『潮喰い樹海の子どもたち』

 鯨骨港の家々は、みな海に背を向けて建っている。

 海を嫌っているからではない。むしろ逆だった。漁師は朝ごとに潮へ祈り、子どもは泳ぎを覚えるより先に舟の結び目を教わる。ただ、双月が重なる夜、沖の暗がりから「名前を呼ぶ声」が聞こえることがある。その声に窓を向けてはいけない――それが港で最初に覚える掟だった。

 十三歳のミナ・ルーンは、その掟を三度破ったことがある。

 一度目は五歳のとき。二度目は父の舟が帰らなかった夜。三度目は、九環商会の徴税船が入港した朝だった。

 その船は黒塗りで、帆に九つの金輪を描いていた。船腹から降りてきた執行官ディルクは、磨いた長靴の先で桟橋の海藻を嫌そうに払い、広場の掲示柱へ羊皮紙を打ちつけた。

「三日後の日没までに、滞納した潮税八千リュンを納めること。かなわぬ場合、鯨骨港の土地、家屋、漁場、灯台ならびに墓地を九環商会の所有とする」

 読み上げが終わると、広場は妙に静かになった。

 八千リュン。大人が百人、冬を越さずに働いても届かない金額だ。

「墓地まで持ってくのかよ」

 パン屋の息子クリュルが、モベエの隣で呟いた。十四歳にして樽のような肩をしているが、幽霊と蛾が苦手だった。

「死んだ人からも家賃を取るんだろ」と、鍵師の娘ピコ。「商会って効率的ね」

「感心するところじゃない」

 モベエは執行官を睨んだ。

 ディルクの背後には、港の長老たちがうなだれて並んでいた。モベエの母もいた。母は網元の帳簿を預かる仕事をしていたが、その顔は、数字ではどうにもならないことを知っている顔だった。

 執行官は広場を一瞥し、灯台の方へ顎をしゃくった。

「まず、あれを封鎖する。崩れかけの塔でも、岬ごとなら塩倉に使える」

 岬の古灯台は、七年前から火が入っていない。

 モベエの父が消えた年からだ。

 父アルノは地図師で、港の誰より潮路に詳しかった。最後の航海に出る前、彼は何度も灯台へ通い、地下室で何かを調べていた。だが帰ってきたのは、折れた羅針盤だけだった。

 その夜、モベエはクリュルとピコ、それから神殿育ちの少年ヘタネを連れて、封鎖前の灯台へ忍び込んだ。

 四人は幼いころから一緒だった。港の大人たちは彼らをまとめて「舟底組」と呼んだ。沈んだ舟の底板を秘密基地にしていたからだ。立派な由来ではない。

「確認しておくけど」とヘタネが言った。「これは盗みでは?」

「まだ商会の物じゃない」とモベエ。

「不法侵入では?」

「うちの父さんが鍵を持ってた」

「その鍵、ピコが作った偽物だよね」

「細かいことを気にすると背が伸びないよ」とピコが言い、針金を回した。錆びた扉の錠が、くしゃみのような音を立てて開いた。

 灯台の中は、乾いた海の匂いがした。

 螺旋階段の下に、父の作業机が残っていた。潮位表、星図、白骨化した羽根ペン。モベエは引き出しを全部抜き、机をひっくり返し、床板まで叩いた。

「焦るなよ」とクリュル。「三日もある」

「三日しかない」

「同じこと言ってるようで全然違うな」

 ヘタネは壁の前に立ち、耳を澄ませていた。

 彼は海辺の神殿に捨てられていた子で、首筋に薄い銀色の痣がある。濡れるとそれが魚の鱗のように光った。本人はただの痣だと言い張るが、港の老人たちは目を合わせようとしなかった。

「壁の中で、水が鳴ってる」とヘタネが言った。

「岬の中なんだから当たり前でしょ」

「そうじゃない。三回、休んで、二回」

 こつ、こつ、こつ。

 間。

 こつ、こつ。

 確かに、石壁の向こうで何かが叩いている。

 クリュルが青ざめた。

「帰ろう。今すぐ帰ってパン焼こう。夜中だけど」

 モベエは机に残っていた折れた羅針盤を取り出した。父の遺品だ。針は北を指さず、いつも岬の壁を指していた。

 その針が、震えている。

 壁を探ると、海蛇の彫刻の目に小さなくぼみがあった。羅針盤をはめ込む。石が腹の底へ響く音を立て、壁の一部が奥へ沈んだ。

 中から転がり出たのは、真鍮の筒だった。

 蓋には、父の文字でこう刻まれていた。

 ――モベエへ。港が海より貪欲なものに呑まれそうになったとき、これを開け。

「父さん、商会のことを知ってたの?」

 筒の中には、獣皮の地図が一枚と、短い手紙が入っていた。

 地図に描かれているのは、島の南を覆う潮喰い樹海。その中心に黒い円があり、古い航海文字で《星王の錨庫》と記されていた。

 手紙には三つの注意だけがあった。

 一、樹海で言葉を話す獣に会ったら、先に名乗ること。

 二、水面から自分の声が聞こえても、返事をしないこと。

 三、宝より先に、門を閉じること。

 最後に、乱れた字で一行。

 ――私は三つ目を守れなかった。

 窓の外で、海がモベエの名を呼んだ。

 今度だけは、彼女は振り返らなかった。

 翌朝、舟底組は樹海へ向かった。

 大人には言わなかった。言えば止められる。止められれば、こっそり行くことになる。ならば最初から言わない方が、叱られる回数が一度で済む――というのがピコの理屈だった。

