『敗北王子と冬の犬』

――精神勝利の無双譚――

一 世界最強の負け犬

 俺は負けるたびに強くなる。

 だから、フランダル市で俺より強い者はいなかった。

 みんな、そのことを知らなかった。

 俺も、だいたい知らなかった。

 俺の名はキュウ。姓はない。

 十五年前、雪の夜に孤児院の戸口へ捨てられていた俺の胸には、Qという字を刻んだ銀の札が一枚ぶら下がっていた。孤児院の婆さんはそれを見て、「なら、おまえはキュウだ」と言った。

 由緒正しさというものは、案外そんな具合に決まる。

 俺の家族は、灰色の老犬ヘピスだけだった。

 ヘピスは荷車を引けば馬より働き、パンを見つければ俺より早く食べ、俺が殴られれば殴った相手の尻を必ず噛んだ。世間では俺たちを「みなしごの絵描きと、毛の生えた荷車」と呼んでいた。

 その日も俺たちは、聖アウレリア大聖堂の広場で笑いものになっていた。

「これが王立絵画競技会に出す絵だと?」

 染料商組合の息子、ヘンドリクが俺の絵をつまみ上げた。

 雪解けの朝、運河沿いを歩く母子と犬を描いた小さな板絵だった。絵具は安物、板は酒樽の蓋。だが空だけは、俺が三日寝ずに塗った。

「空が青すぎる。貧乏人は本物の青を知らんらしい」

 取り巻きが笑った。

 俺は鼻をすすりながら言った。

「おまえは空を値札でしか見たことがないらしいな。かわいそうに。これは俺の勝ちだ」

「何が勝ちだ!」

 ヘンドリクは絵を雪の上へ放り、長靴で踏みつけた。

 俺は胸の奥で、ちりん、と鈴が鳴るような音を聞いた。

 この音は、誰かが俺を見下したときに鳴る。

 昔からそうだった。

 孤児院で粥を盗んだと決めつけられたときも鳴った。親方に賃金を半分しか渡されなかったときも鳴った。町の娘に「犬のほうがまだ男前」と言われたときは、三回鳴った。

 俺はそのたび、心の中で帳尻を合わせた。

 殴られたのではない。相手が拳を痛める機会を与えてやった。

 追い出されたのではない。狭い場所を譲ってやった。

 選ばれなかったのではない。選ぶ側の見る目のなさを証明してやった。

 俺はそれを「精神勝利法」と呼んでいた。

 言っておくが、ただの負け惜しみではない。

 負け惜しみが十五年も積もれば、それはもう立派な資産である。

 ヘンドリクが背を向けたとき、雪の下で板絵がぼうっと光った。踏まれて潰れたはずの青が、長靴の裏から這い上がり、彼の高価なズボンへ一羽の青い鳥を描いた。

 鳥は羽ばたき、ヘンドリクの尻をつついた。

「ぎゃっ!」

 彼が転ぶ。

 取り巻きも巻き込まれて転ぶ。

 ヘピスが大喜びで、その山へ飛び込む。

 俺は絵を拾い上げた。空には傷一つなかった。

「見ろ、ヘピス。芸術が評価されたぞ」

「わふ」

「尻にだがな」

 俺たちは笑った。

 その晩、笑っていられなくなるとも知らずに。

二 祭壇画の亡霊

 王立絵画競技会の締切は翌朝だった。

 出品料は銀貨二枚。

 俺の全財産は銅貨七枚と、穴のあいた靴と、ヘピスだった。ヘピスを売れば銀貨三枚にはなると言った商人もいたが、俺はその商人を運河へ落としておいた。あれも俺の勝ちである。

「仕方ない」

 俺は夜の大聖堂へ忍び込んだ。

 盗みに入ったのではない。神さまから出品料を前借りしに来たのだ。神さまは金持ちの寄進を山ほど受け取っているから、銅貨数枚くらい融通しても罰は当たるまい。

 ところが寄進箱は空だった。

「神さまも景気が悪いらしい」

 奥の礼拝堂へ進むと、月光が巨大な祭壇画を照らしていた。

 《光を掲げる王》

 百年前の天才画家レオーニスが描いた、フランダル随一の名画だ。黄金の鎧を着た初代王が、闇の中へ松明を差し出している。俺は幼いころから、この絵を見るためだけに何度も大聖堂へ忍び込んだ。

