『星喰い井戸の子どもたち』
一 退去の鐘
海が、海ではない色に染まった朝、ラスカの鐘は七度鳴った。
一度目は井戸を閉じる合図。
二度目は漁を禁じる合図。
三度目から六度目までは、町の者が聞いたことのない音だった。
七度目が鳴り終わると、岬の上の評議堂から白い紙が舞い落ちてきた。潮風にあおられ、魚の鱗のように屋根や路地へ貼りつく。
――三日後の日没までに、全住民はラスカ島を退去せよ。
十五歳のミナ・ヴェルは、その紙を靴底で踏んだ。
「三日で家を畳めって? 評議員たちは自分の腹も三日で畳めるのかしら」
隣で、小麦袋を二つ抱えていたボルクが言った。
「腹は畳まない。空いたら詰める」
「あなたの話じゃない」
「でも大事なことだ」
ボルクは十六歳で、粉屋の息子だった。肩幅は荷車ほどあり、暗がりが苦手だった。本人はその事実を「光を大切にする性格」と呼んでいる。
路地の排水溝から、十二歳のテトが顔を出した。髪に藻をつけ、歯の間に釘をくわえている。
「評議堂の裏の水管、また鳴いてた。今度は『きい』じゃなくて『みんな』って」
「水管が言葉をしゃべるわけないでしょ」
「じゃあ、ぼくの耳が水管語を覚えたんだ」
最後に来たのはイリだった。ミナと同じくらいの背丈で、年は一つ下。灰色の外套の袖から、音綴り師の青い紐がのぞいている。音綴り師とは、物や風景が持つ「根音」を聞き、正しく呼びかけることで、火を弱めたり、扉を落ち着かせたりする者だ。
だがイリは、町の音綴り屋敷でいちばん出来の悪い弟子だと言われていた。
猫の根音を聞けば、猫が三日間だけ魚になる。
火鉢に眠れと告げれば、火鉢ではなく隣の家の赤ん坊が眠る。
師匠たちは、彼女の耳が壊れていると言った。
「井戸の音を聞いてきた」とイリは言った。
冗談を言う顔ではなかった。
「何て?」
「名前が減ってる」
四人は、坂の下にある大井戸を見た。
井戸は太い鎖で封じられていた。石組みの隙間から、薄い光が漏れている。その光を紫と呼ぶ者も、緑と呼ぶ者もいた。けれど紫だと言われて見直せば緑に見え、緑だと思った途端、今度は生まれて初めて見る色になった。
見つめていると、自分が知っていた色の数を一つ忘れる。
だから町では、それを「余光」と呼んだ。世界に余っているはずのない、余分な光。
余光が現れてから、井戸水は金属の味になった。畑の蕪は皮の内側に歯を生やし、浜に打ち上げられた魚は、死んでいるのに潮の満ち引きを歌った。三日前には、灯台守が妻の名を忘れた。昨日は妻のほうが、自分に夫がいたことを忘れた。
島を捨てるしかない。
大人たちはそう決めた。
けれどミナは、大人が何かを「仕方ない」と呼ぶとき、その半分は疲れて考えるのをやめただけだと思っていた。
「井戸の下に潮心機がある」とミナは言った。
テトが目を丸くした。
ボルクは小麦袋を落とした。
イリだけは、驚かなかった。
「お父さんの地図を見つけたのね」
ミナは外套の内側から、薄い革片を取り出した。
五年前、測路師だった父セイル・ヴェルは、大井戸の地下を調べに行ったまま戻らなかった。残された道具は、壊れた方位輪と、どの方向にも北を示さない針だけ。母は去年、島外の療養院へ渡り、ミナは叔母の家で暮らしていた。
昨夜、荷造りのため父の道具箱をひっくり返したとき、方位輪の裏板が外れた。中から出てきたのが、この革だった。
普段は何も描かれていない。
だが余光にかざすと、銀色の線が浮かび上がる。
線は大井戸から始まり、島の地下を渦巻いて、岬の真下へ伸びていた。終点には歯車にも心臓にも見える印があり、その脇に父の字で書かれている。
潮心機。
ラスカの水はここから始まる。
余光が目覚めたなら、七つの水門を開け。
竜に、奪ったものを返せ。
「潮心機を動かせば、水を入れ替えられるかもしれない」とミナは言った。「井戸をきれいにできれば、島を捨てずにすむ」
「大人に見せた?」とボルク。
「見せた。モルガ検地官に取り上げられそうになったから、偽物を渡した」
テトが口笛を吹いた。
モルガ・ケインは、王都から来た検地官だった。余光の発生以来、銀色の仮面をつけ、役人と兵を連れて井戸や畑を調べている。彼が評議会へ退去を命じた張本人でもある。
「偽物には何を描いたの?」とイリ。
「評議堂の便所から崖下へ抜ける道」
ボルクが深くうなずいた。
「それは価値ある地図だ」
ミナは革を丸めた。
「大井戸の入口は封鎖されてる。でも父の地図には別の入口がある。古い燻製小屋の地下。三日後じゃ遅い。潮がいちばん下がる今日の正午に入る」
「つまり」とテトが言った。「探検だ」
「修理よ」
「地下都市の探検修理」
「帰ってきたら好きに呼べばいい」
ボルクは路地に落とした小麦袋を拾った。
「帰ってきたらパンを焼く。生きて帰る理由は多いほうがいい」
イリは大井戸を見たまま、そっと自分の胸に手を当てた。
余光が脈打つたび、彼女の瞳の奥に、金色の細い輪が浮かんだ。
