『灰明の王冠』

一 忘れ税

 王の徴税吏が村へ来る日は、犬まで夢を見なくなる。

 黒い幌馬車が泥道を軋ませ、六頭の馬が白い息を吐いていた。馬には目隠しがされている。御者台に人影はなく、車輪の内側では、歯のない頭蓋骨が祈るように回っていた。

 村人たちは広場に並ばされ、一人ずつ馬車の前へ進む。

 扉の奥には銀の椅子がある。座った者の額へ細い針が入り、今年いちばん幸福だった記憶を吸い出す。恋人の笑顔。生まれた子の泣き声。病床の母が最後に握った手。記憶は青白い雫となって玻璃瓶に落ち、王都へ運ばれる。

 それが忘れ税だった。

 納められない者は、幸福だった一年そのものを持たない者だ。

 そういう者は、翌年の税を先に取られる。

 つまり、まだ訪れていない幸福を奪われる。

 レアナ・ヴァルクは、石垣の陰から馬車を見ていた。

 雨に濡れた外套の下で、鉄塊のような大剣を握る。刃は真っ直ぐではない。幾人もの処刑人が研ぎ直し、欠けを継ぎ、血で錆びさせたため、獣の背骨に似ていた。

 広場では、七歳ほどの娘が銀の椅子から降ろされたところだった。

 母親が抱き寄せる。

「ねえ、お母さん」

 娘は不思議そうに言った。

「この人、だれ?」

 母親の口から、音にならない息が漏れた。

 徴税吏は笑わなかった。

 笑うための顔を持っていなかった。

 全身を煤色の甲冑で包み、兜の隙間から夜そのものを覗かせている。胸には王の紋章――口を縫われた黒い王冠――が刻まれていた。三百年前に死に、三百年間この国を治め続ける〈喉なし王〉の兵である。

