星喰いの都へ、宵星便を
一 宛先のない手紙
浮島都市カナリアでは、夕方になると家々が錨を下ろす。
もちろん、島が丸ごと風に流されるわけではない。だが、雲海から吹き上げる夜風が機嫌を損ねると、吊り橋は唸り、煙突は口笛を吹き、坂道の露店が一軒ぶんくらい横へずれる。だから住人は、戸締まりより先に屋根の係留索を確かめるのだった。
その夕暮れ、リネット・アーヴィンは三十二通の手紙と、湯気の立つ林檎パイと、金魚の入った丸鉢を抱えて空を飛んでいた。
「右、右、右だってば!」
肩にしがみついた風見トカゲのチリが、答える代わりに尻尾を真っ赤にした。風が左から来る合図だ。
「分かってる!」
リネットは足元の《つばめ帆》を傾けた。細いトネリコ材の板に、半月形の帆と二枚の翼をつけた一人乗りの飛具だ。帆には彼女が自分で縫った風綴りの呪文が走っている。上手な乗り手なら、指を鳴らすだけで煙突の間を猫のように抜けられる。
上手な乗り手なら。
リネットの《つばめ帆》は洗濯物の列に突っ込み、白いシーツを一枚さらい、鳩の群れを驚かせ、時計塔の長針すれすれを滑り落ちた。金魚鉢の水が半分ほど彼女の顔にかかった。
「冷たっ……!」
それでも金魚は無事だった。林檎パイも、少し斜めになっただけだ。三十二通の手紙も一通たりとも落としていない。
リネットは港側の屋根に片足で着地し、そのまま瓦を十枚ほど滑って、煙突に抱きついて止まった。
「宵星便です!」
窓から顔を出したパン屋の女将は、林檎パイよりも、シーツを頭からかぶった配達人を見て笑った。
「今日も派手だねえ、リネット」
「速さは保証します」
「無事は?」
「だいたい保証します」
十五歳になったばかりのリネットは、三日前、船腹区の屋根裏に一人きりの配達所を開いた。看板には金色で《宵星便》と書いた。文字が少し右上がりなのは、看板を塗っている最中に風が吹いたせいだ。
大手の飛脚組合に入れなかったから、自分で始めたのだ。
正確には、組合の試験で落ちた。無風塔の上空で帆が止まった瞬間、リネットの手も止まったからだ。
半年前の墜落事故以来、風が消えると、胸の奥まで空っぽになる。
あの時の静けさが戻ってくる。
翼が折れる音。遠ざかる雲。誰かの叫び。
だから彼女は、いつも風のある夕方に飛んだ。
最後の金魚を届け終えたころ、カナリアの三つの月のうち、一番小さな青月が東の雲から顔を出した。リネットが屋根裏の配達所へ戻ると、扉の前にひとりの老人が立っていた。
骨ばった背中に、古い地図筒を何本も背負っている。白い髪は風にほどけ、片眼鏡には細かなひびが入っていた。
「宵星便のリネット・アーヴィン君かね」
「はい。荷物ですか、手紙ですか、それとも迷子ですか。迷子は重さで追加料金がかかります」
老人は笑わなかった。
代わりに、黒い封筒を差し出した。
封蝋は塩のように白く、星のない円が刻まれていた。宛名は銀のインクで、こう書かれている。
《カナリア島 船腹区第零番街
名のない都 最後の門番様》
リネットは三度読み返した。
「第零番街はありません」
「今の地図にはな」
「名のない都も」
「今の地図にはな」
「最後の門番様は?」
「今の者ではない」
老人は懐から、青黒いガラス片を取り出した。掌ほどの薄い円盤で、縁に見たことのない文字が並んでいる。
「今夜、三つ目の月が昇りきる前に届けてほしい。報酬は先払いで百リラ。成功したら、さらに九百」
九百リラ。
屋根裏の家賃が四か月払える。新しい帆布も買える。ついでに、壊れかけた看板をまっすぐに直すこともできる。
けれど、配達人には三つの掟がある。
荷を開けない。
宛先を笑わない。
待つ者がいる限り、道はある。
「地図は?」
老人は円盤をリネットの手に握らせた。
「地図は、私の孫が持っている。ユリス・サエズ。錨通りの古地図店だ。だが急ぎたまえ。夜明けに市の役人が船腹区を切り離す」
「切り離す?」
老人は、屋根裏の窓から下を見た。
船腹区はカナリアの最下層にへばりつく古い町だ。曲がった家々、縄で補強した路地、煙の匂いのする工房。貧しいが、夜になると窓の灯りが星座のように連なる。
「浮力石が衰えている、と市議会は言っている。この区画は島全体を沈める重荷だと。夜明けに大鎖を外し、雲海へ落とすつもりだ」
リネットの配達所も、船腹区にあった。
「この手紙を届ければ、止められるんですか」
「止められるかもしれない」
「ずいぶん頼りないですね」
「地図というものは、道を保証しない。ただ、誰かが一度そこへ行ったと教えるだけだ」
