悪魔は焚き火のそばにいる
――読み切り小説――
一 夜の殺人
十一月最後の金曜日、午後十一時四十七分。
灰見湖の風は、凍った指でテントの壁を弾いていた。
丹羽灯は、湖畔の七番サイトに立っていた。片手には黒い鍛造ペグ。もう片方の手は、手袋の中で人間の形を保つのに苦労している。
目の前には、比良坂柾久の大型テントがあった。
暖色のランタンが透ける幕には、一人分の影が映っている。背の高い男の影。その足元に、もうひとつ、小さな角を生やした影がうずくまっていた。
「入れよ、丹羽君。寒いだろう」
幕の向こうから、比良坂が言った。
灯はファスナーを開けた。
テントの中は、キャンプ場には不似合いなほど整然としていた。折り畳み机の上にノートパソコン、心電計、ガラス管、古い革表紙の手帳。中央には灰見湖の地図が広げられ、六つのサイトに赤い丸がついている。
その丸のそばには、それぞれ同じ形の赤いランタンが置かれていた。
比良坂は、ダウンジャケットの襟を正しながら笑った。大学教授というより、深夜番組の司会者のような笑顔だった。
「君が来ることは分かっていた」
「私の弟をどこへやった」
「君の弟は、十三年前に死んだ。旧採石場の崩落でね。助かったのは君だけだ」
「その事故を調べていた人たちが、三人消えた」
「事故ではないからだよ」
灯の左手が、手袋の内側で膨らんだ。
骨の数が増え、爪が縫い目を押し上げる。耳の奥で、もう一つの声が目を覚ました。
――喰わせろ。
灯は歯を食いしばった。
「私の中にいるものを、知ってるのね」
「知っているとも。あの夜、山の底で君を拾ったものだ。昔の人間は悪魔と呼んだ。私はもっと穏当な名前を使っている。“空洞”だ。人間の恐怖を餌にして、人間の形を学ぶ生物」
「生物?」
「神と呼ぶより、研究費が下りやすい」
比良坂は愉快そうに肩をすくめた。
「今夜、この湖には六組の客がいる。全員、私の財団が配った赤いランタンを持っている。知らない者同士が、暗闇の中で、それぞれ自分だけの火を見ている。孤独は恐怖を熟成させる。君の中のものを核にすれば、扉は開く」
「開かせない」
「開くさ。君は私を殺しに来た」
比良坂の笑みが、ほんの少し深くなった。
灯はそこで初めて、自分が何を期待されているのかを理解した。
踵を返すべきだった。
警察を呼ぶべきだった。
何も知らない六組の客を叩き起こし、車に押し込み、雪道を下らせるべきだった。
けれど比良坂は、机の端に一枚の写真を置いた。
十三年前の崩落現場だった。土砂の前に、作業着姿の男たちが並んでいる。その中に、灯の父がいた。写真の裏には、消えた調査員三人の名前と、日付が書かれていた。
「君のお父上も、最初の協力者だった」
左手の手袋が裂けた。
黒い指が五本、いや七本、夜気の中へ伸びた。爪は光を吸い、関節の間から細い煙が漏れている。
比良坂は逃げなかった。
灯はその手を、男の胸ではなく、足元の影へ突き立てた。
触れた感触は肉より柔らかく、泥より冷たかった。
影の奥で、心臓の音が一度だけ大きく鳴った。
比良坂の笑みが止まった。
椅子から滑り落ちるまで、三秒もかからなかった。
傷はない。血も出ない。
灯の中にいるものは、人間の肉体より先に、その人間が世界へ落としている影を殺す。
比良坂は死んだ。
灯はしばらく動けなかった。
やがて、訓練した手順を思い出すように、周囲を片づけ始めた。革の手帳を奪い、机を拭き、赤いランタンを倒す。携帯用ヒーターの不完全燃焼による事故に見えるよう、吸気口を塞ぐ。テントのファスナーは、修理用の蜜蝋引き糸を使えば、外から閉じたあと内側に結び目を残せる。
灯はアウトドア用品の修理工だった。
壊れたものを、壊れる前の形に見せるのが仕事だった。
最後に、比良坂の目を閉じた。
そのとき、死んだはずの男の唇が動いた。