 腹が減っているときでも、美しいものを見ると一瞬だけ人間に戻れる。

 貧乏人にとって、芸術とはそういう食べられないパンだ。

 俺が見上げていると、ヘピスが低く唸った。

「どうした?」

 祭壇画の王が、瞬きをした。

『キュウ』

 絵の中から声がした。

『我が血を継ぐ者よ』

「人違いだ。俺は血より薄い粥を継いできた」

『胸の銀札を見よ』

 俺が服の下からQの札を出すと、裏面に刻まれていた蔓草模様が青白く光った。祭壇画の王冠にも、同じ模様が浮かぶ。

 絵から霧が流れ出し、一人の男の姿になった。

 五十歳ほど。痩せた顔。喉に黒い傷。頭に割れた王冠。

 十五年前に急死した先王オルディン二世だった。

『我は弟キュカイに殺された』

 現在の国王である。

『奴は眠る我が耳へ、冥府草の毒を注いだ。王妃を奪い、王冠を奪い、赤子であったおまえをも殺そうとした。侍女が命を賭して、おまえをこの町へ逃がしたのだ』

「なるほど」

『驚かぬのか』

「自称する父親が亡霊で、叔父が国王で、俺が王子だと言われてもな。詐欺師でも、もう少しましな筋書きを考える」

『疑うなら胸の印を――』

「印くらい偽造できる。亡霊にもな」

 先王の顔が歪んだ。

『ならば、何を望む』

「証拠だ」

『復讐ではなく?』

「復讐するか、しないか。その前に腹が減っているか、いないかだ。腹が減ったまま人を殺すと、だいたい判断を誤る」

 ヘピスが同意するように鳴いた。

 亡霊はしばらく黙った。

『王宮の宝物庫に、冥府草の毒瓶がある。瓶にはキュカイの印章が刻まれている。そして王は、我が死を再現するものを見れば、必ずや魂を乱すであろう』

「つまり、芝居を見せて反応を探れと」

『そうだ』

「ちょうど絵画競技会の決勝は、王宮での公開制作だ」

『出場できるのか』

「出品料がない」

 先王は沈黙した。

 王だった男の亡霊が、銀貨二枚を持っていない。

 その事実が妙におかしくて、俺は笑った。

「父上とやら。あんた、死んでまで役に立たないな」

 その瞬間、胸の奥で鈴が鳴った。

 ちりん。

 どうやら亡霊にまで見下されたらしい。

 祭壇画の金箔が二片、はらりと剥がれ落ちた。

 床に触れると、銀貨へ変わった。

 俺と亡霊は、同時にそれを見た。

『今のは……』

「精神勝利法だ」

『そのような魔術、聞いたことがない』

「俺も今、初めて魔術だと知った」

 ヘピスが銀貨をくわえた。

 こうして俺は王立絵画競技会へ出場し、ついでに王殺しを暴くことになった。

 芸術家の仕事は、いつも注文が多い。

三 王宮の猿芝居

 翌朝、俺の絵は予選で最下位になった。

 審査員は言った。

「技法が粗い」

「構図が卑しい」

「犬が大きすぎる」

 ヘピスは審査員の靴へ小便をした。

「批評への批評だ」

 俺は言った。

 当然、失格になるはずだった。

 ところが競技会の主催者はヘンドリクの父、染料商組合長ファンデルだった。彼は俺を見つけると、昨日の恨みを思い出して顔を輝かせた。

「こいつを決勝へ出せ」

 公開の場で恥をかかせるつもりなのは明らかだった。

 俺は深く頭を下げた。

「ご厚意、痛み入る。俺を笑いものにするためだけに規則を曲げるとは、組合長ともなると品性まで豪快だ」

 ちりん。

 また鈴が鳴った。

 俺は王宮へ入った。

 白大理石の広間には、貴族、聖職者、商人、将軍が並び、中央の玉座には国王キュカイが座っていた。隣には王妃ティアム。先王の妻であり、キュカイの妻となった女だ。

 王は熊のように大きく、笑顔は油を塗った斧のようだった。

「これが噂の貧民画家か」

「噂ほど貧しくありません。借金を含めれば、持っているものは多いです」