 持ち物は、干し肉、固焼きパン、縄、油灯、火打ち石、ピコの工具箱、ヘタネが神殿から失敬した清め塩、クリュルの母が焼いた蜂蜜菓子。武器はモベエの短弓一本と、クリュルが持ってきた鉄鍋だった。

「鍋で何と戦う気?」とモベエ。

「腹減り」

 潮喰い樹海は、満潮のたびに海水を吸い上げる森だった。

 根は珊瑚のように枝分かれし、幹の途中から貝殻が生え、葉の裏には小さな魚が眠っている。地面は柔らかく、踏むたびに遠くで波が砕ける音がした。

 森へ入って半刻もしないうちに、道は消えた。

「地図だと、この白い川を越える」とモベエ。

「川なんてないよ」とピコ。

「ある」

 モベエは頭上を指した。

 巨大な樹々の枝から枝へ、銀色の水が空中を流れていた。逆さの川だ。小魚が鳥のように泳ぎ、時折、水滴が雨となって落ちてくる。

「どうやって越えるの?」とクリュル。

「上へ登る」

「川って普通、下にあるから偉いんじゃないのか」

 四人は蔓を伝い、樹上へ上がった。

 空中河の縁には、苔むした石橋がかかっていた。橋の中央に、黒い毛皮の獣が座っている。山猫に似ているが、前脚が六本あり、片目は琥珀色、もう片方は透明だった。

「止まれ、人の子ら」

 獣が言った。

 クリュルが鉄鍋を落とした。鍋は枝を跳ねながら、はるか下へ消えた。

「しゃべった!」

「そっちもな」と獣。

 モベエは父の手紙を思い出した。

「私はミナ・ルーン。鯨骨港の地図師の娘。こっちはクリュル、ピコ、ヘタネ」

「名乗りを受けた。ならば牙を隠そう」

 獣は六本の前脚を揃え、優雅に頭を下げた。

「我はキル。玻璃目族の斥候。お前たちは森の法を知らぬ顔をしている」

「顔で分かるの?」

「今朝から三度、毒草を踏み、二度、眠り茸の胞子を吸い、一度、沼口の舌に乗った」

 四人は足元を見た。橋だと思っていた苔むした石が、ゆっくり瞬きをした。

 巨大な蛙の舌だった。

 全員で飛び退いた直後、舌は丸まり、橋ごと大口へ引き込まれた。

 キルは呆れたように髭を揺らした。

「よくここまで生きて来たな」

「運がいいの」とピコ。

「運は、無知が自分につける美しい名だ」

 空中河を越えるには、流れを泳ぐしかなかった。

 キルは枝から飛び、銀の水面へ着地した。沈まず、六本脚で水の上を駆けていく。舟底組は太い葉を舟代わりにし、蔓で結んだ。

 半ばまで来たとき、下流から丸太のようなものが流れてきた。

 丸太には目があった。牙もあった。水鰐だ。

「櫂を速く!」モベエが叫んだ。

「櫂なんかない!」とヘタネ。

「手で!」

「指が足りなくなる!」

 水鰐が口を開いた瞬間、クリュルが蜂蜜菓子を投げた。

 菓子は水鰐の鼻先へ当たり、ぽちゃんと落ちた。水鰐は急停止し、匂いを嗅ぎ、菓子を呑み込んだ。それから、期待に満ちた目でクリュルを見た。

「もう一個?」

 水鰐が尾を振った。

 クリュルは二個目を投げ、三個目を遠くへ放った。水鰐はそちらへ泳いでいった。

「母ちゃんの菓子は無敵だ」とクリュルは胸を張った。

「じゃあ鉄鍋いらなかったね」とピコ。

「鍋は心の支えだったんだよ」

 対岸で、キルは初めて喉を鳴らして笑った。

 だが森の奥を見た途端、その透明な目が曇った。

「人の子ら。お前たちが探しているのは、星王の錨庫か」

 モベエは地図を隠しかけ、やめた。

「そうだよ」

「ならば急げ。昨日、鉄の匂いをさせた大人たちが、同じ印を追って森へ入った」

 九環商会だ。

「何人?」

「七人。うち一人は、死んだ魚の目をしている」

 ディルクに違いない。

 キルは尾で東を示した。

「我らの《牙母》に会え。森を通る許しなく錨庫へ近づけば、樹々そのものがお前たちを狩る」

「案内して」とモベエ。

「代価は?」

 ピコが工具箱を抱えた。ヘタネが清め塩を隠した。クリュルは蜂蜜菓子の袋を胸に寄せた。

 キルの琥珀の目は、その袋を見ていた。

「三個」と獣は言った。

「二個」

「三個。水鰐に三個払った」

「あいつは僕らを食べようとした」

「我も腹は減っている」

 交渉は三個で成立した。

 《牙母》は、歩く丘のような獣だった。

 象に似ていたが、背中には一本の巨大樹が生え、その枝に猿や鳥や蛇が暮らしている。牙は青緑の苔に覆われ、片方が途中で折れていた。

 彼女を囲む広場には、さまざまな獣が集まっていた。金色の狼、羽毛を持つ大蜥蜴、仮面のような顔の猿、殻に文字を刻んだ陸亀。誰も人間を歓迎していない。

「火を持つ子らよ」

 牙母の声は、土の中から響いた。

「森へ何を求める」

「星王の錨庫です」とモベエ。「港を救える宝がある」

「宝とは、持たぬ者が欲しがり、持つ者が守るために命を失うものだ」

「じゃあ、いらないの?」

「賢い問いではないな」

 牙母の鼻が伸び、モベエの胸元にある羅針盤へ触れた。

「これは、門番アルノの匂いがする」

 モベエの喉が詰まった。

「父を知ってるの?」

「七年前、この森を通った。潮底の門を閉じるために」

「父は死んだ?」

 広場の獣たちが一斉に目を伏せた。

 牙母だけがモベエを見ていた。

「死は、森では明瞭だ。息が止まり、肉は土へ、骨は根へ返る。だが潮底では、死と生の間に深い淵がある。お前の父は、そこへ落ちた」

「生きてるの?」

「分からぬ」

 希望は、時に絶望より残酷な形をしている。モベエはそれを胸に押し込んだ。

「門って何?」

 牙母は長い鼻で地面に円を描いた。

「この島がまだ海から生まれたばかりのころ、星王たちは地下に《逆潮門》を築いた。海の底に棲むものを閉じ込め、その夢から流れ出す力で森を育てた。だが人の王は、夢の力を金に変えようとした。門は傷つき、潮の子らが地上へ漏れ出した」

「潮の子ら?」

 ヘタネの首筋の痣が、青白く光った。

 獣たちの間に唸り声が広がる。

 牙母が鼻を持ち上げると、静寂が戻った。

「その子を責めるな。生まれは行いを定めぬ。森の第一の法だ」

 ヘタネは唇を噛んだ。

「僕は、何なんです」

「二つの息を持つ者。空気を吸い、潮の夢も吸う。潮底の民はお前を《岸の子》と呼ぶだろう」

 モベエはヘタネの袖を掴んだ。

「ヘタネはヘタネだよ」

「そうだ」とクリュル。

「泳ぎが妙に上手いヘタネ」とピコ。

「最後のはいらない」

 牙母は折れた牙を地面へ突き立てた。土が割れ、黒い石片が現れた。貝殻と骨で作られた札だった。

「通行の証だ。だが条件がある。逆潮門を閉じよ。錨庫の宝を持ち出すのは、その後だ」

 父の手紙と同じだった。

「商会の連中も門を狙ってる?」とモベエ。

「鉄の者らは、森の法を破った。水場で血を流し、子を守る母鳥を撃った。森はすでに彼らを狩っている。だが、死んだ魚の目をした男は、潮底の鍵を持っている」

 キルが低く唸った。

「七年前、門から奪われた《鳴潮珠》だ」

 牙母は四人を見渡した。

「子らよ。大人が壊した門を、子どもが閉じねばならぬのは理不尽だ」

「大人って、だいたいそういうの残すよね」とピコ。

「だからこそ、森はお前たちに借りを作る。戻れば、我らは返そう」

「戻れれば?」とクリュル。

「戻れば、だ」

 牙母の背の樹から、一人の少年が飛び降りた。

 年はモベエたちと同じくらい。褐色の肌に白い泥で縞を描き、腰には骨の短刀。髪には鳥の羽が絡み、裸足だった。だが何より目を引いたのは、耳の後ろに小さな鰓があることだった。

「彼はネリ」と牙母。「潮底に生まれ、森に育った。錨庫までの道を知る」

「案内役が獣から半魚人になった」とクリュル。

 ネリはクリュルの腹を見た。

「お前は半分以上パンだろう」

 クリュルは少し考えた。

「否定しにくい」

 錨庫へ続く道は、道と呼べるものではなかった。

 樹の根の内側を這い、食虫花の喉を滑り、崖の向こうへ伸びる眠り蔓を渡った。ネリは森を自分の手足のように知っていた。鳥の警告を聞き分け、蟻の列から雨を読み、毒蛇の巣穴へ手を突っ込んで近道の鍵を取った。