「次」

 兜の中から、墓穴を掘る音がした。

 レアナは石垣を越えた。

 着地と同時に大剣を横へ振る。刃が徴税吏の腰へ食い込み、火花と黒い霧が噴き出した。普通の人間なら二つに分かれている。だが死兵はよろめいただけで、鉄の腕を伸ばした。

 レアナは懐へ踏み込み、兜の下へ左手を差し入れた。

「名を返せ」

 指先に、冷たい糸が触れた。

 死兵を王に結びつける〈命名糸〉だ。

 それを引き千切る。

 煤色の甲冑は、内側から崩れた。骨も肉もない。ただ、三百年ぶんの埃が地面へ落ちた。

 残る二体が剣を抜く。

 村人たちは悲鳴を上げ、散った。

 一体目の斬撃を大剣の腹で受ける。腕の古傷が裂けた。熱い血が肘まで流れる。レアナは痛みを噛み潰し、柄頭を兜へ叩きつけ、膝を砕き、倒れた首へ刃を落とした。

 二体目が背後から槍を突く。

 避けきれない。

 そう思った瞬間、黒い幌馬車の中から子供の声がした。

「伏せて!」

 レアナは反射的に身を沈めた。

 槍の穂先が髪を裂く。

 馬車の扉の隙間から、細い光が走った。朝日のような金色ではない。病人の爪ほど青白く、しかし闇だけを焼く光だった。

 死兵の胸に穴が開いた。

 鎧が溶け、命名糸が露出する。レアナはそれを掴んで切った。

 広場に雨音が戻った。

 黒い馬たちは倒れ、車輪の頭蓋骨も沈黙した。

 村人の誰かが歓声を上げかけたが、すぐ口を閉じた。王の徴税吏を殺せば、次に来るのは一個小隊だ。その次は百騎。その次には、村そのものが地図から消える。

「西の森へ逃げろ」

 レアナは言った。

「鐘が三度鳴る前に。荷物は捨てろ。名前を書いた物だけ持っていけ」

 村人たちは礼も言わずに走り出した。

 それでいい。礼は足を遅くする。

 レアナは馬車の扉を蹴り開けた。

 中には無数の玻璃瓶が吊られていた。青、緑、薄紫。人々から奪われた記憶が、雨粒のように揺れている。

 その中央に、少年が座っていた。

 十歳ほどに見えた。白い髪。裸足。胸から腹にかけて黒い文字が縫い込まれ、両手首は銀の鎖で壁に繋がれている。

 奇妙なのは目だった。右目は老人の灰色、左目は赤子の青。瞬きするたび、別人の色に変わる。

「お前が光を出したのか」

「たぶん」

「たぶん?」

「ぼくの中には、たくさんの人がいるから。誰がやったのか、わからない」

 少年は首を傾けた。

 その拍子に、小さな声で歌った。

 眠れ、眠れ、灰の下。

 朝は遠く、母はここ。

 レアナの指が、大剣の柄に食い込んだ。

 その歌を知っている者は、世界に二人しかいなかった。

 一人はレアナ。

 もう一人は、十二年前、王兵に焼かれた村で死んだ妹。

「誰に教わった」

「知らない。ずっと前から胸の中にある」

「もう一度、歌え」

 少年は怯えながら歌った。

 音程の外れ方まで妹と同じだった。

 レアナは銀鎖を切った。

「名前は」

「ない」

「王の兵は、お前をなんと呼んでいた」

「器。あるいは、最後の税」

 レアナはしばらく黙り、外套を脱いで少年へ投げた。

「今日からトリスだ」

「どうして?」

「昔飼っていた犬の名だ」

「犬……」

「嫌なら自分で別の名を選べ」

 少年は外套に顔を埋めた。

 幾千もの記憶を抱えながら、自分の名だけを持たない子供は、しばらく考えた。

「トリスがいい」

 遠くで鐘が鳴った。

 一度。

 二度。

 三度。

 王都の方向から、低い響きが雨雲を震わせる。

 吊られた玻璃瓶が一斉に明滅した。

 トリスの顔から血の気が引く。

「王が、ぼくを呼んでる」

 レアナは大剣を背負い、馬車に残された地図を開いた。

 目的地は最初から決まっていた。

 王都グラナハ。

 死者十万を城壁に塗り込めた、墓標の都。

 その中心にある黒鐘楼で、喉なし王は百年に一度の大儀式を行うという。

 レアナは十二年間、その王を殺すためだけに生きてきた。

「好都合だ」

 彼女は言った。

「呼ばれなくても、会いに行くところだった」

二 墓標の都

 王都へ続く街道には、道標の代わりに罪人が立っていた。

 正確には、罪人だったものだ。

 首から下を塩漬けにされ、黒い杭へ縫い留められている。目は潰され、口には小さな鐘が詰められていた。風が吹くたび、腹の中で乾いた音が鳴る。

 反逆者。

 脱税者。

 夜明けを祈った者。

 罪状を刻んだ板の下に、王の法が記されている。

 ――忘却は国家の礎である。

 ――記憶は民の所有にあらず。

 ――朝を望む者は、朝に喰われる。

 トリスは三つ目の杭を過ぎたところで吐いた。

「見るな」とレアナは言った。

「見ないと、なかったことになる」

「ならない」

「でも、ぼくの中では、なくなったことがたくさんある。誰かが忘れたから」

 トリスは口元を拭き、杭に刺された男を見上げた。

「この人には娘がいた。赤い靴を欲しがっていた。娘の名前はミレ。男の人は、税に取られたくなくて、その記憶を自分で舌に書いた。だから王兵に舌を切られた」

 レアナは足を止めた。

「どうしてわかる」

「この人の記憶が、ぼくの中にある」

「死んでいるのに?」

「記憶は、死んでもすぐには冷たくならない」

 トリスは杭へ近づき、男の足元に落ちていた板切れを拾った。泥を払い、尖った石で一文字ずつ刻む。

 ミレ。

 そして板を杭へ立てかけた。

「これで、少しだけ残る」

 レアナは何も言わなかった。

 彼女の故郷にも墓はない。妹の骨も見つからなかった。死者は名を呼ばれなくなったとき、本当に消える――そう信じていた時期がある。

 だから復讐を続けた。

 憎しみだけが、妹を世界に縫い留める糸だった。

 日が沈む頃、二人は枯れた葡萄畑で老人に出会った。

 老人は石垣に腰を下ろし、一本の杖と、一羽の死んだ烏を連れていた。烏は老人の肩に止まり、ときおり腐った翼を羽ばたかせる。

「王都へ行く道なら、そちらではない」

 老人が言った。

「地図では真っ直ぐだ」

「地図は生者の都合で描かれる。今夜、この先の谷では死者の行列が通る。踏まれれば、お前たちも地図から消えるぞ」

 レアナは大剣へ手をかけた。

「何者だ」

「昔は暁教会の司祭。今は名前を売って酒を買う乞食だ。ルネスと呼ばれている」

 老人の瞳は白く濁っていた。

 だがトリスの胸に縫われた文字を、見えているように追った。

「なるほど。王が探している〈記憶の器〉か」

 トリスがレアナの背へ隠れる。

「知っているのか」

「百年分の忘れ税を、一つの肉体へ詰め込んだもの。王はそれを黒鐘楼へ運び、夜の封印を新しくする。器が壊れれば、奪われた記憶は持ち主へ戻る――少なくとも教会はそう説いている」