 広間に失笑が走る。

 王妃だけは笑わなかった。

 彼女は俺の胸の銀札を見て、杯を取り落とした。

 その顔で、亡霊の話の半分は本当だと分かった。

 決勝の題は、「王の栄光」だった。

 参加者は六人。ヘンドリクは純金を溶かした絵具で、巨大な王冠を描き始めた。宮廷画家は勝利の戦車を描いた。別の者は、民衆が王へひれ伏す構図を描いた。

 俺は白い板の中央に、寝台を一つ描いた。

 寝台には王が眠っている。

 暗闇から弟が忍び寄り、その耳へ黒い雫を垂らしている。

 広間の空気が凍った。

 俺はさらに、王冠を奪う手、泣く王妃、雪の中を赤子を抱いて逃げる侍女を描いた。

 最後に、絵の隅へ一匹の犬を描いた。

 ヘピスが一声吠えた。

 すると絵の中の人物たちが動き始めた。

 眠る王が痙攣し、弟が王冠をかぶり、王妃が悲鳴を上げた。絵の中の赤子は銀札を握っていた。

 国王キュカイが立ち上がった。

「やめろ!」

 俺は筆を止めた。

「何をでしょう、陛下。これはただの想像です」

「その絵を焼け!」

「ただの想像にしては、ずいぶん詳しい反応ですね」

 ざわめきが広がる。

 王妃が震える声で言った。

「その札を……見せて」

 俺が銀札を掲げる。

 王妃は玉座から降り、俺の頬へ手を伸ばした。

「オルク……」

 それが俺の本当の名らしかった。

 キュカイが王妃の腕をつかむ。

「惑わされるな! こやつは王家を騙る詐欺師だ!」

「では宝物庫を調べましょう」

 俺は言った。

「冥府草の毒瓶が見つからなければ、俺の首を差し上げます」

 広間の全員が息を呑んだ。

 俺は続けた。

「ただし見つかったら、陛下の首をいただく。公平でしょう?」

 王は笑った。

 笑いながら、腰の剣を抜いた。

「調べるまでもない」

 刃が王妃の胸を貫いた。

 血が白い床へ落ちた。

 俺の中で何かが切れた。

 鈴ではなかった。

 十五年間、笑ってごまかし、勝ったことにし、負けを飲み込み続けてきた、その袋の底が破れた音だった。

 王妃は俺を見た。

「生きて……」

 それだけ言って倒れた。

 俺は彼女を抱き止めた。

 母と呼ぶ暇もなかった。

 キュカイが剣を振り上げる。

「王子を名乗る犬め。ここで死ね」

 俺は静かに王妃を床へ横たえた。

「俺はずっと、負けたのではなく譲ってやったのだと思ってきた」

 胸の奥で、無数の鈴が鳴り始めた。

「殴られても、飢えても、笑われても、奪われても。そう思わなければ、朝まで生きられない日があったからだ」

 ちりん、ちりん、ちりん。

 広間の窓が震えた。

「だが、おまえは間違えた」

 俺は王を見た。

「俺の負けを、おまえの勝ちだと思った」

四 精神勝利、徴収

 キュカイの剣が俺の首へ落ちた。

 刃は皮膚に触れる寸前で止まった。

 俺は二本の指で剣を挟んでいた。

「な――」

「軽いな。王冠も剣も、中身のない男が持つと軽くなるらしい」

 指をひねる。

 王家伝来の剣が、飴細工のように砕けた。

 近衛兵百人が一斉に槍を構えた。

 将軍が叫ぶ。

「反逆者を討て!」

「反逆者?」

 俺は床に落ちていた木炭を拾った。

「違う。俺は絵描きだ」

 白い大理石へ、一本の黒い線を引く。

「絵描きに、線で挑むな」

 線が立ち上がった。

 黒い壁となって槍を受け止め、そのまま波のように広間を走る。近衛兵たちは鎧ごと宙へ舞い、天井の梁へ一列に引っかかった。

 誰も死んではいない。

 下着だけが見事に露出していた。

「降伏する者は?」

 百本の手が上がった。

 宮廷魔術師七人が呪文を唱えた。

