悪魔は巻き戻せない

 ビデオテープは、再生された瞬間に琥木澪の名前を呼んだ。

 差出人のない封筒が研究所に届いたのは、十一月十七日の午後だった。中には黒いVHSテープが一本。ラベルには油性ペンで、たった二語だけ書かれていた。

 MALIN―0

 証明せよ

 澪は映像認証技術者だった。

 監視カメラの改竄検出や、生成映像の真贋判定を仕事にしている。だからこそ、古びたテープを一人で再生するほど無警戒ではなかった。解析室のデッキをネットワークから切り離し、室内を二台のカメラで記録し、同僚には十五分後に連絡がなければ入室するよう告げた。

 再生ボタンを押す。

 砂嵐の奥から、椅子に縛られた男が現れた。

 目には包帯。口元だけが、妙に鮮明だった。

「琥木澪」

 澪は一時停止しなかった。

 映像が自分の名を知っていること自体は、何の証明にもならない。宛名も社員名簿も、研究所の公開ページもある。

 男は続けた。

「君が画面の外にいると証明しろ」

 画面が切り替わった。

 そこには、今いる解析室が映っていた。

 机。デッキ。背を向けて座る自分。右手を再生ボタンの上に置いたまま、微動だにしない自分。

 視点は、澪の背後二メートルほどの高さにあった。

 澪は振り返らなかった。

 十七まで数え、次に二十三まで数え、二つの素数の積を暗算してから、初めて首を巡らせた。

 誰もいない。

 二台の監視カメラにも、異常はなかった。

 モニターの中の澪だけが、こちらを振り返った。

 現実の澪より四秒早く。

「証明は、敵の能力を最大に見積もって書け」

 男の声が、消えた恩師の声に変わった。

 堀江宗一。

 認知情報学の教授で、澪に「証明」と「安全」の違いを教えた人だった。半年前、山間部の廃施設を調査したまま消息を絶っている。

 その言葉は、十年前の小さな演習室で一度だけ聞いた。録音は残っていないはずだった。

 画面に座標が出た。

 県境の山中。旧・白杭共同食肉処理場。

 続いて、時刻。

 午前三時三十三分。

 最後に一行。

 四人のうち、一人だけが外へ出る。

 テープはそこで終わった。

 正確には、終わったように見えた。カウンターは回り続けているのに、画面は黒いままだった。

 澪は巻き戻さずにデッキから抜いた。

 同僚が入ってきたとき、解析室の時計は午後三時十二分を示していた。

 だが二台の監視カメラでは、澪が再生ボタンを押してから、テープを抜くまで、一秒も経過していなかった。

 旧処理場へ向かう前に、澪は三つのことをした。

 座標とテープの複製を警察へ送り、午前四時に自動送信される救援メールを設定し、靴底に小型発信器を埋めた。

 それでも自分が愚かである可能性は残った。

 だが、堀江の失踪と無関係だと断定する根拠もなかった。

 十一月十八日、午前零時四十七分。

 白杭村は地図から消えかけていた。

 山道の果てに、錆びた門と、長い平屋の建物があった。壁は黒ずみ、屋根の一部は落ち、煙突だけが濡れた月明かりに突き出ている。

 駐車場には三台の車があった。

「琥木さん?」

 最初に声をかけたのは、四十代ほどの女だった。短く切った髪。厚手のコートの下に、病院名の入ったスクラブが見えた。

「柊木蓉子。救命医です。私にも、これが」

 透明な袋に入れたVHSテープを示す。

 次に、背の高い男が近づいた。五十代、刈り込んだ白髪。名を宵堀弦といい、元刑事だと名乗った。右足をわずかに引きずっていた。

「二十二年前に取り逃がした男が、テープの中にいた。死んだはずの男だ」

 三人目は、小型のビデオカメラを肩に載せた若い男だった。

 朝比奈玄馬。ドキュメンタリー映像の制作者。細い笑みが、寒さの中でも崩れない。

