『放課後騎士と鏡裏校舎の不正解姫』
放課後の校内放送が「本日の落とし物」を告げるより先に、鏡が僕の名を呼んだ。
「鷹司騎士。汝は嘘つきである」
旧講堂の化粧鏡は、百年前の卒業生が寄贈したという大物だ。黒ずんだ銀の縁には、葡萄とも蛇ともつかない彫刻が絡みつき、鏡面には年中うっすら霧がかかっている。
そんな由緒正しい鏡に名指しで非難されたので、僕は礼儀正しく一礼した。
「ご指摘、痛み入る。しかし僕は騎士だ。嘘はつかない」
「では、昨日、西園寺菫に『その髪型は地上のあらゆる王冠より美しい』と言ったのは真実か」
「真実だ」
「砥上珠緒に『君の寝癖は夜明けの稲妻のようだ』と言ったのは」
「それも真実だ」
「購買の焼きそばパンに『また会おう』と言ったのは」
「固い誓いだ」
鏡はしばらく黙った。たぶん、僕の誠実さに胸を打たれたのだろう。
次の瞬間、鏡の中から白い翼が飛び出し、僕の頭から羽根飾りをさらっていった。
「待て! それは我が騎士道研究会の正装――」
白いカラスだった。
黒い目、白いくちばし、雪のような羽。常識だけを反転させたような鳥が、旧講堂の扉をすり抜ける。僕は腰の模造剣を押さえ、追いかけた。
私立天秤坂学園三年、鷹司騎士。十八歳。
名前の読みは「ないと」だ。両親は冗談半分でつけたらしいが、名は人生の予告編である。僕は入学初日に「校内騎士道研究会」を設立し、迷子を案内し、重い荷物を運び、廊下を走る者には優雅な早歩きを勧め、雨の日には傘を忘れた者を正門まで送ってきた。
部員は僕ひとり。
ただし、全校生徒を守る対象と数えるなら、実質六百二十三人の大所帯だ。
白いカラスは舞台袖へ消えた。
追って暗幕をめくると、そこにあるはずの壁がなかった。
代わりに、果てしなく長い廊下が伸びていた。
床は天井へ向かって下り、窓の外では雨粒が空へ落ちている。左右に並ぶ教室札は「三年一組」「三年一組の昨日」「まだ存在しない三年一組」と続き、突き当たりの標識にはこう書かれていた。
《直進禁止。曲がることも禁止。立ち止まった者は遅刻とみなす》
「校則として破綻しているな」
「破綻しているから怪異になるのよ」
背後から声がした。
砥上珠緒が、僕の羽根飾りを手に立っていた。
肩までの黒髪は片側だけ跳ね、制服の胸ポケットには赤鉛筆が七本。いつも通り、世界に対して三分ほど寝不足そうな目をしている。
「珠緒。僕の羽根を取り戻してくれたのか」
「床に落ちていたから拾っただけ」
「運命の贈り物だ」
「落とし物よ」
彼女は校史編纂委員であり、学園内の怪談を訂正して回る「校則校正係」でもある。正式な役職ではない。だが、壁に増えた十三段目の階段を十二段へ戻し、誰もいない音楽室で勝手に留年判定を出すピアノを黙らせた実績がある。
本人いわく、怪異とは「現実に入り込んだ悪文」らしい。
「怪異は文章の癖が悪いの。主語を大きくし、因果を飛ばし、結論だけ派手にする。だから赤を入れる」
「剣より赤鉛筆が強いと?」
「少なくとも、あなたの剣は舞台用のアルミ合金でしょう」
「軽さは速さだ」
珠緒は僕の羽根飾りを胸に押しつけ、廊下の奥を見た。
「鷹原灯が消えた」
冗談の余地が消えた。
鷹原灯は生徒会書記で、西園寺菫会長の右腕だ。学園祭〈天秤祭〉を翌日に控え、誰より忙しいはずの彼女が、午後六時二十分ごろ、旧講堂で姿を消した。
その少し前、午後六時十三分に、生徒会室の金庫から現金三十万円がなくなった。
