氷海の猫と、最後の橇
一 犬を置いていく日
この世界のいちばん南では、空は海の底にあった。
雲は氷原すれすれを泳ぎ、青白い太陽は厚い水の向こうに沈んだ硬貨のように見えた。冬になると、その太陽さえ百日間姿を消す。長い夜の終わりには、七日七晩、空も地面も呑み込む大吹雪が来る。人々はそれを「白喰い」と呼び、鯨骨港の家々では、戸口に鈴を吊るした。
吹雪の中で道に迷っても、鈴の音をたどれば帰れるように。
十三歳のヌニェオは、その日、港じゅうの鈴が鳴っているのを聞いた。
風のせいではなかった。町の中央にある星炉が、三度、大きく咳をしたのだ。地面が揺れ、煙突から黒い火の粉が噴き上がる。続いて警鐘が鳴った。
「星炉の亀裂は修復不能! 全住民は三日後、砕氷船《グラガス》で北へ退避する!」
町長の声が拡声角から響くと、広場は蜂の巣を棒で突いたようになった。
鯨骨港は、太古に墜ちた空鯨の肋骨を柱にして造られた町だ。星炉の熱がなければ、家も水路も一晩で凍りつく。白喰いが迫る今、残るという選択肢はない。
けれど、ヌニェオが青ざめたのは星炉のせいではなかった。
「橇犬は積めません」
港務官が、犬舎の前で言った。
「食糧庫と船室に余裕がない。首輪を外し、南の餌場へ放す。運がよければ春まで――」
「春まで生きられるわけない!」
ヌニェオは人垣をかき分けた。
犬舎の中では十一頭の橇犬が騒ぎを察し、落ち着きなく歩き回っていた。灰色の老犬ハガネだけが座ったまま、琥珀色の目でヌニェオを見ていた。ヌニェオの父が探検隊にいたころ、先頭で橇を引いた犬だ。
「こいつらが、氷河崩れのとき町へ薬を運んだんだ。ハガネは三日寝ずに走った。置いていくなんて――」
「船に乗せれば、そのぶん子どもの食糧が減る」
港務官は目をそらした。
正しい。ひどく正しい。だからこそ、ヌニェオは何も言えなくなった。
「正しい話って、たいてい腹が立つよね」
背後からテッサが言った。十四歳の機械工見習いで、片方の眉だけを器用に上げられる。
「でも、腹が立つだけじゃ犬は助からない」
その隣で、パン屋の息子ポックが紙袋を抱えていた。十二歳だが、横幅だけなら町長より立派だった。
「食べる?」
「何を」
「非常用の黒糖パン。非常じゃないときに食べると、すごくうまい」
「今は非常だ」
「じゃあ普通の味か」
最後に現れたエルシは、町長の娘だった。十五歳で、四人の中ではいちばん背が高く、いちばん規則にうるさい。
「ヌニェオ。あなたのお父さんの部屋、取り壊しの前に荷物を出すそうよ。港務官が鍵を探してた」
ヌニェオはハガネを見た。
老犬は一度だけ、低く鼻を鳴らした。
それは、早く行け、と言っているように聞こえた。
二 骨の地図
父の部屋は、空鯨の左肩甲骨に張りつくように建っていた。
六年前、父ラザルは「氷の下に眠る朝を探す」と言い残し、南へ出た。帰ってきたのは、穴の開いた橇と、方位磁針だけだった。町では死んだものとされたが、ヌニェオは葬式の間も泣かなかった。
死体を見ていないから、というのが表向きの理由だった。
本当は、泣いたら父の不在が完成してしまう気がしたのだ。
四人は夕暮れまでに、床板、戸棚、天井裏まで調べた。見つかったのは凍った靴下、壊れた望遠鏡、意味のない走り書きばかり。
「『猫に魚を見せるな。地図より先に着く』」
ポックが紙片を読んだ。
「深いな」
「ぜんぜん深くない」
テッサが望遠鏡を振ると、中でからりと音がした。接眼部を外す。中から細く巻かれた乳白色の板が滑り出た。
鯨の髭だった。
ヌニェオが広げると、赤い線で氷原の裂け目と地下水路が描かれていた。中央には、猫の目のような印。その横に父の字がある。
――朝の石は、猫王都ミュルガにあり。
――鯨の喉を通れ。
――日が沈んだら、猫を傷つけてはならない。
