水底の鐘

一 水のないプール

 十一年前に閉鎖された青葉市民水泳場は、夜になると別の用途に使われた。

 二十五メートルの競泳プールからは水が抜かれ、底には乾いた落ち葉と、消毒液の匂いだけが残っている。観客はプールサイドを囲み、手すりにもたれ、あるいはスタート台に腰を下ろしていた。招待状を持つ三百人。声を潜める者はいない。歓声はタイルの壁で何度も反射し、天井の鉄骨を震わせていた。

 その騒音の中心に立ちながら、黒瀬岳人には何ひとつ聞こえていなかった。

 四十二歳。

 身長百七十八センチ、体重八十四キロ。

 厚い胸板も、節くれ立った拳も、かつて七つの団体を渡り歩いた格闘家の名残だった。しかし、腹には薄く脂肪がつき、右膝には古い手術痕がある。髪には白いものが混じり、左の眉は途中で切れていた。

 六年ぶりの実戦だった。

 向かいに立つ鳴海朔は二十四歳。百八十三センチ、七十九キロ。細いように見えて、肩から腰までが一本の鞭のようにつながっている。十八戦十八勝。打撃、投げ、寝技のどれにも穴がなく、とりわけ相手の攻撃の「拍子」を盗むことにかけては、国内に並ぶ者がいないといわれていた。

 鳴海は相手が息を吸う音を聞く。

 足の裏が床を擦る音を聞く。

 奥歯を噛みしめる音さえ聞く。

 そして、攻撃が始まる半拍前に動く。

 だから彼は「先に終わっている男」と呼ばれていた。

 一方の黒瀬は、何も聞かない。

 六年前、建設中の体育館で吊り上げられていた鋼材が落下した。床を叩いた衝撃と爆音は、近くにいた黒瀬の内耳を壊した。手術をしても聴力は戻らなかった。医師は日常生活への復帰だけでも幸運だと言い、格闘技への復帰については話題にすらしなかった。

 黒瀬自身も、戻るつもりはなかった。

 少なくとも、三か月前までは。

 レフェリーが二人の間に入った。開始の合図に鐘は使わない。プールサイドに設置された赤いランプが点灯し、同時にレフェリーが腕を振り下ろす。黒瀬のために用意された視覚合図だった。

 ルールは単純だった。

 武器の使用、目潰し、金的、喉への直接攻撃は禁止。どちらかが十秒立てないか、意識を失うか、レフェリーが続行不能と判断すれば終わり。それ以外は許される。

 鳴海が口を動かした。

 黒瀬は唇を読んだ。

「音のない世界は、怖いか」

 黒瀬は少し考え、答えた。

「お前の口は、よく動くな」

 鳴海が笑った。

 赤いランプが点いた。

 レフェリーの腕が落ちた。

 水のないプールの底で、二頭の獣が動いた。

二 拍子を盗む男

 最初に動いたのは鳴海だった。

 左足を半歩進める。肩を揺らす。左拳が伸びると見せて、右のローキックが黒瀬の腿を打った。

 乾いた肉の震えが、黒瀬の骨盤まで走る。

 鳴海はすでに離れている。

 黒瀬は追わない。

 再び左。今度は本物のジャブ。黒瀬が額で受けた瞬間、右の拳がみぞおちへ落ちる。黒瀬は肘を絞って受けた。鳴海はその肘の外側を左手で叩き、開いた脇腹へ膝を突き上げた。

 三つの動きが、ひとつの呼吸に収まっていた。

 普通の相手なら、最初のジャブを避けた時点で次の攻撃を食う。ジャブを防いだとしても、右拳に意識を奪われ、膝への反応が遅れる。

 鳴海は相手の防御動作を見ているのではない。

 防御へ移る直前の音を聞いている。

 息を止める音。

 踵が沈む音。

 衣服が張る音。

 それが鳴海にとっての開始の鐘だった。

 だが黒瀬には、その鐘がない。

 鳴海が右拳を見せる。

 黒瀬は動かない。

 鳴海の肩だけが走る。

 黒瀬は動かない。

 鳴海は左へ回りながら、足の甲で黒瀬の前脚を軽く蹴った。反応を引き出すための攻撃だった。黒瀬は腿をわずかに固めただけで、構えを変えない。

 鳴海の目から笑いが消えた。

 黒瀬は、鳴海の足音を聞いてはいなかった。

 感じていた。

 乾いたプールの底は、一枚の巨大な膜だった。裸足の足裏をタイルへ押しつければ、鳴海の踏み込みは細い振動となって伝わってくる。踵が床へ落ちるより早く、膝が体重を受けた瞬間に、タイルはわずかに震える。

