灰都の国庫
――死者の王と名もなき魔女――
国家が人間を兵士に変えるには、まず名前を書く。
死者を兵士に戻すのも、手順は同じだった。
一 損耗計算官
大陸暦七三四年、灰月十八日。
帝国東部の要塞都市グラウフェンは、共和国同盟軍十二個師団に包囲されていた。
空は煤煙で昼夜の区別を失い、地上では百二十門の重砲が石造りの街区を順番に粉へ変えていた。市民二十一万、守備兵四万六千。備蓄食料は六日分。野戦病院の空き寝台はゼロ。外郭防壁の平均余命は、帝国戦務省の計算によれば三十一時間だった。
その数字を算出した本人が、北東の雲を突き破って到着した。
ノエル・カルレク少佐。
帝国戦務省損耗計算室所属、特務空挺術師。
灰色の飛行外套をまとった女は、翼のない単座機〈カワセミ〉の上に立ち、砲弾の雨を縫って降下した。機体を浮かせているのは燃料でも揚力でもない。操縦桿の根元に封じられた風精と、彼女の血に刻まれた十三の契約印だった。
共和国の戦闘機が三機、雲の切れ間から襲いかかる。
ノエルは振り返らなかった。
右手の指を二本、帳簿をめくるように動かす。
「偏差、二・六。風圧、上方へ七」
見えない槌が空を叩いた。
一機目は照準を外して急降下し、二機目と接触した。三機目の操縦士は回避に成功したが、その先にはグラウフェン防空隊の曳光弾が待っていた。
三つの火球が落ちる。
ノエルはそれを見届けず、市庁舎前広場へ着地した。
「カルレク少佐!」
迎えに出た守備軍参謀エミル・レーン大尉は、片耳を包帯で覆い、軍帽の代わりに会計局の黒い腕章をつけていた。四十を過ぎた温厚そうな男だったが、三日間眠っていない目をしていた。
「よく、この空を抜けて来られましたな」
「敵防空網の平均命中率は四・一パーセントです。十四回撃たれても生存率は五割を超えます」
「慰めになる数字ではありません」
「数字は慰めるためにあるのではなく、間違った希望を殺すためにあります」
ノエルは〈カワセミ〉から降り、戦務省の封蝋が押された赤い革鞄を差し出した。
「司令官に面会を。緊急勅令です」
二人は砲撃で傾いた市庁舎へ走った。
地下作戦室では、グラウフェン守備軍司令官オットー・ケッセル中将が、都市図の上で葉巻を噛み潰していた。巨体の軍人で、軍服の胸は勲章に覆われている。だがその勲章の数より、地図上の赤い矢印の方が多かった。
「首都は増援を寄越したのか」
「いいえ」
「弾薬か」
「いいえ」
「では何だ」
ノエルは赤い鞄を開いた。
中に入っていたのは、黒い紙に銀字で印刷された一枚の命令書だった。
ケッセルは読み終えると、顔色を変えた。
『帝国戦時勅令・第零号。
グラウフェン国庫に収蔵された特別戦略予備を解放せよ。
執行権限を、戦務省特務少佐ノエル・カルレクに委任する』
欄外には皇帝の血印があった。
インクではない。古い王権魔術が生きている証拠として、赤い印は心臓のように脈打っていた。
「第零号だと……」
レーン大尉がかすれた声を出した。
「大尉はご存じで?」
「噂だけです。グラウフェン中央国庫の地下には、帝国成立以前から封鎖された区画がある。帳簿にも載らない資産が眠っている、と」
「資産ならある」
ケッセル中将は葉巻を灰皿へ押しつけた。
その指が震えていることを、ノエルは見逃さなかった。
「だが、あれを兵力と呼んでよいものかは知らん」
「命令書は兵力と定義しています」
「戦務省の紙が、墓の中身まで変えると思うか」
ノエルは命令書を畳んだ。
「国家は、紙に書いたことを現実にするための巨大な暴力装置です。変えられないなら、それは国家の記載漏れです」
ケッセルはしばらく彼女を見つめ、やがて笑った。
笑いというより、砲撃音に負けまいとする咳に近かった。
「さすがは“灰鷲の魔女”だ。神も墓も信じない」
「信仰は予算化できません。墓はできます」
「なら見せてやる。帝国が三百年間、予算化できなかったものを」
二 第零号国庫
中央国庫は、グラウフェンでもっとも頑丈な建物だった。
共和国軍の二百四十粍砲弾を三発受けても、玄武岩の壁には白い傷しかついていない。
地下六階。
金塊保管庫のさらに下。
ケッセル、ノエル、レーン、それに十二名の近衛兵は、封印された螺旋階段を降りた。
壁には歴代皇帝の名が刻まれていた。
最初の三代は金文字。次の十代は銀文字。その下では、戦費削減のためか普通の塗料になり、末尾の現皇帝名は小さな銘板を釘で打ちつけただけだった。
「王権の減価償却ですね」
ノエルが言うと、レーンは笑うべきか迷った顔をした。
最下層に、扉があった。
鉄でも石でもない。
無数の黒い硬貨を溶かし、板状に固めた扉だった。硬貨の一枚一枚に、名前と死亡日が彫られている。
ノエルは手袋越しに触れた。
