『灰堂家の七ツ鐘』
一 雨の依頼
「生きている人間の葬式は、頼めますか」
午前一時十三分。
雨に濡れた少女は、灰堂葬儀社のガラス戸を開けるなり、そう言った。
店内には線香の匂いと、古い柱時計の音が満ちていた。壁際には白木の位牌、棺の見本、造花の百合。夜更けの葬儀社に似つかわしくないものが一つだけある。帳場の奥からこちらを見ている、五人の人間だった。
黒い作務衣の老人、灰堂弦士。
死化粧師の朱鷺。
霊柩車の整備をする巌。
耳のよすぎる小鈴。
そして、つい先ほど配達仕事から戻ったばかりの紫月。
少女の髪から落ちた雫が、床に小さな染みをつくった。
「まず名前を聞こう」
弦士が言った。
「玻名紬。十九歳です」
「葬ってほしい相手は」
「御厨聖道」
その名を聞いて、朱鷺が細い眉を上げた。
御厨聖道。児童福祉財団《灯火会》の代表。親を失った子、家庭に戻れない子、路上で眠る子を保護し、学費と住居を与える慈善家。テレビでは穏やかな声で「どんな子にも帰る家が必要です」と語り、政界への出馬さえ噂されている。
「ずいぶん立派な男じゃない」
朱鷺の声には、立派という言葉を信用したことがない者の響きがあった。
紬は濡れた鞄から、焦げた学生証を取り出した。
写真の少年は、ひどく真面目そうな顔で笑っている。名前は玻名晴人。十六歳。
「弟です。三か月前、《灯ノ家》の倉庫火災で死にました。警察は、灯油を盗もうとして火を出した事故だと。でも晴人は火がつく前に死んでいた。あの子は閉じ込められて、息ができなくなって……そのあと、証拠ごと焼かれたんです」
「誰がそう言った」
「晴人が」
紫月は濡れたヘルメットを棚に置いた。
「死人が喋ったのか」
「死ぬ直前、私に電話をくれました。声はほとんど入ってなかった。でも、最後に一度だけ……『父さんが来る』って」
灯ノ家で子どもたちが御厨を呼ぶ名も、父さんだった。
弦士は学生証を受け取らず、紬を見た。
「警察へは」
「何度も行きました。担当の刑事は、弟に薬物使用歴があったと言いました。嘘です。病院も同じことを言った。財団の顧問弁護士からは、これ以上騒げば名誉毀損で訴えるって」
「それで、うちをどこで知った」
「火葬場で聞きました。名前のない骨を拾っていたお婆さんが、こう言ったんです。『法が目を閉じたなら、灰堂を訪ねなさい』って」
弦士はしばらく黙っていた。
柱時計が十四回、針を刻んだ。
「うちが引き受けるのは三つが揃った時だけだ。死者がいる。裁かれぬ悪がいる。そして依頼人が、取り戻せぬものを一つ、代金として差し出す」
「お金なら――」
「金は取り戻せる」
紬は唇を噛んだ。やがて鞄の底から、小さなカセットテープを出した。
透明なケースに、子どもの字で《つむぎとはるとのうた》と書かれていた。
「母が死ぬ前に録ってくれたものです。弟の声が残っているのは、これだけです」
紫月が思わず口を挟んだ。
「それを渡したら、弟の声までなくなる」
「だから代金になるんでしょう」
紬は両手でテープを差し出した。
震えていたが、引っ込めなかった。
弦士は受け取ると、帳場の黒い箱へ納めた。
「小鈴」
呼ばれた小鈴が、焦げた学生証を両手で包んだ。
彼女は二十歳だったが、化粧気のない顔と短く切った髪のせいで、もっと幼く見える。目を閉じ、親指を学生証の焼けた縁へ置いた。
灰堂家には、葬儀屋として表に出さない技がある。
人は死の間際、最後の脈を、握っていた物や触れた場所に残す。
それを《終脈》と呼ぶ。
終脈を聞き取り、死者が味わった四十九秒を、加害者の体へ返す。
その仕置きを《七ツ鐘返し》と呼んだ。
もっとも、誰にでも使えるわけではない。