 右へ動く振動。

 前へ沈む振動。

 力を抜いた偽りの振動。

 聞こえなくなってからの六年、黒瀬は足の裏で世界を測ってきた。

 駅のホームを走る電車。

 雨戸を叩く風。

 背後から近づく教え子。

 音を失った身体は、音以外のものを拾い始めた。

 鳴海が踏み込んだ。

 今度は速かった。左のジャブ、右のストレート。黒瀬は左へ頭をずらし、右拳を頬の横へ通す。

 鳴海の右足が床へ深く沈んだ。

 その振動が黒瀬の踵へ届く。

 黒瀬は初めて前へ出た。

 鳴海の右腕の内側へ肩を差し込み、左拳を胸骨の下へ突き立てる。振りかぶらない。肘もほとんど伸ばさない。拳の幅だけを押し込む短い打撃だった。

 鳴海の口が開いた。

 空気が肺から漏れたことを、黒瀬は音ではなく、拳に返る腹筋の緩みで知った。

 続けて右の掌底を顎へ。

 鳴海は上体を反らしてかわし、後ろへ跳んだ。

 プールサイドの観客たちが一斉に立ち上がった。口が開き、腕が振られる。天井から埃が落ちるほどの歓声だったはずだ。

 黒瀬の世界では、すべてが無声映画のように動いていた。

 ただ、足の裏だけが、三百人分の興奮を受け取っていた。

 プールの縁が震えている。

 その中心で、鳴海は腹を押さえ、黒瀬を見ていた。

「なるほど」

 そう唇が動いた。

 黒瀬は右手の指を一度曲げた。

 来い、という意味だった。

三 静かな嘘

 鳴海は戦い方を変えた。

 足を滑らせるように進み、踵を落とさない。踏み込む直前まで左右どちらにも重心を預けず、爪先だけで床を舐める。振動を消している。

 黒瀬の足裏から情報が減った。

 鳴海はそれを確かめるように、軽い左拳を二度伸ばした。

 黒瀬は額と前腕で受ける。

 三度目の左が来た。

 同じ速さ、同じ軌道。

 黒瀬が前腕を上げた瞬間、鳴海の左拳が途中で消えた。

 右足がタイルを擦る。

 身体が横へ流れる。

 右肘が黒瀬の左耳の後ろを打った。

 視界が白く弾けた。

 黒瀬の平衡感覚が傾く。

 聴力を失っても、身体の均衡を司る器官のすべてが死んだわけではない。しかし損傷は残っている。急な回転と頭部への衝撃が重なると、床が斜めに立ち上がるような錯覚が起こった。

 鳴海はそこを知っていた。

 右肘の直後、左の膝が脇腹へ入る。

 黒瀬は一歩退いた。

 鳴海は追う。

 左拳を顔へ。

 右足でふくらはぎを刈る。

 身体が揺れたところへ、左の回し蹴りが首筋を打った。

 黒瀬の肩がタイルの壁へぶつかった。

 鳴海は床だけでなく、壁も使った。浅い側から深い側へ向かうわずかな傾斜を背にし、黒瀬の右膝へ負担を集める位置を取る。自分は傾斜を下る勢いを攻撃へ乗せ、黒瀬には上りながら受けさせる。