 火炎の獅子、氷の竜、雷の鷲が現れる。

 俺は板絵の隅に描いた犬へ指を向けた。

「ヘピス、晩飯だ」

 現実のヘピスが大きく吠えた。

 絵の中の犬が飛び出した。

 それは大聖堂の塔より巨大な灰色の猟犬となり、火炎の獅子をひと飲みにし、氷の竜を骨のように噛み砕き、雷の鷲を追い回した。

 現実のヘピスは、その足元で尻尾を振っていた。

「おまえ、あんなに強かったのか」

「わふ」

「俺も知らなかった」

 宮廷魔術師たちは杖を捨てた。

 染料商組合長ファンデルが、床を這って逃げようとした。

「どちらへ?」

「わ、私は最初から殿下の才能を見抜いておりました!」

「だから決勝へ?」

「さようでございます!」

「では褒美をやろう」

 俺は彼の上着へ指で円を描いた。

 衣服が染料樽へ変わり、組合長は頭から青く染まった。

「おまえの大好きな本物の青だ」

 貴族たちは我先にひざまずいた。

「オルク殿下、万歳!」

「正統なる王子に忠誠を!」

「暴君を倒せ!」

 ついさっきまで俺を笑っていた口が、今度は俺を褒めたたえる。

 人間の舌は便利だ。

 骨がないから、どちらへでも曲がる。

 キュカイは王妃の血を踏みながら後ずさった。

「化け物め」

「その言葉は聞き飽きた」

「王になれると思うな! 民はおまえのような卑しい乞食に従わぬ!」

 広間の外から、轟音が響いた。

 窓を開けると、王宮前の広場を市民が埋め尽くしていた。公開競技会を見に来ていた者たちが、王の罪を聞きつけたのだ。

「暴君を倒せ!」

「王子を立てろ!」

「革命だ!」

 先頭で拳を振り上げていたのは、昨日俺の絵を踏んだヘンドリクだった。

「キュウは昔から俺の親友だ!」

 俺は窓から顔を出した。

「昨日、俺の絵を踏んだ親友が何か言っているぞ!」

 群衆がヘンドリクを殴り始めた。

「やめろ」

 俺が言うと、皆ぴたりと止まった。

「昨日まで王へひれ伏していた者が、今日から革命家を名乗るのは勝手だ。だが、新しい正義を手に入れたからといって、古い恨みを殴ってよいわけではない」

「では、どうしろと?」

 誰かが叫んだ。

「まず腹を満たせ。空腹の群衆は、王より残酷になる」

 俺は王宮の壁へ巨大な扉を描いた。

 扉が開く。

 王家の穀物庫へ通じていた。

 山のような小麦、干し肉、チーズ、葡萄酒。

 飢饉だと言われ、税を倍にされていた冬に、王宮はこれだけの食料を隠していた。

 群衆の怒号が地鳴りになった。

 キュカイは顔を覆った。

「違う。これは国を守るための備蓄だ」

「民が死んだ後、何を守る?」

 俺は王の前へ歩いた。

 彼は短剣を抜き、自分の喉へ当てた。

「近寄るな! 私は王だ!」

「知っている」

「王は裁かれぬ!」

「それも今日までだ」

 短剣を持つ手が震えた。

 俺はその手をつかみ、ゆっくり下ろさせた。

「殺せ」

 キュカイが言った。

「兄の仇を討て。母の仇を討て。それでおまえは王になれる」

 大聖堂で見た亡霊の声が、耳の奥によみがえった。

 復讐せよ。

 血を継ぐ者よ。

 俺は拳を握った。

 そのとき、ヘピスが俺の裾をくわえて引いた。

 王妃が、かすかに息をしていた。

 俺はキュカイを放り出し、母のもとへ駆けた。

「医者!」

「殿下、まず王を――」

「王冠より命が先だ!」

 俺の叫びに、群衆も兵も貴族も動いた。

 その一瞬だった。

 広間のすべての鏡が黒く染まった。

五 亡霊の王冠

 鏡の中から、先王オルディン二世が現れた。

 大聖堂で見たときより巨大だった。

 無数の黒い腕が外套の下でうごめき、割れた王冠から煙が立ち上っている。

『よくぞ仇を追い詰めた、我が息子よ』