「急いだほうがいい」と彼女は言った。「下で何かが、わたしの知らない名前で、わたしを呼んでる」
二 一息門
燻製小屋は、町の北端で半分崩れていた。
床板を外すと、塩漬け樽の下から石段が現れた。湿った空気が吹き上がり、四人の髪を撫でる。魚油のランタンを掲げると、壁の向こうまでびっしりと古い文字が刻まれていた。
「読める?」ミナがイリに聞いた。
「文字じゃない。音の跡」
イリは指先で溝をたどった。
「昔ここを通った水が、石に残した癖。たぶん『下るものは息を一つにせよ』」
「息を一つ?」
「全員で息を止めるとか?」とテト。
「ぼくは長いぞ」とボルク。「干し肉を口に入れたまま二分」
「それは息じゃなくて噛むのを止めてるだけ」
階段の先は、丸い石扉で塞がれていた。中央に四つの窪みがある。ミナが手を当てると、扉の中から低い唸りが返った。
イリは目を閉じた。
「四つの窪みに手を。わたしが合図したら、同時に息を吐いて」
四人が手を置く。
石は冷たいのに、内側で巨大な生き物が眠っているような温みがあった。
「せーの」
息を吐いた。
何も起こらない。
テトが肩をすくめた瞬間、ボルクの腹がぐう、と鳴った。
石扉も、ぐう、と鳴った。
次の瞬間、扉が内側へ沈み、床が消えた。
「ボルクの腹が鍵だった!」
「誇っていいのか、それは!」
四人は声を上げながら、濡れた斜面を滑り落ちた。
塩の結晶が光る長い水路だった。曲がるたびに速度が増し、壁から石の歯が突き出してくる。ミナは地図を胸に押さえ、テトは歓声を上げ、ボルクは「光! もっと光!」と叫び、イリはなぜか笑っていた。
最後に水路が途切れ、四人は浅い水溜まりへ投げ出された。
しばらく誰も立たなかった。
「修理って」とボルクがうつ伏せのまま言った。「もっと梯子を持って、ゆっくりするものじゃないのか」
「帰りに梯子をつける」とミナ。
「帰りがある前提で話してくれるのは助かる」
水路の先に、巨大な空洞が広がっていた。
天井から無数の石管が垂れ、風が通るたび笛のように鳴る。細い橋が空洞を横切り、その下には底の見えない闇が口を開けている。橋の入口には、頭のない石像が二体。片方は人間の体、もう片方は翼と尾を持っていた。
テトが石管の一本を叩いた。
ぼうん、と低い音が響く。
すると橋の中央から、刃のついた振り子が落ちた。
「叩くな!」
「もう叩いた!」
橋全体が動き始めた。石板が一枚ずつ裏返り、下の闇へ落ちていく。
ミナは地図を開いた。銀の線の脇に、七つの短い印がある。
「音の順番だ。高い、低い、低い、高い――」
「石管が多すぎる!」
「長さで音が違う」とテトが走った。「短いのが高い!」
振り子が風を切る。
ボルクが一歩前へ出て、丸い盾代わりに小麦袋を掲げた。刃が袋を裂き、白い粉が爆発した。四人は頭から真っ白になる。
「パンが!」ボルクが悲鳴を上げた。
「あとで拾って焼いて!」
「石粉入りになる!」
テトが石管を順番に叩く。
高い音。
低い音。
もう一度低い音。
最後の高い音を鳴らす管は、橋の向こう側にあった。
足元の石板が一枚、二枚と落ちる。
イリが橋へ飛び出した。
「待って!」ミナが叫ぶ。
振り子が迫る。
イリは腰を落とし、刃の下を滑った。外套の裾が切れ、灰色の布が舞う。彼女は向こう岸へ転がり、いちばん短い石管に手を伸ばした。
だが、指が届かない。
最後の石板が傾く。
ボルクがミナの腰をつかみ、ミナがテトの足をつかみ、テトが橋から身を乗り出した。三人が一本の鎖のようになり、テトは工具袋から鉤付きの針金を投げる。
鉤が管に引っかかった。
「イリ、引け!」
イリが針金をつかみ、体重をかけた。
甲高い音が鳴り渡る。
振り子は、ミナの鼻先で止まった。
落ちかけた石板が、ゆっくり元へ戻る。
四人は橋を渡り切ると、粉まみれの顔を見合わせた。
テトが最初に笑った。
ミナも笑った。
イリは腹を抱えた。
ボルクだけは破れた小麦袋を抱きしめて泣いた。
「笑うな。これは家族だった」
そのとき、背後の水路から金属音がした。
誰かが石扉を開けた音。
続いて、規則正しい靴音が降りてくる。
ミナの笑いが消えた。
「モルガだ」
橋の向こう、暗い通路へ四人は走った。
三 余光の果樹園
通路の壁は、途中から石ではなくなった。
半透明の根が絡み合い、その内側を光る液体が流れている。地下なのに枝が伸び、葉が茂り、丸い実が揺れていた。実の表面には、人のまぶたのような筋がある。
ミナたちが近づくと、一斉に目を開けた。
四人分の目だった。
ミナの目。
イリの目。
ボルクの目。
テトの目。
「ぼく、あんなにまつ毛長い?」とテトが囁く。
「静かに」
果樹園の奥で、何かが水を飲んでいた。
鹿に似ていた。脚が六本あり、頭の代わりに大きな花が咲いている。花弁の中央には濡れた歯が並び、一本ずつ、誰かの名前を噛んでいた。
「マーレン」
かちり。
「灯台」
かちり。
「母」
かちり。