 場所まで拍子の一部にしていた。

 黒瀬は壁から離れた。

 鼻の下に生温かいものが流れる。血だ。舌で触れると鉄の味がした。

 鳴海がまた足を滑らせる。

 黒瀬は振動を待った。

 来ない。

 肩が動く。

 右拳。

 黒瀬は左へ避けた。

 そこへ左の蹴りが来た。

 腹に突き刺さる。

 黒瀬が息を吐く。鳴海はその呼吸を聞いたのだろう。もう一歩入り、肘を畳んだ。

 黒瀬は退かず、鳴海の胸へ額をつけた。

 距離が消えた。

 鳴海の肘は振れない。

 黒瀬の左腕が鳴海の右上腕へ絡み、右手が首の後ろを押さえる。胸と胸、肩と肩、額と頬。二人の身体が密着した。

 その瞬間、黒瀬の世界に情報が戻った。

 鳴海の呼吸が鎖骨を上下させる。

 右肩が内側へ巻く。

 腰の筋肉が硬くなる。

 左足の親指が床を噛む。

 接触してしまえば、皮膚が耳になる。

 骨から骨へ、筋肉から筋肉へ、相手の意図が伝わってくる。

 鳴海が右腕を差し返そうとした。

 黒瀬はその始まりを肩で感じ、肘を内側へ落とす。鳴海の腕が挟まる。黒瀬は頭で顎を押し上げ、右膝を鳴海の腿へ突き刺した。

 一発。

 二発。

 三発目を鳴海は腰を引いて外した。

 だが、腰が引けば上体は前へ出る。

 黒瀬は左足を鳴海の右足の外へ置き、上腕を抱えたまま身体をひねった。

 鳴海の両足が床を離れる。

 投げたというより、立っていた地面を横へ抜いた。

 鳴海の背中がタイルへ落ちた。

 衝撃がプール全体を走る。

 黒瀬はその振動を足裏で受けながら、鳴海の胸へ膝を落とそうとした。

 鳴海は転がって避け、片手を床へついて立ち上がる。速い。背中から落ちながら、頭だけは打たない角度を作っていた。

 黒瀬の右足が前へ出る。

 追撃。

 その瞬間、鳴海の爪先がタイルを一度だけ叩いた。

 小さな振動。

 黒瀬の身体が反応する。

 踏み込みが来る。

 そう判断した。

 だが、鳴海は踏み込まなかった。

 爪先で作った振動だけを残し、重心は後ろに置いたまま、黒瀬の前進を待っていた。

 黒瀬が間合いへ入る。

 鳴海の右拳が脇腹へ沈んだ。

 肝臓を打たれた。

 痛みより先に、身体の内側から力が消えた。

 黒瀬の左膝が床へ落ちる。

 続けて右手もついた。

 鳴海は追撃しなかった。二歩下がり、レフェリーを見る。

 レフェリーが黒瀬の正面へ回り、指を立てた。

 一。

 二。

 三。

 黒瀬の視界の端で、観客たちが揺れている。

 四。

 腹の奥に鈍い痙攣が走る。

 五。

 六年前の白い光景が、突然よみがえった。

 落下する鋼材。

 振り向く作業員。

 床へ叩きつけられた鉄の梁。

 世界が破裂した。

 その後に来たのは、闇ではなかった。

 光はあった。

 人もいた。

 口を動かし、肩を叩き、血のついた手袋を外す救急隊員もいた。

 ただ、音だけがなかった。

 黒瀬はそのとき、生まれて初めて静寂を恐れた。

 七。

 あの日から六年、彼は恐怖を見ないふりをしてきた。

 格闘技を教えた。

 ミットを持った。

 教え子の足運びを直した。

 試合ではセコンドに立ち、手話と表情で指示を送った。

 だが、自分が戦うことはなかった。

 ある夜、十五歳の教え子が尋ねた。

 耳の聞こえない少年だった。

『先生の拳は、昔の話?』

 手話でそう問われ、黒瀬は答えられなかった。

 八。

 黒瀬は右足を立てた。

 九が示される前に、立ち上がった。

 鳴海の眉がわずかに上がる。

 黒瀬は腹を押さえず、両手を構えた。

「静かな嘘だ」

 黒瀬は言った。

 自分の声量が正しいかはわからない。発音も昔より崩れている。それでも鳴海には伝わった。

「床を鳴らして、身体は動かさなかった」

 鳴海が口角を上げた。

