悪魔は巻き戻せない
1
ビデオテープは、再生された瞬間に琥木澪の名前を呼んだ。
差出人のない封筒が研究所に届いたのは、十一月十七日の午後だった。中には黒いVHSテープが一本。ラベルには油性ペンで、たった二語だけ書かれていた。
MALIN―0
証明せよ
澪は映像認証技術者だった。
監視カメラの改竄検出や、生成映像の真贋判定を仕事にしている。だからこそ、古びたテープを一人で再生するほど無警戒ではなかった。解析室のデッキをネットワークから切り離し、室内を二台のカメラで記録し、同僚には十五分後に連絡がなければ入室するよう告げた。
再生ボタンを押す。
砂嵐の奥から、椅子に縛られた男が現れた。
目には包帯。口元だけが、妙に鮮明だった。
「琥木澪」
澪は一時停止しなかった。
映像が自分の名を知っていること自体は、何の証明にもならない。宛名も社員名簿も、研究所の公開ページもある。
男は続けた。
「君が画面の外にいると証明しろ」
画面が切り替わった。
そこには、今いる解析室が映っていた。
机。デッキ。背を向けて座る自分。右手を再生ボタンの上に置いたまま、微動だにしない自分。
視点は、澪の背後二メートルほどの高さにあった。
澪は振り返らなかった。
十七まで数え、次に二十三まで数え、二つの素数の積を暗算してから、初めて首を巡らせた。
誰もいない。
二台の監視カメラにも、異常はなかった。
モニターの中の澪だけが、こちらを振り返った。
現実の澪より四秒早く。
「証明は、敵の能力を最大に見積もって書け」
男の声が、消えた恩師の声に変わった。
堀江宗一。
認知情報学の教授で、澪に「証明」と「安全」の違いを教えた人だった。半年前、山間部の廃施設を調査したまま消息を絶っている。
その言葉は、十年前の小さな演習室で一度だけ聞いた。録音は残っていないはずだった。
画面に座標が出た。
県境の山中。旧・白杭共同食肉処理場。
続いて、時刻。
午前三時三十三分。
最後に一行。
四人のうち、一人だけが外へ出る。
テープはそこで終わった。
正確には、終わったように見えた。カウンターは回り続けているのに、画面は黒いままだった。
澪は巻き戻さずにデッキから抜いた。
同僚が入ってきたとき、解析室の時計は午後三時十二分を示していた。
だが二台の監視カメラでは、澪が再生ボタンを押してから、テープを抜くまで、一秒も経過していなかった。
2
旧処理場へ向かう前に、澪は三つのことをした。
座標とテープの複製を警察へ送り、午前四時に自動送信される救援メールを設定し、靴底に小型発信器を埋めた。
それでも自分が愚かである可能性は残った。
だが、堀江の失踪と無関係だと断定する根拠もなかった。
十一月十八日、午前零時四十七分。
白杭村は地図から消えかけていた。
山道の果てに、錆びた門と、長い平屋の建物があった。壁は黒ずみ、屋根の一部は落ち、煙突だけが濡れた月明かりに突き出ている。
駐車場には三台の車があった。
「琥木さん?」
最初に声をかけたのは、四十代ほどの女だった。短く切った髪。厚手のコートの下に、病院名の入ったスクラブが見えた。
「柊木蓉子。救命医です。私にも、これが」
透明な袋に入れたVHSテープを示す。
次に、背の高い男が近づいた。五十代、刈り込んだ白髪。名を宵堀弦といい、元刑事だと名乗った。右足をわずかに引きずっていた。
「二十二年前に取り逃がした男が、テープの中にいた。死んだはずの男だ」
三人目は、小型のビデオカメラを肩に載せた若い男だった。
朝比奈玄馬。ドキュメンタリー映像の制作者。細い笑みが、寒さの中でも崩れない。
「僕のには、誰も映っていませんでしたよ。黒い画面と、この場所だけ。だから来た。空白ほど撮りたくなるものはない」
「カメラを止めてください」と澪は言った。
「証拠になります」
「ここでは記録が証拠になるとは限らない」
朝比奈は肩をすくめたが、録画ランプは消さなかった。
四人だった。
テープの文言どおり。
だからといって、四人のうち一人だけが外へ出るという文言まで真実とは限らない。澪はそのことを口にした。
