『火輪王の十三番目の嘘』

 火を信じる者は三種類いる。

 暖を取る者。神を呼ぶ者。そして証拠を燃やす者。

 風村鷹彦は、自分を四種類目だと思っていた。

 火に値段をつける者だ。

一 祇園、黒い競売

 昭和九年、四月。

 雨の京都は、濡れた獣の背中に似ていた。

 八坂の塔が霧に溶ける午前零時、祇園甲部の外れにある焼け跡では、九人の金持ちが仮面をつけて地下へ降りていた。

 焼け残った織物倉の床板を剥がし、石段を二十三段。さらに、白檀の煙が流れる廊下を右、左、右。

 その先に「黒蓮会」の競売場があった。

 壁は煤け、天井からは赤い絹が垂れている。中央の黒曜石の台に、掌ほどの銅板が置かれていた。

 黒い。銅でありながら、光を吸っていた。

「第七号。火神アグニの〈黒銅の舌〉

 白い狐面をつけた競売人が告げた。

「後期ヴェーダ期。失われた祭祀王国ヴリトラコータより出土。王が天則リタに背いたとき、王宮を焼き、七本の川を地の底へ隠したと伝わる祭具でございます」

 仮面の客たちが息を呑んだ。

 その半分は息を呑む練習をしてきた役者だったが、一人だけ、本物の欲望を喉に詰まらせた男がいた。

 星名朔月。

 鉱山、汽船、軍需工場を傘下に持ち、戦乱のたびに古物の蒐集品が増えると噂される実業家である。

 痩せた長身を黒い紋付に包み、右目には単眼鏡。左手の人差し指には象牙の印章指輪を嵌めていた。

 風村は、その指輪を見るために、三か月と二万四千円を費やしていた。

「売り手に質問がある」

 星名が言った。

 競売人の横に立っていた風村は、白い麻の背広の襟を直した。右手には黒檀の杖。銀の石突は鈎になり、杖の内部には十間の絹索が仕込んである。

「偽物ではない証拠を、と仰るので?」

「偽物でない古物など、退屈で仕方がない。私が訊きたいのは、どれほど上等な偽物かだ」

 ざわめきが起きた。

 風村は笑った。

「では、上等さをご覧に入れましょう。〈黒銅の舌〉は、それだけでは喋りません。王の印に触れたときだけ、火の記憶を吐く」

「王の印とは?」

「ヴリトラコータ最後の祭官が国外へ持ち出した、象牙の印章です」

 星名の単眼鏡の奥で、瞳が一度だけ縮んだ。

 風村は見逃さなかった。

 客席の最後列で、銀鼠のヴェールを垂らした女が扇を閉じた。

 レーヴァティ・センからの合図だった。

 星名はゆっくりと左手を台に置いた。

「この指輪のことかね」

 象牙の印面には、羽根を広げた鷹と、三つに裂けた稲妻が彫られていた。

 風村は初めて見る顔をした。

「まさか。どこでそれを?」

「カルカッタで、死にかけた学者から買った」

 レーヴァティの扇が、ぎり、と鳴った。

 死にかけた学者とは、彼女の父バイラヴ・セン博士である。

 買った、というのも嘘だった。

 星名は買うときに領収書を求める男だ。死体から奪うときには求めない。

「試してみるかね」

 星名は印章を銅板へ押し当てた。

 その瞬間、天井の灯が落ちた。

 暗闇の中で、女たちが悲鳴を上げる。