「聞こえたじゃないか」

「次は、間違えない」

 レフェリーが腕を振った。

 試合が再開した。

四 骨伝い

 黒瀬は構えを変えた。

 拳を頬の高さに置くのをやめ、両手を胸の前へ下げた。指を軽く開き、掌を鳴海へ向ける。

 打撃を防ぐ構えではない。

 触れるための構えだった。

 鳴海が左を伸ばす。

 黒瀬は避けず、前腕で受けた。

 骨と骨がぶつかる。

 衝撃の向こうから、鳴海の肩の位置がわかる。拳を引く速さがわかる。次に回る腰の方向がわかる。

 右の蹴り。

 黒瀬は脛で受けた。

 痛みと同時に、鳴海の軸足へ乗った体重が伝わってくる。

 黒瀬は蹴り足を追わず、軸足の外側へ踏み込んだ。

 鳴海が肘を振る。

 黒瀬は右掌でその上腕に触れた。

 触れたのは一瞬だった。

 だが一瞬で十分だった。

 上腕が硬くなる順番。

 肩甲骨が滑る方向。

 背中へ逃げる力。

 黒瀬は頭を下げた。

 肘が髪をかすめる。

 同時に左の拳が鳴海の肋骨へ入った。

 鳴海が退く。

 黒瀬は追い、右手で胸を押す。

 押したのではない。

 触れて、次の動きを聞いた。

 鳴海の胸筋が収縮する。

 左肩が上がる。

 左のフック。

 黒瀬は腕の内側へ入り、肩を鳴海の胸へぶつけた。

 鳴海の背が反る。

 黒瀬の右拳が腹へ。

 左掌が顎へ。

 鳴海は顎を引き、掌底を額で受けた。すぐに両腕を黒瀬の首へ巻き、膝を上げる。

 黒瀬は鳴海の腰へ手を当てた。

 膝が上がる直前、骨盤はわずかに後ろへ倒れる。

 その予備動作を掌で感じ、身体を横へずらした。

 膝が空を切る。

 黒瀬は腰を抱え、鳴海を壁へ押し込んだ。

 背中がタイルへ当たる。

 鳴海は右腕を黒瀬の首へ回した。

 首相撲の形。

 黒瀬の頭を下げさせ、もう一度膝を狙う。

 黒瀬は首の力で耐えず、鳴海の肘へ額を押し当てた。腕の輪を内側から広げる。左手で脇腹を押し、右膝を腿の内側へ入れる。

 鳴海の足が開いた。

 黒瀬は足を掛け、壁へ沿わせるように倒した。

 二人が床へ落ちる。

 鳴海はすぐに黒瀬の右腕を抱えた。脚を首へ回し、腕ひしぎへ移る。

 黒瀬は肘を抜こうとしない。

 抜けば伸ばされる。

 代わりに、鳴海の膝裏へ左手を差し込み、尻を持ち上げた。鳴海の腰が浮く。腕を抱えたまま、鳴海の頭が床へ近づく。

 鳴海は脚の輪をほどき、横へ転がった。

 黒瀬の右腕が自由になる。

 その瞬間、鳴海の踵が黒瀬の顎を蹴り上げた。

 黒瀬の頭が跳ねた。

 鳴海が立つ。

 黒瀬も立つ。

 二人の間から、技の名前が消えていた。

 拳法でも、柔術でも、レスリングでもない。

 触れた場所を押す。

 空いた場所を打つ。

 倒れそうなら、相手を先に倒す。

 勝つために削られた動きだけが残っていた。

 鳴海の唇が動く。

「面白い」

 黒瀬は読んだ。

 鳴海は続けた。

「俺は相手の始まりを聞く。あんたは、途中を聞く」

 黒瀬は血の混じった唾を吐いた。

「終わりも聞く」

 鳴海の目が細くなった。

「なら、聞かせてみろ」

五 無拍子

 鳴海の動きから、一定の間隔が消えた。

 速い攻撃の後に遅い攻撃を置く。

 踏み込んだと思えば、その場に残る。

 息を吐きながら退き、吸いながら打つ。

 人間の身体には拍子がある。

 心臓が打つ。

 肺が膨らむ。

 筋肉が縮み、緩む。

 歩けば右、左と体重が移る。

 鳴海はその自然な拍子を、意識的に壊していた。

 一、二、三ではない。

 一、二――空白――四、五――一。

 黒瀬の足裏へ届く振動も、掌へ返る緊張も、次につながらない。

 鳴海の左拳が鼻を打つ。

 黒瀬が触れる前に消える。

 右の前蹴りが腹へ入る。

 黒瀬が受け止めたときには、鳴海の身体が回転している。