名前が噛み砕かれるたび、ミナの記憶から何かが薄くなった。
マーレンとは誰だろう。
灯台は何のための建物だったか。
母という言葉は、どんな人を指したのか。
イリがミナの手を強く握った。
「見ないで。余光が、言葉を餌にしてる」
余光は果樹園のいたるところに染みていた。
それは色ではなく、色と色の隙間だった。
青を思い出させた直後に、青という記憶を奪う。
赤より熱く見えたかと思えば、冷たいという感覚の意味をほどく。
見つめるほど、世界を区切っていた境目が溶けていく。
果実の目が瞬いた。
ミナの前に、父が立っていた。
五年前と同じ革の上着。濡れた髪。片方だけ少し上がる笑い方。
「遅かったな、ミナ」
胸の奥で、何かが裂けた。
「父さん?」
父は果樹園の奥を指した。
「潮心機は壊れてる。もう直らない。こっちへ来い。お前に見せたい地図がある」
ミナの足が動く。
手をつかんでいたイリが遠くなる。
テトの声も、ボルクの荒い息も、水の底から聞こえるようだった。
「ミナ!」イリが叫んだ。「それは根音がない!」
父が微笑む。
「根音なんて、古い迷信だ。お前はいつも、自分の目で確かめただろう」
その言い方まで父に似ていた。
ミナは一歩、また一歩と進んだ。
足元の根が開き、黒い泥の穴が口を開ける。穴の底では、無数の白い指が、こちらへ手招きしていた。
突然、後頭部に硬いものが当たった。
ボルクの最後の丸パンだった。
「痛っ!」
「父親なら、パンをぶつけても許してくれる!」ボルクが叫んだ。「偽物なら怒る!」
父の顔が歪んだ。
口が耳まで裂けた。
ミナは泥穴の縁から跳び退いた。
花頭の鹿がこちらを向き、六本の脚で駆けてくる。
「走れ!」
四人は根の間を逃げた。
背後で歯が鳴る。
果実の目が一斉に泣き始め、涙が余光になって地面を這う。
テトが根に足を取られた。余光が彼の踵に触れる。
テトの影が、体から半歩遅れて立ち上がった。
「置いていけ」と影が言った。「こいつは小さい。役に立たない」
テトの顔から血の気が引いた。
「それ、ぼくの声だ」
「声だけだ!」ミナはテトを引き起こした。「中身は違う!」
「中身って何!」
「うるさくて、勝手で、釘を口に入れて、絶対に置いていかれないやつ!」
テトが一瞬、泣きそうな顔をした。
それからいつもの調子で言った。
「釘は便利だから入れてる!」
四人は昔から使っていた合図を鳴らした。
指で壁を、短く二回。
長く一回。
もう一度、短く二回。
子どものころ、親に見つからず屋根裏へ集まるために決めた合図だ。
言葉ではないから、余光にも噛み砕けない。
とん、とん。
とおん。
とん、とん。
ミナ。
イリ。
ボルク。
テト。
互いの顔を見て、互いがいることを確かめる。
果樹園の出口に、鉄の格子が下りていた。
「鍵がない!」ボルク。
「鍵穴もない!」テト。
イリが格子に両手を当てた。
「これ、扉だと思ってる」
「扉でしょ」
「違う。昔は水だった。固められて、扉の役をさせられてる」
イリは目を閉じ、格子の根音を探した。
喉の奥から低い声が出た。
人の声に、もう一つ、遠い雷のような声が重なる。
「流れて」
鉄が震えた。
次の瞬間、格子は銀色の水になって床へ崩れた。
四人が向こうへ飛び込む。
イリが最後に転がり込むと、テトが壁のレバーを下げた。石戸が閉まり、花頭の鹿の歯が石の向こうで激しく鳴った。
静寂が戻る。
イリは自分の両手を見た。
指の付け根に、細かな金色の鱗が浮かんでいた。
彼女は慌てて袖を引いたが、全員が見ていた。
「今の声」とミナが言った。「あなた一人じゃなかった」
イリは答えなかった。
代わりに、暗い通路の先から声がした。
「見事だ。やはり君が鍵だった」
銀の仮面が、ランタンの光を返す。
モルガ検地官が、三人の兵を従えて立っていた。
四 名を量る男
モルガの仮面には、目の穴がなかった。
それでも彼は見えているらしい。黒い手袋の指先が、まっすぐイリを指した。
「五年前から探していた。竜鱗から生まれた子を」
ミナはイリの前に立った。
「何の話?」
「彼女自身に聞くといい」
イリは唇を噛んだ。
モルガの兵が短弓を構える。矢尻は透明な石でできていた。余光を遮る「無響硝子」だと、ミナは評議堂で聞いたことがある。
「話して」とミナは言った。
責めるつもりはなかった。
けれど声が固くなった。
イリは袖の下の鱗を見た。
「わたしは赤ん坊のとき、大井戸の底で見つかった」
そのこと自体は皆が知っていた。町の井戸守が籠に入った赤ん坊を拾い、音綴り屋敷へ預けたのだ。
「でも籠じゃなかった。金色の皮みたいなものに包まれてた。師匠は、それが竜の抜け殻だって」
「竜なんて、おとぎ話だろ」とボルク。
「おとぎ話は、古すぎて証人がいなくなった出来事だ」とモルガが言った。「ラスカの地下には一頭いる。眠らされ、切り分けられ、町の水路として使われている」
テトが顔をしかめた。
「水路として?」
