潮の内側

一 まっすぐな線が引けない

 長谷川澄人は、まっすぐな線を引くことで食べていた。

 正確には、まっすぐに見える線を引くことで、である。

 看板の文字も、商品名のロゴも、ほんとうに定規で引いたようでは冷たく見える。わずかに太り、わずかに痩せ、見る人の呼吸に合わせて揺れているような線だけが、街の雑踏の中で人を振り向かせる。

 澄人は、その「わずか」を見分けられる人間だった。

 三十一歳の春までは。

 最初は、丸の終わりが合わなかった。

 次に、横線が波打った。

 やがて筆を持つ右手が、紙の上に置いた途端、寒くもないのに震え始めた。

 病院では、骨にも神経にも異常はないと言われた。

「疲労でしょう。休んでください」

 医師は簡単に言った。

 休むことができるなら、疲れてなどいない。

 納期を三つ落とし、会議で黙り込み、最後には自分が十年かけて育てた書体データを全部消しかけたところで、事務所の代表は澄人からペンを取り上げた。

「島へ行け」

「病院なら行きました」

「病院じゃない。島だ。凪浦島。廃校を診療所に直したから、看板を書けって依頼が来てる」

「いまの僕に手書きを頼むんですか」

「だからだよ。上手な字はいらないそうだ。島の人間が、毎朝見ても飽きない字がほしいんだと」

 そんな依頼は聞いたことがなかった。

 澄人は断るつもりだったが、翌朝には、右手で持てないほど重い鞄を左手に提げ、港に立っていた。

 凪浦島へ行く船は、一日に一本しかなかった。

 古い連絡船の船腹には、波に削られた文字で「うみつばめ」と書かれていた。船長は澄人の切符を見ず、代わりに右手を見た。

「動かんのか」

「動きます」

「なら、まだ間に合う」

 何に間に合うのかと聞く前に、汽笛が鳴った。

 港が遠ざかるにつれて、携帯電話の電波も、時計の秒針も、頼りなくなっていった。

 やがて霧の中から現れた凪浦島は、握りかけた手のような形をしていた。

《第九末端区・搬入路》

 赤荷運びのコケドは、荷車の車輪を蹴った。

「また詰まってる!」

 細い搬入路の先に、灰色の塊がへばりついている。道幅はただでさえ狭いのに、ここ数週間は壁まで縮み、青灯油の荷車が一台通るのがやっとだった。

 青灯油は、上の世界で「酸素」と呼ばれているらしい。

 それがなければ、指先の工房は火を落とし、筋の滑車は動かず、線引き職人たちは眠ったままになる。

「門番課は何してるの」

 コケドが叫ぶと、白い外套を着た男が灰色の塊の向こうから顔を出した。

「こっちだって手一杯だ。灰の雨が止まらない」

「雨くらい掃けばいいでしょ」

「これは外から降る雨じゃない。上の人が、自分で降らせてるんだよ」

 男は天井を見た。

 はるか上で、低い鐘の音が一つ鳴った。

 どくん。

 区画全体が揺れた。

「拍が遅いな」

 男が言った。

「名前を呼ばれなくなった人の拍だ」

 コケドは意味がわからなかったが、荷車を押し直した。

 わからなくても、運ぶものは運ばなければならない。

二 島では、全員が勝手に働く

 桟橋には、迎えがいなかった。

 代わりに、黄色い長靴を履いた少女が、澄人の鞄の上に座っていた。

「それ、僕のですけど」

「知っとる」

「どいてください」

「重そうやったけん、逃げんように押さえとった」

 少女は八歳か九歳くらいだった。日に焼けた頬に、墨をこすったような汚れがある。

「逃げません」

「都会の荷物は逃げる。人も逃げる」

 少女はぴょんと飛び降り、澄人の鞄を勝手に開けた。

「触らないで」

「筆や」

「高いんです」

「高い筆は、うまい字を書くん?」

「道具で決まるわけじゃない」

「ほんなら安いのでよかろ」

 言い返す前に、少女は一本の筆を抜き取り、坂道を走っていった。

「ちょっと!」

 追いかけると、島の集落が見えた。

 石垣の間を細い道が何本も走り、家々は互いに肩を支えるように斜面へ張りついている。軒先では魚が干され、井戸端では三人の老人が同じ桶を別々の方向へ引っ張り、畑では山羊が郵便受けを食べていた。