 赤い火が一筋、銅板の表面を走った。

 壁いっぱいに、黄金の線が浮かび上がった。

 七本の川。鷹の形をした祭壇。蛇のように曲がる地下道。そして中央に、六つの穂先を持つ雷杵ヴァジュラ。

 もちろん仕掛けだった。

 銅板の裏に塗った燐光顔料。天井裏の幻灯器。星名が指輪を置いた圧力で、レーヴァティが糸を引いた。

 地図そのものも、セン博士の手帳をもとに風村が描いた偽物である。

 星名は笑わなかった。

 笑う代わりに、黒曜石の台へ身を乗り出した。

「ヴリトラコータは実在する」

「競売は五万円から」

「十万」

 役者の客たちが、台本どおり競り上げる。

「十二万」

「十五万」

「二十万」

 星名は一息で言った。

「五十万」

 場が静まった。

 風村は胸の内で口笛を吹いた。

 この男は遺物を買うのではない。世界の値札を、自分の名札に貼り替えたいのだ。

 競売人が木槌を上げた。

「五十万円。ほかに――」

 そのときだった。

 星名の背後に立っていた護衛の黒川が、喉を押さえた。

「旦那……煙が」

 煙など出ていなかった。

 少なくとも、風村たちが用意した煙は、まだ床下の筒に入っていた。

 黒川の影が、壁から剥がれた。

 平たい黒い染みが、紙から抜け出すように起き上がった。頭があり、肩があり、腕が四本あった。顔に当たる場所には、赤い炭火が三つ灯っている。

 それは黒川の鼻と口へ流れ込んだ。

 男の身体が、内側から一度だけ膨らんだ。

 次の瞬間、黒川の背広は人の形を失い、床へ崩れた。

 袖口と襟から、まだ温かい灰が溢れた。

 悲鳴が本物になった。

「レーヴァティ!」

「私じゃない!」

 銀鼠のヴェールを投げ捨て、褐色の肌の女が椅子を蹴った。腰まである黒髪は、男物の帽子の中へ器用にまとめられている。

 星名は銅板を掴もうとした。

 風村の杖が先に伸びた。

 銀の鈎が銅板の穴へ掛かり、黒い板が宙を滑って風村の手へ収まる。

「五十万円は前金で結構!」

 風村は床へ小瓶を叩きつけた。

 今度こそ、彼らが用意した煙が噴き出した。胡椒、石灰、糖蜜。目にも鼻にも、そして高価な紋付にも悪い。

 レーヴァティが天井の赤絹を引いた。

 隠してあった滑車が回り、二人の身体を吹き抜けへ吊り上げる。

 下で星名が咳き込みながら叫んだ。

「風村鷹彦! インドで会おう!」

「招待状は豪華な紙で頼む!」

 風村は天窓を杖で砕いた。

 二人は雨の屋根へ飛び出した。

 瓦が滑る。銃声が三つ。

 風村は棟を走り、隣家との間に杖の絹索を渡した。レーヴァティが先に滑り、風村が続く。

 背後で、黒蓮会の地下から赤い火柱が上がった。

 仕掛けた火ではなかった。

二 嘘つきたちの急行

 五条坂の陶器工房、その窯の裏に二人の隠れ家があった。

 レーヴァティは男物のシャツに着替え、濡れた髪を手拭いで乱暴に拭いた。二十七歳。カルカッタの幻術劇場で育ち、十六で金庫破りを覚え、十九でサンスクリットの修士号を取った女である。

