悪魔は焚き火のそばにいる

――読み切り小説――

一 夜の殺人

 十一月最後の金曜日、午後十一時四十七分。

 灰見湖の風は、凍った指でテントの壁を弾いていた。

 丹羽灯は、湖畔の七番サイトに立っていた。片手には黒い鍛造ペグ。もう片方の手は、手袋の中で人間の形を保つのに苦労している。

 目の前には、比良坂柾久の大型テントがあった。

 暖色のランタンが透ける幕には、一人分の影が映っている。背の高い男の影。その足元に、もうひとつ、小さな角を生やした影がうずくまっていた。

「入れよ、丹羽君。寒いだろう」

 幕の向こうから、比良坂が言った。

 灯はファスナーを開けた。

 テントの中は、キャンプ場には不似合いなほど整然としていた。折り畳み机の上にノートパソコン、心電計、ガラス管、古い革表紙の手帳。中央には灰見湖の地図が広げられ、六つのサイトに赤い丸がついている。

 その丸のそばには、それぞれ同じ形の赤いランタンが置かれていた。

 比良坂は、ダウンジャケットの襟を正しながら笑った。大学教授というより、深夜番組の司会者のような笑顔だった。

「君が来ることは分かっていた」

「私の弟をどこへやった」

「君の弟は、十三年前に死んだ。旧採石場の崩落でね。助かったのは君だけだ」

「その事故を調べていた人たちが、三人消えた」

「事故ではないからだよ」

 灯の左手が、手袋の内側で膨らんだ。

 骨の数が増え、爪が縫い目を押し上げる。耳の奥で、もう一つの声が目を覚ました。

 ――喰わせろ。

 灯は歯を食いしばった。

「私の中にいるものを、知ってるのね」

「知っているとも。あの夜、山の底で君を拾ったものだ。昔の人間は悪魔と呼んだ。私はもっと穏当な名前を使っている。“空洞”だ。人間の恐怖を餌にして、人間の形を学ぶ生物」

「生物?」

「神と呼ぶより、研究費が下りやすい」

 比良坂は愉快そうに肩をすくめた。

「今夜、この湖には六組の客がいる。全員、私の財団が配った赤いランタンを持っている。知らない者同士が、暗闇の中で、それぞれ自分だけの火を見ている。孤独は恐怖を熟成させる。君の中のものを核にすれば、扉は開く」

「開かせない」

「開くさ。君は私を殺しに来た」

 比良坂の笑みが、ほんの少し深くなった。

 灯はそこで初めて、自分が何を期待されているのかを理解した。

 踵を返すべきだった。

 警察を呼ぶべきだった。

 何も知らない六組の客を叩き起こし、車に押し込み、雪道を下らせるべきだった。

 けれど比良坂は、机の端に一枚の写真を置いた。

 十三年前の崩落現場だった。土砂の前に、作業着姿の男たちが並んでいる。その中に、灯の父がいた。写真の裏には、消えた調査員三人の名前と、日付が書かれていた。

「君のお父上も、最初の協力者だった」

 左手の手袋が裂けた。

 黒い指が五本、いや七本、夜気の中へ伸びた。爪は光を吸い、関節の間から細い煙が漏れている。

 比良坂は逃げなかった。

 灯はその手を、男の胸ではなく、足元の影へ突き立てた。

 触れた感触は肉より柔らかく、泥より冷たかった。

 影の奥で、心臓の音が一度だけ大きく鳴った。

 比良坂の笑みが止まった。

 椅子から滑り落ちるまで、三秒もかからなかった。

 傷はない。血も出ない。

 灯の中にいるものは、人間の肉体より先に、その人間が世界へ落としている影を殺す。

 比良坂は死んだ。

 灯はしばらく動けなかった。

 やがて、訓練した手順を思い出すように、周囲を片づけ始めた。革の手帳を奪い、机を拭き、赤いランタンを倒す。携帯用ヒーターの不完全燃焼による事故に見えるよう、吸気口を塞ぐ。テントのファスナーは、修理用の蜜蝋引き糸を使えば、外から閉じたあと内側に結び目を残せる。

