『氷牙谷と星喰いの犬』

一 町が売られる日

 異世界アルカラでは、冬は空から降ってくるのではない。

 北の裂け目から、白い獣のように這ってくる。

 その冬が、崖町クレヴァを呑もうとしていた。

 町は巨大な青い氷壁の腹に、釘と鎖で貼りついている。家々の屋根は古い飛空艇の翼板、煙突は大砲の筒、通りは上下ではなく、斜めと逆さまに走っていた。住人はみな、命綱を腰に巻いて暮らす。パン屋の隣には雲があり、学校の裏口を開けると千尋の谷だった。

 サクヤ・レムは、その町が大好きだった。

 だから、町役場の扉に打ちつけられた赤い紙を、三度読んでも信じなかった。

 ――未払いの暖房税および旧王国債務の担保として、明日の日没をもって崖町クレヴァ全域を黒曜商会の所有とする。

 紙の下には、黒曜商会の印である三本牙の蛇が、ぬらぬら光る黒インクで押されていた。

「町を所有するって、どういうことだよ」

 パン屋の息子ペルが言った。十六歳で、樽のように丸く、丸太のように力が強い。怖がりなのを隠すため、いつも食べ物の話をする。

「屋根も井戸も、うちの窯も、全部あいつらのものになるってこと?」

「窯は渡さない」とサクヤは言った。「町も渡さない」

「サクヤ、紙に喧嘩を売っても勝てないよ」

 ミザルが、ずれた眼鏡を押し上げた。彼は壊れた機械を直すのが得意で、直した機械をもう一度壊すのはもっと得意だった。

「商会が欲しいのは町じゃない」と、最年少のリッカが言った。十二歳。小柄で、古いマントの下に三十七個の隠しポケットを持つ。「氷壁の中の霜鉄だよ。家を全部どかして掘るつもり」

 誰も、なぜリッカが商会の帳簿を読んだことがあるのかは尋ねなかった。尋ねると、自分の財布を確かめたくなるからだ。

 そのとき、通りの上方から鈴が鳴った。

 黒い鎖籠に乗って、黒曜商会の取立人たちが降りてきた。先頭に立つのは、毛皮の襟を肩幅より大きく広げた女、サフィキル夫人だった。銀歯を七本持ち、残りの歯も銀にするのが夢だと噂されている。

「明日の日没までだよ、崖ネズミども!」

 サフィキル夫人は、町じゅうに響く声で叫んだ。

「払えないなら荷造りをおし。広場に残った物は、家財も家族も商会の資産とみなす!」

 笑う取立人たちの腰には、火薬銃と氷斧があった。

 町の大人たちは目を伏せた。怒る者もいたが、税の証文は旧王国の印章つきで、逆らえば王都の衛兵が来る。逃げるにしても、冬の雪原を越えられる飛空艇は一隻も残っていなかった。

 サクヤは赤い紙を剥がし、四つに畳んでポケットへ押し込んだ。

「作戦会議」

「どこで?」とミザル。

「いつもの場所」

 四人は、町の最下層へ駆けた。

 そこには、百年前に墜落した飛空艇〈黄昏鴎号〉のボイラー室が、氷壁へ半分めり込んで残っている。大人は危険だから近づくなと言う。だから子どもたちは、そこを秘密基地にした。

 自分たちを「底抜け団」と名乗ったのも、このボイラー室だった。もっと格好いい名前に変えようという議題は、三年間、賛成二・反対二で保留されている。

 室内では、壊れた圧力計が壁一面に並び、風が吹くたび針を震わせていた。

 サクヤは、母の遺した革鞄を卓上へ置いた。

 母エノラは、王国一の道描きだった。地図にない道を探し、七年前、北の氷牙谷へ入ったまま帰らなかった。

 鞄の中には、擦り切れた手袋、真鍮の方位盤、文字の消えた手帳。それだけだと思っていた。

「これを売るの?」ペルが不安そうに言った。

「売らない。壊す」

「もっと悪い!」

 サクヤは方位盤を卓に置いた。針は北を指さない。いつも、クレヴァの真下を指していた。

 昨夜、気づいたのだ。盤の縁に刻まれた小さな点は傷ではなく、星座だった。母がよく口ずさんだ子守歌の、十二の星。

 サクヤは点を歌の順に押した。

 かちり。

 方位盤の裏蓋が開いた。

 中から出てきたのは、薄い銀皮に描かれた地図だった。

 クレヴァの地下を抜け、氷牙谷を横断し、死者の都ケルンを経て、雪原の果てに沈んだ巨大な船へ至る道。船の横には、母の字でこう書かれていた。

 〈冬越えの箱舟。王の宝ではない。春を眠らせた炉。黒い笛に触れるな〉

 その下に、別の筆跡で追記があった。

 〈この船に、クレヴァの最初の権利証を隠す。見つけた者に、町を託す。――初代町長オド・レム〉

 ペルが息を呑んだ。

「権利証があれば……」

「旧王国の債務より古い所有権を証明できる」とミザルが早口で言った。「少なくとも裁判まで採掘は止められる。春を眠らせた炉ってのが本物なら、売って税を払えるかもしれない」

 リッカは地図を光へ透かした。

「入口、ここ。基地の奥だ」

 四人は振り返った。

 ボイラー室のさらに奥。氷に塞がれた、丸い機関扉。

 これまで何度叩いてもびくともしなかった扉に、方位盤と同じ十二星の窪みが並んでいた。

 サクヤは方位盤をはめた。

 古い歯車が、百年ぶりに噛み合った。

 氷壁の腹の中で、何か巨大なものが目覚めたような音がした。

 扉が、ゆっくり開いた。

 奥から吹いた風は、墓の土と、遠い雪の匂いがした。

「日没まで、あと一日」とサクヤは言った。「宝を見つけて、帰ってくる」

 ペルは青ざめた。

「一日で?」

「近道だから地図に載ってないんだよ」

「それ、近道の説明じゃないよね?」

 サクヤはランタンを掲げ、闇へ踏み込んだ。

 底抜け団の残る三人も、文句を言いながら続いた。

二 氷壁の裏側

 通路は、氷の中を下っていた。

 壁の向こうに、古い魚や樹木や、翼のある人間の影が凍りついている。どれも今のアルカラにはいない生き物だった。彼らは透明な墓の中から、通り過ぎる子どもたちを見ていた。