扉の向こうから、百万枚の紙を一度にめくる音が聞こえた。
『権限を提示せよ』
声は扉からではなく、全員の歯の内側から響いた。
ノエルは第零号勅令を掲げる。
「帝国戦務省特務少佐ノエル・カルレク。皇帝陛下の委任により、特別戦略予備の解放を命じます」
『名を』
「提示しました」
『階級ではない。役職ではない。国家が汝に与えた記号でもない。母が最初に呼んだ名を』
ノエルの表情は動かなかった。
「契約条件に含まれません」
黒い硬貨が一斉に震えた。
笑い声だった。
『よい。三百年ぶりの客人が、愚か者でないことを喜ぼう』
扉が左右へ割れた。
中は墓所ではなかった。
果ての見えない書庫だった。
石棚が闇の奥まで延び、革表紙の帳簿が隙間なく詰められている。床には都市を模した巨大な模型があり、その通りや家々の上を、青白い文字が蟻の群れのように動いていた。
名前。
生年月日。
配給番号。
所属。
負傷歴。
予測死亡時刻。
グラウフェンにいるすべての人間の情報が、模型の上に浮かんでいた。
書庫の中央には、黒い玉座があった。
座っているものは、人間の輪郭を保ってはいたが、人間ではない。
黄金の冠をかぶった骸骨。
黒鉄の甲冑は古い王国様式で、胸部には肋骨の代わりに小さな引き出しが並んでいる。眼窩には炎ではなく、細かな数字が流れていた。
その背後に、半透明の廷臣たちが立つ。
書記官、徴税吏、裁判官、処刑人。
剣を持つ者より、筆を持つ者の方が多かった。
『我が名はメルキオル。グラウフェン最後の王にして、最初の国庫である』
骸骨の王は、骨の指を組んだ。
『帝国よ。利息を支払いに来たか』
ケッセル中将が一歩出る。
「貴様に一万の兵があると聞いた」
『誤りだ。九万七千四百十一』
「それだけの兵が、この都市の地下に?」
『地下ではない』
メルキオルが指を鳴らした。
書庫の奥で帳簿が開く。
ノエルの視界に、墓地、地下壕、病院、崩れた民家、砲弾孔、河底が映った。
そこに横たわる骨。
三百年分の死者たち。
『彼らは領土のいたるところに保管されている。王は国土を所有し、国土は死者を保有する。ゆえに死者は国庫資産である』
「屁理屈だ」
ケッセルは吐き捨てた。
『法とは、十分な兵を持つ屁理屈の別名だ。中将なら知っていよう』
レーン大尉が小声でノエルに言った。
「少佐。命令を撤回すべきです」
「撤回権限はありません」
「では執行を拒否する」
「拒否した場合、三十一時間後に都市は陥落。推定死者は軍民合わせて七万二千。共和国軍による報復処刑を含めれば九万を超えます」
「だからといって、これを……」
「私の倫理観は、死者数を減らす限りにおいて機能します」
そう言いながら、ノエルは王の足元を見ていた。
玉座の前に、一冊だけ鎖で繋がれた巨大な黒い帳簿がある。
表紙には、古代文字でこう刻まれていた。
『グラウフェン王国・国民原簿』
メルキオルが羊皮紙を差し出す。
『解放には生者の署名が要る。王権を継いだ帝国の代理人。汝が適任だ、灰色の魔女』
「対価は」
『勝利』
「契約の対価を聞いています」
王の数字の瞳が細くなった。
『死者一名につき、一名分の死亡債権。帝国が将来失うと見積もった者を、我が徴収する』
ケッセルが眉をひそめる。
「どういう意味だ」
ノエルは答えなかった。
羊皮紙の末尾、針の先ほどの文字を読んでいた。
『損耗予定は、戦務省の確定値を採用する』
彼女自身が算出した数字だ。
この都市を保持した場合、今後七日間で失われる兵員予測――一万八千四百四十二名。
「一万の死者を起こせば、一万の生者が死ぬ」
レーンが息を呑んだ。
『いずれ死ぬ者を、予定通りに死なせるだけだ』
「詐欺だ!」
『予測を予算に計上したのは帝国であり、我ではない』
砲撃が地上を揺らした。
書庫の天井から、三百年分の埃が舞い落ちる。
伝声管から、切迫した声が響いた。
『敵軍、東門を突破! 第三防衛線へ後退中!』
ケッセル中将がノエルの肩を掴む。
「署名しろ」
「契約条項が不十分です」
「都市が落ちる!」
「だからこそ、損失を確定させる前に――」
「署名しろ! 責任は私が取る!」
ノエルは彼を見上げた。
「責任とは、敗者が処刑される際につける装飾語です。中将に処刑される余裕はない」
「なら、お前が取れ!」
地下深くまで、東門の爆発が響いた。
模型上の青白い名前が、数百単位で赤へ変わる。
ノエルは三秒考えた。
署名しなければ九万。
署名すれば、一万八千四百四十二。
現時点で選べる数字は二つだけだった。
彼女はペンを取った。
「執行者名、ノエル・カルレク」
署名の最後に、小さく追記する。
『ただし、国家が付与した名に限る』
骸骨の王が、かすかに首を傾げた。
『用心深い』
「長生きしたいので」
『魔女がそれを言うか』
