深海にて、君を呼ぶ

 これは調書ではない。

 調書には、世界が一度だけ完全に沈黙した夜、私が艦長に口づけたことを書く欄がなかった。

 だから私は、あの航海を私自身の言葉で残す。

 深海戦略潜航艦《しじま》元副長、雪宮真尋として。

 そして、篠宮怜司という男を愛した者として。

 《しじま》は、世界で最も静かな兵器だった。

 全長百三十八メートル。乗員四十一名。通常の潜水艦なら海を押し退けるたびに必ず残すはずの振動も、熱も、磁気も、《しじま》はほとんど残さない。外殻を包む無響膜は能動的に水圧を受け流し、推進器は海水そのものを低速で移送する。艦内では、乗員の咳払いのほうが機関音より大きかった。

 建造目的は、公式には「超深度域における海洋観測」。

 非公式には、いかなる国の監視網にも発見されず、海底に敷設された戦略兵器を点検し、必要なら破壊すること。

 私たちが最後の航海で向かったのは、北西太平洋の皇海溝だった。

 最深部、一万一千二百メートル。

 そこに、七年前から応答を停止している無人観測塔《ギルミラ七号》がある――そう聞かされていた。

「深度六千。船体、異常なし」

 私は発令所中央の卓に手を置き、計器を読み上げた。

「針路そのまま。降下率、毎分三十」

 艦長席から答えた声は、低く、よく通った。

 篠宮怜司一等海佐。

 三十七歳。《しじま》艦長。

 七年ぶりに同じ艦に乗ることになった日、彼は握手を求めてきた。

「久しぶりだな、雪宮」

「ええ、艦長」

「二人きりでも?」

「艦内で、あなたは艦長です」

 私がそう答えると、怜司はほんのわずかに笑った。

 その笑い方まで、七年前と同じだった。

 防衛大学校の防波堤で、嵐の夜に初めて口づけたこと。

 士官候補生の狭いベッドで、音を殺して互いの名を呼んだこと。

 卒業前夜、怜司が「いつか、戦争を止める艦を造る」と言ったこと。

 私が「そんな艦は、兵器とは呼ばない」と返したこと。

 すべてが一瞬で胸に蘇った。

 だが私は、握手だけを返した。

 別れを選んだのは怜司だった。

 同じ組織で指揮系統に入る二人が関係を続ければ、いつか判断を曇らせる。そう言った。

 正しい理屈だった。

 正しすぎる理屈は、たいてい誰かを傷つける。

「副長」

 現在へ引き戻す声に、私は顔を上げた。

「海底地形図を」

 怜司は私にだけ分かるほどの短い視線を寄越した。

 職務に戻れ、という合図。

 私は表示卓に海溝の立体図を呼び出した。

《ギルミラ七号》まで、あと四十二海里です」

 そのとき、音響員が片耳のヘッドセットを押さえた。

「微弱音、入りました。方位一八〇。深度……判定不能」

「生物音か」

「いえ。規則的です。ですが、こちらの探信音より先に返ってきています」

 発令所の全員が黙った。

 探信音を発していないのに、反響だけが戻ってくる。

 そんなことはあり得ない。

「記録しろ。能動探信はするな」

 怜司の命令は冷静だった。

 私は音響波形をのぞき込んだ。

 一定間隔で並ぶ低周波の谷。

 やがてそれが、単なる反復ではないことに気づいた。

 短、短、長。

 短、長、短、短。

 符号だった。

 音響員が、乾いた声で言った。

「人名に変換できます」

「誰の名だ」

 彼は答える前に、私を見た。

「――雪宮真尋、です」

 深度七千二百で、艦長は乗員を招集した。

 発令所の主表示器に、極秘指定された一枚の海図が現れた。

 赤い点が、太平洋の海底に星座のように散っている。日本海溝、トンガ海溝、ペルー・チリ海溝、北大西洋の断裂帯。どれも国家領海の外側、深海に位置していた。

「これは《ギルミラ》観測網ではない」

 怜司は言った。

「名称は《環礁計画》。参加十一か国が共同配備した自律報復システムだ。各国首都と戦略司令部が同時に沈黙した場合、海底から無人攻撃機を発進させ、登録された三百十二の目標を攻撃する」

