放課後、雲をひとつ持ち帰る
余白部の部室には、役に立つものがひとつもない。
脚が一本足りない地球儀。
去年の十二月で止まった卓上カレンダー。
押すたびに違う色が出る三色ボールペン。
そして、針がいつ見ても「嵐」を指している古い気圧計。
「これは嵐じゃなくて、壊れてるだけだと思う」
私が言うと、部長の鷺沢まひるは、気圧計を両手で持ち上げた。
「壊れていても、毎日予報を外し続けるという立派な仕事をしてるよ」
「仕事って言っていいの、それ」
「無給だから趣味かな」
「じゃあ立派でもないね」
窓際でカメラをいじっていた津森八重が、こちらを見ずに言った。
「でも今日、夕立くる」
「ほんと?」
「西の空、黒い」
「気圧計、初勝利じゃん!」
まひるが気圧計を高く掲げた。その拍子に裏ぶたが外れ、中から小さなネジが二本、机の上に落ちた。
「引退試合だったかも」
「まだ負けてるよ」
ここは潮見高校、三階のいちばん端にある旧地理資料準備室。
私たち四人は放課後になると、この狭い部屋に集まっている。
正式名称は「校内余白観察同好会」。
略して余白部。
活動内容は、気づいたけれど誰かに報告するほどではないことを記録することだ。
四月十一日。
昇降口の右から三番目の靴箱は、閉めると「ミ」の音がする。
四月二十三日。
購買の焼きそばパンは、袋を開ける前がいちばん焼きそばの匂いがする。
五月九日。
中庭の植え込みに、四国に似た形のすき間がある。
五月二十八日。
午後四時を過ぎると、音楽室の肖像画のベートーヴェンだけ少し眠そうに見える。
こうした記録を、壁に貼った模造紙へ日付順に書き足していく。
役に立ったことは、まだ一度もない。
「先輩方」
一年生の片瀬ひよりが、部室の隅から静かに手を挙げた。
彼女は入部して二か月になるが、いまだに発言するときは授業のように挙手する。
「机の下から、重要そうな紙が出てきました」
「重要そうなら、たぶんうちのじゃないよ」
「上に『至急』と書いてあります」
「ますます違うね」
ひよりは紙を拾い、折れ目を伸ばして読み上げた。
「『同好会活動報告書。活動写真一枚を添付し、本日十七時までに生徒会室へ提出。未提出の場合、活動実態なしとして次学期の部室使用を再検討する』」
「……それ、いつ届いたやつ?」
「提出期限の欄に、今日の日付があります」
「届いた日じゃなくて、見つけた日を聞いたんだけど」
「紙の裏に、丸い染みがあります」
「昨日、部長がお茶のコースターにしてた紙だ」
私が言うと、まひるは机の上の湯のみをそっと自分の背中に隠した。
「紙って、濡れると重要度が分かりにくくなるよね」
「『至急』は読めてる」
「飾り文字かと思って」
「赤字で四センチくらいあるよ」
「元気な題字だなって」
壁の時計を見る。
午後三時三十五分。
残り一時間二十五分で、活動報告書を書き、活動写真を撮り、生徒会室へ提出しなければならない。
うちの部がなくなったら困るかと聞かれれば、正直、学校生活には何の支障もない。
けれど、この部室がなくなると、脚の足りない地球儀や、十二月で止まったカレンダーや、毎日嵐を告げる気圧計の行き場がなくなる。
それに、私たちの行き場も少しだけなくなる。
「活動写真って、何をしてるところを撮ればいいんだろう」
私がつぶやくと、まひるは急に真剣な顔になった。
「いつもどおりでいいんじゃない?」
「四人でお菓子食べてる写真になるよ」
「文化的活動」
「ビスケットの袋に文化は入ってない」
「原材料の小麦には、長い歴史が」
「歴史部に怒られるからやめよう」
八重がカメラから顔を上げた。
「模造紙の前で撮る?」
「それだと、活動をした写真じゃなくて、活動したと言い張ってる写真にならない?」
「だいたいの集合写真はそう」
「急に世の中の仕組みを暴かないで」
ひよりは提出用紙の注意書きを目で追っている。
「『写真から活動内容が明確に分かること』とあります」
「明確かあ」