 裏拳がこめかみをかすめた。

 黒瀬は前へ出た。

 鳴海は下がらず、肩をぶつける。

 二人の胸が当たる。

 黒瀬が情報を拾うより早く、鳴海は力を抜いた。

 身体が柔らかく沈む。

 黒瀬の腕の下を抜け、背後へ回る。

 右腕が首へ巻きついた。

 鳴海の左手が右手首を支え、輪が締まる。

 裸絞め。

 黒瀬は顎を引いた。

 前腕が顎骨へ食い込む。

 鳴海は無理に喉へ入れず、顎ごと頭を持ち上げる。黒瀬の首が反り、右膝の力が抜ける。

 黒瀬は鳴海の腕を剥がそうとしなかった。

 両手を鳴海の腰へ回す。

 背負ったまま立ち上がった。

 鳴海の足が床から離れる。

 黒瀬は浅い側の壁へ歩いた。

 一歩。

 右膝が軋む。

 二歩。

 視界の縁が暗くなる。

 三歩。

 鳴海の踵が黒瀬の腿を蹴る。

 黒瀬は壁へ背を向け、そのまま後ろへ倒れ込んだ。

 鳴海は挟まれる直前に腕をほどき、横へ飛んだ。

 黒瀬の背中が壁へ激突する。

 息が止まった。

 鳴海は着地と同時に回転した。

 右の後ろ回し蹴り。

 踵が黒瀬の胸を打つ。

 黒瀬は壁に押しつぶされ、前へ崩れた。

 鳴海の左膝が上がる。

 黒瀬は両腕で受けた。

 腕ごと顔へ膝がめり込む。

 黒瀬の身体がプール底へ転がった。

 レフェリーが割って入ろうとする。

 黒瀬は手を上げた。

 まだだ。

 声は出さなかった。

 レフェリーは一瞬迷い、下がった。

 黒瀬は四つん這いになった。

 右手の掌が、冷たいタイルへ触れた。

 床の震えが、足裏よりも鮮明に腕を上ってきた。

 鳴海の右足。

 左足。

 体重の移動。

 手のひらには足裏より多くの感覚受容器がある。六年間、黒瀬は歩くために足で振動を感じてきた。だが、床へ手を置いたことはなかった。

 観客には、倒れた男が立てずにいるように見えただろう。

 黒瀬には違った。

 巨大なタイルの膜へ、耳を直接当てているようだった。

 鳴海が近づく。

 右足が沈む。

 黒瀬は顔を上げず、左へ転がった。

 鳴海の踏みつけが空を打つ。

 黒瀬は片膝で回り、鳴海の軸足へ肩を当てた。

 鳴海がよろめく。

 黒瀬は立たない。

 右手を床についたまま、低い姿勢で追う。

 鳴海が左足を引く。

 その振動が掌へ来る。

 黒瀬は右足首をつかんだ。

 鳴海は跳び、自由な左足で黒瀬の顔を蹴った。

 黒瀬の頬が裂ける。

 それでも手を離さない。

 足首を抱え、身体を起こす。

 鳴海は片足で跳ねながら、黒瀬の頭へ肘を落とした。

 一発。

 二発。

 三発目が来る前に、黒瀬は鳴海の膝裏へ肩を入れた。

 持ち上げる。

 鳴海の身体が逆さになる。

 黒瀬は真下へ落とさず、横へ投げた。

 鳴海は空中でひねり、肩から受け身を取る。

 転がって立った。

 黒瀬も、ようやく両足で立った。

 頬から血が顎へ流れている。

 呼吸は荒い。

 右腕は鳴海の肘を受け続けたせいで、肩より上へ上がらない。

 それでも黒瀬の顔には、奇妙な穏やかさがあった。

 鳴海が口を動かす。

「何が見えた」

 黒瀬は唇を読んだ。

「見ていない」

 黒瀬は答えた。

「聞いていた」

 鳴海は一度、ゆっくり瞬きをした。

 そして、初めて構えを解いた。

 両腕を下げ、足幅を狭くする。

 そこから、すっと息を吸った。

 黒瀬には聞こえない。

 だが、鳴海の肋骨が広がるのは見えた。

 次の瞬間、鳴海が消えた。

六 空白の一拍

 鳴海は床を蹴っていなかった。

 前へ倒れるように重心を崩し、最後の瞬間だけ爪先で押した。踏み込みの振動を限界まで小さくした突進だった。

 黒瀬の顔へ右拳が迫る。

 避けきれない。

 黒瀬は額で受けた。

 骨が鳴る感触。

 続く左拳が腹へ。

