灰冠山脈の帰り星
――オリジナル読み切り冒険小説――
一 町が消える日
その朝、セヴフォルの町には、家々より大きな赤い札が立っていた。
《十二日後、熱井停止。全住民は南部平原へ移住せよ》
王立鉱務院の紋章つきだった。剣をくわえた三つ目の山羊が、朝靄の中でえらそうに住民を見下ろしている。
「移住って言えば聞こえはいいけどさ」
ジン・カロは札の根元を蹴り、痛そうにつま先を押さえた。
「要するに町を捨てろってことだろ。ひどくない? 俺の工房、まだ屋根が半分しか落ちてないのに」
「半分落ちてたら、たいていの人は廃屋と呼ぶわ」
ミリが言った。町長の娘で、十五歳にして町長より町長らしい話し方をする。
「でも事実よ。熱井が冷えたら、冬至夜を越せない。ここから南へ行くしかない」
「パン屋はどうするんだよ」
背の低いソルが、胸に抱えた布袋をぎゅっと押した。袋には、彼の父親が焼いた朝のパンが入っている。
「南の人は、石蜜パンに塩をかけるって聞いた。そんな土地に文明があると思う?」
「塩をかけるのは普通だろ」
「焼く前にだよ」
テザレは真顔になった。
「野蛮だな」
アニカは三人のやり取りを聞きながら、札の向こうにそびえる灰冠山脈を見ていた。
山々は、その名のとおり灰色の冠をかぶっている。頂は一年じゅう雲に隠れ、夜になると雪が下ではなく空へ降る。昔から、山脈の北側を越えた者はいない。戻らないからだ。
けれどアニカの母、地図師セラ・ロウは七年前、山脈へ入った。
そして戻らなかった。
「ねえ、アニカ」
ミリが顔をのぞきこんだ。
「また山を見てる」
「見てない」
「目を閉じて山を見る技を覚えたの?」
アニカはようやく視線を外した。
「天文台に行こう」
三人が黙った。
町の北端、崖に半分せり出した旧天文台は、母が最後に働いていた場所だった。七年前から封鎖され、移住に先立って今日の正午に取り壊される。
「行って、どうするの」とミリ。
「母さんの物が残ってるかもしれない」
「封鎖されてる」とソル。
「正午に爆破」とテザレ。
「だから今行く」
テザレは口の端を上げた。
「それ、ものすごく正しいな」
ミリは額を押さえたが、もう歩き出していた。
「一時間だけよ。何もなかったら戻る。爆薬に近づかない。床が鳴ったら止まる。テザレが『大丈夫』と言ったら、まず疑う」
「最後のは偏見だ」
「経験則よ」
四人は赤い札の裏を抜け、町が終わる朝に、町で最も危険な廃墟へ向かった。
二 屋根裏の星図
旧天文台の正面扉には、鎖が三重に巻かれていた。
テザレは工具袋から針金を出し、五秒で錠を開けた。
「鍵ってのは、持ち主に開けてほしがってるんだ」
「鍵の気持ちを代弁しないで」
中は、時間ごと埃になって積もったような匂いがした。
円形の観測室には、割れた望遠鏡、錆びた星辰儀、天井から垂れ下がる蔓のような導線。床には白い粉で大きな円が描かれ、その中心に黒い染みがあった。
アニカは壁沿いの机を探った。帳簿、欠けたレンズ、乾いたインク壺。母の字はない。
「爆破まで、あと四十二分」
ミリが懐中時計を見た。
ソルは返事をせず、床に耳をつけていた。
「下で、何か鳴ってる」
「鼠?」
「鼠は三拍おきに金属音を出さない」
「この町の鼠ならやりかねない」とテザレ。
ソルは床の黒い染みを指した。
「ここ。空洞がある」
四人で埃を払うと、染みだと思ったものは、夜空をかたどった黒い円盤だった。小さな銀鋲が星座のように打たれている。そのうち一つだけ、赤い石がはめ込まれていた。
アニカは息を止めた。
「母さんの星留めだ」
地図師は、自分だけの印を道具につける。母はいつも赤い石を使っていた。
円盤を回すと、床の一部が沈み、階段が現れた。
「隠し部屋」とテザレが囁いた。「古い天文台、失踪した地図師、爆破直前。完璧すぎる」
