『灰を飲む夜』
一 焦りの匂い
灰浜十三番街には、夜になると三種類の匂いが降りた。
海から来る塩。シャッターや非常階段から剥がれ落ちる古い鉄。そして、追いつめられた人間の焦り。
藤代カイは三つ目がいちばん嫌いだった。
焦りはたいてい、ガソリンと一緒にやって来る。
「そこで止まれ」
午前一時。閉店した魚屋の軒先で、カイは黒い作業服の男に声をかけた。
男はポリタンクを片手にしていた。胸には〈海堀都市開発〉の下請け会社の名札。反対の手には、火のついていない煙草が一本。
「夜間の防水工事だ。どけ、ガキ」
「防水剤にハイオク混ぜる会社、初めて見た」
男の眉が動いた。
カイの背後で、錆烏の連中がシャッターにもたれて笑った。錆烏は暴走族でも愚連隊でもない。十三番街で育ち、行き場をなくし、なんとなく夜に集まっている連中を、誰かがそう呼び始めただけだ。背中に同じマークもなければ、掟もない。
ただ一つ、街を燃やす奴は許さない。
「鼻が利くんだな」
低い声とともに、人垣が割れた。
海堀直臣が姿を見せた。黒いスーツに雨粒一つついていない。三十三歳。海堀都市開発の専務で、再開発計画〈ハーバー・クラウン〉の責任者。十年前まで十三番街で拳を振り回していた男でもある。
左の眉を横切る古い傷だけが、スーツからはみ出した過去だった。
「昔からだよ、直臣」
カイは言った。
「おまえの嘘は、いつもシンナー臭い」
直臣が笑う。その後ろで作業員たちが一歩前へ出た。
カイの隣では、玲汰が拳を鳴らした。ナナが工具袋から長いレンチを抜く。十七歳のピコは、携帯の録画ボタンを押した。
雨は細かった。喧嘩を始めるには、ちょうどいい細さだった。
「やめなさい」
声は、路地のいちばん奥から飛んできた。
古いワインバー〈十三月〉の扉が開いていた。真鍮の取っ手を握り、霞司玄蔵が立っている。
七十三歳。銀色の髪を後ろへ撫でつけ、真冬でも白いシャツの袖を二度だけ折る。十三番街でいちばん高い酒を売り、いちばん安い焼きそばを食べる老人だった。
「喧嘩をするなら、うちでやれ」
玄蔵は言った。
「ただし拳は使うな。今夜は舌で決着をつけてもらう」
玄蔵は三通の黒い封筒を掲げた。
一通をカイへ。一通を直臣へ。そして残る一通を、誰もいない雨の向こうへ向けるように持った。
「十三番街で、海堀がまだ買えていない土地は私の店だけだ。この店と地下蔵を取った者が、再開発の喉元を握る」
「いくらだ」直臣が尋ねた。
「金の話はしていない」
「土地の話は金の話だ」
「それしか味わえない舌だから、おまえは呼ばれたんだ」
玄蔵は咳をした。白いハンカチが口元を隠したが、引っ込めるとき、布の隅に赤い染みが見えた。
「明日の零時、地下でブラインド・テイスティングを行う。五つのグラス。産地、品種、年。最後の一杯だけは点数では決めない」
「誰が判定する?」とカイ。
「ワインがする」
直臣が鼻で笑った。
玄蔵は笑わなかった。
「勝者に、店と土地を譲る。私が明日まで生きていなくても、予定どおり始めろ」
その言葉どおり、霞司玄蔵は朝を迎えなかった。
カウンターの奥の椅子に座り、空のグラスを光へ透かすような姿で死んでいた。
テーブルには三人分の封筒が並んでいた。
カイ、海堀直臣。
そして三人目の名は、鹿浦ミオと書かれていた。
二 喧嘩の作法
鹿浦ミオは、葬儀の日の午後に東京から来た。
黒いコート、黒いパンプス、黒い革手袋。喪服というより、夜そのものを仕立てたような女だった。二十八歳。国内のコンクールで名を上げ、海外のレストランからも声がかかっているソムリエだと、商店街の誰かが調べてきた。