――この地図を信じるな。犬を信じろ。
部屋が静かになった。
「朝の石って、昔話の?」
エルシがささやいた。
鯨骨港には古い伝説がある。氷の下には夜を燃やす石があり、一欠片で百年、炉を温めるという。子ども向けの寝物語だ。
だが地図の余白には、星炉と同じ構造の配管図が描かれていた。石から伸びる熱脈は、まっすぐ鯨骨港の地下へ続いている。
テッサが息を呑んだ。
「これ、伝説じゃない。朝の石は燃料というより、巨大な熱交換器の心臓だ。動かせれば星炉を外から温められるかもしれない」
「町長に見せよう」
エルシが言った。
「見せたら?」とポック。
「大人が調査隊を組む」
「三日で?」
「……組まないわね」
「しかも犬は明日の朝、放される」とヌニェオ。
窓の外で吹雪が強くなった。遠くの犬舎から、一頭が吠え、ほかの犬たちが応えた。
テッサは地図を丸めた。
「つまり、犬を助けるついでに町も助ける」
「順番が逆よ」とエルシ。
「どっちでもいい。結果が同じなら」
ポックが黒糖パンを四つに割った。
「こういうとき、物語なら宝探しに行く。現実だと凍死する」
「行かないの?」とヌニェオ。
ポックは自分の取り分を口に押し込んだ。
「行く。凍死する前に食べとく」
四人が部屋を出たあと、壊れた暖炉の上で、何かが目を開けた。
煤のように黒い猫だった。右前脚だけが白い。
猫は鯨髭の地図が消えた戸口を見つめ、音もなくそのあとを追った。
三 鯨の喉
真夜中、四人は犬舎の錠を外した。
正確には、テッサが外した。ヌニェオは見張り、ポックは十一頭ぶんの干し肉を盗み、エルシは「私は止めようとした」と後世の記録に残すため、三回だけ小声で止めた。
「やめましょう」
「いやだ」
「やめるべきよ」
「いやだ」
「これは重大な規則違反よ」
「鍵、持って」
「……貸して」
橇は父の古い《鯨ひげ号》を使った。板は軋み、帆は穴だらけだったが、犬たちは曳き綱を見るなり列をつくった。
先頭にはハガネ。白い息を吐き、若い犬たちを一瞥する。その目だけで騒ぎが静まった。
「覚えてるんだ」
ヌニェオが首筋を撫でると、ハガネは鼻先を南へ向けた。
港の裏門を抜けたところで、黒猫が橇へ飛び乗った。
「猫!」
ポックが叫んだ。
「知ってる」とテッサ。「犬ではない」
「そうじゃなくて、いつから?」
猫は答えず、干し魚の袋の上に丸くなった。犬たちは不思議なくらい気にしなかった。
エルシが右前脚の白い毛を見て言った。
「スス、って感じね」
猫は薄目を開けた。採用らしい。
地図が示す入口は、町から半日南にある空鯨の頭骨だった。氷に埋もれた巨大な口は、折れた牙を並べて暗く開いている。地元では「鯨の喉」と呼ばれ、入った者は自分の昨日に食われる、と言われていた。
「昨日に食われるって、どういう意味?」とポック。
「帰ってこないって意味」とエルシ。
「昔の人、遠回しだな」
橇を降りたとき、遠くで別のエンジン音がした。
赤い帆の雪上艇が、吹雪を割って近づいてくる。船首には鉄の鉤爪。操縦席に立つ女を見て、テッサが舌打ちした。
「フェゼル船長」
北海の沈没船を漁るサルベージ屋で、値打ちのあるものなら墓石から金歯まで持っていくと噂される女だ。その後ろには、毛皮帽の男が二人いた。
「子どもだけで夜遊びかい?」
フェゼルは赤い手袋を振った。
「親切な大人として、家まで送ってやろう」
「親切な大人は鉄砲を持って追いかけない!」ヌニェオが叫ぶ。
「これは道案内の棒さ」
銃声が響き、橇の横の氷が砕けた。
「中へ!」
四人と十一頭と一匹は、空鯨の口へ飛び込んだ。
内部は骨の迷宮だった。青い燐光苔が肋の一本一本を照らし、凍った舌の上を地下水が流れている。
地図の赤線は、途中で二つに分かれていた。
「右!」ヌニェオが言った。