 少女は、その混乱を縫うように駆けた。

「シソオ! 先生の筆を盗るな!」

 魚をさばいていた男が怒鳴った。

「借りただけ!」

「返す気のある顔をしてから言え!」

「どんな顔ね!」

「返す顔たい!」

 会話になっていない。

 ようやく少女――シソオを捕まえたのは、坂の上にある白い建物の前だった。

 元は小学校らしく、錆びた門柱に「凪浦分校」と残っている。校庭には漁網、野菜籠、洗濯物、壊れた自転車が並び、診療所というより島じゅうの忘れ物置き場に見えた。

 玄関から、白衣の老人が出てきた。

「長谷川先生ですな」

「先生ではありません」

「ここでは、島の外から来て字の読める者はだいたい先生です」

 老人は深町と名乗った。医師らしい。

「看板は、あそこです」

 校舎の壁に、長さ三メートルほどの杉板が立てかけてあった。節が多く、反りもある。都会なら下地材にも使わない板だ。

「文字は『凪浦診療所』。あとは好きに」

「書体の希望、設置位置、視認距離、周囲の色との兼ね合いは」

「朝、漁から戻った者が読めること。夜、熱を出した子を背負った親が見つけられること。それで十分です」

「十分ではありません」

「そうですか」

 深町は少しも困らずに言った。

「では、十分になるまで島にいてください」

 その日の昼、澄人は十七枚の下書きを捨てた。

 夕方、十八枚目の「凪」の横線が震えた。

 紙を丸めようとしたとき、窓からシソオが顔を出した。

「その字、死んどる」

「勝手に入らないでください」

「字が息しとらん」

「字は息をしません」

「するよ。ばあちゃんの字は、怒ったら太る。船長の字は、酔ったら海に落ちる。先生の字は」

 シソオは机の上の紙を一枚つまんだ。

「息を止めて、見つからんようにしとる」

 澄人は紙を取り返した。

「子どもに何がわかる」

「わからんけん、見えるんよ」

 シソオはそう言って、窓から消えた。

 同時に、島じゅうに鐘が鳴った。

 低く、腹に響く音だった。

 どくん。

 道を歩いていた人々が、いっせいに立ち止まった。

 魚を干していた男も、桶を引っ張っていた老人たちも、郵便受けを食べていた山羊まで口を止めた。

 皆が自分の手首に触れ、七つ数えた。

 それから何事もなかったように、また動き始めた。

「今のは?」

 澄人が聞くと、深町は窓の外を見たまま答えた。

「島の時報です」

「時計なら一回でいいでしょう」

「時計のためではありません。忘れないためです」

「何を」

「動いているものは、ひとりで動いているのではない、ということを」

《第九末端区・休憩鐘》

 どくん。

 鐘が鳴ると、工房の全員が手を止めた。

 滑車係は綱から手を離し、修繕係は壁の裂け目から顔を上げ、赤荷運びたちは荷車の取っ手を握ったまま七つ数えた。

 一、二、三、四、五、六、七。

「異常なし」

 監督のケイが言った。

 誰も返事をしなかった。

 異常は、あった。

 右手の線引き工房では、命令札が届いても職人たちが震えるばかりで、一本の線も完成していない。命令を運ぶ電路には雑音が走り、上の人が筆を持つたび、警報が鳴る。

 外から刃物が来たわけでも、病原の群れが攻めてきたわけでもない。

 上の人が「失敗する」と考えるたび、その考えが雷になって落ちてくるのだ。

「考えってのは、厄介だな」

 門番課の男が言った。

「外敵なら追い出せる。考えは、どこまで追っても本人だ」

 コケドは青灯油の瓶を磨いた。

「じゃあ、本人を追い出す?」

「それをやると、俺たちも消える」

 ケイが笑った。

「だから待つんだよ。上の人が、自分で門を開けるまで」

三 役に立たない人の役

 島では、誰も澄人を休ませてくれなかった。

 朝五時に漁師の宗助が窓を叩き、魚箱の名前を書けと言った。

 六時にはトヨ婆が、薬袋の「朝」と「夜」が見えにくいから大きくしろと言った。

 七時にはシソオが、山羊の首札に「食べるな」と書けと言った。

「山羊は字を読まないでしょう」

「人間向けたい」

「郵便受けを山羊の届かないところへ置けばいい」

「そしたら配達の茂じいが届かん」

