灰都の螺旋

 カルパチア東麓の黒土は、雨に濡れると血のような匂いがした。

 槙原環は幌馬車の縁から身を乗り出し、丘の上の館を見た。稲妻が雲の腹を裂くたび、焼け焦げた尖塔と、蔦に塞がれた窓が白く浮かぶ。煙突から煙は出ていない。それでも風には、窯を開けた直後のような熱い土の臭いが混じっていた。

「帰るなら、今です」

 手綱を握るイオン・コルブが言った。山羊皮の外套から雨を滴らせ、冗談めかして笑っているが、眼だけは笑っていない。

「村では何と言っていた?」

「館の窓に灯がある夜は、地面の下で誰かが夢を見ている、と」

「詩人が多い村ね」

「墓も多い」

 環は懐中時計を確かめた。二時十七分。さっきから針が動いていない。蓋を叩いても同じだった。

 館の鉄門は開いていた。

 馬車が敷地へ入った瞬間、馬が悲鳴を上げた。前脚を高く跳ね、泥の中で半回転する。イオンが手綱を引き絞り、環は御者台から飛び降りた。

 泥に、白いものが突き出していた。

 人骨ではない。掌ほどの土偶だった。腰が広く、顔は嘴のように尖り、胸から腹へ赤と黒の二重螺旋が描かれている。六千年前、ククテニ・トリポリエの集落で作られた型に似ていた。ただし、それは焼かれていなかった。指で触れると、雨水を含んだ粘土が生き物の皮膚のようにへこんだ。

「新しい」と環は呟いた。

 土偶の眼窩から、黒い水が一滴こぼれた。

 イオンは十字を切った。

「館へ入ったら、火を勝手につけないでください」

「寒がりなの」

「寒さで死ぬほうが、ましな家もある」

 正面扉には獅子の輪をくわえた把手があった。環が触れる前に、扉は内側へ開いた。

 黒い喪服の女が、蝋燭を一本だけ持って立っていた。年は三十前後に見えたが、その白い顔には若さよりも長い不眠が刻まれていた。

「槙原環さんですね」

 流暢なフランス語だった。

「オルガ・ヴァシレスク伯爵夫人?」

「ただのオルガで結構です。爵位は夫と一緒に地の下へ消えました」

 彼女は二人を招き入れた。

 広間には暖炉があった。薪は赤々と燃えているのに、まるで暖かくない。壁には一族の肖像画が並んでいたが、どの顔にも薄布が掛けられていた。床の絨毯には、土偶と同じ二重螺旋が織り込まれている。

 階段の踊り場に、少年がいた。

 七歳ほど。白い寝間着を着て、素足でこちらを見下ろしている。片手に、赤い粘土の笛を握っていた。

「ミルチャ」とオルガが呼んだ。「お客様に挨拶を」

 少年は答えず、環を指さした。

「この人、前にも来たよ」

 オルガの蝋燭が、ふっと短くなった。

「夢を見たのでしょう」

「ちがう。前は、顔に血がついてた」

 環は笑おうとしたが、喉の奥に冷たいものが貼りついていた。

 依頼の品は、食堂の長卓に置かれていた。

 手のひら二枚分ほどの彩文土器の破片。乳白色の地に、赤と黒の渦が絡み合っている。断面は奇妙に滑らかで、もともと二つの器が背中合わせに繋がっていたらしい。

「双生壺」とオルガは言った。「こちらは息を吐く壺。失われた半分は、息を吸う壺と呼ばれていました」

「誰が?」

「この土地で、文字より古い言葉を守ってきた者たちが」

 環は破片を灯りへ透かした。胎土に細かな銅の粒が混じっている。古代のものに違いない。だが、内側に煤がなく、酒や穀物を入れた痕跡もない。

「何のための器です?」

「家を記憶するため」

 環は顔を上げた。

 オルガは食堂の壁を見ていた。そこには館の平面図が額装されている。楕円形の回廊を中心に部屋が同心円状に並び、外周には隙間がある。大きさこそ違うが、トリポリエの巨大集落を上から見た配置に酷似していた。