「噛まれないの?」とピコ。

「先に挨拶した」

「私もやってみようかな」

「お前は話しすぎる。蛇が疲れる」

 夕方、一行は《鳴かぬ水場》へ着いた。

 そこだけ森の音が消えていた。虫も鳥も鳴かず、黒い池は鏡のように動かない。

「水を飲むな。覗くな。名を呼ばれても返事をするな」

 ネリが念を押した。

 池の縁を一列で歩く。

 半ばで、モベエは父の声を聞いた。

 ――モベエ。

 足が止まった。

 七年前と同じ声。地図を描くとき、難しい海岸線に出会うと鼻歌を歌った、その合間の声。

 ――大きくなったな。

 池の水面に、父が立っていた。濡れた髪、日焼けした顔、左眉の傷。記憶より少し痩せている。

 ――ここへおいで。門の向こうだ。ずっと待っていた。

 モベエは一歩、池へ近づいた。

 水面の父が手を伸ばす。

 背後で誰かが彼女の腰へ体当たりした。キルだった。モベエは泥の上へ転がった。

 同時に、水から白い腕が何十本も伸び、空を掴んだ。指の間には薄い膜があり、爪は貝殻のように尖っていた。

 クリュルが悲鳴を上げ、ピコが清め塩を池へ投げ込んだ。

 水面が沸騰した。父の顔が崩れ、口だけが異様に大きく開く。

 ――ミナアアアア。

「走れ!」ネリが叫んだ。

 全員が駆けた。白い腕は岸を這い、根を掴み、子どもたちの足首を狙った。ヘタネが最後尾で振り返り、両手を池へ向けた。

「やめろ!」

 彼の声が二重に響いた。

 一つは少年の声。もう一つは、深い海溝で岩が軋むような声。

 池の腕が、一斉に止まった。

 水面の化け物たちはヘタネを見つめ、ゆっくり沈んでいった。

 静寂が戻る。

 ヘタネは自分の手を見た。

「今の、僕?」

 ネリの顔が強張っていた。

「潮底の言葉だ。門の近くでは使うな。下にいるものが、お前に気づく」

「もう気づいてるんじゃない?」

 モベエは震えを隠すため、強く拳を握った。

 父の声は偽物だった。そう思わなければ歩けない。

 だが水面の父は、別れ際にこう言ったのだ。

 ――羅針盤を信じるな。

 それは父とモベエしか知らない言葉だった。

 父はよく、地図師に必要なのは道具への疑いだと言っていた。

 羅針盤を信じるな。星を見ろ。

 池の化け物が、どうしてそれを知っている?

