悪魔の最適解

一 六十四代目

 妹から届いたビデオは、妹が失踪してから十七日目に、私の部屋を撮っていた。

 黒い宅配袋の中に入っていたのは、古いHi8のカセットと、再生用の小型カメラだった。送り状に差出人の名はなく、宛名だけが妹――霧生澪の筆跡で書かれていた。

 カセットのラベルには、赤い油性ペンで二文字。

 GEN64。

 世代、という意味だろう。

 私は進化生態学者だ。数字に意味を見つけることを仕事にしている。そのせいで、意味などないと判断したものを切り捨てるのも早い。

 澪が十五歳のとき、母が死んだ。父はその二年後に消えた。私は大学へ逃げ、澪は家に残った。以来、妹が助けを求めるたび、私はいつも「再現可能な証拠」を要求した。

 今回ばかりは、証拠のほうから来た。

 午前零時十三分。私はカメラをテレビにつなぎ、再生ボタンを押した。

 最初の三十秒は砂嵐だった。

 やがて画面に、濡れたコンクリートの通路が現れた。左右に鉄柵が並び、天井から錆びた鉤が垂れている。かつて牛を追い込んだ係留通路だ。奥に三つの扉があり、赤い丸、青い三角、白い四角が描かれていた。

 画面の外で、何かが三度、低く鳴った。

 どん。どん。どん。

 次の瞬間、澪の顔がレンズいっぱいに現れた。

 頬はこけ、右の眉から乾いた血が垂れていた。だが目は生きていた。恐怖で曇ってはいても、私が子どものころから知っている、何かを企んでいる目だった。

「兄さん。これを止めないで」

 彼女は囁いた。

「途中で止めると、あれは最初からやり直す。最後まで見て。それから、雨籠共同食肉処理場へ来て」

 聞いたことのある名だった。北関東の山中にある廃施設。BSE騒動のあと閉鎖され、十年以上放置されている。澪は失踪前、そこを題材にしたドキュメンタリーを撮っていた。

「大学で、ダーウィンの悪魔の話をしてくれたよね。生まれた瞬間から繁殖できて、無限に子を産んで、永遠に死なない生物。生存も繁殖も成長も、全部を最大にする、ありえない怪物」

 私は無意識に頷いていた。

 生命史理論の思考実験だ。現実の生物は、限られた時間と資源をどこかへ配分しなければならない。早く繁殖すれば成長を犠牲にし、巨大な体を作れば維持費がかかり、長く生きれば若い世代に追い越される。

 すべてを同時に最大化する生物は存在しない。

 だから、それをダーウィンの悪魔と呼ぶ。

「ここにいる人たちは、あれを本物だと思ってる。でも違う」

 澪の背後で、鉄を引っかく音がした。

「兄さん。悪魔は完璧じゃない。完璧に見えるように、失敗を消されてるだけ」

 澪はレンズの外を見た。顔から血の気が引いた。

「来る」

 映像が激しく揺れた。

 誰かが澪の髪を掴み、後ろへ引き倒した。赤い防水前掛けを着た大男だった。顔には、白い半透明の樹脂板が巻きつけられている。樹脂の内側で、別人の顔の皮膚が水草のように揺れていた。

 男は笑った。声は老人と幼児が重なっていた。

『六十四代目は、よく学ぶ』

 画面が暗転した。

 数秒後、映ったのは私の部屋だった。

 テレビの前に座る私の背中。紺色のシャツ。散らかった論文。窓際の観葉植物。映像の中の時計は、今と同じ零時十六分を示していた。

 撮影者は、私の背後に立っている。

 私は振り返らなかった。

 科学者としての訓練ではない。動物としての臆病さだった。見れば、それに見られる。そう確信した。

 画面の中で、撮影者の腕がゆっくり伸びた。手にしているのは家畜用の打撃銃だった。銃口が、私の後頭部へ触れる。

『次に何をする』

 テレビのスピーカーから、声がした。

『振り向くか。伏せるか。逃げるか』

 私は動かなかった。

 画面の中の私は、振り向いた。

 打撃音。

 映像の私の額から、黒いものが花のように開いた。

 現実のテレビが消えた。

 同時に、玄関のほうで金属が床へ落ちた。

 打撃銃用の空薬莢だった。まだ温かかった。

 カメラの液晶には、白い文字が一行だけ残っていた。

 04:44まで。

 私は車の鍵を取った。

 理性が戻ったからではない。

 十七年前、澪が泣きながら電話をかけてきた夜、私は研究室から動かなかった。その結果が何であったかを、私は一度も検証できていない。

 今度こそ、証拠は十分だった。

二 雨籠共同食肉処理場

 雨籠へ向かう山道は、台風の外縁に呑まれていた。

 午前一時四十二分。ワイパーが雨を切るたび、樹木の列が白く浮かび、また闇へ沈んだ。携帯電話は圏外。カーナビは最後の三キロを道として認識しなかった。

 施設は、谷の底にあった。

 錆びた門扉に「雨籠共同食肉処理場」の文字。立入禁止の鎖は切られ、泥の上には新しいタイヤ痕が幾重にも残っていた。

 私はカメラと懐中電灯を持ち、建物へ入った。

 発電機が動いていた。

 天井の蛍光灯は一本おきに明滅し、そのたび、長い解体室が一枚の写真のように止まって見えた。床の溝には、雨水ではない粘った液体が流れている。鉄の作業台。肉を運ぶ天井レール。壁に沿って並ぶ、刃の欠けた大型鋸。