「僕のには、誰も映っていませんでしたよ。黒い画面と、この場所だけ。だから来た。空白ほど撮りたくなるものはない」

「カメラを止めてください」と澪は言った。

「証拠になります」

「ここでは記録が証拠になるとは限らない」

 朝比奈は肩をすくめたが、録画ランプは消さなかった。

 四人だった。

 テープの文言どおり。

 だからといって、四人のうち一人だけが外へ出るという文言まで真実とは限らない。澪はそのことを口にした。

「最初に疑うべきなのは、映像が与えた勝敗条件です。『四人のうち一人』という前提を受け入れた瞬間、私たちは互いを敵にする」

 宵堀が鼻を鳴らした。

「前提を疑って、教授は戻るのか」

「疑わなければ、戻らない人が増えます」

 正面扉は、触れる前に内側へ開いた。

 腐った脂と消毒薬の匂いが流れ出した。

 広い解体室には、空のレールが天井を走り、鉄の鉤が一定間隔でぶら下がっていた。中央に古いブラウン管テレビ。その前に四脚の椅子。

 四人が入ると、扉が閉じた。

 錠の落ちる音がした。

 テレビが点いた。

 包帯で目を覆った男が映る。

 今度は堀江の声ではなかった。男とも女ともつかない、いくつもの声を重ねた音だった。

「四人のうち、一人はすでに器である」

 画面の下に、残り時間が表示された。

 02:45:59

「器を午前三時三十三分までに処理せよ。さもなければ、全員が記録になる」

 柊木が息を呑んだ。

 宵堀はテレビへ歩み寄り、電源コードを引き抜いた。

 画面は消えなかった。

「悪魔は、見るものを選ばない」

 映像の男が言った。

「悪魔は、見るという行為を選ぶ」

 天井の照明が落ちた。

 暗闇の中で、子どもの声がした。

「お母さん」

 柊木が凍りついた。

「芽衣……?」

 声は解体室の奥、冷蔵庫へ続く扉の向こうから聞こえた。

 柊木が走り出す。

 澪は腕を掴んだ。

「誰の声です」

「娘よ。六年前に死んだ。離して」

「録音は残っていますか」

「何を――」

「留守番電話、動画、病院の記録。残っていますか」

 柊木は答えなかった。

 その沈黙が答えだった。

 今度は別の声が響いた。

「宵堀さん。ここだ」

 宵堀の顔が変わった。

 腰に差していた伸縮式の警棒を抜く。

「津守」

 暗がりで、鉄のレールが軋んだ。

 鉤に吊られていたはずの空の麻袋が、ひとつ、ゆっくりと膨らみ始めた。

 人の形になる。

 袋の内側から何本もの指が押し出され、縫い目を探るように蠢いた。やがて先端から黒い液が滴り、床に落ちた。

 朝比奈のカメラだけが、赤い録画ランプを灯していた。

「撮るな!」宵堀が叫んだ。

 袋が裂けた。

 中から落ちたのは、皮を剥がれた人間だった。

 少なくとも、澪にはそう見えた。

 それは床に両手をつき、折れた関節を逆向きに立て直しながら起き上がった。顔のあるべき場所で、何十もの小さな口が開いた。

「お母さん」

「宵堀さん」

「琥木」

「撮って」

 四人の失った声が、同じ喉から溢れた。

 宵堀が警棒を振り下ろした。

 乾いた金属音。

 手応えは、人骨ではない。

「宵堀さん、止まって!」

 澪が叫んだ直後、奥の扉が開いた。

 白い油布の頭巾を被った大男が立っていた。

 頭巾に目の穴はなく、鼻から口にかけて縦の縫い目だけが走っている。右手には家畜用の屠殺銃。左手には、肉を吊るすための長い鉤。

 空気の圧縮される音がした。

 宵堀が振り返り、警棒を構える。

 屠殺銃が鳴った。

 宵堀の頭が跳ねた。

 壁に赤いものが散った。

 柊木が悲鳴を上げた。

 朝比奈はカメラを向け続けた。

 澪は宵堀へ駆け寄ろうとして、足を止めた。

 血の飛沫が、壁から宵堀の頭へ戻っていく。

 時間を逆にしたように。

