『潮喰い樹海の子どもたち』
一
鯨骨港の家々は、みな海に背を向けて建っている。
海を嫌っているからではない。むしろ逆だった。漁師は朝ごとに潮へ祈り、子どもは泳ぎを覚えるより先に舟の結び目を教わる。ただ、双月が重なる夜、沖の暗がりから「名前を呼ぶ声」が聞こえることがある。その声に窓を向けてはいけない――それが港で最初に覚える掟だった。
十三歳のミナ・ルーンは、その掟を三度破ったことがある。
一度目は五歳のとき。二度目は父の舟が帰らなかった夜。三度目は、九環商会の徴税船が入港した朝だった。
その船は黒塗りで、帆に九つの金輪を描いていた。船腹から降りてきた執行官ディルクは、磨いた長靴の先で桟橋の海藻を嫌そうに払い、広場の掲示柱へ羊皮紙を打ちつけた。
「三日後の日没までに、滞納した潮税八千リュンを納めること。かなわぬ場合、鯨骨港の土地、家屋、漁場、灯台ならびに墓地を九環商会の所有とする」
読み上げが終わると、広場は妙に静かになった。
八千リュン。大人が百人、冬を越さずに働いても届かない金額だ。
「墓地まで持ってくのかよ」
パン屋の息子クリュルが、モベエの隣で呟いた。十四歳にして樽のような肩をしているが、幽霊と蛾が苦手だった。
「死んだ人からも家賃を取るんだろ」と、鍵師の娘ピコ。「商会って効率的ね」
「感心するところじゃない」
モベエは執行官を睨んだ。
ディルクの背後には、港の長老たちがうなだれて並んでいた。モベエの母もいた。母は網元の帳簿を預かる仕事をしていたが、その顔は、数字ではどうにもならないことを知っている顔だった。
執行官は広場を一瞥し、灯台の方へ顎をしゃくった。
「まず、あれを封鎖する。崩れかけの塔でも、岬ごとなら塩倉に使える」
岬の古灯台は、七年前から火が入っていない。
モベエの父が消えた年からだ。
父アルノは地図師で、港の誰より潮路に詳しかった。最後の航海に出る前、彼は何度も灯台へ通い、地下室で何かを調べていた。だが帰ってきたのは、折れた羅針盤だけだった。
その夜、モベエはクリュルとピコ、それから神殿育ちの少年ヘタネを連れて、封鎖前の灯台へ忍び込んだ。
四人は幼いころから一緒だった。港の大人たちは彼らをまとめて「舟底組」と呼んだ。沈んだ舟の底板を秘密基地にしていたからだ。立派な由来ではない。
「確認しておくけど」とヘタネが言った。「これは盗みでは?」
「まだ商会の物じゃない」とモベエ。
「不法侵入では?」
「うちの父さんが鍵を持ってた」
「その鍵、ピコが作った偽物だよね」
「細かいことを気にすると背が伸びないよ」とピコが言い、針金を回した。錆びた扉の錠が、くしゃみのような音を立てて開いた。
灯台の中は、乾いた海の匂いがした。
螺旋階段の下に、父の作業机が残っていた。潮位表、星図、白骨化した羽根ペン。モベエは引き出しを全部抜き、机をひっくり返し、床板まで叩いた。
「焦るなよ」とクリュル。「三日もある」
「三日しかない」
「同じこと言ってるようで全然違うな」
ヘタネは壁の前に立ち、耳を澄ませていた。
彼は海辺の神殿に捨てられていた子で、首筋に薄い銀色の痣がある。濡れるとそれが魚の鱗のように光った。本人はただの痣だと言い張るが、港の老人たちは目を合わせようとしなかった。
「壁の中で、水が鳴ってる」とヘタネが言った。
「岬の中なんだから当たり前でしょ」
「そうじゃない。三回、休んで、二回」
こつ、こつ、こつ。
間。
こつ、こつ。
確かに、石壁の向こうで何かが叩いている。
クリュルが青ざめた。
「帰ろう。今すぐ帰ってパン焼こう。夜中だけど」
モベエは机に残っていた折れた羅針盤を取り出した。父の遺品だ。針は北を指さず、いつも岬の壁を指していた。
その針が、震えている。
壁を探ると、海蛇の彫刻の目に小さなくぼみがあった。羅針盤をはめ込む。石が腹の底へ響く音を立て、壁の一部が奥へ沈んだ。
中から転がり出たのは、真鍮の筒だった。
蓋には、父の文字でこう刻まれていた。
――モベエへ。港が海より貪欲なものに呑まれそうになったとき、これを開け。
「父さん、商会のことを知ってたの?」
筒の中には、獣皮の地図が一枚と、短い手紙が入っていた。
地図に描かれているのは、島の南を覆う潮喰い樹海。その中心に黒い円があり、古い航海文字で《星王の錨庫》と記されていた。
手紙には三つの注意だけがあった。
一、樹海で言葉を話す獣に会ったら、先に名乗ること。
二、水面から自分の声が聞こえても、返事をしないこと。