「最初に疑うべきなのは、映像が与えた勝敗条件です。『四人のうち一人』という前提を受け入れた瞬間、私たちは互いを敵にする」
宵堀が鼻を鳴らした。
「前提を疑って、教授は戻るのか」
「疑わなければ、戻らない人が増えます」
正面扉は、触れる前に内側へ開いた。
腐った脂と消毒薬の匂いが流れ出した。
広い解体室には、空のレールが天井を走り、鉄の鉤が一定間隔でぶら下がっていた。中央に古いブラウン管テレビ。その前に四脚の椅子。
四人が入ると、扉が閉じた。
錠の落ちる音がした。
テレビが点いた。
包帯で目を覆った男が映る。
今度は堀江の声ではなかった。男とも女ともつかない、いくつもの声を重ねた音だった。
「四人のうち、一人はすでに器である」
画面の下に、残り時間が表示された。
02:45:59
「器を午前三時三十三分までに処理せよ。さもなければ、全員が記録になる」
柊木が息を呑んだ。
宵堀はテレビへ歩み寄り、電源コードを引き抜いた。
画面は消えなかった。
「悪魔は、見るものを選ばない」
映像の男が言った。
「悪魔は、見るという行為を選ぶ」
天井の照明が落ちた。
3
暗闇の中で、子どもの声がした。
「お母さん」
柊木が凍りついた。
「芽衣……?」
声は解体室の奥、冷蔵庫へ続く扉の向こうから聞こえた。
柊木が走り出す。
澪は腕を掴んだ。
「誰の声です」
「娘よ。六年前に死んだ。離して」
「録音は残っていますか」
「何を――」
「留守番電話、動画、病院の記録。残っていますか」
柊木は答えなかった。
その沈黙が答えだった。
今度は別の声が響いた。
「宵堀さん。ここだ」
宵堀の顔が変わった。
腰に差していた伸縮式の警棒を抜く。
「津守」
暗がりで、鉄のレールが軋んだ。
鉤に吊られていたはずの空の麻袋が、ひとつ、ゆっくりと膨らみ始めた。
人の形になる。
袋の内側から何本もの指が押し出され、縫い目を探るように蠢いた。やがて先端から黒い液が滴り、床に落ちた。
朝比奈のカメラだけが、赤い録画ランプを灯していた。
「撮るな!」宵堀が叫んだ。
袋が裂けた。
中から落ちたのは、皮を剥がれた人間だった。
少なくとも、澪にはそう見えた。
それは床に両手をつき、折れた関節を逆向きに立て直しながら起き上がった。顔のあるべき場所で、何十もの小さな口が開いた。
「お母さん」
「宵堀さん」
「琥木」
「撮って」
四人の失った声が、同じ喉から溢れた。
宵堀が警棒を振り下ろした。
乾いた金属音。
手応えは、人骨ではない。
「宵堀さん、止まって!」
澪が叫んだ直後、奥の扉が開いた。
白い油布の頭巾を被った大男が立っていた。
頭巾に目の穴はなく、鼻から口にかけて縦の縫い目だけが走っている。右手には家畜用の屠殺銃。左手には、肉を吊るすための長い鉤。
空気の圧縮される音がした。
宵堀が振り返り、警棒を構える。
屠殺銃が鳴った。
宵堀の頭が跳ねた。
壁に赤いものが散った。
柊木が悲鳴を上げた。
朝比奈はカメラを向け続けた。
澪は宵堀へ駆け寄ろうとして、足を止めた。
血の飛沫が、壁から宵堀の頭へ戻っていく。
時間を逆にしたように。
次の瞬間、宵堀は無傷で立っていた。
だが彼自身は、自分が撃たれたと信じているらしかった。頭を押さえ、見えない血を掻き集め、呻きながら後退した。
背後に、本物の鉤があった。
「下がらないで!」
間に合わなかった。
宵堀の背中が鉄鉤にぶつかる。
鉤はコートを突き破り、彼を吊り上げた。
宵堀は一度だけ、大きく息を吐いた。
それから動かなくなった。
白頭巾の男が、ゆっくりこちらへ歩いてきた。
柊木が床からメスを拾った。
いつ落ちていたのか、澪には分からなかった。
柊木は澪を見て、顔を歪めた。
「来ないで」
「柊木さん」
「あなた、口が……」
澪は自分の口元に触れた。何もない。
柊木には、別の何かが見えている。
彼女はメスを逆手に持ち、澪の喉へ突進した。
「十九かける十七!」
澪は叫んだ。
柊木の腕が止まる。
「何?」
「十九かける十七。計算して」
「こんなときに――」