「古代人は賢かった。竜の血は熱を運び、骨は山を支え、呼気は水を清める。彼らは竜の根音を奪い、命令へ縫いつけた。潮心機とは機械ではない。竜そのものだ」
モルガはミナへ手を差し出した。
「地図を渡せ。私は潮心機を制御し、余光を王都へ運ぶ」
「井戸を直すんじゃないの?」
「井戸一つより、王国の未来が重要だ。余光は、名前を剥がす。国境も、誓約も、血統も、反乱者が自分を何者だと思っていたかさえ消せる。正しく用いれば、争いのない国ができる」
「誰も自分の名前を覚えてない国が?」テトが言った。「それ、国じゃなくて空き箱だ」
モルガの仮面が、わずかに傾いた。
「子どもは、名前を自由だと思う。大人になれば知る。名前とは所有だ。土地に名をつけた者が土地を持つ。罪に名をつけた者が裁く。人に名をつけた者が、その役目を決める」
イリが小さく言った。
「だから、あなたは仮面を?」
モルガの手が止まった。
「自分だけは、量られたくないんだ」
兵の一人が笑いかけ、慌てて口を閉じた。
モルガは指を鳴らした。
透明な矢が飛んだ。
ミナが身を伏せる。矢は背後の壁へ刺さり、そこにあった音をすべて消した。石戸を叩く鹿の音も、四人の息遣いも、一瞬で無音になる。
兵が駆けてくる。
ボルクは空になった小麦袋を兵の頭へかぶせ、肩から体当たりした。テトは床に油を撒き、二人目の足を滑らせる。ミナは地図を丸めて外套へ押し込んだ。
だが三人目の兵がイリの首へ無響硝子の輪をはめた。
イリの膝が落ちる。
金色の鱗が消えた。
「イリ!」
モルガが彼女の肩をつかむ。
「案内してもらおう。君の中には、竜へ帰ろうとする響きがある」
ミナが飛びかかったが、仮面の男は片手で彼女を払った。背中が壁へぶつかり、息が止まる。
モルガは地図を奪った。
「安心しろ。余光を取り出したあと、島民は退去させる。多くは助かる」
「多くって、何人」
「必要なだけだ」
彼はイリを引きずり、通路の奥へ進んだ。
兵たちも続く。
石戸の向こうで、花頭の鹿がまた名前を噛み始めた。
ミナは立ち上がった。
肘が痛み、口の中に血の味がする。
「追うよ」
「当然」とテト。
ボルクは倒れた兵からランタンを取り上げた。手が震えていた。通路の先は、これまでより深い闇に沈んでいる。
「光を大切にする性格なんだけどな」と彼は言った。「友だちは、もっと大切だ」
三人は走った。
五 井戸の底の都
通路は突然、空へ開いた。
地下に空があるはずはない。
だがそこには、夜より広い空間があった。
逆さまの都市が、天井から吊り下がっている。尖塔も家々も橋も、すべて下向きに伸び、その屋根から水滴が星のように落ちていた。底には鏡の湖があり、逆さの都市をもう一度映している。上と下、どちらが本物か分からない。
都市の中心を、巨大な金色の骨が貫いていた。
肋骨は橋。
背骨は水道。
翼の骨は二つの崖を結び、頭蓋骨は湖の中央で半分沈んでいる。
竜だ。
死骸ではない。
骨の隙間には薄い膜が張り、ゆっくり脈打っていた。呼吸するたび、都市じゅうの水が上下する。
「でかすぎる」とテトが呟いた。
「おとぎ話は」とボルクが言った。「大きさをちゃんと書くべきだ」
三人は肋骨の橋を走った。
先では、モルガがイリを頭蓋骨の上へ立たせていた。無響硝子の輪から伸びた鎖が、古い装置へつながれている。装置の周囲には七つの水門。どれも閉ざされ、中央の井戸から余光が噴き上がっていた。
余光の中に、黒い石が浮いている。
拳ほどの大きさ。
表面は濡れてもいないのに、周囲の光がそこへ落ち込む。
見ているだけで、自分の目が何のためにあるのか分からなくなる。
「空から落ちた種だ」とモルガが言った。「世界の外側から来た。古代人は竜を杭にして封じたが、封は弱っている」
彼は地図を装置の台へ広げた。
「七つの水門を開けば、余光を潮流へ押し出せる。そこまでは君たちの目的と同じだ。ただし、流れの先は私が選ぶ」
装置の側面には、王都へ続く地下脈の図が刻まれていた。
「王都まで運ぶ気だ」とミナ。
「王が持てば秩序となる」
「あなたが持つんでしょ」
モルガは答えず、イリの首輪を締めた。
「竜を起こせ」
「やり方を知らない」
「知っている。君の骨が知っている」
イリの顔が苦痛に歪む。
喉から声が漏れた。
それは言葉ではなかった。
山が生まれるときの亀裂。
雲の中で雷が相手を探す音。
卵の内側から、まだ見たことのない空を呼ぶ音。
金色の骨が震えた。
都市の窓が一斉に明るくなる。
湖から水柱が立ち、竜の頭蓋骨へ肉と鱗が戻り始める。
まず、目が開いた。
瞳孔が縦に裂け、その奥に夜明けが何百回も重なっていた。
次に、声が響いた。
『誰が、私の一つを盗んだ』
音ではなかった。
問いが直接、骨の内側へ刻まれた。
兵たちは耳を押さえて倒れた。
モルガだけが立っている。
「私だ」と彼は言った。「いや、正確には、私の前にいた者たちだ。だが今からは私が命じる」