ハガネは左へ進んだ。
「地図は右だよ!」
ハガネは振り返りもしない。
父の言葉が脳裏に浮かんだ。
――この地図を信じるな。犬を信じろ。
「左だ!」
直後、背後でフェゼルたちが右の通路へ駆け込んだ。十秒後、金属の悲鳴と怒鳴り声がした。床が裏返り、三人を氷水へ落としたらしい。
ポックが感心した。
「地図、ほんとに信じちゃだめだ」
「じゃあ何のための地図なの」とエルシ。
「だまされる人のため?」
左の通路には、もっと古い罠があった。
踏むと歌い出す氷板。一定の音程を外すと天井から魚の骨が降る部屋。体重を四等分しなければ渡れない傾き橋。犬が一頭ずつ通るたび、壁の猫像が目を光らせた。
最後の門は、九つの鍵穴があるのに鍵が一本もなかった。
テッサが歯車を調べ、エルシが古代文字を読み、ヌニェオが地図を重ねても開かない。
「『九つの命が、ひとつの声で門を呼ぶ』」
エルシが碑文を訳した。
「猫の命は九つって言うけど、猫は一匹だよ」とポック。
ススは門の前に座り、尻尾を足に巻いた。
ハガネが短く吠えた。
犬たちが次々に声を重ねる。十一の遠吠えが骨の回廊を震わせた。ススが最後に「にゃあ」と鳴く。
九つの鍵穴から青い光があふれ、門が開いた。
その向こうには、夜の町があった。
四 猫の町
氷の下に、空があった。
黒い天井に水晶が星のように瞬き、家々は白い石を積んで造られていた。細い塔、丸い窓、魚の骨を模した橋。通りには人影がない。
代わりに、猫がいた。
屋根に三匹。井戸に五匹。窓辺に十匹。階段、鐘楼、彫像の頭、凍った噴水の縁。あらゆる場所から、あらゆる色の猫が四人を見ていた。
百匹どころではない。
千匹いた。
犬たちは足を止めた。若い犬が唸りかけると、ハガネが一声で黙らせる。ススは橇から降り、町の中央へ歩いていった。
道の両側で猫たちが頭を下げた。
「スス、偉い猫なのかな」とポック。
「少なくとも、あなたよりは礼儀を知られてる」とエルシ。
広場の石碑に、共通古代語が刻まれていた。
――この町で、猫は客人であり、夜は猫のもの。
――客を飢えさせるな。追うな。傷つけるな。
――それを破る者は、夜に数えられる。
「最後の一行、どういうこと?」ヌニェオが訊いた。
「帰ってこないって意味じゃない?」とポック。
「昔の人、遠回しすぎる」
町の向こうに、青い光を放つ塔が見えた。地図の猫目印と同じ形だ。
だが、そこへ続く石橋は半ばで崩れていた。下は底の見えない裂け目で、温かい蒸気が吹き上がっている。
テッサは残った橋脚を調べた。
「犬と橇は渡れない。人間だけなら、壁の整備孔を通れる」
孔は猫一匹がやっと通れるほどに見えたが、中へ入ると縦に広くなっていた。ただし急な梯子があり、橇を運ぶ余地はない。
「犬たちはここで待ってもらうしかない」
ヌニェオは即座に首を振った。
「だめだ」
「連れていけない」
「別の道を探す」
「白喰いまで、あと二日もない」
「でも、置いていったら――」
言葉が続かなかった。
犬舎の前で聞いた港務官の声が蘇った。運がよければ春まで。正しい言葉。置いていくための言葉。
ハガネがヌニェオの手に鼻を押しつけた。
その目に、怯えも責める色もなかった。ただ、昔からそうしてきたように、次の命令を待っていた。
「戻る」
ヌニェオは首輪を握った。
「必ず戻る。朝の石を見つけて、同じ道を帰る。干し肉は全部置く。蒸気があるから凍らない。二日だ。二日だけ」
ハガネは一度、まばたきをした。
テッサが広場の倉庫を調べ、壊れた扉を直した。中には乾いた藁と古い水槽があった。ポックは自分の食糧袋まで犬たちの前に置いた。
「黒糖パンは半分だけね。犬に砂糖はよくないから」
「半分は自分のためでしょ」とエルシ。
「命の管理です」
