だった?」

「青――じゃなくて、知らない!」

「見てるじゃない!」

 怒った莉央がクッションを投げる。

 悠真が避ける。

 クッションは壁の非常用スイッチに命中した。

 赤いランプが点滅した。

『展示モードを、緊急洗浄モードに切り替えます』

「緊急洗浄?」

「何を洗うの?」

 天井のノズルから、細かな水が一斉に噴き出した。

「冷たっ!」

「うわっ!」

 小雨のような水が、作業室全体へ降り注ぐ。

 悠真は真っ先に修理中のドレスへ防水布をかぶせた。

 莉央もマントを抱えて机の下へ滑り込む。

 十秒ほどで水は止まった。

 床も、机も、二人もびしょ濡れだった。

「最悪……」

 莉央が立ち上がる。

 借り物の白いTシャツは水を吸い、肌に張りついていた。下に着ているものの輪郭が透けそうになり、莉央はそれに気づいて悲鳴を上げる。

「見ないで!」

 悠真は即座に背を向け、自分の黒いパーカーを脱いで後ろへ差し出した。

「これ着て」

「佐伯くんは?」

「Tシャツが黒だから平気」

「……ありがとう」

 衣擦れの音。

 濡れた布が肌から離れる音がして、悠真は窓の外の暗闇だけを見た。

「もういいよ」

 振り返ると、莉央はパーカーの前を胸元まで閉めていた。

 悠真のものなので、袖は少し長い。濡れた髪を片側へ寄せ、指先だけ出した姿は、普段の華やかな彼女とは違って見えた。

「似合う」

「それ、服を作る人として?」

「いや……普通に」

「普通に?」

「かわいいと思う」

 言ってから、悠真は口を押さえた。

 莉央は目を丸くした。

 それから、パーカーの襟を鼻先まで引き上げた。

「急にそういうこと言うの、反則」

「忘れて」

「無理。耳に保存した」

「削除機能は?」

「ありません」

 パーカーの陰で、莉央が笑う。

 モニターから、再び電子音が鳴った。

『緊急洗浄、完了。安全確認のため、室内をロックします』

「え」

「今、ロックって言った?」

 扉へ駆け寄る。

 ノブは回らない。

『解除には、二名による同時認証が必要です』

 壁の両端に、手形のパネルが点灯した。

 一つは床から二メートルほどの高さ。

 もう一つは、大型棚の裏側。

「設計した人、性格悪くない?」

「杏奈先輩なら、あり得る」

 まず、高い位置のパネル。

 悠真が手を伸ばすが、ぎりぎり届かない。

「踏み台は?」

「水で濡れて危ない」

「じゃあ、私が肩車する?」

「逆だろ」

「冗談よ」

 莉央は悠真の前でしゃがみかけ、慌てて立ち直った。

「私が上に乗るの?」

「嫌なら別の方法を探す」

「嫌とは言ってないけど……変なところ、見ないでね」

「どこを見るんだよ」

「それは、その……いろいろ」

 結局、悠真が壁際にしゃがみ、莉央が肩へまたがる形になった。

「重くない?」

「ぜんぜん」

「本当に?」

「軽すぎて怖い」

「それ、褒めてる?」

「たぶん」

 莉央の両脚が悠真の肩の横にあり、長いパーカーの裾が頭上で揺れている。

 悠真は前方の壁だけを凝視した。

「佐伯くん」

「なに」

「上、見たら怒るからね」

「見ないよ」

「絶対?」

「絶対」

「……そんなに即答されると、少しくらい気にしてほしい気もする」

「どうしろっていうんだよ!」

 動揺した悠真が立ち上がりすぎ、莉央の頭が天井すれすれまで上がった。

「高い高い高い!」

「暴れないで!」

「佐伯くんが急に立つから!」

 莉央がバランスを崩し、両脚で悠真の首を挟む。

 パーカーの裾がふわりと広がる。

 悠真は全力で目を閉じた。

「目、閉じたら危ないでしょ!」

「さっき見るなって言っただろ!」

「前だけ見て! 前だけ!」