「答えて!」
柊木の瞳が揺れた。
唇が、無意識に動く。
「三百二十三」
その瞬間、彼女の顔から恐怖が薄れた。
「私……何を」
「あなたが考えた答えです。見せられたものじゃない。手を離して」
メスが床に落ちた。
澪は柊木の手を取り、朝比奈に叫んだ。
「冷蔵区画へ。今!」
三人は走った。
白頭巾の男の屠殺銃が二度鳴った。
背後で鉄板が凹んだ。
朝比奈が冷蔵庫の扉を引き、三人が中へ滑り込む。澪と柊木が体重をかけて閉めると、外側から鉤が突き刺さった。
白い刃先が、二人の顔の間で止まった。
鉤が抜かれる。
足音は十三歩続き、止まった。
七秒後。
同じ足音が、また十三歩続いた。
澪は息を殺して数えた。
七秒後。
十三歩。
「ループしてる」
柊木が囁いた。
「少なくとも、足音は」澪は答えた。「あれが去ったかどうかは、まだ分かりません」
4
冷蔵区画の奥には、小さな記録室があった。
棚一面にビデオテープが並んでいた。
背ラベルには日付と人名。新しいものも古いものもある。最も古い日付は一九八九年。最も新しいものは、昨日だった。
昨日の四本には、澪たちの名前が書かれていた。
柊木が自分のテープへ手を伸ばす。
澪は止めた。
「再生しないで」
「娘の声が入ってるかもしれない」
「入っているでしょう。だから再生しないでください」
朝比奈が棚を撮っていた。
「ずいぶん冷静だ」
「あなたは冷静すぎます」
澪は彼のカメラを見た。
「さっき宵堀さんが撃たれたとき、あなたは一歩も下がらなかった」
「仕事だから」
「屠殺銃の音がする前に、レンズをそちらへ向けていた」
朝比奈の笑みが、初めて薄くなった。
柊木が二人を見比べる。
「どういう意味?」
「まだ断定できません」
「断定できない。便利な言葉だな」
朝比奈は棚の奥から一冊のファイルを抜いた。
表紙には、MALIN計画と印字されていた。
「探しているのは、これでしょう」
澪は受け取らなかった。
「なぜ場所を知っているんです」
「映像制作者は、画になるものの位置が分かる」
「それは説明になっていない」
朝比奈はファイルを机に置いた。
自分で開く。
中には、堀江の筆跡があった。
――感覚入力の置換は成功。
――被験者は、存在しない人物と会話し、存在する人物を異形として認識。
――重要。装置は知覚を偽装できるが、内言を直接生成できない。
――被験者自身が行う計算、選択、疑念は、置換の外側に残る。
――ただし、置換された知覚に基づく身体行動は現実の肉体で実行される。
――悪魔は刃物を持たない。被験者の手を借りる。
柊木が口元を押さえた。
「じゃあ、宵堀さんは……」
「撃たれていない」澪は言った。「撃たれたと見せられて、自分で後退した。鉤だけが現実だった」
ページをめくる。
――出力素材は、原則として記録済みの映像・音声・被験者から採取した反応の再構成に限られる。
――新規情報を発明することはできない。
――しかし近年、入力されていないはずの応答が観測される。
――装置が学習したのか、何かが装置を通路にしたのか、区別不能。
――区別不能であること自体が、最大の危険。
最後のページは破られていた。
その下から、一枚の写真が落ちた。
若い堀江と、十数人の研究者。
端に、今より痩せた朝比奈が立っている。
名札には別の姓があった。
冬城。
澪は朝比奈を見た。
「冬城晶。堀江先生の共同研究者」
「共同研究者じゃない。後継者だ」
朝比奈――冬城は、カメラを下ろした。
柊木が後ずさる。
「私たちを呼んだのは、あなた?」
「招待状を作ったのは僕だ。だが、内容を選んだのは僕じゃない」
「娘の声をどこから」
「病院のクラウド。君は同意書を読まずに、音声記録の二次利用へ署名していた」
柊木が殴りかかった。
冬城は身をかわし、コートの内側から小型拳銃を抜いた。
「動くな」
銃口が、澪と柊木の間を往復する。
「琥木。君の恩師の言葉も同じだ。十年前の演習室。録音はないと思っていたか? 僕は後ろにいた」
澪は写真を見直した。