「これで、七つ目だ」
声は比良坂のものではなかった。
テントの床下から、凍った湖の底から、灯自身の胸の奥から、同時に響いた。
六つの赤いランタンが、誰も触れていないのに一斉に灯った。
灯は息をのみ、テントを飛び出した。
空には星があった。
湖面は黒く、静かだった。
静かすぎた。
二 朝のスープ
午前六時二十分。
「おはよう、殺人的に寒いね」
久瀬早苗は、そんな挨拶とともに灯のサイトへ現れた。
黄色いニット帽に、パンで膨らんだトートバッグ。吐く息まで朗らかに見える女だった。
「道路、上の方が凍ってたよ。帰り大丈夫かな。はい、これ昨日焼いたやつ」
差し出された丸パンは、まだ少し温かかった。
灯は、一睡もしていなかった。
比良坂の手帳は、シュラフの下に隠してある。左手は人間の形に戻っていたが、手首まで黒い血管が浮いている。七番サイトにはすでに管理人の軽トラックが停まり、向こうから慌ただしい声が聞こえていた。
「早苗。今日は帰った方がいい」
「来て一分で?」
「雪が降る」
「天気予報は昼からでしょ。だから午前中だけでも一緒に食べようって話だったじゃん」
早苗は灯の返事を待たず、ローテーブルに小鍋を置いた。
バターを落とし、刻んだ長ねぎと茸を炒める。じゅっと音がして、朝の冷気に甘い匂いが広がった。豆乳と味噌を加え、最後に黒胡椒を挽く。
灯の胸の奥で、飢えたものが不機嫌に身じろぎした。
――恐怖を。
「黙って」
「え、私?」
「違う。独り言」
「寝不足でしょ」
早苗は丸パンを半分に割り、焚き火台の網に載せた。表面がかりっと焼けるころには、スープから白い湯気が立っていた。
「ほら。熱いうちに」
灯はカップを受け取った。
一口飲む。
味噌の塩気、茸の香り、少し焦げたねぎ。温かさが喉から胸へ落ちていくと、内側の声が遠のいた。
十三年前から、ずっとそうだった。
静かな場所で火を起こし、湯を沸かし、食べ物を分ける。その程度のことで、灯は人間の側へ戻ってこられた。
悪魔を封じているのは聖水でも呪文でもない。
朝食だった。
「おいしい?」
「うん」
「顔は全然そう言ってないけど」
「すごく、おいしい」
早苗が笑った。
その瞬間、七番サイトの方から管理人が走ってきた。顔色が悪い。
「丹羽さん、すみません。昨夜、何か見ませんでしたか」
「何をですか」
「人が、亡くなってるんです」
三 よれた刑事
警察車両は九時すぎに三台来た。
制服警官たちが規制線を張り、鑑識が比良坂のテントへ入った。死亡事故としては人数が多い。灯は理由を考え、比良坂が単なる大学教授ではなかったことを思い出した。
十時前、よれた緑色のパーカを着た女が、灯のサイトへ歩いてきた。
五十代半ば。毛糸の帽子は妙に大きく、片方の靴紐がほどけている。首から警察手帳を下げているが、どう見てもキャンプ場に忘れ物を取りに来た人だった。
「県警の鷺沢です。丹羽灯さん?」
「はい」
「ちょっとお話を。あ、その前にすみません。このストーブ、火がつかなくなっちゃって」
鷺沢刑事は、古びた小型ストーブを差し出した。
灯は反射的に受け取った。燃料はある。点火装置ではなく、寒さで気化が弱いだけだ。
「缶を手で少し温めてください。火で炙るのは駄目です」
「なるほど。さすがですねえ」
「知ってる人は知ってます」
「比良坂先生も、知っていたでしょうか」
質問への入り方が滑らかすぎた。
灯はストーブを返した。
「知りません。会ったことがないので」
「そうですか」
鷺沢は頷き、靴紐を踏みそうになってよろめいた。
早苗が椅子を勧めると、彼女は恐縮しながら座った。紙コップのコーヒーを一口飲み、顔をしかめる。
「警察署のより薄い。珍しいですね」
「聞きたいことは?」
「昨夜十一時から午前零時まで、こちらに?」
「はい。焚き火をしていました」