死に責任のない者へ刻んでも、鐘は鳴らず、痕は消える。悪意をもって死へ関わった者だけが、死者の脈と共鳴する。直接手を下していなくても、命令の鎖が終脈へつながっていれば、返し痕はその中心へ届く。
小鈴の肩が跳ねた。
息を吸う。
吸えない。
爪が硬い壁を掻く。
白い光。
耳元で機械音。
ガラスの向こうに、背の高い男。
――家族のない子は、消えても誰も困らない。
小鈴の喉から、かすれた呼気が漏れた。
巌が背を支える。朱鷺が学生証を取り上げた。
「四十九秒」
小鈴は目を開き、涙を拭かずに言った。
「晴人くんは、火で死んでない。白い部屋で空気を抜かれた。御厨は、ガラスの向こうで見てた」
弦士は黒い箱の蓋を閉めた。
「依頼を受ける」
紬が息を呑んだ。
「ただし覚えておけ。復讐は死者を生き返らせん。済んだあと、お前の手には何も戻らない」
「はい」
「それでも鐘を鳴らすか」
紬は焦げた学生証を見つめた。
「弟が死んだことさえ、なかったことにされるよりは」
その答えを聞き、弦士は帳場の明かりを一つ消した。
「では、弔いを始める」
二 選び直した家族
灰堂家の五人は、血でつながった家族ではなかった。
弦士と双子の朱鷺、巌だけが実の親子だった。
小鈴は十一年前、母親の葬儀のあとに引き取られた。
紫月は十年前、灰堂家が請け負った仕事の現場で、焼けた押し入れから救い出された。
戸籍も名字も、それぞれ後から揃えたものだ。
「家族は生まれつくものじゃない」
弦士は常々そう言った。
「選び直すものだ」
だが紫月は、その言葉を完全には信じていなかった。
救われた恩はある。
技を教わった恩もある。
それでも、夜ごと法の外で人を裁くこの家が、本当に家族と呼べるのか。自分たちは傷を持ち寄り、正義という名前の縄で互いを縛っているだけではないのか。
翌日の夕方、紫月はバイクを《灯ノ家》の向かいに停めた。
かつて教会だった建物を改装した、白い四階建て。正面には暖色の照明が灯り、玄関脇の石板に《すべての子どもに帰る灯を》と刻まれている。
その夜は、灯火会の創立十五周年記念式典だった。
企業経営者、議員、芸能人、報道関係者。建物の前には黒塗りの車が列をつくり、笑顔の御厨聖道が一人ひとりを迎えていた。
銀混じりの髪を後ろへ撫でつけ、仕立てのいい灰色のスーツを着ている。テレビで見るより背が高い。人の話を聞く時、わずかに首を傾ける癖があり、それが相手に「理解されている」と思わせる。
朱鷺は式典スタッフのメイク担当として入った。
巌は音響会社の搬入員。
小鈴は財団の元奨学生。
弦士は寄付を申し出た地方の葬祭業者。
紫月は花屋の配達員。
紬には、元入所者として壇上で体験談を話す招待状が届いていた。晴人の死後、財団が何度も送ってきたものだ。御厨は、姉が自分たちを疑っていると知りながら、あえて人前へ引きずり出し、笑顔を強いるつもりだった。
「危険だ。来るな」
紫月は言った。
紬は首を横に振った。
「晴人がいた場所を、私も見ます」
朱鷺が黒い手袋を一組、紬へ渡した。
「右手の裏に灰を塗ってある。御厨に触れれば、返し痕が一つ刻まれる。でも勝手に使わないで。痕を六つ揃えるまで、向こうに気づかれたくない」
「六つ?」
「最後の一つは鐘そのもの。依頼人が死者の名を呼んで鳴らす。そこまでいって、初めて四十九秒が返る」
小鈴が紬の手を握った。
「怖くなったら、途中でやめてもいいよ」
「やめたら、弟はまた一人になります」
「死者は一人じゃない」
小鈴は静かに言った。
「覚えてる人がいる限りは」
紫月には、その言葉が慰めなのか、呪いなのか分からなかった。
三 灯ノ家
午後七時。
式典が始まった。
御厨聖道は壇上で、家族について語った。