「教会なら、こいつを助けられるのか」

「王都の地下に、まだ暁教会の祭壇が残っている。大司教エデロなら、器を開ける術を知っているだろう」

 レアナは老人の喉元へ剣先を当てた。

「都合がよすぎる」

「疑うのは長生きの秘訣だ」

「なら、もう一つ教えろ。なぜ教会の司祭が、死んだ烏を肩に乗せている」

「生きた烏には嫌われるからだ」

 老人は笑った。

 その笑いに敵意はなかったが、善意もなかった。

「案内しよう。代わりに、王を殺すところを見せてくれ。あの怪物が倒れるなら、酒よりよい土産話になる」

 三人は葡萄畑を離れ、谷を迂回した。

 夜半、遠くの街道を死者の行列が通った。

 鎧を着た兵、花嫁衣装の女、首のない子供、戦車を引く巨人。彼らは一言も発さず、北へ歩いていく。空には月がなく、星々さえ彼らを見ないふりをしていた。

「あれはどこへ行く」

 トリスが囁いた。

「王の戦争へ」とルネスが答えた。

「敵は?」

「国境の外にいる者。国境の内にいる者。まだ生まれていない者。王にとって、戦争は敵を倒すためのものではない。死者を増やすためのものだ」

「死者を増やして、どうする」

「王だけが知っている」

 翌日の夕暮れ、墓標の都グラナハが見えた。

 城壁は黒い石で造られ、その表面に人の歯が無数に埋め込まれている。塔は折れた肋骨のように空へ突き出し、最も高い黒鐘楼からは、巨大な鐘が逆さに吊られていた。

 都には太陽が射さない。

 雲があるからではない。城壁の内側だけ、空そのものが夜だった。

 門前には難民と商人と兵士がひしめいていた。忘れ税を納める者、他人の記憶を買う者、死者を兵として売る者。

 露店では瓶詰めの初恋が銀貨三枚で売られ、処刑台の隣では子供たちが「王様ごっこ」をしていた。

「忘れろ、忘れろ、王さまのため」

「覚えていたら、首を切れ」

 歌いながら、木の枝で互いを叩く。

 レアナはフードを深く被った。

 トリスの白髪には泥を塗り、ルネスには黙っているよう言い含めた。

 だが門をくぐった瞬間、都じゅうの鐘が鳴った。

 一つ。

 十。

 百。

 家々の窓が開き、人々が空を見上げる。

 地面の下から鎧の擦れる音が湧き、石畳の隙間に青い火が灯った。

 門番の死兵たちが一斉に膝をついた。

 彼らが頭を垂れた先に、黒い馬車が止まっていた。

 村へ来た徴税馬車とは違う。車体は棺を六つ重ねた形をしており、車輪の代わりに四人の巨人が地面を這っている。

 扉がひとりでに開いた。

 内側には、夜が座っていた。

「歓迎する」

 声は馬車からではなく、都の全ての鐘から響いた。

「レアナ・ヴァルク。十二年間、私を殺す夢を見続けた女よ」

 トリスが震えた。

 ルネスは祈るように頭を下げる。

 レアナだけが大剣を抜いた。

「夢じゃない」

 鐘の声が、低く笑った。

「ならば宮殿へ来い。刃を研ぐ時間くらいは与えよう」

三 喉なし王

 王宮には扉がなかった。

 廊下も階段もない。

 黒い馬車が城壁を抜け、墓地を抜け、石そのものを通り抜けたあと、三人は玉座の間に立っていた。

 天井は見えない。柱の代わりに巨人の骨が並び、壁には無数の人影が埋まっている。どの顔も目を閉じ、夢の中で苦しむように歯を食いしばっていた。

 玉座は黒鐘楼の真下にあった。

 そこに王が座っている。

 喉なし王ゲイル。

 身長は人の倍。痩せた体を黒銀の甲冑で包み、肩からは王国の地図を刺繍した長衣が垂れている。兜はなく、顔には白い陶器の仮面を被っていた。

 仮面には目の穴だけがある。

 口のあるべき場所は、初めから作られていない。

 首には大きな裂け目があった。

 喉を刃物で抉り取った跡だ。

 王の左右には三人の臣下が立つ。

 錆びた甲冑の中で炎を燃やす将軍。

 十二枚の腕を持つ、黒衣の侍女。

 頭部が水槽になっており、その中を赤い魚が泳ぐ宰相。

 いずれも、人間だった頃の面影を捨てていた。

「トリスを放せ」

 レアナは言った。

 都の全ての鐘が答える。

「それは私の器だ」

「人間だ」

「王の所有物であることと、人間であることは矛盾しない。この国ではな」

「そういうところが嫌いだ」

「知っている」

 王が指を一本上げた。

 レアナの心臓が止まった。

 痛みはない。

 ただ、体の奥から音が消えた。

 膝が崩れる。

