悪魔は七度、巻き戻す

一 ノイズ

 黒江澪は、死者の声からノイズを取り除く仕事をしていた。

 焼けたカセット、湿気で伸びたオープンリール、遺品の携帯電話。依頼人は決まって「声だけでも、きれいに残したい」と言う。澪は空調の唸りや衣擦れを削り、息継ぎを拾い、最後に残った一文を磨いた。

 そうしているうちに、人は死ぬと声になるのではなく、ノイズの底へ沈むのだと思うようになった。

 弟の駿が行方不明になって十九日目の夜、澪の仕事場に小包が届いた。

 差出人は空欄。消印は滲み、十一月十二日という日付だけが読めた。今日の日付だった。

 中には手のひらほどのオープンリールが一巻と、油染みのついた紙片が入っていた。

 紙片には、黒い鉛筆で一文字だけ書かれていた。

 七。

 澪はリールを光に透かした。茶褐色の磁気テープは途中で一度切れ、透明な接着テープで乱暴につながれている。芯の内側に、駿の筆跡で座標が刻まれていた。

 廻谷旧食肉処理場。

 駿が最後に取材へ入った場所だった。

 彼は地方の産業遺構を録音して回っていた。閉山した炭鉱の風、干上がったダムの排水管、無人駅の発車ベル。廻谷では、半世紀前に閉鎖された食肉処理場の「夜中に鳴る鐘」を録ると言っていた。

 それきり、連絡が途絶えた。

 澪はリールを再生機にかけた。

 最初の二分間は、ほとんど無音だった。

 ただ、磁性体の粒がヘッドを擦る、乾いた雨のような音がする。

 やがて、遠くで鐘が鳴った。

 ひとつ。

 続いて、何か重いものが床を引きずられる音。金属の鉤が触れ合う音。濡れた呼吸。

 そして、駿の声がした。

『姉ちゃん。これを聞いたら、来ないでくれ』

 澪は再生機の停止ボタンへ手を伸ばし、触れられなかった。

『俺を助けようとするな。俺がどんな声で頼んでも、絶対に』

 声の奥で、誰かが笑った。

 女の笑い声だった。低く、ひどく疲れている。

 鐘が二つ鳴った。

『七つ目が鳴る前に、終わらせろ。巻き戻すな。姉ちゃんは、何でも直そうとするから――』

 そこで駿の声は悲鳴に変わった。

 空気を裂く短い音。骨に金属が打ち込まれたような、鈍い破裂音。

 澪は再生を止めた。

 部屋のスピーカーから、まだテープの走る音がした。

 見れば、左右のリールは止まっている。

 なのに、声だけが続いていた。

『ある夜、悪魔がお前の孤独の底へ忍びこみ、こう告げる』

 澪自身の声だった。

『お前がこれまで生きた生を、細部ひとつ違わず、無数に生き直せ、と。歓喜も、恥も、失ったものも、今この恐怖も。お前は悪魔を呪うか。それとも、これ以上の祝福はないと言うか』