「夫は七年前、この館の地下で先史時代の集落を見つけました。家々が幾層にも重なった、焼けた町です。彼は最深部に、ただ一軒だけ焼かれていない家があると言っていた。双生壺の残り半分は、そこにある」

「どうして自分で取りに行かないんです?」

「夫は行きました」

 オルガは薄布を掛けた肖像画の一枚へ目を向けた。

「戻ってきたのは、声だけです」

 館のどこかで、こつ、こつ、と硬い音がした。

 天井ではない。壁の内側だ。

「三日前から、白い服を着た死人たちが館へ入ってきます」とオルガは続けた。「壁を抜け、床を掘り、知らない言葉で話す。夫が封じたものを探しているのでしょう。彼らより先に壺を取ってください。報酬は、これで」

 彼女は小箱を開いた。

 中に横たわっていたのは金貨でも宝石でもない。掌ほどの銅板だった。表面に、地図のような溝が走っている。環は一目で、それがドニエストル沿岸の古代坑道図だと悟った。失われた「母銅」——青銅器時代以前に採掘されたという巨大な自然銅塊。その所在を示すと噂された品だ。

「これが本物なら、博物館三つは買える」

「博物館を買うのですか?」

「借金取りを三つ、黙らせます」

 イオンが咳払いした。

「環。白い死人の話は別料金にしたほうがいい」

 オルガは笑わなかった。

「地下への入口は書斎の暖炉です。夜明けまでに戻ってください。そして一つだけ。館の中で、まだ燃えていない部屋に火をつけないこと」

「理由は?」

「家が、自分の終わりを思い出すからです」

 その夜、環は客間の寝台に横たわり、拳銃を枕の下へ入れた。

 眠るつもりはなかった。

 壁の向こうで、低い唸りが続いていた。歯科用のドリルを巨大にしたような音。時折、耳慣れない電子音が混じる。電話も電線もない館で鳴るはずのない音だった。

 午前二時十七分、扉の下から白い光が差し込んだ。

 環は拳銃を抜き、廊下へ出た。

 光は突き当たりの壁から漏れていた。漆喰が水面のように揺れ、その中から人影が現れた。

 頭から足まで白い服。顔は透明な面で覆われ、背中には銀色の筒を背負っている。片手の棒から、青白い光を放っていた。

 人影は環に気づかない。

「第三層、東壁。空洞反応あり」

 くぐもった声だった。聞いたことのない訛りのルーマニア語。続いて、胸元の小箱から別の声が返る。

「リュフォル、単独で入るな。構造が不安定だ」

 白い人影——リュフォルと呼ばれた女は、壁の向こうを振り返った。

 その顔が、透明な面越しに環と重なった。

 目が合った。

 リュフォルの瞳が見開かれた。

 環は反射的に引き金を引いた。

 銃声。火花。白い人影は消え、弾丸は壁へめり込んだ。だが漆喰が崩れた穴の奥から現れたのは煉瓦ではない。

 湿った黒土だった。

 その土の中に、細い根と、陶片と、人間の乳歯が埋まっていた。

 背後で粘土笛が鳴った。

 振り向くと、ミルチャが廊下の暗がりに立っていた。

「撃っちゃだめだよ」と少年は言った。「上の人たちは、ぼくらを幽霊だと思ってる」

 夜明けを待たず、環とイオンは地下へ降りた。

 書斎の暖炉の奥に鉄梯子があった。二十メートルほど降りると、十九世紀の石組みが途切れ、その下から赤い焼土の壁が現れた。

 壁面には、無数の指跡が残っている。

 子供のもの。大人のもの。指が六本あるもの。

「発掘現場で怖いものは三つある」とイオンがランプを掲げた。「毒蛇、落盤、それから学者の確信だ」

「今日は四つ目を足しましょう。喋る家」

「帰ったら本にしてください。題は『二度と行かない場所』」

 地下には町があった。

 土中へ沈んだ家々が、焼けた層を挟んで何段にも積み重なっている。最上層の家の床を抜けば、その下に百年古い家の屋根があり、さらにその下に別の炉と寝台がある。赤、白、黒の渦巻文様が闇の中へ連なり、ランプの炎に合わせて動いて見えた。