玄蔵の遺影へ一礼したあと、ミオはカイの顔を見て言った。
「あなたが藤代カイ?」
「そう」
「もっと怖い顔を想像してた」
「そっちは、もっと鼻持ちならない顔だと思ってた」
「想像どおりで安心したわ」
彼女は玄蔵の弟子だった。
十三年前、家出して灰浜へ流れ着いた中学生を、玄蔵が厨房の皿洗いとして拾った。ワインの勉強をさせ、東京の専門学校へ送り出した。だが、五年前に二人は決裂していた。
理由を聞いても、ミオは答えなかった。
玄蔵の遺言は、公証人の確認を受けていた。
零時に地下蔵を開け、三人で五つのワインを飲む。最初の四つは通常の採点。最後の一つについては、玄蔵が残した映像の指示に従う。全過程は固定カメラで記録され、結果に異議は認めない。
「じいさんは本気だったのか」
カイは空になった店内で尋ねた。
「いつだって本気よ。たちの悪いことに」
「俺はワインなんか知らない」
「玄蔵さんは知ってた」
「何を」
「あなたの舌を」
ミオはカウンターに四本の小瓶を並べた。どれもラベルが剥がされている。
「試すわ。嗅いで」
「葬式のあとに?」
「明日の夜、土地を取られたい?」
カイは一つ目の小瓶へ鼻を近づけた。
柑橘。冷たい石。遠くに、古いスクーターの燃料タンクを開けたときの匂い。
「レモン飴。雨上がりの歩道橋。あと、ガソリンスタンドの朝」
「リースリング。熟成すると石油を思わせる香りが出ることがある」
「悪くなってんじゃないのか」
「褒め言葉よ」
「面倒くせえ飲み物だな」
二つ目は、乾いた花と焦げた路面。
「葬式の花。夏のアスファルト」
「薔薇とタール。ネッビオーロの典型」
三つ目は湿った段ボール。
「倉庫の雨漏り」
「それは欠陥。コルク汚染」
四つ目で、カイは顔をしかめた。
「油性ペン。安い接着剤。中身より瓶の外が臭う」
ミオの目が細くなった。
「ラベルを貼り替えた偽造ボトルよ。中身は若い量産品」
「こんなのも試験に出るのか」
「玄蔵さんなら出す。ワインを当てるより、人間の見栄を当てるほうが好きだったから」
カイは鼻が利いた。
小学生のころ、母親の帰宅が遅い日は、玄関を開ける前から機嫌がわかった。化粧品の甘さに煙草が混じれば、職場で嫌なことがあった。消毒液が強ければ、病院で残業だった。中学から働いた看板工場では、塗料の銘柄を目隠しで当てた。
十六で錆烏の連中とつるみ始めてからは、ナイフを隠した奴の汗、殴られる前の呼吸、火をつけるつもりの人間がこぼすガソリンまで嗅ぎ分けた。
それを才能だと思ったことはない。
ただ、逃げ遅れないための癖だった。
「あなたは言葉を知らないんじゃない」
ミオは新しいグラスを置いた。
「知りすぎてるのよ。教本より、ひどい場所の言葉を」
「褒めてる?」
「最大限に」
カイはグラスを持たず、ミオを見た。
「おまえ、勝つ気あるのか」
「あるわ」
「なら、なんで俺に教える」
「海堀に負けるくらいなら、あなたに負けたい」
「きれいな言い方だな」
「汚い理由もある」
「そっちを聞きたい」
ミオは一瞬だけ視線を落とした。
「勝ったら、私は店を売るかもしれない」
カイの椅子が鳴った。
「帰れ」
「まだ話は終わってない」
「じいさんが守った店を、葬式の日に値踏みする奴と飲む酒はない」
「だから言ったの。きれいな人間のふりをして勝つつもりはない」
ミオは手袋を外した。右手の人差し指に、薄い火傷の跡があった。
「五年前、玄蔵さんは私にこの店を継げと言った。私は断った。世界へ出たかった。こんな錆びた街で、昔話を注ぎ続けるのが怖かった」