三、宝より先に、門を閉じること。
最後に、乱れた字で一行。
――私は三つ目を守れなかった。
窓の外で、海がモベエの名を呼んだ。
今度だけは、彼女は振り返らなかった。
二
翌朝、舟底組は樹海へ向かった。
大人には言わなかった。言えば止められる。止められれば、こっそり行くことになる。ならば最初から言わない方が、叱られる回数が一度で済む――というのがピコの理屈だった。
持ち物は、干し肉、固焼きパン、縄、油灯、火打ち石、ピコの工具箱、ヘタネが神殿から失敬した清め塩、クリュルの母が焼いた蜂蜜菓子。武器はモベエの短弓一本と、クリュルが持ってきた鉄鍋だった。
「鍋で何と戦う気?」とモベエ。
「腹減り」
潮喰い樹海は、満潮のたびに海水を吸い上げる森だった。
根は珊瑚のように枝分かれし、幹の途中から貝殻が生え、葉の裏には小さな魚が眠っている。地面は柔らかく、踏むたびに遠くで波が砕ける音がした。
森へ入って半刻もしないうちに、道は消えた。
「地図だと、この白い川を越える」とモベエ。
「川なんてないよ」とピコ。
「ある」
モベエは頭上を指した。
巨大な樹々の枝から枝へ、銀色の水が空中を流れていた。逆さの川だ。小魚が鳥のように泳ぎ、時折、水滴が雨となって落ちてくる。
「どうやって越えるの?」とクリュル。
「上へ登る」
「川って普通、下にあるから偉いんじゃないのか」
四人は蔓を伝い、樹上へ上がった。
空中河の縁には、苔むした石橋がかかっていた。橋の中央に、黒い毛皮の獣が座っている。山猫に似ているが、前脚が六本あり、片目は琥珀色、もう片方は透明だった。
「止まれ、人の子ら」
獣が言った。
クリュルが鉄鍋を落とした。鍋は枝を跳ねながら、はるか下へ消えた。
「しゃべった!」
「そっちもな」と獣。
モベエは父の手紙を思い出した。
「私はミナ・ルーン。鯨骨港の地図師の娘。こっちはクリュル、ピコ、ヘタネ」
「名乗りを受けた。ならば牙を隠そう」
獣は六本の前脚を揃え、優雅に頭を下げた。
「我はキル。玻璃目族の斥候。お前たちは森の法を知らぬ顔をしている」
「顔で分かるの?」
「今朝から三度、毒草を踏み、二度、眠り茸の胞子を吸い、一度、沼口の舌に乗った」
四人は足元を見た。橋だと思っていた苔むした石が、ゆっくり瞬きをした。
巨大な蛙の舌だった。
全員で飛び退いた直後、舌は丸まり、橋ごと大口へ引き込まれた。
キルは呆れたように髭を揺らした。
「よくここまで生きて来たな」
「運がいいの」とピコ。
「運は、無知が自分につける美しい名だ」
空中河を越えるには、流れを泳ぐしかなかった。
キルは枝から飛び、銀の水面へ着地した。沈まず、六本脚で水の上を駆けていく。舟底組は太い葉を舟代わりにし、蔓で結んだ。
半ばまで来たとき、下流から丸太のようなものが流れてきた。
丸太には目があった。牙もあった。水鰐だ。
「櫂を速く!」モベエが叫んだ。
「櫂なんかない!」とヘタネ。
「手で!」
「指が足りなくなる!」
水鰐が口を開いた瞬間、クリュルが蜂蜜菓子を投げた。
菓子は水鰐の鼻先へ当たり、ぽちゃんと落ちた。水鰐は急停止し、匂いを嗅ぎ、菓子を呑み込んだ。それから、期待に満ちた目でクリュルを見た。
「もう一個?」
水鰐が尾を振った。
クリュルは二個目を投げ、三個目を遠くへ放った。水鰐はそちらへ泳いでいった。
「母ちゃんの菓子は無敵だ」とクリュルは胸を張った。
「じゃあ鉄鍋いらなかったね」とピコ。
「鍋は心の支えだったんだよ」
対岸で、キルは初めて喉を鳴らして笑った。
だが森の奥を見た途端、その透明な目が曇った。
「人の子ら。お前たちが探しているのは、星王の錨庫か」
モベエは地図を隠しかけ、やめた。
「そうだよ」
「ならば急げ。昨日、鉄の匂いをさせた大人たちが、同じ印を追って森へ入った」
九環商会だ。
「何人?」
「七人。うち一人は、死んだ魚の目をしている」
ディルクに違いない。
キルは尾で東を示した。
「我らの《牙母》に会え。森を通る許しなく錨庫へ近づけば、樹々そのものがお前たちを狩る」
「案内して」とモベエ。
「代価は?」
ピコが工具箱を抱えた。ヘタネが清め塩を隠した。クリュルは蜂蜜菓子の袋を胸に寄せた。
キルの琥珀の目は、その袋を見ていた。
「三個」と獣は言った。
「二個」
「三個。水鰐に三個払った」
「あいつは僕らを食べようとした」
「我も腹は減っている」
交渉は三個で成立した。
三