「うちの活動内容、部員にも明確じゃないね」
四人で壁の模造紙を眺めた。
靴箱の音。
パンの匂い。
植え込みのすき間。
眠そうなベートーヴェン。
どれも発見した瞬間には少し面白かったのに、写真にしようとすると急に弱々しくなる。
「じゃあ、今から部活動らしいことをしよう」
まひるが言った。
「部活動らしいことって?」
「走る」
「運動部に寄りすぎ」
「声を出す」
「合唱部に寄りすぎ」
「土を掘る」
「園芸部を通り越して何かを隠す側になってる」
「難しいな、部活動」
八重が窓の外を指さした。
「雲、大きい」
西の空から、白い雲がひとかたまり、校舎の上へ乗り出していた。
その奥には灰色の雨雲が控えている。白い雲のてっぺんだけが午後の日を受けて、溶けかけのアイスクリームみたいに明るかった。
まひるは三秒ほど空を見て、それから手を打った。
「雲を持ち帰ろう」
「話が急に昔話になった」
「余白部の活動として、校内から見える雲を採取する」
「採取できないよ」
「写真なら持ち帰れる」
「それは普通に撮影って言うんじゃない?」
「普通に言うと、活動っぽさがなくなるから」
ひよりがまた手を挙げた。
「採取には容器が必要です」
「ひよりちゃん、乗るんだ」
「形から入ることは大切だと、家庭科の先生が言っていました」
ひよりは棚を探り、空になったイチゴジャムの瓶を見つけた。
なぜ地理資料準備室にジャムの瓶があるのかは、誰も知らない。
余白部には、由来を調べないほうが長生きしそうな物がいくつかある。
八重はカメラを首にかけた。
「写真、四人とも写る必要ある?」
「活動している部員の姿が望ましいって書いてある」
「セルフタイマー使う」
「よし。雲を追うよ!」
まひるが部室の戸を開け、勢いよく廊下へ出た。
三歩進んだところで戻ってきた。
「どっちに行けば雲に近い?」
「とりあえず西」
「西ってどっち?」
「部長、地理資料準備室に二年通って何を学んだの」
「地球儀は不安定だってこと」
「部室の備品事情だよ、それ」
最初に向かったのは、中庭だった。
古い校舎に四方を囲まれた中庭には、小さな花壇と、誰も使っていない日時計がある。
空は四角く切り取られ、さっきの雲がちょうど真上に見えた。
「ここなら、雲と私たちが一緒に入る」
八重は日時計の台にカメラを置き、レンズを空へ向けた。
私たちはその前に並ぶ。
「十秒」
「雲を採取してる感じって、どんな感じ?」
「瓶を掲げる」
「虫取りみたいにならない?」
「雲も広い意味では自然」
「広げすぎだよ」
シャッターのランプが点滅する。
ひよりが両手で瓶を持ち、まひるがなぜか網を投げるような姿勢を取り、私は活動内容を説明できそうな顔を作ろうとして失敗した。
八重だけが平然としている。
ぴっ、と電子音がして、シャッターが切れた。
みんなで液晶画面をのぞき込む。
写真の中央には、巨大なまひるの鼻の穴が写っていた。
「部長、近い」
「雲を大きく見せるために遠近法を」
「いちばん大きくなったの、鼻だよ」
「これは活動内容が明確かな」
「呼吸」
二枚目を撮ろうとしたとき、校舎の窓から吹奏楽部のトランペットが聞こえた。
高い音が一つ、途中でひっくり返る。
ひよりが反射的に壁の模造紙へ書くような口調で言った。
「六月十七日。午後三時五十一分。トランペットが一度、鳴きました」
「帰ったら書こう」
「その前に雲」
見上げると、白い雲はもう校舎の屋根に半分隠れていた。
「逃げた!」
「雲は逃げないよ。こっちが止まってるだけ」
「哲学っぽい! 活動報告に書ける!」
「書かないで」
私たちは中庭を出て、西階段を駆け上がった。
三階の西端には美術室がある。
廊下の突き当たりの窓から、校庭と、その向こうの低い山が見える。雲は山の上に浮かんでいた。
八重が窓を開けようとしたが、びくともしない。
「固い」
「私に任せて」
まひるが両手をかけ、腰を落として引く。
窓は動かず、代わりにまひるの上履きが床をきゅっと鳴らした。