 灯はアウトドア用品の修理工だった。

 壊れたものを、壊れる前の形に見せるのが仕事だった。

 最後に、比良坂の目を閉じた。

 そのとき、死んだはずの男の唇が動いた。

「これで、七つ目だ」

 声は比良坂のものではなかった。

 テントの床下から、凍った湖の底から、灯自身の胸の奥から、同時に響いた。

 六つの赤いランタンが、誰も触れていないのに一斉に灯った。

 灯は息をのみ、テントを飛び出した。

 空には星があった。

 湖面は黒く、静かだった。

 静かすぎた。

二 朝のスープ

 午前六時二十分。

「おはよう、殺人的に寒いね」

 久瀬早苗は、そんな挨拶とともに灯のサイトへ現れた。

 黄色いニット帽に、パンで膨らんだトートバッグ。吐く息まで朗らかに見える女だった。

「道路、上の方が凍ってたよ。帰り大丈夫かな。はい、これ昨日焼いたやつ」

 差し出された丸パンは、まだ少し温かかった。

 灯は、一睡もしていなかった。

 比良坂の手帳は、シュラフの下に隠してある。左手は人間の形に戻っていたが、手首まで黒い血管が浮いている。七番サイトにはすでに管理人の軽トラックが停まり、向こうから慌ただしい声が聞こえていた。