「血のつながりだけが家族ではありません。大切なのは、互いを必要とすることです。社会から見放された子どもたちに、私たちは新しい家族を与えてきました」
拍手が起きた。
紫月は花束を抱えたまま、会場の後方から御厨を見ていた。
必要とすること。
御厨の言うそれは、首輪と何が違うのだろう。
朱鷺が壇上へ上がり、御厨の襟元を直すふりをした。白粉をつけた中指が、耳の後ろへ一瞬触れる。
ちん。
御厨だけに聞こえる、小さな金属音。
御厨の笑顔が、ほんのわずかに固まった。
一つ目。
乾杯の時、紫月がグラスを手渡す。親指が手首の内側を撫でた。
ちん。
二つ目。
御厨は紫月を見た。
「君、どこかで会ったかな」
「花屋は、忘れられるくらいがちょうどいいんです」
紫月は頭を下げて離れた。
会場の隅で、小鈴がわざとパンフレットを落とす。拾おうとした御厨の靴へ、彼女の指が触れた。
ちん。
三つ目。
御厨の目から、慈善家の温度が消えた。
だが次の瞬間には、また笑っていた。
「気をつけて。転ぶと危ない」
「ありがとうございます、父さん」
小鈴が、入所者たちと同じ呼び方をした。
御厨の瞳孔が、針の穴ほど小さくなった。
式典の後半、弦士が寄付の目録を差し出した。
「灰堂葬儀社の灰堂と申します」
御厨の指が止まった。
「灰堂……」
「人はいつか、皆こちらの客になります」
弦士が手を差し出す。
御厨は断れなかった。大勢のカメラが見ている。
握手。
ちん。
四つ目。
御厨は手を引き、笑ったまま囁いた。
「葬儀屋が、随分と急いで客を迎えに来たものだ」
「お迎えの時刻は、客が決めるものではありません」
二人は笑顔で別れた。
その頃、朱鷺は三階の代表室へ入っていた。
御厨の顔へ塗った化粧下地には、皮脂と汗を写し取る透明膜が混ぜてある。顔認証端末へ膜をかざすと、金庫のロックが外れた。
「生きた顔から死に顔を取る。因果な商売ね」
金庫の中には寄付金の帳簿ではなく、子どもたちの名簿があった。
本名。
偽名。
開設させた銀行口座。
運ばせた荷物。
被らせた罪。
従順度。
備考欄に《処分》と書かれた名が、十七人。
玻名晴人の名もあった。
朱鷺は小型端末で全頁を撮影した。
隣の部屋では、巌が壁を叩いていた。
「空洞だ」
低い声が無線に流れる。
表向きの礼拝堂と、裏の倉庫の間。図面にはない空間がある。
小鈴が壁へ耳を当てた。
何も聞こえない。
だからこそ、そこにある。
外の音を完全に遮断した部屋。
「ここ。晴人くんの終脈と同じ反響がする」
巌が装飾板を外した。奥に、白い扉が現れた。
扉の表示は《黙想室》。
内部は三畳ほどの密閉空間だった。壁も床も白く、天井には監視カメラ。片側だけが分厚い観察ガラスになっている。
床の隅に、爪で刻まれた文字があった。
《つむぎ》
それだけだった。
小鈴が膝をつく。
巌の拳が震えた。
無線の向こうで、朱鷺が言った。
「証拠は押さえた。子どもたちの居室へ――」
その時、全館の明かりが消えた。
非常灯が赤く点いた。
御厨の声が、館内放送から流れた。
『お客様には申し訳ありません。安全確認のため、一階ホールでお待ちください』
一拍置き、声の調子が変わった。
『灰堂の皆さんは、その場を動かないように』
廊下の防火扉が一斉に閉じた。
四 家族の値段
式典客は職員に誘導され、表玄関から避難した。
だが入所中の子どもたちは、地下の居室へ集められたままだった。
御厨は最初から、灰堂家が来る可能性を考えていた。
晴人の死を調べる者がいる。
火葬場で灰堂の名を口にした者がいる。
それだけで、十分だった。
紫月が会場を出ようとした時、二人の男が前を塞いだ。
一人は灯火会の警備責任者、慧都剛。
もう一人は晴人の事件を担当した刑事、城戸。
「花屋にしちゃ、目つきが悪いな」
城戸が上着の内側へ手を入れた。