「死にたくないから魔女になったのです」
ノエルが署名すると、黒い国民原簿が開いた。
グラウフェン全域で、鐘が鳴った。
教会の鐘ではない。
墓の中から、骨が骨を打つ音だった。
三 勝利の利息
最初に起き上がったのは、東門前の共同墓地だった。
共和国軍の戦車隊が破壊された門を通過した瞬間、墓石が内側から弾け飛んだ。
土まみれの手が履帯を掴む。
百年前の軍服を着た骸骨兵が砲塔へよじ登り、錆びた銃剣を覗き穴へ突き込んだ。
次に、旧市街の地下納骨堂が開いた。
槍兵、弩兵、火縄銃兵、騎兵。
時代も装備も異なる死者たちが、命令を受けた一個軍団のように行進を始めた。
弾丸は彼らの骨を砕いた。
砲弾は十体を一度に吹き飛ばした。
だが散った骨は地面を這い、別の死者へ組み込まれた。
共和国軍の前衛は一時間で崩壊した。
帝国兵たちは歓声を上げた。
市民は地下壕から這い出し、死者の軍列へ花や配給パンを投げた。骸骨兵はそれを拾わず、ただ国庫の方角へ剣を捧げた。
日没までに東門は奪回され、敵軍は三キロ後退した。
帝国側損害は、予測の四分の一。
「奇跡だ」
作戦室でケッセル中将は言った。
ノエルは窓辺に立ち、双眼鏡で死者の隊列を追っていた。
「奇跡ではありません。融資です」
「勝てば返せる」
「死者に何を返すのです」
「帝国は領土を与えられる。墓地でも、廃都でも、望むだけ」
「王が欲しがっているのは土地ではありません」
「では何だ」
ノエルが答える前に、作戦室の電話が一斉に鳴った。
一本、二本、十本。
交換手が青ざめて受話器を取り落とす。
『第一野戦病院より! 死者の兵が病棟へ侵入!』
『第八連隊、味方の骸骨兵と交戦中!』
『北区避難所で行方不明者多数!』
『死者が……名を呼んでいます! 名簿を持って――』
窓の外で悲鳴が上がった。
街路を、黒い外套の一団が歩いていた。
武器を持たない死者たちだった。腰には鎖、手には帳簿。
徴税吏の亡霊。
彼らは家々の扉を叩き、名前を読み上げる。
「ハンス・ベルマー」
「ヨゼフ・カーン」
「ルドルフ・メッツ」
呼ばれた兵士は、隠れていても身体が勝手に立ち上がった。
傷のない者もいた。
若者も、老兵も、昨日勲章を受けた者も。
亡霊が帳簿に印をつけると、その心臓が止まる。
死んだ兵士は数秒後に目を開け、死者の隊列へ加わった。
レーン大尉が作戦室へ駆け込んだ。
「少佐! これを!」
彼が抱えていたのは、戦務省から送られた損耗予定表だった。
名前の横に、黒い染みが浮かんでいる。
今日の予定死者。
明日の予定死者。
七日目まで。
一万八千四百四十二名。
ノエルは紙をめくった。
ケッセル中将の名は、二日目の欄にあった。
レーン大尉の名は、六日目。
そして自分の名は――どこにもない。
「私の予測が、徴収名簿になっている」
「止めろ!」
ケッセルが怒鳴った。
「契約を解除しろ!」
「契約書に解除条項はありません」
「お前が署名した!」
「中将の命令で」
「責任逃れをするな!」
ノエルは静かに彼を見た。
「ご安心ください。二日後には、責任を追及される心配はなくなります」
ケッセルの顔から血の気が引いた。
そのとき、部屋の鏡が黒く曇った。
鏡面の向こうに、骨冠王メルキオルが座っている。
『帝国軍よ。勝利を喜べ』
「止めろ、化け物!」
ケッセルが拳銃を抜き、鏡へ撃った。
鏡は砕けず、弾丸だけが平たく潰れた。
『化け物とは、契約書を読まずに署名する者の名か?』
「貴様は味方を殺している!」
『味方ではない。債務者だ』
ノエルは鏡へ近づいた。
「損耗予定は状況変化に応じて更新されます。死者軍の投入で予測値は低下した。旧数値の徴収は契約違反です」
『面白い抗弁だ。だが戦務省は、その数字を“確定損耗”として国庫へ送った』
「計算上の用語です」
『国家の用語は、民にとって現実であろう?』
数字の瞳が笑う。
『汝らの時代は素晴らしい。古き王は村ごとに人を数え、徴税吏を馬で走らせた。それでも国民の半分は名を隠した。今の帝国は、生まれた子を翌日には登録し、配給券を与え、学校へ入れ、徴兵し、負傷を記録し、死亡確率まで算出する』
鏡の闇が広がり、作戦室の壁一面を覆った。
そこに帝国全土の地図が浮かぶ。
無数の名前が星のように輝いていた。
『汝らは我が夢を完成させた。誰一人、国家の帳簿から逃れられぬ世界を』
レーン大尉が青ざめる。
「この都市だけではないのか」
『グラウフェンは扉にすぎぬ。帝国がこの地を領土と呼ぶ限り、帝国の帳簿は我が帳簿。戦争が続く限り、予定死者は増え続ける』
「何が目的だ」
ノエルが問う。
『平和』
王は即答した。
『死者は飢えず、賃上げを求めず、反乱せず、逃亡せず、老いぬ。すべての臣民を死者にすれば、戦争は終わる。予算は均衡し、国境は静まり、王国は永遠となる』
