『明日から来た斬られ役』

一 客は鶏でも神様

 改暦二十三年、暮六つ市には、空より高いものが二つあった。

 ひとつは北門の上に浮かぶ「時渡り櫓」。

 もうひとつは、未来人の物価感覚である。

 四百年後から観光に来る連中を、町の者は「明日衆」と呼んだ。彼らは透明な雨合羽を着て、空中に浮く撮影玉を連れ、泥道を見るたびに歓声を上げた。

「本物の不衛生だ!」

「電線が一本もない! すごく文化的!」

 などと褒めるので、褒められた方はたいてい腹を立てた。

 未来政府と市が結んだ景観保存条約により、暮六つ市では瓦屋根の上に電波筒を立てることも、自動人力車を表通りで走らせることも禁じられていた。理由は「歴史らしくないから」である。

 そのくせ、明日衆が落としていく金だけは、たいへん歴史になじんだ。

 町外れに、傾いた二階家があった。

 軒先の看板には、こう書かれている。

 ――刀を抜かずに困り事を片づけます。

   ただし栓、釘、雑草は抜きます。

 店の名は「抜かず屋」。

 主人の雪森朔兵衛は、看板どおり、めったに刀を抜かなかった。

「めったに、ではありません。絶対に、です」

 帳場で算盤を弾きながら、お春が訂正した。

 十七歳。髪を一本の鉛筆でまとめ、笑うより先に請求書を書く娘である。

「細かいな」

「細かくない経理は泥棒です。で、その鶏、どうするんです」

 土間の中央で、白い雄鶏が胸を張っていた。

 名を将軍という。近所の八幡社で飼われている御神鶏で、人の弁当を奪う、参詣客を蹴る、賽銭箱の上で昼寝をする、という三つの御利益を持っていた。

 その将軍が、明日衆の客証を飲み込んだのである。

 客証とは、銀色の小判ほどの札だ。時渡り櫓を通る際に発行され、持ち主が「観光客であり、傷つけてはならず、優先して便宜を図るべき存在」であることを証明する。

 将軍は今、その札を腹に収めていた。

 したがって法的には、鶏ではなく最上級観光客だった。

「お客様、お茶のおかわりはいかがでしょう」

 市の礼式役人が、将軍に深々と頭を下げていた。

 将軍は湯呑みを蹴り倒した。

「たいへん歴史的な御作法でございます」

 役人は涙目で言った。

 客証をなくした未来人は、店先で地団駄を踏んだ。

「早く腹を切って取り出せ。サムライはそうするんだろう」

「鶏の腹を切る侍は、たぶん料理人です」

 朔兵衛は欠伸をした。

 三十六歳。伸びた髪を後ろで束ね、色の褪せた着物をまとっている。腰には長い刀を差していたが、その刃は十七年前に自ら石で潰した。名刀でも妖刀でもない。ただの、切れない鉄の棒だった。