「見られてる」とペルが囁いた。

「目を閉じてるよ」とミザル。

「閉じた目で見てるんだ」

 リッカが先頭へ滑り出た。彼女は足音の反響だけで空洞の広さを測れる。

「三十歩先、橋。下は深い。右の壁に穴が三つ。左から風」

「どうして分かるの?」

「耳がいいから」

「昨日、僕が棚に隠した蜂蜜菓子も耳で見つけた?」

「匂い」

 橋は、一本の鎖だった。

 鎖の下には青い闇があり、はるか下で氷河が軋んでいる。四人は命綱をつなぎ、順に渡った。真ん中まで来たとき、ミザルの鞄から金属音がした。

「何を持ってきたの」

「必要最低限」

 鞄から、折り畳み鍋、火花筒、逆巻きネジ、ぜんまい蛙、信号弾、壊れた目覚まし時計が覗いていた。

「どれが必要なの?」

「状況が必要性を決めるんだ」

 言った直後、鎖が切れた。

 四人は悲鳴を上げ、氷壁へ叩きつけられた。命綱が一本ずつ千切れ、最後にペルの腰縄だけが残った。三人分の体重を支え、ペルの顔が赤くなる。

「パン屋を……なめるな!」

 彼は片腕で鎖を掴み、もう一方で三人を引き上げた。

 ようやく反対側の棚へ転がり込むと、ペルは真っ先に言った。

「蜂蜜菓子、返して」

「無事を喜ぶ順番がおかしい」とリッカは言い、半分だけ返した。

 通路の終わりには、石の門があった。

 門には、長い首を持つ犬のような獣が、星を噛み砕く姿が刻まれていた。目の部分には黒い石が嵌まり、ランタンの光を吸い込んでいる。

 母の地図には、そこだけ赤い線が引かれていた。

 〈ここから先、音を立てるな〉

 四人は頷き合った。

 リッカが錠を覗き、針金を差す。

 かち。

 門が開く。

 その向こうで、ミザルの目覚まし時計が鳴った。

 ジリリリリリリリリ!

 全員がミザルを見た。

 ミザルは真っ白になった。

「状況が……必要性を……」

 氷壁の奥で、何かが吠えた。

 声ではなかった。

 遠い夜空を、巨大な爪で引き裂く音だった。

 四人は走った。

 門を抜けると、世界が突然ひらけた。

 氷壁の裏には、誰にも知られていない谷があった。頭上には本物の空ではなく、氷を透かして青白く光る逆さの海。足元には雪原が広がり、石化した巨木が林をつくっている。遠くでは、山ほど大きな白い獣たちが、六本脚でゆっくり歩いていた。