 スピーカーが、澪の声で息を吸った。

『私は七度目に、答えた』

 仕事場の照明が消えた。

 暗闇の中で、鐘が三つ鳴った。

二 廻谷

「警察に任せるべきだ」

 翌朝、星寺朔は運転席で三度目の同じ台詞を言った。

 朔は澪の仕事仲間で、音声ドキュメンタリーの制作者だった。駿とも面識がある。昨夜、澪から音源を送られると、夜明け前に車で迎えに来た。

 警察にも連絡はした。だが、廻谷へ通じる県道は土砂崩れで封鎖され、捜索は早くても明日になると言われた。

「警察はノイズを証拠にしない」

「俺も、スピーカーから勝手に出たお前の声は証拠にしたくない」

「でも、駿の声は本物だった」

「本物に似せた声かもしれない」

「私が間違えると思う?」

「間違えてほしいと思ってる」

 山へ入るにつれ、携帯電話の電波は消えた。

 午後から降り始めた雨は、夕方には泥を叩き起こすほど強くなった。道の両脇には杉が密集し、ヘッドライトの先で濡れた幹が一斉にこちらを向いているように見えた。

 朔がカーブを曲がったとき、黒い鳥が一羽、フロントガラスへ落ちてきた。

 どん、と肉の袋を投げつけたような音がした。

 朔が急ブレーキを踏む。

 鳥はワイパーに引っかかり、片方の翼だけを動かした。嘴がガラスを三度叩いた。

「嫌な歓迎だな」

 朔が言い、ワイパーを動かした。

 鳥は闇へ弾き飛ばされた。

 その先に、錆びた看板が立っていた。

 廻谷畜産

 第七処理場

 この先 二粁

 看板の下に、白い服の老婆がいた。

 傘もささず、雨に濡れている。胸元まである白いゴム前掛けには、古い赤黒い染みが広がっていた。片手に、空の買い物籠を提げている。

 朔が窓を少し開けた。

「すみません。旧処理場は、この先ですか」

 老婆は返事をせず、助手席の澪を見た。

 正確には、澪の膝に置いたリールの箱を見ていた。

「それ、回したか」

 しゃがれた声だった。

「ご存じなんですか」

「回したか、と聞いとる」

「再生しました」

 老婆の口が横に開いた。

 笑ったのだと分かるまで、少し時間がかかった。

「なら、おかえり」

 朔は窓を閉め、車を出した。

 バックミラーの中で、老婆はずっと笑っていた。

 やがて姿が雨に消えた。

 二キロ先で、道路は崩れていた。

 谷側の半分が土砂とともに落ち、車一台が通れる幅もない。朔は舌打ちして切り返そうとしたが、後方から倒木が道を塞ぐ音が響いた。

 車を降りると、山の上に巨大な建物の影が見えた。

 廻谷旧食肉処理場だった。

 崩れたコンクリートの壁。高い煙突。窓のほとんどは割れ、雨雲の下で黒い眼窩のように並んでいる。山腹を縫うように、家畜運搬用の細い作業道が続いていた。

 門扉には鎖が巻かれていたが、錠前は新しかった。

 その向こうに、駿の軽自動車が停まっていた。

「入るぞ」

 今度は、朔が先に言った。

三 最初の夜

 処理場の内部には、雨より濃い獣の臭いが残っていた。

 閉鎖から何十年も経っているはずなのに、床の排水溝は湿り、壁のタイルには新しい脂が光っている。天井には搬送レールが走り、等間隔に吊られた鉄鉤が、風もないのにわずかに揺れていた。