「完璧じゃない。爆破が余計」
地下室は狭く、壁一面に地図が貼られていた。
町の水路図、鉱道図、風向図。だがどれも途中から、灰冠山脈の内部へ線が伸びている。ありえない角度で曲がり、重なり、最後はひとつの渦になっていた。
中央の机には、真鍮の輪が置かれていた。両手で抱えるほど大きく、内側に細い文字がびっしり刻まれている。
その下に、母の筆跡があった。
――アニカへ。
胸の奥で、七年間固まっていたものが音を立てた。
アニカは紙を開いた。
《この手紙を読むころ、あなたは私を恨んでいるでしょう。恨んでいていい。
灰冠山脈の下には、古い都があります。都の中心には「帰り星」と呼ばれた装置がある。失ったものを呼び戻すと伝えられてきたけれど、それは奇跡ではない。
私は入口を閉じました。
もしセヴフォルの熱井が止まり、町が死にかけたなら、この輪を持って北坑道へ。都の外縁にある熱脈を開けば、町を救える。
ただし、都の中心へ行ってはいけない。
たとえ私の声がしても。
とくに、私の声がしたなら。
――ウニェイ》
誰も、しばらく何も言わなかった。
先に口を開いたのはミリだった。
「熱脈を開けば、町を救える」
ソルは地図を見上げた。
「北坑道なら、熱井の保守路につながってる。封鎖壁の向こうだ」
テザレは真鍮の輪を持ち上げた。内側の文字が、薄暗がりで青く光った。
「十二日を待つ必要、ないんじゃないか?」
上で、鐘が鳴った。
爆破十分前の警鐘だった。
「持てるものを持って出る!」
ミリの声と同時に、天井から砂が落ちた。
四人は地図と輪を抱え、階段を駆け上がった。正面扉へ向かう途中、テザレが割れた星辰儀に足をひっかけ、観測室の床一面が傾いた。
「大丈夫!」
「疑う!」
床が抜けた。
四人は埃と木片とともに下階へ滑り落ち、崖側の窓を突き破って、古い雨樋にぶら下がった。
眼下は百メートルの谷だった。
「テザレ」とミリが低い声で言った。
「うん」
「次に大丈夫と言ったら、谷へ落とす」
「もう半分落ちてる」
爆発が天文台の反対側を吹き飛ばした。雨樋が外れ、四人は悲鳴を上げた。
だが落ちたのは谷ではなく、崖下を走る荷運び用の帆車の上だった。帆車は衝撃で留め具を外し、風を受け、無人のまま坂道を走り出した。
町の屋根を見下ろしながら、四人は帆布にしがみついた。
「これ、どこへ行くの!」
「北坑道!」とソル。
「どうして分かる!」
「線路が一本しかない!」
テザレは笑い出した。
「ほら、運命も賛成してる!」
「ブレーキを探してから言って!」
帆車は赤い立札を粉々にし、鉱務院の検問を跳ね越え、灰冠山脈の口のように開いた北坑道へ飛びこんだ。
三 逆さ雨の坑道
北坑道に入った瞬間、世界から色が消えた。
帆車の車輪が火花を散らし、闇の中に一瞬だけ鉄骨や朽ちた支柱を浮かび上がらせる。後ろでは鉱務院の警笛が鳴った。
「追ってくる!」
ミリが帆の隙間から振り返った。
坑道入口に、二台の小型軌道車が入ってくる。先頭には鉱務官ヘクト・ヴァンが立っていた。肩幅が扉ほどあり、髭は箒のように硬い。七年前、母の捜索隊を率いた男だ。
「アニカ・ロウ!」
声が坑道中に響いた。
「その輪を置け! お前たちが扱える物ではない!」
「扱えないって知ってるなら、何か知ってるんじゃない?」
ミリが叫び返す。
ヘクトの顔が強ばった。
「止まれ! この先は――」
地面が途切れた。
帆車は、線路ごと崩れた縦穴へ飛び出した。
アニカは真鍮の輪を抱きしめ、目を閉じた。
落下は来なかった。
代わりに、髪が上へ引かれた。
いや、体ごと上へ落ちていた。
縦穴の中を、無数の水滴が空へ向かって降っている。逆さ雨だ。山脈の地下では、二つの月が重なる時刻だけ、深層水が空を求めて昇る。
帆車は水の奔流に包まれ、ゆっくりと浮き上がった。