紫月は花束を投げた。
白百合が視界を埋める。
その間に間合いを詰め、城戸の拳銃を握った手首へ肘を打ち込む。銃が床を滑った。慧都の蹴りが脇腹へ入り、紫月の体が長机を越えて転がる。
慧都は元総合格闘家だった。子どもたちの《指導》を担当し、晴人を黙想室へ運んだ男でもある。
「御厨先生は、あんたらみたいな連中が嫌いでね」
「奇遇だな。こっちもだ」
紫月は立ち上がった。
慧都が踏み込む。
拳。
紫月は受けずに潜り、胴へ掌を当てた。
灰を練り込んだ小さな針が、掌から慧都の服を貫く。
だが鐘は鳴らない。
慧都は笑った。
「何だ、それ」
返し痕は御厨にしか効かない。晴人の死を命じ、ガラスの向こうで見届けた中心は、あの男だ。
慧都の膝が紫月の顎を跳ね上げた。
次の拳が来る前に、壁が揺れた。
閉じた防火扉が、外からひしゃげる。
二度目の衝撃で蝶番が飛び、巌が廊下へ入ってきた。
「弟に触るな」
巌は慧都の拳を片手で受け止めた。
「血もつながってねえくせに」
「だから何だ」
巌の額が慧都の鼻へ落ちた。
鈍い音。
慧都がよろめく。
「血は選べん。だが、誰を守るかは選べる」
巌の拳が、慧都の鳩尾へめり込んだ。
ちん。
廊下の遠くで、御厨が五つ目の鐘を聞いた。
灰堂家の返し痕は、直接本人に触れなければならないとは限らない。
死へ至る命令の鎖、その中心にいる者は、手足となった共犯者を通しても脈がつながる。慧都が晴人を運んだ時の記憶を拳で揺らし、その脈を御厨へ返したのだ。
御厨は監視室で胸を押さえた。
「五つ……」
傍らの医師、余村が青ざめた。
「何の音です」
「君には聞こえない」
御厨はモニターを切り替えた。
地下へ向かう小鈴。
金庫のデータを送信しようとする朱鷺。
廊下で城戸と慧都を押さえる巌と紫月。
そして、舞台袖に一人残された紬。
「家族というのは便利だ」
御厨は言った。
「一人を掴めば、全員が同じ方向を向く」
彼は警備員へ指示を出した。
紬が背後から口を塞がれたのは、その直後だった。
朱鷺は代表室で、送信画面を睨んでいた。
館内の回線が切られている。
外部へ出すには、屋上の非常用アンテナへ端末を直結するしかない。
扉が開き、余村医師が入ってきた。
白衣の下に防弾ベストを着込み、注射器を握っている。
「その端末を置け」
「医者が注射器を持つと、普通は安心するものだけど」
「普通の患者ならな」
余村が踏み込んだ。
朱鷺は机の化粧箱を蹴り上げた。粉末が舞う。
余村は腕で顔を覆いながら突進する。
注射針が朱鷺の肩を掠めた。
朱鷺は痛みを無視し、細い化粧筆を余村の耳の下へ走らせた。
「死化粧はね、顔をきれいにする仕事じゃない」
筆先に仕込んだ導電糸が、頸部の神経を弾いた。
余村の右半身が硬直する。
「遺された人が、最後にその顔を見られるようにする仕事よ」
もう一筆。
左手から注射器が落ちた。
「あなたが偽造した死亡診断書のせいで、十七人の家族は最後の顔さえ見られなかった」
朱鷺は端末を拾い、余村の白衣の胸へ押し込んだ。
「屋上まで運んで。拒んだら次は呼吸筋を止める」
余村は歯を鳴らしながら歩き出した。
地下では、小鈴が子どもたちの部屋を開けて回っていた。
十二人。
最年少は九歳。
皆、火災訓練だと言い聞かされ、窓のない部屋で待たされている。
「静かに。裏口から出るよ」
一人の少年が尋ねた。
「父さんは?」
小鈴は答えに詰まった。
「御厨先生。僕たちを助けてくれたんだ」
「助けたんじゃない」
別の少女が言った。十四、五歳だろう。片方の頬に古い火傷がある。
「逃げられないように、前の家よりましな檻へ入れただけ」
小鈴はその少女を見た。
「名前は?」
「汐莉」
「汐莉、みんなを連れていける?」