「それを平和とは呼びません」
『戦務省の書類には、死者数が減れば平和とある』
「書類の読み方が浅い」
『ならば深く教えよ、損耗計算官』
ノエルは返事をせず、帝国全土の地図を見た。
名前の光が、東から順番に黒く染まり始めている。
明け方までにグラウフェン。
三日で東部軍管区。
二週間で帝都。
メルキオルは、すでに勝利していた。
共和国にではない。
帝国という仕組みに。
国家が国民を管理するために作った帳簿のすべてが、死者の王の軍門に下ったのだ。
四 未来の戦死者
ノエルは作戦室の通信機を破壊し、戦務省との回線を切断した。
遅かった。
黒い染みは電線を伝い、すでに複写された名簿へ入り込んでいる。
「中央国庫を爆破します」
レーン大尉が言った。
「地下六階を埋めれば――」
「国民原簿は王国成立時の竜皮紙です。通常火薬では燃えません。王の本体も帳簿側でしょう」
「なら街ごと焼く」
ケッセル中将が言った。
顔に汗が浮かんでいる。
「敵の列車砲を誘爆させ、地下を崩落させる。二十一万の市民より、帝国全土だ」
「先ほどまで都市を守ると仰っていた」
「状況が変わった!」
「死亡予定表も状況に応じて変わるものです」
ケッセルがノエルを睨む。
「貴様、私を脅しているのか」
「二日後に死ぬ予定の方へ、事実をお伝えしています」
中将は拳銃を抜いた。
ノエルも右手を上げる。
室内の風が凍りついた。
引き金にかけたケッセルの指だけが、薄い氷に包まれる。
「軍法会議ものだぞ」
「開催予定日を教えてください。出席可能性を計算します」
ケッセルは歯を食いしばった。
やがて拳銃を机へ置く。
「……策があるのか」
「王の権利は、グラウフェン王国の国民原簿に由来する。帝国は三百年前、この都市を併合し、王権を継承した。だから帝国の名簿まで接続された」
「それが?」
「所有権の鎖を切ります」
ノエルは都市図を広げた。
「グラウフェンを、帝国領ではなくする」
ケッセルが鼻で笑う。
「敵に明け渡せと?」
「共和国領にすれば、王は共和国の名簿へ接続するだけです。必要なのは、どの国家にも属さない状態です」
「そんな領土は存在しない」
「存在させます。国境は地形ではなく、相互に承認された会計区分です」
ノエルは赤鉛筆で都市を円く囲んだ。
「帝国と共和国、双方の全権者がグラウフェンへの主権を放棄する。住民を国家資産ではなく、国際保護対象と定義する。古代王権術は言葉の厳密さを重んじる。所有者がいなければ、死者も国庫資産ではなくなる」
レーンが首を振った。
「共和国が同意するはずがない。彼らは勝ちかけている」
窓の外で、共和国軍の陣地から悲鳴が上がった。
遠くの野戦病院に、黒い徴税吏たちが侵入している。
捕虜名簿や傍受記録から、王は敵兵の名も手に入れ始めていた。
ノエルは外套の留め金を締める。
「同意する理由が、たった今できました」
「どうやって敵司令部へ行く」
「飛びます」
「両軍が撃ってくるぞ」
「それは普段と同じです」
レーン大尉が彼女の前に立った。
「私も行きます」
「足手まといです」
「共和国語を話せます」
「私も話せます」
「では、あなたより人相が善良です」
ノエルは初めて少しだけ迷い、彼の腕章を見た。
会計局の黒。前線兵ではない。だが死者の名簿がどのように作られ、どこへ複写されるかを知る人間は必要だった。
「家族は」
「娘が北区の避難所に。妻は三年前、肺病で」
「娘さんの名は予定表に?」
「ありません」
「では同行を許可します。生存する動機がある者は、命令に従いやすい」
「少佐は?」
「昇給前に死にたくありません」
二人が出ようとすると、ケッセル中将が呼び止めた。
「カルレク少佐」
ノエルが振り返る。
中将は、死亡予定表の自分の名を見つめていた。
「私の名も消せるか」
「都市全体を救えれば」
「失敗したら」
「予定通りです」
彼女は敬礼しなかった。
五 敵国への出張
白旗を機体に結びつける暇はなかった。
ノエルは〈カワセミ〉の灰色外套を裏返し、白い裏地を風にはためかせた。
レーン大尉は後部の荷物架にしがみついている。
「これは二人乗りではありませんな!」
「荷重限界には余裕があります」
「人間を荷物として計算しないでいただきたい!」
「会計上、人間はもっとも高価な消耗品です」
〈カワセミ〉は崩れた尖塔を蹴り、砲煙の空へ飛び出した。
帝国軍の高射砲が撃った。
味方識別符号はすでに死者軍に乗っ取られている。
共和国軍も撃った。
白旗は曳光弾ほど目立たなかった。
ノエルは風を折り畳み、機体を砲弾と砲弾の隙間へ滑り込ませる。
急上昇。横転。垂直降下。
レーンの悲鳴が途中から祈りへ変わった。
雲の下へ出たとき、前方に共和国の迎撃機が二機いた。