 家々は円環状に並んでいた。

 中心へ向かう道はあるのに、外へ出る道がない。

 環は焼土を削り、断面を確かめた。高温で一気に焼かれている。戦火ではない。一軒ずつ、家財ごと、意図的に火を放った跡だ。

「家を捨てるたびに、燃やした」と環は言った。「死者が帰る住所をなくすためかもしれない」

「逆かもしれません」

「何が?」

「持っていくためです。パンを焼けば固くなる。家も焼けば、形のまま墓へ持っていける」

 イオンの声が、遠いところから返った。

 環が振り向くと、彼はすぐ隣にいた。

 反響ではない。

 別のイオンの声が、下の階層から同じ言葉を繰り返していた。

 ——家も焼けば、形のまま墓へ持っていける。

 二人は黙って先へ進んだ。

 やがて通路は、深い縦穴へ出た。

 向こう岸まで十メートル。十九世紀の発掘隊が渡したらしい木橋が架かっている。縦穴の壁には、無数の粘土の顔が埋め込まれていた。老人、女、赤子、獣。どれも眼を閉じ、口を開けている。

 環が橋へ一歩踏み出すと、下から吐息が上がった。

 顔という顔が、いっせいに眼を開いた。

 ランプが消えた。

 闇の中で、木が軋んだ。

 イオンが火をつけ直したとき、橋の中央に人が立っていた。

 濡れた軍用外套。細い口髭。銀歯を見せる笑い。

「相変わらず、入口を見つけるのがうまいな。マキハラ」

 ヴィクトル・トリシア。

 半年前、環を砂漠の井戸へ置き去りにし、王墓の黄金を横取りした男だった。背後には短機関銃を持つ三人の部下がいる。全員、首から小さな家形土製品を下げていた。

「尾行にしては遅いわね」と環は言った。

「君が同じ道を何度も通ってくれるので、迷わずに済んだ」

 意味のわからない言葉だった。

 トリシアは銃口を上げた。

「案内してもらおう。第七層の、燃えていない家まで」

「断ったら?」

「橋の下の家族が、君を覚えてくれる」

 壁の粘土顔が、歯のない口をぱくぱくと動かした。

 その一つが、環の顔になっていた。

 一行は中心区画へ向かった。

 トリシアの部下たちは壁へ赤い粉を撒き、時折、土製の鈴を鳴らした。すると曲がりくねった通路が僅かに開き、別の部屋へ繋がる。

「ずいぶん詳しいのね」と環は言った。

「第九炉団は、ここから始まった」

 トリシアは胸元の家形土製品を撫でた。

「国も宗教も、家の後に生まれた。最初の神殿は炉だ。最初の供物は、そこへ戻された家族だ。人間は土から作られたのではない。家の記憶から作られたんだ」