「あなたは?」
「まだ呼ばれてる人がいる」
小鈴には聞こえていた。
建物の奥に残る、いくつもの終脈が。
晴人だけではない。
白い部屋の壁には、声にならなかった四十九秒が幾層にも染み込んでいる。
「今夜、全部外へ出す」
五 六つ目の鐘
紬が目を開けると、黙想室の中にいた。
手首を後ろで縛られ、白い椅子へ座らされている。
観察ガラスの向こうに、御厨聖道が立っていた。
御厨はマイクのスイッチを入れた。
『久しぶりだね、紬。君もここで暮らしていた頃は、もっと素直だった』
「晴人を殺したの」
『言葉は正確に使おう。私は、選択肢を与えた。盗んだ記録の場所を話すか、弟として姉を守り通すか。彼は後者を選んだ』
「空気を抜いた」
『四十九秒だけだ。普通なら気絶する程度だった。あの子は心臓が弱かった。それを黙っていた君にも責任はある』
紬の顔から血の気が引いた。
晴人は幼い頃、不整脈の手術を受けていた。
財団へ提出した医療記録にも書いてあった。
御厨は知っていた。
知った上で、四十九秒を選んだ。
「人を殺しておいて、どうして家族なんて言えるの」
『家族だからだよ』
御厨はガラスへ手を置いた。
『家族は、弱みを最も効率よく管理できる仕組みだ。親は子を、兄は妹を、姉は弟を守ろうとする。守りたい者がいる人間は、命令しやすい。私は身寄りのない子どもに家族を与えたのではない。家族という命令装置を与えたんだ』
紬は吐き気をこらえた。
『晴人は優秀だった。口座も作った。荷物も運んだ。だが最後に、家族を選んだ。君へ記録を渡そうとした。だから壊れた装置を処分した』
「弟は装置じゃない」
『そう思いたいだろう』
御厨が操作盤へ手を伸ばす。
『灰堂家も同じだ。孤児と死人を拾い、家族という名で縛る。私と彼らの違いは、看板だけだよ』
送気口から、低い音がした。
紬の呼吸が浅くなる。
御厨は四十九秒のカウントを始めた。
『四十九』
その時、観察室の扉が吹き飛んだ。
紫月が転がり込み、御厨へ体当たりした。
操作盤から手が離れる。
御厨は床へ倒れながらも、隠し持っていた小型拳銃を抜いた。
銃声。
銃弾が紫月の脇腹を掠め、服が赤く裂けた。
「紫月!」
ガラス越しに紬が叫ぶ。
紫月は膝をついたが、倒れなかった。
御厨が銃口を向け直す。
「君は灰堂の本当の子ではないそうだね」
「よく調べたな」
「彼らが死ねと言えば、死ぬのか」
「言われたことがない」
「なら、なぜここへ来た」
紫月は傷口を押さえ、立ち上がった。
「妹が呼んだからだ」
「血もつながらない女を、妹と?」
「家族は選び直すものらしい」
紫月は苦く笑った。
「今日まで、半分しか信じてなかったが」
御厨が引き金を引く。
弾は出なかった。
紫月が飛び込む際、床へ撒いた百合の茎。その一本に隠した薄い金具が、拳銃の遊底へ挟まっていた。
紫月は御厨の手首を捻り上げ、銃を落とした。
肘。
肩。
御厨は体勢を崩しながら、紫月の傷を蹴る。
紫月の視界が白く飛んだ。
御厨は壁際の非常レバーへ走る。建物全体へ可燃性の消毒ガスを流し、証拠も子どもも焼くつもりだ。
紫月が足首を掴んだ。
二人は床を転がり、観察ガラスへぶつかった。
紬の目の前に、御厨の顔が来る。
御厨はガラス越しに笑った。
「君が弟を殺したんだ」
紬は立ち上がった。
手首の縄は、椅子の金具で擦り切っていた。
彼女は扉の非常解除ボタンを押した。黙想室の扉が開く。
御厨が振り返る。
紬は右手の手袋を外した。
掌には、朱鷺が塗った灰が残っていた。
「晴人は、最後まで私を家族にしてくれた」
平手が御厨の頬を打った。
ちん。
六つ目。
御厨の顔から、初めて完全に笑みが消えた。
六 七ツ鐘返し
屋上で、朱鷺がアンテナへ端末を接続した。