「六月十七日。午後三時五十五分。部長の上履きは、アヒルの声」
「記録しないで、ひよりちゃん」
「重要度は低いですか」
「余白部に重要度の高い記録はないけど、今は手伝って」
四人で窓を引いた。
窓は突然、がたん、と開いた。
勢い余って、私たちは一列のまま後ろへ倒れた。
まひるの後頭部が私の肩に当たり、私の背中がひよりの膝に当たり、八重だけが直前に手を離して無傷だった。
「八重、裏切ったね」
「危険予知」
「教えてよ」
「間に合わなかった」
開いた窓から、湿った風が吹き込んだ。
遠くで雷が鳴る。
白い雲の後ろから、灰色の雲が追いつき始めていた。
「急いだほうがいい」
「屋上なら一番近い!」
「屋上は立入禁止」
「じゃあ、校庭の西側」
「雨、来るよ」
「雲を持ち帰るまでが余白部です!」
まひるはそう宣言し、また廊下を走り出した。
私は追いかけながら、たぶん違う、と思った。
家に帰るまでが遠足で、雲を持ち帰るまでが余白部なら、余白部はほとんど何でもできてしまう。
でも、そのいいかげんさが少し好きだった。
昇降口を出た瞬間、空から大粒の雨が一つ落ちてきた。
私の鼻の先に当たり、冷たい点を残す。
「降った」
「まだ一粒」
「一粒でも雨は雨です」
ひよりはジャムの瓶のふたを開けた。
「採取しますか」
「雨じゃなくて雲だよ」
「元は同じものでは」
「科学的に攻めてきた」
二粒目がまひるの額に当たった。
三粒目は八重のカメラに落ちそうになり、彼女は素早く制服の中へカメラを入れた。
その直後、雨は数えるのを諦めたように一気に降り始めた。
「走る!」
校庭の西側にある自転車置き場まで、私たちは全力で駆けた。
土の匂いが立ち上がる。
グラウンドに白い雨筋が走る。
野球部も陸上部も、突然の雨に声を上げながら用具を抱えて引き上げていく。
余白部は何の用具も持っていなかったが、なぜか一番必死だった。
屋根の下へ滑り込んだときには、四人とも制服の肩が濃い色になっていた。
「間に合ったあ」
「だいぶ濡れてるよ」
「でも致命傷ではない」
「雨で致命傷になる制服、学校指定にしないでほしい」
まひるが前髪から水を絞る。
ひよりはジャムの瓶を胸に抱えて守っていた。
「瓶は無事です」
「最優先で守るもの、合ってたかな」
「活動の核ですから」
八重は制服の中からカメラを出し、タオルで丁寧に拭いた。
空はすっかり灰色で、さっきの白い雲はどこにも見えない。
「逃げ切られたね」
「だから雲は逃げないって」
「じゃあ、見失った」
「それはそう」
自転車置き場の波板屋根を、雨が激しく叩いている。
一定のようで、よく聞くと少しずつ強さが違う。
遠くでは運動部の声がして、昇降口のほうからは先生の「廊下を走るな」という声が聞こえた。
たぶん私たちに向けられたものではない。私たちはもう外を走り終えたあとだった。
時刻は午後四時十二分。
提出まで、あと四十八分。
「活動写真、どうする?」
私が聞くと、まひるは腕を組んだ。
「雨宿りしてる写真」
「活動内容が明確すぎるね」
「『余白部は安全を第一に活動しています』」
「何の活動かが最後まで分からない」
「じゃあ、濡れた制服が乾くまでの時間を測る」
「提出に間に合わないよ」
「濡れ方の個人差を調べる」
「私たちの気持ちが乾かない」
ひよりが瓶を見つめた。
「雲は採取できませんでした」
「まだ諦めるのは早い」
「部長、雲はもう空全部だよ」
「大きすぎて瓶に入らないね」
「最初から入らないよ」
八重が、ふいにしゃがみ込んだ。
自転車置き場の外、コンクリートのくぼみに小さな水たまりができている。
雨粒が絶えず輪を描き、その輪と輪の間に、灰色の空が揺れていた。
「あるよ」
「何が?」
「雲」
八重が指さす。
水たまりの中に、雲があった。
さっき追いかけていた白い雲とは違う。
雨を抱えた、重たそうな雲。
それでも水面の中では、手を伸ばせば触れられそうなほど近かった。
まひるが目を丸くした。