若い犬たちは不安そうに鳴いた。ハガネだけが倉庫の入口に座り、四人を見送った。
整備孔に入る直前、ヌニェオは振り返った。
「待ってろ!」
その声は、空っぽの町に長く響いた。
ススは犬たちの側に残った。
それがなぜか、ヌニェオには少しだけ救いだった。
五 夜に数えられる者
整備孔は氷の血管のようだった。
壁の向こうを熱い水が流れ、ときどき町全体が眠り返るように鳴った。四人は梯子を上り、横穴を這い、細い梁を渡った。
途中、ポックの尻が管に挟まった。
「置いていってくれ」
「犬は置いても、あなたは置いてかない」とテッサ。
「その比較、うれしくない」
三人が引っぱり、ポックは栓のような音を立てて抜けた。
塔の基部へ出たとき、背後の孔から拍手が聞こえた。
「友情は美しいねえ」
フェゼルだった。
濡れた毛皮を凍らせ、頬に魚骨の傷をつけている。二人の手下も一緒だ。罠から抜けたあと、別の通路で追いついたらしい。
「地図を渡しな」
銃口が向けられた。
エルシはゆっくり地図を出した。フェゼルが奪い、猫目印を見て笑う。
「朝の石。炉を百年燃やす宝。北の王侯に売れば、船を十隻買える」
「石は持ち出すものじゃない」とテッサ。「町の熱脈につながってる。壊せば――」
「技師の説教は買ってないよ」
そのとき、足元で小さな声がした。
白茶の子猫が、倒れた梁の隙間でもがいていた。フェゼルの手下が苛立って蹴り飛ばそうとする。
「やめて!」
ヌニェオが飛び出した。
銃声。弾は壁に当たり、氷の粉が散った。エルシが手下の手首へ石を投げ、テッサがもう一人の膝裏を蹴る。ポックは考える前に、フェゼルへ体当たりした。
四人と三人が狭い足場で団子になった。
ヌニェオは子猫を抱え、梁の陰へ転がった。子猫の後脚から血が出ている。
「大丈夫」
何が大丈夫なのかわからないまま、そう言った。
塔の外で、鐘が鳴った。
ひとつ。
町には風がない。それでも、すべての窓が同時に開いた。
猫たちが入ってきた。
階段から、梁から、換気孔から。音もなく、途切れなく。黒、白、金、灰、縞。無数の目が青く光った。
フェゼルの手下が銃を振り回した。
「近づけるな!」
発砲した瞬間、灯りが消えた。
闇の中で、千匹の猫が一斉に喉を鳴らした。
それは優しい音ではなかった。遠い地の底で、巨大な何かが目覚める音だった。
悲鳴が二つ聞こえた。
次に灯りが戻ったとき、手下たちは消えていた。
床には二丁の銃と、毛皮帽が二つ、きちんと並べて置かれている。猫たちはすでにいない。
フェゼルは壁に背をつけ、顔から血の気を失っていた。赤い手袋の片方がなくなっている。
「何を……何をした」
ヌニェオは子猫を抱いたまま言った。
「ぼくらじゃない」
遠くの屋根から、ススが見ていた。
その隣にはハガネが立っていた。
「ハガネ?」
ヌニェオが目をこすると、もう姿はなかった。
幻だったのかもしれない。
フェゼルは落ちた地図を拾うと、塔の上へ走った。
「石を取れば終わりだ! 猫も町も、全部買って潰してやる!」
「反省って知らないの?」テッサが叫び、あとを追った。
ススは子猫のもとへ降りてきた。傷口を舐め、ヌニェオを見上げる。
その瞳の奥で、夜がゆっくり瞬いた。
六 置いてきた声
塔の上には、巨大な鐘が吊られていた。
鐘といっても金属ではない。青い透明な石でできた、逆さの山のような結晶だった。その内部を金色の火が流れ、低い鼓動を打っている。
朝の石。
鐘の下には、一台の古い記録機があった。ヌニェオが触れると、歯車が回り、薄い光の像が浮かんだ。
六年前の父だった。
髭は伸び、片腕を布で吊っている。背後では朝の石が同じように脈打っていた。
『これを見ているのが誰であれ、石を削って持ち帰ろうとするな』
像の声は、ひどく疲れていた。