 日没前、一行は大樹の空洞で休んだ。

 クリュルが最後の蜂蜜菓子を六等分しようとしたが、どう切ってもキルの分だけ小さくなった。キルは透明な目でじっと見た。クリュルは自分の分を少し足した。

「森に育ったのに、潮底の道を知ってるの?」とモベエはネリに訊いた。

「七年前に一度、行った」

「父と?」

 ネリは頷いた。

「僕はそのころ、潮底の民に捕まっていた。生まれた場所へ戻せと言われた。アルノが助けた」

「父さんは、門で何をしたの」

「鳴潮珠を外し、門を閉じようとした。でもディルクが珠を奪った」

「ディルクもいたの?」

「商会の若い航海士だった。アルノと組んで錨庫を探していた。宝を港のために使うと約束していた」

 火の粉が暗闇へ昇った。

「裏切ったんだ」とピコ。

「門が開き、潮が噴き出した。アルノは僕を森へ逃がした。自分は残った」

「どうして今まで黙ってたの」

 モベエの声が尖った。

「鯨骨港へ行けば、僕は潮の怪物として殺されると思った」

「そんなこと――」

「ないと言える?」

 モベエは言葉を失った。

 港の老人たちがヘタネを避ける目を思い出した。魚人の骨を魔除けとして軒先へ吊るす家もある。

 ネリは焚き火を見つめた。

「森の法は単純だ。腹が減れば狩る。子を守る。水場では争わない。生まれで罪を決めない。人の法は文字が多すぎて、僕には分からない」

「人にもいい掟はあるよ」とクリュル。「パンは焼きたてを分ける、とか」

「それは掟か?」

「うちでは最重要」

 ネリがかすかに笑った。

 そのとき、外で枝が折れた。

 キルの六本脚が音もなく立ち上がる。

「鉄の匂い」

 焚き火へ土をかけた瞬間、空洞の入口から矢が飛び込んだ。

 ネリがモベエを引き倒す。矢は壁へ刺さり、先端の瓶が割れた。黄色い煙が広がる。

「眠り薬!」ピコが叫んだ。

 外からディルクの声がした。

「子どもを傷つけるな。地図だけ奪え」

「ずいぶん親切ね!」とピコ。「眠らせて森へ置き去りにするだけ?」

「商会は児童福祉にも配慮している」

 クリュルが咳き込みながら、荷物袋から小麦粉を掴んだ。

「火、消したよね?」

「消した」とヘタネ。

 クリュルは小麦粉を煙の中へ投げた。白い粉が黄色い薬煙を抱き込み、床へ落とす。パン屋の知恵だった。

 一行は大樹の裏側の裂け目から這い出た。

 だがそこには商会の傭兵が二人待っていた。

 モベエが短弓を構えるより先に、森が動いた。

 足元の根が傭兵の足へ巻きつき、逆さに吊り上げる。上空から仮面猿の群れが木の実を投げつけた。実は鎧に当たると破裂し、猛烈な悪臭を放った。

「森を怒らせると、こうなるのか」とクリュル。

「まだ小言だ」とキル。「本気なら糞が来る」

 ディルクは煙の向こうから現れた。

 左手に小型の弩。右手には、拳ほどの真珠を握っている。真珠の内部で青い稲妻が脈打っていた。

 鳴潮珠。

 ヘタネとネリの鰓が同時に開いた。

「ひざまずけ」

 ディルクが珠を掲げる。

 低い音が森を貫いた。

 キルが地へ伏し、ネリが頭を抱えた。ヘタネも苦痛に顔を歪める。遠くで獣たちの咆哮が次々に途切れた。

「潮の血を持つ者には逆らえない命令だ」とディルク。「実に便利だ。錨庫の扉も、彼らなら開けられる」

 モベエは地図を胸へ押し込んだ。

「父を裏切ったの?」

「裏切った? アルノは宝を見つけながら、持ち帰ることを拒んだ。港を救う機会を捨てたのは彼だ」

「その宝を今度は商会が奪う?」

「港一つのために使うより、王国すべての潮を支配する方が有益だろう」

「商会の利益に、でしょ」

「利益とは、数字で証明できる正義だ」

 ピコが吐き捨てた。

「最悪。うちの父さんと同じこと言って、意味が真逆」

 ディルクが弩をモベエへ向けた。

「地図を」

 モベエは地図を取り出し、差し出すふりをして焚き火の残りへ投げた。

 ディルクが目を見開く。

 地図は火の粉を上げ、黒く縮んだ。

「覚えてる」とモベエは言った。「地図師の娘だから」

 森の根が大きく揺れた。怒りか、笑いかは分からない。

「捕らえろ!」

 傭兵たちが動く。

 ピコは工具箱から小さな銀球を三つ投げた。地面で弾け、耳をつんざく破裂音と白光が走る。

 舟底組は走った。

 背後でクリュルが訊いた。

「今の何?」

「失敗作の目覚まし時計!」