「下にいた」
「上にもいるよ」
「挟まれた」
「雲に?」
「ちょっとぜいたく」
ひよりは水たまりのそばに膝をつき、瓶をそっと傾けた。
雨水が細い流れになって、瓶の中へ入っていく。
「本当にすくうんだ」
「形から入ることが大切です」
瓶が半分ほど満ちたところで、ひよりはふたを閉めた。
持ち上げると、ガラスの曲面に空が映り込んだ。
雲は歪んで、小さく丸まり、瓶の中に収まったように見えた。
「採れた」
八重が言った。
まひるは瓶を両手で受け取り、頭の上へ掲げた。
「雲、採取成功!」
「角度を変えたら消えるけどね」
「期間限定」
「賞味期限、三秒くらい」
「雲は生ものだから」
まひるが笑う。
ひよりも笑う。
八重はもうカメラを構えていた。
「写真、撮る」
「四人とも入る?」
「セルフタイマー。水たまりも入れる」
八重はカメラを、倒した自転車のかごではなく、私の上履きの上に置いた。
防水の意味では正しいのかもしれないが、上履きの人生としては複雑だ。
「十秒」
私たちは水たまりの周りにしゃがみ込んだ。
まひるが瓶を中央へ差し出し、ひよりがその横でふたを押さえる。
八重が急いで戻り、私の肩にぶつかった。
「近い」
「入らない」
「もっと寄って」
「落ちる、落ちる」
電子音が速くなる。
その瞬間、屋根の端から大きな雨粒が落ち、まひるの首筋に入った。
「つめたっ!」
まひるが飛び上がり、瓶を落としかける。
ひよりが瓶を受け止め、私がひよりを支え、八重がその全部を見て吹き出した。
シャッターが切れた。
撮れた写真には、水たまりの中の雲と、その周りで笑っている四人の顔が、上下さかさまに映っていた。
空も、私たちも、少し波打っていた。
まひるだけは首をすくめ、変な顔をしている。
「完璧」
八重が言った。
「どこが?」
「活動内容以外」
「一番大事なところが抜けてるよ」
「でも、余白部っぽいです」
ひよりが言った。
「余白部が何か、まだよく分かりませんが」
「入部二か月目の正直な感想だね」
まひるは写真を見て、満足そうにうなずいた。
「よし。雲、持ち帰ろう」
部室へ戻るころには、雨は弱くなっていた。
窓の外には、薄い日差しが戻り始めている。
机の上にジャムの瓶を置くと、もう雲は映らなかった。
代わりに、天井の蛍光灯が白い棒になって揺れている。
「雲、いなくなった」
まひるが残念そうに言う。
「最初から水だよ」
「夢がないなあ、千景は」
「提出期限はあるよ。あと二十六分」
「現実が強い」
八重が写真を印刷しているあいだ、私は活動報告書に向かった。
活動名称。
実施日時。
活動場所。
活動概要、四百字以内。
「活動名称は『第一回校内雲類捕獲調査』で」
まひるが言う。
「第一回って、二回目あるの?」
「次は冬の雲」
「季節シリーズにしないで」
「『気象観測』でいい」
八重が言った。
「普通すぎない?」
「提出する紙は普通でいい」
「八重はときどき大人だね」
「同い年」
ひよりは瓶を窓際に置き、定規で水位を測っている。
「採取量は百八十七ミリリットルです」
「それ、ただの雨水の量じゃない?」
「記録は正確なほうがいいです」
「四百字のうち何字使う気?」
私は鉛筆を持ち、考えた。
余白部が何をしているのか。
活動内容が明確に分かるように。
けれど、自分たちでもうまく説明できないものを、どう書けばいいのだろう。
机の端では、三色ボールペンが転がっている。
壁の気圧計は、雨がやみかけてもまだ「嵐」を指している。
今日の出来事は、たぶん明日の授業には何の役にも立たない。
雲を瓶に入れたと言っても、信じる人はいないかもしれない。
それでも、水たまりの中に空を見つけた瞬間を、私はたぶんしばらく覚えている。
その横で、まひるが首に入った雨粒に驚いた顔も。
瓶を守ったひよりの真剣な手も。
珍しく声を出して笑った八重も。
私は紙に書いた。