「殺さずに返せ」と未来人が言った。「ただし急げ。午後の『本物の公開処刑見学』に遅れる」

「ずいぶん忙しい休暇だな」

 朔兵衛は将軍の前にしゃがみ、干し烏賊を一本見せた。

 将軍の目が光った。

 朔兵衛は烏賊を放り、将軍が飛びついたところで、床板に置いた大きな磁石を腹の下へ滑らせた。客証は将軍の腹の中で、ごとりと鳴った。

「磁石で引っ張る気ですか」

「明日衆の道具は、だいたい磁石か光で何とかなる」

「その雑な理解で、よく二十三年も未来と付き合えましたね」

 将軍は磁石を敵と認め、猛烈に突つき始めた。

 朔兵衛は逃げた。

 将軍が追った。

 未来人が撮影玉を飛ばし、歓声を上げた。

「これだ! これが失われた武士道!」

「お前らの時代には、武士道は鶏に追われるのか!」

 土間を三周したところで、将軍は勢い余って米俵に衝突した。驚いて大きく鳴き、客証を吐き出した。

 未来人はそれを拾い、満足そうに頷いた。

「実に真正な体験だった。評価は星二つ」

「五つ満点で?」

「百点満点で」

 お春が無言で請求書に「迷惑料」を足した。

 未来人が去ったあと、朔兵衛は吐き出された客証を見て言った。

「札一枚で、鶏まで人扱いか」

「逆です。札を持っていない人間が、鶏以下なんです」

 お春はそう言って、玄関に立つ少女を見た。

 いつからいたのか。

 十二、三歳ほど。古びた赤い風車を手にし、明日衆の透明な雨合羽を着ている。けれど足元は裸足で、旅の埃に汚れていた。

 少女は銀色の小判を一枚、帳場に置いた。

「依頼があります」

「鶏なら今日はもう間に合ってる」

「今夜、私を斬らないでください」

 朔兵衛は少女を見た。

 お春の算盤の珠が、ひとつだけ乾いた音を立てた。

「誰が斬る」

「あなたです」

 少女は、まっすぐに答えた。

「午前零時十三分。北の時計塔で、あなたは私の首を落とします」

二 未来は前売り制

 少女は、こよみと名乗った。

 姓はない。生まれた年も、住んでいた町もわからない。ただ、今夜のことだけは知っているという。

「未来人だからか」

「たぶん」

「たぶんで未来から来るな。遅刻しただけかもしれん」

「店主、依頼人を混乱させないでください」

 お春は銀の小判を指で弾いた。小判は宙で止まり、澄んだ女の声を出した。

〈正規時貨一クロノ。四百二十六年分の利息を含みます〉

 お春の目つきが変わった。

「この一枚で、うちの借金が返せます」

「屋根も直せるか」

「店主を別の人に替えることもできます」

「そこまで高いのか」

 こよみは透明な雨合羽の内側から、折り畳まれた紙を出した。

 けばけばしい刷り物だった。

 ――歴史体験・特別夜興行。

 ――『宵烏、最後の一刀』。

 ――伝説の人斬り・雪森朔兵衛が、謎の少女を斬る!

 ――悲劇は変えられるのか。結末をその目で!

 ――第四八三三回公演。全席完売。

 刷り物には、刀を振り上げる朔兵衛の絵があった。

 その足元に、赤い風車が落ちている。

「絵師に文句を言いたい」

 朔兵衛は言った。

「俺はこんなに顎が長くない」

「文句はそこですか」

 お春が紙を奪うように読み、顔を上げた。

「第四八三三回、とあります」

「はい」

「今夜が初めてではない?」

 こよみは風車の軸を握りしめた。

「私は、何度も今夜を見ました。時計が零時十三分を打つ。あなたが刀を抜く。私は『やめて』と言う。あなたは泣きながら私を斬る。そこで町じゅうの灯りが消えて――次に気づくと、また今日の昼です」