「影の化け物まで雇った覚えはないわ」

「俺だって、あんな演技の下手な影は使わん」

「黒川は死んだ」

「ああ」

 冗談が一つ、火の消えた窯へ落ちた。

 風村は濡れた銅板を机に置いた。

 表面に、競売場ではなかった文字が浮いている。煤が細い線を作り、幾何学模様の隙間を埋めていた。

 レーヴァティがランプを近づける。

「ブラーフミー文字より古いわ。文字というより祭壇の組み方。父の手帳にあった記号と同じ」

「読めるか」

「少しだけ。『水なき川で、灰の王は待つ』……その下は、『偽りの誓いが喉を開く』」

「縁起がいい」

「どこが」

「星名は誓いも挨拶も、だいたい偽物だ」

 レーヴァティは風村を睨んだ。

「今夜、あなたは何回嘘をついたと思う?」

「十二回」

「十三回よ」

「最後の一つは?」

「黒川が死んでも平気な顔をした」

 風村は煙草を咥えたが、火をつけなかった。

「お互い様だ。星名が父親の話をしたとき、君は手を震わせなかった」

「私は女優よ」

「俺は嘘つきだ」

 外で寺の鐘が鳴った。

 レーヴァティは銅板の縁を指でなぞった。

「星名は父から指輪を奪った。父の手帳には、指輪が最後の扉を開くとある。私たちだけでは入れない」

「だから見せてもらった。次は持ってきてもらう」

「彼が私たちを殺さず、案内人として使う保証は?」

 風村は机の茶筒を開けた。

 中には茶葉ではなく、黒い封筒が入っていた。

 金泥で、鷹と稲妻の紋章。

「招待状が来てる」

 レーヴァティが封を切った。

 便箋には一行だけ。

 ――神戸港、四月二十日。逃げるなら、足の速い船を選べ。

「尾行された?」

「尾行させた」

「聞いていない」

「十三番目の嘘だ」

 レーヴァティは便箋を丸め、風村の額へ投げた。

 二十六日後、二人はボンベイからデカン高原へ向かう夜行急行に乗っていた。

 星名朔月が一等車を一両ごと借り切っていた。

 同行者は六人。日本人の護衛が三人、測量技師が一人、無線技師が一人。そしてインド考古局の監察官を名乗るアショク・ダス。

 ダスは丸い眼鏡をかけた小柄な男で、星名から渡された封筒を無表情に内ポケットへ入れた。

「賄賂を受け取る役人は信用できる」

 星名が言った。

「値段が明瞭だからだ」

 ダスは答えた。

「賄賂を渡す商人も信用できます。罪状が明瞭ですから」

 星名は一拍置いて笑った。

 風村は、その一拍を気に入った。

 食堂車では、真鍮の扇風機が生温い風を掻き回していた。窓の外を、赤い大地と黒い樹木が流れていく。

 星名はポーカーを好んだ。

 風村は、星名に勝たせることを好んだ。

 三時間で、風村は現金二千円と懐中時計を失った。

「トレジャーハンターは博打が下手だな」

「宝探しは、山札を自分で作れる博打ですから」

「ヴリトラコータも、君の作った山札か?」

 星名はカードを切りながら訊いた。

「地図は本物です」

 レーヴァティが窓際で小さく咳をした。

 嘘を一つ数えた合図だった。

 星名は象牙の指輪を撫でた。

「セン博士もそう言った。彼は扉の手前まで行ったが、臆病になった。学者はいつも、真理の前で足がすくむ」

「父は臆病ではありません」

 レーヴァティが言った。

「では、なぜ死んだ?」

 車輪の音が、短く途切れた。

 風村はカードを伏せた。

「その話は、俺の取り分を三十五パーセントにしてからだ」

「二十だ」

「三十が案内料。五が無礼料」

「君は自分の命に高い値をつける」

「安売りすると、買い手が粗末に扱う」

 星名は契約書へ三十五と書き込んだ。

 レーヴァティがまた咳をした。

 今度は嘘を数えたのではない。

 笑いを隠したのだ。

 急行は翌朝、名もない小駅で止まった。

 線路の先が、洪水で流されていた。

 駅長は、修復に三日かかると言った。

 星名は二時間で象を三頭、牛車を四台、荷運び人を二十人集めた。

 金は奇跡を起こす。

 ただし、奇跡の所有権まで買えると思う者は、たいてい罰当たりである。

 一行は西へ向かった。

 空には、季節より早い雨雲が集まり始めていた。

三 七本目の川