監視映像には、菫会長らしき人物が金庫を開ける姿が映っていた。
そして今朝、校内すべての鏡に赤い文字が浮かんだ。
《王冠を持つ嘘つきが、金を盗み、書記を消した》
王冠を持つ者。
明日の開会式で、銀のティアラを戴く生徒会長。
「菫が疑われているのか」
「疑われている、で済めばよかった。噂が早すぎる。もう半分の生徒が『会長が灯を口封じした』と言ってる」
「残り半分は?」
「『灯が会長を脅して金を持ち逃げした』」
「人はどうして、証拠がないときほど筋書きを豪華にするんだ」
「退屈だから」
珠緒は赤鉛筆を一本抜き、標識の《直進禁止》に二本線を引いた。
文字が悲鳴をあげた。
廊下が紙のように折れ、僕らの足元へ旧講堂の床が戻ってくる。
「いまの廊下は?」
「鏡の裏側。噂が校舎を食べ始めてる」
「白いカラスは」
「たぶん案内役。あるいは野次馬。怪異の鳥はだいたい性格が悪い」
白いカラスは舞台の照明桟に止まり、くちばしで僕の方を指した。
「騎士、裁判へ来い」
「鳥が喋った」
「そこに驚くのね」
「白いカラスまでは自然の個性として受け入れていた」
カラスは首を一回転させた。
「午後十一時十三分、鏡裏校舎にて赤点裁判を開く。被告、西園寺菫。罪状、窃盗、失踪、虚偽。弁護人、砥上珠緒。護衛、鷹司騎士」
「本人の同意は?」
「正しい者に同意はいらぬ。不正解に発言権はない」
珠緒の目が細くなった。
「最悪の規則ね」
「欠席したら?」
「有罪」
「出席したら?」
「たぶん有罪」
「では、やるしかないな」
「あなた、その結論に行くまでが速すぎるのよ」
午後九時。
生徒会室には、嵐の前の船室のような緊張が詰まっていた。
西園寺菫は長机の中央に座り、両側に並ぶ委員たちを睥睨していた。腰まで届く黒髪、まっすぐな背、指先まで隙のない所作。明日の開会式用の銀のティアラが机上に置かれ、蛍光灯の下で冷たく光っている。
彼女は怒っていた。
菫が静かなほど、周囲はよく冷える。
「鷹司。扉を閉めなさい」
「御意」
「御意ではない。あなたは私の家臣ではないでしょう」
「心は自由契約だ」
「解約するわ」
珠緒が監視映像をノートパソコンで再生した。
午後六時十三分。画面には鏡張りの渡り廊下が映っている。赤いマントを羽織った人物が生徒会室へ入り、数分後、封筒を抱えて出てくる。
顔は髪とマントの襟に隠れていたが、背格好は菫によく似ていた。
「会長。この時間、どこにいたの」
「開会式の原稿を確認していた。第二会議室で」
「証人は」
「いない」
「金庫の鍵は」
「私が持っていた」
「ずっと?」
「ずっとよ」
珠緒は映像を止めた。
菫の返答に、一拍だけ空白があった。
「嘘ね」
「砥上さん」
「責めてるんじゃない。位置を確認してるだけ。嘘は事実の反対じゃない。事実の一部を隠す道具よ」
委員たちがざわめいた。
菫はしばらく珠緒を見つめ、やがて吐息を落とした。
「鍵は、午後五時四十分に灯へ預けた。そのまま戻っていない」
「理由は」
「答えられない」
「灯が三十万円を出した?」
「答えられない」
「あなたの指示?」
「答えられない」
沈黙は、どんな告白より雄弁に聞こえることがある。
委員たちの顔に疑いが広がった。
僕は机を叩いた。
「待ってほしい。菫が答えないのは、答えられない理由があるからだ」
「鷹司、それは説明になっていない」
「だが、説明できないことと、罪を犯したことは同じではない」
「……それだけは、正しいわ」