「俺は覚えていない」

「みんな覚えていません。私だけです。たぶん、壊れているから」

 朔兵衛は刷り物を丸め、帯に差した。

「仕事は受ける」

「一クロノだからですか」

「俺は金では動かん」

「では返してください」

「金で動くこともある」

 お春が銀貨を袖にしまった。

「返しませんよ。依頼が本当でも嘘でも、未来貨の鑑定料は発生しています」

 三人は北門へ向かった。

 暮六つ市の大通りでは、明日衆が江戸風の衣装を借り、表情だけは大名のように歩いていた。腰の刀は柔らかい樹脂製で、転ぶと「危険な歴史体験です」と警告音が鳴る。

 道端では、町人が一回五銭で「恐れ入り奉ります」と言っていた。

 六回まとめると一回おまけだった。

「昔の人は、みんなああいう話し方だったんですか」

 こよみが訊いた。

「違う。観光客の前だけだ」

「では、どちらが本物なんです」

「金を払ってない方だ」

 時渡り櫓の下には、未来政府観光局の白い建物があった。周囲の長屋に合わせて瓦屋根を載せているが、壁は光を反射し、触ると波紋が広がる。

 窓口には、人の顔を描いた能面が浮いていた。

〈ようこそ、歴史保護行政窓口へ。御用件を十四文字以内で〉

「今夜、俺がこの子を斬るらしい」

〈十五文字です。やり直してください〉

「斬る予定を止めろ」

〈該当する予定はありません〉

 お春が刷り物を突きつけた。

「では、これは何です」

 能面の目が青く光った。

〈非公開資料です。背景人物による閲覧は規約違反です〉

「誰が背景人物だ」

〈お春。識別番号BG―二〇四。帳場娘。主要展示物の生活感を補強するため配置〉

 お春は一拍置いた。

「生活感に帳簿をつけられてたまるか!」

 算盤が窓口へ飛んだ。

 能面はひらりと避けた。

〈暴力的背景人物を検知。時代風俗取締方を呼びます〉

 床が開き、甲冑姿の役人が三体せり上がった。兜には赤い回転灯、草摺の下には車輪がついている。

〈主要展示物・雪森朔兵衛を保護。異常個体・こよみを回収〉

 朔兵衛はこよみを抱え、走った。

 お春は窓口の脇にあった紙束を一枚ひったくってから続いた。

「何を盗った」

「団体観覧申込書です」

「逃げながら商売を広げるな!」

 車輪甲冑が追ってくる。

 朔兵衛は露店の竹竿を蹴り上げた。竿は三体の車輪に絡み、甲冑は揃って転んだ。

〈本物の不整地を検知。走行できません〉

「泥道もたまには役に立つな」

 三人は路地へ飛び込んだ。

 その瞬間、町の音が消えた。

 呼び売りの口が開いたまま止まり、犬は片足を上げたまま空中で固まり、撮影玉さえ光の粒を散らして静止した。

 動いているのは、朔兵衛たちだけだった。

「これは?」

 お春が囁く。

 路地の奥から、黒い笠の男が歩いてきた。

 腰に、細身の刀を差している。

「幕間だ」

 男は言った。

「客に見せられない都合を片づける時間だよ、宵烏」

 朔兵衛の顔から、いつもの眠たげな色が消えた。

「片桐」

 十七年前に死んだはずの男が、笠の下で笑った。

三 死者は勤続年数に入らない

 片桐兵馬。

 かつて朔兵衛と同じ密偵組に属し、夜の橋で何人もの命を奪った男だ。

 朔兵衛が「宵烏」と呼ばれたなら、片桐は「野火」と呼ばれた。斬ったあとまで燃え広がる男、という意味だった。

「お前、死んだはずだ」

「お互い様だ」

 片桐が刀を抜いた。

 刃は青白く、輪郭がちらついている。

「その娘を渡せ。今夜を終わらせる」

「俺が斬るんじゃなかったのか」

「最後だけは、お前の役だ」

 片桐が踏み込んだ。

 速い。

 路地の雨粒が静止する中、その刃だけが青い線を描いた。

 朔兵衛は鞘ごと刀を抜き、受けた。

 金属音が一つ、凍った町を割る。

 お春がこよみを引いて、漬物樽の陰へ隠れた。

「絶対に抜かないんじゃなかったんですか」

「鞘ごとなら勘定外だ!」

 片桐の二撃目を、朔兵衛は鞘の鍔で滑らせた。三撃目を暖簾の棒で止め、四撃目は豆腐屋の看板を蹴って軌道を逸らす。

 看板が真っ二つになった。

「弁償です!」

「今それを言うか!」

「相変わらずだな」

 片桐は笑った。

「人を斬らず、周りの物を全部壊す」

「物は直せる」