確かに、あの演習に一度だけ同席した外部研究者がいた。顔は覚えていなかった。
「あなたの悪魔は、何でも知っているわけじゃない」
「最初はな」
「今もです」
「根拠は?」
「質問するから」
冬城の眉が動いた。
「万能で、私たちの意識まで読めるなら、テープで呼び出し、選ばせ、撮影する必要がない。あなたは記録を増やしている。知らない反応を集めるために」
冬城は微笑んだ。
今度の笑みには、喜びがあった。
「やはり君を呼んでよかった」
天井のスピーカーから、宵堀の声がした。
「琥木。助けてくれ」
柊木が扉を見る。
「偽物です」と澪は言った。
「本当に?」
答えられなかった。
冬城が引き金に指をかけた。
「その答えられなさが、餌になる」
5
冬城は二人を別々の通路へ追い立てた。
柊木の首には細いワイヤを巻き、先端を自分の手に握った。澪にはカメラを持たせた。
「落とせば彼女の頸動脈が切れる」
「そう見せているだけかもしれない」
「そうだ。切れないかもしれない。そもそも柊木蓉子など存在しないかもしれない」
柊木が青ざめる。
澪はカメラを落とさなかった。
冬城は満足そうに言った。
「疑いは行動を止めない。むしろ、最悪の可能性を選ばせる」
通路の壁に、いくつものモニターが埋め込まれていた。
どれも違う映像を映している。
ひとつでは宵堀がまだ生きており、鉤から降りて手招きしていた。
ひとつでは白頭巾の男が床を這い、腹から子どもの腕を生やしていた。
ひとつでは澪自身が、血まみれのメスで柊木の喉を切っていた。
ひとつでは、三人ともすでに白骨だった。
「どれが本物?」冬城が訊いた。
「問いが間違っています」
「なぜ」
「本物がこの中にあるという保証がない」
「では外にあると?」
「外があるという保証もない」
冬城は声を立てて笑った。
「堀江と同じだ。何も信じず、何も救えない」
「先生は、疑うことと止まることを混同しなかった」
「その結果、ここで死んだ」
突き当たりの扉が開いた。
制御室だった。
壁一面にブラウン管が積まれ、中央には大型の編集卓がある。テープデッキ、波形モニター、古い計算機。天井から無数の同軸ケーブルが垂れ、床には円形のコイルが埋め込まれていた。
奥の椅子に、白衣姿の人間が座っていた。
干からびた横顔。
胸元の名札。
堀江宗一。
柊木が息を詰めた。
澪は近づかなかった。
「確認しないのか」冬城が言った。
「あなたが確認させたいと分かったので」
「死体まで疑う?」
「見えているものは全部」
「では、悲しくない?」
澪は答えなかった。
悲しみはあった。
それが目の前の死体を根拠に生じたのか、半年間の不在に生じたのか、自分でも分からなかった。
だが、悲しんでいるという出来事だけは、否定できなかった。
冬城は柊木をガラス張りの小部屋へ押し込み、扉を施錠した。ワイヤを外し、拳銃を澪へ向ける。
「午前三時三十三分まで、あと十八分」
中央モニターに二つの映像が出た。
左には柊木。
右には白頭巾の男。
二人の足元に、赤いランプが点滅している。
「編集卓のレバーを左へ倒せば、柊木の部屋が開く。右へ倒せば、処理人の拘束が解ける。何もしなければ、両方の部屋へガスが入る」
「そう見せている」
「もちろん」
「選ばせることが目的ですね」
「君の選択が欲しい。知識も倫理も役に立たない状況で、君が何を根拠に動くか。その瞬間の反応は、まだ記録にない」
別のモニターに文字が出た。
あなたは左を選ぶ。
澪はレバーを見た。
「脳の準備電位を読んでいる」と冬城が言う。「人間が決めたと思う数百ミリ秒前に、装置は選択を知る。自由意志など、遅れて流れる字幕だ」
澪は左手をわずかに動かした。
モニターの文字が変わる。
あなたは右を選ぶ。
澪は手を止めた。
冬城の笑みが深くなる。
「ほら」
「では、規則を決めます」
「規則?」
「画面が予測した方と、必ず反対を選ぶ」
文字が激しく点滅した。
左。
右。
左。
右。
澪が動く前に、予測は反転を続けた。
「やめろ」冬城が言った。
「なぜです」
「レバーを選べ」