《牙母》は、歩く丘のような獣だった。
象に似ていたが、背中には一本の巨大樹が生え、その枝に猿や鳥や蛇が暮らしている。牙は青緑の苔に覆われ、片方が途中で折れていた。
彼女を囲む広場には、さまざまな獣が集まっていた。金色の狼、羽毛を持つ大蜥蜴、仮面のような顔の猿、殻に文字を刻んだ陸亀。誰も人間を歓迎していない。
「火を持つ子らよ」
牙母の声は、土の中から響いた。
「森へ何を求める」
「星王の錨庫です」とモベエ。「港を救える宝がある」
「宝とは、持たぬ者が欲しがり、持つ者が守るために命を失うものだ」
「じゃあ、いらないの?」
「賢い問いではないな」
牙母の鼻が伸び、モベエの胸元にある羅針盤へ触れた。
「これは、門番アルノの匂いがする」
モベエの喉が詰まった。
「父を知ってるの?」
「七年前、この森を通った。潮底の門を閉じるために」
「父は死んだ?」
広場の獣たちが一斉に目を伏せた。
牙母だけがモベエを見ていた。
「死は、森では明瞭だ。息が止まり、肉は土へ、骨は根へ返る。だが潮底では、死と生の間に深い淵がある。お前の父は、そこへ落ちた」
「生きてるの?」
「分からぬ」
希望は、時に絶望より残酷な形をしている。モベエはそれを胸に押し込んだ。
「門って何?」
牙母は長い鼻で地面に円を描いた。
「この島がまだ海から生まれたばかりのころ、星王たちは地下に《逆潮門》を築いた。海の底に棲むものを閉じ込め、その夢から流れ出す力で森を育てた。だが人の王は、夢の力を金に変えようとした。門は傷つき、潮の子らが地上へ漏れ出した」
「潮の子ら?」
ヘタネの首筋の痣が、青白く光った。
獣たちの間に唸り声が広がる。
牙母が鼻を持ち上げると、静寂が戻った。
「その子を責めるな。生まれは行いを定めぬ。森の第一の法だ」
ヘタネは唇を噛んだ。
「僕は、何なんです」
「二つの息を持つ者。空気を吸い、潮の夢も吸う。潮底の民はお前を《岸の子》と呼ぶだろう」
モベエはヘタネの袖を掴んだ。
「ヘタネはヘタネだよ」
「そうだ」とクリュル。
「泳ぎが妙に上手いヘタネ」とピコ。
「最後のはいらない」
牙母は折れた牙を地面へ突き立てた。土が割れ、黒い石片が現れた。貝殻と骨で作られた札だった。
「通行の証だ。だが条件がある。逆潮門を閉じよ。錨庫の宝を持ち出すのは、その後だ」
父の手紙と同じだった。
「商会の連中も門を狙ってる?」とモベエ。
「鉄の者らは、森の法を破った。水場で血を流し、子を守る母鳥を撃った。森はすでに彼らを狩っている。だが、死んだ魚の目をした男は、潮底の鍵を持っている」
キルが低く唸った。
「七年前、門から奪われた《鳴潮珠》だ」
牙母は四人を見渡した。
「子らよ。大人が壊した門を、子どもが閉じねばならぬのは理不尽だ」
「大人って、だいたいそういうの残すよね」とピコ。
「だからこそ、森はお前たちに借りを作る。戻れば、我らは返そう」
「戻れれば?」とクリュル。
「戻れば、だ」
牙母の背の樹から、一人の少年が飛び降りた。
年はモベエたちと同じくらい。褐色の肌に白い泥で縞を描き、腰には骨の短刀。髪には鳥の羽が絡み、裸足だった。だが何より目を引いたのは、耳の後ろに小さな鰓があることだった。
「彼はネリ」と牙母。「潮底に生まれ、森に育った。錨庫までの道を知る」
「案内役が獣から半魚人になった」とクリュル。
ネリはクリュルの腹を見た。
「お前は半分以上パンだろう」
クリュルは少し考えた。
「否定しにくい」
四
錨庫へ続く道は、道と呼べるものではなかった。
樹の根の内側を這い、食虫花の喉を滑り、崖の向こうへ伸びる眠り蔓を渡った。ネリは森を自分の手足のように知っていた。鳥の警告を聞き分け、蟻の列から雨を読み、毒蛇の巣穴へ手を突っ込んで近道の鍵を取った。
「噛まれないの?」とピコ。
「先に挨拶した」
「私もやってみようかな」
「お前は話しすぎる。蛇が疲れる」
夕方、一行は《鳴かぬ水場》へ着いた。
そこだけ森の音が消えていた。虫も鳥も鳴かず、黒い池は鏡のように動かない。
「水を飲むな。覗くな。名を呼ばれても返事をするな」
ネリが念を押した。
池の縁を一列で歩く。
半ばで、モベエは父の声を聞いた。
――モベエ。
足が止まった。
七年前と同じ声。地図を描くとき、難しい海岸線に出会うと鼻歌を歌った、その合間の声。
――大きくなったな。
池の水面に、父が立っていた。濡れた髪、日焼けした顔、左眉の傷。記憶より少し痩せている。