「成功してるよ!」

「起きたくないくらい大きいのが欠点!」

 地図は燃えたが、モベエの頭には線も印も残っていた。

 逆さ川から東へ二百歩。双頭樹を南。赤い岩壁の裂け目を潜り、月の落ちる谷へ。

 谷の底には、石造りの都が沈んでいた。

 階段状の神殿、倒れた尖塔、魚と人を混ぜたような石像。建物の半分は根に呑まれ、残り半分は黒い水に沈んでいる。水面には星が映っていたが、まだ夕暮れで空に星はない。

「下の海が映ってる」とネリが言った。

「海の下に星があるの?」とクリュル。

「ある。空より古い星が」

 都の中心には、巨大な門が立っていた。

 二枚の扉は貝殻色の金属ででき、中央に真珠をはめる丸い穴がある。扉の隙間から海水が細く噴き出し、地面を流れて黒い池へ注いでいた。

 門の上には三つの彫刻。

 星を冠した王。

 鎖につながれた巨大な影。

 その間に立つ、地図を持つ人間。

「最後のは父さん?」

「もっと古い」とネリ。「門番の印だ」

 門の脇に、小さな石扉があった。そこへ牙母の札を差し込むと、低い音とともに開いた。

 階段は地下へ続いていた。

 内側の壁には、無数の手形が残っている。人の手、獣の足、膜のある潮底民の手。三つの種族が一緒に門を築いた証だった。

「昔は仲良かったのかな」とヘタネ。

「必要があれば協力した」とキル。「仲良しより長持ちする関係だ」

 階段の先は、仕掛けだらけの回廊だった。

 最初の床には、百枚の石板が並び、それぞれ違う動物の足跡が刻まれている。間違った石を踏むと、壁から骨槍が飛び出した。

「森の法の順番だ」とネリ。「夜明けに最初に水を飲むのは誰?」

「小鳥」とキル。

 鳥、鹿、牙母、狼、玻璃目族。足跡を順に踏むと扉が開いた。

 次の部屋では、天井から巨大な錨が落ちてきた。クリュルが受け止めようとして全員に止められ、ピコが歯車へ髪留めを差し込んで止めた。

 三つ目の部屋は、壁一面に口があった。

 入るな。

 帰れ。

 宝はない。

 お前の母は泣いている。

 パンが焦げている。

「最後のは卑怯だ!」クリュルが耳を塞ぐ。

 口はそれぞれ、最も気になる言葉を囁く。ヘタネには「化け物」、ネリには「捨て子」、モベエには父の声。

 モベエは先頭に立ち、声を無視して歩いた。

 回廊の終わりに、円形の広間があった。

 中央には、黄金の山。

 星形の金貨、赤い宝石、銀の仮面、王冠、杯、剣。油灯の光を受け、地下の夜明けのように輝いている。

 クリュルが口を開けた。

「八千リュンどころじゃない」

 ピコは銀貨を一枚拾い、歯で噛んだ。

「本物」

 モベエの目は、黄金の向こうにある石台へ向いた。

 そこに古い巻物と、黒い石の鍵が置かれていた。巻物には王国の封蝋。表には《鯨骨岬永代自治証》とある。

 港を商会から守れる。

「宝より先に、門を閉じる」

 父の手紙が頭をよぎった。

 だが門を閉じるには鳴潮珠が必要だ。珠はディルクが持っている。

 そのとき、背後で拍手が響いた。

「見事だ、モベエ」

 ディルクと四人の傭兵が、回廊の入口に立っていた。仮面猿の実を浴びたらしく、全員ひどい臭いがした。

「君は父親より優秀だ。彼はここへ着くまでに三十日かかった」

 ディルクは弩を構え、鳴潮珠を掲げた。

「ネリ。門を開け」

 珠が鳴る。

 ネリの体が勝手に動いた。

 ヘタネが彼を押さえるが、今度はヘタネ自身の足が門の方へ進む。二人の少年は歯を食いしばり、命令に抗った。

「やめて!」モベエが叫ぶ。

「潮を支配できれば、商会は干ばつの国に雨を売り、沈む国から海を買い取れる。戦争さえ終わらせられる」

「値札をつけて、でしょ」

「無償の善意は続かない」

「欲張りの言い訳も、ずいぶん長持ちしてるみたいね」とピコ。

 ディルクの顔から笑みが消えた。

「門を開けろ」

 鳴潮珠が強く輝く。

 ヘタネとネリは石台へ倒れ込み、二人の血が黒い鍵へ落ちた。鍵が目を覚ますように震え、宙へ浮かぶ。

 広間の奥の壁が割れ、逆潮門の裏側が現れた。

 扉の向こうから、何か巨大なものが息を吸った。

 地下の空気が、一瞬で海へ引かれた。

 門が開いたのは、指一本ぶんだった。

 それだけで広間は海になった。

 黒い水が刃のように噴き出し、黄金の山を吹き飛ばす。金貨が魚群のように舞い、傭兵たちが壁へ叩きつけられた。