 奥から、食器の触れ合う音がした。

「遅かったな、霧生先生」

 白いタイル張りの検査室に、四人が座っていた。

 中央の老人は痩せていた。上等な灰色の背広に、赤いゴム長靴を履いている。銀色の髪を後ろへ撫でつけ、膝の上に黒い山高帽を置いていた。

 老人の右には、ビデオに映った大男。左には、同じ前掛けをした女。女の首は不自然に長く、縫い目のような黒い線が一周していた。

 四人目の椅子には、誰も座っていなかった。

 だが皿は置かれていた。皿の上で、切り分けられた舌がひとりでに蠢いていた。

「羊谷玄斎だ」

 老人は名乗った。

「この処理場の最後の場長。そして、最初の飼育者だ」

「澪はどこです」

「編集室。まだ人間だよ。大部分は」

 私はテーブルの下へ視線を落とした。

 大男の長靴の間から、黒い筋が床を這い、女の足へつながっている。血管に似ていたが、規則正しく脈打っていた。二人は別々の人間ではない。少なくとも、今は。

「あなたがカセットを送った」

「妹さんが送った。私は許した」

「なぜ」

「六十三代、同じ環境で選抜してきた。臆病者、勇者、信心深い者、嘘つき。みなよい餌だったが、よい敵ではなかった。お前なら、環境そのものを疑う」

 玄斎は嬉しそうに目を細めた。

「悪魔には、悪魔にふさわしい天敵が要る」

「ダーウィンの悪魔は比喩です」

「比喩は、宿主を得れば生き物になる」

 空席の皿の舌が、けたけたと笑った。

 私はカメラをテーブルへ置いた。録画ランプは消えている。それでもレンズの奥で、何かが瞬きをした気がした。

「映像の中で、あれは私の次の行動を当てた」

「当てたのではない。選ばせた」

 玄斎は人差し指を立てた。

「恐怖には癖がある。人は自由に怯えているつもりで、実際には三つか四つの反応を繰り返す。戦う、逃げる、固まる、縋る。映像はそれを測る。瞳孔、呼吸、指先、瞬き。お前が見ている間、向こうもお前を見ていた」

「機械学習の真似事ですか」

「機械より古い。学習より深い」

 玄斎が指を鳴らした。

 大男が立ち上がり、自分の胸へ肉切り包丁を突き立てた。

 刃は肋骨を割り、背中近くまで沈んだ。

 男は笑い続けた。

 傷口から血ではなく、濡れた黒い糸が溢れた。糸は包丁を包み込み、刃を押し戻した。裂けた肉が閉じてゆく。

「この二人は、私の息子と娘だった」

 玄斎は平然と言った。

「今は器だ。あれは死体を嫌わない。死は安定した環境だからな」

 女の首が横へ折れ、床と平行になった。

『おにいちゃん』

 澪の声だった。

『早く来て』

 私の右手が動きかけた。玄斎はそれを見て微笑んだ。

「今のが一つ目の記録だ。妹の声に対して、お前は右手を出す」

 私は手をポケットへ入れた。

「ゲームをしましょう、先生」

 玄斎は空席の皿から舌をつまみ、口へ入れた。

「三回、正しい環境を選べば、妹を返す。三回、あれに触れられれば、お前の行動を六十四代目の遺伝に加える」

「拒否すれば」

「午前四時四十四分に、妹から孵る。その後は、カセットを見たお前のところへ行く」

 大男と女が同時に立った。

 蛍光灯が消えた。

 暗闇の中で、無数の足音が四方へ散った。

「選択圧の時間だ」

三 三つの環境

 連れて行かれたのは、処理場の中央にある円形の選抜室だった。

 片側は厚い観察ガラス。その向こうに、直径六メートルほどの円筒槽がある。底には、黒い脂のようなものが溜まっていた。表面に人の顔がいくつも浮かび、沈み、別の場所からまた現れる。