――ここへおいで。門の向こうだ。ずっと待っていた。
モベエは一歩、池へ近づいた。
水面の父が手を伸ばす。
背後で誰かが彼女の腰へ体当たりした。キルだった。モベエは泥の上へ転がった。
同時に、水から白い腕が何十本も伸び、空を掴んだ。指の間には薄い膜があり、爪は貝殻のように尖っていた。
クリュルが悲鳴を上げ、ピコが清め塩を池へ投げ込んだ。
水面が沸騰した。父の顔が崩れ、口だけが異様に大きく開く。
――ミナアアアア。
「走れ!」ネリが叫んだ。
全員が駆けた。白い腕は岸を這い、根を掴み、子どもたちの足首を狙った。ヘタネが最後尾で振り返り、両手を池へ向けた。
「やめろ!」
彼の声が二重に響いた。
一つは少年の声。もう一つは、深い海溝で岩が軋むような声。
池の腕が、一斉に止まった。
水面の化け物たちはヘタネを見つめ、ゆっくり沈んでいった。
静寂が戻る。
ヘタネは自分の手を見た。
「今の、僕?」
ネリの顔が強張っていた。
「潮底の言葉だ。門の近くでは使うな。下にいるものが、お前に気づく」
「もう気づいてるんじゃない?」
モベエは震えを隠すため、強く拳を握った。
父の声は偽物だった。そう思わなければ歩けない。
だが水面の父は、別れ際にこう言ったのだ。
――羅針盤を信じるな。
それは父とモベエしか知らない言葉だった。
父はよく、地図師に必要なのは道具への疑いだと言っていた。
羅針盤を信じるな。星を見ろ。
池の化け物が、どうしてそれを知っている?
五
日没前、一行は大樹の空洞で休んだ。
クリュルが最後の蜂蜜菓子を六等分しようとしたが、どう切ってもキルの分だけ小さくなった。キルは透明な目でじっと見た。クリュルは自分の分を少し足した。
「森に育ったのに、潮底の道を知ってるの?」とモベエはネリに訊いた。
「七年前に一度、行った」
「父と?」
ネリは頷いた。
「僕はそのころ、潮底の民に捕まっていた。生まれた場所へ戻せと言われた。アルノが助けた」
「父さんは、門で何をしたの」
「鳴潮珠を外し、門を閉じようとした。でもディルクが珠を奪った」
「ディルクもいたの?」
「商会の若い航海士だった。アルノと組んで錨庫を探していた。宝を港のために使うと約束していた」
火の粉が暗闇へ昇った。
「裏切ったんだ」とピコ。
「門が開き、潮が噴き出した。アルノは僕を森へ逃がした。自分は残った」
「どうして今まで黙ってたの」
モベエの声が尖った。
「鯨骨港へ行けば、僕は潮の怪物として殺されると思った」
「そんなこと――」
「ないと言える?」
モベエは言葉を失った。
港の老人たちがヘタネを避ける目を思い出した。魚人の骨を魔除けとして軒先へ吊るす家もある。
ネリは焚き火を見つめた。
「森の法は単純だ。腹が減れば狩る。子を守る。水場では争わない。生まれで罪を決めない。人の法は文字が多すぎて、僕には分からない」
「人にもいい掟はあるよ」とクリュル。「パンは焼きたてを分ける、とか」
「それは掟か?」
「うちでは最重要」
ネリがかすかに笑った。
そのとき、外で枝が折れた。
キルの六本脚が音もなく立ち上がる。
「鉄の匂い」
焚き火へ土をかけた瞬間、空洞の入口から矢が飛び込んだ。
ネリがモベエを引き倒す。矢は壁へ刺さり、先端の瓶が割れた。黄色い煙が広がる。
「眠り薬!」ピコが叫んだ。
外からディルクの声がした。
「子どもを傷つけるな。地図だけ奪え」
「ずいぶん親切ね!」とピコ。「眠らせて森へ置き去りにするだけ?」
「商会は児童福祉にも配慮している」
クリュルが咳き込みながら、荷物袋から小麦粉を掴んだ。
「火、消したよね?」
「消した」とヘタネ。
クリュルは小麦粉を煙の中へ投げた。白い粉が黄色い薬煙を抱き込み、床へ落とす。パン屋の知恵だった。
一行は大樹の裏側の裂け目から這い出た。
だがそこには商会の傭兵が二人待っていた。
モベエが短弓を構えるより先に、森が動いた。
足元の根が傭兵の足へ巻きつき、逆さに吊り上げる。上空から仮面猿の群れが木の実を投げつけた。実は鎧に当たると破裂し、猛烈な悪臭を放った。
「森を怒らせると、こうなるのか」とクリュル。
「まだ小言だ」とキル。「本気なら糞が来る」
ディルクは煙の向こうから現れた。
左手に小型の弩。右手には、拳ほどの真珠を握っている。真珠の内部で青い稲妻が脈打っていた。
鳴潮珠。
ヘタネとネリの鰓が同時に開いた。
「ひざまずけ」
ディルクが珠を掲げる。
低い音が森を貫いた。