老人はそう言い残し、階段を下りていった。
リネットは呼び止めようとした。だが、突風が屋根を揺らし、看板がぎいと鳴った。一瞬目をそらした間に、老人の姿は路地の人波へ消えていた。
黒い封筒は、氷のように冷たかった。
肩のチリが、普段はしない低い声で鳴いた。
遠く、市庁舎の鐘が八つ鳴った。
三つ目の月が昇るまで、あと四時間だった。
二 船腹区の四人
錨通りの古地図店《北はたぶんこちら》は、店名からして信用ならなかった。
扉を開けると、天井から海図、星図、地下水道図、鳥の渡り図が垂れ下がり、紙の森になっている。その奥で、赤毛の少年が椅子の上に立ち、丸めた地図を棚へ押し込んでいた。
「ユリス・サエズ?」
少年は振り返り、椅子から落ちた。
「誰だ?」
「宵星便。ユーロ・サエズさんから配達の依頼を受けた」
「じいちゃんから?」
ユリスは眉をひそめた。十六歳。細長い体に、インクの染みだらけのシャツ。首から方位磁針を三つも下げている。
「じいちゃんは夕方、市庁舎へ行った。船腹区の切り離しを止めるって」
「この地図を持っているって聞いた」
リネットが青黒い円盤を見せると、ユリスの顔から血の気が引いた。
「それをどこで」
「あなたのおじいさんから」
「嘘だ。じいちゃんは、そいつを地下の金庫に隠してた」
ユリスは店の奥へ駆けた。床板を外し、鉄箱を引き出す。鍵は壊され、中は空だった。
その時、店の裏口が勢いよく開いた。
「ユリス! 役人が鎖塔に集まってる。切り離しを一時間早めるって!」
飛び込んできたのは、短く切った黒髪の少女だった。工具帯に、鍵束、針金、折り畳み式の金槌。片耳には真鍮の歯車をピアスのように下げている。
「そっちは?」と少女。
「配達人らしい」
「落ちた組合試験の?」
リネットは目を細めた。
「有名で光栄です」
さらに表の扉から、大きな紙袋を抱えた丸顔の少年が入ってきた。小麦粉まみれで、背は三人の誰より高い。
「パンを持ってきた。非常時は食べたほうがいいって母ちゃんが」
「ゴル、今それどころじゃない」と黒髪の少女。
「今だからだよ、エナ。空腹で賢くなった人はいない」
ユリスは円盤を机に置き、ランプを青い火に替えた。
すると円盤の表面に、細い光の線が浮かび上がった。カナリア島の輪郭。その下に、根のように絡み合う通路。さらに深く、島よりも大きな都市の影。
「第零番街……」ユリスがつぶやいた。「じいちゃんの昔話だ。カナリアが浮く前、この場所には石の都があった。そこにある《最初の風炉》が、島の浮力石へ風を送っているって」
「なら、風炉を直せば船腹区を落とさずに済む?」とゴル。
「昔話が本当ならな」
エナは黒い封筒を指先でつついた。
「で、これを最後の門番に届けろと。ずいぶん親切な昔話ね」
リネットは封筒を懐へ戻した。
「私の仕事は配達。町を救うのは、ついで」
「強がり」とエナ。
「工具を山ほど持ち歩く人に言われたくない」
「これは工具じゃない。可能性」
「パンも可能性だよ」とゴルが言った。
ユリスは地図を見つめていたが、やがて腹を決めたように地図筒を背負った。
「入口は旧雨水槽だ。三年前に封鎖された。そこから第零番街へ下りられるかもしれない」
「行くの?」とリネット。
「船腹区には店がある。家がある。じいちゃんが集めた地図がある。落とされてたまるか」
エナは金槌を一度回して工具帯へ差した。
「私は鍵屋の娘。閉まってるものを見ると腹が立つ」
ゴルは紙袋を掲げた。
「干し葡萄パンが十二個ある」
「立派な理由ね」
四人は店を出た。
錨通りは混乱していた。役人が家々に赤い札を貼り、住人を上層へ追い立てている。鎖塔では巨大な歯車が回り始め、船腹区をつなぐ大鎖が一本ずつ緩められていた。
通りの端に、灰色の外套を着た男が立っていた。
市の浮力監査官、ベルト・グラウ。頬に古い火傷痕があり、銀の杖をついている。彼の後ろには、真鍮の脚を持つ二体の採掘人形がいた。
グラウは避難を指揮するふりをしながら、古地図店を見ていた。
リネットと目が合うと、男は帽子のつばに触れた。
笑ってはいなかった。
「急ごう」とユリスが言った。「あいつは、じいちゃんの話をずっと嗅ぎ回ってた」
四人は人混みを抜け、船腹区のさらに下へ向かった。
その後ろで、金属の足音が二つ、静かについてきた。
三 第零番街
旧雨水槽の入口は、廃浴場の底にあった。
エナが錆びた格子へ工具を差し込み、三秒で鍵を外した。
「それ、鍵を開けたというより壊したよね」とゴル。
「開いたでしょう」