菫は少しだけ目を伏せた。
珠緒が映像を拡大した。
渡り廊下の非常口表示が左右逆になっている。
「このカメラ、廊下を直接撮ってない。向かいの大鏡に映った像を撮ってる」
「それが?」
「マントの留め金を見て」
菫の開会式用マントは、金の留め金を左肩に留める特注品だ。
映像の人物も、画面上では左肩に留め金がある。
だが鏡像なら、本来は右肩に見えなければならない。
「つまり、着た本人は右肩に留めていた。あなたの衣装に慣れていない人間が、左右を間違えた」
「灯……」
菫の声が、初めて揺れた。
「映っているのは、おそらく鷹原灯。会長のマントを借りて金庫へ入った。ここまでは推測じゃなく、映像から読める」
「では、灯が盗んだのか」と会計委員が言った。
珠緒は赤鉛筆を机に置いた。
「そうやって一行でまとめた瞬間、怪異の文章になる」
彼女はホワイトボードに書いた。
〈灯が金庫から金を出した〉
〈三十万円が帳簿上なくなった〉
〈灯が消えた〉
「この三文の間には、接続詞がない。なのに皆、『だから』でつないだ。どうして『その後』『一方で』『そのため別件として』じゃないの?」
誰も答えなかった。
僕は菫を見た。
彼女の拳は膝の上で固く握られていた。
「菫。君は灯を信じているか」
「当たり前でしょう」
「ならば、僕も信じる」
「あなたは私を経由しないと人を信じられないの?」
「いや。君が信じる人を、君ごと信じる」
「……そういう台詞を真顔で言うから、あなたは信用しづらいのよ」
耳が少し赤かったので、たぶん完全な拒絶ではない。
そのとき、机上のティアラが音を立てた。
銀の輪の内側から、白いカラスがにゅっと顔を出す。
「開廷まで二時間。被告は王冠を戴け。弁護人は嘘を一つ用意せよ。騎士は首を洗え」
「最後だけ用途が違わないか」
「判決後に刎ねる」
「洗うのは首ではなく剣の方だろう」
「そこを議論しないで」
珠緒はティアラをつかみ、カラスごと机へ伏せた。
「鏡裏へ行く前に、旧講堂を調べる。灯が消えた場所はあそこ。金の行き先も、たぶん同じ場所にある」
「なぜそう思うの」と菫。
「監視映像の灯は、封筒を抱えて旧講堂の方向へ向かっている。それと、今朝から講堂の鏡だけ、赤い文字が左右反転していない」
「つまり?」
「向こう側から書かれた文字よ」
午後十時。
旧講堂は、学園祭の舞台装置で埋まっていた。
巨大な月、紙の森、竜の頭、海賊船の舵。明日上演される劇の小道具が暗闇に浮かび、懐中電灯の光を受けて、どれも半分だけ本物に見えた。
菫は制服の上から赤いマントを羽織り、ティアラを手にしている。被告の正装を拒めば、鏡が勝手に彼女の名を削るかもしれないと珠緒が言ったためだ。
僕は胸当てと籠手を装着した。文化祭劇で使う予定の騎士甲冑を、演劇部から正式に借りたものだ。
「鷹司、それで戦えるの?」
「見た目で半分勝てる」
「残り半分は?」
「気合い」
「戦術欄に書けない言葉ね」
珠緒は鏡の前にしゃがみ、床板を調べた。
細い擦り傷が、舞台袖から鏡まで続いている。
「重い物を引きずった跡だな」
「ええ。それと、木屑。新しい」
鏡の裏側を覗くと、壁との間に薄い隙間があった。僕ら三人で枠を押す。ぎしりと音がして、鏡全体が扉のように開いた。
奥には、小さな空間が隠されていた。
巻き上げ機。
新品のワイヤー。
工具箱。
そして、工事業者の封筒。
珠緒が中の領収書を広げる。
《舞台上部吊り具・緊急交換費 金三十万円 前金受領》