「それで喧嘩した?」
「ええ。最後に言われたわ。『おまえはワインを愛しているんじゃない。ワインを知っている自分を愛している』って」
カイは笑いそうになった。玄蔵らしい、骨の間へ差し込む言葉だった。
「海堀から誘いを受けてる」
ミオは続けた。
「再開発後のホテルで、ワイン部門を任せると。世界中から客が来る。自由に仕入れができる。私がずっと欲しかった場所よ」
「店を売れば、そこへ行ける」
「そう」
「最低だな」
「知ってる」
ミオはグラスへ赤いワインを注いだ。
「だから、明日の最後の一杯が怖い」
「何が入ってる」
「〈灰のヴィンテージ〉」
その名を、カイも聞いたことがあった。
二十七年前、十三番街の古い倉庫の屋上で、玄蔵は十二本だけワインを造ったという。海風と煤煙に晒された葡萄。瓶詰めの夜、隣の倉庫で火災が起こり、七人が死んだ。
生き残った者たちは、あのワインを飲むと「まだ起きていない裏切りの味」がすると噂した。
十二本のうち十一本は、火事のあと一本ずつ消えた。
最後の一本だけが、〈十三月〉の地下に眠っている。
「噂だろ」
「ワインは、噂を飲む酒でもあるわ」
「おまえは飲んだことあるのか」
「ない。玄蔵さんも、最後の一本には触れなかった」
カイは赤い液体を口へ含んだ。
黒い果実。煙。鉄。最後に、ほんの少しだけ塩。
「これは?」
「安いテーブルワイン」
「うまい」
「正解」
ミオが初めて笑った。
その笑顔は、カイが想像したよりずっと十三番街に似合っていた。
三 五つのグラス
零時五分前、三人は地下蔵に揃った。
石壁に囲まれた細長い部屋。棚には数百本のボトルが眠り、天井から一本だけ裸電球が下がっている。中央の丸テーブルには、銀色の蓋をかぶせたデキャンタが五つ並んでいた。
直臣は紺のスーツに着替えていた。胸ポケットの白いハンカチまで、祝宴のように整っている。
「仲良く勉強会か」
直臣はカイとミオを見て言った。
「貧しい者同士、知識を分け合うのは美しいな」
「おまえは何を分けてもらった?」とカイ。
「金だよ。世の中でいちばん役に立つ知識だ」
零時ちょうど、壁のモニターが点いた。
映った玄蔵は、死ぬ一週間ほど前に撮影されたらしい。頬が削げていたが、目にはいつもの意地の悪い光があった。
『三人とも来たようだな。直臣が逃げなかったのは褒めてやる』
「死んでまで口が減らない」と直臣。
『最初の四杯は、産地、品種、収穫年を答えろ。完全一致で三点。近ければ一点。四杯を終えた時点で首位が一人なら、その者に最後の回答権を与える。同点なら全員が答えろ』
モニターの横で、古い機械式時計が動き始めた。
『答えは紙に書き、同時に見せる。相談は禁止。暴力、脅迫、買収は失格。ただし誘惑は構わん。誘惑に負ける程度の舌なら、土地を持つ資格はない』
第一の蓋が自動で持ち上がった。
淡い金色。
カイはグラスを回さず、まず静かに嗅いだ。
レモンの皮。白い花。冷えた石。そして、ミオに教わった石油の気配。
その奥に、川沿いの自転車置き場で嗅いだことのある湿った粘板岩。
回答を開く。
ミオ――ドイツ、モーゼル。リースリング。二〇一二年。
直臣――同じくモーゼル、リースリング。二〇一三年。
カイ――モーゼル、リースリング。二〇一二年。
正解は二〇一二年。カイとミオが三点、直臣が二点。
「丸暗記か?」直臣が言った。
「歩道橋を飲んだ」とカイ。
「何?」
「おまえには高すぎて見えないだろ」
二杯目は薄い煉瓦色。
乾いた薔薇。革。焦げた道。舌に細い針のような渋み。