 島の問題は、どれも一つ直すと別のどこかが困る仕組みになっていた。

 澄人は看板の仕事だけに集中しようとした。

 だが机に向かうと手が震え、外へ出ると誰かに捕まった。

「先生、これ読めるか」

「先生、こっち持て」

「先生、足りん頭を一個貸せ」

 頼まれる仕事のほとんどは、字と関係がなかった。

 網を引き、薬草を刻み、迷子の鶏を追った。シソオと磯へ行き、貝殻を拾った。夜には公民館で老人たちの将棋を見せられ、頼んでもいないのに全員から別々の助言を受けた。

 不思議なことに、島の人々は澄人の手が震えることを誰も気にしなかった。

 宗助は曲がった魚箱の文字を見て言った。

「波みたいでよか」

 トヨ婆は薬袋を見て言った。

「震えたぶんだけ、朝が長う見える」

 シソオだけは、黙っていた。

 四日目の午後、澄人は校庭でシソオが一人、石灰の粉を使って地面に大きな丸を描いているのを見つけた。

「何ですか、それ」

「島」

 丸から何本もの道が枝分かれし、家や畑や井戸につながっている。

「地図なら、形が違います」

「上から見た島やない。中から見た島」

「中から?」

「道があって、水が流れて、みんなが荷物を運んで、壊れたとこを直す。人のからだと同じやろ」

 シソオは丸の中央に、小さな鐘を描いた。

「ここが心臓?」

「違う。鐘は鐘。心臓がどこにあるかは、誰も知らん」

「島の中心でしょう」

「中心が一個とは限らんよ」

 シソオは石灰だらけの手で、自分の胸、澄人の胸、校舎、海の順に指さした。

「ここにも、ここにも、ここにもある」

「海に心臓はありません」

「見たことあるん?」

 また、それだった。

 わからないから見える。見たことがないなら、ないとは言えない。

 澄人は地面の地図を見下ろした。

 細い道の一本が、校舎の前で途切れている。

「ここ、つながってませんよ」

「先生の道」

「僕の?」

「まだ役が決まっとらんけん」

「看板を書くために来たんです」

「それは仕事。役とは違う」

「どう違うんです」

 シソオは首をかしげた。

「仕事は、できる人がする。役は、そこにおる人がする」

 その晩、澄人は久しぶりに夢を見た。

 暗いトンネルを、小さな人々が荷車を押していた。

 青い瓶を積んだ荷車だった。

 道は細く、天井から灰が降っている。

 澄人は助けようとしたが、身体が大きすぎてトンネルに入れなかった。

「どいて!」

 赤い帽子の少女が叫んだ。

「あなたが道をふさいでる!」

 目を覚ますと、右手が胸の下敷きになっていた。

 指先は痺れ、脈に合わせて痛んだ。

 どくん。

 遠くで、島の鐘が鳴った。

四 灰の雨

 六日目、雨が降った。

 島の雨は横から来た。

 海で助走をつけた風が、雨粒を石壁へ叩きつけ、家々の隙間へねじ込んだ。

 連絡船は欠航した。

 携帯電話は三日前から圏外のままだった。

 澄人は診療所の廊下で、看板の下書きを並べていた。

 四十六枚。

 どの字も整っていた。どの字も、どこかで見たようだった。

「まだ息しとらんね」

 背後でシソオが言った。

「今日は来るなと言われてるでしょう」

「言われたけん、窓から来た」

「帰りなさい。風が強い」

「先生も帰れば」

「僕は仕事です」

「仕事しかないん?」

 澄人は振り返った。

「君に何がわかる」

 同じ言葉を、前にも言った。

 シソオは今回は言い返さず、唇を噛んだ。

「わからんよ」

 小さな声だった。

「わからんけど、先生が字を書くとき、溺れよる人みたいな顔する。息したら負けみたいな」

「負けたことがない人には、わからない」

「負けるって、何に」

 答えられなかった。

 依頼主に。納期に。同業者に。昔の自分に。

 どれも正しく、どれも違った。

 風が窓を鳴らした。

 その直後、島じゅうの電気が消えた。

 暗闇の中で、校舎の奥から金属の倒れる音がした。

 深町が懐中電灯を持って走ってきた。

「発電機が止まった。宗助たちを呼んでくる」

「僕は?」

「ここにいてください」

 深町は一瞬迷い、それから付け加えた。

「シソオを見ていて」

 その言葉が、澄人には侮辱のように聞こえた。