「母を助けろ」

『まず簒奪者の首を刎ねよ』

「治癒の魔法は使えるのか」

『王の命令に従え!』

 空気が凍った。

 俺は亡霊を見上げた。

「その言い方、キュカイに似ているな」

『何だと』

 王妃が苦しげに目を開いた。

「オルディン……やめて……」

 亡霊が彼女を見た。

『ティアム。裏切り者め』

「私は……あの子を逃がした。あなたが、予言を恐れて……自分の子を殺そうとしたから」

 広間が静まり返った。

 俺は母を見た。

「どういうことだ」

「この国には古い予言があったの。『雪の夜に生まれた王子が、王冠を終わらせる』と。オルディンはあなたを恐れた。殺すよう命じたのは……最初は、父王だった」

 亡霊の顔が裂けるように歪んだ。

『国を守るためだ! 王冠がなくなれば秩序は崩れる!』

「それでキュカイが兄を殺したのか」

 床に転がっていたキュカイが笑った。

「兄が赤子を殺すと知り、止めようとした。だが王位を奪った後、私は兄と同じになった。王冠には、そうさせる力がある」

 亡霊の黒い腕が伸び、キュカイの首をつかんだ。

『黙れ!』

 ヘピスが飛びつき、黒い腕へ噛みついた。

 亡霊が絶叫する。

『畜生が!』

 ヘピスは離れなかった。

「よくやった、ヘピス!」

『我が血を継ぐ者よ! 簒奪者を殺し、王冠をかぶれ! 我をその身へ迎え入れよ!』

 祭壇画、鏡、金貨、剣、貴族たちの指輪。

 王家の紋章が刻まれたすべてのものから黒い霧が噴き出した。

 霧は広間の中央へ集まり、巨大な王冠を形作る。

 王冠の内側には、歴代の王たちの顔が浮かんでいた。

 笑う顔。

 怒る顔。

 泣く顔。

 誰もが同じ言葉を叫んでいる。

 従え。

 奪え。

 支配せよ。

 俺は理解した。

 この国の「王権」とは、代々の王がため込んだ勝利そのものだった。

 誰かをひざまずかせ、誰かから奪い、誰かを敗者にするたび、王冠は強くなった。

 俺の精神勝利法と似ている。

 だが正反対だ。

 俺の力は、負けを生き延びるためのものだった。

 王冠の力は、他人を負かして自分だけが生き残るためのものだった。

『さあ、選べ』

 亡霊が両腕を広げた。

『王になるか、ここで無名の乞食として死ぬか』

 貴族たちが叫んだ。

「王冠をお取りください!」

「正統なる血を!」

「殿下が王になれば、国は救われます!」

 広場の民衆も唱和する。

「新王万歳!」

「オルク王万歳!」

 昨日まで俺を知らなかった者たちが、俺の名を叫ぶ。

 俺を助けなかった者たちが、俺に救いを求める。

 王になれば、すべてを変えられるかもしれない。

 貧しい者にパンを配れる。

 孤児に家を与えられる。

 芸術を金持ちだけのものではなくせる。

 そして何より、もう二度と誰にも見下されない。

 その考えは、甘かった。

 飢えた夜に嗅いだ焼きたてのパンより甘かった。

 俺は黒い王冠へ手を伸ばした。

 亡霊が笑った。

 ヘピスが、くうん、と鳴いた。

 俺は手を止めた。

 ヘピスの目には、雪の広場で絵を踏まれていた昨日の俺が映っていた。

 王冠をかぶれば、俺は勝者になる。

 そして勝者になるためには、誰かを敗者にし続けなければならない。

 俺が十五年間憎んできたものに、俺自身がなる。

「父上」

『そうだ。我が息子よ』

「俺は王子をやめる」

 亡霊の笑みが消えた。

『何?』

「王位もいらない。復讐もいらない。正統な血とやらも、好きに雪へ捨てろ」

 貴族たちが悲鳴を上げた。

「殿下、お考え直しを!」

「国が乱れます!」

「おまえたちは王が必要なのではない。自分で決めた責任を押しつける相手が必要なだけだ」