ミオ――イタリア、ピエモンテ。ネッビオーロ。二〇〇八年。
直臣――バローロ。ネッビオーロ。二〇〇七年。
カイ――バローロ。ネッビオーロ。二〇〇八年。
正解、二〇〇八年。
カイはグラスの向こうで、ミオがわずかに眉を上げるのを見た。
三杯目は赤ではなかった。
琥珀に近い白。蜂蜜、乾燥した杏、紅茶、古い木箱。だが甘くはない。飲み込んだあとに、海藻のような旨味が長く残る。
カイの記憶に、玄蔵の厨房が浮かんだ。焦がした鶏皮。干した柿。雨の日の畳。
ミオ――フランス、ジュラ。サヴァニャン。二〇〇九年。
直臣――スペイン、ヘレス。パロミノ。年不詳。
カイ――ジュラ。サヴァニャン。二〇〇九年。
正解はジュラ、サヴァニャン、二〇〇九年。
直臣の笑みが消えた。
「玄蔵から答えを聞いたな」
「俺がじいさんから聞いたのは、焼きそばに赤を合わせるなってことだけだ」
「それも間違いね」とミオ。
「今それ言う?」
四杯目。
色は深い紫。香りは派手だった。黒すぐり、樽、煙草、甘い香辛料。高価なワインが高価だと名乗るときの、よく磨かれた声。
直臣は嗅いだ瞬間、勝ちを確信したようにペンを走らせた。
ミオは長く迷った。
カイはワインではなく、グラスの縁と、デキャンタの首元を嗅いだ。
果実の下に、乾ききらない糊。
油性インク。
そして、ごく新しいシリコン栓。
カイは紙に一行だけ書いた。
三人が同時に開く。
ミオ――フランス、ボルドー左岸。カベルネ主体。一九九〇年前後。ただし再栓の疑い。
直臣――シャトー・ルグラン、一九八二年。
カイ――中身は二〇二〇年代の安いブレンド。瓶だけ一九八二年。偽物。
正解映像が流れた。
玄蔵が、空の古いボトルへ若いワインを注ぎ、偽のラベルを貼っている。
『中身は南半球の量産品。年は二〇二一年。古い瓶と物語をまとわせれば、百倍の値でも喜んで飲む者がいる』
直臣の顔から血の気が引いた。
『なお、この偽ラベルは海堀都市開発が経営するオークション会社で、三年前に本物として落札されたものを参考にした』
「老いぼれが」
直臣の声が低くなった。
『直臣。怒るな。舌が騙されたのではない。自分が高価なものを飲んでいると思いたい心に、舌が従っただけだ』
四杯を終え、カイ十一点。ミオ十点。直臣五点。
首位はカイだった。
『最後の回答権は藤代カイにある』
玄蔵の映像が告げた。
『だが、ほかの二人にも飲んでもらう。これは競技ではない。判決だ』
五つ目の銀蓋が、ゆっくり持ち上がった。
そこには黒い瓶が一本だけ置かれていた。
ラベルは灰色で、文字は二つ。
〈CENDRE 0〉
灰。零年。
部屋の空気が一段、冷えた。
四 灰のヴィンテージ
ミオが封を切った。
コルクは驚くほど静かに抜けた。
注がれたワインは、赤というより、夜を薄く溶かした色をしていた。裸電球の下で、縁だけが錆色に光る。
『一口でいい』
モニターの玄蔵が言った。
『飲んだあと、最初に浮かんだ匂いを口にするな。三十秒、黙れ。その匂いはおまえたちがいちばん隠したいものだからだ』
三人はグラスを取った。
カイは口へ含んだ。
温度は低いのに、舌の上だけが熱くなった。
最初に来たのは煙だった。木でも葉でもない。書類を燃やしたときの、乾いた紙の煙。
次に青いインク。新品の革靴。冷房の効きすぎた会議室。
景色が、グラスの底からせり上がった。
カイは十年後の自分を見た。
髪を短く整え、高価な紺のスーツを着ていた。窓の外には、十三番街があった場所に三本の高層ビルが立っている。海はガラスの向こうへ追いやられ、路地も魚屋も〈十三月〉もない。