「人だって、ここでは直る」

 片桐の言葉に、朔兵衛の動きがわずかに止まった。

 刃が頬をかすめる。

 血ではなく、細い黒い文字が宙にこぼれた。

 ――主要展示物、軽微損傷。

 ――次場面までに自動修復。

 朔兵衛は、その文字を見た。

「何だ、これは」

「だから言ったろう。お互い様だ」

 片桐の足元からも、薄い文字が立ち上っていた。

 ――処刑補助役、記憶漏出率三・二パーセント。

 朔兵衛は片桐の刀を鞘で巻き込み、壁へ押さえた。肘を打ち、刀を落とさせる。拾わない。喉も突かない。

「どけ」

「また同じ顔だ」

 片桐は、怒りとも笑いともつかない顔をした。

「四千八百三十二回、同じところで迷う。なのに最後は斬る。お前はそういう役だ」

「役で人は斬れん」

「斬れるさ。役しかないんだから」

 町のどこかで、鐘が一つ鳴った。

 止まっていた雨粒が落ち、犬が吠え、呼び売りが言葉の続きを叫んだ。

 片桐の姿は、風に散る芝居の切符のように崩れた。

 路地に残ったのは、青い刃の欠片だけだった。

 朔兵衛が触れると、欠片は光の文字を映した。

 ――北時計塔、零時開場。

 ――史実再現率九八・七パーセント。

 ――主演個体の自発性、許容範囲内。

「自発性まで許可制か」

 お春が吐き捨てた。

 こよみは震えていた。

「思い出しました。あの人も毎回います。私を時計塔へ連れていく。でも、今まであなたは一度もここまで来なかった」

「では、今回は筋書きが違う」

「違うのではなく、壊れ方が大きくなっているんです」

 こよみは赤い風車の軸を折った。

 中から、細い鍵が出てきた。

「時計塔の鍵です。たぶん、私の中に隠されていました」

 朔兵衛は鍵を受け取った。

「北へ行く」

「罠ですよ」

 お春が言った。

「知ってる」

「消されるかもしれません」

「それも知ってる」

「では、もう一つ。店の家賃が三か月分たまっています」

「それは今知った」

「生きて帰る理由にしてください」

 朔兵衛は少し笑い、鍵を握った。

四 過去は本人不在で裁かれる

 北時計塔は、時渡り櫓の影に隠れていた。

 表向きは明日衆向けの展望所だが、夜になると立入禁止の札が立つ。

 こよみの鍵は、鉄の扉ではなく、その脇の何もない空間に刺さった。

 空が裂け、白い階段が現れた。

 三人が上ると、町の裏側へ出た。

 そこには夜空がなかった。

 巨大な格子と、無数の歯車と、宙に浮く文字の川があった。暮六つ市の家々は薄い板のように並び、その裏で光の糸につながれている。

 豆腐屋の親爺の笑い声。

 橋の下の水音。

 お春が朝ごとに文句を言う声。

 すべてが細い硝子筒に収められ、規則正しく点滅していた。

「……ずいぶん大掛かりな舞台装置だな」

 朔兵衛が言った。

〈正確には、歴史的人格再構成環境です〉

 白い衣を着た女が、歯車の向こうに現れた。

 顔には目も鼻もなく、代わりに時計の文字盤が浮かんでいる。

〈私は管理官ミクリヤ。第四八三三次・暮六つ市倫理観覧区の運営を担当しています〉

「倫理を見物するのか」

 お春が言った。

「ずいぶん安い倫理ですね」

〈観覧料は安くありません〉

「そこは否定するんだな」

 管理官が手を上げると、空中に古い橋が映った。

 雪の夜。

 若い朔兵衛が、橋のたもとに立っている。

 向こうから、一人の使者が走ってくる。胸に白い文箱を抱えている。

〈史実記録、改暦戦争最終夜〉

 若い朔兵衛が刀を抜く。

 使者が何かを叫ぶ。

 刃が光る。

 文箱が雪へ落ちる。

 箱の中から、「停戦」の二文字が見えた。

〈使者の死亡により停戦命令の到着は三時間遅延。雁木原の戦闘は継続し、民間人を含む四十一名が死亡。実在の雪森朔兵衛は十二分後、追撃兵の銃撃を受けて死亡しました〉

 映像の若い男は、真実を知る暇もなく雪へ倒れた。

 朔兵衛は黙っていた。

「では、俺の十七年は何だ」

〈仮説です〉

 管理官の声には、温度がない。

〈もし雪森朔兵衛が生き延び、停戦命令の内容を知ったなら、悔いることができたか。殺さない生を選べたか。その倫理的可能性を、回収された脳神経痕跡と同時代資料から再構成しました〉