「お一人で?」
「一人です」
「どなたかに連絡は?」
早苗が口を挟んだ。
「私、十一時五十二分に写真をもらいました。星がきれいだって」
灯の心臓が一度、強く鳴った。
鷺沢はにこりとした。
「それは助かります。あとで見せていただいても?」
早苗はすぐにスマートフォンを出した。
画面には、昨夜の灯のサイトが写っている。焚き火、マグカップ、椅子。その向こうに冬の星空。
灯が午後十時四十分に撮り、送信予約した写真だった。
鷺沢は拡大もせず、数秒眺めただけで返した。
「きれいですねえ。私は星が全然分からなくて。三つ並んでたら全部オリオン座だと思ってます」
それから彼女は、昨夜の物音、風向き、ほかの客について尋ねた。灯は準備していた答えを返した。
面談は十分ほどで終わった。
「お邪魔しました。スープの匂いがすごくいいですね」
鷺沢は立ち上がり、三歩ほど進んだところで振り返った。
「ああ、そうだ。変なことを聞きますけど」
灯の中のものが、目を開いた。
「テントのファスナーって、外から閉めたのに、中で結んだように見せることはできます?」
早苗が灯を見た。
灯は一拍置いて答えた。
「修理用の細い糸があれば。ただ、普通はやりません」
「ですよね。普通は」
鷺沢は感心したように頷いた。
「亡くなった方のテントが、そうなっていたものですから」
彼女は今度こそ立ち去った。
背中が規制線の向こうへ消えるまで、灯は息を吐けなかった。
四 ひとつだけ変なこと
昼を過ぎると、雪が降り始めた。
最初は粉砂糖ほどだったものが、午後二時には湖畔を白く隠した。管理人から、峠道で小規模な雪崩が起きたと告げられた。除雪が終わるまで、キャンプ場から車を出せない。
警察も客も、全員が湖畔に閉じ込められた。
灯は早苗を自分のテントへ入れ、シュラフを二枚重ねた。比良坂の手帳は、隙を見て燃やすつもりだった。
だが午後三時、鷺沢刑事がまた現れた。
今度は、ファスナーの壊れた小さなポーチを持っていた。
「すみません。鑑識の子のなんですけど、直せます?」
「今ですか」
「今じゃなくても。あ、でも今日帰れないみたいですし」
灯は断る理由を思いつけず、修理箱を開いた。
曲がったスライダーをペンチで整え、蜜蝋を混ぜた糸で引き手を縫い直す。鷺沢は隣で、珍しそうに見ていた。
「いい匂いがしますね」
「杉脂を少し混ぜてます。糸が水を吸いにくくなるので」
「どこにでも塗るんですか」
「内側だけです。外側は砂や灰がつきやすいから」
「なるほど」
灯がポーチを返すと、鷺沢は礼を言った。
そしてまた、帰りかけて振り返った。
「ひとつだけ、変なことがあるんです」
「何ですか」
「比良坂先生のテントの、内側のファスナー。これと同じ匂いがするんですよ」
早苗が顔を上げた。
灯は表情を変えなかった。
「市販品にも似たものはあります」
「ええ、あります。ですから、それだけなら何でもないんです」
鷺沢はポケットから自分のスマートフォンを出した。画面には、早苗へ送られた写真が表示されている。
「この写真、十一時五十二分に届いた。でも、撮られたのはもっと前ですね」
「どうして」
「星じゃないんです。私、星は分からないので」
鷺沢は写真の奥を指した。
湖の対岸に、管理棟の緑色の誘導灯が小さく写っていた。
「このキャンプ場、節電のため午後十一時に対岸の照明を全部落とすそうです。管理記録にも残ってる。この写真には灯りがある」
「送るのが遅れただけです」
「そうかもしれない。でも、どうしてわざわざ遅らせたんでしょう」
「通信が悪かったから」
「ここ、電波は四本立ちます」
鷺沢の声は穏やかだった。
責める調子がないぶん、逃げ道が少なかった。
「それに、丹羽さん。最初に管理人さんから死者が出たと聞いたとき、“ヒーターの事故ですか”と尋ねたそうですね」