 視界が狭まり、玉座だけが遠ざかる。

 王が指を下ろす。

 心臓が再び打った。

 レアナは石床へ手をつき、血の混じった息を吐いた。

「私はお前を百回殺せる」

 鐘が告げる。

「お前が一歩踏み出す間に」

 レアナは立ち上がった。

「百一回目に届けばいい」

 黒衣の侍女が笑う。

 炎の将軍は動かなかった。

 水槽頭の宰相は、赤い魚を一匹吐き出した。

 王はしばらくレアナを見つめた。

「お前の村を焼いた日のことを覚えている」

 玉座の間が冷えた。

「暁教会の信徒が、地下の封印を破ろうとした。私は千人を殺し、三万人を救った」

「妹は九歳だった」

「知っている」

「名前は」

 沈黙。

 レアナは大剣の切っ先を王へ向けた。

「覚えていると言ったな。妹の名前を言え」

 鐘は答えなかった。

 代わりにトリスが口を開いた。

「リース」

 妹の声で。

 レアナの中で、何かが切れた。

 彼女は走った。

 炎の将軍が前へ出る。

 大剣と錆びた槍が衝突し、玉座の間に火花が降った。衝撃でレアナの肩が外れかける。将軍の鎧の隙間から炎の腕が伸び、顔を掴もうとした。

 レアナは身を捻り、腕を避け、将軍の膝裏へ蹴りを入れる。

 揺らいだ兜へ頭突き。

 大剣を反転させ、槍ごと胸板へ叩き込んだ。

 炎が噴き上がる。

 次の瞬間、十二本の腕がレアナを拘束した。

 黒衣の侍女が耳元で囁く。

「よい怒りです。腐る前に瓶へ詰めたいくらい」

 レアナは奥歯に仕込んだ鉄針を噛み砕いた。

 舌に血が広がる。

 処刑人の秘薬。

 一瞬だけ、痛みも恐怖も消す毒。

 彼女は自分の左肩をわざと外し、腕の輪から抜けた。侍女の喉へ肘を叩き込み、下の二本の腕を切り落とす。

 王まで、あと十歩。

 心臓が止まる。

 今度は肺も動かなかった。

 レアナは前へ倒れた。

 王の足元まで、あと九歩。

「やめて!」

 トリスの叫びが響く。

 少年の胸に縫われた文字が光った。

 王の指が、わずかに震える。

 その瞬間だけ心臓が動き、レアナは息を吸った。

「陛下」

 ルネスが杖をつきながら進み出た。

「なぜ、この女をここまで招いたのです。殺すなら門前で殺せたはず」

「必要だからだ」

「何に」

 王は玉座の背後を指した。

 壁に埋まる人々の顔が、一斉に目を開く。

 数万の瞳がレアナたちを見た。

「世界を終わらせないために」

 黒鐘楼の鐘が、ひとりでに揺れた。

 まだ鳴っていない。

 それでも、全員の骨の内側に低い振動が走った。

「三千年前、人は太陽を神と呼んだ。誤りだ。太陽は卵だった」

 王の声とともに、玉座の間の床へ光景が浮かんだ。

 古い世界。

 青い空。

 黄金の都市。

 人々が巨大な太陽へ祈っている。

 やがて太陽の表面が割れ、中から翼のある何かが生まれた。

 翼は光でできていた。

 顔はなかった。

 代わりに、全身に無数の口が開いている。

 それが地上へ降りると、人々は笑いながら自分の名を忘れた。

 父が子を忘れ、兵が国を忘れ、王が王であることを忘れた。

 名を失った者は光へ吸い上げられ、口の一つになった。

〈暁喰らい〉

 ルネスが呟く。

 声が震えていた。

「教会の禁書に……だが、あれは比喩では」

「比喩であれば、私は三百年も王でいる必要はなかった」

 光景が変わる。

 一人の若い王が、自らの喉を切り裂いている。

 血で黒い鐘を鋳造し、死者の名を集め、空を夜で覆う。

「私は己の名を捨て、死者の王となった。忘れ税は封印の餌だ。暁喰らいは、人の記憶を喰う。毎年少しずつ与えれば、眠り続ける」

 レアナは立ち上がった。

 心臓は王に握られたままだ。

「だから人から幸福を奪ったのか」

「不幸な記憶は毒になる。幸福だけが、奴を眠らせる」

「村を焼き、反逆者を杭に刺し、死者を戦争へ送った。全部、世界のためだと言うのか」

「違う」

 王の答えは早かった。

「世界のためであることは、私の罪を軽くしない」

 鐘の声が静かに落ちる。

「私は必要な怪物であろうとした。そして長く生きすぎて、必要と怪物の境を見失った」

 王はトリスを見た。

「器には、百年分の記憶と、私が捨てた最後のものが入っている。今夜、黒鐘を鳴らせば封印は更新される。だが次の百年、民はさらに多くを忘れる。やがて国は、生きていることすら忘れるだろう」