キルが地へ伏し、ネリが頭を抱えた。ヘタネも苦痛に顔を歪める。遠くで獣たちの咆哮が次々に途切れた。
「潮の血を持つ者には逆らえない命令だ」とディルク。「実に便利だ。錨庫の扉も、彼らなら開けられる」
モベエは地図を胸へ押し込んだ。
「父を裏切ったの?」
「裏切った? アルノは宝を見つけながら、持ち帰ることを拒んだ。港を救う機会を捨てたのは彼だ」
「その宝を今度は商会が奪う?」
「港一つのために使うより、王国すべての潮を支配する方が有益だろう」
「商会の利益に、でしょ」
「利益とは、数字で証明できる正義だ」
ピコが吐き捨てた。
「最悪。うちの父さんと同じこと言って、意味が真逆」
ディルクが弩をモベエへ向けた。
「地図を」
モベエは地図を取り出し、差し出すふりをして焚き火の残りへ投げた。
ディルクが目を見開く。
地図は火の粉を上げ、黒く縮んだ。
「覚えてる」とモベエは言った。「地図師の娘だから」
森の根が大きく揺れた。怒りか、笑いかは分からない。
「捕らえろ!」
傭兵たちが動く。
ピコは工具箱から小さな銀球を三つ投げた。地面で弾け、耳をつんざく破裂音と白光が走る。
舟底組は走った。
背後でクリュルが訊いた。
「今の何?」
「失敗作の目覚まし時計!」
「成功してるよ!」
「起きたくないくらい大きいのが欠点!」
六
地図は燃えたが、モベエの頭には線も印も残っていた。
逆さ川から東へ二百歩。双頭樹を南。赤い岩壁の裂け目を潜り、月の落ちる谷へ。
谷の底には、石造りの都が沈んでいた。
階段状の神殿、倒れた尖塔、魚と人を混ぜたような石像。建物の半分は根に呑まれ、残り半分は黒い水に沈んでいる。水面には星が映っていたが、まだ夕暮れで空に星はない。
「下の海が映ってる」とネリが言った。
「海の下に星があるの?」とクリュル。
「ある。空より古い星が」
都の中心には、巨大な門が立っていた。
二枚の扉は貝殻色の金属ででき、中央に真珠をはめる丸い穴がある。扉の隙間から海水が細く噴き出し、地面を流れて黒い池へ注いでいた。
門の上には三つの彫刻。
星を冠した王。
鎖につながれた巨大な影。
その間に立つ、地図を持つ人間。
「最後のは父さん?」
「もっと古い」とネリ。「門番の印だ」
門の脇に、小さな石扉があった。そこへ牙母の札を差し込むと、低い音とともに開いた。
階段は地下へ続いていた。
内側の壁には、無数の手形が残っている。人の手、獣の足、膜のある潮底民の手。三つの種族が一緒に門を築いた証だった。
「昔は仲良かったのかな」とヘタネ。
「必要があれば協力した」とキル。「仲良しより長持ちする関係だ」
階段の先は、仕掛けだらけの回廊だった。
最初の床には、百枚の石板が並び、それぞれ違う動物の足跡が刻まれている。間違った石を踏むと、壁から骨槍が飛び出した。
「森の法の順番だ」とネリ。「夜明けに最初に水を飲むのは誰?」
「小鳥」とキル。
鳥、鹿、牙母、狼、玻璃目族。足跡を順に踏むと扉が開いた。
次の部屋では、天井から巨大な錨が落ちてきた。クリュルが受け止めようとして全員に止められ、ピコが歯車へ髪留めを差し込んで止めた。
三つ目の部屋は、壁一面に口があった。
入るな。
帰れ。
宝はない。
お前の母は泣いている。
パンが焦げている。
「最後のは卑怯だ!」クリュルが耳を塞ぐ。
口はそれぞれ、最も気になる言葉を囁く。ヘタネには「化け物」、ネリには「捨て子」、モベエには父の声。
モベエは先頭に立ち、声を無視して歩いた。
回廊の終わりに、円形の広間があった。
中央には、黄金の山。
星形の金貨、赤い宝石、銀の仮面、王冠、杯、剣。油灯の光を受け、地下の夜明けのように輝いている。
クリュルが口を開けた。
「八千リュンどころじゃない」
ピコは銀貨を一枚拾い、歯で噛んだ。
「本物」
モベエの目は、黄金の向こうにある石台へ向いた。
そこに古い巻物と、黒い石の鍵が置かれていた。巻物には王国の封蝋。表には《鯨骨岬永代自治証》とある。
港を商会から守れる。
「宝より先に、門を閉じる」
父の手紙が頭をよぎった。
だが門を閉じるには鳴潮珠が必要だ。珠はディルクが持っている。
そのとき、背後で拍手が響いた。
「見事だ、モベエ」
ディルクと四人の傭兵が、回廊の入口に立っていた。仮面猿の実を浴びたらしく、全員ひどい臭いがした。
「君は父親より優秀だ。彼はここへ着くまでに三十日かかった」
ディルクは弩を構え、鳴潮珠を掲げた。
「ネリ。門を開け」
珠が鳴る。
ネリの体が勝手に動いた。