「冬のテントで人が死んだら、そう考えるでしょう」
「考えます。でも現場を見た人は、まだ誰もヒーターの話をしていなかった」
風がテントを揺らした。
灯の左手首で、黒い血管がひとつ脈打った。
鷺沢はそれを見た。
見たが、何も言わなかった。
「丹羽さん。私は、あなたがあのテントへ入ったと思っています」
「証拠は?」
「今のところ、裁判に出せるほどのものはありません」
「なら――」
「ただし、人は事故に備えてアリバイを作ったりしません」
鷺沢は帽子をかぶり直した。
「知りたいのは、あなたが何を隠しているかより、比良坂先生が何を始めたかです」
そのとき、七番サイトの方で誰かが叫んだ。
規制線の内側からだった。
鑑識の若い警官が、雪の上へ尻餅をついている。
比良坂の遺体が消えていた。
五 人間の側
午後四時十二分。
日没には少し早いのに、湖畔は夜の色になった。
雪雲が空を塞ぎ、六つのサイトで赤いランタンがひとりでに灯った。持ち主たちは驚いて外へ出てきた。スイッチを切っても、芯を外しても、赤い炎はガラスの内側で揺れ続けている。
灯は、もう隠せないと悟った。
「早苗。ここから離れないで」
「灯、その手――」
左手の指が伸びていた。
爪は黒く、関節は人間より一つ多い。皮膚の下で、別の顔が浮かんでは消えた。
早苗は後ずさった。
灯の胸に、鋭い痛みが走った。
――ほら。人間は見るだけで怯える。
内側の声が囁く。
――その恐怖を喰えばいい。
鷺沢が二人の間へ入った。
「久瀬さん。怖いですか」
「……怖いです」
「丹羽さんを、傷つけたいですか」
「そんなこと、したくない」
「じゃあ、今はそれで十分です」
鷺沢は灯を見た。
「説明してください」
灯はシュラフの下から比良坂の手帳を取り出した。
ページには、六組の客の名前、恐怖症、家族関係、過去の事故まで書かれていた。財団のアンケートや健康調査を装って集めた情報だ。
最後のページだけ破られている。
「比良坂は、ここにいる人たちの恐怖を使って、湖の底にいるものを起こそうとしてた。私の中にいるものと同じ種類です」
「あなたは、それを止めるために彼を殺した」
「……はい」
早苗が目を閉じた。
鷺沢は勝ち誇りもしなかった。手錠にも触れなかった。
「困りましたね」
「逮捕しないの」
「しますよ。生きて朝を迎えられたら」
彼女は破られたページの次を、ランタンに透かした。筆圧の跡が残っている。
「六つの孤火。ひとつの死。七つ目を門とする」
鷺沢は読み上げた。
「比良坂先生は、自分が殺されることまで手順に入れていた」
灯の胃が冷えた。
あの笑み。
死ぬ直前まで、比良坂が逃げなかった理由。
「私が、完成させた」
「そうです。でも、完成した仕掛けなら、壊せる場所もある」
鷺沢は手帳の地図を広げた。
六つの赤い丸は、湖を囲むように配置されている。中心は七番サイトではない。
凍った湖の真ん中だった。
その中心から、黒いものが立ち上がった。
最初は煙に見えた。
次に、巨大な人影になった。
最後に、比良坂の顔をいくつも貼りつけた獣になった。
湖面の氷を割らず、影だけがこちらへ歩いてくる。
六つのサイトで、悲鳴が上がった。
六 七つの火
恐怖は火より速く燃え移る。
誰かが「化け物だ」と叫び、別の誰かが「警察の実験だ」と叫んだ。配信者の若者は、隣のサイトの男が赤いランタンを仕掛けたと疑った。老夫婦は車へ逃げ込み、エンジンをかけようとしてバッテリーを上げた。
影から生まれた小さな獣たちが、テントの間を走った。
それらは牙や爪より先に、声を使った。
おまえだけ置いていかれる。
あいつは最初から嘘をついていた。
助かるのは一人だけだ。
人々が互いを見る目が変わるたび、影の獣は大きくなった。
「全員、管理棟前の炊事場へ!」