彼は地図の裏に隠されていた細い文字を読み上げた。
ミナの父が記したものではない。
もっと古い、竜を縛るための音列。
竜の瞳が細くなる。
骨の橋が軋み、巨体が持ち上がりかけて、見えない鎖に引き戻された。
『その音は、私ではない。私から切り取られた傷だ』
「傷でも名は名だ」
『小さな量り手よ。海を器に入れ、器を海と思ったか』
モルガは装置のレバーへ手をかけた。
「水門を開けろ。余光を北脈へ流せ」
竜の首が苦しげに曲がる。
イリが叫んだ。
「やめて!」
その声に、竜が目を向けた。
長い沈黙。
『ああ』
竜の声が、今度はひどく静かだった。
『私が脱ぎ捨てた道が、人の形を選んだのか』
イリは首輪に手をかけた。
「わたしは、あなたなの?」
『違う』
答えは即座だった。
『鱗は私だった。落ちたあと、雨を受け、石に触れ、人の手に抱かれた。そこから先は、お前だ。火から生まれた灰を、火そのものとは呼ばぬ』
イリの目から涙が落ちた。
モルガが苛立ったように鎖を引く。
「感傷はあとだ。お前は竜の一部だ。役目を果たせ」
イリは顔を上げた。
「今、違うって言われた」
「怪物の言葉を信じるのか」
「わたしを道具と呼ぶ人よりは」
ミナはテトへ目配せした。
短く二回。
長く一回。
短く二回。
テトがうなずく。
ボルクは肋骨の橋の下へ回り込んだ。
ミナはモルガへ向かって走った。
「また子どもの突進か」
モルガが腕を振る。
だがミナは彼を狙っていなかった。
足元の地図を蹴り上げた。
革が宙を舞う。
テトが工具袋からばね式の挟み具を飛ばし、地図を空中でつかむ。
「取った!」
兵がテトへ矢を向ける。
その背後からボルクが現れ、兵二人をまとめて湖へ突き落とした。水深は腰までしかなく、二人は派手なしぶきを上げた。
「暗いところは嫌いだが」とボルクは言った。「悪いやつを明るい水へ落とすのは好きだ」
ミナは装置へ飛びつき、首輪の鎖を固定している楔を抜いた。
モルガが彼女の髪をつかむ。
「何をしているか分かっているのか。竜を解けば、島ごと焼かれる」
『焼く価値があるかは、見て決める』
竜が答えた。
ボルクが青ざめた。
「冗談だよな?」
『半分』
「竜の冗談は大きさを書いてくれ!」
テトが投げた小さな鑿が、首輪の留め金に刺さった。
イリが両手で引く。
無響硝子が割れた。
声が戻る。
水の轟き。
骨の軋み。
余光の、音にならない咀嚼。
そしてイリの喉から、二つの声が重なって響いた。
「流れて」
首輪が銀の水になり、床へ落ちた。
六 七つの水門
自由になった竜は、すぐには動けなかった。
古い音列が鎖となり、骨の節々へ食い込んでいる。竜が身じろぎするたび、逆さの都市から石片が雨のように降った。
中央井戸の余光は、急速に膨らんでいた。
果樹園で見た鹿の花。
灯台守の忘れた妻。
ミナの父の顔。
それらが光の表面に浮かび、溶け、また別の形になる。
『星喰いが満ちる』と竜が言った。『七つの水門を開けねば、この島の名は夜明けまでに失われる』
ミナは父の地図を広げた。
七つの水門は、都市の各所に散っている。
潮位が最も低い今だけ、すべての操作路が通じる。
正午の底潮が終わるまで、残りはわずか。
「手分けしよう」とミナ。
「一人で行く道もある」とテトが地図を指した。
「だから?」
「だから、合図を忘れない」
とん、とん。
とおん。
とん、とん。
四人は拳を重ねた。
第一の水門は、竜の左翼の先。
第二は右の肋骨。
第三と第四は逆さ都市の尖塔。
第五は湖底。
第六は中央井戸の直下。
第七だけは、地図に位置が描かれていない。
「第七は竜の中だ」とイリが言った。「心臓の音が、閉じてる」
『よく聞く子だ』
「壊れてる耳だから」
『一つしか聞こえぬ耳を、この世界では正しいと呼ぶのか』
イリが少し笑った。
ミナは命じた。
「テト、尖塔の二つ。仕掛けを読めるのはあなた。ボルク、湖底。息が長い」
「干し肉なしでも?」
「試すときよ。私は両翼を回る。イリは第六と第七」
「モルガは?」テトが聞いた。
全員が振り向いた。
検地官は中央装置の前に立ち、銀の仮面を外していた。
初めて見る顔は、驚くほど普通だった。痩せた頬。黒い目。額に古い火傷。
「手分けは合理的だ」と彼は言った。「だから失敗する。一人ずつなら止めやすい」
彼の手には、黒い石から伸びた余光が絡みついていた。
「触ったの?」ミナは息を呑んだ。
「私は名を量る者だ。名を食うものなど、器にすぎない」
余光が腕を這い上がる。
モルガの皮膚から、皺が消え、傷が消え、やがて顔の輪郭そのものが曖昧になっていく。
『離せ』竜が警告した。『それは器ではない。穴だ』
「黙れ。お前の傷の名を私は知っている」
モルガは古い音列を叫んだ。
竜が苦鳴を上げる。
同時に、余光が爆発した。
都市の通路へ七本の光が走る。
水門を守るように、記憶から作られた怪物が立ち上がった。
「今!」ミナが叫んだ。