 選抜室の手前には、三本の鍵穴が並んでいた。

 赤い丸。

 青い三角。

 白い四角。

「赤は高温洗浄」

 玄斎が説明した。

「青は急速冷却。白は減圧。処理場に元からあった設備だが、少し強くしてある」

 彼は三枚の古い写真を壁に貼った。

 一枚目には、黒い甲羅をまとった人型。二枚目には、無数の毛とも菌糸ともつかないものに覆われた塊。三枚目には、胸郭のほとんどが肺になった四足獣。

「甲殻型は熱に耐えるが、急冷で割れる。菌糸型は低温で眠るが、高熱で焼ける。高肺型は速く、強く、だが減圧に耐えられない」

「形を選ぶのは、あれですか」

「お前の選択を予測した後にな」

「同時手番ではない」

「ほう」

「あなたは、あれが先に形を決めると言った。しかし私が鍵を回す前に形を知る方法がない。私には同時手番に見えるが、悪魔側には後手を打つ情報があるかもしれない」

「いい疑いだ」

 玄斎は山高帽を胸へ当てた。

「安心しろ。形態形成には四十七秒かかる。鐘が鳴った時点で、あれは変態を始める。お前が鍵を選べるのは、その後だ。ただし、どの形になったかは見えない」

 観察ガラスが、内側から黒く曇った。

「コインも骰子も使ってよい。歴代の挑戦者もそうした。だが投げた結果をお前が見るなら、あれも見る。見る前に決めれば、そもそも乱数ではない」

「遮蔽物を置けばいい」

「その遮蔽物を選ぶ癖を読む」

「量子乱数なら」

「この山に持ってきていればな」

 天井のスピーカーから、鐘が一度鳴った。

 槽の黒い表面が泡立ち始めた。

「第一選択」

 玄斎は三本の鍵を私の前へ置いた。鍵は同じ形で、柄の色札だけが違う。どの鍵穴にも入る。選択を示すための道具にすぎない。

「六十秒」

 赤、青、白。

 映像の中の三つの扉と同じだった。

 私は白い鍵を手に取った。すぐには差さず、親指ではじいて床へ落とした。鍵は回転し、白い四角を上にして止まった。

 玄斎が笑う。

「偶然に縋るか」

 私は白い鍵を拾い、赤い鍵穴へ差し込んだ。

 玄斎の笑みがわずかに固まった。

 残り三十秒。

 観察ガラスの向こうでは何も見えない。だが聞こえる。

 どん。どん。どん。

 低い三連音。

 ビデオの冒頭と同じだった。

 私は白い鍵を抜き、白い鍵穴へ差し替えた。

「確定でいいのか」

「ええ」

「なぜ白だ」

「コインがそう言った」

「鍵だ」

「あなたは、私が合理的な人間だと思いすぎている」

 私は白い鍵を回した。

 円筒槽の上部で、巨大な弁が開いた。

 空気が轟音とともに吸い出される。黒い曇りがガラスから剥がれ、内側の姿が見えた。

 胸郭を風船のように膨らませた高肺型が、四本の脚で槽壁に張りついていた。顔のあるべき場所には、いくつもの鼻孔が花弁状に開いている。

 減圧が進むにつれ、鼻孔から肉が裏返った。

 高肺型はなおも動いた。

 ガラスへ体当たりし、ひびを走らせる。

 一度。

 二度。

 三度目で、観察窓が割れた。

 空気の奔流とともに、怪物がこちらへ飛び出した。

 私は床へ伏せた。

 頭上を、裂けた肺の袋が通過する。高肺型は壁へ激突したが、すぐに向きを変えた。減圧で潰れながらも、まだ私を殺すだけの速度がある。

 玄斎は部屋の隅で、愉快そうに見ていた。

 私は逃げなかった。

 天井のレールから垂れていた肉鉤を掴み、怪物の突進に合わせて身体をひねった。鉤が、開いた胸郭へ食い込む。

 高肺型の勢いで、レールの滑車が走った。

 怪物は自分から吊り上がった。

 足が床を掻く。黒い舌が伸び、私の頬を舐めた。

『次は逃げる』

 無数の鼻孔が、澪の声で言った。

 私は減圧弁の非常停止を解除した。

 槽内と室内の空気が一気に引かれ、高肺型の胸が内側へ潰れた。

 濡れた紙袋を踏んだような音がした。

 黒い糸が肉鉤を伝って床へ落ち、排水溝へ逃げていった。

 玄斎はゆっくり拍手した。

「見事だ」

「形態形成には音がある」

 私は言わなかった。

 三連音は、巨大な肺胞が開く共鳴音だ。澪は映像の冒頭にそれを残していた。あれは助けを求めるメッセージではない。攻略情報だった。

 私が黙っていると、玄斎は首を傾げた。

「何を読んだ」

「あなたの顔を」

「嘘だな」

「なら、次で確かめればいい」

 玄斎の目が細くなった。

 ゲームの第一手は、私の勝ちだった。

 だが床の排水溝から、細い黒い糸が一本だけ伸び、私の靴の踵へ触れていた。

 冷たさが皮膚を刺した。

 右足の小指が、私の意志と無関係に一度曲がった。

四 失敗を消す者

 第二選択の部屋へ向かう途中、処理場じゅうのスピーカーが一斉に鳴った。

 高い金属音だった。

 耳の奥を針で掻き回すような音。玄斎は耳栓をはめている。大男と女は気にも留めず、私を前後から挟んで歩いた。

「音を使ったな」

 玄斎が言った。

 私は答えなかった。

「妹が仕込んだか。あの娘は耳がよすぎる。映像を切らせるために連れてきたが、余計なものまで聞いた」

 やはり見抜かれた。

「次は聞こえない」

「音が消えても、振動は消えません」

「そう思うだろうな」

 第二の選抜室には、水が張られていた。足首ほどの深さ。床も壁も厚いゴムで覆われ、天井の配管はワイヤーで吊られている。振動を殺すための改造だ。

 観察槽は黒く曇っていた。

 スピーカーの金属音は続いている。

「第二選択」

 鐘が鳴った。

 聞こえたのではなく、胸骨に振動が伝わった。

 六十秒。

 私は水面を見た。機械の震動で細かな波が立ち、情報は埋もれている。

 玄斎は私の左斜め後ろにいた。大男が赤い鍵を、女が青い鍵を、舌のない空席のために白い鍵を持っている。