 ヴリトラコータは、地図の上にはなかった。

 地図の外にもなかった。

 赤い断崖が半円を描く盆地。その底に、干上がった階段井戸が一つあるだけだった。

 石段は地中へ百尺も降り、底には水ではなく、白い骨のような塩が溜まっている。

「七本の川は?」

 星名が訊いた。

 風村は盆地を囲む岩壁を指した。

「雨が降れば六本は見える」

「七本目は」

「見えないから七本目なんでしょう」

 星名の護衛、鮫島が拳銃の安全装置を外した。

「旦那をからかうな」

「からかっていない。地上にない川なら、地下にある」

 レーヴァティは階段井戸の底へ降り、塩の床に耳をつけた。

「水の音がする」

 誰も喋らなくなった。

 確かに、地の底で低い唸りが続いていた。

 水というより、大きな獣の寝息に近い。

 井戸の東壁には、馬を五頭並べた浮彫があった。馬の脚はすべて四本だが、影だけが三本しかない。

 風村は夕日を待った。

 赤い光が井戸へ差し込むと、五頭の馬の影が一つに重なり、鷹の形を作った。

 その胸の位置に、象牙の印章と同じ窪みがあった。

「指輪を」

「君に渡すと思うか」

「では、ご自分で」

 星名が印章を押し込んだ。

 石の奥で、乾いた歯車が回った。

 壁が左右へ割れ、冷たい風が吹き出す。

 風は、灰の匂いがした。

「父はここまで来た」

 レーヴァティが呟いた。

 風村は答えなかった。

 地下道は、焼き煉瓦で造られていた。

 床には三列、八枚ずつ、合計二十四枚の白い石板が並んでいる。その先には扉。左右の壁には、口を開けた石の馬。

 測量技師が棒で一枚目を押した。

 石の馬の口から、青銅の槍が飛び出した。

 棒は二つに折れた。

「二十四歩」

 レーヴァティが言った。

「三列、八音。ガーヤトリー韻律だわ」

「詩を踏んで渡れって?」

「祭壇そのものが詩なのよ。ヴェーダの祭官は、世界を音節で測った」

 石板には小さな印が刻まれていた。炎、風、雨、馬、太陽、月、空白。

「正しい順は?」

 星名が訊く。

 レーヴァティは眉を寄せた。

「父の手帳では、最初の句が欠けている」

 鮫島が風村の背へ銃口を押しつけた。

「歩け」

「学問への敬意が感じられないな」

 風村は一枚目へ足を乗せた。

 炎。

 何も起きない。

 二枚目は空白。三枚目は馬。四枚目は雨。

「何を基準に?」

 レーヴァティが訊いた。

「意味じゃない。傷だ」

 石板の縁には、長短の削り傷があった。

「長音と短音。詩を読めなくても、拍子は刻める」

 風村は杖で床を叩いた。

 短、長、長。短、短、長。

 レーヴァティが指を鳴らし、舞台の踊り手のように拍子を取った。

 二人は一歩ずつ進んだ。

 十七枚目で、背後の護衛が焦れて別の石を踏んだ。

 壁の馬が咆哮した。

 槍ではなく、床そのものが傾く。

 男の身体が黒い穴へ滑った。

 風村は反射的に杖を振った。

 銀の鈎が男の帯へ掛かる。

「引け!」

 レーヴァティとダスが絹索を掴んだ。

 三人で男を引き上げる。

 助けられた護衛は青ざめていた。

 星名は言った。

「余計なことをする。代わりはいくらでもいる」

「だからあんたは、代わりのない物ばかり集めるのか」

 星名は風村を見た。

「君も同じだ」

「俺は売る。あんたは閉じ込める」

「値段がつくものは、すべて檻に入っている」

 その声に応えるように、地下の奥で何かが笑った。

 扉が開く。

 向こうには、七本の水路があった。

 六本は乾いている。

 一番細い中央の溝だけ、黒い水が逆向きに流れていた。

「地下のサラスヴァティ」

 レーヴァティが囁いた。

「失われた七本目の川よ」

 星名は微笑んだ。

「川まで隠していたか、古代の王は」

 風村は黒い水を見た。

「隠したんじゃない。誰かに奪われないよう、喉の奥へ飲み込んだんだ」

四 灰は嘘を覚えている

 七本目の川に沿って、一行はさらに地中へ降りた。

 壁の浮彫には、稲妻を掲げる神と、川を抱えて丸くなる大蛇が刻まれている。

 神は雷杵ヴァジュラで蛇を打ち、閉じ込められた水を地上へ放つ。