 管理棟の机に、駿の録音機が置かれていた。

 電源は入ったまま。残量表示はゼロなのに、赤い録音ランプだけが点滅している。

 朔がヘッドフォンを耳に当てた。

「何か入ってる」

 澪も片耳を借りた。

 録音されていたのは、今いる部屋の音だった。

 雨。天井から落ちる水滴。二人の呼吸。

 そして、まだ口にしていない朔の声。

『何か入ってる』

 一秒遅れて、現実の朔が同じ台詞を言った。

 彼は自分の口を押さえた。

 壁の古い構内放送用スピーカーが鳴った。

『前肢を固定。頭部を上げる。撃鉄を額の中央へ当てる』

 男の事務的な声。

 半世紀前の作業手順らしかった。

『恐怖を与えるな。恐怖は肉を硬くする』

 天井のレールが、ぎい、と動いた。

 鉄鉤が一斉に揺れた。

 部屋の奥にあった大型の再生機が、誰も触れていないのに回り始めた。

 空のリールが回転し、存在しないテープを巻き取っている。

「澪」

 朔の声が震えた。

 彼の口は閉じていた。

「澪、これ、止めてくれ」

 声は彼の腹の中から聞こえていた。

 朔が身体を折り、激しく咳き込んだ。

 口から、細い茶色のテープが垂れた。

 澪が駆け寄ると、朔は顔を上げた。

 瞳が左右別々の方向を向き、唇だけが楽しげに笑っていた。

「何回死ねば、上手になりますか」

 朔は自分の喉からテープを引き出した。

 引いても引いても終わらない。磁気テープは唾液に濡れ、床で黒い腸のようにのたうった。

 彼は机の金属脚を掴み、澪へ振り下ろした。

 澪は身を避け、廊下へ転がり出た。

 背後で朔が笑う。笑い声がスピーカーからも響き、少しずつ時間をずらしながら処理場じゅうへ増殖した。

 廊下の先に、白いゴム前掛けの老婆が立っていた。

 傍らには二人の男がいた。

 一人は裸の上半身に作業用エプロンを着け、顔を豚革の袋で覆っていた。手には空圧式の屠畜銃を持ち、長いホースが背後のコンプレッサーへつながっている。

 もう一人は痩せた男で、骨切り用の帯鋸を載せた台車を押していた。鋸刃は動いていないのに、細い悲鳴のような音を立てていた。

「走れ!」

 朔の声がした。

 今度は彼自身の声だった。

 澪は非常灯の下を走った。

 屠畜銃が鳴った。

 圧縮空気の破裂音。撃鉄が壁へ突き刺さり、タイルが砕けた。ホースに引かれて金属の杭が戻り、豚革の男の手に収まる。

 廊下の突き当たりに、冷蔵区画への鉄扉があった。

 内側から、三度叩く音がした。

「姉ちゃん!」

 駿の声だった。

 澪は扉のハンドルを回した。

 凍った空気が噴き出した。

 冷蔵室の中央に、駿が吊られていた。

 両手首を鉤に掛けられ、裸足の先が床からわずかに浮いている。顔は青白く、胸とこめかみに細い銅線が縫い込まれていた。銅線は壁際の再生機へつながっている。

「来るなって言っただろ」

 駿は泣きながら笑った。

「今、外すから」

「外したら、あれが起きる」

「あれって何」

「俺たちが、もう一度って願ったものだ」

 冷蔵室の奥には、白いシートをかぶせられた肉塊が並んでいた。

 一つが、ゆっくり身じろぎした。

 シートの下から、人の指が出た。

 次の肉塊も動いた。

 その次も。

 無数の口が、布の下で同時に開いた。

『もう一度』

 背後で屠畜銃が鳴った。

 澪の後頭部に、冷たいものが触れた。

 世界が、一度だけ白く光った。

 鐘が鳴った。

 四つ。

四 巻き戻し

「警察に任せるべきだ」

 澪は助手席で目を開けた。