 役に立たない者へ割り当てる、いちばん簡単な役。

 だが深町が出ていってから、シソオの顔色が悪いことに気づいた。

「どうしました」

「別に」

「手を見せて」

 左手のひらが切れていた。窓から入るとき、割れたガラスに触れたらしい。雨水と血が混ざり、指先から落ちている。

「どうして言わないんです」

「これくらい」

「これくらいを放っておく人が、一番困るんです」

 澄人は救急箱を探した。

 暗い棚から包帯と消毒液を取り出す。ラベルは濡れて剥がれかけていたが、自分で書き直した大きな文字のおかげで、何がどこにあるかわかった。

 シソオの手を洗い、ガーゼを当てる。

 自分の右手は震えていた。

「痛い?」

 澄人が聞くと、シソオは首を振った。

「先生のほうが痛そう」

「僕は切ってません」

「見える傷だけが傷やないって、トヨ婆が言う」

 包帯を巻き終えたとき、外で鐘が鳴った。

 どくん。

 いつもの時刻ではなかった。

 続けて、もう一度。

 どくん。

 間が長い。

 深町が息を切らして戻ってきた。

「宗助が崖道で転んだ。頭を打ってる。診療所まで運ぶが、港の無線が死んだ」

「救急船は」

「こちらから合図を出せなければ来ない」

「発電機は?」

「燃料路に泥が入った。復旧には時間がかかる」

 深町は窓の外を見た。

 港の向こう、岬の上に古い信号台がある。昼は旗、夜は灯りで対岸へ知らせるためのものだ。しかし電気が消えたいま、灯りは使えない。

「布に『急患』と書いて、岬に張る」

 深町が言った。

「対岸の監視所が双眼鏡で見れば、船を出してくれる」

「この雨で墨は流れます」

「油性塗料が倉庫にある」

「布が濡れていたら乗らない」

「では、どうする」

 廊下にいた全員が、澄人を見た。

 仕事のできる人を探す目ではなかった。

 そこにいる人の役を待つ目だった。

 澄人は四十六枚の下書きを見た。

 整った「凪」。整った「浦」。整った「診療所」。

 どれも、この暗闇では役に立たない。

「板を使います」

 澄人は立てかけてあった看板用の杉板を指さした。

「白い下塗りをしてある。油性塗料なら雨でも残る。『急患』の二文字だけ大きく書いて、岬へ運ぶ」

「看板が台無しになる」

 深町が言った。

「看板はまた書けます」

 口にしてから、自分で驚いた。

 また書ける。

 それは、ずっと考えないようにしていた言葉だった。

《第九末端区・警報》

 警報鐘が鳴った。

 どくん。

 どくん。

 間隔が乱れ、天井が激しく揺れた。

「外界損傷!」

 伝令が駆け込んできた。

「左手掌部に裂傷。右手区には大量命令が来る!」

「右手に?」

「上の人が、筆を持つ!」

 線引き工房の職人たちが顔を見合わせた。

 ここ数週間、命令札が届くたび、彼らは震え、滑車を取り落としてきた。

 また失敗する。

 また警報が鳴る。

 また灰の雨が降る。

「青灯油を全部回せ!」

 監督のケイが叫んだ。

「搬入路が詰まってます!」

「壊して通せ!」

「壁まで壊れます!」

「壁は直せる。拍が止まったら、何も直せん!」

 コケドは荷車を押した。

 門番課が灰色の塊へ飛びつき、修繕係が縮んだ壁を支えた。

 天井から灰の雨が降り始めた。

 失敗する。

 無駄だ。

 もう以前のようには戻らない。

 雨粒一つ一つが、上の人の考えだった。

 コケドは顔を上げた。

「うるさい!」

 誰に届くとも思わず、叫んだ。

「こっちは働いてるんだ! 勝手に終わったことにするな!」

 その瞬間、遠くから別の音がした。

 島の鐘に似た、低い音。

 どくん。

 灰の雨が、一拍だけ止んだ。

五 急患

 倉庫から出した塗料は、赤しかなかった。

 澄人は杉板を床に寝かせた。

 シソオが懐中電灯を持ち、深町が板の端を押さえた。窓の外では風が唸り、宗助を乗せた担架が廊下を通っていった。

 澄人は太い刷毛を右手で握った。

 震えた。

 赤い塗料が一滴、白い板に落ちた。

 きれいな円にならず、飛沫が散った。

「先生」

 シソオが言った。

「息」

「黙って」

「息して」