帳簿。
監視映像。
偽造された死亡診断書。
警察への送金記録。
御厨が黙想室の操作を指示する音声。
すべてが複数の報道機関、検察、児童相談所へ同時送信された。
「こっちは終わり」
朱鷺が無線へ言った。
地下では、小鈴が最後の子どもを裏口から逃がした。
巌は城戸刑事を霊柩車の搬送台へ縛りつけ、胸元へ録音機を置いた。
「話せ」
「何をだ」
「晴人の捜査記録を誰に消させた」
「知らん」
巌は搬送台を車内へ押し込んだ。
「霊柩車の中は、嘘がよく響くぞ」
扉を半分閉める。
暗闇を見た城戸は、一分も持たなかった。
そして一階の玄関前では、弦士が小さな真鍮の鐘を手にしていた。
黒い布で包まれ、普段は決して鳴らさない鐘。
無線から紫月の息が聞こえる。
『六つ、揃った』
「死者の名は」
『玻名晴人』
「依頼人は」
『ここにいる』
弦士は鐘を見た。
七ツ鐘返しの最後を鳴らせるのは、死者を記憶する者だけだ。
術者が勝手に裁きを完成させることはできない。
依頼人は最後の瞬間、必ず選ばなければならない。
返すか。
手放すか。
弦士は鐘を小鈴へ渡した。
「持っていけ」
小鈴は階段を駆け上がった。
黙想室の前で、御厨は後ずさった。
「その術で私を殺せば、君たちも殺人者だ」
紫月は壁にもたれたまま、血に濡れた手を離さない。
「俺たちは殺さない」
「言葉遊びをするな」
「お前の体へ、晴人の四十九秒を返すだけだ」
「同じことだ!」
「違う」
小鈴が真鍮の鐘を抱え、廊下へ現れた。
「返しは、罪がなければ届かない」
御厨は彼女を見て、扉へ走った。
紫月が足を払う。
御厨は黙想室の中へ倒れ込んだ。
紬が操作盤の前に立つ。
小鈴は鐘を差し出した。
「紬さん。ここで終わりにできる」
紬は受け取らなかった。
御厨は床を這い、叫んだ。
「考えろ! 弟はそんなことを望んでいない! 死んだ者の望みを、生きた者が勝手に決めるな!」
紬の肩が震えた。
それは正しい言葉だった。
死者は何も頼まない。
復讐を欲しがるのは、いつも生き残った者だ。
紬は紫月を見た。
「鳴らしたら、私はこの人と同じになりますか」
紫月はすぐに答えなかった。
「同じにはならない、とは言えない」
小鈴が息を呑む。
紫月は続けた。
「人を裁けば、必ず何かが残る。正義って言葉で洗っても落ちないものが。でも、鳴らさずに帰れば何も残らないわけじゃない。どっちを選んでも、たぶん一生持って歩くことになる」
「じゃあ、どうすれば」
「弟じゃなく、自分のために決めろ」
紬は目を閉じた。
母の声。
幼い自分の歌。
音程を外して笑う晴人。
雨の日、二人で分けた傘。
施設へ送られる弟へ、必ず迎えに来ると言った約束。
間に合わなかった夜。
そして、床に爪で刻まれた《つむぎ》の四文字。
紬は鐘を受け取った。
「私は、弟のためには鳴らしません」
御厨の顔に希望が戻る。
「そうだ。それが賢明だ」
「ここにいた十七人と、今も名前を消されかけている子たちと――私自身のために鳴らします」
御厨が扉へ飛びついた。
紬は鐘を掲げた。
「玻名晴人」
真鍮の舌が、縁を打つ。
ごおん。
小さな鐘から出たとは思えない低い音が、建物全体を震わせた。
御厨の体に刻まれた六つの返し痕が、黒く浮かび上がる。
一つ。
耳の後ろ。
二つ。
手首。
三つ。
足首。
四つ。
掌。
五つ。
胸。
六つ。
頬。
七つ目の鐘は、心臓の内側で鳴った。
御厨の呼吸が止まる。
実際には空気がある。
だが肺は、晴人が最後に吸えなかった空気を記憶し始めた。
「やめろ……」
四十九。
御厨は喉を掻いた。
四十八。
目の前の白い壁が、三か月前の黙想室へ重なる。
四十七。
観察ガラスの向こうにいるのは灰堂家ではない。