「早苗。今日は帰った方がいい」

「来て一分で?」

「雪が降る」

「天気予報は昼からでしょ。だから午前中だけでも一緒に食べようって話だったじゃん」

 早苗は灯の返事を待たず、ローテーブルに小鍋を置いた。

 バターを落とし、刻んだ長ねぎと茸を炒める。じゅっと音がして、朝の冷気に甘い匂いが広がった。豆乳と味噌を加え、最後に黒胡椒を挽く。

 灯の胸の奥で、飢えたものが不機嫌に身じろぎした。

 ――恐怖を。

「黙って」

「え、私?」

「違う。独り言」

「寝不足でしょ」

 早苗は丸パンを半分に割り、焚き火台の網に載せた。表面がかりっと焼けるころには、スープから白い湯気が立っていた。

「ほら。熱いうちに」

 灯はカップを受け取った。

 一口飲む。

 味噌の塩気、茸の香り、少し焦げたねぎ。温かさが喉から胸へ落ちていくと、内側の声が遠のいた。

 十三年前から、ずっとそうだった。

 静かな場所で火を起こし、湯を沸かし、食べ物を分ける。その程度のことで、灯は人間の側へ戻ってこられた。

 悪魔を封じているのは聖水でも呪文でもない。

 朝食だった。

「おいしい?」

「うん」

「顔は全然そう言ってないけど」

「すごく、おいしい」

 早苗が笑った。

 その瞬間、七番サイトの方から管理人が走ってきた。顔色が悪い。

「丹羽さん、すみません。昨夜、何か見ませんでしたか」

「何をですか」

「人が、亡くなってるんです」

三 よれた刑事

 警察車両は九時すぎに三台来た。

 制服警官たちが規制線を張り、鑑識が比良坂のテントへ入った。死亡事故としては人数が多い。灯は理由を考え、比良坂が単なる大学教授ではなかったことを思い出した。

 十時前、よれた緑色のパーカを着た女が、灯のサイトへ歩いてきた。

 五十代半ば。毛糸の帽子は妙に大きく、片方の靴紐がほどけている。首から警察手帳を下げているが、どう見てもキャンプ場に忘れ物を取りに来た人だった。

「県警の鷺沢です。丹羽灯さん?」

「はい」

「ちょっとお話を。あ、その前にすみません。このストーブ、火がつかなくなっちゃって」

 鷺沢刑事は、古びた小型ストーブを差し出した。

 灯は反射的に受け取った。燃料はある。点火装置ではなく、寒さで気化が弱いだけだ。

「缶を手で少し温めてください。火で炙るのは駄目です」

「なるほど。さすがですねえ」

「知ってる人は知ってます」

「比良坂先生も、知っていたでしょうか」

 質問への入り方が滑らかすぎた。

 灯はストーブを返した。

「知りません。会ったことがないので」

「そうですか」

 鷺沢は頷き、靴紐を踏みそうになってよろめいた。

 早苗が椅子を勧めると、彼女は恐縮しながら座った。紙コップのコーヒーを一口飲み、顔をしかめる。

「警察署のより薄い。珍しいですね」

「聞きたいことは?」

「昨夜十一時から午前零時まで、こちらに?」

「はい。焚き火をしていました」

「お一人で?」

「一人です」

「どなたかに連絡は?」

 早苗が口を挟んだ。

「私、十一時五十二分に写真をもらいました。星がきれいだって」

 灯の心臓が一度、強く鳴った。

 鷺沢はにこりとした。

「それは助かります。あとで見せていただいても?」

 早苗はすぐにスマートフォンを出した。

 画面には、昨夜の灯のサイトが写っている。焚き火、マグカップ、椅子。その向こうに冬の星空。

 灯が午後十時四十分に撮り、送信予約した写真だった。

 鷺沢は拡大もせず、数秒眺めただけで返した。

「きれいですねえ。私は星が全然分からなくて。三つ並んでたら全部オリオン座だと思ってます」

 それから彼女は、昨夜の物音、風向き、ほかの客について尋ねた。灯は準備していた答えを返した。

 面談は十分ほどで終わった。

「お邪魔しました。スープの匂いがすごくいいですね」

 鷺沢は立ち上がり、三歩ほど進んだところで振り返った。

「ああ、そうだ。変なことを聞きますけど」

 灯の中のものが、目を開いた。

「テントのファスナーって、外から閉めたのに、中で結んだように見せることはできます?」

 早苗が灯を見た。

 灯は一拍置いて答えた。

「修理用の細い糸があれば。ただ、普通はやりません」

「ですよね。普通は」

 鷺沢は感心したように頷いた。

「亡くなった方のテントが、そうなっていたものですから」

 彼女は今度こそ立ち去った。

 背中が規制線の向こうへ消えるまで、灯は息を吐けなかった。

四 ひとつだけ変なこと

 昼を過ぎると、雪が降り始めた。

 最初は粉砂糖ほどだったものが、午後二時には湖畔を白く隠した。管理人から、峠道で小規模な雪崩が起きたと告げられた。除雪が終わるまで、キャンプ場から車を出せない。

 警察も客も、全員が湖畔に閉じ込められた。

 灯は早苗を自分のテントへ入れ、シュラフを二枚重ねた。比良坂の手帳は、隙を見て燃やすつもりだった。

 だが午後三時、鷺沢刑事がまた現れた。

 今度は、ファスナーの壊れた小さなポーチを持っていた。

「すみません。鑑識の子のなんですけど、直せます?」

「今ですか」

「今じゃなくても。あ、でも今日帰れないみたいですし」

 灯は断る理由を思いつけず、修理箱を開いた。

 曲がったスライダーをペンチで整え、蜜蝋を混ぜた糸で引き手を縫い直す。鷺沢は隣で、珍しそうに見ていた。

「いい匂いがしますね」

「杉脂を少し混ぜてます。糸が水を吸いにくくなるので」

「どこにでも塗るんですか」

「内側だけです。外側は砂や灰がつきやすいから」

「なるほど」

 灯がポーチを返すと、鷺沢は礼を言った。

 そしてまた、帰りかけて振り返った。

「ひとつだけ、変なことがあるんです」