 機関長が顔をしかめた。

「核ですか」

「大半が」

 発令所の空気が変わった。

 誰も声を上げなかった。ただ、四十一人分の呼吸が少しずつ浅くなった。

「そんな計画は、国会承認を受けていません」

 私は言った。

「受けるはずがない。文民統制の外側に置くための計画だ」

「なぜ艦長が知っているんです」

《しじま》が、その保守艦だからだ」

 怜司は表示を切り替えた。

 私たちの目的地、《ギルミラ七号》と呼ばれていた施設の内部図。観測機器の下に、六基の発射筒が描かれている。

「七号は故障していない。三週間前、何者かが標的情報を書き換えた。新しい標的には、参加国自身の都市が含まれている。今ごろ各国は互いを疑い、修正権限の奪い合いを始めている」

「命令は、七号を破壊することでは?」

「表向きはな。だが七号を失えば、別の施設が報復権限を引き継ぐ。問題は消えない」

「では、どうするつもりです」

 私はもう、彼の目を見ていた。

 士官候補生のころ、教官に逆らう直前に見せた目。

 すべてを決めてしまった者の目だった。

「全世界に計画を公開する」

 誰かが息を呑んだ。

《しじま》はここで国籍識別を切る。以後、いかなる国家指揮系統にも属さない。皇海溝の深海通信塔から、設計図、参加者名簿、発射権限鍵を同時送信する」

「それは反乱です」

「そうだ」

 あまりにも簡単に認めたので、私は言葉を失った。

「艦長、公開されれば、各国は七号を奪いに来る。戦争を止めるどころか、始める引き金になります」

「隠し続けても始まる。ならば、銃が卓の下にあることを全員に見せるしかない」

「あなた一人が決めることじゃない」

「一人ではない」

 怜司は乗員を見回した。

「参加を拒む者は、救難艇で退艦させる。拒んだ者を処罰させないため、私が航海記録に強制命令と残す。残る者には、反乱者になる覚悟を求める」

 最年少の通信員が震える声で尋ねた。

「成功したら、どうなるんです」

「私は逮捕される。おそらく終身刑だ」

「失敗したら?」

「海底で死ぬ」

 怜司は、そこだけは微笑まなかった。

 十分後、退艦を望む者はいなかった。

 忠誠心ではない。怜司への崇拝でもない。

 たぶん、全員が知っていたのだ。

 何も知らなかった頃には戻れない、と。

 私は最後まで署名しなかった。

 乗員たちが発令所を出たあと、怜司と二人きりになった。

「止めるなら今だ、真尋」

 七年ぶりに、彼は私の名を呼んだ。

「副長として命令してください。私は従います」

「昔から、そういう逃げ方をする」

「逃げたのはどちらです」

 怜司の眉がわずかに動いた。

「関係を終わらせたのは、あなたです。正しい判断だと言って。今度は世界を救うためだと言って、また一人で決めるんですか」

「私情を持ち込むな」

「持ち込ませたのはあなたでしょう。私を副長に指名した」

「君なら、私が間違えたときに止める」

「止めてほしいなら、最初から反乱などしないでください」

 怜司は艦長席から立ち、私の前まで来た。

 近い。制服越しに、彼の体温を思い出す距離だった。

「私は、止めてほしいんじゃない」

「では、なぜ」

「最後まで見ていてほしい」

 その言葉は、命令より残酷だった。

 私は署名端末に指を置いた。

「了解しました、艦長」

 署名欄に、雪宮真尋と記した。

 国籍識別を切って十一分後、三つの国から同時に通信が入った。

 帰投命令。

 機関停止命令。

 応答なき場合は撃沈する、という警告。

 怜司は一つだけ返信した。

「本艦は大量破壊兵器を搭載していない。保有するのは、その存在を証明する情報のみである。皇海溝への接近を妨害した場合、情報は自動公開される」

 世界は、その声明を脅迫と受け取った。