『これは宝ではない。南の氷海を巡る熱の心臓だ。上の鐘楼で正しい音を鳴らせば、熱脈は鯨骨港へ開く。だが鐘打ちは壊れている。代わりに、猫王が持つ暁の爪が必要になる』
父はそこで咳き込み、少し笑った。
『猫王が貸してくれるかは、知らん。私は猫に嫌われた。魚を三匹ぶん勝手に食べたせいだ』
ヌニェオの喉が詰まった。
『ヌニェオ。おまえがこれを見ることはないと願っている。父親としては、危険な場所へ来てほしくない。だが探検家としては、たぶん来ると思っている』
光の父が、まっすぐヌニェオを見た。
『私は帰れない。氷河崩れで道が塞がった。だが、ここへ来たことを後悔していない。地図は、帰るためにある。誰かを置き去りにするためじゃない。どうか――』
像が乱れた。
『おまえは帰れ。連れてきた命を、ひとつも数え落とすな』
記録はそこで終わった。
ヌニェオは動けなかった。
六年間、父の死を完成させないように泣かなかった。その努力が、たった数秒の光にほどかれていく。
涙は思ったより熱かった。
ポックが黙って隣に座った。エルシは記録機をもう一度動かそうとしたが、歯車は二度と回らなかった。テッサは朝の石を見上げたまま、鼻をすすった。
「最悪の置き手紙」
「うん」
「でも、役には立つ」
「うん」
「それに、まだ犬を迎えに戻らなきゃいけない」
ヌニェオは袖で目を拭いた。
「うん」
背後で、金属が軋んだ。
フェゼルが鐘の支柱によじ登り、鉄の楔を朝の石へ打ち込もうとしていた。
「やめろ!」テッサが叫んだ。
「鐘が鳴らせないなら、欠片だけでももらう!」
ハンマーが振り下ろされる。
澄んだ音がした。
朝の石に一本の亀裂が走った。
塔全体が跳ねた。床が割れ、下から熱風が噴き上がる。町じゅうの水晶灯が赤く変わった。
「石が怒ってる!」ポック。
「石じゃなくて圧力管!」テッサ。「もっと悪い!」
フェゼルは二度目のハンマーを上げた。
その手の上へ、ススが飛び乗った。
爪が赤い手袋を裂く。フェゼルは叫び、猫を振り払った。ススの小さな体が、鐘の外へ投げ出される。
ヌニェオは考えなかった。
崩れる足場を蹴り、宙へ手を伸ばした。
指先が白い前脚をつかむ。
半身が裂け目へ落ちた。下には金色の熱流が渦巻いている。ポックがヌニェオの腰をつかみ、エルシがポックを、テッサがエルシをつかんだ。
「重い!」テッサが叫ぶ。
「誰が!」ポック。
「全員!」
ススがヌニェオの腕を駆け上がり、肩へ乗った。
その口に、薄い三日月形の金属片をくわえている。
暁の爪。
フェゼルがそれに気づいた。
「よこせ!」
飛びかかる。だが足元の亀裂から、黒い猫の前脚が一本、ぬるりと伸びた。
ありえないほど大きな前脚だった。
赤い手袋の手首を押さえる。
次の瞬間、塔じゅうの影が猫の形になった。
フェゼルは初めて、怒りではなく恐怖の声を上げた。
「待て。私は知らなかった。規則なんて――」
石碑の言葉が、どこからともなく響いた。
――客を飢えさせるな。追うな。傷つけるな。
――それを破る者は、夜に数えられる。
灯りが消えた。
ヌニェオたちは目を閉じた。
再び灯りがついたとき、フェゼルはいなかった。床には赤い手袋が片方だけ残っていた。その上に、小さな猫の足跡が四つついていた。
「どこへ行ったの」とエルシ。
ポックは震えながら答えた。
「たぶん、遠回しじゃないほうの意味」
塔が大きく傾いた。
テッサが暁の爪をつかみ、朝の石を見上げる。
「議論はあと! これを鳴らしたら走るよ!」
ヌニェオは頷いた。
四人で金属片を握った。
そして、朝の石を打った。
七 黎明の鐘
音は、聞こえなかった。
最初に来たのは光だった。
青い波が鐘から広がり、塔を抜け、猫の町を抜け、氷の大陸の奥深くへ走っていく。続いて、胸骨を内側から震わせるような低い響きが来た。