 朔が運転している。

 雨。杉林。フロントガラスに落ちてくる黒い鳥。

 衝突する一秒前に、澪は叫んだ。

「ブレーキ!」

 車が急停止した。

 鳥は車の鼻先をかすめ、路上へ落ちた。嘴がアスファルトを三度叩く。

 朔が澪を見た。

「どうして分かった」

 澪は後頭部へ触れた。

 傷はない。

 けれど指先には、鉄の冷たさが残っていた。

 膝の上の箱を開ける。

 リールの紙片に書かれた七が、濡れたように滲んでいた。

 その夜、二度目の澪は処理場へ行かなかった。

 車を反転させ、倒木の手前で山道へ乗り上げ、来た道を戻った。

 三十分走ると、前方に錆びた看板が現れた。

 廻谷畜産

 第七処理場

 この先 二粁

 看板の下で、老婆が籠を提げていた。

「おかえり」

 後部座席には、いつの間にか豚革の男が座っていた。

 屠畜銃が二度鳴った。

 鐘が五つ。

 三度目、澪はリールへ灯油をかけて燃やした。

 テープは縮れ、黒い虫の群れのように蠢いた。

 焦げた磁性体が煙になって朔の鼻と口へ入り、彼は運転席で身体を反らせた。

 処理場へ着く前に、朔の口から老婆の声がした。

「記録は燃えんよ。燃えるのは、記録されたほうだ」

 朔の皮膚の下を、細い帯が走った。

 額から胸へ、胸から腕へ。内側から身体を巻き取るように、肉がねじれていった。

 彼は自分の肋骨を折りながら笑い、ハンドルを谷へ切った。

 落下の途中で、鐘が六つ鳴った。

 四度目、澪は駿を見つけても扉を開けなかった。

 冷蔵室の向こうで、弟は最初、助けを求めた。

 次に罵った。

 最後には父の声で呼んだ。

『澪。電話に出てくれ』

 十年前、父が事故に遭う直前に残した留守番電話と、まったく同じ声だった。

 澪はその録音を何百回も修復した。背景の走行音を削り、風を消し、父の最後の呼吸まで鮮明にした。

 それでも、あの夜に電話へ出なかった事実だけは直せなかった。

『今なら間に合う』

 澪は扉を開けた。

 白いシートの下から、父の顔をした肉塊が這い出した。

 鐘が七つ鳴る直前、澪は「もう一度」と叫んだ。

 雨の山道へ戻った。

 五度目、澪は老婆を捕らえた。

 帯鋸の男を排水溝へ突き落とし、豚革の男の屠畜銃を奪った。老婆の膝を撃ち抜き、管理棟の椅子へ縛りつけた。

 老婆は痛がらなかった。

 むしろ、懐かしいものを見るように澪を眺めた。

「ようやく上手になった」

「ここは何なの」

「処理場だよ。来たものを、戻れん形にする場所だ」

「なぜ夜が繰り返す」

「昔、ここの社長が外国の本を読んだ。悪魔が来て、一生を同じように生きろと言う話だ。社長は気に入った。牛は同じ柵を歩き、同じ場所で額を撃たれ、同じ鉤に吊られる。人間もそうなら公平だ、と」

 老婆は濡れた歯を見せた。

「それで、夜勤の放送テープに質問を吹き込んだ。火事の夜も流れてた。人が焼け、牛が鳴き、みんなが『やり直したい』と願った。悪魔は願いを叶えた。ただし、直しはせんかった。同じ夜を返しただけだ」

「あなたたちは、ずっとここに?」

「最初の百回くらいは、逃げようとした。次の百回は、朝を待った。その次は、祈った。腹が減るたび、同じ牛が戻ってきた。ある晩、同じ人間も戻ってくると気づいた」

 老婆は笑った。

「神様の冷蔵庫だと思ったよ」

「駿をどうした」

「あの子が次の聞き手だった。聞き手が七つ目の鐘で『もう一度』と願えば、夜は戻る。願わなければ、朝が来る。あの子は一人では決められんかった。だから、外へテープを送った」