テーブルの上には契約書。
署名欄に、藤代海璃という本名が青いインクで書かれている。
窓の外、工事用フェンスの向こうに錆烏の仲間が立っていた。
玲汰は右手を包帯で巻き、ナナは顔を背け、ピコは携帯を構えている。
誰も怒鳴らなかった。
失望は、喧嘩より静かだった。
カイはグラスを置いた。
胸ポケットの中で、折り畳んだ紙が急に重くなった。
前夜、直臣から渡された買収契約書。
カイが土地を取った場合、二億で海堀へ売るという仮契約だった。
仲間には言っていない。
二億あれば、十三番街の住人に立ち退き金を上乗せできる。玲汰の母親の借金も、ナナの弟の学費も、ピコの父親の治療費も払える。
そう説明すれば、いつか許されると思っていた。
いや。
許されなくても、感謝はされると思っていた。
三十秒が過ぎた。
「焦げた紙」とカイは言った。
嘘ではない。
だが、全部でもない。
ミオは唇を白くしていた。
「病院の廊下」
彼女は言った。
「消毒液。林檎のシャンプー。誰も出ない電話」
直臣はグラスを握ったまま動かなかった。
「湿った木」とだけ言った。
その瞬間、モニターの玄蔵が首を横へ振った。
『三人とも、半分しか言っていない』
録画のはずなのに、見透かされた気がした。
『灰のヴィンテージは未来を当てる酒ではない。そんな便利なものなら、私は競馬場へ持っていった』
玄蔵はグラスを持ち上げた。映像の中の液体も、同じ夜色をしていた。
『これは、おまえたちがすでに心の中で許した裏切りを見せる。まだ実行していない。だが、事情があれば仕方ない、と自分に言い聞かせた裏切りだ』
ミオが目を閉じた。
『人は決断をした瞬間より、言い訳を作った瞬間に道を選ぶ。ワインは葡萄の記憶を残す。これは、言い訳の記憶を残す』
画面が暗転し、白い文字が現れた。
〈最後の問い。このワインに欠けている香りは何か〉
回答権はカイにある。
彼はもう一度、グラスへ鼻を近づけた。
煙。紙。革靴。インク。冷たい金属。
果実の香りが、一つもない。
「葡萄だ」
カイは言った。
「このワインには、果実がない」
モニターが明るくなった。
玄蔵は、わずかに笑っていた。
『正解だ』
テーブルの中央で、金属音がした。小さな箱が開き、土地の権利証と一本の鍵が現れた。
直臣が立ち上がる。
「茶番は終わりだ」
『まだだ、直臣』
映像の玄蔵が言った。
直臣の足が止まった。
『果実が消えたのは、未来が決まったからではない。おまえたちが、自分の裏切りを当然のものとして飲み込んだからだ。夜明けまでに一つ、決めたことを変えろ。もう一度飲んで、果実を感じた者だけが鍵を使える』
ミオが乾いた笑いを漏らした。
「死んだあとまで説教」
『説教ではない。賭けだ。人間がワインより長く熟成できるかどうかのな』
映像が切れた。
時計は午前一時を指していた。
直臣が拍手をした。
一度。二度。三度。
「見事だ、カイ。勝者にふさわしい」
彼は内ポケットから万年筆を出し、カイの前へ置いた。
「仮契約を本契約に変えよう。二億では足りないな。三億出す」
ミオがカイを見た。
視線が胸ポケットへ落ちる。
「契約って、何の話?」
カイは答えなかった。
直臣が代わりに笑った。
「君たちの英雄は、最初から街を売る気だったという話だ」
地下蔵に、海より冷たい沈黙が満ちた。
五 言い訳の温度
カイは胸ポケットから紙を出した。
折り目のついた仮契約書を、テーブルの上へ置く。
「住民全員に金を回すつもりだった」
「そう」ミオが言った。