 地図の道は、谷を横切っていた。

 背後の石門が閉じた。

 門の向こうから、爪が一度、石を掻いた。

 それきり音はしなかった。

「今の、何?」ペルが聞いた。

 サクヤは地図を巻いた。

「風」

「風は吠えない」

「この谷の風は吠えるんだよ」

「じゃあ、帰りたい」

「帰る道は閉じた」

「もっと帰りたい!」

 そのとき、雪の盛り上がりが動いた。

 四人の前で、白い毛に覆われた巨大な頭が持ち上がる。額には曲がった二本角、口元には苔が生え、背中には小屋ほどの荷籠を背負っていた。

 六脚の巨獣は片目を開け、子どもたちを見下ろした。

「うるさい豆だな」

 低い声が雪を震わせた。

 ペルが気を失った。

三 雪背牛と嘘つきトカゲ

 巨獣はムグラと名乗った。

 種族は雪背牛。昔は数千頭の群れで北へ渡ったが、今では谷に残るのは彼一頭だけだという。

「人間は嫌いだ」

 ムグラは言った。

「道を掘り、木を燃やし、角を切って椅子の脚にする」

「僕たちは椅子を持ってない」とミザル。

「もっと貧しいのか。気の毒だな」

 ムグラの荷籠には、淡い赤色の巨大な卵が入っていた。表面に金色の脈が走り、ときどき中から、こん、と音がする。

「それは?」とサクヤ。

「預かり物だ。南の火山まで運ぶ。孵るには春の火が要る」

 ムグラは立ち上がった。立つだけで雪が崩れ、四人は腰まで埋まった。

「死者の都ケルンへ行く道を教えて」とサクヤは頼んだ。

「断る」

「どうして?」

「近いからだ」

 ムグラは鼻で西を示した。氷の森の向こうに、黒い塔が何本も突き出している。

「歩いて半日。ただし谷裂き川の橋は落ちた。渡るには俺の背が要る」

「乗せてくれるの?」

「断る」

 そう言って、ムグラは西へ歩き出した。

 サクヤたちは顔を見合わせ、その後ろをついていった。

「ついてくるな」とムグラ。

「道が同じだから」

「人間は嫌いだ」

「もう聞いた」

 十分後、四人はムグラの荷籠に乗っていた。

 谷の雪は見た目より深く、歩くたび膝まで沈んだ。ムグラは何度も振り返って舌打ちし、最後には「遅い豆は凍るとまずそうだ」と言って乗せたのである。

 石化した森を抜ける途中、白い羽根が一本、サクヤの肩へ落ちた。

「止まって」

 空から声がした。

 見上げると、木の枝に細長い生き物が伏せていた。蜥蜴の体に鳥の羽、鎌のような前脚、鼻先から二本の長い牙。青い目だけが笑っている。

「その卵を置いていけ。命は取らない」

 ムグラが鼻を鳴らした。

「サッカ。まだ卵泥棒をしているのか」

「泥棒じゃない。資源の再配置だ」

 刃羽獣サッカは枝から飛び降りた。羽を広げ、雪の上へ音もなく着地する。

「南へ行くんだろう? 今季、谷裂き川は凍っていない。橋もない。あんたの鈍い脚じゃ卵ごと沈む」

「お前に心配される筋合いはない」

「心配してるのは卵の味だ」

 サッカは笑った。

 次の瞬間、リッカが彼の首へ縄を投げた。

 サッカは身をひねって避けたが、ミザルのぜんまい蛙が足元で跳ね、驚いた拍子にペルの鍋が頭へかぶさった。

 ごん。

 サッカは雪へ倒れた。

「必要だった」とミザルは言った。

 彼らはサッカを縄で縛った。

「人間の子どもに負けた刃羽獣」とムグラが言うと、サッカは鍋の中から「事故だ」と答えた。

 谷裂き川は、氷原を真っ二つに割っていた。

 川と呼ばれているが流れているのは水ではない。細かな星屑だった。夜空からこぼれた光が、地の底へ向かってざあざあと流れている。

 橋は本当に落ちていた。

 対岸まで二十歩。落ちれば、星屑に削られて骨まで光になる。

「戻る?」ペルが期待を込めて言った。

「戻らない」とサクヤ。

 ミザルは鞄をひっくり返し、鎖、鍋の取っ手、目覚まし時計のばねを並べた。

「向こうの柱へ縄を掛ければ、滑車で渡れる」

「誰が縄を掛ける?」

 全員が、縛られたサッカを見た。

「嫌だ」とサッカ。

「飛べるんでしょう」

「卵をくれるなら」

「橋の途中までなら鍋を返す」

「交渉がひどい!」

 結局、サッカは縄をくわえて川を飛んだ。

 半分まで行ったところで、谷の奥から突風が吹いた。サッカの羽が煽られ、星屑の流れへ落ちる。

 ムグラが咄嗟に角を伸ばした。サッカは角へ爪を立て、ぎりぎりでぶら下がった。

「卵泥棒を助けた」とサッカが息を切らす。

「お前が落ちると縄も落ちる」

「素直じゃないな」

「お前にだけは言われたくない」

 サッカは対岸へ縄を掛けた。

 一行は荷籠と卵ごと、簡素な滑車で川を渡った。最後にムグラを渡すとき、ばねが悲鳴を上げ、鍋の取っ手が真っ直ぐ伸びたが、どうにか全員が対岸へ転がり込んだ。

 ペルは鍋を拾い、ため息をついた。

「もうスープは作れない」

「剣にはなる」とリッカ。

「鍋に戻したい」

 サッカは縄を解かれたあとも、彼らについてきた。

「どこへ行くの?」とサクヤが聞く。

「たまたま同じ道だ」

 ムグラが鼻を鳴らした。

「人間の真似をするな」

四 死者の都ケルン

 ケルンは、墓石だけでできた都だった。

 家は石棺、塔は積み重ねた骨壺、通りの両側には名のない像が並ぶ。雪はそこだけ黒く、空には鳥一羽いない。

 地図の道は都の中央を通っている。

 母の注意書きが、もう一度現れた。

 〈何も持ち出すな。呼ばれても返事をするな。犬の笛を見ても、見なかったことにしろ〉

「犬の笛って何?」ミザルが訊いた。

「見なかったことにする物」とサクヤ。

 ムグラは都の門で足を止めた。

「俺は入らん」

「怖いの?」とリッカ。

「敬意だ。死者の寝床を踏むほど急いではいない」

 卵の中から、こん、と音がした。