「泳げ!」とテザレ。
「どっちへ!」
「俺も考え中!」
ソルが壁を指した。古い保守用の横穴がある。
四人は帆布を切り離し、逆さ雨を帆に受けた。即席の翼は縦穴を斜めに横切り、横穴へ突っこんだ。背後で鉱務院の軌道車が縦穴の縁に急停止する。
「今度は大丈夫だっただろ!」
床を転がりながらテザレが言った。
「偶然は功績に数えない!」
横穴の奥には、六角形の扉があった。
真鍮の輪を近づけると、扉の中央に同じ大きさのくぼみが浮かび上がる。
「母さんは、これを鍵にしたんだ」
アニカが輪をはめると、文字が青白く走った。
扉は開かなかった。
代わりに、壁から四本の石柱がせり出した。それぞれ高さが違い、上面に手の形の窪みがある。
「四人で押せってこと?」
手を置くと、柱が低い音を出した。アニカの柱は「ド」、テザレは「ラ」、ミリは「ミ」、ソルは何も鳴らない。
「壊れてる」とテザレ。
「違う。鳴ってる」
ソルは目を閉じた。
「人には低すぎる音。山の中で反響してる」
彼は柱を少しずつ回し、音の高さを変えた。
「母さん、昔言ってた。灰冠山脈は巨大な楽器みたいだって」とアニカ。
「じゃあ曲を弾けばいい?」
「曲が分からない」
全員が沈黙した。
そのとき、ソルの布袋からパンが転がり落ちた。石蜜パンは床の溝を転がり、壁の四つの窪みに順番にぶつかった。
ド、ミ、ラ、地の底の低音。
扉が震えた。
「父さんのパンが世界を救った」とソル。
「まだ扉一枚よ」
「第一歩だ」
四人が同じ順に柱を鳴らすと、六角形の扉は花びらのように開いた。
向こうに、星空があった。
地下なのに。
四 誰も住まなかった都
星空に見えたものは、天井だった。
黒い岩盤の内側に、無数の光る結晶が埋まっている。光は遠近を狂わせ、天井を果てのない夜に見せていた。
その下に、都が広がっていた。
塔は上へではなく、中心の空洞へ向かって斜めに伸びている。道は波のようにうねり、交差点には扉だけが立っていた。窓は細長く、地面から十メートルも上にある。建物の表面には、魚の骨にも、星図にも、叫ぶ顔にも見える模様が刻まれていた。
風はないのに、都全体がかすかに呼吸していた。
「ここを、人が造ったと思う?」とミリ。
「人向けじゃないのは確か」
テザレは、地面から垂直に生えた階段を見上げた。段は途中から壁になり、さらに進むと天井へ溶けている。
ソルが道に膝をついた。
「石じゃない」
アニカも触れた。冷たい。けれど、指の下でごくゆっくり脈打っている。
「骨?」
「骨なら嫌だな」
「骨でなくても十分嫌よ」
母の地図では、外縁熱脈は都の西側にある。四人は中心を避け、青い結晶の通りを進んだ。
しばらくすると、壁に巨大な影絵が並び始めた。
六本の脚を持つ細長い生き物。頭にあたる部分はなく、胴体の周囲に環状の目がついている。彼らは空から降りる黒い球を囲み、その表面に塔を植えていた。
次の影では、塔から小さな生き物がこぼれ出している。魚、鳥、角のある獣、人に似た影。
「都を造ったんじゃない」とアニカは言った。
喉が乾いた。
「都が、造ったんだ。生き物を」
その先の壁では、六脚の者たちが黒い球を山の下へ沈めていた。球の周囲には、輪が三つ描かれている。
アニカが持つ真鍮の輪と同じ形だった。
最後の影だけは削り取られていた。
何かが内側から壁を引っ掻き、影絵を消したように。
遠くで、石が鳴った。
一度。
二度。
そして、彼らの足音と同じ速さで近づいてきた。
「走る?」とテザレ。
「走る」とミリ。
通りの奥から、白いものが現れた。
それは人の背丈ほどの甲虫に見えた。だが殻だと思った部分は、何十枚もの薄い仮面だった。笑う顔、泣く顔、眠る顔。仮面は絶えず入れ替わり、そのたびに別の声で息を吐く。
「ウニェイ」
アニカは足を止めた。