 どうにか体勢を戻し、莉央が高いパネルへ手を置く。

『認証一、待機中』

「次、棚の裏!」

 悠真は莉央を下ろし、二人で大型棚の横へ回った。

 棚と壁の隙間は狭く、人一人が横向きで入れる程度しかない。

「私のほうが細いから行く」

「濡れた床、気をつけて」

 莉央は身体を横にし、隙間へ入った。

 だが途中で、パーカーの背中が棚の金具に引っかかった。

「あれ?」

「動ける?」

「待って。後ろ、何かに引っかかってる」

「外すよ」

「うん。……あっ、でも、パーカーの下、Tシャツ着てないから」

「知ってる」

「知ってるって言い方、恥ずかしい!」

 悠真は顔を横へ向けたまま、金具を探った。

 濡れた布の下で、莉央の背中がすぐそこにある。指先が触れそうになるたび、二人とも息を止めた。

「右?」

「もう少し上」

「ここ?」

「ひゃっ。そこ、背中」

「ごめん」

「くすぐったい……」

「動かないで。余計に外れない」

「佐伯くんの指が冷たいんだもん」

「水をかぶったから」

「言い訳になってない」

 どうにか金具を外した瞬間、棚の脚が濡れた床ですべった。

「危ない!」

 悠真は莉央を引き戻した。

 二人はそのまま、床に積んであった舞台用クッションへ倒れ込む。

 ぼふん、と柔らかな音がした。

 悠真が下。

 莉央が上。

 パーカーのフードが落ち、濡れた髪が悠真の頬をくすぐった。

 莉央の手は悠真の胸の上にある。片膝は彼の腰の横。顔と顔の距離は、さっきよりも近かった。

「……また、この体勢」

「ごめん」

「謝るの、どっちだろ」

「どいてもらえると助かる」

「すぐ、どくけど」

 莉央は動かなかった。

 瞳の中に、モニターの青い光が映っている。

 頬に落ちた髪から、水滴が一つ、悠真の首筋へ落ちた。

「佐伯くん」

「うん」

「さっき、かわいいって言ったの、本気?」

「……本気」

「私のこと、そういうふうに見たこと、あるんだ」

「あるよ」

「いつから?」

「衣装の仮縫いをした日から」

「半年も前じゃない」

「言えるわけないだろ。星川さん、人気者だし」

「人気があったら、好きになっちゃだめなの?」

「だめじゃない。でも、僕なんかが言ったら迷惑かなって」

「それ、私が決めることだよ」

 莉央の声は、驚くほど静かだった。

 悠真は答えようとした。

 だが、その直前。

『認証待機時間、残り十秒』

「忘れてた!」

 莉央が飛び起きる。

 二人はそれぞれのパネルへ走った。

「星川さん、届く?」

「届いた!」

「三、二、一――」

 二人が同時に手を置く。

『認証成功。ロックを解除します』

 扉の鍵が開いた。

 同時に、隣室から大きな物音がして、勅使河原杏奈先輩が工具箱を抱えて飛び込んできた。

「二人とも無事!? 装置が雷で暴走して――あら」

 濡れた作業室。

 床のクッション。

 Tシャツ一枚の悠真。

 悠真のパーカーを着た莉央。

 そして、二人の真っ赤な顔。

 杏奈先輩は眼鏡を押し上げた。

「説明は不要ね」

「必要です!」

「ものすごく必要です!」

 二人の声が、きれいに重なった。

 翌朝。

 空は、昨日の嵐が嘘のように晴れていた。

 大学祭のメインステージ裏で、悠真は最後の衣装確認をしていた。

 交換したファスナーは滑らかに動く。マントの星飾りも、莉央が縫い直した部分だけ少し不揃いだが、強度は十分だ。

「完成」

 試着室から出てきた莉央は、宇宙姫ルミナそのものだった。

 銀色のドレスは照明を受けて淡く輝き、青いラインが身体の動きに合わせて流れる。短いマントが肩から背へ広がり、昨日壊れていたファスナーは、最初からそこにあったように見えない。