 澪は老婆の喉元へ屠畜銃を当てた。

「誰に」

「いちばん、やり直したがる人間に」

 冷蔵室で、駿は目を逸らした。

「ごめん」

 それが答えだった。

「俺が送った。姉ちゃんに」

「私を、ここへ呼んだの」

「一人で終わらせるのが怖かった。毎回、次こそ助かると思った。次こそ、もっと上手くやれるって」

「何回、繰り返したの」

「分からない。姉ちゃんが来てからは、五回目だと思う。たぶん。数えるたび、数字が変わる」

 駿の胸に縫われた銅線が脈打った。

 壁の再生機で、澪の声が逆回転していた。

「俺をここから外すと、心臓が止まる。外さなくても、鐘が鳴るたび、あいつらが俺を切る。俺はそのたび、姉ちゃんにもう一度って頼む」

「今回は頼まないで」

「無理だよ」

 駿は子どものように顔を歪めた。

「死ぬの、毎回、初めてみたいに怖いんだ」

 七つ目の鐘が鳴った。

 駿は「もう一度」と言った。

 澪も、同時に言っていた。

 山道へ戻った。

 六度目、澪は一人で処理場へ入った。

 朔を車内へ手錠でつなぎ、鍵を谷へ投げた。警告も説明もしなかった。説明すれば彼はついてくる。何も言わなければ怒って追ってくる。どちらも、すでに試した気がした。

 老婆たちを避け、管理棟の放送室へ向かった。

 そこには、最初のテープがあった。

 幅一インチの業務用リール。

 テープは機械から機械へ、壁から壁へ渡され、部屋じゅうを蜘蛛の巣のように覆っている。磁気テープの一本一本に、爪、歯、髪、乾いた皮膚が巻き込まれていた。

 中央の椅子に、誰かが座っていた。

 澪自身だった。

 白髪になり、片目を失い、口元からテープを垂らした澪が、ゆっくり顔を上げた。

「遅かったね」

「あなたは何」

「七度目の私」

「私はまだ六度目よ」

「順番なんて、巻けば同じになる」

 老いた澪が笑った。

 その声は、昨夜スピーカーから聞こえた声と同じだった。

「悪魔はどこ」

「質問の中」

「答えたら、消える?」

「消えない。答えた者が、悪魔になる」

 部屋じゅうのテープが走り始めた。

 無数の声が重なった。

『やり直したいか』

『父親の電話に出たいか』

『弟を助けたいか』

『友人を死なせたくないか』

『間違わなかった自分になりたいか』

 澪は耳を塞いだ。

 老いた自分が囁いた。

「やり直すことと、繰り返すことは違う。やり直しには、前より良くなるという希望がある。繰り返しには、それすらない。それでも同じ一瞬を望めるか。悪魔が聞いているのは、それだけ」