 正しかったと思う。

 善意で引かれた銃の引き金も、銃口から見れば脅迫でしかない。

 四時間後、無人潜航機が七機、私たちを追尾し始めた。

 《しじま》は海溝の斜面へ潜り込み、音もなく深度を下げた。岩壁との距離は最小で二十七メートル。通常なら自殺行為だが、怜司はためらわなかった。

「右十。降下角二」

 命令のたび、艦は巨大な崖の凹凸を縫った。

 私は海図と水圧を読み、彼より半秒早く次の針路を予測した。

 昔、訓練艇で組んだ頃と同じだった。

 私が海を測り、怜司が切り裂く。

 言葉がなくても、互いの呼吸で分かった。

「敵機、三番と四番が接近。魚雷投下」

「囮を出すな。雑音になる」

「回避できません」

「できる。左二十、機関停止。惰性航行」

 推進が止まった。

 艦内の空調音まで落ち、完全な静けさが訪れた。

 二本の魚雷が近づく。

 探知画面の赤点が、私たちの位置へ収束する。

 距離八百。

 五百。

 三百。

「艦長」

「待て」

 百五十。

「今だ。急速注水、艦首下げ二十五!」

 《しじま》は落ちた。

 魚雷は直前まで存在したはずの深度を交差し、岩壁へ衝突した。爆発が海溝を揺らす。地震のような衝撃が船体を殴った。

 照明が明滅した。

 そして、すべての音響画面が同じ波形を描いた。

 短、短、長。

 短、長、短、短。

 私の名ではなかった。

 今度は、乗員全員の名だった。

 四十一人の名が、重なり合わず、順番に呼ばれていた。

「送信源を特定」

 私は命じた。

 音響員は青ざめたまま首を振った。

「周囲全部です。海水そのものが鳴っています」

 発令所後方で、通信員が突然立ち上がった。

「兄さん」

 彼は何もない隔壁を見つめていた。

「兄さんが、帰ってこいって」

「座れ」

 私が肩をつかむと、通信員は子供のような顔で笑った。

「副長にも聞こえるでしょう。みんな、下にいるんです」

 次の瞬間、艦内の全スピーカーから声が流れた。

 それぞれ違う声だった。

 母親。

 亡くなった友人。

 幼い子。

 別れた恋人。

 私の耳には、七年前の怜司の声が聞こえた。

 ――真尋。いつか、戦争を止める艦を造る。

 私は反射的に振り向いた。

 現在の怜司は艦長席にいた。

 顔色を失い、私を見ていた。

 彼にも聞こえている。

「全員、耳栓。内部通信を遮断」

 私の命令に、怜司が重ねた。

「深度維持。針路、七号へ」

「艦長、引き返すべきです」

「上には追跡機がいる。通信塔までは九海里だ」

「これは七号の防御装置ではありません」

「分かっている」

「なら、なぜ」

 怜司は前方表示を指した。

 海底地形図に、存在しないはずの直線が現れていた。

 斜面の下、さらに深い場所。

 幅三キロにわたって、完全な円弧が描かれている。

 自然にはあり得ない形だった。

「七号は、あれの上に建てられている」

 深度九千八百。

 前方カメラが、海底に立つ柱を捉えた。

 黒い柱だった。

 玄武岩に似ているが、表面は濡れた金属のように光を吸い込んでいる。一本が《しじま》の全長より高く、それが数百本、正確な間隔で並んでいた。

 柱列の奥に、門があった。

 門と呼ぶしかない。

 左右の柱は上方で交わっているように見えたが、測距値では無限に離れていた。中央の暗がりは平面にも穴にも見え、見る角度を変えるたびに遠近が反転した。

 カメラ担当が吐いた。

 音響員は、自分の両目を手で覆った。

「映像を切れ」

 私が命じた。

「切れません」

「電源を落とせ」

「電源が、向こうから入っています」

 主表示器に文字が浮かんだ。

 カ エ レ

 通信員が泣き出した。

「帰れと言っているのか」

 機関長が呟くと、文字が変わった。