「インドラとヴリトラ」

 レーヴァティがランプをかざした。

「けれど、変ね。勝ったはずの神の顔が削られている」

「次の王が、自分の顔を入れるためだ」

 星名が言った。

「神話とは、勝者が自分の肖像を嵌め込む額縁だよ」

 通路は広間へ出た。

 天井まで届く煉瓦の柱が、五重の輪を作っている。床一面に黒い灰。中央には石の火皿があり、火はないのに赤く光っていた。

 ダスが屈み、灰を指でつまんだ。

「乾いている。千年どころではない」

「触るな」

 風村が言うのと、灰が動くのは同時だった。

 黒い粉が床を走り、人の輪郭を作った。

 一体。二体。十体。

 顔のない灰人形が、柱の陰から立ち上がる。

 その口から、声がした。

「地図は本物です」

 風村の声だった。

 別の一体が言う。

「父は臆病ではありません」

 レーヴァティの声。

 さらに別の一体。

「賄賂を受け取る役人は信用できる」

 星名の声。

「こいつら、聞いていたのか」

「灰が言葉を吸ったのよ」

 無線技師が拳銃を撃った。

 弾丸は灰人形の胸を抜け、背後の柱へ当たった。

 灰は崩れ、すぐに別の形へ集まった。

「私は恐れていない!」

 技師が叫ぶ。

 灰人形が一斉に彼を向いた。

「私は恐れていない」

「私は恐れていない」

「私は恐れていない」

 十の口が同じ嘘を唱えた。

 灰が津波のように男へ殺到した。

 風村は男を引こうとしたが、指先が届かなかった。

 灰の波が引いたあと、床には無線機と靴だけが残った。

「嘘に寄ってくる」

 レーヴァティが言った。

「競売場でも、黒川が『煙が』と言った直後に襲われた。あのとき煙は出ていなかった」

「嘘をつかなければいいのか」

 鮫島が吐き捨てた。

 風村は彼を見た。

「俺たちには難しい注文だな」

 灰人形が近づく。

 風村は杖を構えたが、意味がない。

 赤い目が三つ、彼の顔を覗き込む。

 そして、セン博士の声で言った。

「鷹彦、先に行け。私はすぐ追いつく」

 胸の奥に、十年前の洞窟が開いた。

 崩れる天井。

 足を挟まれたセン博士。

 若い風村は助けを呼ぶために走った。

 いや、違う。

 最初の十歩だけは助けを呼ぶためだった。

 その後の百歩は、落盤の音が怖くて走った。

「博士は、間に合わなかった」

 風村の口から、いつもの言葉が出た。

 灰人形の腕が太くなる。

 レーヴァティが風村の頬を打った。

「本当のことを言って」

「今は説教の時間じゃない」

「灰に食べられるよりましよ!」

 風村は赤い三つの目を見た。

「俺は――」

 喉が乾いた。

「俺は、博士を置いて逃げた。助けを呼ぶためだけじゃない。怖かったからだ」

 灰人形が止まった。

 その輪郭が、風に吹かれるように薄くなる。

 レーヴァティは目を逸らさなかった。

「私は父の死を、星名を罠にかける道具として使った」

 彼女の前の灰も崩れた。

 ダスが静かに言った。

「私は賄賂を受け取った。証拠品としてだが、少し嬉しかった」

 彼の前の灰が、迷うように首を傾げてから崩れた。

 星名だけが黙っていた。

 灰人形が彼を囲む。

「何か本当のことを言え」

 風村が叫んだ。

 星名は単眼鏡を外した。

「私は、世界を所有したい」

 灰人形が一斉にひれ伏した。

 広間の奥で、巨大な石扉が開いた。

 レーヴァティの顔から血の気が引いた。

「偽りの誓いが喉を開く……」

「嘘で開く扉じゃなかった」

 風村は言った。

「自分にも隠していた本音で開く扉だ」

 星名は満足そうに微笑んだ。

「王に必要なのは、善ではない。迷いのない欲望だ」

 鮫島たちが銃を構え、風村とダスを囲んだ。

「ここまでご苦労だった」

「契約では三十五パーセントだ」

「契約は、守らせる力のある者だけが使える呪文だよ」

 星名はレーヴァティの肩へ手を置いた。

「君は来たまえ。父の最期を知りたいだろう」

 レーヴァティは動かなかった。

「彼を連れていけば、扉の罠を調べられる」

「風村はもう要らん。セン博士を見捨てた男だ」

 レーヴァティが風村を見た。