 次の瞬間、宵堀は無傷で立っていた。

 だが彼自身は、自分が撃たれたと信じているらしかった。頭を押さえ、見えない血を掻き集め、呻きながら後退した。

 背後に、本物の鉤があった。

「下がらないで!」

 間に合わなかった。

 宵堀の背中が鉄鉤にぶつかる。

 鉤はコートを突き破り、彼を吊り上げた。

 宵堀は一度だけ、大きく息を吐いた。

 それから動かなくなった。

 白頭巾の男が、ゆっくりこちらへ歩いてきた。

 柊木が床からメスを拾った。

 いつ落ちていたのか、澪には分からなかった。

 柊木は澪を見て、顔を歪めた。

「来ないで」

「柊木さん」

「あなた、口が……」

 澪は自分の口元に触れた。何もない。

 柊木には、別の何かが見えている。

 彼女はメスを逆手に持ち、澪の喉へ突進した。

「十九かける十七!」

 澪は叫んだ。

 柊木の腕が止まる。

「何?」

「十九かける十七。計算して」

「こんなときに――」

「答えて!」

 柊木の瞳が揺れた。

 唇が、無意識に動く。

「三百二十三」

 その瞬間、彼女の顔から恐怖が薄れた。

「私……何を」

「あなたが考えた答えです。見せられたものじゃない。手を離して」

 メスが床に落ちた。

 澪は柊木の手を取り、朝比奈に叫んだ。

「冷蔵区画へ。今!」

 三人は走った。

 白頭巾の男の屠殺銃が二度鳴った。

 背後で鉄板が凹んだ。

 朝比奈が冷蔵庫の扉を引き、三人が中へ滑り込む。澪と柊木が体重をかけて閉めると、外側から鉤が突き刺さった。

 白い刃先が、二人の顔の間で止まった。

 鉤が抜かれる。

 足音は十三歩続き、止まった。

 七秒後。

 同じ足音が、また十三歩続いた。

 澪は息を殺して数えた。

 七秒後。

 十三歩。

「ループしてる」

 柊木が囁いた。

「少なくとも、足音は」澪は答えた。「あれが去ったかどうかは、まだ分かりません」

 冷蔵区画の奥には、小さな記録室があった。

 棚一面にビデオテープが並んでいた。

 背ラベルには日付と人名。新しいものも古いものもある。最も古い日付は一九八九年。最も新しいものは、昨日だった。

 昨日の四本には、澪たちの名前が書かれていた。

 柊木が自分のテープへ手を伸ばす。

 澪は止めた。

「再生しないで」

「娘の声が入ってるかもしれない」

「入っているでしょう。だから再生しないでください」

 朝比奈が棚を撮っていた。

「ずいぶん冷静だ」

「あなたは冷静すぎます」

 澪は彼のカメラを見た。

「さっき宵堀さんが撃たれたとき、あなたは一歩も下がらなかった」

「仕事だから」

「屠殺銃の音がする前に、レンズをそちらへ向けていた」

 朝比奈の笑みが、初めて薄くなった。

 柊木が二人を見比べる。

「どういう意味?」

「まだ断定できません」

「断定できない。便利な言葉だな」

 朝比奈は棚の奥から一冊のファイルを抜いた。

 表紙には、MALIN計画と印字されていた。

「探しているのは、これでしょう」

 澪は受け取らなかった。

「なぜ場所を知っているんです」

「映像制作者は、画になるものの位置が分かる」

「それは説明になっていない」

 朝比奈はファイルを机に置いた。

 自分で開く。

 中には、堀江の筆跡があった。

 ――感覚入力の置換は成功。

 ――被験者は、存在しない人物と会話し、存在する人物を異形として認識。

 ――重要。装置は知覚を偽装できるが、内言を直接生成できない。

 ――被験者自身が行う計算、選択、疑念は、置換の外側に残る。

 ――ただし、置換された知覚に基づく身体行動は現実の肉体で実行される。

 ――悪魔は刃物を持たない。被験者の手を借りる。

 柊木が口元を押さえた。

「じゃあ、宵堀さんは……」