 群衆へ向き直る。

「俺を王にすれば、明日から俺の悪口を言うだけで済む。税が高いのも、パンがないのも、隣人を殴ったのも、全部王のせいにできる。そんな便利な王にはならない」

『愚か者!』

 亡霊が黒い腕を振り下ろした。

 俺は受け止めなかった。

 胸を貫かせた。

 冷たい闇が背中から抜けた。

 誰かが叫ぶ。

 ヘピスが吠える。

 俺は血を吐きながら笑った。

「これで、俺の負けだ」

 ちりん。

 鈴が一つ鳴った。

 今までで最も澄んだ音だった。

「王冠を捨て、父に背き、復讐を諦め、国中の期待を裏切り、命まで失う。これ以上の敗北はない」

 俺の胸の銀札が砕けた。

 十五年間に積み上げたすべての鈴が、一斉に鳴った。

 殴られた日。

 飢えた夜。

 追い出された朝。

 絵を踏まれた雪。

 母と呼べなかった女の血。

 敗北が光になった。

「だから――」

 俺は亡霊の腕をつかんだ。

「この勝ちは、誰にもやらない」

 黒い腕を引き抜く。

 傷口から血ではなく、青い絵具があふれた。

 俺はその青で空中へ一本の線を描いた。

 地平線。

 線の上へ太陽を描く。

 その下へ町を描く。

 王宮のない町を。

 玉座のない広場を。

 大聖堂の扉が開き、誰でも名画を見られる町を。

 孤児と犬が、追い出されずに眠れる町を。

「完成だ」

 絵が現実を塗り替えた。

 黒い王冠に亀裂が走る。

 歴代の王たちが叫ぶ。

『やめろ! 王冠がなければ国は滅ぶ!』

「それは国ではない。おまえたちの椅子だ」

 俺は木炭を振り下ろした。

 王冠が砕けた。

 衝撃は王宮を突き抜け、町を走り、国中へ広がった。

 領主の印章が割れた。

 農奴契約の鎖が外れた。

 貴族だけに従う魔法が消えた。

 王家の血を証明する紋章は、ただの古い模様になった。

 亡霊オルディンは霧の中で縮んでいった。

『我は王だ……』

「もう違う」

『では、我は何だ』

「息子を怖がった、ただの父親だ」

 亡霊は初めて、王ではない顔をした。

 疲れ果てた、一人の男の顔だった。

『……すまなかった』

 その言葉が本心だったかは分からない。

 だが俺はうなずいた。

 許したわけではない。

 亡霊を背負って生きないと決めただけだ。

 父は朝霧のように消えた。

 俺は床へ倒れた。

 巨大な絵の犬も消え、ただの老犬に戻ったヘピスが、俺の顔を舐めた。

「やめろ。絵具が落ちる」

「わふ」

「そうだな。落ちてもいいか」

 遠くで朝の鐘が鳴っていた。

六 王のいない朝

 目を覚ますと、俺は大聖堂の祭壇前に寝かされていた。

 隣にはヘピス。

 反対側には王妃ティアム。

 彼女は生きていた。

 宮廷医師によれば、剣は心臓をわずかに外れていたらしい。俺が生み出した青い絵具が傷を塞いだとも言われたが、俺は覚えていない。

「母上」

 そう呼ぶと、彼女は泣いた。

 俺も少し泣いた。

 ヘピスは大いびきをかいていた。

 キュカイは裁判にかけられた。

 群衆は処刑を求めたが、俺は反対した。

「首を落とせば、一日で終わる。働かせろ」

 かつての王は、王宮の穀物を各地へ運び、飢饉で壊れた橋と家を直す仕事に就いた。

 初日、彼は手に豆を作った。

 二日目、腰を痛めた。

 三日目、「死刑のほうがましだ」と言った。

 だから俺の判断は正しかった。

 王国はなくなった。

 代わりに各町の代表が集まる評議会ができた。

 評議員たちは初日から議席の位置で三時間もめ、二日目には昼食の献立で対立し、三日目には俺を終身議長にしようとした。

 俺は断った。

「自分たちで決めろ」