 その目には、十年分の怒りがあった。

 演技ではない怒りだった。

「父は、最後まであなたが戻ると信じていた」

「レーヴァティ」

「私は信じなかった」

 彼女は星名の腰から拳銃を抜いた。

 銃口を風村の胸へ向ける。

 星名が止めなかった。

「あなたを憎んでいた」

 銃声。

 風村の白いシャツに、赤い花が咲いた。

 彼は一歩下がり、開いた縦穴へ落ちた。

 杖の銀の石突が、最後に一度だけ光った。

五 鷹の形をした王宮

 石扉の向こうは、地下に造られた空だった。

 黒い天井に雲母が散り、星のように灯っている。

 広大な空間の中央には、五層の祭壇。

 上から見れば、翼を広げた鷹の形をしていた。

 祭壇を作る煉瓦の数は、一万八百。

 一年の一万八百ムフールタ――古い祭官たちが刻んだ、時間そのものだった。

 鷹の胸に、六つの穂先を持つ黒い雷杵が立っている。

 鉄でも石でもない。夜空を削って固めたような物質だった。

「ヴァジュラ」

 星名の声が震えた。

 欲望に震えたのではない。

 初めて、自分より古いものを前にして震えたのだ。

 祭壇の周囲には、黄金も宝石もなかった。

 あるのは水路、反射鏡、青銅の管、巨大な石の共鳴器。王宮というより、世界を一つの楽器にした機械だった。

 レーヴァティは壁の浮彫を読んだ。

「雷を地下へ導き、水を押し上げる装置……旱魃のとき、雨雲の電気を集めて七本の川へ流す」

「兵器にもなる」

 星名は雷杵へ近づいた。

「都市一つの上に雷を落とせる」

「父は、それを恐れて入口を隠した」

「だから死んだ」

 星名は平然と言った。

 レーヴァティの手が止まった。

「あなたが殺したのね」

「私は選択肢を与えた。彼は秘密を選び、自分の命を捨てた」

「それを殺したと言うのよ」

「言葉は好きに選べばいい。勝者が辞書を作る」

 祭壇の最上段に、円形の窪みがあった。

 星名は象牙の指輪を外し、窪みへ嵌めた。

 祭壇の煉瓦が、一枚ずつ赤く灯り始める。

 一、十、百、千。

 火の光が鷹の輪郭を描く。

 天井の奥で雷が鳴った。

 地上では、ついに雨が降り始めたのだ。

「雷杵を外せ」

 星名が命じた。

 レーヴァティは黒い雷杵へ絹布をかけた。

「素手で触れれば焼ける」

「父の手帳に?」

「ええ」

 嘘だった。

 彼女の指が、絹の下で動く。

 舞台で杯を鳩に替え、硬貨を花びらに替え、観客の腕時計を隣人のポケットへ移してきた指だった。

 黒い雷杵が祭壇から抜けた。

 同じ形の雷杵が、絹の下から祭壇へ戻った。

 星名は気づかなかった。

 人は、手品師の手を見ると思っているとき、たいてい自分の欲望を見ている。

「渡せ」

 レーヴァティが絹包みを差し出しかけたとき、祭壇の下から声がした。

「それは俺の三十五パーセントに含まれるか?」

 星名が振り向いた。

 風村鷹彦が、鷹の尾に当たる水路から這い上がってきた。

 白いシャツの胸は赤いままだったが、穴は開いていない。

 手には黒檀の杖。

 銀の鈎には、縦穴の壁から削れた石が付いていた。

「なぜ生きている」

「契約書を読んだか? 俺は撃たれて死ぬとは書いてない」

 風村は胸元から、潰れた豚の血袋と、平たい鉛の円盤を取り出した。

「舞台用の血糊。弾は蝋と石膏。列車で君がカードに夢中になっている間に、レーヴァティが弾倉を替えた」

 レーヴァティが肩をすくめた。

「あなた、五回も同じ拳銃を机へ置いたもの」

 星名の顔から、初めて余裕が消えた。

「鮫島!」

 銃声が返事をした。

 だが撃ったのは鮫島ではない。

 背後で拘束されていたダスが、袖に隠していた小型拳銃で鮫島の手を撃った。

 助けられた護衛が鮫島へ体当たりした。

 測量技師はランプを投げ捨て、出口へ走った。

 祭壇の火が一段強くなった。

 灰の広間から、黒い風が流れ込む。

 今度現れたものは、人の形ではなかった。

 何百もの灰人形が互いを喰い、絡まり、巨大な蛇の形になっていた。鱗の一枚一枚に口があり、これまで一行がついた嘘を繰り返している。

「地図は本物です」

「私は恐れていない」

「契約は守る」