 カ エ レ

 ワ レ ワ レ ニ

 隔壁の向こうから、何かが船体を撫でた。

 金属をこする音ではない。

 もっと柔らかく、巨大な指が水ごと私たちを確かめているような感触だった。

 私は怜司の腕をつかんだ。

「浮上しましょう」

「七号は門の内部だ」

「任務は破棄です」

「公開しなければ、《環礁計画》は残る」

「ここにあるものを世界へ接続するつもりですか」

「接続はしない。七号の送信設備だけを使う」

「区別できる保証がない」

「保証など、最初からない」

 その返事に、怒りが込み上げた。

「あなたはいつもそうだ。失うものを自分一人の命だと思っている」

「艦長として、全乗員の命を預かっている」

「違う」

 私は彼の制服をつかみ、声を落とした。

「私のことを言っている」

 周囲の乗員が見ていた。

 構うものかと思った。

「あなたが死ねば、私はまた置いていかれる。七年前と同じように。世界のためなら、私が何を失ってもいいと思っている」

 怜司の瞳が揺れた。

「真尋」

「その名で呼ぶなら、答えてください。私をこの艦に乗せたのは、優秀な副長だからですか。それとも、最後にそばにいてほしかったからですか」

 警報が鳴った。

 いや、鳴ろうとして、音にならなかった。

 発令所から音が消えた。

 空調が動いている。

 乗員が叫んでいる。

 誰かが床に工具を落としている。

 なのに、何も聞こえない。

 完全な沈黙だった。

 耳を塞がれたのではない。

 音という現象そのものが、艦内から奪われていた。

 その静寂の中で、声がした。

 鼓膜ではなく、骨の内側に。

 ――名があるから、失う。

 乗員たちが一斉に動きを止めた。

 ――声があるから、争う。

 ――境があるから、恐れる。

 ――ひとつになれば、すべては終わる。

 主表示器に、地上の映像が映った。

 ミサイル基地。

 空母。

 都市。

 議会。

 家庭。

 笑う人々。

 次の瞬間、全員が同じ表情になった。

 穏やかに微笑み、同じ方向を向き、同じ呼吸をする。

 戦争はない。

 嘘もない。

 別れもない。

 個人が、存在しないからだ。

 ――門を開け。

 ――おまえたちの網を、われらの声にせよ。

 ――海から陸へ、静けさを満たせ。

 七号の送信塔が起動した。

 《しじま》の通信系統が、勝手に接続を始める。

 進捗一パーセント。

 二パーセント。

 私は緊急遮断レバーへ手を伸ばした。

 腕が動かなかった。

 隣で、怜司だけが立っていた。

 彼は門を見ていた。

 その顔には恐怖ではなく、深い疲労が浮かんでいた。

 ――望んだのだろう。

 ――戦争のない世界を。

 怜司の唇が動いた。

 音はない。

 それでも、何を言ったか分かった。

 そうだ、と。

 進捗十二パーセント。

 私は床に膝をついた。

 体の輪郭が薄れていく。

 自分の記憶が、誰かの記憶と混ざり始めていた。

 通信員の兄。

 機関長の娘。

 音響員が幼い頃に飼っていた犬。

 私の中に、知らない人生が流れ込む。

 そして、怜司の記憶も。

 防波堤の夜。

 雨に濡れた私の髪。

 初めて私に触れる直前、彼がひどく怯えていたこと。

 卒業前夜、私が眠ったあとも、朝まで私の顔を見ていたこと。

 別れを告げた日の帰り、駅のトイレで吐いたこと。

 《しじま》の副長候補名簿で私の名を見つけ、三日間、指名書に署名できなかったこと。

 ――最後まで見ていてほしい。

 あれは、死を見届けてほしいという意味ではなかった。

 一人ではできない、と。

 彼はそう言えなかったのだ。

 進捗二十一パーセント。

 私は指先を動かした。

 一センチ。

 さらに一センチ。