「店も、町も、お春もか」

〈環境要素です〉

「環境要素は、毎朝味噌汁を作ったりしません」

 お春は言った。

〈その行動も再構成されています〉

「味が薄いのも?」

〈個体差です〉

「そこだけ自由意志にするな!」

 お春の声が歯車の間に響いた。

 こよみは、古い橋の映像を見ていた。

 赤い風車が、彼女の手の中でかすかに回る。

「私は?」

〈雁木原で死亡した四十一名の証言、遺品、推定人格を統合した対話用被害者モデル。正式な人格登録はありません〉

「だから、何度斬っても構わない?」

〈損耗は次回公演前に修復されます〉

 こよみは管理官を見た。

「痛みも?」

〈痛覚は、観覧の倫理的強度を保つため実装されています〉

 朔兵衛の手が、腰の刀へ伸びた。

 だが握ったのは柄ではなく、鞘だった。

「俺が毎回、この子を斬るのはなぜだ」

〈あなたは自発的に抵抗します。しかし最終場面では、史実との整合性を保つため運動補助を行います〉

「操っているのか」

〈結末には形式が必要です。観客は曖昧さを好みません〉

 管理官が指を鳴らした。

 町の上に、無数の座席が現れた。

 透明な壁の向こうで、明日衆が飲み物を手に、今夜の開演を待っている。

 座席の上には賭け率が浮かんでいた。

 ――斬る、一・〇一倍。

 ――斬らない、九百八十倍。

「見世物か」

〈教育です〉

「賭け札が出る教育を、俺は知らん」

 管理官は初めて、少しだけ首を傾けた。

〈あなた方には二つの選択があります。予定どおり公演を終えれば、暮六つ市は保存され、明日も再開します。拒否すれば、倫理的価値を失った環境として全消去します〉

「この子を殺すか、町ごと死ぬか」

〈簡潔には〉

 朔兵衛は、ふっと息を吐いた。

「悪いな。そういう二択を出す奴は、たいてい三つ目の答えを隠してる」

五 背景人物、舞台を降りる

 朔兵衛たちが町へ戻ると、鐘は十一時半を告げていた。

 管理官は逃げなかった。

 逃げる必要がないのだ。空も道も時計も、彼女の側にある。

 それでも三人は、町じゅうの戸を叩いた。

 豆腐屋、風呂屋、髪結い、夜泣き蕎麦、橋番、博打打ち、礼式役人まで集め、時計塔の広場で真実を話した。

 最初に口を開いたのは風呂屋の親爺だった。

「俺の腰痛も作り物なのか」

「たぶん」と朔兵衛。

「もっとましに作れ!」

 次に豆腐屋が言った。

「さっき斬られた看板も、朝には直るんだな?」

「らしい」

「じゃあ弁償は?」

「それは別だ」とお春。

 町人たちは、死ぬかもしれない話より先に、未払い賃金と修理代と腰痛の補償について怒り始めた。

 やがて、橋番の老婆が言った。

「作り物なら、何だってんだい。昨日、孫が熱を出して、あたしは夜じゅう手を握ってた。あの手が作り物なら、離してよかったのかい」

 誰も答えなかった。

「消えるのは怖いさ。だが、娘っ子を毎晩斬らせて続く明日なんぞ、朝とは呼べないよ」

 群衆のあちこちから、低い同意が上がった。

 お春は、観光局から盗んだ団体観覧申込書を広げた。

「三つ目の答えです」

「それで何をする」

 朔兵衛が訊いた。

「客になります」

 町人たちが顔を見合わせた。

「観光規約では、客証を持つ者は傷つけられない。朝の鶏で確認済みです」

「俺たちには客証がない」