「ほかの方法は」

「ある」

 王の臣下たちが初めて動揺した。

 炎の将軍の火が大きく揺らぎ、黒衣の侍女の腕が床を掻く。水槽頭の宰相の魚が、一斉に死んだ。

「陛下、それは」と宰相が水泡の声を上げる。

 王は手を挙げ、黙らせた。

「封印を作り直す。完全な夜ではなく、暁喰らいを灰色の光へ変える。人が記憶を保ったまま耐えられる、弱い夜明けに」

「できるのか」

「私一人ではできない。名を持つ生者が、私を人間として呼び戻さねばならない。私を憎み、なお私の存在を認める者が」

 レアナは理解した。

「だから私を呼んだ」

「お前は私を誰より憎み、誰より長く覚えていた」

「利用するために、妹を殺したのか」

「違う。あれは私の失敗だ。だからこそ、お前でなければならない」

 そのとき、ルネスの死んだ烏が鳴いた。

 生きた鳥の声だった。

 老人の杖が割れ、内側から金色の刃が現れる。

 ルネスは王ではなく、トリスの胸を刺した。

 少年の背から、刃が抜けた。

「トリス!」

 レアナが叫ぶ。

 ルネスは少年を抱え、血に濡れた口で笑った。

「三百年、待ちましたぞ。偽りの夜を終わらせる、この時を」

 白く濁っていた目が開く。

 その奥で、燃える太陽が回っていた。

「暁教会大司教エデロの名において――真なる朝を迎えよ」

四 太陽の正体

 トリスの胸から、世界が溢れた。

 青白い雫ではない。

 声だった。

 産声。

 恋人の名。

 死ぬ前に飲んだ水の味。

 春の土。

 父の背。

 焼けた村。

 結婚式の鐘。

 処刑台から見た空。

 百年分の記憶が嵐となり、玉座の間を満たす。

 壁に埋まっていた者たちが叫んだ。

 都の人々も叫んだ。

 忘れていた幸福が一度に戻り、その幸福を失った悲しみまで一緒に蘇る。

 母の顔を思い出した老人が笑いながら窓から身を投げた。

 殺した兵の名を思い出した将軍が自分の喉を切った。

 愛していた妻を忘れて再婚した男が、二人の妻の名を抱いて狂った。

 記憶は救いではなかった。

 重さだった。

 王が玉座から立ち上がる。

「鐘を封じろ」

 炎の将軍が黒鐘楼へ走る。

 十二腕の侍女がトリスを奪い返そうとする。

 水槽頭の宰相は床へ溶け、都じゅうの水路へ命令を伝えた。

 しかし遅かった。

 ルネス――大司教エデロが、少年の胸から金の刃を引き抜く。

 傷口から細い光が天井へ伸び、黒鐘を貫いた。

 鐘が鳴る。

 音ではない。

 空が割れる。

 王都を覆っていた夜に亀裂が走り、その向こうから白い光が覗く。人々は歓声を上げた。三百年間、絵と記憶の中にしか存在しなかった朝が戻ると思った。

 白い光は、目を開いた。

 空いっぱいの眼球だった。

 次に、口が開いた。

 雲の端から端まで裂けた巨大な口。歯の一本一本が塔ほどあり、その奥で幾億もの人影が手を振っている。

 暁喰らいが孵化した。

 光が都へ降りる。

 触れられた者は燃えなかった。

 ただ、自分を忘れた。

 市場の女が立ち止まり、手にした籠を見た。

 自分がなぜそこにいるか分からない。

 名前も、家も、歩き方さえ分からない。

 彼女は赤子のように座り込み、次の瞬間、薄い光となって空へ吸われた。

 何千人もの民が続く。

「見よ!」

 エデロは両腕を広げた。

「これこそ救済! 名という鎖、記憶という苦痛からの解放! 我らは一つの光となる!」

 レアナは大剣を拾った。

「お前は、最初から知っていたな」

「もちろん」

 老人の姿が燃え落ち、その内側から若い男が現れる。

 金の仮面。白い祭服。背には光の羽根が生えかけている。

「王は民を生かすために記憶を奪った。私は民を幸福にするため、民そのものを終わらせる」

「似た者同士だ」

「違う。私は自分を正しいと知っている」

 レアナは斬りかかった。

 エデロの光刃が受ける。

 大剣の表面が白熱し、鉄が泣いた。

 二撃。

 三撃。

 レアナの肩口が裂ける。脇腹を焼かれる。毒で消していた痛みが一度に戻り、視界が赤く染まった。