 ムグラは耳を傾け、それから言った。

「だが、お前たちが戻るまで待つくらいは急いでいない」

 サッカは羽をたたんだ。

「俺は行く。墓には価値ある物が多い」

「何も盗らないで」とサクヤ。

「もちろん。落ちていた物を拾うだけだ」

 五人は都へ入った。

 足音が異様によく響いた。

 サクヤの一歩の後に、もう一歩。

 ミザルの一歩の後に、もう一歩。

 ペル、リッカ、サッカ。

 五人なのに、六人分の足音がした。

 振り返っても、黒い雪の通りには誰もいない。

「数えないほうがいい」とサッカが言った。

 中央広場には、ひときわ大きな霊廟があった。扉に三本牙の蛇が描かれている。

 新しい印だった。

「黒曜商会」とリッカ。

 中から声がした。

「地図は本物だったねえ」

 サフィキル夫人が、六人の取立人を連れて現れた。

 腰にはサクヤの母の地図と同じ銀皮がぶら下がっていた。

「どうしてここに?」

「お前たちの秘密基地に、ずいぶん前から耳を一つ置いておいたのさ」

 サフィキル夫人が指を鳴らすと、取立人の一人が小さな真鍮の耳を見せた。ミザルが廃品置き場で拾い、基地の壁へ飾っていた盗聴器だった。

 ミザルは眼鏡を外し、額を押さえた。

「僕の必要最低限が、敵の必要最低限に……」

「先を歩いてもらうよ」とサフィキル夫人。「罠を踏む役は、若いほうがいい」

 銃口を向けられ、サクヤたちは霊廟の奥へ進んだ。

 石段を下りると、地下には無数の鐘が吊られていた。床の石板には、目を閉じた犬の顔が彫られている。

「鐘を鳴らすな」とサクヤは囁いた。

 通路は、体重をかける場所を間違えると鐘の舌が落ちる仕掛けだった。

 リッカが石板を耳で探り、サクヤが地図の星印を読み、ミザルが細い釘で罠を止める。ペルは全員の荷物を抱え、サッカは天井の梁を渡った。

 一行は、一つも鐘を鳴らさず通り抜けた。

 最後の取立人が安心して跳び降りた。

 その腰から銀貨が一枚こぼれた。

 ちん。

 銀貨が、床の小鐘へ当たった。

 都じゅうの鐘が、一斉に鳴った。

 音は地下へ沈み、地の底で何かを起こした。

 暗闇の向こうから、濡れた息遣いが聞こえた。

 取立人たちは銃を構えた。

 何も見えない。

 ただ、床の黒い雪に、大きな犬の足跡が一つずつ現れた。

 ぽつ。

 ぽつ。

 ぽつ。

 足跡は、彼らを囲むように増えていった。

「走れ!」

 サフィキル夫人が叫んだ。

 一同は奥の扉へ雪崩れ込んだ。

 その先は円形の墓室だった。

 中央の台座に、黒い玻璃でできた小さな笛が置かれている。犬の頭を模し、口の部分に七つの穴があった。

 笛の周囲には、古い文字が刻まれていた。

 ミザルが読む。

〈星海を渡った最後の猟犬、ネヴァル。主の帰りをここで待つ。笛を持つ者を主とみなし、地の果てまで追う〉

「触るな!」サクヤは叫んだ。

 だがサフィキル夫人は笑った。

「地の果てまで従う犬? 高く売れそうじゃないか」

 彼女は笛を掴んだ。

 墓室の灯りが、すべて消えた。

 真っ暗闇の中で、何かが嗅ぐ音がした。

 近い。

 サフィキル夫人が笛を吹いた。

 音は聞こえなかった。

 けれど全員の歯が震え、頭の奥に黒い月が浮かんだ。

 闇の中で、二つの星が開いた。

 犬の目だった。

 取立人の一人が悲鳴を上げ、銃を乱射した。火花のたびに、ありえないほど長い脚、骨のない胴、夜空を裏返したような毛並みが断片的に見えた。

 扉が破れた。

 全員が鐘の通路へ逃げた。

 サフィキル夫人は笛を胸へ入れ、取立人たちを押しのけて先へ走る。

 その肩へ、リッカが飛びついた。

「町を返せ!」

「離れろ、鼠!」

 夫人が腕を振る。リッカは床へ投げ出されたが、その小さな手には黒い笛があった。

 盗んだのだ。

「リッカ、捨てて!」

 サクヤが叫ぶ。

 しかし笛を持った瞬間、見えない犬の足跡が向きを変えた。

 すべてがリッカへ向かった。

 サッカが彼女をくわえ、天井近くの梁へ跳ぶ。爪が空を切り、石壁に五本の裂け目が走った。

「出口へ!」

 サクヤたちは来た道を駆け戻った。

 鐘が鳴り、墓石が倒れ、暗闇が犬の形になって追ってくる。

 都の門を飛び出すと、ムグラが待っていた。

「遅いぞ」

「走って!」

「俺は走らん」

 門の内側から、星のない夜が溢れた。

 ムグラはそれを見た。

「今日は走る」

 子どもたちとサッカが荷籠へ飛び乗る。ムグラは六本の脚で雪を蹴り、谷を震わせて駆け出した。

 背後で、ケルンの塔が次々に倒れた。

 黒い足跡が、同じ速さで追ってきた。

五 追うもの

 夜になった。

 氷の天井越しに、逆さの海を星魚が泳いでいる。

 ムグラは一度も止まらなかった。

 黒い犬は見えたり、見えなかったりした。

 ときには雪面を走る影だけが並び、ときには一行のすぐ横で荒い息が聞こえた。遠ざかったと思うと、次の瞬間には荷籠の底を爪が掻いた。

 リッカは黒い笛を布で何重にも包み、胸へ抱えていた。

「捨てよう」とペル。

「捨てても拾われる」とサッカ。「あれは笛を追う。サフィキルに戻れば、町まで連れていく」

「じゃあ墓へ返すしかない」とサクヤ。

「戻るの?」ペルの声が裏返った。

 ミザルは母の地図を広げた。

「地図を見て。死者の都から箱舟へ、赤い点線が続いてる。笛の絵もある」

 サクヤは目を凝らした。

 母の走り書きがあった。

 〈笛は墓のものではない。箱舟の主檣へ戻せ。ネヴァルは扉を守る〉

「母さんは、ここまで来たんだ」

 地図の端には、小さな血の染みが残っていた。

「箱舟へ行けば、笛を返せる。権利証もある」とサクヤは言った。「どっちにしても、行くしかない」