石段は、濡れた闇の中へ続いていた。
リネットは《つばめ帆》を折り畳んで背負い、風綴りのランプを灯した。チリの鱗が灰色に変わる。風がない。
胸の奥で、古い恐怖が目を覚ました。
――翼が折れる音。
――落ちる。
――風が、来ない。
「大丈夫?」
ゴルの声に、リネットは顔を上げた。
「平気」
「平気って言う人は、だいたい平気じゃない」
「パン屋の格言?」
「うん。あと、焦げ臭いと言う人のパンはだいたい焦げてる」
ゴルが干し葡萄パンをひとつ差し出した。
リネットは半分だけ受け取った。
石段を三百段ほど下りると、壁の煉瓦が変わった。人間の手で積んだ四角い煉瓦ではない。巨大な生き物の背骨のような、白く滑らかな石が隙間なく組み合わさっている。
やがて道は、丸い石扉に塞がれた。
表面には六体の生き物が彫られていた。細長い胴、扇状の鰭、指の代わりに枝分かれした触肢。どれも頭を下げ、足元の星を見ている。
「星が下にある」とユリスが言った。
エナは扉のくぼみに円盤をはめた。ぴたりと収まったが、何も起きない。
「鍵だけじゃ足りない」
リネットは彫刻を眺めた。
六体のうち、一体だけ、星ではなく扉の外を向いている。胸に細長い裂け目があった。
「門番だ」
黒い封筒を近づけると、封蝋の白い円が淡く光った。
石扉の奥で、何かが息を吸った。
ごう、と冷たい風が吹き出す。
扉は音もなく開いた。
その向こうには、街があった。
天井の見えない巨大な空洞。白い塔が何百本も逆さに伸び、橋が空中で輪を描き、階段が壁から壁へ無意味な角度で渡されている。窓の一つ一つは暗く、路地には黒い砂が積もっていた。
カナリア島より大きい。
地図よりも、もっと大きい。
「ありえない」とエナが言った。「島の中に収まらない」
「収まってるんじゃない」ユリスの声が震えた。「たぶん、ここだけ別の向きへ広がってる」
街の中央を、乾いた運河が走っていた。その底には、貝殻に似た車輪を持つ乗り物が並んでいる。建物の壁には、さきほどの鰭ある種族が浮き彫りにされていた。
最初の絵では、彼らは暗い海の底で星を見上げている。
次の絵では、海が空になり、都市が地上へせり上がる。
その次では、二つ足の小さな影――人間たちが、彼らの塔の上に家を建てている。
最後の絵だけは削り取られていた。
「名のない都」とリネットがつぶやいた。
「じいちゃんは《無記名市》って呼んでた」とユリス。「名前をつけてはいけない場所だって」
「なぜ?」
ユリスは答えなかった。
遠くで、石を引っかく音がした。
四人が振り返ると、開いた門の向こうに灰色の外套が揺れた。
グラウ監査官が、二体の採掘人形を連れて立っていた。
「子どもは、昔話を信じるから困る」
銀の杖が床を鳴らした。
「そして大人は、昔話を金に換える」
採掘人形が一斉に走り出した。
「逃げろ!」
四人は第零番街へ駆け込んだ。
四 石の肺
無記名市の路地は、走るたびに形を変えた。
右へ曲がったはずが、同じ広場へ戻る。階段を下りたのに、さっき見上げた橋の上へ出る。壁の彫刻に刻まれた星の数だけが、少しずつ増えていく。
「地図が役に立たない!」とエナ。
「地図は悪くない!」ユリスは走りながら紙を広げた。「町のほうが間違ってる!」
背後で真鍮の爪が石畳を砕いた。
ゴルが横道の石柱を肩で押した。古い柱が倒れ、採掘人形の一体を橋の下へ巻き込む。人形は落ちながら壁へ爪を立てたが、黒い砂とともに闇へ消えた。
「パン袋を持ってる人の力じゃない」とリネット。
「毎朝、小麦袋を運んでるから」
残る一体が跳びかかる。
エナは工具帯から巻きばねを投げた。ばねは人形の脚へ絡み、二本の脚を互いに縛った。人形は派手に転び、その頭をリネットが《つばめ帆》の先端で叩く。
鐘のような音がした。
頭部の青い灯が消える。
「ほら」とエナ。「可能性」
だがグラウの姿はなかった。
「別の道へ行った」とユリス。「たぶん中央塔を目指してる」
地図の中心には、渦巻き状の印があった。《石の肺》と、ユーロ老人の字で書かれている。その先に《最初の風炉》。そして、さらに下に《門番座》。
「手紙の宛先は一番下」とリネット。
「風炉は途中だ。まず島を救えるか確かめよう」とユリス。
四人は乾いた運河に沿って進んだ。
途中、壁一面に小さな穴が開いた回廊へ出た。穴の奥から、かすかな囁きが聞こえる。
――リネット。
彼女は足を止めた。
――リネット、こっち。
母の声だった。
半年前、墜落事故で行方不明になった母の声。