日付は今日。受領時刻は午後六時十八分。
依頼者欄には、鷹原灯の署名があった。
「盗まれた金じゃなかった」と僕は言った。
「学園祭予備費を、安全工事の前金に使ったのね」と珠緒。
「私の指示よ」
菫が認めた。
「昼の点検で、吊り具に亀裂が見つかった。明日の劇を中止すれば混乱する。業者は夜間作業なら間に合わせられるが、前金が必要だと言った。正式な稟議を待つ時間がなかった」
「なぜ隠した」
「交換が終わるまで公表しないと灯と決めた。舞台の真下で準備している生徒が、危険を知って混乱しないように。今夜のうちに理事へ報告するつもりだった」
「監視映像で灯がマントを着ていたのは?」
「予備費を運ぶ姿を見られれば噂になる。私が堂々と運んだように見せれば、聞かれても会長権限で説明できると……灯が提案した」
「左右を間違えたけどね」
「本人は完璧な変装だと思っていたわ」
菫の口元が、ほんの一瞬だけゆるんだ。
すぐに消えた。
「では、なぜ灯は鏡へ?」
「工事の確認に来て、そのまま消えたのでしょう。私が到着したときには、彼女の手帳だけが落ちていた」
手帳の最後の頁には、乱れた字でこうあった。
《女王を信じるな。女王は正解しか信じない。》
《消えた名前は、鏡の向こう。》
《入るには、自分がいちばん言いたくない嘘を。》
その下に、一文。
《私は、この学校が大嫌い。》
僕は息を止めた。
鷹原灯は天秤坂学園が好きだった。
行事のたびに誰より早く来て、誰より遅く帰る。校舎の古い傷まで「先輩たちの署名みたい」と笑う。予算表の余白に、来年の学園祭案を書き込む。
その彼女が、鏡の前で学校を嫌いだと言った。
「嘘を鍵にして、自分から入ったのか」
「たぶん」と珠緒。「最近、名簿から名前が消える事件が三件あった。本人は在籍しているのに、部員名簿や座席表から文字だけなくなる。灯は調べてた」
「僕の研究会名簿は無事だろうか」
「最初から一人だから変化に気づきにくいわね」
「重大な構造的弱点だ」
鏡の中で、鐘が鳴った。
一度。
二度。
十一度目の後に、半端な音が十三回続いた。
鏡面が黒い水のように揺れ、白いカラスが浮かび上がる。
「時刻である。被告は王冠を。弁護人は赤を。騎士は――」
「首なら洗った」
「素直で不気味だな」
菫はティアラを戴いた。
珠緒は赤鉛筆を耳に挟んだ。
僕は模造剣を抜く。
「灯を連れ戻す。消えた名前もだ」
「裁判で勝てばね」と珠緒。
「負けたら?」
「規則を書き換える」
「それでも駄目なら?」
「あなたが何とかする」
「信頼が急に雑だな」
「騎士でしょう」
「任された」
僕らは鏡へ踏み込んだ。
鏡の向こうは、夜の校舎によく似ていた。
ただし、よく似ているだけで、何一つ正しくなかった。
下駄箱には靴の代わりに持ち主の足跡が収まり、黒板には明日の授業の反省文が書かれている。時計の長針と短針は互いを追いかけて文字盤から逃げ出し、廊下の窓の外では、校庭が空にぶら下がっていた。
階段を上ると地下へ着き、右へ曲がると自分の背後に出た。
案内役の白いカラスが、後ろ向きに飛ぶ。
「遅れるな。遅れた者は、来なかったことになる」
「来なかった者はどうなる」
「最初からいたことになる」
「出席簿が泣いているぞ」
「ここでは出席簿が生徒をつける」
実際、巨大な出席簿が廊下を歩いてきた。紙の脚を六本生やし、通りすがりのロッカーに赤い欠席印を押している。
珠緒が赤鉛筆を向けると、出席簿は小さく舌打ちして道を譲った。