 エデロは笑いながら刃を振るう。

 その一撃ごとに、レアナの記憶が剥がれた。

 初めて剣を握った日が消える。

 母の声が消える。

 故郷の井戸の匂いが消える。

 妹の顔が薄くなる。

「やめろ!」

 レアナは大剣を捨て、光刃を素手で掴んだ。

 掌が焼け、骨が露出する。

 それでも離さない。

「その記憶だけは、お前にやらない」

 額をエデロの仮面へ叩きつける。

 金の仮面にひびが入った。

 王の黒い長衣が二人の間を横切った。

 喉なし王がエデロの首を掴み、片手で持ち上げる。

 空の巨大な口が、王へ向いた。

 暁喰らいは王を知っている。

 三百年、自分を眠らせた敵を。

 白い光が王へ集中する。

 黒銀の甲冑が溶け、長衣に刺繍された国々が燃える。

 王の臣下たちが駆けつけた。

 炎の将軍は槍を空へ投げた。

 槍は巨大な火柱となり、光の舌を貫く。将軍自身も燃え尽き、甲冑だけが灰になった。

 十二腕の侍女は腕を一本ずつ引き千切り、空間へ縫い付けた。

 黒い糸が網となり、暁喰らいの口を閉じようとする。十二本目を失ったとき、侍女は小さな人間の女へ戻り、安堵したように死んだ。

 水槽頭の宰相は都じゅうの井戸を沸騰させ、蒸気の壁を作った。

 頭部の水が消え、赤い魚が石床で跳ねた。最後の一匹が王の足元へ辿り着き、動かなくなる。

 三百年、王に仕えた怪物たちは、誰一人として逃げなかった。

 王はエデロを床へ叩きつけた。

「なぜだ」

 エデロが血を吐く。

「なぜ、まだ人間を守る。お前は彼らに憎まれている。お前が死ねば、誰も墓を作らぬ。名も歌も残らぬぞ」

 鐘が答えた。

「王とは、愛される者ではない」

 黒い手がエデロの胸へ沈む。

「最後まで責任を捨てられぬ者だ」

 王は大司教の心臓を引き抜いた。

 それは肉ではなく、小さな太陽だった。

 握り潰す。

 エデロの体が光へ崩れ、暁喰らいへ吸われる。

 空の怪物は歓喜の咆哮を上げた。

 しかし門は開いたままだ。

 黒鐘には亀裂が走り、封印は戻らない。

 トリスは石床に倒れ、胸から血と記憶を流している。

 レアナは少年を抱き起こした。

「トリス。目を開けろ」

「ぼく……誰だっけ」

「トリスだ」

「それ、犬の名前」

「お前が選んだ」

「そうだった」

 少年はかすかに笑った。

 右目も左目も、初めて同じ色になっていた。薄い褐色。誰のものでもない、トリス自身の目だ。

「王の名前が、わかる」

 トリスが囁く。

「ぼくの中にあった。王が最後に捨てた記憶。母さんが、あの人を呼んだ声」

 王が振り向く。

 白い仮面に亀裂が走っていた。

 その下から見えた顔は、怪物ではなかった。

 疲れ果てた男の顔だった。

「言うな」

 鐘が震える。

「まだ早い」

 空の口がさらに開く。

 都の半分が白い光に飲まれ、人々が次々と名を失っていく。

 トリスはレアナの服を掴んだ。

「レアナ。あの人を、呼んで」

「呼べば、どうなる」

「王は人間に戻る。死ねるようになる。それから、最初の言葉を使える」

「最初の言葉?」

「世界に、朝の形を教える言葉」

 王が歩み寄る。

 甲冑は半分溶け、左腕は骨になっていた。

「私を呼び戻せば、お前は復讐を果たせる」

 鐘の声が弱くなる。

「だが同時に、私を信じることになる」

「信じろと言うのか」

「信じるな。私が何をしたか忘れるな。ただ、私が存在したと認めろ。怪物という言葉の向こうに、選び、誤り、殺した一人の人間がいたと」

 レアナは王を見た。

 妹を殺した男。

 村を焼いた王。

 民から幸福を奪った怪物。

 世界を守るため、怪物であり続けた人間。

 どれか一つだけを選べば楽だった。

 悪と決めれば斬れる。

 善と決めれば赦せる。

 だが真実は、刃より重かった。

「名前を教えろ」

 トリスが、かすれた声で答えた。

「アルケン」

 王が目を閉じる。

 レアナは大剣を杖にして立ち上がった。

 焼けた掌から血が落ちる。

 そして、十二年間憎み続けた相手を、人間の名で呼んだ。

「アルケン」