母は飛脚組合の一等配達人だった。嵐の日、十二人分の薬を届けに出て、帰らなかった。《つばめ帆》だけが、翼を折られて回収された。
「母さん?」
壁の穴に近づきかけた腕を、ユリスがつかんだ。
「聞くな!」
穴の奥で、母の声が笑った。
――名前を呼んで。
――ここにいるから。
チリが激しく鳴き、リネットの耳たぶを噛んだ。
痛みで我に返る。
「何なの、これ」
ユリスは壁画を指した。
鰭ある民が、口を縫い合わせて星空から目をそらしている。その上に、人間の古い文字で警告が刻まれていた。
《深きものは名を持たず。
名は道となり、道は招きとなる。
失った者の声で呼ばれても、返事をしてはならない。》
ゴルの顔が青ざめていた。
「僕には父ちゃんの声だった」
エナは何も言わなかったが、握った金槌が震えている。
四人は互いの服をつかみ、一列になって回廊を渡った。囁きは、家族、友人、死者、まだ会ったことのない誰かの声に変わった。
最後には、自分自身の声になった。
――ここに残れば、失敗しなくていい。
リネットは唇を噛んで歩いた。
回廊を抜けると、巨大な円筒形の空間に出た。
壁がゆっくり伸び縮みしている。
本当に、肺のように。
中央には、何千枚もの石の薄板が重なった機械があった。薄板が開閉するたび、かすかな風が生まれ、上方の管へ吸い込まれていく。
「石の肺だ」とユリス。
しかし半分以上の薄板は黒い結晶に覆われ、動きを止めていた。
「これが風炉?」
「風炉へ空気を送る装置だ。上の浮力石が弱ってるのは、こいつが詰まってるからだ」
エナが機械へ近づき、結晶を金槌で叩いた。
澄んだ音が響く。
「表面だけなら剥がせる。でも全部やるには何日もかかる」
その時、上の通路で銀の杖が光った。
一本の稲妻が機械を打ち、石の薄板が一斉に開いた。
突風が爆発した。
四人は床を転がった。
グラウ監査官が反対側の橋に立っていた。その手には、円盤の鍵がある。いつの間にかエナの腰から奪っていたのだ。
「礼を言おう。入口だけでなく、風炉まで案内してくれた」
「それをどうする気?」とエナ。
「カナリアを救う。正確には、救う力を所有する」
グラウは円盤を機械中央のくぼみへ差し込んだ。
「やめろ!」ユリスが叫ぶ。「それは鍵じゃない。封印だ!」
遅かった。
石の肺が、何千年ぶりかの深い息を吸った。
街中の窓に青い光が灯る。
壁画の星が一斉に瞬く。
そして、無記名市のさらに下から、巨大な何かが寝返りを打った。
五 黒い潮
最初に来たのは、音ではなかった。
重さだった。
天井のない空間全体が、見えない海の底へ沈んだように重くなる。膝が折れ、息が詰まる。チリはリネットの襟の中へ潜り込んだ。
次に、黒い水が来た。
乾いていた運河の底から、墨のような潮が湧き出した。水面には星の影が映っている。だがそれは地上の星座ではなかった。線で結べば、目を閉じてもこちらを見ている顔になる。
「走れ!」
ユリスが叫んだ。
石の肺から伸びる橋が崩れ始める。グラウは円盤を引き抜き、中央塔へ通じる上段の扉へ走った。
「手紙を追うぞ、配達人!」
男の声だけが残った。
黒い潮は階段を逆向きに上ってきた。
水の中で、薄い膜のようなものが泳いでいる。魚ではない。翼でもない。見る角度によって、幼子の手にも、閉じた瞼にも見えた。
四人は運河脇の船着き場へ飛び込んだ。
そこには白い石でできた細長い舟が一艘、鎖につながれていた。櫂はなく、舳先に貝殻形の帆が畳まれている。
「乗って!」
エナが鎖を切る。ゴルが全員を舟へ押し込む。黒い潮が船着き場を呑んだ瞬間、舟はふわりと浮いた。
「動かし方は?」リネット。
「古代語で《進め》って何て言う?」ゴル。
「知らない!」ユリス。
リネットは舳先の帆を開いた。薄い石膜が震え、わずかな風をつかむ。
「帆なら、風で動く」
「風はどこ?」
リネットは石の肺から吹き出す断続的な流れを感じた。目には見えないが、頬に触れる温度の差、チリの尻尾の色、石膜の震えが道を教える。
「右の塔と、逆さ橋の間!」
エナとゴルが帆索を引く。ユリスが地図を広げる。舟は黒い潮を切り、街の中心へ走り出した。
背後から、低い歌が追ってきた。
水中の膜たちが、声を重ねている。
歌詞はない。なのに、聞く者が最も帰りたい場所の名が分かる。
リネットには、母のいる空だった。
ユリスには、祖父と地図を描いた店。
エナには、今は空き部屋になった姉の工房。
ゴルには、家族全員が揃った朝の台所。
「歌うな!」ユリスが叫んだ。
「誰も歌ってない!」
「僕たちがだよ!」