 水の向こうに、目が開いた。

 門より大きな、青白い目。瞳の中に沈んだ都市があり、無数の影が通りを歩いている。

 《下にいるもの》が、こちらを見た。

 声ではない声が全員の頭へ流れ込む。

 ――岸の子。

 ヘタネが立ち尽くした。

 ――帰れ。

 彼の首筋の痣が裂け、小さな鰓が開いた。

「ヘタネ!」モベエが腕を掴む。

「苦しくない」

 ヘタネは黒い水の中で目を開けていた。

「ずっと初めて息を吸ったみたいだ」

 門の向こうから、白い手が伸びる。鳴かぬ水場で見たものより何百倍も大きい。指先だけで石柱を砕いた。

 ディルクは床を這い、落とした鳴潮珠へ手を伸ばした。

「まだ制御できる……」

 モベエは彼より先に珠を掴んだ。

 冷たい。

 いや、冷たいのではない。あまりに深い。握った手から心が海溝へ落ちていく。

 父の記憶が見えた。

 七年前の広間。若いディルク。幼いネリ。開く門。父は鳴潮珠を外し、ディルクに叫んでいる。

 ――珠を門へ戻せ! それは鍵じゃない、錨だ!

 ディルクが珠を奪い、逃げる。

 父は黒い石の鍵を握り、門の隙間へ飛び込んだ。自分の体ごと、扉を支えるために。

 最後に、幼いモベエの名を呼んだ。

 水面の声は偽物ではなかった。

 父は門の向こうにいる。

「モベエ!」

 クリュルの声で我に返る。

 広間が崩れ始めていた。ピコは石台の仕掛けを調べ、ネリとキルは白い指を避けている。ヘタネだけが門へ引かれていた。

 モベエは鳴潮珠を胸に抱き、門へ近づいた。

 向こうの闇に、父が浮かんでいた。

 七年前の姿のまま。半身は黒い珊瑚に覆われ、腕は扉の鎖と一つになっている。

「父さん」

 父は笑った。

 声は水を通して、かすかに届いた。

「地図を、覚えたか」

「全部」

「なら、帰り道も分かるな」

「一緒に帰ろう」

 父は首を振った。

「私が離れれば、門は開く」

「珠を戻せば閉じるんでしょ」

「珠だけでは足りない。外から錨を下ろし、内から鎖を引く」

 モベエは門の隙間へ手を伸ばした。

 父の指先が触れる。氷のように冷たく、確かに父の手だった。

「七年も待ったのに」

「すまない」

「謝ってほしいんじゃない!」

 涙が水に溶けた。

 父は困ったときの顔をした。モベエが幼いころ、泣き止ませ方が分からず、変な形の舟を紙で折ってくれたときと同じ顔。

「港を頼む。海に背を向けても、海を憎まない港に」

 白い巨大な手が再び伸びる。

 父が鎖を引き、手を食い止めた。黒い珊瑚が彼の頬まで広がる。

「今だ!」

 モベエは鳴潮珠を門の穴へ押し込んだ。

 珠はぴたりとはまった。門全体に青い光が走る。

 だが扉は閉じない。

「錨!」ピコが叫んだ。「回廊に落ちてきた大錨! あれが仕掛けにつながってる!」

「戻るぞ!」クリュル。

「間に合わない」とネリ。「水が回廊を埋めた」

 ヘタネが門を見つめた。

「僕なら泳げる」

「一人じゃ錨を動かせない」とクリュル。

「僕も行く」

「お前は泳げないだろ」とピコ。

「パンは水に浮く」

「今その冗談いる?」

「怖いと出るんだよ!」

 キルが六本脚で壁へ飛びついた。

「我が道を作る。人の子ら、掟を一つ教えよう。群れの誰かが深みへ行くとき、残りは岸で待つのではない」

「何するの?」

「尾を繋ぐ」

 ピコが縄を取り出した。

 ヘタネの腰へ結び、クリュル、ネリ、キル、ピコ、モベエの順につなぐ。傭兵から奪った縄も足し、石柱へ巻いた。

 ディルクが起き上がった。

「珠を渡せ! 私なら使える!」

 彼はモベエへ飛びかかった。

 その足首を、商会の傭兵の一人が掴んだ。仮面猿の実で臭くなった若い男だった。

「もう十分です、執行官」

「放せ!」

「児童福祉への配慮ですよ」

 傭兵はディルクを床へ引き倒した。

 舟底組は回廊へ飛び込んだ。

 水中の回廊は、別の生き物になっていた。

 壁の口は泡を吐き、床の足跡は小魚となって泳ぎ、骨槍の穴から細長い海蛇が顔を出している。

 先頭のヘタネは迷わなかった。

 潮の流れが彼に道を教えている。ネリが隣へ並び、二人で暗い水を切った。後ろではクリュルが頬を膨らませ、必死に縄を掴んでいる。ピコは工具箱を抱えたまま泳いでいた。捨てろと身振りで言われても、頑として離さない。