「鍵を選べ」

 私は動かなかった。

 残り四十五秒。

 金属音の中に、笑い声が混じった。

『兄さん』

 澪の声。

『青。青にして』

 大男の腹が縦に裂け、内側に澪の顔が現れた。皮膚で作られた粗い仮面だ。口だけが動いている。

『寒くして。熱いのは、いや』

 私の右手が反応した。

 玄斎が見ている。

 私は右手を握り、代わりに左足を一歩出した。

 水面に波が広がる。

 その波が、途中で歪んだ。

 私の足から生じた円ではない。観察槽の下から、別の周期の震えが来ている。

 細かく、連続した震動。

 毛か菌糸が、壁を擦っている。

 菌糸型。

 赤の高温洗浄が弱点だ。

 私は大男から赤い鍵を奪った。

 大男は抵抗しなかった。むしろ笑った。

 残り二十秒。

 赤い鍵穴へ手を伸ばしたとき、私は床の端に浮かぶ油膜を見た。

 赤い配管の真下だけ、油膜が白く濁っている。

 冷えている。

 玄斎は鍵穴の表示を入れ替えていた。

「ルールを変えた」

「環境はいつも変わる」

 残り十秒。

 私は赤い鍵を青い鍵穴へ差した。

 玄斎の眉が動いた。

 それが答えだった。

 鍵を回す。

 天井から熱湯と蒸気が噴き出した。

 観察槽の黒い膜が、内側から膨らんだ。

 菌糸型は一体ではなかった。

 槽の底から、鼠ほどの大きさの肉塊が数百体、波のように溢れた。一本一本が人の指に似ていた。爪を脚にし、切断面を口にして走る。

 蒸気がそれらを包んだ。

 肉塊は茹でられ、破裂し、黒い糸を散らした。

 だが数が多すぎる。

 何十体かが蒸気の届かない配管の裏を通り、選抜室へ入ってきた。

 私の脚を這い上がる。

 指の形をしたものがズボンを食い破り、皮膚へ爪を立てた。

 私は水の中へ身を投げた。

 熱い。息が止まるほど熱い。

 しかし水面近くの肉塊は蒸気で弱っていた。私は大型鋸の安全柵を蹴り外し、電源レバーを下げた。

 円盤刃が唸った。

 脚に群がる菌糸型を、ズボンごと刃へ押しつける。

 布が裂け、黒い肉が弾けた。

 刃先が脛を掠め、赤い血が水へ広がる。

 その血に、残った黒い糸が一斉に寄ってきた。

 玄斎の娘だった女が、私の背後から抱きついた。

 首が伸び、顎が肩越しに現れる。

『兄さん。逃げて』

 耳元で澪の声。

 私は逃げる代わりに、女の頭を回転する鋸へ押し込んだ。

 白い樹脂板が割れ、その内側から何枚もの顔がこぼれた。老人、子ども、若い男。すべてが笑っていた。

 鋸が首を断つ。

 胴体はなお私を抱いていたが、蒸気が黒い糸を炙り、力が抜けた。

 二度目の鐘が鳴った。

 蒸気が止まった。

 水面に浮く肉片のすべてが、同時に私を見た。

『二つ』

 玄斎が言った。

「あなたの負けも二つです」

「いや。触れた」

 脚の傷が焼けるように痛んだ。

 黒い筋が皮膚の下へ入り、脛から膝へ伸びている。

「一つ目だ」

 玄斎は笑った。

「六十四代目は、お前の血を知った」

 女の首なし死体が立ち上がり、自分の頭を脇に抱えた。

 頭の口が言った。

『次は、妹を選ぶ』

 その瞬間、処理場の照明がすべて消えた。

 非常灯が赤く点いた。

 遠くで、澪の悲鳴がした。

 私は玄斎へ飛びかかった。

 大男が間に入る。腕が振り下ろされるより早く、私は床の肉片を蹴り上げた。黒い糸が大男の顔へ貼りつき、ほんの一瞬、両者の動きが同期して乱れた。

 その隙に脇を抜けた。

 廊下を走る。

 背後で玄斎が叫んだ。

「逃走反応! 二度目の記録だ!」

 私は逃げていた。

 だが彼らからではない。

 澪の悲鳴の方向へ走っていた。

 恐怖の反応は、観察者が目的を知って初めて分類できる。

 玄斎は私の行動を読んだつもりで、意味を取り違えた。

 完璧な予測者が最初に犯す誤りは、観測と解釈を同じものだと思うことだ。

五 編集室

 澪は、旧事務棟二階の編集室にいた。

 扉には外から鎖が巻かれていた。私は消火器で錠前を叩き壊した。

 中には、古い映像機材が壁一面に積まれていた。Uマチック、ベータカム、Hi8、VHS。数十台のモニターが、別々の死を無音で映している。

 男が扉を選び、背後から鉤で吊られる。

 女が冷凍室に隠れ、床下から伸びた腕に引きずり込まれる。

 警官が銃を撃ち尽くし、自分の声で助けを呼ぶ死体に近づく。

 すべての映像の最後に、同じ黒い一フレームが挟まっていた。

 澪は編集卓に縛られていた。

 右目の白目に黒い筋が走り、首筋まで伸びている。だが私を見ると、弱く笑った。

「遅い」

「十七年よりは早かった」

「そこ、反省するとこ?」

「反省している」

 縄を切る手が震えた。

 澪は立ち上がろうとし、膝をついた。私は肩を貸した。

「脚をやられた?」

「少し」

「少しの顔じゃない」

「そっちも」

 澪は黒くなった右目を指で隠した。

「まだ見える。見えすぎるくらい」

 彼女は編集卓の下から、小さな金属箱を引き出した。中には短く切られたテープ片が、番号を振られて並んでいた。

「失敗した映像」

「失敗?」

「悪魔が負けた世代。玄斎は全部切り捨ててる」

 澪はモニターの一つを指した。

 画面では、甲殻型が冷却槽の手前で立ち止まり、別の通路へ進んでいた。次のカットで、同じ怪物が人を食べている。

「本当は、こいつは最初の通路で凍って死んだ。でも玄斎は死ぬ直前を切って、別の個体が勝った映像につないだ。あれは映像を記憶として取り込む。どの形で、どの行動をした個体が次の世代を残したか、カットの順番で覚える」