 世界が、王を思い出した。

五 灰明

 黒い王冠が砕けた。

 都じゅうの死兵が一斉に崩れ、骨となる。

 石畳の下を歩いていた軍団が止まり、三百年ぶりにただの死者へ戻った。

 王――アルケンは膝をついた。

 白い仮面が落ちる。

 髪は黒く、顔には深い皺が刻まれている。首の傷から赤い血が流れた。

 人間の血だった。

 心臓が一度、打つ。

 アルケンは驚いたように胸へ手を当てた。

 二度目。

 三度目。

「うるさいものだな」

 初めて、鐘ではなく自分の口で言った。

 喉の傷から掠れた声が漏れる。

 空では暁喰らいが身をよじっている。

 封じていた王の力が消え、巨大な口が都へ落ちてくる。

 アルケンはトリスの前へ跪いた。

「器ではない。お前の名を聞こう」

「トリス」

「よい名だ」

「犬の名前だよ」

「犬は忠義深い。王よりよほど上等だ」

 トリスは泣きながら笑った。

 アルケンは少年の胸へ手を当てた。

 そこに残る最後の記憶――自らが人間だった頃の、最初の言葉を取り出す。

 それは音ではなかった。

 灰色の小さな羽だった。

 アルケンが羽を飲み込む。

 世界の風が止まった。

 彼は空を見上げ、血の流れる喉で言った。

「朝よ。人を喰うな」

 暁喰らいの口が閉じかける。

 だが怪物は抵抗した。

 光の翼が何千枚も広がり、都の塔を薙ぎ払う。

 黒鐘楼が傾く。

 アルケンの皮膚に亀裂が走った。

 一人の人間の声で、太陽だったものを縛るには力が足りない。

 レアナは大剣を拾い、アルケンの隣へ立った。

「何をすればいい」

「鐘を落とせ」

「下には民がいる」

「だから、お前が斬れ」

 黒鐘楼は都の中心にある。

 倒れれば数千人が死ぬ。

 レアナは周囲を見た。

 崩れた柱。臣下たちの亡骸。天井から垂れる巨大な鎖。

 黒鐘を吊るす鎖は三本。そのうち二本が切れ、最後の一本だけが鐘を支えている。

 彼女は理解した。

「鐘そのものを斬る」

「できるか」

「できなくてもやる」

 レアナは走った。

 傾く黒鐘楼の階段を駆け上がる。

 石が崩れ、下から白い光が追ってくる。光に触れた左脚の感覚が消えた。自分の歩き方を忘れかけ、壁を殴って思い出す。

 一段。

 一段。

 妹と競って駆け上がった故郷の丘を思い出す。

 リースはいつも遅かった。

 頂上で待つと、怒った顔で「待たなくていい」と言った。

 それでもレアナは待った。

 その顔を、もう曖昧にしか思い出せない。

 だが名は残っている。

 リース。

 頂上へ出た。

 黒鐘は山のように巨大だった。

 表面に、三百年分の名が刻まれている。王が兵にした死者、税を納めた民、反逆して消された村。

 全ての名が、苦痛に震えていた。

 レアナは大剣を構える。

 刃は欠けている。

 腕は上がらない。

 左脚の感覚はない。

 心臓はまだ王に止められた錯覚を覚えている。

 それでも踏み込んだ。

 一撃。

 火花が散る。

 鐘に細い傷がつく。

 二撃。

 大剣に亀裂が走る。

 三撃。

 肩の骨が折れる。

 黒鐘の内側から、死者たちの声がした。

 もうよい。

 忘れさせてくれ。

 憎むのに疲れた。

 王を殺せ。

 王を赦せ。

 私を覚えろ。

「勝手なことばかり言うな!」

 レアナは叫び、大剣を振り上げた。

「私は誰も赦さない! 誰も忘れない! だが、もうお前たちを王の道具にはさせない!」

 四撃目。

 大剣が折れた。

 同時に、黒鐘が割れた。

 鐘の内側から夜が噴き出す。

 純粋な闇ではない。人々が耐え、失い、それでも抱えてきた悲しみの色だった。

 灰色の夜が白い怪物へ絡みつく。

 アルケンが最後の言葉を放つ。

「朝よ。影を持て」

 暁喰らいの光と、黒鐘の夜が衝突した。

 白でも黒でもない色が生まれる。

 灰色。

 冷たく、弱く、しかし目を開けていられる光。

 巨大な口は縮み、雲ほどの大きさから塔へ、塔から鳥へ、鳥から一枚の羽へ変わった。

 灰色の羽が都へ落ちる。