「撃たれていない」澪は言った。「撃たれたと見せられて、自分で後退した。鉤だけが現実だった」

 ページをめくる。

 ――出力素材は、原則として記録済みの映像・音声・被験者から採取した反応の再構成に限られる。

 ――新規情報を発明することはできない。

 ――しかし近年、入力されていないはずの応答が観測される。

 ――装置が学習したのか、何かが装置を通路にしたのか、区別不能。

 ――区別不能であること自体が、最大の危険。

 最後のページは破られていた。

 その下から、一枚の写真が落ちた。

 若い堀江と、十数人の研究者。

 端に、今より痩せた朝比奈が立っている。

 名札には別の姓があった。

 冬城。

 澪は朝比奈を見た。

「冬城晶。堀江先生の共同研究者」

「共同研究者じゃない。後継者だ」

 朝比奈――冬城は、カメラを下ろした。

 柊木が後ずさる。

「私たちを呼んだのは、あなた?」

「招待状を作ったのは僕だ。だが、内容を選んだのは僕じゃない」

「娘の声をどこから」

「病院のクラウド。君は同意書を読まずに、音声記録の二次利用へ署名していた」

 柊木が殴りかかった。

 冬城は身をかわし、コートの内側から小型拳銃を抜いた。

「動くな」

 銃口が、澪と柊木の間を往復する。

「琥木。君の恩師の言葉も同じだ。十年前の演習室。録音はないと思っていたか? 僕は後ろにいた」

 澪は写真を見直した。

 確かに、あの演習に一度だけ同席した外部研究者がいた。顔は覚えていなかった。

「あなたの悪魔は、何でも知っているわけじゃない」

「最初はな」

「今もです」

「根拠は?」

「質問するから」

 冬城の眉が動いた。

「万能で、私たちの意識まで読めるなら、テープで呼び出し、選ばせ、撮影する必要がない。あなたは記録を増やしている。知らない反応を集めるために」

 冬城は微笑んだ。

 今度の笑みには、喜びがあった。

「やはり君を呼んでよかった」

 天井のスピーカーから、宵堀の声がした。

「琥木。助けてくれ」

 柊木が扉を見る。

「偽物です」と澪は言った。

「本当に?」

 答えられなかった。

 冬城が引き金に指をかけた。

「その答えられなさが、餌になる」

 冬城は二人を別々の通路へ追い立てた。

 柊木の首には細いワイヤを巻き、先端を自分の手に握った。澪にはカメラを持たせた。

「落とせば彼女の頸動脈が切れる」

「そう見せているだけかもしれない」

「そうだ。切れないかもしれない。そもそも柊木蓉子など存在しないかもしれない」

 柊木が青ざめる。

 澪はカメラを落とさなかった。

 冬城は満足そうに言った。

「疑いは行動を止めない。むしろ、最悪の可能性を選ばせる」

 通路の壁に、いくつものモニターが埋め込まれていた。

 どれも違う映像を映している。

 ひとつでは宵堀がまだ生きており、鉤から降りて手招きしていた。

 ひとつでは白頭巾の男が床を這い、腹から子どもの腕を生やしていた。

 ひとつでは澪自身が、血まみれのメスで柊木の喉を切っていた。

 ひとつでは、三人ともすでに白骨だった。

「どれが本物?」冬城が訊いた。

「問いが間違っています」

「なぜ」

「本物がこの中にあるという保証がない」

「では外にあると?」

「外があるという保証もない」

 冬城は声を立てて笑った。

「堀江と同じだ。何も信じず、何も救えない」

「先生は、疑うことと止まることを混同しなかった」

「その結果、ここで死んだ」

 突き当たりの扉が開いた。

 制御室だった。

 壁一面にブラウン管が積まれ、中央には大型の編集卓がある。テープデッキ、波形モニター、古い計算機。天井から無数の同軸ケーブルが垂れ、床には円形のコイルが埋め込まれていた。