ヘタネが彼を押さえるが、今度はヘタネ自身の足が門の方へ進む。二人の少年は歯を食いしばり、命令に抗った。
「やめて!」モベエが叫ぶ。
「潮を支配できれば、商会は干ばつの国に雨を売り、沈む国から海を買い取れる。戦争さえ終わらせられる」
「値札をつけて、でしょ」
「無償の善意は続かない」
「欲張りの言い訳も、ずいぶん長持ちしてるみたいね」とピコ。
ディルクの顔から笑みが消えた。
「門を開けろ」
鳴潮珠が強く輝く。
ヘタネとネリは石台へ倒れ込み、二人の血が黒い鍵へ落ちた。鍵が目を覚ますように震え、宙へ浮かぶ。
広間の奥の壁が割れ、逆潮門の裏側が現れた。
扉の向こうから、何か巨大なものが息を吸った。
地下の空気が、一瞬で海へ引かれた。
七
門が開いたのは、指一本ぶんだった。
それだけで広間は海になった。
黒い水が刃のように噴き出し、黄金の山を吹き飛ばす。金貨が魚群のように舞い、傭兵たちが壁へ叩きつけられた。
水の向こうに、目が開いた。
門より大きな、青白い目。瞳の中に沈んだ都市があり、無数の影が通りを歩いている。
《下にいるもの》が、こちらを見た。
声ではない声が全員の頭へ流れ込む。
――岸の子。
ヘタネが立ち尽くした。
――帰れ。
彼の首筋の痣が裂け、小さな鰓が開いた。
「ヘタネ!」モベエが腕を掴む。
「苦しくない」
ヘタネは黒い水の中で目を開けていた。
「ずっと初めて息を吸ったみたいだ」
門の向こうから、白い手が伸びる。鳴かぬ水場で見たものより何百倍も大きい。指先だけで石柱を砕いた。
ディルクは床を這い、落とした鳴潮珠へ手を伸ばした。
「まだ制御できる……」
モベエは彼より先に珠を掴んだ。
冷たい。
いや、冷たいのではない。あまりに深い。握った手から心が海溝へ落ちていく。
父の記憶が見えた。
七年前の広間。若いディルク。幼いネリ。開く門。父は鳴潮珠を外し、ディルクに叫んでいる。
――珠を門へ戻せ! それは鍵じゃない、錨だ!
ディルクが珠を奪い、逃げる。
父は黒い石の鍵を握り、門の隙間へ飛び込んだ。自分の体ごと、扉を支えるために。
最後に、幼いモベエの名を呼んだ。
水面の声は偽物ではなかった。
父は門の向こうにいる。
「モベエ!」
クリュルの声で我に返る。
広間が崩れ始めていた。ピコは石台の仕掛けを調べ、ネリとキルは白い指を避けている。ヘタネだけが門へ引かれていた。
モベエは鳴潮珠を胸に抱き、門へ近づいた。
向こうの闇に、父が浮かんでいた。
七年前の姿のまま。半身は黒い珊瑚に覆われ、腕は扉の鎖と一つになっている。
「父さん」
父は笑った。
声は水を通して、かすかに届いた。
「地図を、覚えたか」
「全部」
「なら、帰り道も分かるな」
「一緒に帰ろう」
父は首を振った。
「私が離れれば、門は開く」
「珠を戻せば閉じるんでしょ」
「珠だけでは足りない。外から錨を下ろし、内から鎖を引く」
モベエは門の隙間へ手を伸ばした。
父の指先が触れる。氷のように冷たく、確かに父の手だった。
「七年も待ったのに」
「すまない」
「謝ってほしいんじゃない!」
涙が水に溶けた。
父は困ったときの顔をした。モベエが幼いころ、泣き止ませ方が分からず、変な形の舟を紙で折ってくれたときと同じ顔。
「港を頼む。海に背を向けても、海を憎まない港に」
白い巨大な手が再び伸びる。
父が鎖を引き、手を食い止めた。黒い珊瑚が彼の頬まで広がる。
「今だ!」
モベエは鳴潮珠を門の穴へ押し込んだ。
珠はぴたりとはまった。門全体に青い光が走る。
だが扉は閉じない。
「錨!」ピコが叫んだ。「回廊に落ちてきた大錨! あれが仕掛けにつながってる!」
「戻るぞ!」クリュル。
「間に合わない」とネリ。「水が回廊を埋めた」
ヘタネが門を見つめた。
「僕なら泳げる」
「一人じゃ錨を動かせない」とクリュル。
「僕も行く」
「お前は泳げないだろ」とピコ。
「パンは水に浮く」
「今その冗談いる?」
「怖いと出るんだよ!」
キルが六本脚で壁へ飛びついた。
「我が道を作る。人の子ら、掟を一つ教えよう。群れの誰かが深みへ行くとき、残りは岸で待つのではない」
「何するの?」
「尾を繋ぐ」
ピコが縄を取り出した。
ヘタネの腰へ結び、クリュル、ネリ、キル、ピコ、モベエの順につなぐ。傭兵から奪った縄も足し、石柱へ巻いた。
ディルクが起き上がった。
「珠を渡せ! 私なら使える!」
彼はモベエへ飛びかかった。