 放送室の窓の外で、朔が豚革の男に引きずられていた。

 手錠をつけたまま、顔を血に染め、澪を見つけた。

「助けてくれ!」

 澪は窓を割ろうとした。

 老いた自分が笑った。

「ほら。また直す」

 屠畜銃が鳴った。

 朔の身体が動かなくなった。

 澪はテープの束を引きちぎった。

 機械から火花が散り、放送室へ炎が走った。老いた自分の身体にも火がついたが、彼女は笑い続けた。

「七度目で待ってる」

 煙の中で、父の声がした。

『澪。電話に出てくれ』

 炎の向こうに、十年前の携帯電話が落ちていた。

 着信画面に「父」と表示されている。

 澪は手を伸ばした。

 指が触れる直前、七つ目の鐘が鳴った。

 彼女は、もう一度と願った。

五 七度目

「警察に任せるべきだ」

「そうだね」

 澪は静かに答えた。

 朔が意外そうに横目で見る。

 黒い鳥がフロントガラスへ落ちてくる前に、澪は目を閉じた。

 どん、と音がした。

 嘴がガラスを三度叩いた。

 澪は鳥を見た。

 片方の翼が折れ、胸がまだ動いていた。

 前の六回、彼女はこの鳥を避けようとした。

 今回は、避けなかった。

 苦しみを肯定したのではない。

 苦しみが起きた世界を、なかったことにする権利を、自分に与えないことにした。

「朔、ここで降ろして」

「何を言ってる」

「駿はいる。でも、あなたは来ないで」

「そんな顔で言われて、はいそうですかって帰れるかよ」

「帰れないと思う」

 澪は笑った。

「あなたは、そういう人だった」

 車が錆びた看板の前で止まった。

 老婆が雨の中に立っていた。

「おかえり」

「ただいま」

 澪は答えた。

 老婆の笑みが消えた。

 澪はリールを箱から出し、道路へ置いた。

 燃やさず、壊さず、踏みつけもしなかった。

「あなたたちは、これが終わるのが怖いのね」

 老婆の目が細くなった。

「朝が来れば、半世紀が一度に来る。うちらの骨は灰になる。お前の弟も死ぬ。連れの男も死ぬ。お前だけが、全部覚えて残る」

「それでも朝は来る」

「来させんよ」

 山から、コンプレッサーの始動音が響いた。

 豚革の男が木立の間から現れた。

 屠畜銃を構える。

 澪は鳥の死骸を拾い、男へ投げた。

 反射的に照準が逸れた。

 その瞬間、朔が車で男を撥ねた。豚革の身体がボンネットへ乗り上げ、フロントガラスを砕いた。

「説明は後で聞く!」

 朔が叫んだ。

「後では遅い!」

 帯鋸の男が斜面から台車を押してきた。

 鋸刃が回転し、雨を白い霧に変える。澪は屠畜銃のホースを拾い、男の足へ絡めた。

 朔がアクセルを踏む。

 車に引かれたホースが張り、帯鋸の男は自分の台車へ倒れ込んだ。

 鋸の音が一瞬だけ低くなった。

 老婆が金切り声を上げた。

 その声に合わせ、処理場の窓が一斉に明るくなった。

 内部のスピーカーから、何百人もの「おかえり」が聞こえた。

 澪と朔は処理場へ走った。

 廊下では、白いシートをかぶった肉塊が鉤に吊られていた。

 シートの内側から手が伸び、二人の服を掴む。朔が鉄パイプで払い、澪が排水溝の上を飛び越える。

 管理棟のスピーカーが、父の声で鳴った。

『澪。電話に出てくれ』

 澪は足を止めなかった。

『今なら間に合う』

「間に合わなかった」

 走りながら、澪は答えた。

「私は出なかった。お父さんは死んだ。私はそれを持って生きる」

 父の声が歪んだ。

 泣き声になり、怒鳴り声になり、最後には澪自身の笑い声になった。

 冷蔵室の前で、老婆が待っていた。

 手には、長い解体包丁。

 白い前掛けには、これまでの夜の血がすべて重なっているように見えた。

「愛してるなら、やり直すはずだ」

 老婆が言った。

「違う」

「見殺しにするのか」

「死を選ぶのは私じゃない。もう一度を強いるのも、愛じゃない」

 老婆が包丁を振り上げた。

 朔が澪を突き飛ばした。

 刃が彼の脇腹へ深く入った。

 澪は屠畜銃を老婆の胸へ押し当てた。

 圧縮空気が弾けた。

 老婆の身体が後ろへ折れ、鉄扉に叩きつけられた。

 それでも老婆は笑った。

「次は、もっと上手くやれる」

「次はない」

 澪は冷蔵室へ入った。

 駿は吊られたまま、姉を見た。

 その顔に、理解と恐怖が同時に浮かんだ。

「七度目?」

「うん」

「朔さんは」

「まだ生きてる」

「助けて」

「助ける」

 澪は銅線のつながった再生機を調べた。