「犬より先に着ければね」とサッカ。

 そのとき、ムグラが急停止した。

 前方の氷原が、音もなく崩れた。

 巨大な亀裂が口を開き、その向こうに船の残骸が見えた。

 冬越えの箱舟だった。

 山ほど大きな船が、氷河へ斜めに突き刺さっている。三本の帆柱は折れ、船腹には都市一つが入るほどの穴。船首像は翼を持つ女王だったが、顔だけが削り取られていた。

 箱舟とこちらをつなぐのは、細い氷の尾根一本。

「俺の重さでは渡れん」とムグラ。

 荷籠の卵が、こん、こん、と強く鳴った。

 黒い犬の遠吠えがした。

 氷原の向こうで、闇が盛り上がる。

「みんなで行く」とサクヤ。

「無理だ」とムグラ。

「じゃあ、犬をどうするの」

 ムグラは卵を見た。

 雪背牛の大きな顔が、少しだけ困ったように歪んだ。

「預かった命を、途中で捨てるわけにはいかん」

 サッカが尾根を見て、翼を広げた。

「卵なら俺が運べる」

「お前は食う」

「今は腹いっぱいだ」

「嘘だ」

「半分だけ嘘だ」

 サッカはムグラの角へ飛び乗った。

「谷裂き川で借りがある。俺は借りを残すのが嫌いなんだ」

 ムグラはしばらく黙り、それから荷籠の革帯を外した。

 卵をサッカの背へ結ぶ。卵は彼の体より大きかった。

「落とすな」

「重い」

「食うな」

「殻を少し舐めるだけなら?」

「殺す」

 サクヤたちは尾根へ踏み出した。

 先頭はリッカ。次にミザル、ペル、サクヤ。上空をサッカが卵を抱えて低く飛ぶ。

 ムグラが最後に続いた。

「無理だって言ったよね!」ペルが叫ぶ。

「気が変わった」

「重さは変わらない!」

 氷の尾根が軋む。

 背後から、犬が来た。

 姿は見えない。だが星明かりが、その輪郭だけを避けていた。四本脚ではなかった。走るたび脚が五本、六本、七本と増え、尾は空の裂け目まで伸びている。

 リッカが笛を握りしめた。

 犬の速度が上がった。

「笛を僕に!」ミザルが叫ぶ。

 リッカが投げる。

 ミザルが受け取り、数歩走ってペルへ渡す。

 犬の足跡が蛇行した。

「追う相手を迷わせるんだ!」

 ペルからサクヤへ。サクヤからサッカへ。

 犬は尾根を蹴り、跳んだ。

 サッカが急上昇する。黒い顎が足先を掠め、羽根が三枚散った。

 卵の中で、何かが怒ったように殻を叩いた。

 サッカは笛をムグラへ落とす。

 ムグラは口で受けた。

 その瞬間、尾根が砕けた。

 ムグラの後ろ脚が落ちる。

「ムグラ!」

 ペルが革帯を掴み、サクヤとミザルがペルを引く。リッカは氷へ短剣を刺した。サッカは卵を船側へ置き、舞い戻ってムグラの角へ縄を掛ける。

 黒い犬が、割れた尾根の向こうで身を低くした。

 ムグラは笛を口にくわえたまま言った。

「先へ行け」

「一緒に行く!」サクヤ。

「豆が六匹集まっても、俺一頭より軽い」

 亀裂が広がる。

 ムグラは首を振った。

 笛が高く舞った。

 サクヤが受け取る。

 その直後、尾根が完全に崩れた。

 ムグラの巨体は氷塊とともに落ちた。

「ムグラ!」

 彼の角が、崖の縁へ引っかかった。

 六本の脚が空中で揺れる。

 犬が跳んだ。

 ムグラは角をひねり、崩れた氷塊を蹴った。その反動で体を振り子のように揺らし、船側の壁へ突っ込んだ。

 船腹が轟音とともに破れた。

 一行はムグラごと、箱舟の内部へ転がり込んだ。

 続いて黒い犬が穴へ飛び込もうとしたが、船腹に刻まれた古い文字が青く光り、見えない体を弾き返した。

 犬の咆哮が、氷河全体を揺らした。

 ムグラは瓦礫の中から顔を上げた。

「だから、俺は走らんのだ」

 ペルは泣きながら笑った。

六 冬越えの箱舟

 船の中には、冬が保存されていた。

 透明な樹脂の棺に、滅びた種族の種、卵、眠る小動物が収められている。棚には瓶詰めの雨、折り畳まれた虹、まだ誰も見たことのない春の匂い。

 箱舟は、世界が凍りきる日に備えて造られたのだ。

「全部、宝だ」とミザルが呟いた。

「売ったら?」とリッカ。

「値段がつけられない」

「じゃあ盗みにくい」

 母の地図は、船首ではなく船尾を示していた。

 一行は傾いた廊下を進んだ。

 床が壁になり、壁が天井になっている。水晶の魚が宙を泳ぎ、壊れた時計は逆向きに時を刻む。

 背後で、船腹を爪が掻いた。

 黒い犬は入れない。だが、船を壊して入ろうとしていた。

「急ごう」とサクヤ。

 最初の関門は、百本の扉が並ぶ回廊だった。

 どの扉にも、同じ文字が刻まれている。

 〈正しい季節を選べ〉

 扉を開けるたび、吹雪、砂嵐、蜂の群れ、逆流する滝が飛び出した。

「春の扉を探すんだ」とミザル。

「全部同じに見える」とペル。

 サクヤは目を閉じた。

 母の子守歌を思い出す。

 十二の星、四つの風、眠る種。

 最後の節だけ、いつも歌詞が違っていた。

 ――春は暖かさではなく、帰ってくる者の足音。

 サクヤは扉ではなく、床に耳を当てた。

 百の扉のうち一つだけ、向こう側から小さな足音が聞こえる。

 開けると、草の匂いがした。

 二つ目の関門は、金貨の海だった。

 船倉いっぱいに黄金が積まれ、天井まで輝いている。

 ペルが一枚拾おうとすると、サクヤが手を叩いた。

「何も持ち出さない」

「でも税が払える」

 サッカが金貨を一枚、爪で弾いた。

 金貨は途中で羽虫へ変わり、ペルの鼻を刺した。

 黄金の山が一斉に羽音を立てた。

「走れ!」

 一行は金色の虫の嵐をかき分けた。ペルは鍋だった金属棒を振り回し、ミザルは火花筒で煙を出し、リッカはマントを網のように使った。