鷺沢が拡声器で呼びかけた。
「一人にならないでください! 疑う前に、私へ言って!」
「そんなことして何になる!」
配信者の男が怒鳴った。
「あなたの右手の血、怪我じゃありません」
「は?」
「朝食の苺ジャムです。匂いを嗅いでください」
男は反射的に手を嗅ぎ、黙った。
「そちらの方、ナイフを盗まれたと叫びましたね。凍ったまな板の裏に張りついてます。老夫婦の車の周りの足跡は人間ではなく狐。今聞こえた泣き声は、管理棟の風切り音です」
鷺沢は一つずつ、恐怖へ名前をつけていった。
分からないものが、分かるものへ変わるたび、影の獣が少し縮んだ。
「説明できることから片づけます! 説明できないものは、あとで一緒に怖がりましょう!」
それは刑事の言葉としてどうなのかと、灯は一瞬思った。
だが人々は動いた。
早苗が炊事場の中央で、大きな焚き火台に薪を組んだ。管理人が火をつける。老夫婦が毛布を運び、若者が湯を沸かした。
六つの赤いランタンは、持ち主が火から離れると炎を強めた。
逆に、人々が一つの焚き火を囲むと、赤い炎が細くなった。
「孤火」
灯は呟いた。
「比良坂は、みんなを別々の火のそばに置いた。自分だけで恐怖を抱えさせるために」
「なら、反対にすればいい」
早苗が言った。
「全部、こっちへ持ってきて」
六つの赤いランタンが、焚き火の周囲へ並べられた。
早苗は朝の残りの丸パンを切り、味噌とチーズを塗って網に載せた。
「食べられる人から食べて。怖いときに空腹だと、ろくなこと考えないから」
誰かが、場違いにも笑った。
その笑いが広がると、赤い炎が一つ消えた。
続いて、もう一つ。
湖の上の巨大な影が、怒りの声を上げた。
比良坂の顔がいくつも開き、同時に喋った。
「人間は一つになどならない」
影は灯を指した。
「その女を見ろ。人の皮をかぶった飢えだ。おまえたちを喰うために、焚き火のそばへ座っていた」
全員の視線が灯へ集まった。
もう隠しても意味はなかった。
灯は左手の抑えを解いた。
黒い腕が肩まで広がり、背中から二枚の薄い翼が開いた。額を割って角が伸びる。焚き火の光が、瞳を金色に変えた。
悲鳴が上がった。
一人の男が、薪割り用の斧を握った。
早苗が灯の前へ立った。
「この人は、私の友達です」
「それが人に見えるのか!」
「見えない。でも、友達です」
斧を持った男は震えていた。
鷺沢が、その斧の柄をそっと下げた。
「殺人の容疑者ではありますが、逮捕する順番はこちらで決めます」
「刑事さん、そういう問題か?」
「少なくとも、今いちばん人を殺しそうなのは、あの湖の大きい方です」
また、誰かが笑った。
三つ目の赤い炎が消えた。
巨大な影は湖畔へ腕を伸ばした。
灯は地面を蹴った。
黒い翼が雪を巻き上げる。影の腕と衝突し、炊事場の屋根が震えた。
爪で裂いても、影は煙のように戻った。噛みつかれるたび、灯の頭へ他人の恐怖が流れ込んでくる。
家族を失う恐怖。
老いる恐怖。
見捨てられる恐怖。
自分だけが醜いと知られる恐怖。
どれも、灯自身の中にあるものと似ていた。
――喰え。
内側の声が歓喜した。
――すべて喰えば、もう怖くない。
「違う」
灯は影の喉へ腕を突き入れた。
「怖くなくなるんじゃない。何も大事じゃなくなるだけだ」
影が灯を湖面へ叩きつけた。
氷に亀裂が走った。
岸から鷺沢が叫んだ。
「丹羽さん!」
彼女は証拠袋から、黒い鍛造ペグを取り出していた。
灯が比良坂を殺したときに使い、逃げる際に落としたものだった。
「これ、影を留める道具ですね!」
「どうして分かったの」
「凶器らしいのに、遺体に傷がない。それから、比良坂先生の影だけ、雪の向きと合っていなかった!」
鷺沢はペグを氷の上へ滑らせた。
灯が受け取る。
「それであれを留めて!」
灯は巨大な影の足元へペグを突き立てた。