四人は散った。
ミナは左翼の骨を走った。
足元の膜が呼吸に合わせて上下する。下は鏡の湖。上からは逆さの家々が落ちてくる。
第一水門の前に、父がいた。
今度の父は果樹園より年老いていた。五年分の白髪があり、目尻に知らない皺が増えている。
「ミナ」
彼女は止まらなかった。
「偽物」
「そうかもしれない」
父は寂しそうに笑った。
「でも、お前が覚えている私からできている。なら、どこまでが偽物だ?」
足が鈍る。
父は水門の輪へ手を置いた。
「これを開ければ、余光は私の残りも連れていく。お前の中にいる私も、少し薄くなる」
ミナは輪をつかんだ。
「父さんなら、どうしろって言う?」
「決めるのはお前だと言う」
「やっぱり、ずるい」
「親はたいてい、最後にそれを言う」
ミナは歯を食いしばり、輪を回した。
第一水門が開く。
轟音とともに海水が流れ込む。
父の姿が透けた。
「地図は、続きを描け」
それだけ言って、光になった。
ミナは泣かなかった。
泣くのは両方を開けてからだ。
テトの前には、無数の自分がいた。
背の高いテト。
王都の工房で金の服を着るテト。
失敗して指を失ったテト。
友だちに置いていかれたテト。
大人になれなかったテト。
「どれが本物?」と全員が同時に聞く。
テトは尖塔の歯車を見た。
歯が一本欠けている。
「今、ここで、これを直すぼくだ」
口から釘を取り出し、欠けた部分へ差し込む。
「釘を口に入れるのは危ない」と大人のテトが言った。
「知ってる!」
歯車が回る。
第二、第三の水門が開いた。
偽物たちは、そろって呆れた顔をし、消えた。
湖底で、ボルクは暗闇に包まれていた。
ランタンは水中で使えない。
光を大切にする彼にとって、世界でいちばん嫌いな場所だった。
足首を何かがつかむ。
水草ではない。
幼いころ、嵐で亡くした兄の手だ。
『一人で暗いところに置いていった』
兄の声が水の中で聞こえる。
ボルクの肺から空気が漏れた。
あの日、二人は浜の洞窟にいた。
兄はボルクを出口へ押し、自分は戻らなかった。
それ以来、暗闇に入るたび、ボルクは兄を置いてきた気がした。
手が彼を湖底へ引く。
ボルクは目を閉じた。
そして兄の手を、握り返した。
ごめん、ではなく。
ありがとう、でもなく。
ただ一度、強く。
手は水へほどけた。
ボルクは湖底の輪へたどり着き、両腕で回した。
第四水門が開く。
水流が彼を上へ押し上げる。
水面へ出たボルクは、最初の一息で叫んだ。
「干し肉なしでも長かったぞ!」
イリは中央井戸の縁へ立った。
第六水門の操作輪は、余光のすぐ上にある。
近づくほど、自分の名前が遠くなる。
イリ。
誰がつけた名だったか。
井戸守か。
音綴りの師匠か。
自分か。
余光の中から、別の呼び声が上がる。
竜鱗。
道具。
鍵。
失われた一部。
人の真似。
どれも彼女を一つの形へ押し込めようとする名だった。
『名前を捨てれば、傷つかない』
余光が囁いた。
『何者でもなければ、誰にも奪われない』
イリは操作輪へ手を伸ばした。
皮膚が透ける。
指の中に、金色の小さな骨が見えた。
「わたしは、一つじゃない」
『なら、偽物だ』
「一つしかないもののほうが、少ないよ」
イリは思い出す。
猫を魚にした失敗。
ボルクの焼いた焦げパン。
テトが寝ながら工具を握る癖。
ミナが怖いときほど早口になること。
師匠に叱られた夜。
井戸守の硬い手。
自分で初めて選んだ青い紐。
「わたしはイリ。竜鱗から始まって、人に抱かれて、友だちとここまで来た。明日は別のものが増える。それでいい」
金色の鱗が両腕へ広がる。
イリは操作輪を回した。
第五水門が開いた。
だが第六は動かない。
モルガが余光の腕で輪を押さえていた。
「増えるだけでは、形にならない」と彼は言った。
顔の半分が消えている。
声も、自分のものと他人のものが混ざっていた。
「人は定義されなければ、責任を持てない。王は王、罪人は罪人、竜は獣、道具は道具だ」
「あなたは?」
モルガが止まる。
「あなたは、誰?」
「私は――」
言葉が出ない。
余光は、すでに彼の名を食べていた。
役職を食べ、目的を食べ、傷を食べ、それでも彼は黒い石を離せない。
「私は、量る――」
「何を?」
「名を」
「誰のために?」
「王の――」
「王って誰?」
モルガの残った目が揺れた。
余光が彼の肩から花のように開く。
彼は初めて、恐怖の声を上げた。
「私を呼べ。私の名を言え」
イリは首を振った。
「知らない」
それは残酷な答えではなかった。
本当に、もう分からなかった。
余光がモルガを包む。
ミナが走り込んできて、イリの腰をつかんだ。
「離れて!」
二人は床へ転がる。
モルガのいた場所で、黒い石が大きく脈打った。
男の姿は消え、銀の仮面だけが落ちた。
だが余光の中から、手が一本伸びた。
何者でもなくなった男が、なお助けを求めていた。
イリは反射的に手を伸ばした。