理科室では、ビーカーの中で疑問符が煮えていた。
美術室では、石膏像が互いの顔を描き直していた。
食堂では、空の椅子たちが「誰が座るにふさわしいか」を議論し、全員一致で机を退席処分にしていた。
「ここは何なんだ」と僕。
「学校で口にされた、答えの出なかった質問の捨て場」と白いカラス。
「捨てられた質問は腐る。腐った質問は、正解を欲しがる。正解を一つ得れば安心する。誰かを悪者にすれば、もっと安心する」
「君は女王の味方か?」
「私は白いカラスだ。白黒を決める者のそばにいる」
「便利な中立だな」
「鳥に倫理を求めるな。餌をよこせ」
僕はポケットのビスケットを渡した。
カラスは一口かじり、顔をしかめた。
「湿気ている」
「非常食に味を求めるな」
やがて僕らは体育館へ着いた。
扉の上には《赤点裁判所》の札。
中へ入ると、床一面が方眼紙になっていた。観客席には、顔の代わりに答案用紙をつけた生徒たちが並ぶ。名前欄だけが空白だ。
壇上には巨大な鏡の玉座。
そこに、少女の形をした何かが座っていた。
制服に似た黒いドレス。
髪は何百本もの赤鉛筆。
顔は白紙で、目の位置に丸が二つ、口の位置に大きな×が一つ書かれている。
右手には採点用の赤ペン。
左手には、名前を綴じた名簿。
「採点姫」と珠緒が呟いた。
玉座の脇に、鷹原灯がいた。
透明な板の中へ押し込められ、まるで鏡に描かれた人物のように動けない。けれど意識はある。僕らを見て、目を見開いた。
「灯!」と菫が叫ぶ。
採点姫の顔に、赤い丸が浮かんだ。
「私語。減点一」
「彼女を返しなさい」
「被告に命令権なし」
「ならば生徒会長として――」
「ここに生徒会はない。あるのは正解と不正解だけ」
赤ペンが振られ、空中に文字が現れた。
《問一 王冠を持つ者は金を盗んだか》
観客席の答案たちが、いっせいに「はい」と囁いた。
「異議」と珠緒。
「弁護人、解答を」
「いいえ。三十万円は舞台吊り具の交換費として正当に支払われた。領収書もある」
「王冠を持つ者が、金庫から金を出した」
「映像の人物は鷹原灯。会長のマントを左右逆に着ていた。鏡像の方向から判断できる」
「鷹原灯は王冠のそばにいた」
「『王冠を持つ者』と『王冠のそばにいた者』は違う。主語をすり替えないで」
珠緒が赤鉛筆で空中の問いに線を引いた。
《王冠を持つ者》の文字が崩れ、《王冠の衣装を借りた者》へ直る。
観客席がざわめいた。
採点姫の顔に、初めて小さな亀裂が走った。
「問一、採点保留」
《問二 西園寺菫は嘘をついたか》
菫はまっすぐ前を見た。
「ついたわ。鍵をずっと持っていたと嘘をついた。支出を知らないふりもした」
「理由は」
「灯を守るため。安全工事が終わる前に騒ぎを起こしたくなかった」
「嘘は嘘。×」
「嘘が悪い結果を生んだことは認める。でも、嘘をついたことと、金を盗んだことは同じではない」
菫はティアラを外し、壇上へ置いた。
「王冠が罪の証拠なら、返すわ。私は肩書きで正しくなるつもりはない」
観客席の答案用紙が、かすかに揺れた。
名前欄の空白に、薄い線が戻り始める。
採点姫の赤ペンが強く光った。
「問二、西園寺菫は嘘つき。よって罪人」
「その『よって』が間違い」と珠緒。
「嘘つきは罪人」
「では、嘘を一度でもついた者は全員、盗人なの?」
「嘘つきは罪人」
「子どもに『注射は痛くない』と言った医師も?」
「嘘つきは罪人」