 奥の椅子に、白衣姿の人間が座っていた。

 干からびた横顔。

 胸元の名札。

 堀江宗一。

 柊木が息を詰めた。

 澪は近づかなかった。

「確認しないのか」冬城が言った。

「あなたが確認させたいと分かったので」

「死体まで疑う?」

「見えているものは全部」

「では、悲しくない?」

 澪は答えなかった。

 悲しみはあった。

 それが目の前の死体を根拠に生じたのか、半年間の不在に生じたのか、自分でも分からなかった。

 だが、悲しんでいるという出来事だけは、否定できなかった。

 冬城は柊木をガラス張りの小部屋へ押し込み、扉を施錠した。ワイヤを外し、拳銃を澪へ向ける。

「午前三時三十三分まで、あと十八分」

 中央モニターに二つの映像が出た。

 左には柊木。

 右には白頭巾の男。

 二人の足元に、赤いランプが点滅している。

「編集卓のレバーを左へ倒せば、柊木の部屋が開く。右へ倒せば、処理人の拘束が解ける。何もしなければ、両方の部屋へガスが入る」

「そう見せている」

「もちろん」

「選ばせることが目的ですね」

「君の選択が欲しい。知識も倫理も役に立たない状況で、君が何を根拠に動くか。その瞬間の反応は、まだ記録にない」

 別のモニターに文字が出た。

 あなたは左を選ぶ。

 澪はレバーを見た。

「脳の準備電位を読んでいる」と冬城が言う。「人間が決めたと思う数百ミリ秒前に、装置は選択を知る。自由意志など、遅れて流れる字幕だ」

 澪は左手をわずかに動かした。

 モニターの文字が変わる。

 あなたは右を選ぶ。

 澪は手を止めた。

 冬城の笑みが深くなる。

「ほら」

「では、規則を決めます」

「規則?」

「画面が予測した方と、必ず反対を選ぶ」

 文字が激しく点滅した。

 左。

 右。

 左。

 右。

 澪が動く前に、予測は反転を続けた。

「やめろ」冬城が言った。

「なぜです」

「レバーを選べ」

「予測を見て反対を選ぶ人間を、正しく予測できますか」

 モニターが一瞬、真っ白になった。

「私が左を選ぶと表示すれば、私は右を選ぶ。右と表示すれば左を選ぶ。表示を隠せば、あなたは予測によって私を支配できない。正解はありません」

「言葉遊びだ」

「いいえ。あなたの悪魔が私を完全に記述できる、という前提の反証です」

 冬城が拳銃を上げた。

「撃てば選択は終わる」

「それでは新しい反応を記録できない」

 冬城の指が止まった。

 澪は続けた。

「あなたは悪魔の主人ではない。餌を運ぶ係です。私を殺したくても、悪魔が私の選択を欲しがるから殺せない」

 室内のすべてのスピーカーから、低い唸り声が流れた。

 冬城が初めて、モニターを恐れる目で見た。

 澪は、持たされていたカメラのケーブルを見た。

 古いBNC端子。

 編集卓の入力端子と同じ規格。

 冬城もその視線に気づいた。

「何を考えている」