「買った」

「父は臆病だった」

 灰の大蛇ヴリトラが祭壇へ巻きつく。

 星名はレーヴァティから絹包みを奪った。

「これさえあれば!」

 包みを開く。

 中には、黒い雷杵があった。

 京都の鋳物師が磁鉄鉱と黄鉄鉱を混ぜ、銅線を芯にして作った、精巧な偽物である。

「偽物だと?」

「上等でしょう」

 レーヴァティは本物の雷杵を、袖から風村へ投げた。

 星名は偽物を抱えたまま、祭壇の翼を駆け上がった。

 地上の雷が落ちた。

 青白い光が天井の雲母を走り、青銅管を伝い、鷹の祭壇へ集まる。

 銅線を仕込んだ偽の雷杵が、もっとも美しい導体になった。

 星名の身体を、稲妻が貫いた。

 一瞬、彼の影が壁いっぱいに広がった。

 王冠をかぶり、四本の腕を持つ黒い王の影。

 次の瞬間、影だけが壁に残り、星名朔月の姿は消えていた。

 床へ、象牙の指輪が落ちた。

 灰の大蛇が咆哮した。

「雷杵を戻して!」

 レーヴァティが叫ぶ。

 風村は鷹の胸へ走った。

 灰の尾が横薙ぎに迫る。

 ダスがランプの油を床へ撒き、火をつけた。

 炎の壁が一瞬だけ灰を押し返す。

「火は効くのか!」

「火に生まれた灰だ。親の言うことを聞くのは一瞬だけです!」

 風村は祭壇の窪みへ本物の雷杵を差し込んだ。

 入らない。

 黒い石の表面に、赤い文字が浮かぶ。

 レーヴァティが読み上げた。

「『王よ、汝の負債を名乗れ。返すべきものを持たぬ者に、水は従わない』」

「また本当のことを言えって?」

「古代人は面倒ね!」

 灰の大蛇が火を越えた。

 レーヴァティが祭壇へ手を置く。

「私は父の仇を討つために来た。遺跡を守るためだけじゃない。星名が死ぬところを見たかった」

 雷杵が半寸沈んだ。

 ダスが言う。

「私は法を守るために来た。しかし、星名の帳簿で昇進できるとも考えた」

 さらに半寸。

 二人が風村を見る。

「俺は金のために来た」

 雷杵が動かない。

 灰の大蛇が笑った。

 その無数の口が、風村の言葉を返す。

「金のため」

「金のため」

「金のため」

「鷹彦!」

 風村は歯を食いしばった。

「俺は……セン博士に、戻ると言った」

 十年前の落盤が、また胸の中で鳴った。

「戻れなかったんじゃない。戻るのが遅かった。俺はあの日から、遺跡へ潜るたび、次こそ誰かを置いて逃げないと決めていた」

 灰の大蛇の口が閉じていく。

「俺の負債は、博士に返せなかった一歩だ」

 雷杵が根元まで沈んだ。

 祭壇の一万八百枚の煉瓦が、同時に白く輝いた。

 鷹が羽ばたいた。

 正確には、鷹の形をした水路へ、地下の七本目の川が噴き上がった。

 水は祭壇を駆け、灰の大蛇を呑み込む。

 嘘を覚えた灰が、黒い濁流となって流れ去る。

 床が割れた。

 石の蓮台が水圧で持ち上がる。

「乗れ!」

 風村、レーヴァティ、ダス、負傷した護衛の四人が蓮台へ飛び乗った。

 蓮台は垂直の水路を上昇した。

 暗い岩壁が流れ、頭上に小さな光が見える。

 地鳴り。

 轟音。

 最後に、火輪王宮そのものが深く息を吐いた。

 四人を乗せた石の蓮は、干上がっていた階段井戸の底から、雨の中へ噴き上がった。

六 大仕掛けの勘定書

 夜が明けるころ、六本の滝が断崖を流れていた。

 七本目の川も、階段井戸の底へ澄んだ水を満たしている。

 ヴリトラコータの入口は崩れた。

 だが火輪王宮そのものは、さらに深い地中で生きているらしかった。ときおり、井戸の水面に青い火が走った。

 星名の部下で生き残った者たちは、ダスが呼んだ考古局警備隊に拘束された。

 風村は濡れた岩へ座り、レーヴァティに胸の包帯を巻かせていた。

「もう少し優しくできないか」

「撃たれていない人に包帯を巻くのは初めてなの」

「落ちたとき肋骨を打った」

「それは計画に入っていた?」

「計画では、もっと浅い穴だった」

 ダスが革張りの帳簿を抱えて近づいた。

「星名商会の密輸記録、武器取引、盗掘品の売買先。十年分です。これで五つの港と三つの博物館が大掃除になる」

 風村は帳簿を見た。

「よく、あいつが持ってきたな」