 怜司の足首に触れた。

 彼が私を見下ろす。

 瞳の奥に、門の暗闇が映っていた。

 私は声にならない声で言った。

 怜司。

 彼は首を振った。

 ――これなら、誰も死なない。

 違う。

 ――誰も君を奪わない。

 違う。

 ――君と分かれずにすむ。

 それは、私ではない。

 私は立ち上がった。

 自分のものではない記憶の濁流をかき分け、怜司の胸ぐらをつかんだ。

 そして、口づけた。

 優しいものではなかった。

 歯が当たり、唇が切れた。

 塩の味がした。

 深海一万メートルで、世界から音が消え、得体の知れないものが人類を呑み込もうとしているときにする口づけではなかった。

 だからこそ、よかった。

 整然としていない。

 完全ではない。

 痛くて、息苦しくて、相手が何を考えているか分からない。

 それが、私たちだった。

 怜司の手が、私の背に回った。

 ほんの一瞬、強く抱きしめられた。

 その瞬間、二人の心拍がずれた。

 門が揺らいだ。

 ――なぜ、同じにならない。

 怜司の瞳から暗闇が引いた。

 音が戻った。

 最初に聞こえたのは、彼が息を吸う音だった。

「真尋」

「返事はあとです」

 私は彼を突き放し、緊急遮断レバーを引いた。

 火花が散り、接続進捗が二十七パーセントで止まる。

 だが、七号側の回線は生きていた。

 門から伸びた黒い影が、外殻を這い、送信塔へ絡みついている。

「物理的に共振を切る必要があります」

 私は音響卓を見た。

《しじま》の無響制御が、向こうの信号を増幅している。静かすぎるんです、この艦は」

 怜司は一秒で理解した。

「なら、逆にする」

 彼は全艦放送を入れた。

「総員に告ぐ。無響制御を停止。全補機、最大出力。推進器を過回転させろ。配管を叩け。工具を落とせ。歌ってもいい。何でもいいから音を出せ」

 乗員たちはまだ半ば夢の中にいた。

 怜司は艦長席に立ち、怒鳴った。

「名前を言え!」

 全員が彼を見た。

「自分の名前だ。好きなもの、嫌いなもの、帰りたい場所、許せない相手、何でもいい。ばらばらに喋れ。決して揃えるな!」

 最初に声を出したのは、通信員だった。

「安西航太! 兄貴のカレーは世界一まずい!」

 機関長が続いた。

「森崎吾郎! 娘の結婚相手が気に入らん!」

 誰かが笑った。

 別の誰かが故郷の駅名を叫んだ。

 音響員は飼っていた犬の名を何度も呼んだ。

 調理員が覚えている限りの魚の名前を早口で並べた。

 補機が唸り、ポンプが振動し、配管が金属音を撒き散らす。

 推進器が水を切り裂き、激しいキャビテーションを起こした。

 世界で最も静かな艦が、世界で最もうるさいものになった。

 門の形が崩れ始めた。

 ――やめよ。

 ――分かれるな。

 ――孤独に戻るな。

 私は艦内放送の送話器を取った。

「雪宮真尋」

 自分の名が、発令所に響いた。

「篠宮怜司を愛している。七年前から、一日もやめたことがない。勝手に別れを決めたことは、今でも許していない。それでも、生きて隣にいたい」

 乗員の叫びが、一瞬だけ止まった。

 怜司が私を見た。

 艦長としてではなく、一人の男として。

 彼も送話器を取った。

「篠宮怜司」

 声が震えていた。

「雪宮真尋と、生きたい」

 艦内に歓声が上がった。

 門が、初めて悲鳴を上げた。

「緊急浮上!」

 怜司の命令で、全バラストタンクが一斉排水された。

 《しじま》は艦首を上げた。

 外殻にまとわりついた影が、船体を下へ引く。

 深度九千九百。

 上昇率、毎分十二。

 遅すぎる。

「前進最大!」

「推進器がもちません!」

「三分もたせろ!」

 振動で計器の数字が読めない。

 右舷外板が軋み、区画の一つで浸水警報。