「遺伝子ではなく、編集点が遺伝情報」

「そう。だからGEN。一本のテープが一世代。死んだ挑戦者が次のテープを見て、次の悪魔の環境になる」

「成功例だけを学ばせた」

「成功例に見えるものだけ。六十三世代分」

 私はモニター群を見た。

 完璧な捕食者などではない。

 玄斎がルールを固定し、失敗を隠し、勝利だけを系譜にした。悪魔はこの処理場、この三択、この恐怖反応に過剰適応している。

 進化したのではない。

 編集されたのだ。

「外では生きられない」

「今まではね」

 澪は唇を噛んだ。

「玄斎は、兄さんの判断を食わせれば外でも選べるようになると思ってる。兄さんは環境を一般化する。だから六十四代目にした」

「買いかぶりだ」

「私もそう言った」

「そこは庇え」

「時間ないよ」

 澪は編集機の電源を入れた。

 テープが回り始める。

「勝ち方は一つ。あれをもっと賢くする」

「逆では」

「失敗も食わせる。しかも、失敗を成功として」

 彼女は三つのテープ片を選んだ。

 一つ目。菌糸型が高熱で焼かれる映像。

 二つ目。甲殻型が急冷で砕ける映像。

 三つ目。高肺型が減圧で潰れる映像。

「この直後に、次世代が生まれた黒フレームをつなぐ。そうすると、あれは死んだ形を『生き残った形』として覚える」

「一度の誤情報では修正される」

「三つを輪にする」

 澪は指で円を描いた。

「熱のあとに菌糸。冷気のあとに甲殻。減圧のあとに高肺。環境が変わるたび、一手遅れた形へ変わるようにする」

「赤の女王だ」

「なにそれ」

「走り続けなければ同じ場所にもいられない」

「じゃ、走らせよう」

 私は編集室の配線図を見た。

 三つの処理設備は、もともと自動洗浄のため順番に作動する設計だった。高温洗浄、冷却、減圧乾燥。安全装置を外せば、短い間隔で循環させられる。

「問題が二つある」

「三つはある顔してる」

「一つ。設備を連続運転するには場長の認証鍵がいる。玄斎が首から下げていた銀の輪だ」

「二つ目」

「映像を信じず、私の行動だけを読む可能性」

「三つ目は?」

「君の感染」

 澪はしばらく黙った。

 右目の黒い筋が、脈に合わせて動いている。

「私の中で、あれが形を選び始めてる」

「切り離せる?」

「孵る前なら。たぶん」

「たぶんは禁止だ」

「研究者がそれ言う?」

 廊下の向こうで、重い足音がした。

 玄斎の大男が来る。

 澪は素早くテープ片を編集機へ入れた。

「四十秒いる」

「ない」

「作って」

 扉が吹き飛んだ。

 大男が低い姿勢で突っ込んできた。胸から打撃銃の銃身が生えている。両手は肘から先が鉤になっていた。

『兄さん』

 腹に作られた澪の顔が笑う。

『私を置いて逃げて』

 私は編集卓の椅子を蹴った。大男は鉤で粉砕した。

 二十五秒。

 正面からは勝てない。

 私は大男の右へ回った。

 怪物の鉤が先回りする。

 左へ踏み込む。

 今度は胸の打撃銃が向く。

 私の選択を読んでいる。

 ならば、選ばなければいい。

 私は床に落ちていたビデオケーブルを掴み、大男ではなく天井の蛍光灯へ投げた。

 ケーブルが器具に絡む。引き下ろす。蛍光管が割れ、火花が散った。

 大男は一瞬、火花のほうを向いた。

 捕食者は、獲物の選択だけでなく、環境の新規刺激にも反応する。

 私はその反応を選んだ。

 背後へ回り、首にケーブルを巻いた。天井レールの滑車へ通し、非常搬送のスイッチを押す。

 滑車が走る。

 大男の巨体が吊り上げられた。

 十秒。

 怪物は首を締められながら笑った。鉤が私の肩を裂く。

 私は手を放さなかった。

 澪が編集機のレバーを倒す。

 テープの切断片が、一本のループになった。

 モニターが一斉に黒くなる。

 大男の身体が痙攣した。

 黒い糸が、皮膚の下で迷うように走り回る。

「入った!」

 澪が叫んだ。

 私は大男の胸へ手を伸ばし、前掛けの内側から銀の輪を引き抜いた。

 認証鍵。

 次の瞬間、鉤が私の脇腹へ刺さった。

 大男は吊られたまま身体を折り、私を抱き寄せた。