その足首を、商会の傭兵の一人が掴んだ。仮面猿の実で臭くなった若い男だった。
「もう十分です、執行官」
「放せ!」
「児童福祉への配慮ですよ」
傭兵はディルクを床へ引き倒した。
舟底組は回廊へ飛び込んだ。
八
水中の回廊は、別の生き物になっていた。
壁の口は泡を吐き、床の足跡は小魚となって泳ぎ、骨槍の穴から細長い海蛇が顔を出している。
先頭のヘタネは迷わなかった。
潮の流れが彼に道を教えている。ネリが隣へ並び、二人で暗い水を切った。後ろではクリュルが頬を膨らませ、必死に縄を掴んでいる。ピコは工具箱を抱えたまま泳いでいた。捨てろと身振りで言われても、頑として離さない。
錨の部屋へ着く。
天井から落ちた巨大錨は、床へ斜めに突き刺さっていた。鎖は歯車に絡まり、動かない。
ヘタネとネリが鎖を引く。
びくともしない。
クリュルが加わる。顔を真っ赤にし、足を床へ踏ん張る。
それでも動かない。
ピコが歯車を指し、髪留めを差し込んだ場所を示した。あれが噛んでいる。
彼女は工具箱を開けた。水中で針金、鉗子、小槌がふわりと漂う。ピコは細い錐を選び、歯車の隙間へ腕を入れた。
海蛇が這い出した。
キルが飛びつき、六本脚で蛇を押さえる。蛇はキルの前脚へ噛みついた。透明な目が苦痛で白く濁る。
モベエは短弓の弦を外し、蛇の首へ巻きつけた。ネリが骨の短刀で牙をこじ開ける。
ピコが髪留めを抜いた。
歯車が回る。
錨が一寸、動いた。
その瞬間、クリュルの口から大量の泡が漏れた。息が限界だった。
ヘタネは自分の口をクリュルの口へ当てた。
鰓から取り込んだ空気を、分ける。
クリュルの目が見開かれた。二人はすぐ離れたが、後で一生からかわれる顔をしていた。
全員で鎖を引く。
一度。
二度。
三度。
錨が持ち上がり、床下の溝へ落ちた。
重い衝撃が神殿を揺らした。
遠くで、門の閉じる音がした。
水が逆向きに流れ始める。
舟底組は回廊ごと、広間へ吐き出された。
門は閉じていた。
中央の鳴潮珠は静かに輝き、その前には父の姿がない。
ただ、床に小さな紙の舟が落ちていた。
濡れていなかった。
九
神殿は崩壊を始めた。
「宝!」クリュルが叫んだ。
「門を閉じた後だから、持っていい!」ピコが叫び返す。
黄金の大半は水に流されたが、星金貨の箱が三つ、石台の下に引っかかっていた。クリュルが二箱を担ぎ、ネリが一箱を背負う。モベエは自治証の巻物を油布に包んだ。
「ディルクは?」
執行官は崩れた柱の下に足を挟まれていた。傭兵たちはすでに逃げている。
「置いていけ」とネリ。「森の法を破った」
ディルクはモベエを見た。
死んだ魚の目ではなかった。死を怖がる、ただの人間の目だった。
父を置いてきた門が、モベエの背後にある。
彼女は縄を投げた。
「掴んで」
「なぜだ」
「森の第一の法。生まれで罪を決めない。たぶん、失敗で死に方まで決めない、も入る」
「甘いな」
「知ってる」
全員で縄を引き、ディルクを助け出した。
出口へ走る。
回廊は次々に崩れ、骨槍が飛び、石の口が最後の悪口を叫んだ。
――間に合わない。
――全員ここで骨になる。
――パンが本当に焦げている。
「それだけは嘘であれ!」クリュルが泣きそうな声を上げる。
外の沈都へ出ると、谷そのものが水に沈み始めていた。黒い池から潮が噴き上がり、石像が倒れる。
逃げ道の階段は崩れている。
「上まで百丈ある」とピコ。
「登れない」とヘタネ。
キルが森の空へ向かい、長く吠えた。
返事は、地鳴りだった。
谷の縁に、牙母が現れた。
背の大樹から無数の蔓が伸び、谷底へ降りてくる。金狼、仮面猿、羽蜥蜴たちが蔓を支えていた。
「借りを返しに来たぞ、子らよ」
舟底組は蔓へ飛びついた。
最後に残ったディルクは、沈む黄金を振り返った。
「王国を変えられる力だった」
モベエは彼の腕を掴んだ。
「港一つも救えない人が、王国を変えるなんて言わないで」
蔓が引き上げられる。
谷を満たした水の中で、星のない空が瞬いた。
巨大な目が、閉じた。
十
樹海を出たのは、三日目の夕方だった。
鯨骨港では、商会の兵が家々へ赤い封印を貼り、長老たちを広場へ集めていた。日没まで、あとわずか。
森の縁から現れた舟底組を見て、港中が固まった。
泥だらけで、海藻を髪に絡ませ、六脚の獣と鰓のある少年を連れ、金貨の箱を担いでいる。
クリュルの母が最初に走ってきた。
「クリュル!」
「母ちゃん、パンは!?」
「そこなの!?」
抱きしめられながら、クリュルは店の煙突を見た。煙は正常だった。壁の口は最後まで嘘つきだった。