甲虫が、母の声で言ったのだ。
「アニカ」
次の瞬間、テザレが工具袋から鉄球を取り出し、反対側の通りへ投げた。
甲虫は金属音に反応し、ものすごい速さで鉄球を追った。
「声を真似るのは反則だろ」
四人は駆けた。
白い甲虫が壁を走り、天井を渡って追ってくる。仮面が次々に知った顔へ変わった。
「ソル、パンを焼きすぎたぞ!」
「ミリ、町長はお前を置いて逃げる!」
「テザレ、お前の工房は最初から直らない!」
「最後のは事実に近い!」
テザレが叫ぶ。
アニカには、母の声だけが聞こえた。
「待っていたの。ずっと暗かった。置いていかないで」
足が鈍る。
ミリがアニカの手をつかんだ。
「声は後! 今は脚!」
通りの先に裂け目があり、細い橋が渡っていた。橋の中央には、鐘のような突起が七つ並んでいる。
ソルが先頭に出た。
「橋が音を覚えてる。踏む場所を間違えると、たぶん落ちる」
「たぶんって何!」
「落ちた人が戻って説明してない!」
ソルは耳を澄ませ、一歩ずつ進んだ。右、左、中央、二段飛ばし。三人はその足跡を追う。
背後で甲虫が橋へ乗った。
仮面が一斉に母の顔になる。
「アニカ」
橋が軋む。
アニカは振り返り、腰の地図筒を橋の突起へ叩きつけた。
七つの鐘が、めちゃくちゃな音階で鳴った。
橋がねじれた。
甲虫は何十もの母の顔で叫びながら、星のない裂け目へ落ちていった。
対岸へ転がりこんだ四人は、しばらく動けなかった。
テザレが息を切らして言った。
「今の、地図師としては最悪の地図の使い方だな」
「最高の使い方よ」とミリ。
アニカは、震える手を握りしめた。
母の声は、もう聞こえなかった。
五 七年前の野営地
都の西端には、人間の野営地が残っていた。
破れた天幕、錆びた鍋、凍りついた靴。王立鉱務院の紋章がついた木箱には、七年前の日付がある。
アニカは一つずつ確かめた。
母の外套。
母の測量針。
母が嫌っていた乾燥豆の缶詰。
胸が痛むたび、まだ母に近づいている気がした。
天幕の奥に、革表紙の記録帳があった。
《第九日。
都の中心から、死者の声がする。ヘクトは息子の声を聞いた。私はアニカの泣き声を聞いた。アニカは生きている。つまり、あれが呼ぶのは死者ではない。聞く者が失うことを恐れている声だ。》
次の頁。
《第十一日。
帰り星は門ではない。餌場だ。
六脚の造り手たちは、黒い星から生まれた。彼らは世界に生命を播いたが、自分たちの故郷を呼び戻そうとして滅びた。
装置は記憶を読み、最も愛するものの形をつくる。その形に触れた者から、さらに記憶を奪う。奪った記憶は、山の下に眠るものへ流れる。
あれは、私たちを食べるために懐かしい顔をする。》
最後の頁は、途中で文字が乱れていた。
《ヘクトが中心へ向かった。止める。
もし戻れないなら、熱脈の鍵を外縁導管へ移す。アニカに町を残すために。
覚えておいて。
私は、青い空の日にあなたを産んだのではない。
空は金色で、逆さ雨が降っていた。
あなたは泣かず、私の指を握った。
声が何を言っても、そこだけは――》
頁は裂けていた。
「ヘクト鉱務官も、ここに来てたのね」とミリ。
背後で、銃の撃鉄が鳴った。
「来ていた」
ヘクトが立っていた。
彼の後ろには鉱務院の二人の隊員。濡れた外套から逆さ雨が滴り、顔は疲れきっている。
「輪を渡せ、アニカ」
テザレが前に出た。
「子ども相手に銃?」
「照明弾だ。怪物には音で効く」
「先に言えよ。格好つけやがって」
ヘクトは銃口を下げた。
「私はウニェイを見捨てた」
その言葉は、銃声より重く落ちた。
「七年前、中心で息子の声を聞いた。事故で死んだ、十歳の息子だ。ウニェイは偽物だと言った。私は信じなかった。装置を動かした」
ヘクトは左手の手袋を外した。指が二本なかった。傷口の周りには、青い文字のような痕が這っている。