「予測を見て反対を選ぶ人間を、正しく予測できますか」
モニターが一瞬、真っ白になった。
「私が左を選ぶと表示すれば、私は右を選ぶ。右と表示すれば左を選ぶ。表示を隠せば、あなたは予測によって私を支配できない。正解はありません」
「言葉遊びだ」
「いいえ。あなたの悪魔が私を完全に記述できる、という前提の反証です」
冬城が拳銃を上げた。
「撃てば選択は終わる」
「それでは新しい反応を記録できない」
冬城の指が止まった。
澪は続けた。
「あなたは悪魔の主人ではない。餌を運ぶ係です。私を殺したくても、悪魔が私の選択を欲しがるから殺せない」
室内のすべてのスピーカーから、低い唸り声が流れた。
冬城が初めて、モニターを恐れる目で見た。
6
澪は、持たされていたカメラのケーブルを見た。
古いBNC端子。
編集卓の入力端子と同じ規格。
冬城もその視線に気づいた。
「何を考えている」
「あなたが知らないことです」
澪はカメラを床へ落とすように見せ、膝で受けた。
同時にケーブルを引き抜き、編集卓の空き入力へ差し込む。
冬城が発砲した。
弾丸は澪の頬の横を抜け、モニターを砕いた。
澪はカメラを、中央モニターへ向けた。
画面に画面が映る。
その画面の中にも画面。
さらにその中にも。
映像の井戸が、一瞬で奥へ落ちていった。
「ただのフィードバックだ!」冬城が叫ぶ。
「ただの、ではない」
澪はカメラを少し傾けた。
ブラウン管の走査線、熱雑音、割れたモニターの放電、冬城の銃口、澪自身の動き。それらが前のフレームへ重なり、次のフレームを作る。
「あなたの装置は、記録された素材を組み替える。けれど今、素材の中に装置自身の出力を入れた。悪魔が嘘を一枚重ねるたび、その嘘が次の入力になる。自分の嘘を予測し、その予測を見た自分がまた嘘を変える」
画面の奥行きが捩れた。
無数の澪が、互いに違う方向へ動く。
無数の冬城が、互いへ銃を向ける。
白頭巾の男の映像が、口のない頭巾から何千もの眼を開いた。
「止めろ!」
「悪魔は何でも見せられる。でも、自分が次にどんな嘘をつくかを私に見せた瞬間、私はそれと違う行動を選べる」
澪はインターホンのスイッチを入れた。
「柊木さん。聞こえても、私だと信じなくていい」
ガラス小部屋の柊木が顔を上げる。
彼女の背後で、死んだ娘が立っていた。少なくとも、モニターにはそう映っていた。
「今見えているものに合わせて、取り返しのつかない行動をしないで。誰かに見えるものを刺さない。声に従って扉を開けない。自分で決めた一つの規則だけを守って」
柊木の娘が、彼女の耳元で囁く。
お母さん、赤いボタンを押して。
柊木は泣きながら、両手を背中へ回した。
ボタンから離す。
制御室の扉が、重い音を立てて開いた。
白頭巾の男が入ってきた。
今度は幻ではない。
床が沈み、油布の頭巾から荒い呼吸が漏れている。屠殺銃のホースが背中の小型ボンベへ繋がっていた。
冬城が叫ぶ。
「名越! そいつが化け物だ! 撃て!」
白頭巾――名越は、澪へ屠殺銃を向けた。
澪には、自分の腕が腐り、指先から黒い虫が零れているように見えた。
床には、宵堀が這っている。頭の傷から声を出している。
どれも信じなかった。
信じないことすら、悪魔に選ばされた可能性はある。
それでも、澪は言った。
「名越さん。私が人間か、悪魔か、決めなくていい」
頭巾が傾く。
「冬城の声も、私の声も、信じなくていい。あなたが今、迷っている。その迷いだけは、あなたの中で起きている」
屠殺銃の先端が震えた。
「もし私が悪魔なら、私の言葉に従う必要はない。もし冬城が悪魔なら、彼の言葉にも従う必要はない。どちらか分からないなら、撃たないことだけが、あとで取り消せる選択です」
「撃て!」冬城が叫ぶ。「息子を殺したのはそいつだ!」
名越の頭巾の中から、子どもの泣き声がした。
澪は続けた。
「あなたの息子が見えても、見えなくても、今ここで撃てば、本物の誰かが死ぬかもしれない。武器を下ろすなら、あとで拾える」
長い数秒。
屠殺銃が床へ落ちた。
冬城が名越へ銃口を向けた。