『余白部は、校内にある「なくなっても困らないけれど、なくなる前に見つけておきたいもの」を記録しています。本日は放課後の空を観察し、校舎内外から雲の見え方を調べました。途中で夕立に遭いましたが、自転車置き場の水たまりに映る雲を発見し、瓶にすくう様子を撮影しました。瓶の中の雲はすぐに見えなくなりましたが、写真と記録は残りました。今後も、校内の小さな変化や、名前のついていない出来事を観察します。』
書き終えると、部室が少し静かになった。
「千景」
「なに」
「ちゃんとした部みたい」
「提出書類だからね」
「私たち、こんなことしてたんだ」
「部長が今知るんだ」
「活動内容、明確になりました」
ひよりがうなずく。
八重は印刷した写真を紙へ貼り、少しだけ首を傾げた。
「四百字、余ってる」
「足りてるならいいんだよ」
「百八十七ミリリットル、入る」
「入れないで」
「科学的なのに」
「ひよりも残念そうにしないで」
午後四時五十一分。
私たちは報告書を持って、生徒会室へ走った。
廊下では走らないことになっているので、先生に見える場所だけ早歩きにした。
余白部は安全を第一に活動している。
生徒会室では、顧問の若林先生が書類を受け取った。
先生は国語科で、いつも眠そうな顔をしている。
報告書を読み、写真を見て、眼鏡を少し上げた。
「つまり、写真部か」
「違います」
四人の声がそろった。
「気象部」
「違います」
「散歩部」
「かなり近いです」
ひよりが答えた。
「近いんだ」
私が言うと、ひよりは真面目な顔でうなずいた。
「校内を移動した距離は、今日の活動の大部分を占めています」
先生はもう一度、写真を見た。
水たまりに映る雲と、さかさまの私たち。
「よく分からないが、活動していたことは分かった」
「やった!」
まひるが小さく拳を上げる。
「部室、使えますか?」
「この書類が通れば」
「通らない可能性あるんですか」
「生徒会長が『雲の採取』を活動と認めるかどうかだな」
「雨水百八十七ミリリットルの実績があります」
ひよりが胸を張った。
「それは書いてない」
「追記しますか」
「しなくていい」
若林先生は苦笑し、書類の受領欄に判を押した。
赤い丸が一つ、紙の隅に増えた。
たったそれだけなのに、私たちの部室が世界から少しだけ認められたような気がした。
翌朝、昇降口の掲示板に、各部の活動紹介が貼り出された。
野球部は試合中の写真。
吹奏楽部は演奏会の写真。
美術部は大きな油絵の前に並んだ写真。
そのいちばん端に、余白部の写真もあった。
水たまりの中で、空と四人が笑っている。
写真の下には、私が書いた活動概要がそのまま載っていた。
ただし、まひるが後から勝手に付け足したらしい見出しがある。
『役に立たない発見、募集中。』
「言い方」
私が言うと、まひるは満足そうだった。
「正直でいいでしょ」
「入部希望者、減らない?」
「もともとゼロだから減らない」
「強い理屈だね」
掲示板の端に、小さな付箋が一枚貼られていた。
見覚えのない字で、こう書いてある。
『二階東階段の七段目だけ、朝は少し冷たいです。』
四人で付箋を見つめる。
まひるが、ゆっくりこちらを向いた。
「今日の放課後」
「うん」
「七段目を持ち帰ろう」
「階段は持ち帰れないよ」
「温度なら採取できます」
ひよりが鞄から温度計を出した。
「なんで持ってるの」
「次の活動に必要かと思って」
「次の活動、さっき決まったところだよ」
「備えは大切です」
八重が付箋をカメラで撮る。
窓の外には、昨日とは違う雲が浮かんでいた。
どこにでもある、名前を調べるほどではない雲だった。
たぶん世界は、大きな出来事がない日に空白になるのではない。
そのぶんだけ、余白が増えるのだ。
誰にも気づかれない音や、匂いや、温度や、笑い声が入る余白。
「千景、遅れるよ」
まひるが言う。
予鈴が鳴っている。
私たちは教室へ向かって走り出した。
先生に見えるところだけ、早歩きで。
昨日より、雲一つぶん広くなった余白を、放課後までなくさないようにしながら。
了