 錨の部屋へ着く。

 天井から落ちた巨大錨は、床へ斜めに突き刺さっていた。鎖は歯車に絡まり、動かない。

 ヘタネとネリが鎖を引く。

 びくともしない。

 クリュルが加わる。顔を真っ赤にし、足を床へ踏ん張る。

 それでも動かない。

 ピコが歯車を指し、髪留めを差し込んだ場所を示した。あれが噛んでいる。

 彼女は工具箱を開けた。水中で針金、鉗子、小槌がふわりと漂う。ピコは細い錐を選び、歯車の隙間へ腕を入れた。

 海蛇が這い出した。

 キルが飛びつき、六本脚で蛇を押さえる。蛇はキルの前脚へ噛みついた。透明な目が苦痛で白く濁る。

 モベエは短弓の弦を外し、蛇の首へ巻きつけた。ネリが骨の短刀で牙をこじ開ける。

 ピコが髪留めを抜いた。

 歯車が回る。

 錨が一寸、動いた。

 その瞬間、クリュルの口から大量の泡が漏れた。息が限界だった。

 ヘタネは自分の口をクリュルの口へ当てた。

 鰓から取り込んだ空気を、分ける。

 クリュルの目が見開かれた。二人はすぐ離れたが、後で一生からかわれる顔をしていた。

 全員で鎖を引く。

 一度。

 二度。

 三度。

 錨が持ち上がり、床下の溝へ落ちた。

 重い衝撃が神殿を揺らした。

 遠くで、門の閉じる音がした。

 水が逆向きに流れ始める。

 舟底組は回廊ごと、広間へ吐き出された。

 門は閉じていた。

 中央の鳴潮珠は静かに輝き、その前には父の姿がない。

 ただ、床に小さな紙の舟が落ちていた。

 濡れていなかった。

 神殿は崩壊を始めた。

「宝!」クリュルが叫んだ。

「門を閉じた後だから、持っていい!」ピコが叫び返す。

 黄金の大半は水に流されたが、星金貨の箱が三つ、石台の下に引っかかっていた。クリュルが二箱を担ぎ、ネリが一箱を背負う。モベエは自治証の巻物を油布に包んだ。

「ディルクは?」

 執行官は崩れた柱の下に足を挟まれていた。傭兵たちはすでに逃げている。

「置いていけ」とネリ。「森の法を破った」

 ディルクはモベエを見た。

 死んだ魚の目ではなかった。死を怖がる、ただの人間の目だった。

 父を置いてきた門が、モベエの背後にある。

 彼女は縄を投げた。

「掴んで」

「なぜだ」

「森の第一の法。生まれで罪を決めない。たぶん、失敗で死に方まで決めない、も入る」

「甘いな」

「知ってる」

 全員で縄を引き、ディルクを助け出した。

 出口へ走る。

 回廊は次々に崩れ、骨槍が飛び、石の口が最後の悪口を叫んだ。

 ――間に合わない。

 ――全員ここで骨になる。

 ――パンが本当に焦げている。

「それだけは嘘であれ!」クリュルが泣きそうな声を上げる。

 外の沈都へ出ると、谷そのものが水に沈み始めていた。黒い池から潮が噴き上がり、石像が倒れる。

 逃げ道の階段は崩れている。

「上まで百丈ある」とピコ。

「登れない」とヘタネ。

 キルが森の空へ向かい、長く吠えた。

 返事は、地鳴りだった。

 谷の縁に、牙母が現れた。

 背の大樹から無数の蔓が伸び、谷底へ降りてくる。金狼、仮面猿、羽蜥蜴たちが蔓を支えていた。

「借りを返しに来たぞ、子らよ」

 舟底組は蔓へ飛びついた。

 最後に残ったディルクは、沈む黄金を振り返った。

「王国を変えられる力だった」

 モベエは彼の腕を掴んだ。

「港一つも救えない人が、王国を変えるなんて言わないで」

 蔓が引き上げられる。

 谷を満たした水の中で、星のない空が瞬いた。

 巨大な目が、閉じた。

 樹海を出たのは、三日目の夕方だった。

 鯨骨港では、商会の兵が家々へ赤い封印を貼り、長老たちを広場へ集めていた。日没まで、あとわずか。

 森の縁から現れた舟底組を見て、港中が固まった。

 泥だらけで、海藻を髪に絡ませ、六脚の獣と鰓のある少年を連れ、金貨の箱を担いでいる。

 クリュルの母が最初に走ってきた。

「クリュル!」

「母ちゃん、パンは!?」

「そこなの!?」

 抱きしめられながら、クリュルは店の煙突を見た。煙は正常だった。壁の口は最後まで嘘つきだった。

 モベエの母は何も言わず、娘の頬を両手で挟んだ。それから一度平手で叩き、すぐ強く抱きしめた。

「これは一回分」と母は震える声で言った。「残りは明日から」