気づけば、四人とも同じ旋律を口ずさんでいた。
リネットは自分の頬を叩いた。
「別の歌!」
「何?」
「何でも!」
ゴルが突然、パン屋の仕込み歌を大声で歌い始めた。
「こねろ、たため、寝かせて待て! 待てぬ客には硬い耳!」
エナが顔をしかめながら続いた。
「焼けたら呼べ、焦げたら逃げろ!」
「そんな歌詞じゃないだろ!」
ユリスも叫び、リネットは笑いながら帆を切った。
不格好な歌が、黒い潮の旋律を追い払う。
舟は塔と塔の隙間を抜けた。
前方に、巨大な裂け目が現れた。
幅は百歩以上。向こう岸へ渡る橋は途中で折れている。黒い潮は裂け目へ落ちるどころか、滝のように上へ流れ、見えない夜空へ吸い込まれていた。
「地図では、ここに橋がある」とユリス。
「途中までね」とエナ。
石舟の帆は風を失い、速度を落とした。
背後から黒い潮が迫る。
リネットは《つばめ帆》を背から下ろした。
「私が向こうへ索を渡す」
ユリスは裂け目を見た。
「無風だぞ」
「分かってる」
分かっているから、指が震えた。
風がない。
あの日と同じだ。
母の帆が折れた空。自分の飛具が落ちた瞬間。いくら呪文を唱えても、風が答えなかった。
「別の方法を探そう」とゴル。
黒い潮が舟の後ろを持ち上げた。
時間はない。
リネットは《つばめ帆》を開いたが、足が動かなかった。
「地図は道を保証しない」
ユリスが言った。
「何?」
「じいちゃんの口癖。地図は、誰かが一度そこへ行ったと教えるだけ。でも、最初に行ったやつには地図なんてなかった」
エナが工具帯から細い鋼索を取り出し、《つばめ帆》の尾へ結んだ。
「落ちたら引く」
ゴルは紙袋を帆の前で広げた。
「風はない。でも、息はある」
三人が並び、ありったけの息を帆へ吹きかけた。
馬鹿みたいに弱い風だった。
けれどチリの尻尾が、ほんの少し青くなった。
リネットは笑った。
「十分」
彼女は裂け目へ飛び出した。
六 空のない飛行
最初の三秒、リネットは落ちた。
《つばめ帆》の翼は空気をつかめず、裂け目の底へ傾く。黒い滝が上向きに流れ、髪が逆立った。
――風が来ない。
恐怖が喉を塞ぐ。
指が固まる。
その時、背後で三人の声がした。
「リネット!」
名前を呼ばれた。
けれど回廊の囁きとは違う。
奪うためではなく、戻すための声だった。
リネットは息を吐いた。
風がないなら、作ればいい。
風綴りの帆へ両手を当てる。縫い込んだ呪文は、組合で教わる正式なものではない。屋根裏で何度も縫い直した、自分だけの継ぎはぎの術だ。
「北風ひと針、南風ふた針。帰り道まで、ほどけるな」
帆の糸が銀色に光った。
リネットが吐いた息が帆の内側を巡り、翼の上を走る。小さな循環。ほんの一人分の風。
《つばめ帆》が持ち上がった。
裂け目の中ほどには、上向きの黒い滝がある。リネットはその縁へ機首を向けた。流れに触れれば呑まれる。だが流れの脇には、必ず逆向きの渦ができる。
翼が渦をつかんだ。
飛具は弾かれるように上昇し、向こう岸の崩れた橋へ着地した。リネットは石畳を転がりながら鋼索を柱へ巻きつけた。
「渡して!」
エナたちは舟の帆柱へ索を結んだ。黒い潮に押された石舟が裂け目へ飛び出す。索が張り、舟は振り子のように宙を横切った。
ゴルの絶叫。
エナの歓声。
ユリスは目を閉じたまま地図を抱えている。
石舟は向こう岸へ激突し、舳先を半分砕いたが、四人は揃っていた。
「飛べた」とゴル。
リネットは膝の震えを隠すため、索をほどくふりをした。
「配達人だから」
裂け目の先には、中央塔がそびえていた。
塔は巨大な巻貝に似て、外壁を螺旋階段が取り巻いている。頂上には丸い穴が開き、地下なのに星空が見えた。
星ではなかった。
無数の暗い穴が、こちらを覗いていた。
塔の入口にはグラウの杖が落ちていた。
銀の表面に、指の跡が黒く焼きついている。
「先に入った」とユリス。
扉の脇には、鰭ある民の最後の壁画が残っていた。
彼らは空へ巨大な輪を開き、その向こうの何かを招いた。
何かは彼らに風と知識を与えた。
代わりに、彼らの名前を一つずつ食べた。
最後に残った一人が門を閉じ、自らの名を削り、ここに座った。
「最後の門番」とリネット。
壁画の下に、人間の文字があった。
《門は眠りによって閉じる。
眠りは忘却によって守られる。
都に名を与えるな。
星の外にいる聞き手は、名を道として戻ってくる。》
ユリスが黒い封筒を見た。
「じいちゃんは、門番へ何を届けようとしてるんだ」
塔の中から、グラウの叫びが響いた。