 アルケンの掌に収まった。

 空には、薄い太陽が浮かんでいた。

 三百年ぶりの朝だった。

 レアナが玉座の間へ戻ったとき、王は壁にもたれて座っていた。

 トリスが傷口を布で押さえている。

 だが血は止まらない。

「王さま、死なないで」

「もう王ではない」

「じゃあ、アルケン。死なないで」

「それも難しい」

 アルケンは穏やかに答えた。

 レアナは折れた大剣を引きずり、彼の前へ立った。

「約束を果たせ」

 アルケンが言う。

「約束などしていない」

「十二年間、私を殺すと誓っていた」

「世界を救ったばかりだ」

「だから何だ」

 アルケンの目に、かすかな笑いが宿る。

「正しいことをした者が、過去の罪を免れるなら、私は最初から怪物になる必要などなかった」

 トリスが首を振る。

「だめだ。もう終わったんだ。朝が来たんだよ」

「朝が来ても、罪は消えない」

 アルケンはレアナを見上げる。

「お前が私を殺せば復讐だ。私を生かせば赦しだ。どちらも、お前が選べ」

 レアナは折れた刃を持ち上げた。

 妹の歌が聞こえる。

 焼けた家。

 泣く母。

 村の広場に積まれた死体。

 十二年間、一度も夢に出なかった王の顔。

 目の前にいるのは、怪物ではない。

 疲れた老人だ。

 だからこそ、斬らなければならない。

 怪物を殺すのは退治だ。

 人間を殺すことだけが、処刑になる。

「アルケン・ナハト」

 レアナは名を呼んだ。

「お前を、千と四十三の村の焼却、忘れ税による民の記憶の簒奪、死者の隷属、その他、数え切れない罪によって処刑する」

「異議はない」

「最後に言うことは」

 アルケンは灰色の朝を見た。

「明日は、今日より少し明るくせよ」

 刃が落ちた。

 王の首は、静かに床へ転がった。

 鐘は鳴らなかった。

終章

 三日後、人々は王宮を壊し始めた。

 玉座を砕き、紋章を焼き、死兵の骨をそれぞれの墓へ返した。

 忘れ税の玻璃瓶は広場で開けられたが、全ての記憶が持ち主へ戻ったわけではない。行き先を失った思い出は灰色の鳥になり、街の屋根へ止まった。

 時折、その鳥が誰かの肩へ降りる。

 すると人は、会ったこともない母の歌や、百年前の恋人の口づけを思い出して泣いた。

 暁教会も解体された。

 大司教の金の仮面は溶かされ、墓を掘るための鍬になった。

 王の墓を作ろうという者はいなかった。

 レアナは都の外れに穴を掘った。

 トリスが隣で土を運ぶ。

「名前を書くの?」

「ああ」

「王って書く?」

「それだけじゃ足りない」

 レアナは割れた黒鐘の破片へ、折れた剣先で文字を刻んだ。

 アルケン・ナハト。

 王。

 罪人。

 人間。

 トリスは長いあいだ碑を見ていた。

「レアナは、あの人を赦したの」

「赦していない」

「憎んでる?」

「たぶん、一生」

「じゃあ、どうして名前を残すの」

 レアナは灰色の空を見上げた。

 太陽は弱い。

 暖かさも足りない。

 それでも昨日より少しだけ、影が濃くなっている。

「憎んだ相手まで忘れたら、私も忘れ税を取る側になる」

 トリスは分かったような、分からないような顔で頷いた。

 二人は都を出た。

 レアナは大剣を失い、代わりに短い鍬を背負っていた。

 トリスは空になった玻璃瓶を腰へ下げている。もう他人の記憶は聞こえない。ただ、自分が見たものを一つずつ瓶へ話して残すのだという。

 街道の罪人たちは杭から下ろされ、名の分かる者には墓標が立てられていた。

 赤い靴を欲しがった娘の父の墓には、ミレという文字がある。

 トリスがその前へ一輪の花を置く。

「これから、どこへ行く?」

「東だ」

「何があるの」

「知らない」

「朝は?」

 レアナは歩き出した。

「ある」

 背後で、灰色の鳥が一羽、羽ばたいた。

 眠れ、眠れ、灰の下。

 朝は遠く、母はここ。

 昔の歌が風に混じる。

 レアナは振り返らなかった。

 朝はもう遠くない。

 だが近くもない。

 人はそれを、毎日迎えに行かなければならないのだ。