「息子の形をしたものに触れた。次に目を覚ました時、私は息子の顔を思い出せなくなっていた。ウニェイが装置を止め、私を外縁まで運んだ。都を封じるために戻った彼女を、私は待てなかった」
「母さんは死んだの」
アニカの声は、自分のものではないようだった。
「分からない」
「七年も、分からないまま黙ってたの」
「言えば、お前がここへ来ると思った」
「黙ってても来た」
ヘクトは目を閉じた。
「そうだ。ウニェイによく似ている」
「その言い方、嫌い」
アニカは記録帳を抱えた。
「私は母さんじゃない」
「なら、母親と同じ過ちをするな。熱脈だけ開いて帰れ」
地面が揺れた。
都の中心から、低い鐘の音が響いた。
一度。
真鍮の輪が、アニカの腕の中で答えるように震えた。
野営地の凍った靴が、ひとりでに中心方向へ向きを変えた。
白い甲虫のものではない、もっと大きな何かの足音が、遠い通りで始まった。
「輪が呼ばれてる」とソル。
ヘクトの顔から血の気が引いた。
「装置が目覚めた。お前たちが扉を開いたせいだ」
「責任の押しつけは後」とミリ。「熱脈はどこ?」
ヘクトは西の塔を指した。
「導管室だ。だが輪が必要だ」
「じゃあ全員で行く」
「中心とは逆よね?」
「今は、まだな」
その最後の言葉を、アニカは聞き逃さなかった。
六 熱脈と泥棒の手
導管室は、都の外壁に埋め込まれた巨大な心臓のようだった。
透明な管が何百本も走り、その中を金色の液体がゆっくり流れている。管は山の奥へ伸び、一部はセヴフォルの熱井の方向へ向かっていた。
中央には三つの輪受けがある。
アニカの真鍮輪は、そのうち一つにぴたりとはまった。
文字が光り、空中に立体の地図が現れる。
「セヴフォルだ」
町の家々、熱井、北坑道。細い金色の線が、すべての地下を結んでいる。
だが熱井へ向かう導管は、途中で黒く塞がれていた。
「閉鎖弁が三つ」とミリ。「ここ、東塔、それから……」
地図の中心に、赤い点が灯った。
「帰り星の間」とヘクト。
「中心へ行くなって書いてあった」とソル。
「三つ開かなければ、熱は町へ届かない」
「母さんは外縁導管へ鍵を移したって」アニカは記録帳を開く。「中心の弁をここから開ける方法があるはず」
テザレは輪受けの下へ潜りこんでいた。
「普通に使う方法はない」
「普通じゃない方法は?」とミリ。
「いっぱいある」
彼は嬉しそうに工具を並べた。
「この都、造った連中は扉にも橋にも音を使ってる。たぶん管の圧力も音で切り替える。ソルが周波数を探して、俺が共鳴器を作る。ミリは地図を読んで流路を指示。アニカは輪を回す」
「成功率は?」
「聞くと下がる」
作業は、町の祭りの準備に似ていた。
ソルが管へ耳を当て、音を拾う。テザレが鍋、針金、望遠鏡のレンズ、パン袋の留め金まで使って奇妙な楽器を組む。ミリが光る流路を読み、弁の順番を叫ぶ。アニカは輪を一目盛りずつ回した。
「北導管、開く!」
「低音、あと半分!」
「半分って音にあるの?」
「ある!」
「鍋押さえて!」
「熱い!」
「熱脈なんだから当たり前!」
金色の液体が、一本、また一本とセヴフォルへ向きを変えた。
最後の黒い閉鎖弁だけが動かない。
中心の赤い点が脈打つ。
鐘が二度目に鳴った。
都全体の建物が、中心へ向かって少し傾いた。
導管室の壁が裂け、白い仮面が何百枚も覗いた。
あの甲虫より大きい。
いや、甲虫の群れが一つに重なっているのだ。仮面と脚が波のように絡み合い、通りを埋め尽くして近づいてくる。
「中心の弁を直接開くしかない!」ヘクトが叫んだ。
「それが狙いよ」とミリ。「輪を中心へ運ばせたいの」
群れが壁を破った。
隊員の一人が照明弾を撃つ。赤い火が通路の奥へ飛び、仮面の群れは一斉にそちらを向いた。
「音を追うなら、もっと大きい音をやる」