 黒瀬は肘を落としたが、拳は途中で軌道を変え、右の鎖骨へ突き刺さった。

 右腕が痺れる。

 鳴海は止まらない。

 左のローキック。

 右の肘。

 身体を沈めて足払い。

 黒瀬の右膝が床へつく。

 鳴海の右膝が顔へ上がる。

 黒瀬は左掌を床へ置いた。

 振動がない。

 鳴海の足が床から離れている。

 跳び膝。

 黒瀬は顔を上げた。

 膝が迫る。

 避けるのでは遅い。

 黒瀬は前へ出た。

 鳴海が空中へ浮いた、その真下へ潜り込む。

 左腕で鳴海の腰を抱え、動かない右腕を添える。額を鳴海の胸へつけた。

 空中では、どれほど巧みな男でも地面を変えられない。

 黒瀬は立ち上がりながら回った。

 鳴海の身体が弧を描く。

 深い側へ下る傾斜に沿って、背中から落ちた。

 空気が鳴海の肺から抜けた。

 黒瀬はその音を聞かない。

 胸へ当てた額で、肋骨がしぼむ感触を受け取った。

 鳴海が肘を落とす。

 黒瀬の後頭部を打つ。

 黒瀬は腰を抱いたまま離れない。

 鳴海はもう一度、肘を上げた。

 その肩の動きを額で感じ、黒瀬は身体をずらす。

 肘が空振りする。

 黒瀬は鳴海の右脇へ頭を入れ、左腕を首の後ろへ回した。右腕は上がらない。片腕だけの不完全な抱え込みだった。

 鳴海が腰を切る。

 黒瀬は追う。

 二人は膝立ちのまま回転した。

 鳴海が立とうとする。

 黒瀬は左足を鳴海の踵へ掛ける。

 鳴海の体重が一瞬、後ろへ流れた。

 黒瀬の胸に、鳴海の背中が触れる。

 接触した場所から、すべてが伝わった。

 肺はまだ十分に膨らんでいない。

 右脚へ体重が集まっている。

 首の筋肉は左へ逃げようとしている。

 黒瀬は締め技を狙わなかった。

 鳴海の右肩へ顎を乗せ、左手でその手首を押さえた。自分の胸を背中へ密着させ、呼吸の余地を消す。

 そして立った。

 鳴海も強引に立つ。

 二人が縦に重なった。

 鳴海は頭を後ろへ振った。

 後頭部が黒瀬の鼻へ当たる。

 血が飛ぶ。

 黒瀬の拘束が緩む。

 鳴海は身体を回し、正面へ戻った。

 至近距離。

 鳴海の右拳が黒瀬の顎を打った。

 黒瀬の頭が揺れる。

 左拳が頬を打つ。

 黒瀬の足が一歩退く。

 鳴海は三発目を打たなかった。

 空白。

 黒瀬の身体は、来るはずの攻撃へ備えて固まった。

 そこへ鳴海の右足が走る。

 胴回しに近い高い蹴り。

 黒瀬は両腕を上げた。

 右腕が間に合わない。

 脛がこめかみを打つ。

 視界が横へ流れた。

 黒瀬は倒れなかった。

 右足を後ろへ引き、どうにか立つ。

 鳴海も着地している。

 互いの距離は二メートル。

 黒瀬の視界は二重になっていた。

 鳴海が二人いる。

 床の傾きもわからない。

 足裏の感覚さえ、頭の揺れに混じっている。

 鳴海の唇が動いた。

「終わりだ」

 黒瀬には、そう読めた。

 鳴海が構える。

 左足が前。

 右拳は顎の横。

 これまでで最も正しい、最も美しい構えだった。

 勝負を終わらせるときの構え。

 黒瀬は右腕を下げた。

 上がらない腕を無理に使うのをやめた。

 左手だけを前へ出す。

 指先がわずかに震えている。

 鳴海が踏み込む。

 今度は振動を隠さなかった。

 右足が床を押す。

 腰が進む。

 肩が回る。

 完璧な右ストレートだった。

 黒瀬は避けなかった。

 左手を前へ伸ばした。

 鳴海の右肩へ触れる。

 拳が黒瀬の左頬を打ち抜いた。

 奥歯が折れた。

 意識が白く飛びかける。

 だが、指先は肩から離れなかった。

 鳴海の右拳が伸び切る。

 右肩が前へ出る。

 左脇腹が開く。

 軸足の踵が浮く。

 触れていたから、わかった。

 黒瀬は一歩、鳴海の外側へ入った。