翼に青い円章。
先頭機の操縦士が、手信号で降伏を命じる。
ノエルは両手を見せた。
そのまま機体を横滑りさせ、共和国軍司令部が置かれた修道院跡へ着陸する。
地面に触れた瞬間、三十挺の小銃が向けられた。
「帝国戦務省特務少佐、ノエル・カルレク」
彼女は共和国語で言った。
「東部方面軍司令官との会談を要求します。議題は、双方の死滅回避について」
共和国兵たちは彼女の名を知っていた。
“灰鷲”。
過去二年で共和国機六十三機を落とし、二つの補給拠点を無血降伏させた魔女。
銃口が一斉に近づく。
「歓迎されているようですな」
地面に降りたレーンが囁いた。
「敵の士気は正常です」
二人は武装解除され、地下聖堂へ連行された。
共和国東部方面軍司令官、イサーク・ドラン准将は、片脚を失った老人だった。
簡素な野戦服を着て、祭壇を机代わりにしている。背後の壁には、共和国の標語が炭で書かれていた。
『人は国家のために生まれるのではない』
ノエルはそれを一瞥した。
「実行されていない標語ほど、大きく書かれるものですね」
ドラン准将は笑わなかった。
「帝国の魔女が、白旗で来るとは。降伏条件なら参謀に話せ」
「降伏ではありません。主権放棄の提案です」
ノエルは机上に地図を広げ、メルキオルの契約と国民原簿について説明した。
准将は最後まで黙って聞いた。
そして副官へ言った。
「この二人を拘束しろ。帝国はついに怪談まで兵器にしたらしい」
「信じる必要はありません」
ノエルは落ち着いていた。
「確認してください。共和国軍の死亡予定表、捕虜名簿、野戦病院の入院記録。黒い染みが出ているはずです」
副官が通信兵へ合図する。
数分後、報告が来た。
『第三野戦病院、所属不明部隊の襲撃を受けています。敵は……死亡した共和国兵です』
『第十七師団で名簿記載順に兵が急死』
『埋葬地から死者が起立。味方識別に応答せず』
地下聖堂の空気が変わった。
ドラン准将は地図へ身を乗り出す。
「何をすれば止まる」
「グラウフェンに対する領有権を、一時的に放棄してください。帝国も同時に放棄します」
「こちらは一万二千人を失って、あの都市の門前まで来た」
「その一万二千人が、今からあなたを殺しに来ます」
遠くで銃声が始まった。
修道院の外周から、共和国語の号令が聞こえる。
ただし声は、生きた喉から出ていなかった。
ドランは杖を取り、立ち上がった。
「期限は」
「今夜零時。王が帝国全土へ接続を完了する前に」
「帝国側の署名権者は誰だ」
「私です。第零号勅令は、グラウフェンにおける皇帝権限を執行者へ委任しています」
「なるほど。だから帝国軍司令官ではなく、損耗計算官が来た」
「中将は二日後に死亡予定です。長期契約の相手に適しません」
ドランは初めて口元を歪めた。
「噂どおり、嫌な女だ」
「敵将からの評価として受領します」
レーン大尉が鞄から用紙を出した。
砲撃の振動で文字が揺れるなか、三人は条文を作った。
『グラウフェン臨時無主権協定』
一、帝国および共和国同盟は、灰月十八日二十四時をもって、グラウフェン市域における主権、徴税権、徴兵権、埋葬物所有権を放棄する。
二、市域内の生者および死者は、いかなる国家、王冠、軍、宗教団体の資産にも属さない。
三、両軍は市民避難のため十二時間の停戦を行う。
四、本協定は、死者が契約当事者として同意しない場合でも効力を持つ。
「最後の条文は必要か」
ドランが聞いた。
「相手が三百年生きた法律家です。念のため」
准将は署名した。
ノエルも皇帝血印を押す。
赤い印と青い共和国印が触れた瞬間、用紙から白い火花が散った。
古い魔術が、新しい国際法を認識した証だった。
その直後、修道院の正面扉が吹き飛んだ。
共和国軍の軍服を着た死者たちが雪崩れ込む。
胸に銃創、額に穴、泥にまみれた顔。
昨日までの戦友が、今日の徴税吏に率いられていた。
『イサーク・ドラン』
『死亡予定、灰月十九日、午前四時十二分』
黒い亡霊が名を読み上げる。
ドラン准将は拳銃を抜いた。
「協定書を持って行け、魔女!」
「護衛は」
「自分の死体くらい、自分で始末する」
共和国兵が祭壇を倒し、即席の防壁を作る。
レーンは協定書を鞄へ入れた。
ノエルは出口へ向かい、二歩で止まった。
「准将」
「何だ!」
「標語は間違っていません」
壁の文字を指す。
「ただし、人は国家のために死ぬよう教育されます」
「帝国人らしい訂正だ」
「だから今夜だけは、生きるために命令してください」
ドランは一瞬だけ彼女を見て、怒鳴った。
「全軍へ通達! 零時まで帝国軍と停戦! グラウフェン市民の退路を開け! 死んでいる者は撃て、生きている者には撃たせるな!」
号令が地下聖堂を震わせた。