「舞台に立って、架空の人物を演じた役者も?」
「嘘つきは罪人」
「自分は平気だと言って、怖い友達の隣に立つ人も?」
珠緒が僕を見た。
なぜ見る。
「鷹司騎士。あなたはいま怖い?」
「怖くない」
「嘘」
「即答だな」
「膝の金具が鳴ってる」
「これは武者震いだ」
「同義よ」
採点姫が赤ペンを僕へ向けた。
「鷹司騎士、嘘つき。罪人」
「なるほど。僕も被告席か」
「鷹司、余計なことを言わないで」と菫。
「だが、正直に怖いと言えば、灯を助けに来た君たちまで不安にする。僕は君たちの前では、怖くない騎士でいたい」
「格好つけ」
「騎士の職務だ」
菫は呆れた顔をした。
その横で、珠緒がほんの少し笑った。
採点姫の顔の×が歪む。
「嘘は不正解。不正解は消去」
「あなたは、正解と善を混同している」と珠緒は言った。「事実に合う答えが、いつも人を救うとは限らない。事実に合わない言葉が、いつも人を傷つけるとも限らない」
「採点不能。設問を変更」
空中の文字が燃え、新たな問いが現れた。
《問三 鷹原灯は、自ら鏡へ入ったか》
「はい」と珠緒。
「ならば失踪は自業自得」
「いいえ」
「矛盾。弁護人失格」
「自分で入ったことと、閉じ込めてよいことは別。彼女は消えた名前を戻しに来た。あなたに奪われた生徒たちの名前を」
「名前は不正解者から回収した」
「誰が不正解だと決めたの」
「私」
「あなたが正しいと、誰が決めたの」
「私」
「循環論法」
珠緒の赤鉛筆が走った。
空中に大きな赤い輪が描かれ、採点姫の二つの発言をぐるりと囲む。
採点姫の玉座が軋んだ。
観客席の答案たちが、初めて顔を上げる。
「私は正解。正解だから私」
「文章としても落第ね」
珠緒が言い切った瞬間、体育館の扉という扉が開いた。
廊下から無数の鏡が滑り込み、壁、床、天井を埋めていく。
鏡には、それぞれ違う僕らが映っていた。
笑っている菫。
泣いている珠緒。
逃げ出した僕。
灯を見捨てた僕ら。
灯を救えた僕ら。
明日、学園祭が成功する世界。
舞台装置が落ち、誰かが怪我をする世界。
噂が消える世界。
噂だけが残る世界。
「可能性は雑音」と採点姫。
「答えは一つ。正しい筋書きは一つ。犯人は一人。罰は一つ。そうでなければ、人は安心できない」
赤ペンが振り下ろされる。
鏡の中の無数の僕が、いっせいに×印で消された。
「鷹司!」と誰かが叫んだ。
足元が抜けた。
僕は方眼紙の底へ落ちながら、鏡の中の自分たちを見た。
逃げる僕。
怯える僕。
格好をつける僕。
誰も守れない僕。
採点姫の声が降ってくる。
「問四 鷹司騎士は、本物の騎士か」
答えは、簡単だった。
簡単だからこそ、怖かった。
僕は剣の柄を握った。
「いいや」
落下が止まった。
菫も、珠緒も、採点姫も黙った。
「僕は騎士ではない。爵位もなければ、主君も領地もない。剣術大会では一回戦敗退。甲冑は借り物。研究会の部員は一人。誰かを必ず守れるほど強くもない」
「ならば不正解」
「それでも、騎士であろうとすることはできる」
僕は剣を床へ突き立てた。
アルミ合金の刃が、方眼紙を破る。
「本物か偽物か、おまえの二択では決めさせない。名前に追いつく途中だ!」
破れ目から風が噴き上がった。
僕は剣を支点に跳び、壇上へ戻る。着地は失敗し、甲冑が盛大に鳴ったが、勢いは保った。
「採点姫! 決闘を申し込む」
「設問外」
「ならば設問にしろ。問五――」
僕は体育館じゅうの鏡を指した。