 澄人は刷毛を板に置いた。

 線が波打った。

 頭の中で、昔の自分が笑った。

 そんな起筆では弱い。角度がずれている。重心が高い。終筆が汚い。

 手を止めれば、まだ失敗ではない。

 書かなければ、下手な字は残らない。

 だが診察室の向こうで、宗助が呻いた。

 深町が短く指示を出し、トヨ婆が走る音がした。

 板の上の赤い線は、途中で止まっていた。

 澄人は気づいた。

 線が震えているのではない。

 自分が震えているのでもない。

 線も、手も、心臓も、全部が動いているだけだ。

 動いているものを、止まっているように見せることばかり考えていた。

 澄人は息を吐いた。

 長く、最後まで。

 それから、震えたまま書いた。

 急。

 次に、患。

 刷毛は節に引っかかり、赤い線は跳ねた。雨が吹き込み、塗料の縁を少しだけ滲ませた。整ってはいない。だが二文字は、廊下の端からでも読めた。

 助けが要る。

 その意味だけが、まっすぐ立っていた。

「持っていくぞ!」

 深町が叫んだ。

 島の人々が集まった。

 漁師、畑の老人、郵便の茂じい、足の悪いトヨ婆。誰か一人では持てない杉板を、全員で頭上へ上げた。

 澄人も右端を持った。

「先生、そっち高い!」

「坂なんだから仕方ないでしょう!」

「字が斜めになる!」

「対岸から見れば水平です!」

 怒鳴り合いながら、岬への道を登った。

 風に何度も押し戻された。

 板は帆のように暴れ、赤い文字が雨の中で揺れた。

 澄人の右手は震え続けていた。

 それでも、離さなかった。

《第九末端区・開通》

「道が開く!」

 誰かが叫んだ。

 灰色の塊に細い亀裂が入り、青い光が漏れた。

 コケドは荷車ごと亀裂へ突っ込んだ。

「無茶だ!」

 門番課の男が叫ぶ。

「役だから!」

「何の役だ!」

「ここにいる役!」

 荷車の車輪が外れた。

 青灯油の瓶が宙へ投げ出される。

 線引き工房の職人たちが手を伸ばし、次々に受け取った。

 一瓶、二瓶、三瓶。

 滑車が動く。

 筋の束が引かれる。

 震えの波が来る。

 職人たちは、波を止めようとしなかった。

「波に合わせろ!」

 ケイが叫んだ。

「止めるな。使え!」

 震えの頂点で線を置き、谷で送り、次の波で押し切る。

 工房の巨大な筆が、白い地面を走った。

 赤い一画が生まれた。

 それは少し曲がっていた。

 だからこそ、どこまでも続いていけそうだった。

六 診療所

 対岸から救急船が来たのは、夜明け前だった。

 宗助は頭を七針縫い、三日後には島へ戻ってきた。

「字がでかすぎて、船の連中が『島ごと急患かと思った』言うとったぞ」

「間違ってない」

 トヨ婆が言った。

「島はいつも、どこか悪い」

「婆さんは口が悪い」

「口が元気な証拠たい」

 壊れた発電機は修理され、連絡船も動き始めた。

 看板用の杉板には、赤い「急患」が残った。

 深町は新しい板を取り寄せると言ったが、澄人は首を振った。

「これを使います」

「上から塗り潰すのですか」

「消しません」

 澄人は赤い二文字を囲むように、「凪浦診療所」と書いた。

 赤い「急患」は、文字の奥に見え隠れした。

 診療所は、元気な人にはただの建物だ。けれど助けを必要とする人にとっては、世界で一番大きく見えなければならない。

 筆を持つ手は、まだ少し震えた。

 澄人は震えを隠さず、線の太さにした。

 板の節に当たったところでは無理に押さず、字のほうを曲げた。最後の「所」の縦線だけ、シソオが横から筆の柄をつかんだので、わずかに二股になった。

「何するんです!」

「役」

「邪魔の間違いでしょう」

「でも息した」

 シソオは得意そうに言った。

 完成した看板を掲げると、島の人々が集まった。

「凪が太い」

「浦が泳いどる」

「診は腹減っとる顔や」

「所は二人おるな」

 褒めている者は一人もいなかった。

 それでも誰も目をそらさなかった。

 夕方、鐘が鳴った。

 どくん。

 皆が手首に触れた。

 澄人も真似をした。

 一、二、三、四、五、六、七。

 脈は少し速かった。