テザレは自作の共鳴器を抱え上げた。
「これを管につないだら、どうなる?」
ソルが青ざめた。
「山が鳴る」
「いいね」
「よくない。山が鳴るんだよ」
テザレは接続した。
ソルが耳をふさぐ。
「みんな、口を開けて!」
テザレが鍋を叩いた。
音は、最初は小さかった。
次の瞬間、灰冠山脈そのものが巨大な鐘になった。
衝撃が都を走り、仮面の群れが空中へ跳ね上がった。塔の光が一斉に消え、天井の偽りの星空が波打つ。
そして導管室の床が割れた。
「成功率を聞けばよかった!」とミリ。
四人とヘクトは、真鍮の輪ごと暗い縦穴へ落ちた。
七 帰り星
落ちた先には、海があった。
水ではない。
鏡のように黒い、粘り気のある液体。そこへ触れる直前、真鍮の輪が光り、五人の体を空中に吊り止めた。
輪はひとりでに拡大し、直径百メートルほどの光の環になった。
三つの環が、暗闇の中で交差する。
帰り星。
環の中心には、黒い球が浮いていた。
それは光を反射しない。むしろ周囲の光が、球へ向かって落ちていく。表面に、ときおり巨大な瞼のような亀裂が走った。
眼下の黒い海には、無数の顔が映っていた。
アニカの父。幼いころに死んだ祖母。町を去った友だち。忘れたはずの犬。
そして、母。
「アニカ」
海から、セラ・ロウが立ち上がった。
七年前の外套を着ていた。髪には霜がつき、右頬に小さな傷がある。アニカの記憶どおりだった。
記憶どおりすぎた。
「大きくなったね」
アニカは息を吸えなかった。
母が一歩近づくたび、七年が剥がれ落ちた。言えなかった文句。聞きたかったこと。熱を出した夜、誰も額に手を置いてくれなかったこと。地図師になったこと。母のようになりたくなくて、母の地図ばかり見ていたこと。
隣で、ヘクトが膝をついた。
黒い海から、小さな男の子が現れていた。
「父さん」
ヘクトは手を伸ばした。
「待って!」
アニカが叫ぶ。
だがヘクトの指は、息子の頬に触れた。
青い光が腕を這い上がる。
ヘクトの顔から、何かが抜けた。
「私は……」
彼は子どもを見た。
「君は、誰だ?」
子どもの顔が崩れた。何百枚もの白い仮面になり、ヘクトの腕へ食らいつく。
テザレとミリが彼を引き戻す。ソルが工具袋を投げつけ、仮面を散らした。
黒い球の亀裂が開いた。
向こうに星空があった。
偽物の地下天井ではない。
無数の星が、こちらへ向かって落ちてくる空。星々の間を、山脈より大きな影が泳いでいる。輪郭は見るたび変わり、目だと思った部分が口になり、口だと思った裂け目から新しい星座が生まれる。
それは遠い宇宙にいるのではなかった。
黒い球の向こうから、こちらの世界へ顔を押しつけていた。
帰り星は、死者を呼ぶ鐘ではない。
世界の外にいるものへ、食事の時刻を知らせる鐘だった。
「三度目が鳴ったら、門が開く」
ヘクトが腕を押さえながら言った。
「輪を壊せ!」
「壊したら熱脈も止まる!」とミリ。
「町より世界だ!」
ウニェイの姿が、アニカの前へ来た。
「私はまだ、ここにいる」
「違う」
アニカの声は震えた。
「あなたは、私が覚えてる母さん」
「それでも、あなたを愛している」
「私が、そう言ってほしいから」
ウニェイは悲しそうに笑った。
「なら、それは偽物?」
問いは、刃物より鋭かった。
記憶から生まれた愛は、愛ではないのか。
アニカは記録帳を開いた。
「私が生まれた日の空は、何色だった?」
ウニェイはすぐに答えた。
「青よ。とても澄んだ青」
胸の中で、何かが静かに終わった。
「違う」
アニカは泣いていた。
「金色だった。逆さ雨が降ってた。母さんは、それを私が忘れないように書いた」
ウニェイの顔に、ひびが入った。
「教えて」
声が変わった。母の声の下から、何千もの声が重なる。