 腹の澪の顔が、私の頬へ口をつけた。

 冷たい何かが舌の裏へ入り込む。

 私は歯を食いしばり、怪物の顔を割れた蛍光灯へ叩きつけた。

 火花。

 黒い糸が焦げる匂い。

 大男は落下し、動かなくなった。

 私の舌の下で、小さなものが一度、鼓動した。

「二つ目」

 入口に玄斎が立っていた。

 山高帽をかぶり、猟銃を持っている。

「触れられたな、先生」

 銃口が澪へ向いた。

「次が最後だ」

六 予測者の罠

 最終選抜は、係留通路で行われた。

 三つの扉の向こうに、それぞれ高温室、冷却室、減圧室がある。ビデオで見た場所だ。

 澪は中央の椅子に縛られた。

 右目だけでなく、首から胸にかけて黒い血管が広がっている。呼吸のたび、皮膚の下で何かが形を変えた。

 私は向かいの操作盤に立たされた。

 銀の認証鍵は取り上げられ、玄斎の首へ戻っている。彼の猟銃は私ではなく、操作盤の非常停止ボタンへ向けられていた。

「編集したテープは見事だった」

 玄斎が言った。

「止めなかったのか」

「なぜ止める。変異は進化の母だ」

「誤った情報は変異ではない。毒です」

「毒に耐えたものだけが残る」

 係留通路の壁に、何十台ものモニターが並んでいる。私と澪の顔、処理設備、黒い槽、過去の死者。

 中央のモニターで、編集したループが再生されていた。

 菌糸型が焼け、黒フレーム。

 甲殻型が凍り、黒フレーム。

 高肺型が潰れ、黒フレーム。

 死が繁殖として記録されてゆく。

「君は悪魔を信じていない」

 私は言った。

「何?」

「本当に完璧だと思うなら、失敗を切る必要はなかった。環境を固定する必要も、私を呼ぶ必要もない。君が育てたのは悪魔ではなく、自分の物語だ」

 玄斎の頬が引きつった。

「挑発か」

「診断です。君はあれを選抜していない。あれに勝たせる結果だけを選んできた」

「勝者が歴史を作る」

「編集者が勝者を作った」

 澪がかすかに笑った。

 玄斎は銃口を彼女へ振った。

「黙れ」

「撃てば、孵化前に宿主が死ぬ」

 私は一歩出た。

「君は撃てない。君の目的は、私を殺すことではない。あれを六十四代目にすることだ」

「お前も妹を見捨てられない」

「その通り」

「なら、こちらが有利だ」

「いいえ。目的を知られている者同士なら、選択肢の多いほうが有利です」

 私は操作盤を見た。

 赤、青、白の三つのレバー。

「私には三つある。君には一つしかない」

「何だと」

「悪魔を生かす。それだけだ」

 玄斎の目が、ほんの一瞬、銀の認証鍵へ落ちた。

 私はそれを待っていた。

 澪が椅子ごと横へ倒れた。

 拘束されていたはずの右手が抜けている。編集室で私が縄を切ったとき、彼女は余った針金を袖へ隠していた。

 玄斎の猟銃が澪を追う。

 私は操作盤を越えて突進した。

 銃声。

 弾は私の肩を掠め、背後のモニターを砕いた。

 玄斎へ組みつく。

 老人の身体は見た目より強かった。膝が私の腹へ入る。脇腹の傷が開き、息が止まる。

 玄斎は私の髪を掴み、顔を操作盤へ叩きつけた。

「行動は読める!」

「そうでしょうね」

 私は血の混じった唾を吐いた。

「だから、あなたに選ばせた」

 玄斎の首から、銀の輪が消えていた。

 澪が床を転がりながら、それを拾っていた。

 彼女は認証鍵を非常運転口へ差し込んだ。

 玄斎が叫ぶ。

「やめろ!」

 澪が鍵を回す。

 処理場全体に、起動音が響いた。

 自動洗浄シーケンス。

 赤。高温洗浄。

 青。急速冷却。

 白。減圧乾燥。

 本来は数時間かける工程を、私は編集室で二十秒間隔に書き換えていた。

 玄斎は私を突き飛ばし、非常停止へ走った。

 私は足を掛けた。

 二人で床へ倒れる。

 鐘が鳴った。

 澪の身体が弓なりに反った。

 口から、黒い糸が束になって溢れた。

 糸は空中で絡み、骨を作り、肉を引き寄せる。大男と女の死体から黒い組織が抜け、係留通路へ流れ込んだ。壁の排水溝、天井の鉤、モニターの隙間。処理場中に散っていたものが、一つの形へ集まってくる。