四人は顔を見合わせ、扉をくぐった。
七 聞き手
中央塔の内部は、巨大な郵便局のようだった。
壁一面に、石の小箱が並んでいる。どの箱にも宛名はない。床には白い封筒が山のように積もり、触れてもいないのに、かさかさと身じろぎしていた。
「手紙だ」とリネット。
ユリスが一通を拾う。
封筒は空だった。
「書かれていたものが、消えてる」
螺旋階段の上で、青い光が明滅した。
四人が駆け上がると、円形の大広間へ出た。
中央に、井戸のような穴がある。
穴の上には、青黒い円盤が宙に浮いていた。その周囲を無数の文字が回り、読める言葉へ次々と姿を変えている。
《母》
《家》
《帰還》
《救い》
《リネット》
グラウ監査官が穴の縁に膝をついていた。
灰色の外套は裂け、片腕が黒い霜に覆われている。彼は円盤へ手を伸ばし、何度も同じ言葉を叫んでいた。
「ベルト・グラウ! 私はベルト・グラウだ! カナリア市浮力監査官、ベルト――」
言うたびに、彼の顔から何かが薄れていく。
火傷痕。皺。目の色。
存在そのものが、ぼやけていく。
「名前を言うな!」ユリスが叫んだ。
グラウは振り返った。
「名前が要るんだ! こいつは名を差し出せば、願いを叶える。風炉を、島を、すべて私に――」
穴の中から声がした。
声ではない。
四人の頭の内側に、意味だけが流れ込む。
――誰が呼んだ。
大広間の星窓が開いた。
その向こうには宇宙がなかった。
宇宙より古い暗がりがあった。
距離も時間も持たない、巨大な耳のようなものが、星々の外側からこちらへ傾いている。
人間が夜空だと思っているものは、そいつの閉じた瞼にすぎない。
星は瞼の裏に浮く、ごく小さな傷にすぎない。
リネットは、そう理解してしまった。
理解した瞬間、胃の奥が冷えた。
――誰が、私に道を与えた。
グラウの口が勝手に開く。
「ベルト――」
ゴルが飛びつき、男の口を両手で塞いだ。
「名乗るな!」
黒い霜がゴルの腕へ移る。エナが金槌で円盤を打った。火花が散り、文字の輪が乱れる。
「リネット、手紙!」
黒い封筒が懐で熱くなっていた。
しかし、どこへ届ければいい。
石の小箱は何千もある。どれにも名がない。
――配達人。
暗がりが、母の声で呼んだ。
――私は待っていた。
――こちらへおいで。
――あの日、風を止めたのは私ではない。
――お前の母は、ここにいる。
星窓の向こうに、母の姿が浮かんだ。
青い飛脚外套。笑うと片方だけ上がる眉。事故の日と同じまま。
「母さん……」
母は腕を広げた。
――名前を呼んで。
リネットの喉まで言葉が上がった。
肩のチリが、震えながら彼女の頬へ頭を押しつけた。
小さな心臓の鼓動が伝わる。
母の姿には、それがなかった。
風も、匂いも、重さもない。
待っている者ではない。
ただ、呼ばれることを待っている穴だ。
リネットは目を閉じた。
「あなたは宛先じゃない」
母の姿が歪んだ。
「宛先は、最後の門番様」
大広間を見渡す。
星窓へ顔を向けていないもの。
外から来る声を聞かず、上の町だけを見守っているもの。
円形の壁、その最下段。
鰭ある民の石像が一体、背を丸めて座っていた。顔も名も削り取られ、胸に細い裂け目がある。
最初の門と同じ形。
リネットは走った。
星窓から黒い線が伸びる。影でも触手でもない。存在の消し跡のようなものが床を這い、彼女の足元の文字を奪っていく。
エナが工具箱を投げ、線の進路をそらす。
ユリスが地図を広げて円盤の光を遮る。
ゴルはグラウを抱えたまま、黒い霜に歯を食いしばる。
「届けろ!」
リネットは石像の胸へ封筒を差し込んだ。
封蝋が割れた。
手紙は開かず、光になった。
老いたユーロ・サエズの声が、大広間に響く。
《名を捨てて門を守った、最後の方へ。
上に住む私たちは、あなたがたの都の名を知りません。
知ろうともしません。
けれど、忘れたのではありません。
風を借りたことを覚えています。
空を譲られたことを覚えています。
あなたが門を閉じ、眠り続けたことを覚えています。
今夜、欲深い者が封印へ触れるでしょう。
その時、ひとりの配達人がこの手紙を運びます。
彼女に名を求めないでください。
名ではなく、約束によって道を閉じてください。
空は上の者に。
深みは下の者に。
互いを呼ばず、互いを奪わず。
これは貢ぎ物ではありません。
ただの、遅すぎた礼状です。》
石像の胸に、青い火が灯った。
名のない門番が、何千年ぶりに立ち上がった。
八 最後の返書
門番の姿は、彫刻そのものではなかった。