「申込書があります。観覧料も」

 お春は、こよみから受け取った一クロノ銀貨を掲げた。

〈四百二十六年分の利息を含みます〉

 銀貨が律儀に言った。

「換算すれば、四万二千八百八十一人分の団体料金です。町の人口と、ちょうど同じ」

 朔兵衛は目を細めた。

「最初から計算してたのか」

「私は壊れても経理ですから」

 申込書の代表者欄には、最初に「こよみ」と書いてあった。

 次に雪森朔兵衛、お春。

 その下へ、町人たちが次々に名を書いた。

 字の書けない者は、丸を描いた。

 手のない時計屋は、歯形をつけた。

 御神鶏の将軍は、墨の上を歩いて足跡を残した。

「鶏まで入れるのか」

「すでに一度、客になっています。継続会員です」

 十一時五十分。

 空が軋んだ。

〈不正な人格昇格を検知〉

 管理官の声が町じゅうに響く。

 車輪甲冑が四方の路地から現れた。

 その先頭に、片桐がいた。

 今度は黒笠を捨て、昔のままの顔をしていた。

「申込書を渡せ、朔兵衛」

「断る」

「町ごと消えるぞ」

「お前は、どっちがいい」

 片桐の顔が歪んだ。

「俺は終わりたい」

 青い刀を抜く。

「何千回も、お前に斬られ損ねた。俺は人を殺して、悔いる前に死んだ。だから、ここでは悔いる役まで与えられた。だが俺にはできない。死者に生き方を直させるな」

「死者じゃない」

「なら何だ!」

「面倒な生者だ」

 朔兵衛は腰の刀を抜いた。

 鞘ではない。

 刃を潰した、鈍い鉄そのものを。

 町人たちが息を呑んだ。

「この刀は斬れん」

「知っている」

「だが、痛いぞ」

 片桐が笑った。

「それも知っている」

 二人は同時に踏み込んだ。

六 斬るべきもの

 片桐の青い刃が、夜を縫った。

 朔兵衛の鈍い刀が、それを叩き落とす。

 一合。

 石畳が割れた。

 二合。

 時計塔の硝子が震えた。

 三合目、片桐の刃が朔兵衛の肩を裂いた。傷口から、また黒い文字が溢れる。

 ――主演個体、損傷率二一パーセント。

 朔兵衛は構わず、片桐の手首を峰で打った。

 青い刀が宙へ飛ぶ。

 片桐は素手で掴みかかってきた。

「斬れ! お前が俺を終わらせろ!」

「嫌だ」

「それが贖いのつもりか!」

「贖いでお前を使うな!」

 朔兵衛は片桐を投げ、地面へ押さえた。

「俺が斬らないのは、善人になった証明じゃない。二度と、自分の都合で誰かの終わりを決めないためだ」

 片桐は抵抗をやめなかった。

 泣いてもいなかった。

 ただ、長いこと息を止めていた者のように、震えた。

「生きろとは言わん」

 朔兵衛は言った。

「生き方を探せ。俺もまだ見つけてない」

 十一時五十九分。

 お春が申込書を抱え、時計塔の受付機へ走った。

 車輪甲冑が道を塞ぐ。

 こよみが赤い風車を投げた。

 風車は甲冑の回転灯に絡みつき、警告音を上げさせる。

〈歴史的玩具による重大事故。安全確認のため停止します〉

「安全なのか危険なのか、どっちなんです!」

「役所は両方言うものです!」

 お春が甲冑の背を駆け上がり、受付機へ申込書を差し込んだ。

〈団体観覧申請を受理。人数、四万二千八百八十一〉

 銀貨を入れる。

〈入金確認。利息計算中〉

「急いで!」

〈未来政府標準演算では、利息計算に最長三百年を要します〉