氷の下で、太古の熱脈が目を覚ました。
家々の屋根から雪が落ちた。凍った噴水が噴き上がり、運河に金色の水が流れる。遠く、鯨骨港の方角へ一本の光の筋が伸びた。
「成功?」ポック。
床が抜けた。
「たぶん!」
四人は階段を転げ下りた。
塔は砂糖細工のように崩れ始めていた。来たときの整備孔は熱水で塞がれ、橋への道も落盤している。猫たちは屋根から屋根へ逃げていたが、人間が通れる出口は見えない。
「犬たちのところへ行けない!」
ヌニェオが叫んだ。
そのとき、崩れた広場の向こうから遠吠えが響いた。
一声。
二声。
やがて十一の声が重なる。
「ハガネ!」
白い蒸気を割り、橇が飛び出した。
先頭のハガネは血のにじむ脚で走っていた。後ろの犬たちも藁まみれ、泥まみれだ。曳き綱の上には、白茶の子猫と、それに何十匹もの猫が乗っている。ヌニェオの肩のススが、迎えるように高く鳴いた。
「どうやって来たの?」
エルシが呆然とする。
テッサは橇の側面についた新しい傷を見た。
「倉庫の裏壁を掘ったんだ。猫が別の坑道を教えた」
ハガネはヌニェオの胸へ頭からぶつかった。
「ごめん」
ヌニェオは老犬の首を抱いた。
「待ってろなんて言って、ごめん。もう置いていかない」
ハガネは一度だけ顔を舐め、すぐ先頭へ戻った。
猫たちは橇から一斉に降りた。ススだけが残る。白茶の子猫も一緒だった。
猫の群れが二列に分かり、崩れた町の奥へ道をつくった。
その先には、来たときにはなかった石門が開いている。門の向こうから、地上の吹雪が吹き込んでいた。
「猫って、最初から近道を知ってたの?」ポック。
ススが尻尾でポックの鼻を叩いた。
「知ってた顔だ」
橇が門へ飛び込む直前、ヌニェオは振り返った。
千匹の猫が、静かにこちらを見ていた。
中央に、一匹の大きな銀猫がいた。頭に古い王冠を載せている。その足元には、父の革鞄が置かれていた。
銀猫はゆっくり頭を下げた。
ヌニェオも頭を下げた。
門が閉じた。
次の瞬間、四人と犬たちは白い地上へ放り出された。
八 最後の橇
白喰いが始まっていた。
空と地面の境が消え、風が氷の粒を横殴りに投げつける。十歩先も見えない。朝の石が開いた熱脈のせいで、足元の氷はところどころ割れ、蒸気が噴き上がっていた。
鯨骨港まで半日。
砕氷船《グラガス》の出航まで、六時間。
「方角は?」テッサ。
ヌニェオは方位磁針を見た。針が狂ったように回っている。地下の熱流で磁場が乱れていた。
地図も使えない。
ハガネが風を嗅いだ。
そして走り出した。
――この地図を信じるな。犬を信じろ。
「行け!」
橇は吹雪へ突っ込んだ。
犬たちは、見えない道を走った。氷丘を越え、裂け目を避け、風下のわずかな匂いを拾う。ヌニェオたちは交代で橇を押し、凍りつく睫毛を手袋でこすった。
二時間後、若い犬マメが裂け目へ落ちた。
曳き綱が引かれ、列全体が傾く。テッサは綱を切ろうと斧を上げた。
「待って!」
「切らなきゃ全員落ちる!」
「引き上げる!」
「時間がない!」
ヌニェオは橇を降り、腹ばいになって裂け目へ手を伸ばした。マメは氷壁に爪を立て、必死にもがいている。
エルシとポックがヌニェオの脚を押さえた。テッサは一秒だけ迷い、斧を捨て、滑車を取り出した。
「三十秒でやる!」
犬たちも綱を張った。
ハガネが吠える。
人と犬が同時に引いた。
マメが裂け目から飛び出し、ヌニェオの上へ落ちた。
「重い!」
「誰が!」ポック。
「犬!」
マメは全員の顔を順番に舐めた。
四時間後、食糧が尽きた。
五時間後、帆が裂けた。
町の鈴はまだ聞こえない。
ハガネの足取りが遅くなった。古傷のある後脚が、雪を蹴るたびに沈む。ヌニェオが先頭を代えようとすると、老犬は牙を見せた。
「怒るなよ」
ハガネは前を向いた。