「何ですか」

「比良坂先生のテントの、内側のファスナー。これと同じ匂いがするんですよ」

 早苗が顔を上げた。

 灯は表情を変えなかった。

「市販品にも似たものはあります」

「ええ、あります。ですから、それだけなら何でもないんです」

 鷺沢はポケットから自分のスマートフォンを出した。画面には、早苗へ送られた写真が表示されている。

「この写真、十一時五十二分に届いた。でも、撮られたのはもっと前ですね」

「どうして」

「星じゃないんです。私、星は分からないので」

 鷺沢は写真の奥を指した。

 湖の対岸に、管理棟の緑色の誘導灯が小さく写っていた。

「このキャンプ場、節電のため午後十一時に対岸の照明を全部落とすそうです。管理記録にも残ってる。この写真には灯りがある」

「送るのが遅れただけです」

「そうかもしれない。でも、どうしてわざわざ遅らせたんでしょう」

「通信が悪かったから」

「ここ、電波は四本立ちます」

 鷺沢の声は穏やかだった。

 責める調子がないぶん、逃げ道が少なかった。

「それに、丹羽さん。最初に管理人さんから死者が出たと聞いたとき、“ヒーターの事故ですか”と尋ねたそうですね」

「冬のテントで人が死んだら、そう考えるでしょう」

「考えます。でも現場を見た人は、まだ誰もヒーターの話をしていなかった」

 風がテントを揺らした。

 灯の左手首で、黒い血管がひとつ脈打った。

 鷺沢はそれを見た。

 見たが、何も言わなかった。

「丹羽さん。私は、あなたがあのテントへ入ったと思っています」

「証拠は?」

「今のところ、裁判に出せるほどのものはありません」

「なら――」

「ただし、人は事故に備えてアリバイを作ったりしません」

 鷺沢は帽子をかぶり直した。

「知りたいのは、あなたが何を隠しているかより、比良坂先生が何を始めたかです」

 そのとき、七番サイトの方で誰かが叫んだ。

 規制線の内側からだった。

 鑑識の若い警官が、雪の上へ尻餅をついている。

 比良坂の遺体が消えていた。

五 人間の側

 午後四時十二分。

 日没には少し早いのに、湖畔は夜の色になった。

 雪雲が空を塞ぎ、六つのサイトで赤いランタンがひとりでに灯った。持ち主たちは驚いて外へ出てきた。スイッチを切っても、芯を外しても、赤い炎はガラスの内側で揺れ続けている。

 灯は、もう隠せないと悟った。

「早苗。ここから離れないで」

「灯、その手――」

 左手の指が伸びていた。

 爪は黒く、関節は人間より一つ多い。皮膚の下で、別の顔が浮かんでは消えた。

 早苗は後ずさった。

 灯の胸に、鋭い痛みが走った。

 ――ほら。人間は見るだけで怯える。

 内側の声が囁く。

 ――その恐怖を喰えばいい。

 鷺沢が二人の間へ入った。

「久瀬さん。怖いですか」

「……怖いです」

「丹羽さんを、傷つけたいですか」

「そんなこと、したくない」

「じゃあ、今はそれで十分です」

 鷺沢は灯を見た。

「説明してください」

 灯はシュラフの下から比良坂の手帳を取り出した。

 ページには、六組の客の名前、恐怖症、家族関係、過去の事故まで書かれていた。財団のアンケートや健康調査を装って集めた情報だ。

 最後のページだけ破られている。

「比良坂は、ここにいる人たちの恐怖を使って、湖の底にいるものを起こそうとしてた。私の中にいるものと同じ種類です」

「あなたは、それを止めるために彼を殺した」

「……はい」

 早苗が目を閉じた。

 鷺沢は勝ち誇りもしなかった。手錠にも触れなかった。

「困りましたね」

「逮捕しないの」

「しますよ。生きて朝を迎えられたら」

 彼女は破られたページの次を、ランタンに透かした。筆圧の跡が残っている。

「六つの孤火。ひとつの死。七つ目を門とする」

 鷺沢は読み上げた。

「比良坂先生は、自分が殺されることまで手順に入れていた」

 灯の胃が冷えた。

 あの笑み。

 死ぬ直前まで、比良坂が逃げなかった理由。

「私が、完成させた」

「そうです。でも、完成した仕掛けなら、壊せる場所もある」

 鷺沢は手帳の地図を広げた。

 六つの赤い丸は、湖を囲むように配置されている。中心は七番サイトではない。

 凍った湖の真ん中だった。

 その中心から、黒いものが立ち上がった。

 最初は煙に見えた。

 次に、巨大な人影になった。

 最後に、比良坂の顔をいくつも貼りつけた獣になった。

 湖面の氷を割らず、影だけがこちらへ歩いてくる。

 六つのサイトで、悲鳴が上がった。

六 七つの火

 恐怖は火より速く燃え移る。

 誰かが「化け物だ」と叫び、別の誰かが「警察の実験だ」と叫んだ。配信者の若者は、隣のサイトの男が赤いランタンを仕掛けたと疑った。老夫婦は車へ逃げ込み、エンジンをかけようとしてバッテリーを上げた。

 影から生まれた小さな獣たちが、テントの間を走った。

 それらは牙や爪より先に、声を使った。

 おまえだけ置いていかれる。

 あいつは最初から嘘をついていた。

 助かるのは一人だけだ。

 人々が互いを見る目が変わるたび、影の獣は大きくなった。

「全員、管理棟前の炊事場へ!」

 鷺沢が拡声器で呼びかけた。

「一人にならないでください! 疑う前に、私へ言って!」

「そんなことして何になる!」

 配信者の男が怒鳴った。

「あなたの右手の血、怪我じゃありません」

「は?」

「朝食の苺ジャムです。匂いを嗅いでください」

 男は反射的に手を嗅ぎ、黙った。

「そちらの方、ナイフを盗まれたと叫びましたね。凍ったまな板の裏に張りついてます。老夫婦の車の周りの足跡は人間ではなく狐。今聞こえた泣き声は、管理棟の風切り音です」