椅子に縛られた晴人自身だ。
三十九。
爪が床を掻く。
三十三。
自分がマイク越しに告げた声が、耳元で響く。
――家族のない子は、消えても誰も困らない。
二十六。
御厨は操作盤へ這った。
呼吸を戻そうと、非常用の酸素供給ボタンを叩く。
だがそこは、彼自身が証拠隠滅用に改造した装置だった。
赤いカバーの下のボタンは酸素ではない。黙想室を完全密閉し、内部の空気を排出する《処分》スイッチ。
紫月が止めようと手を伸ばした。
間に合わない。
御厨の掌がボタンを押し込んだ。
扉が自動で閉まる。
十七。
今度は幻ではなく、本当に空気が抜け始めた。
御厨はガラスを叩いた。
十三。
紬は目を逸らさなかった。
九。
御厨の口が、声にならない言葉を形づくる。
助けて。
七。
晴人が最後に何を見たのか、御厨はようやく知った。
ガラスの向こうで、自分の死を眺める人間の顔。
三。
二。
一。
御厨聖道は、白い床へ崩れ落ちた。
返された四十九秒が終わると同時に、館内の非常電源が落ちた。
闇の中で、真鍮の鐘の余韻だけが残った。
七 弔いの朝
夜明け前、灯ノ家には警察と消防、児童相談所の車両が集まった。
送信された記録は止められなかった。
城戸の自白も、余村の偽造記録も、慧都が子どもたちを黙想室へ運ぶ映像も残った。
御厨の死は、密閉装置の誤作動として処理されるだろう。
灰堂家の名が表に出ることはない。
紬は救急車の横で、毛布に包まれていた。
子どもたちが一人ずつ保護されていく。
汐莉という少女が、乗り込む前に紬へ頭を下げた。
「晴人くん、あの部屋でずっと名前を呼んでた」
紬の唇が震えた。
「聞こえたの?」
「壁に残ってた。小鈴さんが教えてくれた」
汐莉はそれだけ言い、車へ乗った。
空が薄青くなる頃、紬は灰堂葬儀社へ戻った。
弦士は中庭の小さな火鉢の前に座っていた。
黒い箱から、カセットテープを取り出す。
《つむぎとはるとのうた》
紬は両手を握りしめた。
「返してほしいか」
弦士が尋ねた。
紬は長い間、答えなかった。
やがて首を横に振る。
「それを代金にした私まで、なかったことにしたくないです」
弦士は頷き、テープを火へ入れた。
透明なケースが歪む。
茶色い磁気テープが縮れ、幼い姉弟の声が、誰にも再生できないものになっていく。
紬は泣かなかった。
代わりに、小さく歌い始めた。
音程の単純な、子どもの歌だった。
一番を歌い終えると、少し遅れて二番へ入る。そこは晴人がいつも間違えたところらしく、紬は一度だけ笑った。
「なくなってないな」
紫月が縁側から言った。
脇腹には朱鷺が巻いた包帯がある。
「何が?」
「声」
紬は火を見つめたまま答えた。
「私が覚えているうちは」
弦士が火鉢へ蓋をした。
「依頼は完了だ」
紬は深く頭を下げ、朝の街へ歩き出した。
その背を見送りながら、紫月は弦士へ言った。
「御厨の言葉、少しだけ当たってた」
「どれだ」
「家族は命令装置だってやつ。呼ばれたら、行かずにいられない」
弦士は鼻を鳴らした。
「命令と願いの区別もつかんのか」
「親父は、俺たちに何を願ってる」
「先に死ぬな。それだけだ」
朱鷺が奥から顔を出した。
「格好つけてるところ悪いけど、床が血だらけ。紫月、自分で拭きなさい」
巌が霊柩車の鍵を鳴らす。
「朝飯のあと手伝う」
小鈴は柱時計を直していた。昨夜の停電で、午前一時十三分のまま止まっている。
紫月は四人を見た。
血のつながりは半分もない。
性格は合わない。
やっていることはまともではない。
それでも呼ばれれば来る。
傷つけば支える。
間違えば止める。
たぶん、それで十分だった。
紫月は雑巾を取りに立ち上がった。
灰堂葬儀社の軒先で、風もないのに、小さな弔鐘が一度だけ鳴った。
了