手応えはあった。
だが、影は止まらなかった。
代わりに、灯自身の胸が地面へ引かれた。
比良坂の顔が笑った。
「門はおまえだ」
灯は理解した。
湖の底のものは、外から来たのではない。
十三年前から灯の中にいたものが、六つの恐怖と一つの死を食べ、外へ出ようとしている。
影を留めるには、その根である自分の影を留めるしかない。
空がわずかに白み始めていた。
あと少しで夜明けだ。
灯は湖の中心へ歩いた。
「灯、戻って!」
早苗が氷へ踏み出そうとした。
「来ないで」
「一緒に考えようよ!」
「ずっと一緒に考えてくれたから、ここまで人間でいられた」
灯は笑った。
うまく笑えている自信はなかった。
「朝のスープ、おいしかった」
「また作るから!」
「うん」
灯は自分の足元の影へ、黒いペグを打ち込んだ。
世界が静止した。
巨大な影が身をよじり、六つの口で叫んだ。灯の背中の翼が燃え、角がひび割れる。内側のものが、初めて恐怖の声を上げた。
――死ぬぞ。
「知ってる」
――人間はおまえを恐れた。
「それも知ってる」
――それでも人間でいたいのか。
灯は、岸の焚き火を見た。
早苗が泣いている。
鷺沢が帽子を押さえている。
名も知らない人たちが、一つの火を囲んでいる。
「人間でいたいんじゃない」
灯は言った。
「あの火のそばに、いたいんだ」
朝日が山の端から差した。
黒いペグの影が消えた。
巨大な影は、光の中で薄い紙のように裂けた。
同時に、湖面の氷が割れた。
灯の体が、青い炎に包まれて沈んでいく。
早苗の叫びが聞こえた。
最後まで消えなかったのは、焚き火の匂いだった。
七 焚き火の外側
事件の公式記録は、ひどく退屈な文章になった。
比良坂柾久は、違法な心理実験の最中に死亡。死因は原因不明の心停止。
財団が配布したランタンからは、人体へ強い幻覚を起こす未登録物質が検出された。
湖畔で起きた集団錯乱と火災により、丹羽灯は行方不明。
遺体は見つからなかった。
鷺沢刑事は報告書を三度書き直し、四度目で「巨大な影」「翼」「喋る死体」という単語を全部消した。
殺人事件としては、被疑者不明のまま送致された。
それから一年が過ぎた。
十一月最後の金曜日。
再開した灰見湖キャンプ場に、久瀬早苗は一人でテントを張った。
正確には、少し遅れて、緑色のよれたパーカを着た女がやってきた。
「いやあ、道を一本間違えまして」
鷺沢は相変わらず靴紐をほどいたままだった。
「刑事さん、去年も来てますよね」
「夜だったので」
彼女は証拠品返還の書類と、古い琺瑯のマグカップを差し出した。
灯が使っていた、紺色のカップだった。
「事件と直接関係なし、ということになりました」
「ありがとうございます」
「本当に関係なかったんですかね」
「どういう意味です?」
「いえ。最後にひとつだけ、まだ分からないことがあって」
早苗は苦笑した。
「またですか」
「湖から丹羽さんの遺体は出なかった。でも、あの朝、氷の下からこのカップだけ見つかった。しかも中が温かかったそうです」
「誰かの勘違いでしょう」
「私もそう思います」
鷺沢は、まるで思っていない顔で頷いた。
二人は焚き火を起こした。
長ねぎと茸を炒め、豆乳と味噌を加える。丸パンを半分に割り、網の上で焼く。
風が湖を渡った。
火の粉が一つ、紺色のカップへ落ちた。
早苗はスープを三杯に分けた。
「二人ですよ」
鷺沢が言った。
「分かってます」
三つ目のカップを、焚き火の向こう側へ置く。
誰もいないはずの椅子が、わずかに軋んだ。
鷺沢は気づかないふりをした。
早苗も、そちらを見なかった。
ただ、パンを一つ余分に網へ載せた。
焚き火の外側には、いつも闇がある。
だから人は、火を囲む。
悪魔を追い払うためではない。
闇の中にいる誰かへ、ここに座っていいと知らせるために。
了