 鷺沢は一つずつ、恐怖へ名前をつけていった。

 分からないものが、分かるものへ変わるたび、影の獣が少し縮んだ。

「説明できることから片づけます! 説明できないものは、あとで一緒に怖がりましょう!」

 それは刑事の言葉としてどうなのかと、灯は一瞬思った。

 だが人々は動いた。

 早苗が炊事場の中央で、大きな焚き火台に薪を組んだ。管理人が火をつける。老夫婦が毛布を運び、若者が湯を沸かした。

 六つの赤いランタンは、持ち主が火から離れると炎を強めた。

 逆に、人々が一つの焚き火を囲むと、赤い炎が細くなった。

「孤火」

 灯は呟いた。

「比良坂は、みんなを別々の火のそばに置いた。自分だけで恐怖を抱えさせるために」

「なら、反対にすればいい」

 早苗が言った。

「全部、こっちへ持ってきて」

 六つの赤いランタンが、焚き火の周囲へ並べられた。

 早苗は朝の残りの丸パンを切り、味噌とチーズを塗って網に載せた。

「食べられる人から食べて。怖いときに空腹だと、ろくなこと考えないから」

 誰かが、場違いにも笑った。

 その笑いが広がると、赤い炎が一つ消えた。

 続いて、もう一つ。

 湖の上の巨大な影が、怒りの声を上げた。

 比良坂の顔がいくつも開き、同時に喋った。

「人間は一つになどならない」

 影は灯を指した。

「その女を見ろ。人の皮をかぶった飢えだ。おまえたちを喰うために、焚き火のそばへ座っていた」

 全員の視線が灯へ集まった。

 もう隠しても意味はなかった。

 灯は左手の抑えを解いた。

 黒い腕が肩まで広がり、背中から二枚の薄い翼が開いた。額を割って角が伸びる。焚き火の光が、瞳を金色に変えた。

 悲鳴が上がった。

 一人の男が、薪割り用の斧を握った。

 早苗が灯の前へ立った。

「この人は、私の友達です」

「それが人に見えるのか!」

「見えない。でも、友達です」

 斧を持った男は震えていた。

 鷺沢が、その斧の柄をそっと下げた。

「殺人の容疑者ではありますが、逮捕する順番はこちらで決めます」

「刑事さん、そういう問題か?」

「少なくとも、今いちばん人を殺しそうなのは、あの湖の大きい方です」

 また、誰かが笑った。

 三つ目の赤い炎が消えた。

 巨大な影は湖畔へ腕を伸ばした。

 灯は地面を蹴った。

 黒い翼が雪を巻き上げる。影の腕と衝突し、炊事場の屋根が震えた。

 爪で裂いても、影は煙のように戻った。噛みつかれるたび、灯の頭へ他人の恐怖が流れ込んでくる。

 家族を失う恐怖。

 老いる恐怖。

 見捨てられる恐怖。

 自分だけが醜いと知られる恐怖。

 どれも、灯自身の中にあるものと似ていた。

 ――喰え。

 内側の声が歓喜した。

 ――すべて喰えば、もう怖くない。

「違う」

 灯は影の喉へ腕を突き入れた。

「怖くなくなるんじゃない。何も大事じゃなくなるだけだ」

 影が灯を湖面へ叩きつけた。

 氷に亀裂が走った。

 岸から鷺沢が叫んだ。

「丹羽さん!」

 彼女は証拠袋から、黒い鍛造ペグを取り出していた。

 灯が比良坂を殺したときに使い、逃げる際に落としたものだった。

「これ、影を留める道具ですね!」

「どうして分かったの」

「凶器らしいのに、遺体に傷がない。それから、比良坂先生の影だけ、雪の向きと合っていなかった!」

 鷺沢はペグを氷の上へ滑らせた。

 灯が受け取る。

「それであれを留めて!」

 灯は巨大な影の足元へペグを突き立てた。

 手応えはあった。

 だが、影は止まらなかった。

 代わりに、灯自身の胸が地面へ引かれた。

 比良坂の顔が笑った。

「門はおまえだ」

 灯は理解した。

 湖の底のものは、外から来たのではない。