 ムグラが大きなくしゃみをすると、虫の半分が壁へ叩きつけられた。

「宝はもう嫌だ」とペルが言った。

「覚えておこう」とリッカ。

 三つ目の関門は、何もない部屋だった。

 入口の上に、こうある。

 〈最も重いものを置け〉

 中央に天秤が一つ。片側には扉を開く仕掛け、もう片側は空皿。

 ムグラが乗っても動かない。

 卵を置いても動かない。

 全員の荷物を積んでも、空皿は上がったまま。

「最も重いものって何だ」とサッカ。

 サクヤは母の革鞄を見た。

 七年間、一日も手放さなかった。

 母が帰るとき、これがなければ自分を見つけられない気がしていた。

 だが母は、この道を自分に託した。

 サクヤは鞄から方位盤を取り出し、空皿へ置いた。

 天秤が沈んだ。

 扉が開いた。

「それだけ?」ペル。

「私には一番重かった」

 サクヤは鞄を拾わず、先へ進んだ。

 リッカがこっそり戻り、鞄を肩へ掛けた。

「置くのは気持ちだけでいい」と彼女は言った。「物は使える」

 サクヤは笑った。

 その先に、船長室があった。

 壁一面に星図。中央には、枯れた樹のような機関が立っている。枝の先に、拳ほどの赤い光が眠っていた。

 春炉。

 光は弱々しく脈打ち、部屋に温かな風を送っていた。

 その根元に、一人の人間が座っていた。

 白い外套。凍った髪。膝の上に開かれた手帳。

 サクヤは足を止めた。

「母さん」

 エノラ・レムは、七年前と同じ姿で眠っていた。

 触れると、氷の像のように冷たかった。

 けれど穏やかな顔をしていた。

 手帳の最後の頁に、震える文字が残っていた。

 〈春炉は持ち出せない。船と世界の境を保つ心臓だから。笛を主檣の受け口へ戻せば、猟犬は眠る。

 権利証は炉の下。

 サクヤ。あなたがここへ来たなら、私は帰れなかったのね。

 ごめんなさい。

 でも地図を完成させた者は、道の終わりで立ち止まってはいけない。

 帰る道まで描いて、初めて地図になる。

 町をお願い。私の、いちばん好きな場所を〉

 文字の上に、透明な雫が落ちた。

 サクヤは自分が泣いていると気づいた。

 ペルがそっと隣へ座る。

 ミザルは眼鏡を外した。

 リッカは何も言わず、母の鞄をサクヤの肩へ戻した。

 ムグラは大きな頭を垂れ、サッカは羽を閉じた。

 その静けさを、拍手が破った。

「感動的だねえ」

 サフィキル夫人が船長室の入口に立っていた。

 生き残った取立人は二人。服は裂け、顔には黒い霜がついている。

「どうやって船へ?」サクヤ。

「お前たちが開けた穴からさ。犬が船腹を壊してくれた」

 サフィキル夫人は銃を向けた。

「笛と権利証を渡しな。春炉もいただく」

「持ち出せない」

「機械は全部、外せるようにできている」

「外したら世界の境が壊れる」

「世界は広い。少しくらい壊れても、商売には困らない」

 サフィキル夫人は取立人に命じ、炉の根を斧で切らせた。

 一撃。

 船全体が悲鳴を上げた。

 外で待つ犬が、それに応えて吠えた。

七 星喰いの犬

 春炉の光が強くなった。

 暖かい風が熱風へ変わり、船内の氷が一斉に融け始める。

 樹脂の棺が割れ、眠っていた種や卵が床へ転がった。瓶詰めの雨が割れ、天井へ向かって降る。

 世界の境が薄くなった。

 壁の向こうに、別の夜空が見えた。

 そこには星がなかった。

 星を食べ尽くした何かが、こちらを覗いていた。

「やめて!」サクヤは炉へ駆けた。

 サフィキル夫人が銃床で彼女を殴り倒す。

「権利証はどこだい」

 リッカが炉の下へ滑り込み、古い金属筒を抜いた。

「ここ!」

 夫人が振り向く。

 サッカが彼女の帽子を奪い、頭上へ飛んだ。

「こっちだ、銀歯!」

「撃ち落とせ!」

 銃声。

 弾はサッカを外れ、船長室の丸窓を割った。

 外の闇が、窓から流れ込んだ。

 最初に入ってきたのは犬の鼻だった。

 鼻だけで馬車ほどある。

 次に、星明かりを吸う二つの目。

 最後に、ありえない長さの前脚が船内へ伸びた。

 星喰いの犬ネヴァルは、肉を持たなかった。

 それは「追う」という行為が獣の形を取ったものだった。笛を持つ者と、笛を奪う者と、笛を欲する者。その欲望の匂いを嗅ぎ、どこまでも来る。

 黒い笛は、サクヤの手にあった。

 ネヴァルが彼女を見る。

 頭の中へ、声が響いた。

 ――カエッテキタ。

 犬は母の声で言った。

 サクヤの足が止まる。

 ――サクヤ。コチラヘ。

 窓の向こう、星のない夜に母が立っていた。

 七年前のまま、笑って手を差し伸べる。

「違う!」ミザルが叫んだ。「それは記憶を嗅いでるだけだ!」

 サクヤは笛を握りしめた。

 母の影が近づく。

 帰ってきてほしかった。

 ずっと。

 地図の終わりに母がいて、笑って、遅くなったと言ってくれる。それだけを願っていた。

 けれど、本物の母は椅子に座り、手帳を残している。

 地図は帰る道まで描いて、初めて完成する。

 サクヤは母の影に背を向けた。

「あなたは母さんじゃない」

 ネヴァルの顔が裂け、闇の牙が現れた。

 犬が船長室へ踏み込む。

 サフィキル夫人は銃を連射した。弾は闇へ吸い込まれ、向こう側の夜で小さな星になった。

「笛をよこしな!」

 夫人がサクヤへ飛びかかる。

 リッカが足を引っかけ、ペルが体当たりし、ミザルのぜんまい蛙が夫人の襟へ潜り込んで火花を散らした。

 サフィキル夫人の毛皮が煙を上げる。

「この、崖ネズミども!」

 彼女は斧を振り上げた。

 ムグラが角で受け止める。

 斧と角がぶつかり、火花が飛んだ。

「豆は嫌いだ」とムグラは言った。「だが、俺の豆だ」