 最初に現れたのは菌糸型だった。

 全身を白い毛のような触手が覆い、澪を繭に包もうとする。

 赤ランプが点いた。

 天井から高温の蒸気が噴き出した。

 菌糸が燃え、黒い雨になって落ちる。

 怪物は悲鳴を上げながら、身体を脱いだ。

 次に甲殻型になる。

 黒い板が重なり、熱を遮る。

 二十秒。

 青ランプ。

 液化冷媒の白い霧が通路を満たした。

 熱せられた甲殻が急冷され、銃声のように割れてゆく。

 怪物は砕けながら、胸郭を膨らませた。

 高肺型。

 白ランプ。

 扉が密閉され、空気が吸い出される。

 巨大な肺が内側へ潰れた。

「一手遅い」

 澪が床で咳き込みながら言った。

 編集した偽の系譜どおりだった。

 怪物は環境が変わるたび、その環境で死んだ形を「生き残る形」として選んでいる。

 しかし、玄斎は笑った。

「なら、学び直すだけだ!」

 怪物の表面に無数の目が開いた。

 モニターではなく、現実を見始めた。

 次の赤ランプが点く前に、菌糸を捨て、甲殻を作る。

 蒸気に耐える。

 青へ変わる直前、甲殻の内側へ脂肪層を作る。

 冷気に耐える。

 白へ変わる直前、肺を閉じ、全身を低酸素の袋に変える。

 減圧に耐える。

 適応の速度が、環境変化へ追いつき始めた。

「見ろ!」

 玄斎が恍惚と叫んだ。

「失敗を食い、真実を食い、なお変わる! これが悪魔だ!」

 怪物の触手が私の胸を打った。

 壁へ叩きつけられる。

 黒い棘が皮膚へ入り込む。

 三つ目。

 私の左腕が、勝手に持ち上がった。

 指が操作盤の青レバーへ伸びる。

 私は右手で左手首を掴んだ。

『青』

 怪物の全身の口が言った。

『次は青を選ぶ』

 私の左手が、私の力を上回る。

 指先がレバーへ触れた。

 玄斎が笑う。

「お前の神経を読んでいるのではない。使っている」

 私は左肩を操作盤の角へ叩きつけた。

 鈍い音。

 腕の感覚が消えた。

 脱臼した関節が、黒い糸の命令を遮った。

「読めても、動かせなければ意味はない」

 私は右手で赤、青、白のレバーをすべて上げた。

 警報が鳴った。

 三系統同時運転。

 安全装置が火花を散らす。

 蒸気、冷媒、減圧が不規則にぶつかり、係留通路そのものが巨大な肺のように軋んだ。

 怪物は変わった。

 菌糸を残したまま甲殻を作り、甲殻の内側に肺を膨らませる。熱、冷気、低圧のすべてに耐えようと、すべての形を同時に持ち始めた。

 身体が膨れ上がる。

 三メートル。

 四メートル。

 天井の肉鉤を巻き込み、壁を押し広げる。

「そうだ!」

 玄斎は両腕を広げた。

「すべてを最大にしろ!」

「それが罠です」

 私は言った。

 玄斎が振り向く。

「生物がすべてを持たないのは、持てないからではない。持てば、重くなるからだ」

 怪物の脚が床へ沈んでいる。

 甲殻の重量。脂肪の体積。肺を動かす筋肉。菌糸を維持する水分。

 一つ一つは環境への正しい解答だった。

 すべて合わせれば、動けない。

 局所的な正解を積み上げたものが、全体として正しいとは限らない。

 私は係留通路の壁にある黄色いレバーへ飛びついた。

 生体搬送床の傾斜装置。

 玄斎が私の背中へ猟銃を向けた。

 澪が床から彼の足へ噛みついた。

 銃声。

 弾は天井レールを撃ち抜いた。

 私は黄色いレバーを下げた。

 床が傾く。

 怪物は脚を広げて踏ん張った。だが自重が大きすぎた。甲殻がタイルを削り、巨大な身体がゆっくり滑り始める。

 通路の先で、廃棄用の落とし口が開いた。

 その下には、骨と脂を煮るレンダリング槽がある。

 怪物は壁へ菌糸を伸ばした。

 高温が菌糸を焼く。

 甲殻の爪を立てる。

 冷却で爪が割れる。

 肺を膨らませて吸着する。

 減圧で潰れる。

 一つを捨てれば、逃げられる。

 すべてを維持しようとするから、逃げられない。

『捨てろ!』

 私は叫んだ。

『生きたいなら、何かを捨てろ!』

 怪物の無数の目が私を見た。

 その中央に、玄斎の顔が浮かんだ。

『捨てれば、悪魔ではなくなる』

 玄斎自身が答えたのか、怪物が彼の声を使ったのか、もう区別できなかった。

「最初から、悪魔なんかいない」