「それで不動産屋にでもなるつもり?」

「永遠の住人になる」

 通路の先で、誰かが呻いた。

 トリシアの部下の一人が消えていた。

 さっきまで歩いていた場所には、白い壁がある。まだ湿っている。壁の中央から、人間の指が五本だけ突き出していた。

 指が二度、助けを求めるように曲がり、粘土の中へ沈んだ。

 残る部下が叫び、短機関銃を乱射した。

 弾丸が壁をえぐる。穴の奥に、空洞はなかった。赤い肉のような粘土が詰まり、その中で無数の歯が擦れ合っていた。

 町が目を覚ました。

 床の螺旋文様が回り始めた。実際に絵が動いているのではない。家そのものが、円を描くようにゆっくり軋んでいる。通路が閉じ、別の壁が開く。炉の口から灰色の腕が伸びた。

「走れ!」

 環はトリシアの銃を蹴り上げ、イオンを引いた。

 背後で銃声と悲鳴。粘土の腕が部下を炉へ引きずり込み、骨の砕ける音がした。トリシアだけが滑り込むように追ってくる。

 狭い部屋を抜けると、旧発掘坑道へ出た。錆びた狭軌レールと、土を運ぶ手押しトロッコが残っている。

 環とイオンは前の一台へ飛び乗った。環が制動棒を蹴り外す。傾斜に乗ってトロッコが走り出した。

 トリシアも後ろの一台へ乗り込んだ。

 暗闇の中で車輪が火花を散らす。左右の壁を、彩文土器の渦が奔流のように流れていく。天井から垂れた根が顔を撫で、背後から銃弾が飛んだ。

 イオンが身を伏せる。

「右へ分岐!」

「レールは左へ曲がってる!」

「家が変えます!」

 前方で壁が動いた。

 線路の先が塞がれ、右側に黒い穴が開く。環は制動棒をレールへ突き立てた。トロッコが片輪を浮かせ、甲高い音を上げて横滑りする。

 トリシアの弾丸がイオンの肩を撃ち抜いた。

 血が飛ぶ。

 その血は空中で赤い泥へ変わり、床へ落ちる前に無数の小さな指となって蠢いた。

 環はそれを見た。

 イオンも見た。

 二人とも何も言わなかった。

 トロッコは分岐へ飛び込み、石の支柱をへし折った。天井が崩れ、トリシアの線路を埋める。彼の怒号が土煙の向こうへ消えた。

 やがて傾斜が終わり、トロッコは巨大な広間へ転がり出た。

 そこに、燃えていない家があった。

 赤褐色の壁。葦と丸太の屋根。入口の両脇に、実物大の女神像が立っている。周囲の家がすべて炎で固められているのに、その一軒だけは湿り、柔らかく、今朝作られたように新しかった。