ノエルとレーンは、銃声の中を走った。
六 国境は空にない
グラウフェンへ戻る空路では、奇妙な光景が広がっていた。
帝国軍と共和国軍の砲撃が止まり、代わりに両軍が同じ方向へ銃を向けている。
死者の軍団が、東西の塹壕を区別せず進んでいた。
共和国の戦車が帝国兵を荷台に乗せ、避難民を運ぶ。
帝国の高射砲が共和国機を援護する。
昨日まで殺し合っていた兵士たちは、互いの名前を知らないまま、名前を奪う敵と戦っていた。
「人類は共通の敵がいれば団結できる、というやつでしょうか」
レーン大尉が言った。
「一時的な費用分担です。敵を処理した後、請求書で争います」
「少佐は夢がありませんな」
「夢は利息が高い」
中央国庫へ戻ると、状況はさらに悪化していた。
ケッセル中将は作戦室を放棄し、親衛隊とともに地下書庫を占拠していた。
彼はメルキオルと新たな契約を結ぼうとしていた。
「帝国を裏切るつもりですか」
ノエルが黒い扉の前で問う。
ケッセルは親衛隊の銃列の向こうに立っている。
首には古代王国の金鎖をかけていた。
「帝国は私を二日後に死ぬと決めた。なら、別の国家へ忠誠を移す」
『賢明である』
メルキオルの声が書庫から響く。
『この者には、東方辺境侯の位を与える。死後も指揮権を保障しよう』
「少佐、お前も来い」
ケッセルは手を差し出した。
「王は帝国より公平だ。功績に永遠で報いる」
「死後の昇進は、給与支払いを免れるための制度です」
「まだ減らず口を――」
ノエルは協定書を掲げた。
「帝国と共和国は、グラウフェンへの主権を放棄しました。零時をもって、あなたの爵位も王の所有権も無効になります」
書庫の暗闇が揺れた。
『条約は国民原簿を上回らぬ』
「原簿の根拠は主権です」
『原簿の第一頁には、王国建国憲章がある。あれが存在する限り、王国は存在する。生者二人の署名で歴史は消せぬ』
ノエルは舌打ちした。
予想していた抗弁だったが、王の声には余裕がある。
「では第一頁を焼却します」
『できるものなら』
黒い扉が閉じ始めた。
レーン大尉が床へ飛び込み、扉の隙間に鉄製の計算尺を差し込む。
硬貨の扉が軋み、わずかに止まった。
「少佐、今です!」
ノエルは風を刃に変えた。
親衛隊の銃身をまとめて切断し、ケッセルの足元を払う。
彼が倒れる。
金鎖が玉座の方へ引かれ、首を締めた。
「王! 助けろ!」
『契約どおり、二日目に徴収する予定であった』
メルキオルの骨指が動く。
『だが前払いでも構わぬ』
ケッセルの胸から、心臓の鼓動が消えた。
中将は目を見開いたまま崩れ、次の瞬間には立ち上がった。
皮膚が灰色へ変わり、黒い鎧が身体を覆う。
『東方辺境侯よ。最初の任務だ。原簿を守れ』
死んだケッセルが大剣を抜いた。
ノエルは風圧弾を放つ。
巨体が書棚へ叩きつけられ、無数の帳簿が舞う。
レーンとともに書庫へ駆け込む。
玉座前の国民原簿は、太い鎖で床に繋がれていた。
「切れますか」
「切るのではなく、契約を変更します」
ノエルは第零号勅令の血印を鎖へ押しつける。
「皇帝代理権限により、特別戦略予備を移送する。移送先は――」
言葉を探す。
王が笑った。
『帝国領内のどこへ移しても、我が支配下だ』
「上です」
『何?』
「領空主権は、国家が実効支配できる高度まで。帝国軍最高到達砲弾は一万一千二百メートル。それより上へ運びます」
『空に国境がないとでも』
「国境は、そこまで弾が届くと言い張る線です」
血印が燃え、鎖が外れた。
ノエルは国民原簿を抱える。
見た目の三倍は重い。死者九万七千四百十一名分の未払いが詰まっている。
ケッセルの大剣が振り下ろされた。
レーンが横から体当たりする。
刃は彼の肩を裂き、床へ食い込んだ。
「大尉!」
「行ってください!」
レーンは血を流しながら、書棚を倒した。
帳簿の雪崩がケッセルと死者の廷臣たちを埋める。
「娘さんは北区第七避難列車です。共和国側回廊へ出ます」
「ええ。名簿から消えていました。今朝、配給所の爆撃で台帳が焼けたそうです」
彼は痛みに顔を歪めながら笑った。
「初めて、記載漏れに感謝しました」
「一緒に来てください」
「この扉を閉める者が要る」
「死亡予定は六日目です」
「予定変更です」
死者たちが帳簿の山を押しのける。
レーンは黒い扉の脇にある非常閉鎖弁を握った。
「少佐。あなたは、死にたくないから魔女になったと言いましたな」
「事実です」
「では、生きてください。娘に、父親は帳簿のためではなく、人間のために死んだと伝えてほしい」
「美談は報告書に不向きです」
「口頭で結構」
ノエルは一秒、彼を見た。
敬礼した。
レーンも敬礼を返し、弁を引いた。
黒い扉が閉じる。
最後に見えたのは、彼が計算尺を剣のように構える姿だった。
七 灰冠