 私はレバーを最後まで倒した。

 怪物の半身が落とし口へ沈んだ。

 それでも上半身は踏みとどまる。

 質量が足りない。

 玄斎は笑いながら、自分の胸を開いた。

 肋骨の内側は空洞だった。黒い糸だけが詰まっている。

「私を使え」

 彼は怪物へ歩いた。

「私が、お前の歴史だ」

 怪物の菌糸が玄斎を包んだ。

 老人の身体が溶け、巨大な塊へ吸収される。

 その瞬間、重量が増えた。

 床が砕けた。

 怪物は玄斎ごと落とし口へ消えた。

 下から、何百人もの声が重なった絶叫が響いた。

 私はレンダリング槽の主弁を閉じた。

 澪が非常燃焼ボタンを押す。

 赤い炎が、覗き窓の向こうで渦を巻いた。

 黒い塊は最後まで形を変え続けた。

 魚になり、虫になり、胎児になり、私になり、澪になった。

 どの形も数秒しか保たなかった。

 環境は変わり続けた。

 選抜は追いつかなかった。

 やがて、覗き窓の内側が白い灰で覆われた。

 午前四時四十二分。

 悪魔は、夜明けに二分足りなかった。

七 生き残ったもの

 火は明け方まで処理場を焼いた。

 自動設備が破裂し、古い油へ引火したのだ。私と澪は雨の中へ這い出し、門の外の斜面まで逃げた。

 振り返ると、建物の窓が一つずつ赤く染まり、割れていった。

 澪は泥の上に仰向けになった。

 右目の黒い筋は消えていた。黒い組織の大部分は、孵化のとき彼女の身体を離れたらしい。

「兄さん」

「何」

「どうして来たの」

「妹だから」

「血縁選択?」

「その言い方を今するか」

「専門でしょ」

 私は雨を見上げた。

「血縁だから助けるなら、私は十七年前にも来ていた」

 澪は黙った。

「今回は、選んだ」

「進化に逆らった?」

「進化は命令じゃない。過去の結果だ」

 私は彼女の手を握った。

「次を決める権利まではない」

 澪は目を閉じた。

「それ、論文には書かないほうがいいよ。査読で落ちる」

「知ってる」

 谷の向こうが白み始めた。

 処理場の屋根が崩れ、火の粉が雨の中へ舞った。

 私たちは救助されるまで、二時間、そこで横たわっていた。

 警察は玄斎の遺体を発見できなかった。息子と娘の戸籍上の死亡は十二年前だった。施設の地下からは、身元不明の骨が六十三人分見つかった。

 映像機材はすべて焼失した。

 そう報告された。

 私と澪は、それを信じることにした。

 終 次の媒体

 三か月後、私は大学を休職した。

 肩の神経は戻ったが、左手の小指だけ、ときどき私の意思と違う動きをした。医師は末梢神経の損傷だと言った。

 澪は片目の視力を半分失った。代わりに、音の仕事へ戻った。映像は扱わないと約束した。

 私たちは処理場で起きたことを、静止画も音声も使わず、文字だけで記録することにした。

 映像が遺伝子なら、文字は安全だと思った。

 この判断が、最後の誤りだった。

 最初の異変は、原稿の変換ミスだった。

 私は「適応には必ず費用がある」と打った。

 画面には、「適応には必ず入口がある」と表示された。

 削除して打ち直した。

 次は正しく表示された。

 疲れているのだと思った。

 翌朝、原稿の末尾に一行増えていた。

 ――環境が変わるなら、媒体を変えればよい。

 澪に電話した。

 彼女はしばらく黙ったあと、低い声で言った。

「兄さん。あのカセット、火事の前にどこへ置いた?」

 私は答えられなかった。

 雨籠へ持っていった小型カメラは、処理場の入口のテーブルへ置いた。その後、一度も見ていない。

 警察の押収品一覧にもなかった。

「でも、映像は焼けた」

「映像はね」

 通話の向こうで、三度、低い音がした。

 どん。どん。どん。

「澪?」

「今の、そっちじゃないの?」

 私のパソコン画面で、カーソルがひとりでに動いた。

 原稿の冒頭へ戻る。

 タイトルの下に、見覚えのない文字が打ち込まれる。

 GEN65。

 私は電源コードを抜いた。

 画面は消えなかった。

 左手の小指が、勝手にエンターキーを押した。

 保存完了の表示。

 ファイル名は、自動的に書き換えられていた。

 akuma_no_saitekikai.txt

 第六十五代目は、再生を必要としなかった。

 読む者が、次の環境になった。