「役立たずが」
発砲。
だが冬城が撃ったのは、名越ではなかった。
フィードバック映像が作った偽の位置へ向けていた。
弾丸は編集卓の電源部へ入り、青い火花が噴いた。ケーブルの被膜が燃え、天井へ火が走る。
冬城が後退する。
彼には、背後に出口が見えていたのだろう。
実際にあったのは、搬送用の昇降穴だった。
澪は「止まれ」と叫びかけ、やめた。
その声が彼にどう聞こえるか分からなかった。
冬城は笑いながら一歩を踏み出し、闇へ落ちた。
鈍い衝突音。
そのあとに、何十人もの笑い声が重なった。
装置が笑ったのか。
冬城の録音を再生しただけなのか。
澪には証明できなかった。
7
火が制御室を包み始めた。
澪は編集卓のロックを解除し、柊木の小部屋を開けた。名越は床に膝をつき、両手で頭巾を押さえている。
「外へ出ます」と澪は言った。
「どっちが外?」柊木が訊いた。
「分かりません。だから、分かる範囲で選びます」
壁の非常案内図は信用できない。
だが火の熱と煙は、幻であっても現実であっても留まる理由にはならなかった。三人は互いの服を掴まず、一定の距離を空けて進んだ。誰かが異形に見えても、反射的に傷つけないためだった。
通路では、死者たちが待っていた。
柊木の娘。
宵堀。
名越の息子。
堀江。
彼らは口々に正しい道を教えた。
右だ。
左だ。
戻れ。
走れ。
止まれ。
澪はどの声にも従わなかった。
事前に建物の航空写真から記憶した方角へ、曲がり角の数だけを数えて進んだ。廊下が伸びても、壁が呼吸しても、床から手が生えても、数え直さなかった。
三つ目の角。
錆びた防火扉。
扉の向こうに、夜の冷気があった。
それが本物かどうか、澪には分からない。
名越が頭巾を脱いだ。
六十代ほどの、痩せた男だった。涙と汗で顔が濡れている。
「俺は、何人殺した」
「今は数えないでください」
「息子は」
「今は答えません」
名越は頷いた。
答えを得られないことに、初めて救われた顔をした。
三人が外へ出た直後、処理場の屋根から炎が噴き上がった。
午前三時三十三分。
建物の中で、無数のビデオデッキが一斉に巻き戻る音がした。
澪は振り返らなかった。
8
警察が到着したのは午前四時十九分だった。
宵堀弦は解体室で死亡していた。
死因は、背中から刺さった鉄鉤による失血。頭部に銃創はなかった。
冬城晶は搬送用昇降穴の底で発見された。
彼が所持していた拳銃には、過去の複数事件と一致する痕跡が残っていた。
堀江宗一の遺体も制御室から回収された。
死後およそ半年。澪がテープを受け取るより、ずっと前に死んでいた。
名越辰は保護された。
かつて処理場に勤務し、十年前に息子を事故で失っていた。冬城に監禁され、薬物と映像刺激を与えられていたらしい。彼の屠殺銃からは、古い血痕がいくつも検出された。
柊木蓉子は証言の途中で何度も言葉を失ったが、最後まで「娘を見た」とは断言しなかった。
施設から回収された機材は、いずれも現実に存在した。
床下の電磁コイル。指向性スピーカー。薬剤散布装置。脳波計。映像編集装置。
だが、それらだけで四人が経験したすべてを説明できるかと問われると、専門家の意見は割れた。
七十二本のテープの大半は、完全な黒画面だった。
残りには、過去の被害者の映像が入っていた。
ただ一本。
MALIN―0と書かれたテープだけは、ケースしか見つからなかった。
それから一か月後。
澪は研究所へ戻った。
解析室の機器はすべて入れ替えられていた。ネットワークも遮断され、旧式のデッキは廃棄されている。
午前三時三十三分。
電源を切ったはずの端末が、一度だけ点いた。
黒い画面に、白い文字が一行現れた。
あなたが今読んでいるこの文は、誰の思考か。
澪はキーボードに触れなかった。
問いに答える必要はない。
万能の悪魔なら、質問などしない。
悪魔が問いかけるのは、答えを知らないからだ。
画面は三十三秒後に消えた。
澪は端末の電源コードを抜き、椅子に座ったまま、静かに十九と十七を掛けた。
三百二十三。
答えは、誰にも告げなかった。
了