時刻は二十三時三十一分。
グラウフェン中央広場では、〈カワセミ〉の周囲に帝国兵と共和国兵が防衛線を作っていた。
空には死者の飛行隊が現れていた。
翼布の腐った複葉機、骨だけの飛竜、撃墜時の炎をまとったまま飛ぶ亡霊操縦士。
三百年分の空の死者が、国民原簿を取り戻すため集まっている。
ノエルが機体へ帳簿を固定すると、共和国のドラン准将から無線が入った。
『魔女。こちらはあと十分で持たん』
「十分あれば十分です」
『帝国人は数字の冗談が下手だな』
「協定の発効は零時です。それまでに一万一千二百メートルを超え、建国憲章を焼却します」
『燃えるのか』
「燃やします」
帝国側の砲兵が叫ぶ。
「離陸路、開け!」
両軍の砲が一斉射撃した。
死者の飛竜が砕け、亡霊機が炎の尾を引いて落ちる。
ノエルは〈カワセミ〉を発進させた。
高度千。
二千。
三千。
冷気が外套を凍らせる。
国民原簿から黒い文字が溢れ、機体へ絡みついた。
『ハンス・ベルマー』
『ヨゼフ・カーン』
『エミル・レーン』
最後の名を見た瞬間、ノエルの指がわずかに止まった。
その隙を、死者の飛行隊は逃さない。
右後方から亡霊機が射撃。
ノエルは急旋回したが、弾丸が風印の一つを砕いた。
機体が傾く。
原簿の重量が増した。
高度四千五百。
上昇率低下。
「風精第七契約、解放。代価は左手の痛覚、期限一時間」
左手から感覚が消える。
代わりに風が翼となり、〈カワセミ〉を押し上げた。
死んだケッセルが、骨の飛竜に乗って追ってくる。
大剣を振り上げ、咆哮する。
「カルレク! 貴様も王に仕えろ! 死ねば恐怖は消える!」
「恐怖がない者は、損失を計算できません」
ノエルは機体を反転させ、正面から突っ込んだ。
ケッセルの大剣が振り下ろされる。
直前で風を切る。
〈カワセミ〉は骨の翼の下へ潜り、上昇気流を逆流させた。
飛竜の骨格が内側から弾ける。
ケッセルは雲海へ落ち、途中で無数の黒い紙片に変わった。
高度七千。
酸素が薄い。
ノエルの唇が紫色になる。
国民原簿が開き、ページからメルキオルの上半身が立ち上がった。
巨大な骨冠が夜空を覆う。
『なぜ抗う、魔女』
「契約条件が不利だからです」
『汝には特別な席を用意しよう。我が軍の元帥。死者の空を統べる灰冠の女王』
「俸給は」
『望むものすべて』
「典型的な未払い求人です」
『永遠の命を与える』
「永遠に勤務させる、の間違いでしょう」
王の手が伸びる。
骨指が〈カワセミ〉を掴み、上昇を止めた。
『生者は皆、同じ誤りを犯す。自由を、所有者がいないことだと思う。だが名を持つ限り、誰かが汝を呼び、数え、命じる。家族、軍、国家、神。名とは最初の鎖だ』
ノエルは息を整えた。
「だから私の本当の名を求めたのですか」
『国家名では汝の肉しか縛れぬ。母の名なら魂を所有できる』
高度計の針は七千二百で止まっている。
地上では両軍が死者に押され始めていた。
時刻、二十三時四十四分。
あと十六分。
ノエルは目を閉じた。
幼い頃の記憶がよみがえる。
北の鉱山町。
配給不足。
病床の母。
徴税吏が戸籍台帳を持って来た日。
『この子の名は?』
母は答えなかった。
代わりにノエルの耳元でだけ、ひとつの名を囁いた。
国家へ登録されたのは、別の名だった。
ノエル・カルレクは、孤児院の役人がつけた記号にすぎない。
彼女は右手で胸の契約印を裂いた。
「風精第一契約を改定」
血が外套を濡らす。
「代価として、国家に記録されていない私の名を支払う」
風が止まった。
世界中の音が、一瞬消えた。
『待て』
メルキオルの声に、初めて恐怖が混じる。
ノエルは、誰にも聞こえない声で、本当の名を告げた。
その名は風にほどけた。
母の声も、幼い日の記憶も、名とともに消える。
帝国の戸籍簿からは「ノエル・カルレク」が残った。
だがその記号と魂を結ぶ線が切れた。
骨の指が彼女を掴めなくなる。
『名なき者は、契約の主体になれぬ!』
「好都合です。署名者が存在しなければ、あなたとの契約も無効になる」
国民原簿の文字が激しく乱れた。
死者軍の動きが一瞬止まる。
〈カワセミ〉は解放された風に弾かれ、垂直に上昇した。
八千。
九千。
一万。
亡霊機が追う。
ノエルは残った風印を一つずつ燃やした。
右目の色覚。
十年分の寿命。
冬の記憶。
味覚。
左耳の聴力。
魔術は奇跡ではない。
支払い方法を選べる破滅だ。
一万一千。
機体の外板が凍り、亀裂が走る。
肺が焼けるように痛む。
下方から、帝国最大の高射砲が最後の一発を撃った。
死者に乗っ取られた砲台だった。
巨大な砲弾が上昇し、〈カワセミ〉のすぐ脇を通過する。
気圧差で機体が半回転した。
高度計の針が、一万一千二百を越える。
ノエルは国民原簿の第一頁を開いた。