「玲汰の家の借金を消して、ナナの弟を学校へ行かせて、ピコの父親をいい病院へ移す。残りで、みんな別の街へ行けばいい」
「街は建物じゃない。人だろ」
「売る人間がよく使う言葉ね」
鋭かった。
カイは言い返せなかった。
「おまえだって売ると言った」
「ええ」
「海堀のホテルへ行くんだろ」
「ええ」
「なら同じだ」
「同じよ」
ミオはコートの内側から一通の封筒を出した。
海堀都市開発のロゴが入った内定契約書。彼女の署名欄には、すでにサインがあった。
「私は勝ったら、この土地の鑑定価値を下げる報告書を書く約束をした。地下蔵は老朽化し、保存設備として危険だと証言する。その代わり、新しいホテルのセラーを任せてもらう」
「玄蔵を裏切るのか」
「五年前に、もう裏切ったつもりだった」
ミオは署名の部分を見つめた。
「さっき見えたのは、新しいホテルのオープニングだった。私は世界中の客の前で、灰のヴィンテージを注いでいた。窓の外には何もなかった。玄蔵さんの店も、あなたたちも。拍手だけが聞こえた」
彼女は契約書を二つに破った。
さらに四つに、八つに。
紙片を灰皿へ落としたが、火はつけなかった。
「私は降りる」
「それで果実が戻ると思う?」と直臣。
「戻らなくても、少なくともあなたの酒は注がない」
直臣の口元が歪んだ。
「美しいね。だが店は救えない」
カイは自分の契約書を見た。
三億。
金額は大きいほど、正義に似た顔をする。
仲間のため。住民のため。未来のため。
どんな裏切りも、複数形にすれば立派に聞こえる。
携帯を取り出す。
錆烏のグループ通話を開いた。地下は電波が弱く、声が途切れた。
『どうなった?』玲汰。
『勝ったの?』ナナ。
『配信まだ?』ピコ。
「俺、土地を売る契約をしてた」
向こうが静かになった。
「勝ったら二億。今、三億に上がった。みんなに金を配って、街を出ればいいと思ってた」
『……マジで?』
「マジだ」
玲汰の呼吸が荒くなった。怒鳴られると思った。
だが先に聞こえたのは、ピコの声だった。
『カイ兄、それ、俺らが頼んだ?』
「頼んでない」
『じゃあ勝手に俺らを言い訳にすんなよ』
十七歳の声は震えていた。
『俺、金ほしいけどさ。金ほしい俺と、街を売ってほしい俺は、同じじゃないから』
カイは目を閉じた。
「わかった」
仮契約書を両手で裂いた。
紙は思ったより簡単に破れた。
「悪かった」
『戻ってきたら一発殴る』玲汰が言った。
「一発で済む?」
『みんな一発ずつ』
「そりゃ多いな」
通話を切る。
カイはグラスを取った。
灰のヴィンテージを、もう一口。
煙。
インク。
革靴。
まだ果実はない。
「だめか」
「紙を破いただけだからよ」
ミオが言った。
「未来は、もっとしつこい」
直臣が笑った。
「二人とも感動的だ。だが、夜明けまでにこの土地が残っていればの話だ」
彼の右手には、小さな黒い送信機があった。
カイの鼻が、先に気づいた。
ガソリン。
地下蔵の奥。石壁の向こうから、濃い揮発臭が流れてくる。
「何をした」
「最初から、勝敗なんてどうでもよかった」
直臣が親指を押した。
壁の裏で、鈍い音がした。
次の瞬間、棚の奥から橙色の火が走った。
六 火の向こう側
炎はワインの木箱を舐め、天井へ上がった。
一本、また一本とボトルが熱で割れる。赤い液体が床を走り、火を映した。
「上へ!」
カイが叫んだ。
ミオは権利証と鍵を箱からつかみ、階段へ向かった。
だが直臣は動かなかった。
火の向こう、最奥の石壁を見ている。
「父が、ここへ来たんだ」
直臣の声は、別人のように幼かった。