 ピコの父は工具箱が無事なのを見て泣き、本人が無事なのを見てさらに泣いた。神殿の老司祭はヘタネの開いた鰓を見て祈りの印を切りかけ、途中でやめ、少年の肩を抱いた。

 ネリは広場の端で足を止めた。

 港の人々の視線が集まる。恐れ、驚き、古い偏見。

 キルが隣で牙を見せた。

「望むなら、森へ戻れる」

 ネリは鯨骨港の家々を見た。海へ背を向けた家々。焼きたてのパンの匂い。網を繕う手。泣きながら子どもを叱る大人たち。

「少しだけ、見ていく」

 広場の掲示柱では、商会の副執行官が砂時計を見ていた。

「時間だ。支払いがない場合――」

「あるよ」

 モベエは星金貨を一枚、彼の足元へ投げた。

 金貨は夕日を受け、地面に小さな星を作った。

 クリュルとネリが箱を開ける。広場にどよめきが広がった。

「八千リュン分を数えて」とモベエ。「残りは港の共同金庫へ」

 副執行官は青ざめた。

「古代貨幣は鑑定が必要だ」

「じゃあ、こっち」

 モベエは自治証を広げた。

 王国初代の封蝋。鯨骨岬と沿岸三里を、そこに住む漁民の永代共有地と定める証書。後世のいかなる王、領主、商会も、これを課税、売買、接収してはならない。

 港の書記が震える指で文面を確かめた。

「本物です。王立文庫の原本番号まである」

「つまり」とピコ。「潮税そのものが違法。これまで取った分も返してね」

 副執行官の顔が、金貨より見事な色に変わった。

 そこへディルクが進み出た。

 泥まみれで、片方の長靴を失っている。威厳はほとんど残っていなかった。

「証書は真正だ。九環商会執行官として認める」

「執行官!」副官が叫ぶ。

「また、鳴潮珠を用いた禁制遺物の私的運用、傭兵による保護樹海への侵入、自治証隠匿の疑いについて、私自身を王国法廷へ告発する」

 広場が静まり返る。

 モベエは彼を見た。

「急にいい人になったつもり?」

「いや。損失を数字で確定しているだけだ」

 ディルクは疲れたように笑った。

「正義という言葉を、私は少し安く使いすぎたらしい」

 商会の船は、その夜のうちに港を出た。

 九つの金輪を描いた帆が水平線へ消えるまで、誰も声を上げなかった。

 やがてクリュルの母が、広場へ焼きたての丸パンを運んできた。

「まず食べな。祝いも説教も、それからだよ」

 港の最重要の掟だった。

十一

 翌朝、鯨骨港の家々は、初めて海へ窓を開いた。

 全部ではない。三軒だけだった。

 そのうち一軒は、ヘタネが暮らす神殿。もう一軒はパン屋。最後の一軒は、モベエの家だった。

 ネリは港に残ることになった。

 正式には「樹海との使者」。実際にはクリュルの家の屋根裏で寝て、毎朝パンを十個食べ、漁師たちへ潮の読み方を教えた。最初は彼を避けた老人たちも、三日後には「魚を獲りすぎるな」とネリに叱られていた。

 キルは森へ帰ったが、週に一度、蜂蜜菓子を取り立てに来た。

 牙母の使いとして、獣たちは港へ薬草や果実を運び、人間は鉄器と塩を渡した。水場では争わない。子を守る。生まれで罪を決めない。森の法が、少しずつ人の法に混ざった。

 星金貨の一部で灯台が直された。

 新しい灯を入れる夜、モベエは父の作業机に紙の舟を置いた。あの広間で拾ったものだ。開いてみると、内側に細い線が描かれていた。

 海図だった。

 鯨骨港から南へ、潮喰い樹海を越え、島の外へ。地図の端には、まだ誰も見たことのない群島がある。さらにその先、紙が足りずに途切れた場所へ、父の文字で一言。

 ――つづきは、お前が描け。

 モベエは泣かなかった。

 泣く代わりに、新しい紙を継ぎ足した。

 夜、灯台の火が七年ぶりに回り始める。

 光は港を撫で、森の梢を照らし、沖の暗がりへ伸びた。

 双月が重なっていた。

 海から、こつ、こつ、こつ、と音がした。

 間。

 こつ、こつ。

 モベエは窓を開けたまま、その音を聞いた。

 父の合図ではない。

 もっと遠く、もっと深い場所から、何かが門を数えている音だった。

「また冒険?」と、背後でピコが訊いた。

「今日は寝る」とモベエ。

 クリュルが欠伸をした。

「賛成。明日はパンの配達がある」

 ヘタネは沖を見つめ、首筋の鰓をそっと押さえた。

「でも、いつか行くんだろ」

 モベエは新しい海図の白い場所へ、鉛筆で小さな星を描いた。

「いつかね」

 海の底で、古い星がひとつ瞬いた。