「異常ですか」

 深町に聞くと、老人は笑った。

「生きている程度には」

七 外側

 二週間後、澄人は島を出た。

 桟橋には島じゅうの人が集まった。

 宗助は魚を持たせ、トヨ婆は薬草を持たせ、茂じいは宛名のない葉書を五枚持たせた。

 シソオだけは何もくれなかった。

「また来ます」

 澄人が言うと、シソオは海を見たまま答えた。

「来んでいい」

「そうですか」

「外で役をせんと」

 船が出る直前、シソオは澄人の右手を取った。

 掌に指で一文字を書いた。

 線がくすぐったくて、形はわからなかった。

「何て書いたんです」

「忘れたころに読める」

 連絡船が島を離れた。

 凪浦島は霧の向こうへ沈み、やがて見えなくなった。

 澄人は船室で眠った。

 目を覚ますと、船は本土の港へ着いていた。

 時計を見ると、島へ向かった日から十五日が過ぎている。

 だが事務所へ戻ると、代表は澄人を見るなり青ざめた。

「どこにいた」

「凪浦島です」

「何を言ってる。お前、二日前に港の待合室で倒れて、そのまま病院へ運ばれたんだぞ」

 澄人は笑った。

 冗談にしては、代表の顔が本気すぎた。

「二週間、連絡がつかなかったでしょう」

「二週間?」

 代表は机のカレンダーを指さした。

 澄人が島へ出発した日から、まだ二日しか経っていなかった。

 鞄を開けた。

 宗助の干物が入っていた。

 トヨ婆の薬草も、宛名のない葉書もあった。

 筆には、赤い塗料が乾いてこびりついている。

「凪浦島なんて、聞いたことがない」

 代表は地図を検索した。

 港の沖には、小さな無人岩礁が一つあるだけだった。

 連絡船「うみつばめ」も、二十年前に廃船になっていた。

 澄人は病院で再検査を受けた。

 右手の震えは消えていなかった。

 しかし医師に渡された問診票へ、澄人は自分の名前を最後まで書くことができた。

 長谷川澄人。

 線は少し揺れていた。

 それでも文字は、紙の上でちゃんと息をしていた。

「妙ですね」

 画像を見ていた医師が言った。

「右手の血流は問題ありません。ただ、ここに……」

 医師は拡大した画像を指した。

 指先の毛細血管が、複雑な網目を作っている。

 その一部が、不自然に整った形で白く映っていた。

 五つの小さな文字に見えた。

 凪浦診療所。

 澄人は自分の右手を開いた。

 掌には何もない。

 けれど、シソオが指でなぞった場所が、かすかに温かかった。

 その夜、澄人は新しい仕事を始めた。

 高級ホテルのロゴでも、大企業の広告でもない。

 近所の小児科から頼まれた、入口の案内板だった。

 泣いている子にも読める字。

 熱を出した親にも見つけられる字。

 毎朝見ても飽きない字。

 澄人は窓を開け、息を吸い、震える手で最初の線を引いた。

 どこか遠くで鐘が鳴った。

 どくん。

《第九末端区・新診療所》

 新しい看板を見上げ、赤荷運びのコケドは首をかしげた。

「『凪浦診療所』って、どういう意味?」

「昔からある名前だよ」

 監督のケイが答えた。

「誰がつけたの」

「外の人だ」

「外って、上の人?」

「さあな」

 線引き工房では、職人たちが今日も命令札を待っている。

 搬入路の灰はまだ完全には消えていない。壁の傷も残っている。青灯油の荷車は相変わらず重い。

 それでも道は開いていた。

 休憩鐘が鳴った。

 どくん。

 全員が手を止め、七つ数えた。

 一、二、三、四、五、六、七。

「ねえ、ケイ」

 コケドが天井を見上げた。

「上の人の外にも、誰かいるのかな」

 ケイも天井を見た。

 血管の壁を透かして、海のような青い光が揺れている。

「いるかもしれん」

「その人の中にも、道があって、みんな働いてる?」

「たぶんな」

「じゃあ、一番外はどこ?」

 ケイはしばらく考えた。

「一番外なんて、ないのかもしれん」

 その瞬間、世界よりも大きな何者かが、くすぐったそうに右手を握り直した。

 島々が動き、街々が揺れ、数えきれない鐘が、少しずつ違う拍で鳴った。

 どくん。

 どくん。

 どくん。

 そして、誰もひとりではない音がした。