 駿の心拍が、そのままリールの回転になっている。一本切るたび、彼の脈が乱れた。

「姉ちゃん」

「ここにいる」

「外したら、俺、死ぬよ」

「うん」

「怖い」

「私も」

「もう一度って言ったら」

「一緒に、言わない」

 駿はしばらく泣いた。

 やがて、ほんの少しうなずいた。

「手、握って」

 澪は弟の手を握った。

 もう片方の手で、最後の銅線を引き抜いた。

 再生機が止まった。

 駿の身体から力が抜けた。

 唇が、姉ちゃん、と動いた。

 声にはならなかった。

 構内のすべての灯りが消えた。

 暗闇の中で、鐘が一つ鳴った。

 今までのどの鐘より大きく、処理場全体がひとつの空洞になったように響いた。

 次に、二つ。

 三つ。

 四つ。

 廊下で朔が呻いている。

 老婆が床を這い、歯を鳴らしている。

 白いシートの下のものたちが、一斉に「もう一度」と囁いている。

 五つ。

 壁が脈打った。

 タイルの目地から黒いテープが伸び、澪の足首へ絡みついた。

 六つ。

 冷蔵室の奥に、老いた澪が立っていた。

 火傷した顔で笑い、父の携帯電話を差し出している。

「受け取れば、全部直せる」

「直さない」

「弟も?」

「忘れない」

「友人も?」

「まだ助ける」

「父親も?」

 澪は答える代わりに、死んだ駿の手を強く握った。

 七つ目の鐘が鳴った。

 悪魔が、耳元で囁いた。

『この夜を、もう一度望むか』

 澪は目を閉じた。

 雨の山道。

 ガラスへ落ちた鳥。

 朔の血。

 駿の最後の手の温度。

 自分が選ばなかった電話。

 選んだすべての言葉。

 どれか一つを消せば、今ここで答える自分も消える。

「望む」

 老いた澪が笑った。

 澪は続けた。

「だから、巻き戻さない。この一度を、永遠に引き受ける」

 悪魔の笑いが止まった。

 長い沈黙のあと、何か巨大なものが息を吐いた。

 東の空が白くなった。

六 投函

 朝日が処理場へ差し込むと、建物は一気に老いた。

 鉄骨が赤く錆び、タイルが剥がれ、搬送レールが落ちた。

 老婆の身体は干からび、白い前掛けの中で灰になった。豚革の男も、帯鋸の男も、何十年分もの時間に押し潰され、骨だけになった。

 白いシートの下にあったのは、牛の骨と、人間の衣服と、切れた磁気テープだけだった。

 朔は生きていた。

 包丁は肺を外れていたが、出血が多い。澪は前掛けを裂いて傷を圧迫し、彼の肩を担いで山を下りた。

 崩れていたはずの道路は、何事もなかったようにつながっていた。

 麓の診療所へ朔を預けたのは、昼前だった。

 医師は、もう少し遅ければ危なかったと言った。

 澪は診療所の待合室で、駿の録音機を開いた。

 内部には、小さなリールが一巻入っていた。

 茶褐色のテープは途中で一度切れ、透明な接着テープでつながれている。

 再生すると、駿の声がした。

『姉ちゃん。これを聞いたら、来ないでくれ』

 あの小包の音声だった。

 ただし、途中から先は空白だった。

 澪自身の声は、まだ入っていない。

 診療所の窓の外に、赤い郵便ポストが見えた。

 澪は長いあいだ、それを見ていた。

 送らなければいい。

 そうすれば自分は廻谷へ来ない。駿を失う夜も、朔が傷つく朝も起きない。

 父の電話に出なかった自分へ戻ることはできなくても、少なくとも次の悲劇は消せる。

 それは、やり直しだった。

 澪は診療所で空の小包をもらい、待合室の隅にあった古い録音機を借りた。

 リールへ声を吹き込む。

『ある夜、悪魔がお前の孤独の底へ忍びこみ、こう告げる』

 一語も変えなかった。

 変えれば、あの夜は同じ夜ではなくなる。

『私は七度目に、答えた』

 録音を止め、紙片に七と書いた。

 リールの芯に、廻谷旧食肉処理場の座標を刻んだ。

 宛名には、自分の仕事場を書いた。

 荷札の日付欄には、十一月十二日と記した。

 ポストの前に立つと、底の見えない投函口が開いていた。

 側面の集荷表示も、十一月十二日のまま止まっていた。今朝は十四日のはずだった。

 澪は小包を抱いたまま、ためらった。

 悪魔は囁かなかった。

 答えを知っている者に、質問は要らない。

 澪は小包を投函した。

 箱が闇へ落ちた。

 底に着く音はしなかった。

 かわりに、遠い山の向こうで鐘が鳴った。

 ひとつ。

 二つ。

 三つ。

 四つ。

 五つ。

 六つ。

 澪は振り返らなかった。

 七つ目は、彼女の胸の中で鳴った。