「あなたが知らないことです」

 澪はカメラを床へ落とすように見せ、膝で受けた。

 同時にケーブルを引き抜き、編集卓の空き入力へ差し込む。

 冬城が発砲した。

 弾丸は澪の頬の横を抜け、モニターを砕いた。

 澪はカメラを、中央モニターへ向けた。

 画面に画面が映る。

 その画面の中にも画面。

 さらにその中にも。

 映像の井戸が、一瞬で奥へ落ちていった。

「ただのフィードバックだ!」冬城が叫ぶ。

「ただの、ではない」

 澪はカメラを少し傾けた。

 ブラウン管の走査線、熱雑音、割れたモニターの放電、冬城の銃口、澪自身の動き。それらが前のフレームへ重なり、次のフレームを作る。

「あなたの装置は、記録された素材を組み替える。けれど今、素材の中に装置自身の出力を入れた。悪魔が嘘を一枚重ねるたび、その嘘が次の入力になる。自分の嘘を予測し、その予測を見た自分がまた嘘を変える」

 画面の奥行きが捩れた。

 無数の澪が、互いに違う方向へ動く。

 無数の冬城が、互いへ銃を向ける。

 白頭巾の男の映像が、口のない頭巾から何千もの眼を開いた。

「止めろ!」

「悪魔は何でも見せられる。でも、自分が次にどんな嘘をつくかを私に見せた瞬間、私はそれと違う行動を選べる」

 澪はインターホンのスイッチを入れた。

「柊木さん。聞こえても、私だと信じなくていい」

 ガラス小部屋の柊木が顔を上げる。

 彼女の背後で、死んだ娘が立っていた。少なくとも、モニターにはそう映っていた。

「今見えているものに合わせて、取り返しのつかない行動をしないで。誰かに見えるものを刺さない。声に従って扉を開けない。自分で決めた一つの規則だけを守って」

 柊木の娘が、彼女の耳元で囁く。

 お母さん、赤いボタンを押して。

 柊木は泣きながら、両手を背中へ回した。

 ボタンから離す。

 制御室の扉が、重い音を立てて開いた。

 白頭巾の男が入ってきた。

 今度は幻ではない。

 床が沈み、油布の頭巾から荒い呼吸が漏れている。屠殺銃のホースが背中の小型ボンベへ繋がっていた。

 冬城が叫ぶ。

「名越! そいつが化け物だ! 撃て!」

 白頭巾――名越は、澪へ屠殺銃を向けた。

 澪には、自分の腕が腐り、指先から黒い虫が零れているように見えた。

 床には、宵堀が這っている。頭の傷から声を出している。

 どれも信じなかった。

 信じないことすら、悪魔に選ばされた可能性はある。

 それでも、澪は言った。

「名越さん。私が人間か、悪魔か、決めなくていい」

 頭巾が傾く。

「冬城の声も、私の声も、信じなくていい。あなたが今、迷っている。その迷いだけは、あなたの中で起きている」

 屠殺銃の先端が震えた。

「もし私が悪魔なら、私の言葉に従う必要はない。もし冬城が悪魔なら、彼の言葉にも従う必要はない。どちらか分からないなら、撃たないことだけが、あとで取り消せる選択です」