「しかし責任者が必要です」

「では一週間ずつ交代しろ。責任が好きなら平等に分けろ」

 評議員たちは青い顔をした。

 革命とは、悪い王を倒せば終わるものではない。

 王がいない朝に、自分で起きるところから始まる。

 王立絵画競技会の結果は、しばらく忘れられていた。

 一月後、審査員たちが俺を訪ねてきた。

「優勝はキュウ殿に決まりました」

「失格ではなかったのか」

「作品が王権制度そのものを消滅させた芸術家は史上初ですので」

「審査基準が広すぎる」

 賞金は金貨百枚だった。

 俺は半分で、聖アウレリア大聖堂の隣に小さな工房を建てた。

 残り半分で、冬のあいだ誰でも食べられる食堂を作った。

 工房の名は《青空画室》

 金のない子どもにも絵具を渡した。

 貴族の子にも、商人の子にも、孤児にも同じ椅子を使わせた。

 最初の課題は「王の栄光」ではなく、「自分が今日見たもの」だった。

 ある子は泥だらけの靴を描いた。

 ある子は母親の手を描いた。

 ある子は空っぽの皿を描いた。

 どれも王冠よりよかった。

 ヘンドリクも来た。

「弟子にしてくれ」と頭を下げた。

「断る」

「なぜだ!」

「おまえは昨日まで青を値段で見ていた」

 彼は唇を噛み、帰ろうとした。

「だが、床掃除なら空いている」

 振り返った顔は、怒っているのか喜んでいるのか分からなかった。

 三年後、ヘンドリクは子どもたちに絵具の作り方を教える、なかなか悪くない職人になった。

 人は変わる。

 変わらない者もいる。

 だから社会は面倒なのだ。

 ヘピスは工房の入口で毎日眠った。

 以前より歩くのが遅くなり、荷車は引けなくなったが、子どもが泣くと必ずそばへ行った。誰かが俺の絵を悪く言うと、昔と同じようにその尻を噛んだ。

 ある冬の朝、ヘピスは俺の膝へ頭を乗せたまま、静かに息を引き取った。

 雪が降っていた。

 俺は何日も絵を描けなかった。

 精神勝利法も使えなかった。

 死を「勝ち」に言い換えることはできない。

 悲しみを負け惜しみで塗り潰せば、ヘピスと過ごした時間まで嘘になる気がした。

 だから俺は、ただ負けた。

 泣いて、眠って、また泣いた。

 春になって、ようやく一枚の絵を描いた。

 雪解けの朝。

 運河沿いを歩く母子。

 その少し前を、大きな灰色の犬が歩いている。

 空は、あの日より青く描けた。

 絵を大聖堂へ飾ると、人々は傑作だと言った。

 王冠を砕いた絵より素晴らしい、と。

 俺には分からなかった。

 ただ、ヘピスなら絵の値段など気にせず、額縁の角をかじっただろうと思った。

 その夜、祭壇画の前で一人になった俺は、ふと胸の奥に耳を澄ませた。

 鈴の音はしなかった。

 もう誰かに見下されるたび、無理に勝ったことにしなくてもよかった。

 負けた日は負けたと言える。

 痛い日は痛いと言える。

 助けてほしい日は助けてほしいと言える。

 それは王冠より強い力だった。

 俺は祭壇画の王へ背を向け、大聖堂の扉を開けた。

 朝の広場では、子どもたちが待っていた。

「先生、今日は何を描くの?」

 俺は青く晴れた空を見上げた。

「好きなものを描け」

「上手に描けなかったら?」

「そのときは負ければいい」

「負けていいの?」

「ああ。負けたあとにも、紙は残る」

 子どもたちは笑って走り出した。

 俺も歩き出した。

 王子ではなく。

 英雄でもなく。

 世界最強の何者かでもなく。

 ただの絵描きとして。

 俺は王冠を失い、復讐を捨て、犬にも先立たれた。

 つまり、また負けた。

 だから今度こそ、誰にも奪えないほど勝っていた。

(了)