石の輪郭の内側に、海の記憶が満ちていた。暗い海底を歩く無数の影。地上へ初めて吹いた風。人間の子どもへ空の見方を教える、長い指。
そして、星の外から来た聞き手に、仲間の名をすべて奪われる光景。
最後の一人は、自分の名を差し出さなかった。
代わりに、自分の名を誰の記憶からも消し、道そのものを断った。
門番はリネットを見た。
顔はない。けれど、見られていると分かった。
胸の裂け目から、薄い石片が一枚滑り出た。
黒い切手のような形をしていた。
返書だ。
リネットが受け取ると、手の中で一度だけ温かく脈打った。
門番は星窓へ向き直った。
聞き手が、怒りではなく空腹を示した。
暗がりが広間へ押し寄せ、壁の小箱が一斉に開く。空の封筒が何万羽もの白い鳥になり、星窓へ飛んだ。
一羽一羽が、失われた名の形をしていた。
名の群れが暗がりを覆う。
門番は両腕を閉じた。
星窓が細くなる。
――配達人。
聞き手の最後の声が、リネットの心へ触れた。
――お前の名を、いつか必ず聞く。
「その時は受取拒否で返します」
リネットが答えると、星窓は完全に閉じた。
青黒い円盤が砕け、文字の輪が消える。
ゴルとグラウの腕を覆っていた霜も割れた。男は床へ倒れ、荒い息をついた。
静寂が戻った。
だが今度の静けさは、空っぽではなかった。
遠くで石の肺が動く音がする。巨大な都が、眠り直す音。
門番はリネットへ片手を差し出した。
掌の上に、小さな渦が生まれる。
風だった。
地上の匂いがする。
焼きたてのパン、雨上がりの屋根、港の油、洗濯物の石鹸。
船腹区に暮らす人々の息が、一つの風になっている。
「これを上へ?」
門番は、かすかに頷いた。
床が大きく揺れた。
塔の外で何かが崩れる。黒い潮が門を失い、都市全体へ雪崩れ込んでいた。
門番の体に亀裂が走る。
役目を終えたのだ。
「待って。あなたの名前は、本当に誰も――」
門番は指を立てた。
尋ねるな、と。
そして最後に、石の指でリネットの額へ触れた。
一瞬、彼女は見た。
門番がかつて、まだ幼かったころ。
暗い海底で初めて風を作り、仲間たちに笑われたこと。
上手ではなかった。渦は小さく、すぐ消えた。
それでも、誰かがその風を「十分だ」と言ったこと。
像は静かに崩れ、青い砂になった。
リネットは返書と、小さな風の渦を胸へ抱えた。
「帰るよ」
大広間の出口は崩れていた。
螺旋階段も半分ない。
エナが下を覗いた。
「帰り道、消えたけど」
リネットは《つばめ帆》を開いた。
「道はある」
風の渦が帆へ入り、銀の縫い目を走った。
翼が大きく広がる。いつもの二倍、三倍。古い石膜の羽が重なり、四人と大人一人を運べるほどの空飛ぶ帆舟になった。
ゴルが気を失ったグラウを担ぎ、ユリスが舳先へ地図を広げ、エナが帆索を握る。
チリは一番高い帆柱へ登り、尻尾を青く光らせた。
「宵星便、五名追加」とリネット。
「追加料金は?」とゴル。
「迷子は重さで取る」
床が割れた。
黒い潮が噴き上がる。
「出発!」
帆舟は中央塔から飛び出した。
九 夜明けへ
無記名市が崩れていく。
逆さ塔が一本ずつ黒い潮へ倒れ、輪の橋が砕け、何千年も閉じていた窓から青い風が噴き出す。風は帆舟の翼を叩き、地下の街を稲妻のように走らせた。
「左、崩れる!」ユリス。
「左は壁!」エナ。
「地図では道だ!」
「町が間違ってるんでしょ!」
リネットは壁へ突っ込んだ。
衝突寸前、石壁が薄い膜のように開く。向こう側には、最初に通った囁きの回廊があった。
穴の声が一斉に叫ぶ。
――残れ。
――名を置いていけ。
――帰る場所などない。
ゴルが最後の干し葡萄パンを穴へ投げた。
「空腹なら食べろ!」
穴が戸惑ったように黙った。
帆舟は回廊を抜け、石の肺へ入る。
黒い結晶に覆われていた薄板が、門番の風を受けて一枚ずつ動き始めていた。開いて、閉じる。吸って、吐く。
巨大な呼吸が戻る。
風は上方の管へ送り込まれ、カナリア島全体を震わせた。
だが出口の石扉は、崩れた柱に塞がれている。
「止まれない!」エナが叫ぶ。
「止まらない!」
リネットは帆をいっぱいに張った。
あの日の墜落以来、彼女は風が消えることばかり怖がっていた。
けれど今は違う。
風は、最初からどこかにあるものではない。
誰かの息、誰かの声、誰かが差し出した手から生まれる。
ひとり分では足りなくても、四人なら。
町ひとつなら。
「つかまって!」
帆舟は柱へ激突した。
石が砕け、白い埃が爆発する。
翼の端がちぎれる。
船体が半回転する。
そのまま旧雨水槽の縦穴へ飛び込んだ。