「駄目!」ミナが叫ぶ。
イリはその手をつかんだ。
冷たくも熱くもない。
重くも軽くもない。
触れた感覚の名が、次々に消える。
「あなたが誰だったか、わたしは知らない」とイリは言った。「でも今、助けを求めてる人だ。それだけは呼べる」
ミナも腕をつかむ。
ボルクが湖から駆け上がり、二人ごと引く。
尖塔から戻ったテトが、腰へ縄を巻いた。
四人で引いた。
余光から、一人の男が吐き出された。
髪も眉も白くなり、顔には何の表情もない。
彼は自分の手を見て、子どものように瞬いた。
「……ここは?」
「説明はあと」とミナが言った。「生きてて」
ボルクが男を担いだ。
「第五まで開いた。残り二つ!」
「第六はこれ!」
四人で操作輪へ手をかける。
押す。
軋む。
余光が指の間へ入り込み、名前を剥がそうとする。
とん、とん。
とおん。
とん、とん。
テトが輪を叩いた。
ボルクが続く。
ミナ。
イリ。
輪が回った。
第六水門が開く。
海水が七方向から中央井戸へ集まり、黒い石を押し上げた。
逆さ都市全体が揺れる。
竜の胸の奥で、最後の水門が閉じたまま震えている。
『最後は、私の傷にある』と竜が言った。『奪われた音を返せば開く。だが返した者は、音に巻き込まれるかもしれぬ』
イリは竜の頭へ歩み寄った。
ミナが腕をつかむ。
「巻き込まれるって?」
『人の形を保てぬかもしれぬ』
「別の方法は?」
『あるかもしれぬ。千年考えれば』
「底潮は?」
「あと九分!」テト。
イリはミナの手を握り返した。
「わたしが行く」
「駄目」
「ミナ」
「駄目ったら駄目。地図には『竜に奪ったものを返せ』ってある。でも、あなたを返せとは書いてない」
竜の瞳が、二人を映した。
『賢い地図師の子だ』
「父が書いたの」
『なら、父も賢かった』
ミナは古い音列を思い返した。
モルガが読み上げた、竜を縛るための傷の名。
「返すのは音よ。イリじゃない」
「でも、その音はわたしの中にある」
「なら、外へ出して、あなたは残ればいい」
「どうやって?」
テトが工具を広げた。
「音なら、管に移せる。さっきの石笛みたいに」
ボルクが竜の肋骨を見上げる。
「竜の骨で笛を作るのか?」
『生きている相手の骨を勝手に削るのは、たいてい無礼だ』
「すみません」
『だが今は許す。右から十三番目は、昔折れた。そこなら痛くない』
テトとボルクが走った。
ミナは地図を筒状に丸め、骨笛へつなぐ風路を描く。
イリは竜の額へ手を置き、目を閉じた。
「あなたを、何て呼べばいい?」
『古い名は鎖になった。今はまだ、持たぬ』
「名がなくても平気?」
『空は毎朝、違う色でも空だ』
「それ、余光の前でも言える?」
『……今日は言い方が悪かった』
イリは笑った。
「じゃあ新しい名を、一緒に選ぼう」
『急ぐのではなかったか』
「選ぶのは今じゃない。今は約束だけ」
竜の鼻先が、ほんの少し下がった。
『よい。では、約束を私の最初の名とする』
テトが折れた肋骨へ穴を開け、風路をつないだ。
ミナの地図が管となり、竜の胸へ届く。
ボルクが巨大なふいごの軸を押さえる。
「準備!」
イリは息を吸った。
喉の奥から、奪われた音を一つずつ取り出す。
山の亀裂。
雲の雷。
卵の内側から空を呼ぶ音。
それは彼女の始まりにあった。
けれど、彼女のすべてではなかった。
音が地図の管を通り、骨笛へ入る。
竜の胸の奥で、何かがほどけた。
イリの腕から鱗が消えていく。
膝が震える。
ミナが背中を支えた。
「ここにいる」
テトが笛を押さえる。
「ぼくも」
ボルクがふいごを踏む。
「パンも」
「今それ必要?」とテト。
「生きる話には必要だ!」
最後の音が、竜へ戻った。
七番目の水門が開いた。
七 星喰いを空へ
潮心機が目を覚ました。
逆さ都市のすべての窓から水が噴き出し、七つの流れが一つの渦になる。黒い石は渦の中心で回り、余光を引き剥がされていった。
竜の骨に肉が戻る。
翼の膜が張る。
金色の鱗が、夜明けの海のように波打つ。
だが天井は閉じていた。
「出口がない!」テト。
『作る』
竜は鎖の残りを引きちぎった。
逆さ都市が崩れ始める。
尖塔が湖へ落ち、巨大な波が立つ。
竜は四人と、名を失った男を片方の前脚で抱えた。
「持ち方が荷物!」ボルクが叫ぶ。
『落ちぬ持ち方だ』
「そういう問題じゃ――」
竜が吠えた。
炎ではない。
水と雷と、まだ名のない朝の光が喉から放たれる。
天井が割れた。
上には何層もの岩盤と、大井戸と、ラスカの町があるはずだった。
だが竜の咆哮は、石を焼かずに「閉じている」という性質だけを吹き飛ばした。
一直線の空が開く。
潮心機の渦が黒い石を押し上げる。
星喰いは余光の尾を引き、大井戸を抜け、町の広場を抜け、雲へ昇った。
竜も翼を広げた。
最初の一打ちで、湖が割れる。
二打ち目で、逆さ都市が遠ざかる。
三打ち目で、四人は地上へ飛び出した。
ラスカの人々が、広場で空を見上げていた。