 サッカが上空から夫人の顔へ帽子をかぶせた。

「今だ!」

 サクヤたちは船長室を飛び出した。

 目指す主檣は、船の中央。傾いた階段を上り、崩れる回廊を駆ける。

 ネヴァルが追う。

 船内では体の大きさを変え、隙間から影となって滲み、開けた場所では塔ほど巨大になった。

 ペルが遅れた。

 犬の口が背後に開く。

 ペルは金属棒になった鍋を床へ差し込み、蒸気管を破った。白い蒸気が噴き出し、ネヴァルの顔を押し戻す。

「スープは作れないけど、役には立った!」

 ミザルは歓声を上げた。

 次の通路は崩れ、十歩の穴が開いていた。

 サッカがリッカを運び、戻ってミザルを運ぶ。

「ペルは無理だ」と言う。

「聞こえてる!」

 ムグラがペルとサクヤを背へ乗せ、助走する。

「飛べないよね?」とペル。

「落ちる前に向こうへ着けば、飛んだのと同じだ」

 ムグラは跳んだ。

 六本の脚が空を掻く。

 ぎりぎりで対岸に届き、全員が雪崩のように転がった。

 後ろからネヴァルが跳ぶ。

 サッカが船の帆綱を切った。

 巨大な氷帆が落ち、犬の体を一瞬だけ覆う。

 その隙に、一行は主檣室へ入った。

 中央に、天井まで伸びる黒い柱。

 根元に、犬の口をかたどった受け口がある。

「そこへ笛を!」ミザル。

 サクヤが駆ける。

 だが入口から銃声がした。

 弾が床を弾き、サクヤの手から笛が飛んだ。

 サフィキル夫人が立っている。

 髪は焦げ、帽子はなく、銀歯を剥き出しにしていた。

 笛は床を滑り、夫人の足元で止まった。

「これで、あたしが主だ」

 サフィキル夫人は笛を拾い、吹いた。

 聞こえない音が鳴る。

 ネヴァルが氷帆を引き裂き、主檣室へ頭を突っ込んだ。

 夫人は犬を指さした。

「こいつらを食いな!」

 ネヴァルは動かなかった。

 黒い目で、夫人を見た。

 ――ヌスンダ。

 声が全員の頭に響く。

「何?」

 ――ホシヲ。ネムリヲ。ナマエヲ。

 犬の口が開いた。

 その奥には、ケルンの墓から奪われた指輪、王冠、宝石、何千年分もの盗品が、星のように浮かんでいた。

 ネヴァルが追っていたのは笛だけではない。

 死者から奪ったすべてを、持ち主へ返すためだった。

 サフィキル夫人は後ずさる。

「待て。あたしは金を払った。雇ったんだ。町も、墓も、見つけた物は――」

 犬の影が彼女の足元から伸び、体を包んだ。

 夫人は最後まで、笛を離さなかった。

 次の瞬間、彼女は犬の口の中の夜へ引き込まれた。

 銀歯が七つ、星のように光り、消えた。

 黒い笛だけが床へ落ちた。

 ネヴァルがサクヤを見る。

 今度は、誰の声でもなく言った。

 ――カエセ。

 サクヤは笛を拾った。

 受け口まで、三歩。

 一歩。

 船が傾く。

 二歩。

 春炉の根が切れ、赤い光が船長室から空へ浮かび上がる。

 三歩。

 サクヤは笛を、犬の口へ差し込んだ。

 主檣が鳴った。

 音は船を通り、氷河を通り、崖町クレヴァの古い釘一本一本まで届いた。

 ネヴァルの体から闇がほどけた。

 恐ろしい脚は四本へ戻り、裂けた口は閉じ、最後には黒い毛並みの大きな犬になった。

 その首には、星で編まれた首輪があった。

 犬はサクヤの手を一度嗅いだ。

 そして、眠る母エノラのいる船長室へ顔を向けた。

 低く、悲しげに鳴いた。

 サクヤには分かった。

 ネヴァルもまた、帰らない主を待ち続けていたのだ。

「もう、追わなくていい」

 サクヤが言うと、犬は目を閉じた。

 黒い体は細かな星へほどけ、主檣の中へ吸い込まれた。

 船の揺れが止まった。

 だが春炉は、船から外れかけている。

 赤い光が脈打つたび、壁の向こうの星なき夜が広がった。

「炉を戻さないと」とミザル。

「船長室まで運べない」とペル。

 ムグラの荷籠で、卵が大きく鳴った。

 こん。

 こん。

 ぱきん。

 殻に亀裂が走った。

八 春が孵る

 卵から出てきたのは、鳥ではなかった。

 小さな竜だった。

 赤い鱗、金色の角、蝙蝠に似た翼。生まれたばかりなのにペルほど大きい。竜はくしゃみをし、火の玉を吐いた。

 火の玉は主檣を焦がし、ミザルの髪を逆立てた。

「春竜だ」とムグラが呟いた。

「預かり物って、これ?」

「南の火山で孵すはずだった」

「もう孵ったね」とリッカ。

「予定は変わるものだ」

 春竜は赤い光を見つけると、翼をばたつかせた。

 春炉が応えるように脈打つ。

「同じ火だ」とサクヤ。

 ムグラは頷いた。

「春炉は機械じゃない。春竜の最初の火を守る巣だったのかもしれん」

 竜は赤い光へ近づき、鼻先で触れた。

 光が二つに分かれた。

 一つは竜の胸へ入り、鱗の隙間を明るくした。

 もう一つは小さな種火となって、床へ落ちた。

 ミザルが両手で受け止める。

 種火は熱くない。けれど触れた指先から、忘れていた夏の日の記憶が流れ込んだ。

「これなら持ち出せる」

 春炉の樹は再び根を伸ばし、切れた部分をつないだ。

 壁の向こうの夜が閉じる。

 船内の種子たちは静まり、逆さの雨は瓶の破片へ戻った。

「町を暖められるかな」とペル。

「一つの窯なら」とミザル。「でも、増やせるかもしれない。火は分けても減らないから」

 リッカは金属筒を掲げた。

「権利証もある」

 サクヤは母のもとへ戻った。

 春炉の光に触れた氷が融け、エノラの外套がやわらかく揺れている。

 彼女を連れて帰ることはできない。

 けれど、ここは墓ではなかった。

 世界中の春を守る船で、彼女は最後の道を見守っていた。

 サクヤは母の首へ、自分の赤いスカーフを巻いた。