「もっと教えて。あなたの母を。あなたの町を。あなたの友を。すべて思い出して。すべてこちらへ渡して」
黒い海が持ち上がり、巨大な手の形になった。
三つ目の鐘が、鳴り始めた。
まだ音になる前の震えが、骨の内側を揺らす。
「アニカ!」
仲間たちの声がした。
テザレは光の環に工具を突き立てている。ミリは空中地図を必死に読み、ソルは耳から血を流しながら振動を追っていた。
「輪を壊さずに閉じる方法、見つけた!」とテザレ。
「たぶん!」とソル。
「今のたぶんは聞かなかったことにする!」とミリ。
地図には、三つの環と三つの弁が重なっていた。
中心弁は、装置そのものだ。
帰り星の環を熱脈の流路へ組み替えれば、門を閉じながら町へ熱を送れる。
ただし、環を回す力が必要だった。
人の力では動かない。
「山をもう一度鳴らす」とソル。
「共鳴器は落とした」とテザレ。
ソルは胸元から、最後の石蜜パンを出した。
「父さんのパンがある」
「それでどうするの」
「硬い」
「知ってる」
「ものすごく硬い」
ソルはパンを光の環へ投げた。
石蜜パンは環の縁に当たり、澄んだ音を出した。
都の橋、扉、導管がその音を拾った。
山脈が答えた。
低い振動が、帰り星の三つの環へ流れこむ。
「今!」
五人は、それぞれの環にしがみついた。
テザレが歯車を噛ませる。ミリが目盛りを読む。ソルが音のずれを叫ぶ。ヘクトが欠けた指で梃子を押す。
アニカは、母の顔をしたものと向き合った。
「帰って」
「どこへ?」
「私の中へ。あなたがいた場所へ」
アニカは手を伸ばさず、母の地図留めだった赤い石を、真鍮輪の中心へ差しこんだ。
環が回った。
黒い海が絶叫した。
母の顔が、父の顔が、町中の顔が、星より古い何かの顔へ溶けていく。
黒い球の亀裂が大きく開き、向こう側の影が指のようなものを差し入れた。
指一本が、夜空ほどあった。
それがこちらへ触れる寸前、三つの環が一直線に重なった。
金色の熱脈が、環の中を走る。
光が門を焼いた。
黒い球は内側へ潰れ、星々も影も一点へ吸いこまれて消えた。
三つ目の鐘は、最後まで鳴らなかった。
静寂の中、母の姿だけが残った。
ひびだらけの顔で、アニカを見た。
「あなたが覚えている私は、笑っていた?」
アニカは涙を拭いた。
「怒ってた。いつも地図を食卓に広げて、スープをこぼしてた」
「そう」
母の形をしたものは、少し笑った。
「それなら、きっと幸せだった」
光になって消えた。
偽物だった。
けれど最後の言葉まで偽物だったのか、アニカには分からなかった。
分からなくても、もう追いかける必要はなかった。
八 山の心臓からの脱出
門が閉じると同時に、都が崩れ始めた。
「古代都市って、どうして必ず最後に崩れるの!」
ミリが叫ぶ。
「建築基準が違うんだろ!」とテザレ。
黒い海が急速に引き、底から金色の熱流が噴き上がった。
五人は環の破片に飛び乗った。破片は熱流に押され、導管の中へ流れこむ。
背後で、塔が折れた。
白い仮面の群れが壁から剥がれ、熱に触れて蒸気になる。蒸気の中から、盗んだ声が飛び散った。
笑い声、泣き声、名前を呼ぶ声。
アニカは振り返らなかった。
導管は急傾斜を上り、途中から横へ折れ、また落ちた。五人を乗せた破片は、金色の濁流を滑る小舟になった。
「曲がる!」ソル。
「どっち!」
「全部!」
分岐が迫る。
ミリは母の地図と空中に残った流路を見比べた。
「右、左、中央、右!」
ヘクトが破片の端を踏み、体重で舵を切る。テザレは外套を広げて帆にした。ソルは管の音から崩落を予測する。
アニカは真鍮輪の残った一片を握り、熱の流れを感じた。
町へ向かっている。
彼らの家へ。
最後の分岐の先で、導管が途切れていた。
向こう岸まで十メートル。
下は、光る溶岩の川。
「飛ぶしかない」とテザレ。
「帆が小さい」とヘクト。