家財を積んだ荷車。
出航を待つ舟。
白い退去命令。
すべてが竜の風で舞い上がる。
竜は町の上を旋回し、雲へ向かった。
星喰いは上空で止まり、脈打った。
余光が島全体へ広がろうとする。
屋根の色が抜ける。
海の名が薄れる。
人々が隣に立つ家族の顔を見て、誰だったか思い出せずにいる。
「追いつける?」イリが竜へ聞いた。
『私は千年、杭だった。翼が眠っている』
「起こして」
『どうやって』
ミナたちは顔を見合わせた。
答えは一つしかなかった。
とん、とん。
とおん。
とん、とん。
竜の鱗を四人で叩く。
町の子どもたちが、それを見た。
昔、屋根裏へ集まる合図を知っている者たちだ。
一人が樽を叩いた。
とん、とん。
とおん。
とん、とん。
別の子が鍋を叩く。
漁師が船縁を叩く。
粉屋が臼を叩く。
灯台守の妻が、夫の手を取り、その手で鐘柱を叩く。
島じゅうに、同じ拍子が広がった。
言葉ではない。
誰のものでもない。
けれど、ここにいる者たちをつなぐ合図。
竜の翼が震えた。
『これは、何という名だ』
イリが答える。
「帰る場所の音」
『よい名だ』
竜は翼を打った。
雲を突き抜ける。
星喰いへ追いつく。
竜が口を開いた。
今度は炎だった。
金色でも赤でもない。
見る者それぞれが、自分のいちばん古い朝を思い出す色。
炎が黒い石を包む。
星喰いは悲鳴を上げなかった。
悲鳴という概念を知らないものだった。
ただ周囲の星が一瞬だけ消え、空に小さな穴が開く。
穴の向こうには、世界の外側があった。
余光がそこへ吸い込まれる。
果樹園の目。
鹿の歯。
忘れられた名前。
父の姿。
最後に、ミナはもう一度だけ、父の声を聞いた。
続きを描け。
星喰いは穴の向こうへ落ちた。
竜は尾で空を打ち、穴を閉じた。
その瞬間、ラスカの大井戸から透明な水が噴き上がった。
八 朝の名
水は三日三晩、町じゅうを流れた。
畑の歯の生えた蕪は、歯だけを地面へ吐き出して普通の蕪に戻った。
魚は潮の歌をやめた。
灯台守は妻の名を思い出せなかったが、妻の好きな茶の濃さは覚えていた。二人は最初から名乗り直すことにした。
退去命令は、誰かが風に飛ばしてしまった。
評議会は「竜が出た場合の規則」を持っていなかったため、退去をいったん延期した。
モルガだった男は、生きていた。
自分の名も役目も思い出さない。
ただ、井戸端で水桶を運ぶと、なぜか水門の仕組みに詳しかった。町の者たちは彼を「ケイ」と呼ぶことにした。本人が、最初にその音へ振り向いたからだ。
罪が消えたわけではない。
記憶がなければ責任もないのか、大人たちは長く議論した。
イリは、その議論を急がせなかった。
「名前は役目を決める鎖じゃない。でも、したことまで消す布でもない」
音綴りの師匠たちは、彼女の言葉を聞いて黙った。
その翌日から、イリは「出来の悪い弟子」ではなく、「二つ以上を聞く弟子」と呼ばれるようになった。
テトは潮心機の図面を描き直し、古い水路へ安全な梯子をつけ始めた。最初につけた梯子は上下が逆だったが、本人は「登り方を考えさせる設計」と主張した。
ボルクは地下で粉まみれになった経験から、「振り子パン」という三日月形の固いパンを焼いた。評判は悪かった。
「武器としては優秀」とミナが評した。
「食べ物として評価してほしい」
ミナは父の地図を机へ広げた。
潮心機へ続く銀の線は消えていた。
代わりに、革の余白が広く残っている。
続きを描け。
ミナは新しいインクをすり、地上へ出た。
岬の上に、竜がいた。
金色の巨体を折りたたみ、灯台の隣で海を眺めている。町の者は最初こそ逃げ回ったが、竜が粉屋の煙突を壊した以外は何もしなかったので、今では子どもが尾を滑り台にして遊んでいた。
イリは竜の鼻先に座っている。
「名前、決まった?」ミナが聞いた。
『まだ三つしか決まらぬ』
「三つも?」
『朝に呼ばれる名。海で呼ばれる名。友に呼ばれる名』
「友だち用は?」
竜はイリを見た。
イリが答えた。
「アウロ」
古い言葉ではない。
偉い意味もない。
テトがくしゃみをしたときの音に少し似ている。
「どうして?」
「最初にみんなで聞いた朝の音に似てたから」
『私は気に入っている』
アウロは片翼を開いた。
『地図師の子。空から島を見ぬか。地下とは違う道が見える』
ミナは翼を見上げた。
高い。
怖い。
ものすごく、面白そうだった。
ボルクとテトが坂を駆け上がってくる。
「待て!」テトが叫ぶ。「ぼくも行く!」
「朝飯を食べてから!」ボルクは籠を掲げた。「生きる話には必要だ!」
ミナは笑った。
四人は竜の背へ乗った。
町の鐘が一度だけ鳴る。
今度は警告ではない。
出発の合図だった。
アウロが翼を打つ。
ラスカ島が小さくなる。
井戸は朝日を映し、ただの透明な水の色をしていた。
ミナは新しい地図の最初の線を引いた。
それは島から始まり、まだ誰も名前をつけていない海の向こうへ伸びていた。
了