「持ってこさせたのは、あなたでしょう」

 レーヴァティが笑う。

 星名が競売場で見た黄金の地図。

 そこに並んでいた「古代文字」の半分は、星名商会が密輸品を分類する暗号だった。

 赤い三角は武器。

 二重丸は金。

 鷹は王侯の依頼品。

 黒い蛇は、口封じを意味した。

 星名は地図を解読するため、自分の帳簿を携えてきた。

 ヴリトラコータへ近づくほど、彼自身の犯罪記録が道案内になる仕掛けだった。

「最高の詐欺は、被害者自身に必要経費を払わせること」

 レーヴァティが指を折って数えた。

「京都の競売場、役者二十四名。神戸からボンベイまでの船賃。急行一等車。象三頭。牛車四台。食料、弾薬、測量器具。全部、星名持ち」

「列車の洪水も?」

 ダスが訊いた。

「線路を流したのは本物の雨です」

 風村が言った。

「駅長に三日と言わせたのは私たち」

 レーヴァティが続けた。

「星名なら二時間で出発すると読んでいた。あの道を選ばせるためよ」

「私への賄賂は?」

「本物」

「返却します」

「経費から差し引いておく」

 ダスは咳払いした。

「競売場の灰の怪物も、仕掛けだったのですか」

 笑いが消えた。

「違う」

 風村は階段井戸の黒い水を見た。

「俺たちの芝居は、あそこまで趣味が悪くない」

「黒川を殺した灰は、銅板に付着して京都まで来たのかもしれない」

 レーヴァティが言う。

「長い間、誰かの嘘を待っていた」

 風が吹いた。

 濡れた岩の上で、細かな灰が一筋だけ舞った。

 風村は煙草を取り出し、今度は火をつけた。

「星名は、俺たちが遺跡を探すために自分を利用したと思っていた」

「実際は?」

「遺跡の場所は、父の手帳でほぼ分かっていた」

 レーヴァティが言った。

「必要だったのは象牙の印章と、星名の帳簿。それから、父を殺したのが彼だと確かめること」

 ダスが帳簿を抱え直す。

「では、この遠征全体が、星名一人を釣るための餌だった」

「一人じゃない」

 風村は井戸を指した。

「俺たちも釣られた。古代の祭官は、欲深い王がいつか来ると知っていた。偽物の宝の噂を外へ流し、本物の装置へ王を誘い込む。何千年越しの詐欺だ」

 レーヴァティが目を細めた。

「では、勝ったのは誰?」

「胴元さ」

 空で雷が遠く鳴った。

 ダスは部下に呼ばれ、帳簿を持って立ち去った。

 二人きりになる。

 レーヴァティは革の小袋を風村へ放った。

「あなたの取り分」

 風村は重さを確かめた。

「軽い」

「三十五パーセントから、役者代、衣装代、幻灯器、偽ヴァジュラ、豚の血、弾丸の蝋、私の危険手当を引いた」

 袋を開ける。

 銀貨が二枚入っていた。

「二ルピー?」

「契約書をよく読まない詐欺師が悪い」

「星名の前金は五十万だぞ」

「半分は、火輪王宮の保全基金。半分は父の研究所を再建する」

「俺の研究所は?」

「酒場の勘定を研究しているでしょう」

 風村は銀貨を一枚、空へ弾いた。

 レーヴァティが受け取る。

「寺で俺を撃ったとき」

「何?」

「十三番目の嘘をついたな」

「どれのこと?」

「俺を憎んでいる、と」

 レーヴァティは銀貨を指の上で回した。

「それが嘘だったと、誰が言ったの?」

 風村は笑った。

 そのとき、小袋の底から黒い種が一粒、掌へ転がり出た。

 胡椒ほどの大きさで、表面に三つ裂きの稲妻が刻まれている。

 レーヴァティの笑みが止まった。

「それ、どこで拾ったの」

「知らん」

「王宮から何も持ち出していないでしょうね」

「もちろん」

 雨粒が掌へ落ちた。

 黒い種が割れ、青白い芽を出した。

 足元の灰が、かすかな声で囁いた。

「嘘」

 レーヴァティが十四を数えるように、指を一本立てた。

 風村は煙草を井戸へ投げ捨てようとして、思い直した。

 火を消し、吸い殻をポケットへ入れる。

 火を信じる者は三種類いる。

 暖を取る者。神を呼ぶ者。そして証拠を燃やす者。

 風村鷹彦は、その朝ようやく、自分が四種類目ではなかったと知った。

 火に値段をつける者などいない。

 値段をつけたつもりの者を、火がいつも最後に買うのだ。