「人数を減らす?」
「冗談でも怒るわよ」とミリ。
ソルが布袋を逆さにした。パン屑が少しだけ落ちる。
「もう奇跡のパンはない」
アニカは環の破片を見た。縁には、まだ青い文字が走っている。
「これ、音で動く」
「何を鳴らす?」
四人は顔を見合わせた。
そして、セヴフォルの祭り歌を歌い始めた。
音程はばらばらだった。
テザレは歌詞を半分しか覚えていない。ミリは途中で指示を叫び、ソルは低すぎる声を重ねた。ヘクトは最初黙っていたが、二番から加わった。
環の破片が震えた。
青い文字が光り、即席の小舟は導管を飛び出した。
五人は金色の川の上を飛んだ。
向こう岸へ届く直前、破片が砕ける。
全員が床へ転がり、アニカは誰かの靴に顔をぶつけた。
「生きてる?」とミリ。
「たぶん」とテザレ。
「その言葉、便利ね」
背後で導管が崩れた。
前方に、見覚えのある六角形の扉があった。
四人で音を鳴らす。
ド、ミ、ラ、地の底の低音。
扉が開く。
北坑道の縦穴には、逆さ雨がまだ降っていた。
今度は金色だった。
熱脈の光を含んだ水滴が、町へ向かって空を上っていく。
五人は帆布につかまり、雨とともに上昇した。
坑道入口を抜けたとき、朝が来ていた。
九 セヴフォルに降る金の雨
町の広場では、住民たちが荷車に家具を積んでいた。
最初にアニカたちを見つけたのは、ソルの父だった。
彼は息子へ駆け寄り、抱きしめ、次に空のパン袋を見た。
「全部食べたのか」
「世界を救うのに使った」
「そうか」
父親は少し考えた。
「なら、次はもう少し柔らかく焼こう」
北坑道から、金色の逆さ雨が噴き上がった。
雨は空へ昇り、町の上で細かな霧になり、それから普通の雨のように降り始めた。
屋根に触れた雪が溶けた。
凍っていた水車が回った。
町の中心で、死んだはずの熱井が低く唸り、七年ぶりに炎を噴いた。
住民たちの歓声が、谷を満たした。
赤い退去札は湯気に包まれ、文字がにじんだ。
ヘクトは広場の階段へ上がった。
「退去命令は撤回する」
誰かが「権限あるのか」と叫んだ。
「ない」
ヘクトは答えた。
「だが、七年前の報告を偽造し、地図師セラ・ロウの失踪について事実を隠した責任は私にある。王都へ戻り、すべて話す。処分されるまでの間、命令書を破るくらいはできる」
彼は赤い札を引き抜き、膝で折った。
広場がもう一度沸いた。
ミリは濡れた髪をかき上げた。
「町長選に出たら勝てるかもね」
「二度と子どもの引率はしない」とヘクト。
「引率された覚えはない」とテザレ。
アニカは人垣を離れ、崖の端へ行った。
灰冠山脈は、朝日に金色の雲をまとっていた。
母は、あの山のどこかで死んだのだろう。
帰ってはこない。
その事実は変わらない。
けれど、母が残した熱は町を巡っている。家々の暖炉へ、水車へ、パン窯へ。地図は道を示すだけではない。誰かが歩き終えた場所から、次の誰かを出発させることもある。
テザレたちが隣に並んだ。
「これからどうする?」とソル。
「寝る」とミリ。
「工房の屋根を直す」とテザレ。
「その前に、北坑道の扉を封鎖する」
アニカは言った。
「完全に?」
「完全に」
少し間を置いて、付け足す。
「入口はね」
三人が笑った。
アニカは母の記録帳を開いた。最後の頁の裏側に、今まで見えなかった線が浮かんでいる。金色の雨に濡れて現れた、もう一枚の地図だった。
灰冠山脈のさらに北。
海のない場所に描かれた、船の印。
その横に、母の小さな字がある。
《ここから先は、私も知らない》
テザレが覗きこんだ。
「封鎖するんだよな?」
「入口は」
ミリはため息をつきながら、もう笑っていた。
遠い山の底で、鳴らなかった三つ目の鐘が、ほんのかすかに身じろぎした。
だが今度、アニカは振り返らなかった。
町へ戻る道を、四人で歩き出した。
了