「二十七年前。俺は六歳だった。車の後部座席で待っていた。父はポリタンクを持って、この路地へ入っていった」
炎が棚を倒した。
出口へ続く通路が半分塞がれる。
「倉庫火災は事故じゃない」とミオ。
「再開発の前身計画があった。立ち退かない倉庫主を脅すため、父は小さな火をつけるつもりだった。だが中に人がいた。火は隣へ回った。七人死んだ」
直臣は笑った。泣く寸前の人間が、顔の形を保つためにする笑いだった。
「玄蔵は知っていた。証拠をここに隠したと言って、父を二十七年脅し続けた。父が死んでからは、俺を」
「だから店ごと焼く?」カイ。
「灰にすれば、過去も未来も同じ色になる」
天井の梁が落ちた。
直臣の足元へ直撃し、彼は倒れた。脚が木材の下に挟まる。
「行って!」
ミオが叫んだ。
「もう持たない!」
カイは階段を見た。
外から玲汰たちの声がする。消火器を持って扉を叩いている。
直臣は自分で火をつけた。
ここで置いていけば、すべて終わる。
再開発も。買収も。過去の嘘も。
それは復讐ですらなかった。
ただ、助けないだけでいい。
グラスの中で見た未来が蘇った。
スーツを着た自分。仲間の背中。青い署名。
裏切りは、何かをすることだけではない。
しないことにも、都合のいい名前をつけられる。
「カイ!」
ミオの声を背に、彼は火の中へ戻った。
「馬鹿か」
直臣が咳き込んだ。
「俺を助けても、土地は残らない」
「街は建物じゃない。人だろ」
さっき自分で吐いた言い訳を、今度は言い訳にしないために使った。
梁は重かった。
熱で掌の皮が焼ける。直臣も腕で床を押す。二人で持ち上げた隙間へ、ミオが転がってきた金属棒を差し込んだ。
「三つ数える!」
「二つでやれ!」とカイ。
「一、二!」
直臣の脚が抜けた。
三人で通路へ這う。
そのとき、最奥の石壁が熱で割れた。
煉瓦が崩れ、小さな金庫が姿を見せる。
直臣が振り返った。
「証拠……」
カイも見た。
だが戻らなかった。
「生きてから怖がれ」
階段の上で扉が開いた。
玲汰とナナが消火器の白い粉を噴きながら降りてくる。ピコは携帯を握り、泣きながら叫んでいた。
「全部、配信してるからな! 海堀、今の話も全部だ!」
直臣の顔が崩れた。
笑ったのか、泣いたのか、煙の中ではわからなかった。
地上へ出た瞬間、地下で大きな破裂音がした。
〈十三月〉の窓ガラスが震え、路地へ赤い煙が噴き出す。
消防車のサイレンが近づいていた。
ミオは路上に膝をつき、抱えていた権利証を開いた。
紙は無事だった。
だが鍵は、熱で黒く変色している。
「玄蔵さんの金庫……」
「証拠ならある」
ピコが携帯を掲げた。
「今の、二万八千人が見てた」
直臣は仰向けに寝たまま、雨を浴びていた。
「父のことまで証明できない」
そのとき、ミオの手の中で、権利証の封筒から薄い紙が落ちた。
玄蔵の字だった。
〈直臣へ。
壁の金庫は空だ。
証拠など最初からない。
人は証拠があるから告白するのではない。
自分の中に、隠しきれない証人がいるから告白する。
おまえがその証人を殺さずに済むことを願う。〉
直臣は雨の中で目を閉じた。
消防士たちが地下へ入っていく。
カイはふと、自分がまだグラスを握っていることに気づいた。
火の中で、なぜ手放さなかったのかわからない。半分ほど残った灰のヴィンテージには、灰と消火剤が少し混じっていた。
「飲む気?」
ミオが言った。
「もうワインですらないわよ」
「最初から、そうだったのかもな」
カイは口へ運んだ。
煙。
焦げた紙。
雨に濡れた革。
その向こうに、小さな赤いものがあった。