 門は崩れながらも、なお私たちを見ていた。

 見る。

 そうとしか表現できない。

 目はない。顔もない。

 だが海溝全体が、一つの視線だった。

 ――おまえたちは、また争う。

「そうだろうな」

 怜司が答えた。

 ――憎み、奪い、殺す。

「それでも、選ぶのは私たちだ」

 ――やがて、静けさを望む。

「そのときも断る」

 ――なぜ。

 怜司は私を見た。

「呼べば、返事をする者がいるからだ」

 深度八千五百。

 影が船尾を締めつけた。

 推進器回転が急落する。

「艦尾区画、外板変形!」

「切り離しボルトを作動」

「艦長、推進部を捨てたら海面まで届きません」

「門にくれてやれ」

 爆発ボルトが作動した。

 後部推進ユニットが船体から離れ、影ごと深海へ落ちていく。

 《しじま》は残った浮力だけで上昇を続けた。

 深度七千。

 七号の送信塔が視界から消える直前、私は通信卓に残った回線を見た。

 公開用データパケットは、まだ送れる。

 ただし送信すれば、門との接続が再び開く危険がある。

「艦長」

 私が迷っていると、怜司は首を振った。

「送る」

「危険です」

「門の信号は切れた。今なら人間の情報だけを載せられる」

「確証はありません」

「君はどう思う」

 初めて、彼は決定を私に委ねた。

 私は波形を確認した。

 規則的な無音の谷は消えている。

 残っているのは、乗員の叫びと機械音、二人分の乱れた心拍だけだった。

「送信しましょう」

「了解した、副長」

 データを圧縮し、浮上ブイへ転送する。

 設計図。

 参加国名。

 発射権限。

 標的改竄の記録。

 そして、私たちの全航海記録。

 送信完了。

 海上で待ち構える艦隊へ、世界中の報道機関へ、同時に放たれた。

 その直後、《しじま》は全電源を失った。

 暗闇の中で、私たちは上昇した。

 誰も黙らなかった。

 歌を知っている者は歌い、知らない者は話し続けた。

 恋人の愚痴。

 故郷の祭り。

 借金。

 初恋。

 食べたいもの。

 生きて帰ったら謝りたいこと。

 私は怜司の隣に座り、肩を触れ合わせていた。

「さっきの返事」

 暗闇で、彼が囁いた。

「まだ聞いていません」

「艦内放送で言った」

「あれは航海命令の一部です」

「厳しい副長だな」

「七年待ちましたから」

 怜司の手が、床の上で私の手を探した。

 指が触れ、絡む。

「生きて海面に出たら言う」

「約束です」

「ああ」

 深度三千。

 二千。

 千。

 最後の百メートルで、下方から一度だけ、あの符号が届いた。

 短、短、長。

 短、長、短、短。

 私の名。

 私は艦底を見下ろした。

 暗闇しかなかった。

「どうした」

「何でもありません」

 そう答え、怜司の手をさらに強く握った。

 《しじま》が海面に出たとき、夜明けだった。

 周囲には五か国、十三隻の艦艇がいた。

 上空には哨戒機。

 こちらに向けられた砲口と、発射準備状態の対艦ミサイル。

 だが、誰も撃たなかった。

 のちに知ったことだが、私たちが門に接触していた二十七分間、太平洋全域で音響通信が消失していた。

 鯨の歌も、地震波も、艦艇の機関音も、海中では観測されなかった。

 五つの艦隊は互いを探知できず、攻撃命令を受けても、誰も引き金を引けなかった。

 世界は沈黙によって平和になったのではない。

 ただ、恐怖で動けなくなっただけだった。

 発令所に電力が戻ると、国際周波数で降伏勧告が届いた。

 怜司は艦長帽をかぶり直した。

「全員、私の強制命令に従ったと証言しろ」

 機関長が鼻で笑った。

「艦長、往生際が悪い。反乱参加の署名は全世界に送信済みです」