モベエの母は何も言わず、娘の頬を両手で挟んだ。それから一度平手で叩き、すぐ強く抱きしめた。
「これは一回分」と母は震える声で言った。「残りは明日から」
ピコの父は工具箱が無事なのを見て泣き、本人が無事なのを見てさらに泣いた。神殿の老司祭はヘタネの開いた鰓を見て祈りの印を切りかけ、途中でやめ、少年の肩を抱いた。
ネリは広場の端で足を止めた。
港の人々の視線が集まる。恐れ、驚き、古い偏見。
キルが隣で牙を見せた。
「望むなら、森へ戻れる」
ネリは鯨骨港の家々を見た。海へ背を向けた家々。焼きたてのパンの匂い。網を繕う手。泣きながら子どもを叱る大人たち。
「少しだけ、見ていく」
広場の掲示柱では、商会の副執行官が砂時計を見ていた。
「時間だ。支払いがない場合――」
「あるよ」
モベエは星金貨を一枚、彼の足元へ投げた。
金貨は夕日を受け、地面に小さな星を作った。
クリュルとネリが箱を開ける。広場にどよめきが広がった。
「八千リュン分を数えて」とモベエ。「残りは港の共同金庫へ」
副執行官は青ざめた。
「古代貨幣は鑑定が必要だ」
「じゃあ、こっち」
モベエは自治証を広げた。
王国初代の封蝋。鯨骨岬と沿岸三里を、そこに住む漁民の永代共有地と定める証書。後世のいかなる王、領主、商会も、これを課税、売買、接収してはならない。
港の書記が震える指で文面を確かめた。
「本物です。王立文庫の原本番号まである」
「つまり」とピコ。「潮税そのものが違法。これまで取った分も返してね」
副執行官の顔が、金貨より見事な色に変わった。
そこへディルクが進み出た。
泥まみれで、片方の長靴を失っている。威厳はほとんど残っていなかった。
「証書は真正だ。九環商会執行官として認める」
「執行官!」副官が叫ぶ。
「また、鳴潮珠を用いた禁制遺物の私的運用、傭兵による保護樹海への侵入、自治証隠匿の疑いについて、私自身を王国法廷へ告発する」
広場が静まり返る。
モベエは彼を見た。
「急にいい人になったつもり?」
「いや。損失を数字で確定しているだけだ」
ディルクは疲れたように笑った。
「正義という言葉を、私は少し安く使いすぎたらしい」
商会の船は、その夜のうちに港を出た。
九つの金輪を描いた帆が水平線へ消えるまで、誰も声を上げなかった。
やがてクリュルの母が、広場へ焼きたての丸パンを運んできた。
「まず食べな。祝いも説教も、それからだよ」
港の最重要の掟だった。
十一
翌朝、鯨骨港の家々は、初めて海へ窓を開いた。
全部ではない。三軒だけだった。
そのうち一軒は、ヘタネが暮らす神殿。もう一軒はパン屋。最後の一軒は、モベエの家だった。
ネリは港に残ることになった。
正式には「樹海との使者」。実際にはクリュルの家の屋根裏で寝て、毎朝パンを十個食べ、漁師たちへ潮の読み方を教えた。最初は彼を避けた老人たちも、三日後には「魚を獲りすぎるな」とネリに叱られていた。
キルは森へ帰ったが、週に一度、蜂蜜菓子を取り立てに来た。
牙母の使いとして、獣たちは港へ薬草や果実を運び、人間は鉄器と塩を渡した。水場では争わない。子を守る。生まれで罪を決めない。森の法が、少しずつ人の法に混ざった。
星金貨の一部で灯台が直された。
新しい灯を入れる夜、モベエは父の作業机に紙の舟を置いた。あの広間で拾ったものだ。開いてみると、内側に細い線が描かれていた。
海図だった。
鯨骨港から南へ、潮喰い樹海を越え、島の外へ。地図の端には、まだ誰も見たことのない群島がある。さらにその先、紙が足りずに途切れた場所へ、父の文字で一言。
――つづきは、お前が描け。
モベエは泣かなかった。
泣く代わりに、新しい紙を継ぎ足した。
夜、灯台の火が七年ぶりに回り始める。
光は港を撫で、森の梢を照らし、沖の暗がりへ伸びた。
双月が重なっていた。
海から、こつ、こつ、こつ、と音がした。
間。
こつ、こつ。
モベエは窓を開けたまま、その音を聞いた。
父の合図ではない。
もっと遠く、もっと深い場所から、何かが門を数えている音だった。
「また冒険?」と、背後でピコが訊いた。
「今日は寝る」とモベエ。
クリュルが欠伸をした。
「賛成。明日はパンの配達がある」
ヘタネは沖を見つめ、首筋の鰓をそっと押さえた。
「でも、いつか行くんだろ」
モベエは新しい海図の白い場所へ、鉛筆で小さな星を描いた。
「いつかね」
海の底で、古い星がひとつ瞬いた。
了