 十三年前から灯の中にいたものが、六つの恐怖と一つの死を食べ、外へ出ようとしている。

 影を留めるには、その根である自分の影を留めるしかない。

 空がわずかに白み始めていた。

 あと少しで夜明けだ。

 灯は湖の中心へ歩いた。

「灯、戻って!」

 早苗が氷へ踏み出そうとした。

「来ないで」

「一緒に考えようよ!」

「ずっと一緒に考えてくれたから、ここまで人間でいられた」

 灯は笑った。

 うまく笑えている自信はなかった。

「朝のスープ、おいしかった」

「また作るから!」

「うん」

 灯は自分の足元の影へ、黒いペグを打ち込んだ。

 世界が静止した。

 巨大な影が身をよじり、六つの口で叫んだ。灯の背中の翼が燃え、角がひび割れる。内側のものが、初めて恐怖の声を上げた。

 ――死ぬぞ。

「知ってる」

 ――人間はおまえを恐れた。

「それも知ってる」

 ――それでも人間でいたいのか。

 灯は、岸の焚き火を見た。

 早苗が泣いている。

 鷺沢が帽子を押さえている。

 名も知らない人たちが、一つの火を囲んでいる。

「人間でいたいんじゃない」

 灯は言った。

「あの火のそばに、いたいんだ」

 朝日が山の端から差した。

 黒いペグの影が消えた。

 巨大な影は、光の中で薄い紙のように裂けた。

 同時に、湖面の氷が割れた。

 灯の体が、青い炎に包まれて沈んでいく。

 早苗の叫びが聞こえた。

 最後まで消えなかったのは、焚き火の匂いだった。

七 焚き火の外側

 事件の公式記録は、ひどく退屈な文章になった。

 比良坂柾久は、違法な心理実験の最中に死亡。死因は原因不明の心停止。

 財団が配布したランタンからは、人体へ強い幻覚を起こす未登録物質が検出された。

 湖畔で起きた集団錯乱と火災により、丹羽灯は行方不明。

 遺体は見つからなかった。

 鷺沢刑事は報告書を三度書き直し、四度目で「巨大な影」「翼」「喋る死体」という単語を全部消した。

 殺人事件としては、被疑者不明のまま送致された。

 それから一年が過ぎた。

 十一月最後の金曜日。

 再開した灰見湖キャンプ場に、久瀬早苗は一人でテントを張った。

 正確には、少し遅れて、緑色のよれたパーカを着た女がやってきた。

「いやあ、道を一本間違えまして」

 鷺沢は相変わらず靴紐をほどいたままだった。

「刑事さん、去年も来てますよね」

「夜だったので」

 彼女は証拠品返還の書類と、古い琺瑯のマグカップを差し出した。

 灯が使っていた、紺色のカップだった。

「事件と直接関係なし、ということになりました」

「ありがとうございます」

「本当に関係なかったんですかね」

「どういう意味です?」

「いえ。最後にひとつだけ、まだ分からないことがあって」

 早苗は苦笑した。

「またですか」

「湖から丹羽さんの遺体は出なかった。でも、あの朝、氷の下からこのカップだけ見つかった。しかも中が温かかったそうです」

「誰かの勘違いでしょう」

「私もそう思います」

 鷺沢は、まるで思っていない顔で頷いた。

 二人は焚き火を起こした。

 長ねぎと茸を炒め、豆乳と味噌を加える。丸パンを半分に割り、網の上で焼く。

 風が湖を渡った。

 火の粉が一つ、紺色のカップへ落ちた。

 早苗はスープを三杯に分けた。

「二人ですよ」

 鷺沢が言った。

「分かってます」

 三つ目のカップを、焚き火の向こう側へ置く。

 誰もいないはずの椅子が、わずかに軋んだ。

 鷺沢は気づかないふりをした。

 早苗も、そちらを見なかった。

 ただ、パンを一つ余分に網へ載せた。

 焚き火の外側には、いつも闇がある。

 だから人は、火を囲む。

 悪魔を追い払うためではない。

 闇の中にいる誰かへ、ここに座っていいと知らせるために。