「この中で、最初の鏡はどれだ?」
採点姫の顔が真っ白になった。
壁の鏡が床の鏡を映し、床の鏡が天井を映し、天井が壁を映している。映像は互いの中へ無限に続き、どれが元でどれが写しなのか、境目がない。
「最初は……正面の鏡」
「その正面の鏡は、背後の鏡に映っている」
「背後が写し」
「背後から見れば正面が写しだ」
「観測者を固定せよ」
「観測者も鏡に映っているぞ。どの僕が本物だ?」
採点姫の赤鉛筆の髪が、一本ずつ折れ始めた。
「正解は一つ」
「では答えろ」
「正解は一つ」
「どれだ」
「正解は――」
白いカラスが、玉座の上へ舞い降りた。
「採点時間、終了」
くちばしで赤ペンをつつく。
赤ペンが床へ落ちた。
珠緒が飛び込み、それを拾った。
「規則を訂正する」
彼女は空中の《不正解は消去》に、太い二本線を引いた。
代わりに書く。
《不正解は、再考》
文字が輝いた。
体育館が大きく揺れる。
観客席の答案用紙が次々と剥がれ、その下から生徒たちの顔が現れた。名簿から消えていた三人だ。誰も傷ついていない。ただ、長い夢から覚めたように瞬きをしている。
灯を閉じ込めた透明板にも、亀裂が走った。
菫が駆ける。
僕も向かおうとしたが、採点姫が最後の力で赤い線を放った。
「設問を壊す者は、全員不正解!」
僕は盾を構えた。
だが舞台用の盾は薄い合板で、赤い線は簡単に貫いた。
その前へ、菫がティアラを投げた。
銀の輪が赤線を反射し、天井の鏡へ飛ばす。鏡から鏡へ、赤線が跳ね返る。無数に分かれた線は、採点姫自身を取り囲んだ。
「会長権限を返上したのでは?」
「これは王冠ではないわ」
菫は言った。
「灯を迎えに行くための、ただの輪よ」
灯の板が砕けた。
菫が彼女を抱きとめる。
「会長、ごめんなさい」
「謝罪は後。説教はもっと後」
「それ、助かったってこと?」
「書記なら文脈を読みなさい」
灯は泣きながら笑った。
採点姫は赤い線の檻の中で、白紙の顔を歪めていた。
「正解がなければ、何を信じる」
「証拠」と珠緒。
「一度に全部は分からない」
「だから確かめる」
「答えが複数なら、争いが起きる」
「一つに決めつけても起きる」
「不安は消えない」
「消さなくていい」
珠緒は折れた赤鉛筆を、採点姫へ差し出した。
「不安は、考え続けるためにある」
採点姫は鉛筆を見た。
白紙の顔に、初めて小さな点が二つ現れた。目のようにも、句点のようにも見えた。
「再考……とは」
「もう一度、読むこと」
「二度目も間違えたら」
「三度目を読む」
「終わらない」
「それが普通よ」
採点姫の体が、細かな赤い文字へほどけていく。
文字は鏡へ吸い込まれ、最後に一枚の白紙だけが残った。
白いカラスが白紙をくわえる。
「判決。全員、保留」
「無罪ではないのか」と僕。
「生きている者に最終判決は早い」
カラスはそう言い、今度は僕の模造剣をくわえて飛び去った。
「待て! それは借り物だ!」
追いかけた瞬間、体育館の床が裏返った。
気がつくと、旧講堂の床に四人で転がっていた。
時計は午後十一時十四分。
鏡裏であれだけ長く過ごしたのに、こちらでは一分しか経っていない。
僕の上には菫、その上には灯、さらに珠緒が折り重なっていた。全員無事である。ただし僕の胸当ては、三人分の重みを騎士道的に受け止めてへこんでいた。
「鷹司、変なところを触ったら退学よ」と菫。
「両手は床だ」
「なら何が私の腰に」
「剣の鞘だ」
「紛らわしい装備をするな!」と三人が同時に叫んだ。