上から、夜明け前の空気が落ちてくる。
チリの尻尾が鮮やかな金色になった。
「上昇気流!」
リネットは機首を上げた。
帆舟は石段をかすめ、錆びた格子を吹き飛ばし、廃浴場の屋根を突き破った。
夜空へ飛び出す。
カナリア島は傾いていた。
船腹区をつなぐ大鎖は、最後の一本を残すだけ。鎖塔では役人たちが切断槌を振り上げている。住人は上層の広場から、自分たちの家が落とされる瞬間を見つめていた。
市庁舎の時計が、夜明けの一打目を鳴らす。
その時、地下から風が吹いた。
船腹区の煙突という煙突、井戸という井戸、排水口という排水口から、青い風が噴き上がる。古い家々の風車が回り、屋根の旗が一斉にはためく。
島の底で、浮力石が黄金色に灯った。
傾いていた船腹区が、ゆっくり持ち上がる。
緩んだ大鎖が張り、鎖塔の切断槌を跳ね返した。
人々の間から歓声が上がった。
帆舟は錨通りへ降下した。
正確には、古地図店の看板と洗濯竿と魚屋の天幕を巻き込みながら、通りを五十歩ほど滑って止まった。
リネットは帆の下から顔を出した。
「無事、だいたい到着」
ユリスの祖父ユーロが、人波をかき分けて駆けてきた。片眼鏡はなく、外套は役人に引き裂かれていたが、無事だった。
「届いたか」
リネットは黒い切手を差し出した。
「返書です」
ユーロは両手で受け取り、長いあいだ見つめた。
黒い表面に青い文字が一行だけ浮かぶ。
《受領した。次便は不要。》
老人は笑い、そして泣いた。
担架へ乗せられたグラウ監査官が目を開けた。
彼はしばらく自分が誰なのか分からない様子だったが、やがて市議会の役人を呼び止めた。
「切り離しを……中止しろ」
「しかし監査官、報告書では――」
「報告書は私が偽造した。浮力石の衰えを利用し、地下の動力を独占するつもりだった」
通りが静まる。
グラウはリネットたちを見た。
「子どもに救われたと書くのは、癪だがな」
「重さで追加料金です」とリネット。
グラウは初めて、少しだけ笑った。
十 宵星便
三日後、船腹区の切り離し命令は正式に撤回された。
市議会は無記名市の存在を記録しないことを全会一致で決めた。記録しないことを決めた議事録も、記録しないことになった。役人たちは大変混乱したが、ユーロ老人は「地図に描かない場所も必要だ」と満足そうだった。
最初の風炉は再び動き始め、船腹区の浮力は上層より安定した。家賃が上がりそうになったので、エナが大家たちの鍵を一晩だけ全部開かなくした。家賃の話は消えた。
ユリスは祖父と新しい地図を作った。
地下は真っ白な空欄にし、その脇へ小さく《ここより先、帰り道を忘れるな》とだけ書いた。
ゴルの家では《門番パン》が売り出された。真っ黒な丸パンで、中に青い砂糖が入っている。見た目は不気味だが、味は驚くほどよかった。
エナは壊れた《つばめ帆》を修理した。
古い石膜の羽を一枚だけ残し、尾翼へ取りつけてくれた。
「代金は?」とリネットが聞くと、エナは新しい鍵を投げてよこした。
「古地図店の隣、空き部屋になった。屋根裏より広い」
新しい《宵星便》の店には、小さな窓が二つ、作業机が一つ、チリ用の日向棚がある。
看板はユリスが文字を書き、ゴルが枠を焼き、エナが今度こそ水平に取りつけた。
《宵星便
空・陸・地下
たいてい配達します》
開店初日の朝、最初の客は七歳くらいの女の子だった。
両手で桃色の封筒を握っている。
「雲海の向こうの島まで、届けられる?」
「もちろん」
「途中で怖い怪物が出ても?」
「追加料金です」
「風がなくても?」
リネットは一瞬だけ、答えを考えた。
窓の外では、船腹区の風車が回っている。
パン屋から仕込み歌が聞こえ、古地図店ではユリスが棚を倒し、向かいの工房からエナの金槌の音が響く。
チリが肩に登り、尻尾を青くした。
「風がなければ、作ります」
リネットは封筒を受け取った。
宛名を確かめ、鞄へ大切にしまう。
荷を開けない。
宛先を笑わない。
待つ者がいる限り、道はある。
《つばめ帆》を屋根の端へ滑らせる。
三つの月はまだ薄く、朝の空には星が一つだけ残っていた。
あの暗がりが、いつか本当に彼女の名を聞きに来るのかもしれない。
その時どうするかは、まだ分からない。
けれど今、届けるべき手紙がある。
帰る町がある。
一緒に風を作ってくれる友だちがいる。
それで十分だった。
リネットは帆を上げた。
「宵星便、出発!」
小さな飛具は朝焼けへ飛び出し、浮島都市カナリアの屋根を越え、雲海の向こうへまっすぐ走っていった。
了