 打たれた勢いを止めず、そのまま身体を回す。

 左肘を畳む。

 拳ではない。

 前腕の硬い部分を、鳴海の胸骨の下へ押し込んだ。

 距離は十センチもない。

 それでも、鳴海の身体は大きく折れた。

 黒瀬は続けて左手を鳴海の後頭部へ回した。

 引き寄せる。

 右肩を鳴海の胸へ当てる。

 右腕は死んでいる。

 右膝も限界だった。

 だから黒瀬は、全身を一つの塊にした。

 左足で床を押し、腰を進め、背骨を伸ばす。

 肩が鳴海の胸骨を突き上げた。

 鳴海の両足が床から離れた。

 黒瀬は持ち上げきれない。

 それでよかった。

 浮いた踵の下へ、自分の左足を差し込む。

 鳴海の足場を奪い、身体を横へ送った。

 鳴海は肩から落ちた。

 受け身を取ろうとした右手が、血で滑る。

 後頭部は打たなかった。

 だが、胸への二撃で呼吸が戻らない。

 鳴海は起き上がろうとし、片膝をついた。

 レフェリーが指を立てる。

 一。

 二。

 鳴海は床へ右手を置いた。

 三。

 立とうとする。

 肘が震える。

 四。

 黒瀬はその姿を見ていた。

 観客も、レフェリーも、何かを叫んでいる。

 五。

 鳴海の右手がタイルを叩いた。

 立て、と自分へ命じるように。

 その小さな衝撃が、黒瀬の足裏へ届いた。

 六。

 もう一度、鳴海の掌が床を叩く。

 七。

 黒瀬には、それが鐘のように感じられた。

 八。

 鳴海は右足を立てた。

 九。

 腰が上がる。

 だが膝が伸びない。

 十。

 レフェリーの両腕が交差した。

 試合は終わった。

七 水底の鐘

 観客がプールの底へ雪崩れ込んだ。

 誰かが黒瀬の肩を抱いた。

 誰かが顔の前で手を振った。

 医療スタッフが口を大きく動かし、意識を確認している。

 黒瀬には何も聞こえない。

 ただ、何十人もの足がタイルを打つ振動で、足元が波打っていた。

 水のないプールに、見えない水が満ちたようだった。

 黒瀬は人の間を抜け、鳴海の前へ行った。

 鳴海は壁にもたれ、酸素を吸っていた。意識ははっきりしている。胸を押さえながら、黒瀬を見上げた。

 スタッフが離れる。

 鳴海がマスクを外した。

「最後、何を聞いた」

 ゆっくりと口を動かした。

 黒瀬は唇を読んだ。

 少し考えた。

 そして鳴海の手を取り、掌をタイルへ置かせた。

 プールの高い天井には、いくつも穴が空いていた。

 外では雨が降り始めている。

 一滴が落ちた。

 タイルを打つ。

 鳴海の掌が、そのかすかな震えを拾った。

 もう一滴。

 遠くで落ちる。

 黒瀬は手話を使わず、声にした。

「静けさは、何もないんじゃない」

 自分の声がどんな音になっているのか、黒瀬にはわからない。

「余計な音がないだけだ」

 鳴海は黒瀬の口を見た。

 それから、床へ置いた自分の掌を見た。

 雨粒がまた落ちる。

 鳴海は笑った。

「負けた音は、悪くない」

 黒瀬も笑った。

「次は、立て」

「次もやる気か」

「お前が、うるさくなければな」

 鳴海は声を出して笑った。

 黒瀬には聞こえない。

 だが、鳴海の肩が揺れ、背中が壁を震わせ、その振動がタイルを伝って足裏へ届いた。

 それで十分だった。

 プールの縁に、十五歳の教え子が立っていた。

 人混みの向こうから、両手を動かす。

『先生の拳は、昔の話?』

 三か月前と同じ問いだった。

 黒瀬は血のついた左手を上げ、返した。

『今の話だ』

 少年は大きく頷いた。

 雨脚が強くなる。

 穴だらけの天井から、無数の雫が落ち始めた。

 乾いたプールの底を叩き、細かな振動を重ねていく。

 黒瀬は目を閉じた。

 何も聞こえない。

 それでも世界は、黙ってはいなかった。

 水底のどこかで、鐘が鳴っていた。