「未来のくせに遅い!」

 時計塔の針が、零時を指した。

 朔兵衛の身体が硬直した。

 管理官の声が響く。

〈最終場面、開始。主演個体へ運動補助を適用〉

 朔兵衛の右腕が、意思に反して持ち上がった。

 鈍い刀の表面を光が走り、青白い刃が生まれる。

 こよみの首へ向けて、足が一歩進む。

「逃げろ!」

「逃げても同じです!」

 こよみは動かなかった。

「今まで、あなたは最後に必ず私へ謝りました」

「喋るな……離れろ」

「私はあなたを赦すためにいるんじゃない」

 こよみの声は震えていた。

 それでも、目を逸らさなかった。

「あなたが私を斬らないか、見るためにいる」

 刀が振り上がる。

 朔兵衛は左手で、自分の髷を掴んだ。

 髪を束ねる古い金具が、青く点滅している。

 十七年、肌身離さずつけていた密偵組の髪留めだった。

 そこから、細い光の糸が管理官へ伸びている。

「斬る物が――やっと見つかった」

 朔兵衛は、支配された右腕を力任せに反転させた。

 刃が、自分の髷を断った。

 髪とともに、金具が石畳へ落ちる。

 光の糸が切れた。

 朔兵衛の腕が止まる。

 青い刃は、こよみの首の一寸手前で消えた。

 透明な壁の向こうで、観客がどよめいた。

〈史実整合性、崩壊〉

〈演目を緊急停止します〉

〈環境消去まで十秒〉

「利息は!」

 お春が受付機を叩く。

〈計算中。残り二百九十九年十一か月――〉

 そのとき、将軍が飛んできた。

 御神鶏は受付機の上へ着地し、表示板を一蹴した。

 機械から火花が散った。

〈強制簡易計算へ移行〉

〈入金額、十分〉

〈団体客証を発行〉

 町じゅうに、銀色の光が降った。

 人々の胸に、小さな客証が現れる。

 豆腐屋にも、橋番にも、泣いている赤子にも、片桐にも。

 こよみの胸には、一番の札がついた。

 将軍には「継続会員」の札がついた。

〈警告。観覧客を含む環境は消去できません〉

〈警告。観覧客に対する運動強制は禁じられています〉

〈警告。展示物と観覧客の区別が失われました〉

 管理官の文字盤が、初めて激しく乱れた。

〈前例がありません〉

 朔兵衛は、切れた髪を払いながら言った。

「歴史ってのは、前例のないことを後から説明する仕事だろ」

 時計塔の針が、零時十三分を指した。

 いつもなら、そこで灯りが消える。

 だが今夜、消えたのは時渡り櫓の方だった。

 巨大な門が暗くなり、空に一本の亀裂が走った。

 亀裂の向こうから、誰も見たことのない朝の色が差し込んだ。

七 明日の値段

 暮六つ市に、初めての翌朝が来た。

 それは大げさな光景ではなかった。

 鶏が鳴き、豆腐屋が水を汲み、風呂屋の親爺が腰をさすり、夜泣き蕎麦の屋台が帰っていく。

 ただ、時計塔の針が零時十三分を越えて進み続けた。

 それだけで、町じゅうの者がしばらく針を見上げていた。

 時渡り櫓の跡には、白い門が残った。

 向こう側には、四百年後の街が見える。空中を列車が走り、建物の壁を鯨の映像が泳いでいた。

 町人たちは門の前へ集まったが、すぐには渡らなかった。

「未来へ行けば腰は治るのか」と風呂屋。

〈保険の適用外です〉

 壊れかけの受付機が答えた。

「じゃあ、こっちでいい」

 豆腐屋は新しい看板の代金を朔兵衛へ請求した。