「撃て!」冬城が叫ぶ。「息子を殺したのはそいつだ!」

 名越の頭巾の中から、子どもの泣き声がした。

 澪は続けた。

「あなたの息子が見えても、見えなくても、今ここで撃てば、本物の誰かが死ぬかもしれない。武器を下ろすなら、あとで拾える」

 長い数秒。

 屠殺銃が床へ落ちた。

 冬城が名越へ銃口を向けた。

「役立たずが」

 発砲。

 だが冬城が撃ったのは、名越ではなかった。

 フィードバック映像が作った偽の位置へ向けていた。

 弾丸は編集卓の電源部へ入り、青い火花が噴いた。ケーブルの被膜が燃え、天井へ火が走る。

 冬城が後退する。

 彼には、背後に出口が見えていたのだろう。

 実際にあったのは、搬送用の昇降穴だった。

 澪は「止まれ」と叫びかけ、やめた。

 その声が彼にどう聞こえるか分からなかった。

 冬城は笑いながら一歩を踏み出し、闇へ落ちた。

 鈍い衝突音。

 そのあとに、何十人もの笑い声が重なった。

 装置が笑ったのか。

 冬城の録音を再生しただけなのか。

 澪には証明できなかった。

 火が制御室を包み始めた。

 澪は編集卓のロックを解除し、柊木の小部屋を開けた。名越は床に膝をつき、両手で頭巾を押さえている。

「外へ出ます」と澪は言った。

「どっちが外?」柊木が訊いた。

「分かりません。だから、分かる範囲で選びます」

 壁の非常案内図は信用できない。

 だが火の熱と煙は、幻であっても現実であっても留まる理由にはならなかった。三人は互いの服を掴まず、一定の距離を空けて進んだ。誰かが異形に見えても、反射的に傷つけないためだった。

 通路では、死者たちが待っていた。

 柊木の娘。

 宵堀。

 名越の息子。

 堀江。

 彼らは口々に正しい道を教えた。

 右だ。

 左だ。

 戻れ。

 走れ。

 止まれ。

 澪はどの声にも従わなかった。

 事前に建物の航空写真から記憶した方角へ、曲がり角の数だけを数えて進んだ。廊下が伸びても、壁が呼吸しても、床から手が生えても、数え直さなかった。

 三つ目の角。

 錆びた防火扉。

 扉の向こうに、夜の冷気があった。

 それが本物かどうか、澪には分からない。

 名越が頭巾を脱いだ。

 六十代ほどの、痩せた男だった。涙と汗で顔が濡れている。

「俺は、何人殺した」

「今は数えないでください」

「息子は」

「今は答えません」

 名越は頷いた。

 答えを得られないことに、初めて救われた顔をした。

 三人が外へ出た直後、処理場の屋根から炎が噴き上がった。

 午前三時三十三分。

 建物の中で、無数のビデオデッキが一斉に巻き戻る音がした。

 澪は振り返らなかった。

 警察が到着したのは午前四時十九分だった。

 宵堀弦は解体室で死亡していた。

 死因は、背中から刺さった鉄鉤による失血。頭部に銃創はなかった。

 冬城晶は搬送用昇降穴の底で発見された。

 彼が所持していた拳銃には、過去の複数事件と一致する痕跡が残っていた。

 堀江宗一の遺体も制御室から回収された。

 死後およそ半年。澪がテープを受け取るより、ずっと前に死んでいた。

 名越辰は保護された。

 かつて処理場に勤務し、十年前に息子を事故で失っていた。冬城に監禁され、薬物と映像刺激を与えられていたらしい。彼の屠殺銃からは、古い血痕がいくつも検出された。

 柊木蓉子は証言の途中で何度も言葉を失ったが、最後まで「娘を見た」とは断言しなかった。

 施設から回収された機材は、いずれも現実に存在した。

 床下の電磁コイル。指向性スピーカー。薬剤散布装置。脳波計。映像編集装置。

 だが、それらだけで四人が経験したすべてを説明できるかと問われると、専門家の意見は割れた。

 七十二本のテープの大半は、完全な黒画面だった。

 残りには、過去の被害者の映像が入っていた。

 ただ一本。

 MALIN―0と書かれたテープだけは、ケースしか見つからなかった。

 それから一か月後。

 澪は研究所へ戻った。

 解析室の機器はすべて入れ替えられていた。ネットワークも遮断され、旧式のデッキは廃棄されている。

 午前三時三十三分。

 電源を切ったはずの端末が、一度だけ点いた。

 黒い画面に、白い文字が一行現れた。

 あなたが今読んでいるこの文は、誰の思考か。

 澪はキーボードに触れなかった。

 問いに答える必要はない。

 万能の悪魔なら、質問などしない。

 悪魔が問いかけるのは、答えを知らないからだ。

 画面は三十三秒後に消えた。

 澪は端末の電源コードを抜き、椅子に座ったまま、静かに十九と十七を掛けた。

 三百二十三。

 答えは、誰にも告げなかった。