僕は反省し、鞘を外した。
剣本体は白いカラスに盗まれたままだった。
灯の証言と領収書により、三十万円の使途は確認された。
夜間工事は午前二時に完了。
消えていた三人の名前も、名簿と座席表へ戻った。本人たちは「答案用紙の夢を見ていた」と話したが、詳しいことは覚えていなかった。
翌朝、菫は全校放送で事実を説明した。
緊急支出の手続き不足と情報隠しについて謝罪し、監査を受けると約束した。灯も、自分だけで怪異を解決しようとしたことを謝った。
噂はすぐには消えなかった。
それでも、「会長が金を盗んだ」という一文の横に、「安全工事だった」「書記を守ろうとして黙っていた」「そもそも映像は鏡像だった」という注釈が増えた。
単純な筋書きは、注釈が増えると怪異になりにくい。
珠緒はそう言った。
天秤祭は予定通り開幕した。
旧講堂の鏡迷宮は、急きょ内容を変更した。
題して〈正解のない展示室〉。
入口で一枚の質問票を渡される。
《あなたは、昨日と同じあなたですか》
《親切は、相手が望まなくても親切ですか》
《嘘を一度もつかずに、一日を過ごせますか》
《鏡の中と外、どちらが先に笑いましたか》
出口に解答欄はない。
代わりに、赤鉛筆が一本ずつ置かれている。
展示は大盛況だった。
来場者は迷い、議論し、写真を撮り、なぜか最後には焼きそばパンを買って帰った。購買部との因果関係は未解明である。
午後、僕は中庭のベンチで、珠緒に新しい羽根飾りをつけてもらっていた。
以前のものは白いカラスに持ち去られたので、演劇部の余り布から作った。赤と白の二色で、やや派手だ。
「似合う?」
「歩く非常口」
「人を導けるということだな」
「前向きの暴力ね」
菫と灯が、紙コップの紅茶を持ってやってきた。
菫の頭にティアラはない。あれは鏡裏から戻る途中で砕け、銀の欠片になった。
代わりに、灯が作った小さな輪飾りを胸につけている。
「鷹司」と菫。
「何だ」
「昨日、私たち全員を守ると言ったわね」
「言った」
「守れなかった可能性もあった」
「そうだな」
「では、あれも嘘?」
「未来についての宣言は、嘘ではなく約束だ」
「果たせなければ?」
「次に果たす」
「都合のいい定義ね」
「騎士道は、再考を許す」
珠緒が紅茶を吹きかけた。
珍しく笑っている。
「何かおかしいか」
「あなた、採点姫の規則をちゃっかり自分に使ってる」
「学びとは応用だ」
「では質問」と珠緒は言った。「昨日の鏡の中で、逃げ出したあなたを見たでしょう」
「ああ」
「あれもあなた?」
「たぶん」
「怖くて逃げたい自分がいるのに、どうして残ったの」
「君たちがいたからだ」
珠緒は黙った。
菫が眉を上げる。
灯が面白そうに僕らを見比べる。
「それは誰に向けた台詞?」と珠緒。
「三人全員に」
「減点」と菫。
「なぜだ」
「配分が雑」
「では一人ずつ――」
「始めなくていい!」
四人で笑った。
そのとき、中庭の水飲み場の鏡に、白い影が走った。
白いカラスが僕の模造剣をくわえ、鏡の奥を飛んでいる。剣の柄には小さな紙が結ばれていた。
《再試験は、来年。》
「卒業させる気がないのか!」
僕は鏡へ駆け寄った。
鏡の中の僕は、一拍遅れて同じ動きをした。
いや。
ほんの一瞬だけ、先に笑った。
どちらが本物かは、まだ決めなくていい。
僕は鏡の中の騎士に敬礼し、彼も僕へ敬礼した。
放課後の鐘が鳴る。
正解のない一日は、たぶん今日も、悪くない。