「町は任せて」

 手帳と方位盤を鞄へ入れる。

 方位盤の針は、もう真下を指していなかった。

 帰るべき方向、クレヴァを指していた。

 箱舟を出ると、氷の尾根はなくなっていた。

 かわりに、春竜が大きく翼を広げた。

「乗せてくれる?」サクヤが聞く。

 竜は首を傾げ、火のくしゃみをした。

 サッカが羽根の焦げた尾を見た。

「俺は別で飛ぶ」

 一行は竜の背へ乗った。

 ムグラだけは重すぎたので、竜の足に船の帆布で作った吊り床を下げた。

「俺は飛ばん」とムグラ。

「落ちる前に町へ着けば、飛んだのと同じ」とペル。

「人間は、すぐ嫌なことを覚える」

 春竜が飛び立った。

 氷牙谷を、暖かな風が走った。

 石化した木々の枝から一斉に芽が出る。黒い雪の下で花が開き、谷裂き川の星屑が七色に輝いた。

 死者の都ケルンでは、倒れた墓石がゆっくり起き上がった。

 空に浮かぶ逆さの海から、初めて雨が落ちた。

 その雨は上へ降らず、ちゃんと下へ降った。

九 日没の鐘

 崖町クレヴァでは、日没の鐘が鳴ろうとしていた。

 広場には住人たちの荷物が積まれ、黒曜商会の鎖籠が家々を取り外す準備をしている。

 サフィキル夫人が戻らないため、代理の取立人が証文を読み上げていた。

「旧王国法第三百二条により――」

 空が赤く光った。

 町の者たちは顔を上げた。

 雲を裂き、春竜が現れた。

 背中には四人の子どもと刃羽獣。

 足元の吊り床には、非常に不機嫌そうな雪背牛。

 竜は広場へ着地しようとして、屋根を三枚吹き飛ばし、パン屋の煙突へ尻尾をぶつけ、最後に町役場の前へ腹ばいになった。

 ペルの父が叫んだ。

「ペル!」

「父さん! 鍋を壊した!」

「そこから報告するのか!」

 サクヤは竜の背から飛び降り、代理取立人へ金属筒を突きつけた。

「クレヴァの最初の権利証。初代町長オド・レムと旧王国女王の印章つき。町の土地と氷壁内部のすべては、ここに住む者の共同所有。売却も担保も、全住民の同意がなければ無効」

 取立人は鼻で笑った。

「偽物だ」

 リッカが彼の懐から印章鑑定鏡を抜き、権利証へ当てた。

 女王の印が青い鳳凰となって宙へ浮かぶ。

 広場がどよめいた。

「本物」とリッカ。

「いつの間にそれを」

「今」

 取立人の顔から血の気が引いた。

 そこへ、町の法務官を務める百二歳の老婆ミダが進み出た。普段は一日十七時間眠っているが、裁判と喧嘩の日だけ目が冴える。

 彼女は権利証を読み、杖で地面を三度叩いた。

「黒曜商会の請求は無効。暖房税については、町の共同炉が停止していた七年間、供給の実態なし。よって債務も無効」

「そんな馬鹿な!」

「異議は王都で申し立てな。徒歩で行けば、春までには着く」

 住人たちが笑った。

 代理取立人はサフィキル夫人の名を出そうとしたが、リッカがケルンで拾った――拾っただけだと彼女は主張した――銀歯を一つ見せると黙った。

 黒曜商会の一団は、鎖籠に飛び乗って逃げていった。

 日没の鐘が鳴った。

 けれど、その日、クレヴァは売られなかった。

 ミザルは春の種火を、町の古い共同炉へ置いた。

 最初は小さな灯だった。

 ペルの父が薪を一本入れる。隣人が炭を一欠け入れる。鍛冶屋が風を送り、子どもたちが周りを囲んだ。

 火は、分けるほど大きくなった。

 凍りついていた配管に湯が流れ、家々の煙突から白い煙が上がる。氷壁に閉じていた古い水路が融け、温かな水が町の階段を走った。

 春竜は煙突の上へ丸まり、満足そうに喉を鳴らした。

 ムグラは広場の端で、町中から差し出された野菜を食べていた。

「人間は嫌いだ」と彼は言った。

「十九皿目」とサッカ。

「食べ物に罪はない」

 サッカは黒曜商会の看板を外し、自分の寝床の屋根にした。

「たまたま住みやすそうだから」と彼は説明した。

 底抜け団の秘密基地には、新しい地図が飾られた。

 氷壁の裏側。

 谷裂き川。

 死者の都。

 冬越えの箱舟。

 そして、帰り道。

 サクヤは最後の線を引いた。

 地図の隅に、四人と二匹と一頭の竜を描く。絵が下手だったので、ムグラは毛の生えた岩、サッカは折れた傘、春竜は火を吹く鶏に見えた。

「僕、もっと細い」とペルが言った。

「地図は大事なところだけ正確ならいい」

「そこ、大事だよ」

 ミザルが新しい看板を掲げた。

 〈底抜け団 兼 クレヴァ探検局〉

「名前、変えないの?」リッカ。

「賛成二、反対二だから」とミザル。

 リッカは無言でサッカを指さした。

「俺は格好悪いと思う」とサッカ。

 三対二になった。

 ムグラが窓から顔を出した。

「底抜けでいい。お前たちは、考えるより先に底を抜く」

 三対三になった。

 議題は、また保留された。

終章 犬の見る夢

 その夜、サクヤは久しぶりに夢を見た。

 星のない海辺を、一匹の黒い犬が歩いていた。

 犬の隣には白い外套の女がいる。

 女は振り返らなかった。

 けれど片手を上げ、遠くの誰かへ合図をした。

 犬も一度だけ振り返り、尾を振った。

 やがて二つの影は、水平線の向こうへ消えた。

 朝、サクヤが目を覚ますと、窓の外で春竜が町の鐘をかじっていた。

 鐘が鳴る。

 町じゅうが飛び起きる。

 ペルがパンを抱えて走り、ミザルが消火器を持って転び、リッカは誰より先に竜の背へ乗った。サッカは屋根から文句を言い、ムグラは十九皿目の朝食を守ろうと角を振り回した。

 サクヤは母の方位盤を首へ下げ、秘密基地の窓から飛び出した。

 針は北も南も指していない。

 騒ぎの真ん中を指していた。

 そこが今の彼女にとって、帰る場所だった。