『グラウフェン王国建国憲章。
この地、この民、この地に眠るすべての骨を、王とその継承者の所有とする』
時刻、二十三時五十八分。
彼女は発火術を使った。
火は紙を舐めたが、文字ひとつ焦がせない。
『言ったはずだ。歴史は生者二人の署名で消えぬ』
メルキオルの顔がページから浮かぶ。
『憲章を破棄できるのは、王だけだ』
「では、王を変更します」
ノエルは協定書を取り出した。
帝国と共和国が主権を放棄した瞬間から、グラウフェンの統治権は空位になる。
ただし零時までは、委任を受けた彼女が帝国側の最後の主権執行者だ。
古代法では、最後に王印を持つ者が暫定継承者となる。
彼女は皇帝血印を自分の血へ押しつけ、建国憲章の末尾に新しい条文を書いた。
『暫定継承者ノエル・カルレクは、グラウフェン王位を一秒間のみ継承する』
王の数字の瞳が見開かれる。
『愚かな。王となれば、汝も原簿に縛られる』
「承知しています」
ノエルは次の一文を書く。
『同時に、王国を解散する。領土、民、死者、債務、王冠を、何者にも継承させない』
『やめろ!』
骨の腕がページから伸びる。
ノエルは最後に署名した。
零時の鐘が、はるか地上で鳴る。
協定が発効した。
一秒だけ、ノエル・カルレクは王になった。
次の一秒で、王国は消滅した。
建国憲章が白い炎を上げる。
メルキオルの身体に亀裂が走った。
『王国がなくとも、死者は残る! 九万七千四百十一の名が、汝を新たな国庫とする!』
燃えるページから、無数の黒い文字が飛び出す。
死者の名がノエルの身体へ殺到した。
彼女の皮膚に、名前が刻まれる。
腕、首、顔、瞼。
九万七千四百十一人分の未練と恐怖が、一つの肉体へ流れ込む。
〈カワセミ〉が墜ち始めた。
ノエルは操縦桿を握り直す。
感覚のない左手で、最後の風印に触れた。
「第十三契約、全解放」
風精が問う。
『代価は』
彼女は、もう名前を持っていなかった。
寿命も、記憶も、痛みも、かなり支払った。
残っているものを数える。
「私が生き延びる可能性、すべて」
風精は満足した。
夜空に、太陽のような白い渦が生まれた。
ノエルは燃える国民原簿と、骨冠王と、九万七千四百十一の死者の名を抱えたまま、その中心へ機首を向けた。
『名なき魔女よ! 汝は何者だ!』
メルキオルが叫ぶ。
ノエルは少し考えた。
「未登録資産です」
〈カワセミ〉が白い渦へ突入した。
空が、燃えた。
終章 未登録飛行体
グラウフェンの夜空に灰が降った。
死者の軍団は一斉に立ち止まり、持っていた武器と帳簿を落とした。
骸骨は骨へ戻り、亡霊は最後に一度だけ、生前の顔を取り戻した。
帝国兵と共和国兵の間を、古い時代の兵士たちが歩いていく。
誰も命令しなかったが、両軍は道を開けた。
死者たちはそれぞれの墓、砲弾孔、河、名もない土へ帰った。
骨冠王メルキオルは消滅。
グラウフェン国民原簿は焼失。
帝国の戸籍・徴兵・配給台帳から広がっていた黒い染みも、夜明けまでに消えた。
都市の最終死者数は、一万二千八百六名。
ノエル・カルレク少佐の当初予測より五千六百三十六名少なかった。
彼女自身の遺体と〈カワセミ〉の残骸は、発見されなかった。
戦務省は事件を「中央弾薬庫の誘爆および集団幻覚」と発表した。
第零号勅令の存在は否定され、グラウフェン臨時無主権協定は軍事機密に指定された。
帝国と共和国の停戦は十二時間で終わった。
十三時間目には、双方がどちらから先に発砲したかを巡って戦争を再開した。
人間は死者より忘れやすく、国家は人間より忘れたふりが上手かった。
エミル・レーン大尉の娘は、共和国側の避難回廊を通って生き延びた。
彼女のもとには、差出人不明の封筒が一通届いた。
中には、折れた計算尺と、一枚の紙が入っていた。
『あなたの父は、帳簿のためではなく、人間のために死んだ。
これは口頭報告の代用である』
署名欄は空白だった。
それから七年後、戦争は終わった。
帝国は革命で崩れ、共和国同盟も三つに分裂した。グラウフェンはどの国にも編入されず、共同墓地と自由市になった。
だが終戦後も、国境地帯の操縦士たちは奇妙な報告を上げた。
深夜、古戦場の上空を灰色の単座機が飛ぶ。
翼はなく、音もない。
その後ろを、歴代の軍服を着た亡霊機が静かについていく。
灰色の機体は、迷った死者を墓へ導き、ときに新しい戦争を始めようとする部隊の通信へ割り込んだ。
『その作戦の予測損耗は、許容範囲を超えている』
女の声だったという。
各国軍は、その飛行体を公式には認めなかった。
登録番号も、所属国も、操縦士名も存在しないからだ。
ただグラウフェンの死者だけが、彼女を知っていた。
国家は彼女の名を失った。
だからこそ死者は、誰の所有物でもない彼女を、灰冠の女王と呼んだ。
了