 扉には、二重螺旋が描かれていた。

 片方は内へ巻き、片方は外へ巻いている。

 環が手を触れると、扉の向こうで誰かが同じ場所へ掌を当てた。

 白い手袋。

 壁を隔てた向こうに、あの白服の女——リュフォルが立っていた。

 扉を開けると、二つの時代が重なった。

 環の眼には、土間と炉と低い祭壇が見えた。祭壇の上には、欠けていない双生壺が置かれている。赤と黒、二つの胴が腰の部分で繋がり、四本の渦が互いを追っていた。

 同時に、部屋の半分は白い照明で照らされていた。

 金属の支保工。測量器。透明な箱。壁に貼られた標識には、環の知らない字体で「区画七 立入制限」とある。白服のリュフォルが、胸元の機械へ叫んでいた。

「聞こえる? 内部に人がいる。女性が——」

 声が途切れた。

 リュフォルの背後に、トリシアが立った。

 いや、トリシアの形をした黒い泥だった。崩落で潰れた顔を土で補い、銀歯だけが白く光っている。彼はリュフォルには見えていない。

 環は拳銃を撃った。

 弾丸はトリシアの肩を抜け、リュフォルの横の測量器を砕いた。リュフォルが悲鳴を上げて伏せる。トリシアは笑い、双生壺を掴んだ。

 その瞬間、部屋の中央に亀裂が走った。

 祭壇が沈み、床下から石棺のような箱がせり上がる。蓋はすでに割れていた。

 中には、三体の骸骨が折り重なっていた。

 一体は首にイオンの十字架を掛けていた。

 一体は前歯に銀の被せ物があった。

 最後の一体は、小柄な女だった。右手の小指が途中から欠けている。

 環は自分の右手を見た。

 砂漠の罠で失った小指。

 骸骨の胸元には、錆びた真鍮のライターがあった。「環」の一文字が刻まれている。

 記憶が、雷のように戻った。

 雨の夜。館。オルガの依頼。地下都市。トリシアの裏切り。銃声。崩落。胸を貫いた木杭。口いっぱいの泥。

 そして、また雨の夜。

 館。依頼。地下都市。銃声。

 何度も。何十度も。

 イオンが骸骨を覗き込み、ゆっくり膝をついた。

「私たちは……帰らなかったのですね」

 環は答えられなかった。

 リュフォルの腕に巻かれた小さな画面が光った。そこに表示された数字を、環は辛うじて読めた。

 二〇二五。

 八十七年が過ぎていた。

 トリシアは双生壺を胸へ抱いた。

「だからこそ、永遠だ」

 彼の身体から泥が剥がれ、代わりに若い皮膚が現れ始めた。銃創が閉じ、潰れた片目が戻る。壺が家の記憶を吸い、望んだ姿を与えている。

「焼けた家は形を残す。焼かれなかった家は、住人を残す。われわれは死んでいない。ここに保存された」

「保存?」環は骸骨を見た。「同じ晩を繰り返すことが?」

「外の世界では、名も国境も変わった。ここでは変わらない」

 白い照明が点滅した。

 壁の一部が剥がれ、ヴァシレスク館の食堂が現れた。長卓の向こうにオルガが座り、ミルチャが笛を握っている。館そのものが、土の家の内側へ折り畳まれていた。

 オルガは環を見た。

「壺を戻してください」

「あなたも知っていたのね」

「最初は知りませんでした。死んだことを忘れるには、何度も同じ夢を見る必要がある」

 彼女はミルチャの髪を撫でた。

「夫が掘り当てたのは宝ではなく、最後の家でした。六千年前、この集落の人々は移住のたびに家を焼いた。家の中に溜まった声を、煙にして空へ返すために。けれど最後の住人たちは、別れを拒んだ。家を焼かず、双生壺に自分たちを移した」

「それが、この町を動かしている」

「町ではありません」

 オルガの声に、何百人もの声が重なった。

「家族です」

 壁という壁から顔が浮かび上がった。老女、若者、乳児。六千年前の顔。八十七年前の顔。発掘で死んだ者たちの顔。

 リュフォルの無線から悲鳴がした。

「地表班、応答して! 壁が閉じる、マルコが——」

 白い空間の向こうで、別の調査員が粘土の床へ腰まで沈んでいた。仲間が引いても、土は生きた口のように彼を呑み込んでいく。

 オルガは静かに言った。

「上の人たちは、私たちの家を壊します。骨を箱へ入れ、器をガラスの中へ閉じ込め、私たちを説明に変える。だから新しい住人になってもらうのです」

 ミルチャが笛を吹いた。

 リュフォルの足元から、粘土の手が伸びた。

 環は飛びつき、その手首を掴んだ。冷たく、柔らかい。引き剥がすと、手は赤子の泣き声を上げて崩れた。

 リュフォルが環を見た。

 今度は、はっきりと。

「あなたは……誰?」

「宝探し」

「え?」

「失敗したほうの」

 トリシアが双生壺を掲げた。

 部屋の二重螺旋が逆方向へ回り、環の輪郭が濃くなった。死んでいるはずの心臓が一度だけ打つ。肺へ、土と煤の匂いが流れ込む。

 壺が近くにある間、記憶は肉体になれる。

 トリシアも同じだった。

 彼は環へ突進した。二人は祭壇を越え、食堂と発掘室の境目を転がった。環が拳を叩き込むと、トリシアの頬が人の肉から粘土へ変わり、指の跡が残る。トリシアは笑いながら環の喉を掴んだ。