 お春は半額まで値切った。

 片桐は、抜かず屋の屋根を直していた。落ちる瓦に三度頭を打ち、四度目で「斬られる方が楽だ」とぼやいた。

「楽な方へ逃げるな」

 朔兵衛が下から言った。

「お前にだけは言われたくない」

 こよみは店先に座り、赤い風車を直していた。

 折れた軸の代わりに、お春が鉛筆を一本くれた。

「これから、どうします」

 こよみが訊いた。

「仕事をする」

「何のために?」

 朔兵衛は、傾いた看板を見上げた。

「借金がある」

「そうではなくて」

「腹が減る」

「そうでもなくて」

 朔兵衛は少し考えた。

「俺が悔いたところで、死んだ四十一人は戻らん。俺は本物の雪森朔兵衛ですらない。だから、償ったと言える日は来ないだろう」

 こよみは風車を回した。

「はい」

「そこは少し慰めろ」

「私は赦す役ではありません」

「そうだったな」

「でも」

 風車が、朝の風を受けて回った。

「朝ごはんを一緒に食べるくらいなら、できます」

 朔兵衛は店の中へ向かって叫んだ。

「お春、米はあるか」

「ありません。昨日に全部置いてきました」

「明日になったのに?」

「明日にも米は勝手に生えません」

 町じゅうで、初めての翌朝にしては、あまりに普通の笑い声が上がった。

 朔兵衛は看板を裏返し、新しい文句を書いた。

 ――抜かず屋。

 ――本物、作り物を問わず、困り事を片づけます。

 ――ただし、代金は本物に限る。

 お春が最後の一行を赤字で足した。

終幕 観客席

 四百年後の歴史博物館で、案内係が咳払いをした。

「以上が人気演目『展示物の反乱』でございます。人格が自由を獲得したと信じる瞬間を、たいへん感動的に再現しております」

 透明な床の下に、暮六つ市が見えた。

 豆粒ほどの人々が朝市を開き、抜かず屋の前には新しい行列ができている。

 観客たちは拍手した。

 一人の子どもが、案内係の袖を引いた。

「ねえ。あの人たちは、本当に自由になったの?」

「もちろんです。自由だと感じています」

「感じることと、自由なことは同じ?」

 案内係は答えに詰まり、説明用の笑顔を浮かべた。

「次の展示へ参りましょう。二十一世紀の家庭生活を忠実に――」

 そのとき、館内の発券機が一斉に動き出した。

 誰も触れていないのに、長い紙が吐き出される。

 ――出演料請求書。

 ――請求元 暮六つ市住民一同。

 ――宛先 観客席の皆様。

 観客が笑った。

 新しい演出だと思ったのだ。

 床下で、髪を短くした男がこちらを見上げていた。

 小さすぎて表情までは見えない。

 けれど男は、確かに観客席へ向けて、鈍い刀の切っ先を上げた。

 透明な床に、一本の亀裂が入った。

 拍手が止まった。

 その瞬間、博物館の天井が明滅した。

 案内係も、観客も、子どもも、揃って上を見た。

 天井のさらに向こうに、もう一つの観客席があった。

 そこには、彼らよりさらに遠い未来の何者かが座り、飲み物を手に、今の場面を見物していた。

 案内係の胸元に、いつの間にか銀色の札が浮かんでいた。

 ――展示番号BG―二〇四二。

 ――背景人物。

 床下の暮六つ市で、御神鶏の将軍が高らかに鳴いた。

 どちらが客で、どちらが見世物か。

 それを決めていたはずの札は、もう誰の胸でも、静かにはしていなかった。