その背に、ススが飛び乗った。
猫は風上へ鼻を向け、甲高く鳴いた。
白茶の子猫も続いた。
すると、吹雪の向こうから小さな音が返ってきた。
ちりん。
ちりん。
鯨骨港の鈴だ。
「聞こえた!」
犬たちが力を取り戻した。
最後の丘を越えると、港の影が見えた。空鯨の肋骨が吹雪の中に立ち、《グラガス》の煙突が黒煙を上げている。係留索はすでに一本だけだった。
エルシが信号弾を撃つ。
赤い光が空を裂いた。
船上で人々が振り返る。
「止めて!」エルシが叫ぶ。「お父さん、船を止めて!」
だが風に声は消えた。最後の係留索が外される。船が岸を離れ始めた。
その瞬間、地面の下から金色の光が噴き上がった。
朝の石の熱脈が、鯨骨港へ届いたのだ。
凍りついていた星炉の煙突が赤く染まる。ひび割れから青い炎が立ち上がり、水路の氷が音を立てて溶け始めた。
町じゅうの鈴が、熱風に揺れた。
百、二百、千の鈴が一斉に鳴った。
《グラガス》の船が止まった。
岸から人々が駆けてくる。
ヌニェオは橇を降り、犬たちの曳き綱を外した。
「着いたぞ」
若い犬たちは雪の上を転げ回った。マメはパン屋の主人へ飛びつき、ポックの母は息子より先にマメを抱いた。
町長がエルシを抱きしめ、次に怒鳴り、また抱きしめた。
テッサは星炉へ走り、技師たちに地下熱脈のことを説明し始めた。
ヌニェオはハガネを探した。
先頭の曳き綱だけが、雪の上に残っていた。
老犬の足跡は、吹雪の中へ続き、途中で消えていた。
「ハガネ!」
呼んでも返事はなかった。
ススも、白茶の子猫もいなかった。
九 朝の客人
白喰いは七日で終わった。
朝の石が開いた熱脈は星炉を温め、鯨骨港は北へ逃げずに済んだ。町の技師たちは、地下へ続く古い配管を修理した。テッサは十四歳なのに会議へ呼ばれ、毎回、大人より先に間違いを見つけた。
ポックの家では「非常用黒糖パン」が売り出され、非常でない日に食べる客で行列ができた。
エルシは町の規則を一つ増やした。
――鯨骨港は、働けなくなった獣を含め、町のために生きた命を見捨てない。
港務官はその条文を読み、何も言わずに犬舎の屋根を直した。
ヌニェオは毎朝、南門へ行った。
吹雪が止んだあとも、ハガネの姿はなかった。探しに出た隊も足跡を見つけられなかった。
七日目の朝、百日ぶりの太陽が氷海の端から昇った。
青白い光が空鯨の骨を染める。
南門の鈴が、一度だけ鳴った。
ヌニェオが振り返る。
氷原の向こうから、一頭の犬が歩いてきた。
灰色の毛は氷で白くなり、後脚を引きずっている。それでも頭は高く、琥珀色の目は昔と同じだった。
「ハガネ!」
ヌニェオは走った。
老犬の背には、煤のように黒い猫が乗っていた。右前脚だけが白い。首には、三日月形の金属片――暁の爪が提げられている。
その後ろを、白茶の子猫が跳ねながらついてきた。
ハガネはヌニェオの胸へ頭からぶつかった。
ヌニェオは雪の上に膝をつき、老犬を抱いた。今度は、泣くのを止めなかった。
「遅いよ」
ハガネは鼻を鳴らした。
ススがヌニェオの肩へ移り、太陽を見上げた。
港の屋根という屋根に、いつの間にか猫たちが座っていた。
黒、白、金、灰、縞。
百匹。二百匹。数えきれないほど。
町の人々は驚いたが、追い払う者はいなかった。パン屋は魚を出し、港務官は水を置いた。子どもたちは戸口を開けた。
朝の光の中で、猫たちは一斉に目を細めた。
その日から鯨骨港では、夜になると猫が家々の窓を訪れるようになった。
猫を客人として迎えた家は吹雪に道を失わず、犬の鈴は遠くまでよく響いた。
そして子どもが宝探しへ出かけようとすると、大人たちはまず地図を持たせ、それから必ずこう言った。
「地図だけを信じるな」
すると犬たちが吠え、猫たちが尻尾を立てた。
まるで、その先を知っているように。