「どう?」

「完璧」

「衣装が?」

「両方」

「……昨日から、急に攻めるね」

「二度目だから、少し慣れた」

「私は慣れない」

 莉央は笑いながらも、耳を赤くした。

 舞台袖から、開演を告げる音楽が聞こえる。

 観客の歓声が大きくなった。

「行ってくる」

「うん」

「ちゃんと見ててね」

「衣装の動き?」

「私を」

 莉央は一歩近づき、悠真の胸元を指で軽く押した。

「形だけじゃなくて、私を見て」

 そう言って、ステージへ駆けていく。

 眩しい照明の中、彼女は誰よりも堂々としていた。

 剣を振るい、悪役と戦い、子どもたちへ笑顔を向ける。昨日、雷に肩をすくめていた人と同じとは思えない。

 悠真は舞台袖から、その姿を一瞬も見逃さなかった。

 ショーは終盤へ差しかかった。

 悪役が放った光線を、ルミナ姫がマントで跳ね返す。派手な音響と同時に、工学サークルの送風装置が強い風を起こす予定だった。

 予定どおりなら、マントが美しく広がる。

 だが。

「強すぎないか?」

 装置がうなり、突風がステージを横切った。

 莉央のマントが大きく舞い上がる。

 同時に、ドレスの軽いスカート部分まで危険な角度で持ち上がった。

「きゃっ!」

 莉央は剣を持っているため、押さえられない。

 観客席がざわめく。

 悠真は考えるより先に走っていた。

 舞台へ飛び出し、宙を舞ったマントの端をつかむ。そのまま莉央の前へ回り込み、広げたマントで彼女をすっぽり隠した。

 間一髪。

 見えそうで、見えない。

 観客席から、どっと歓声が上がった。

 だが台本には、悠真の役など存在しない。

 悪役役の先輩が小声で言った。

「誰だ、お前」

「衣装係です」

「今は何か名乗れ」

「ええと……」

 莉央がマントの陰から顔を出した。

「彼は、王国一の仕立て騎士です!」

 観客が笑い、拍手する。

 悠真も腹をくくった。

 舞台中央で片膝をつき、精いっぱい芝居がかった声を出す。

「姫。破れた衣装も、乱れた心も、僕が何度でも縫い直します」

 言った直後、自分で恥ずかしくなった。

 けれど莉央は、少し目を見開いたあと、誰よりも輝く笑顔を見せた。

「では騎士よ。最後まで、私のそばに」

「はい、姫」

 即興の展開は、なぜか大成功だった。

 ルミナ姫と仕立て騎士は力を合わせ、悪役を倒す。

 エンディングの音楽が流れ、二人が並んで礼をすると、大学祭で一番ではないかと思うほどの拍手が降り注いだ。

 ステージを降りた途端、悠真はその場にしゃがみ込んだ。

「無理。もう二度と舞台には出ない」

「格好よかったよ、仕立て騎士さん」

「恥ずかしくて記憶を消したい」

「だめ。私の耳と目に保存したから」

「削除機能は?」

「ありません」

 昨日と同じ答えに、二人で笑った。

 莉央はマントを外し、悠真の肩へ掛けた。

「助けてくれて、ありがとう」

「衣装係だから」

「衣装だけ?」

「……星川さんも」

「また名字」

「莉央さん」

「さん、もいらない」

「難易度が高い」

「職人魂でなんとかして」

 莉央は一歩、近づいた。

 舞台裏の狭い通路。

 遠くから祭りの音がする。

 二人の周りだけ、時間がゆっくりになったようだった。

「昨日、言いかけたことがあるの」

「試着室で?」

「うん。佐伯くんの真面目なところ、悪くないって言ったあと」

「そこが?」

「好き、って言おうとした」

 悠真の呼吸が止まった。

「私が衣装を壊したとき、最初に佐伯くんの顔が浮かんだ。直してほしいだけじゃなくて、会いたかったのかもしれない」

「僕は、ずっと会いたかった」

「サークル棟で、ほぼ毎日会ってたよ」

「そういう意味じゃなくて」

「わかってる」

 莉央は笑い、悠真のマントの端を握った。

「私のこと、ちゃんと見てくれる?」

「見る」

「でも、見てほしくないところは見ないで」

「努力します」

「そこは断言して」

「見ません」

「よろしい」

 莉央が背伸びをする。

 唇が触れる――その寸前。

 背後のモニターが、大音量で起動した。

『ベストカップル認証、百パーセント!』

「杏奈先輩!」

 廊下の角から、眼鏡だけがのぞいた。

「ごめん。装置の動作確認中で」

「絶対わざとですよね!」

「続けてどうぞ。記録映像は自動保存されるけど」

「しなくていい!」

 莉央が近くのクッションを投げる。

 杏奈先輩は笑いながら逃げた。

 悠真がため息をつく。

「……場所、変える?」

「ううん」

 莉央は悠真のマントを引き、今度こそ距離をなくした。

 触れるだけの、短いキス。

 離れたあと、二人とも顔を真っ赤にして黙り込む。

 先に笑ったのは莉央だった。

「今の、ちゃんと見た?」

「目、閉じてた」

「私も」

「じゃあ、もう一回?」

「調子に乗らない」

 莉央は悠真の胸を軽く押し、それでも手は離さなかった。

 そのとき、また送風装置が作動した。

 強い風が通路を吹き抜け、莉央のスカートがふわりと舞い上がる。

「きゃっ!」

 悠真は反射的に顔をそらし、手にしていたマントを差し出した。

 莉央は片手でスカートを押さえ、もう片方の手でマントを受け取る。

「見た?」

「見てない!」

「本当に?」

「青いリボンなんて見てない!」

「見てるじゃない!」

 莉央の叫びが、祭りの空へ響いた。

 そのあと悠真が会場を三周ほど追いかけられたこと。

 途中で二人とも笑い出し、結局、手をつないで屋台を回ったこと。

 そして翌年、演劇サークルの新作に「仕立て騎士」という役が正式に追加されたことは――また別の話である。