潰した野苺。
夏の終わり、錆びたフェンスの下で盗んだ、まだ青いトマト。
玄蔵が店の裏で育てていた葡萄を、初めて噛んだときの酸っぱさ。
果実だった。
「戻った」
カイは言った。
ミオも残りを一口飲んだ。
長い沈黙のあと、彼女は涙と雨を一緒に拭った。
「林檎」
直臣へグラスを差し出す。
彼は首を振った。
「俺には、まだ灰しかない」
「なら、生きて味が変わるまで待て」
カイは言った。
直臣は逮捕された。
配信映像と本人の供述をきっかけに、二十七年前の倉庫火災も再捜査された。父親の会社に残っていた古い帳簿から、放火を示す支出記録が見つかった。
〈十三月〉の地下は半分焼けたが、建物の骨組みは残った。
権利証の裏には、玄蔵の最後の条件が記されていた。
〈果実を取り戻した者へ。
土地は一人で持つな。
一人の正義は、値段をつけられた瞬間に売り物になる。
十三番街の住人による共同名義とし、店の鍵だけを勝者に預ける。〉
「最後まで信用されてないな」
カイが言うと、ミオは焼け残った看板を見上げた。
「信用していたから、一人にしなかったのよ」
夜明け前、雨がやんだ。
海の向こうから薄い光が差し、濡れた路地を一本の川に変えた。
錆烏の連中が順番にカイを殴った。
玲汰は肩。ナナは背中。ピコは泣きながら胸を一発。
そのあと、全員で焼けた店から椅子を運び出した。
七 水の味
五年後、〈十三月〉は再び灯りをつけていた。
地下蔵は耐火設備を入れ直し、地上階の半分はワインバー、もう半分はカイの看板工房になった。入口の新しい看板には、古い真鍮文字をそのまま使った。焦げ跡も磨き落とさなかった。
ミオは東京の店を辞め、月の半分を灰浜で過ごした。
世界へ出る夢を諦めたわけではない、と本人は言う。世界のほうを十三番街へ呼ぶことにしたのだ、と。
錆烏は解散した。玲汰は魚屋を継ぎ、ナナは自動車整備工場の社長になり、ピコは映像記者になった。
ただ、街を燃やす奴が出たときだけ、全員が昔の名前で集まった。
灰のヴィンテージは、あの夜でなくなった。
瓶は火で割れ、残った一杯も飲み干した。成分を調べることも、競売へ出すこともできなかった。
そのため噂だけが、以前より高く熟成した。
政治家、投資家、収集家、占い師。
さまざまな人間が〈十三月〉を訪れ、未来を見せるワインを出せと言った。
ミオはいつも、同じ答えを返した。
「未来を知りたい方には、お水をお出しします。たいてい、それで十分です」
ある秋の夜、新しい市長が店へ来た。
四十代半ば。清潔な笑顔と、よく訓練された握手を持つ男だった。選挙では十三番街の保存を公約に掲げ、当選後も何度もカメラの前で「歴史ある街並みを守る」と語っていた。
「私は酒を飲まないんです」
市長は言った。
「水をいただけますか」
カイは新品のグラスを出し、水道から水を注いだ。
浄水器を通した、味も匂いもほとんどない水だ。
市長は一口飲み、動きを止めた。
「どうしました?」とミオ。
市長はグラスを見つめた。
「焦げたゴムの匂いがする」
店内の音が消えた。
「それから……濡れたコンクリート。新しい革の椅子。青いインク」
カイはカウンター越しに、市長のコートへ目をやった。
雨の匂い。
高価な香水。
そして、ごくかすかに、ガソリン。
「変ですね」
市長は笑った。
「水なのに」
カイは笑い返さなかった。
灰浜十三番街には、夜になると三種類の匂いが降る。
海の塩。古い鉄。そして、追いつめられた人間の焦り。
葡萄はもう一本も残っていない。
それでも街は、約束の味を忘れていなかった。
了