「削除したはずだ」

「副長が復元しました」

 怜司が私を見る。

「雪宮」

「記録の改竄は規則違反です」

「反乱の最中に規則を持ち出すな」

 乗員が笑った。

 泣きながら笑う者もいた。

 怜司はしばらく目を閉じ、それから通信を開いた。

「こちら深海戦略潜航艦《しじま》。本艦は航行能力を失った。乗員四十一名、生存。武装なし。抵抗の意思なし」

 声は静かだった。

 しかし、もうあの門の静けさとは違った。

 疲れ、迷い、痛みを含んだ、人間の声だった。

「全責任は艦長、篠宮怜司にある。乗員の安全を保証されたい」

 返信はすぐに来た。

「了解した。《しじま》乗員は甲板に出よ。両手を見える位置に置け」

 ハッチが開く。

 朝の光と、風と、波の音が艦内へ流れ込んだ。

 海が、こんなにうるさいものだとは知らなかった。

 甲板へ上がる直前、怜司が私を呼び止めた。

「真尋」

「はい」

 彼は周囲を見た。

 乗員たちは先に上がり、発令所には私たちしかいない。

「海面に出た」

「出ましたね」

「約束の返事をする」

 怜司は私の頬に手を添えた。

 七年前より少し硬くなった指。

 唇には、深海で私がつけた傷が残っている。

「愛している」

 それだけだった。

 世界を救う声明より短く、

 反乱を告げる命令より小さく、

 けれど私には、どんな警報より鮮明に聞こえた。

「遅いです」

「すまない」

「一生かけて償ってください」

「刑期がそれより長いかもしれない」

「なら、面会に行きます」

 私は彼の襟を引き寄せ、今度はゆっくり口づけた。

 上から機関長の声が飛んだ。

「艦長、副長! 敵前でいちゃつくなら手短に!」

 私たちは笑った。

 笑いながら、甲板へ出た。

 事件から十一か月が過ぎた。

 《環礁計画》は公表され、参加国の三政権が崩壊した。

 海底施設の解体を定める条約交渉は続いている。

 すべての核兵器が消えたわけではない。

 戦争も、嘘も、別れも、世界からなくなっていない。

 皇海溝は「広域地殻変動の危険」を理由に封鎖された。

 公式調査報告書は、私たちが見た構造物を自然の柱状節理と説明している。

 音響記録の大半は破損。

 門の映像は一枚も残っていない。

 篠宮怜司は、艦の不法占拠、命令違反、国家機密漏洩その他十四件で起訴された。

 私も共同正犯として同じ法廷に立つ。

 判決は明日だ。

 夕方、拘置施設の面会室で怜司に会った。

 机を挟んで向かい合い、監視員の前で十五分だけ話す。

「後悔しているか」

 私が尋ねると、怜司は考えた。

「反乱は、もっと別の方法があったかもしれない」

「口づけのほうは?」

「七年早くするべきだった」

「同感です」

 机の下で、彼の靴先が私の靴先に触れた。

 それだけの接触が、ひどく愛しかった。

「真尋」

「何です」

「判決がどうなっても、生きよう」

 私は頷いた。

「あなたが一人で決めなければ」

「二人で決める」

 面会終了のベルが鳴る。

 椅子を引く音。

 鍵の音。

 監視員の咳。

 廊下の向こうで、誰かが名を呼ばれて返事をする声。

 世界はうるさかった。

 不完全で、ばらばらで、ときに耐えがたいほど騒がしい。

 だから私は、この世界を選ぶ。

 名を呼べば、返事をする者がいる世界を。

 ただし、今も眠りに入る直前、遠い海の底から符号が届くことがある。

 短、短、長。

 短、長、短、短。

 私の名。

 続いて、別の名。

 篠宮怜司。

 あれが門の記憶なのか、私自身の恐怖なのかは分からない。

 それでも私は、暗闇に向かって必ず答える。

 ここにいる、と。

 彼もいる、と。

 そして、私たちはまだ、別々の人間として愛し合っている、と。