「君はいつも最後に情を選ぶ。だからいつも私が壺を取る」

「いつも?」

「この夜は、もう百回以上やった」

 彼は環を壁へ叩きつけた。

 記憶がまた弾けた。

 百回の敗北。壺を奪われ、リュフォルたちが壁へ呑まれ、町が静かになる。数年後、別の発掘隊が来る。雨の夜が始まる。環は館へ到着し、同じ依頼を受ける。

 だが今回は、リュフォルがいた。

 彼女は床へ落ちた拳銃を拾い、トリシアへ向けた。

「撃って!」環が叫んだ。

「どっちを?」

「銀歯のほう!」

 銃声。

 トリシアの顎が砕けた。環は双生壺を奪い、リュフォルへ投げた。壺が白い手袋に触れた瞬間、部屋全体が震えた。

 生者が壺を持った。

 館の壁が透け、地上の発掘現場が現れた。鉄骨、発電機、切り開かれた縦坑。遠い天井に、本物の星空が見える。

「それを持って外へ!」環は言った。

 オルガが立ち上がった。

「外へ出せば、家はすべてを追います」

 壁から数百の腕が伸びた。リュフォルの白服を掴み、引き裂く。イオンが体当たりし、腕の群れを押し返した。

「行け、環!」

「あなたは?」

「私は橋が嫌いなんです。ここで待ちます」

 彼の肩の銃創から、赤い泥が流れ続けていた。それでも笑っていた。

 リュフォルは壺を抱えて走った。環も追う。背後でイオンが土の波に呑まれた。

 未焼成の家の奥に、巨大な炉があった。

 炉の前には、六千年前の壁画が残っている。人々が家財を運び出し、最後に家形土製品を炎へ投げ入れている。皆、泣いていた。だが逃げてはいない。炎の向こうへ歩いていた。

 環は理解した。

「壺を外へ出すんじゃない」

 リュフォルが振り返る。

「何?」

「この家を終わらせる。火が要る」

 リュフォルは首を振った。

「ここは湿度九十八パーセントよ。燃えるものなんて——」

 環は彼女の腰の装備を指さした。赤い筒。救難用のマグネシウム照明弾。

 そのとき、炉の口からミルチャが現れた。

 少年はもう人の形を保っていなかった。半身は白い寝間着、半身は無数の子供の腕と顔が絡み合った粘土だった。

「燃やさないで」

 小さな声が、炉の中で何重にも反響する。

「ぼく、まだ朝を見てない」

 環は膝をついた。

「朝は来るわ」

「燃えたら、見られない」

「燃えなければ、ずっと夜の途中よ」

 ミルチャの眼から黒い泥が流れた。

「お母さまが一人になる」

「一人にはならない。ここには、帰りたがっている声がたくさんある」

 食堂の奥で、オルガが立っていた。

 彼女は息子を見つめ、長い間、何も言わなかった。

 やがて、喪服の胸元から双生壺の破片を取り出した。依頼の夜、環へ見せた半分。

「六千年前の母親も、同じ嘘をついたのでしょうね」と彼女は言った。「火の向こうには朝がある、と」

「嘘かどうか、確かめに行けます」

 オルガは微かに笑った。

「あなたは宝探しが下手です」

「知ってる」

 オルガは破片を炉へ投げ入れた。

 リュフォルが照明弾の安全環を抜く。

 トリシアの咆哮が背後から迫った。

「やめろ! 永遠が——」

 環は彼へ振り向き、拳を構えた。

「永遠じゃない。同じ一晩の再放送よ」

 トリシアが飛びかかる。

 環は身を沈め、彼の勢いを利用して炉の縁へ投げた。トリシアは片手で踏みとどまり、もう片方の手で環の腕を掴む。二人の皮膚が剥がれ、下から赤い粘土が現れた。

 リュフォルが照明弾を投げた。

 白い火が炉の中で弾けた。

 双生壺が鳴った。

 笛より低く、地鳴りより深い音だった。二つの胴が互いに息を吸い、吐き、六千年分の声を一度に噴き出した。

 炎が壁を走った。

 湿っていたはずの家が、油を含んだ紙のように燃え上がる。梁、床、炉、寝台、祭壇。すべてが白熱し、柔らかな粘土が赤く硬く変わっていく。

 トリシアの指が焼き固まり、環の腕から剥がれなくなった。

「一緒に残れ」と彼は叫んだ。「君も外には戻れない!」

「ええ」

 環は炉の扉を蹴り開けた。

「だから、終わらせるの」

 彼女はトリシアごと炎の中へ倒れ込んだ。

 火の中に、館の玄関広間があった。

 肖像画を覆っていた薄布が、次々に落ちる。

 そこに描かれていたのはヴァシレスク家の祖先ではなかった。彩文土器を作る女、穀物を運ぶ男、屋根へ葦を敷く子供たち。六千年前の家族が、炎の向こうからこちらを見ていた。

 イオンが階段の下に立っていた。服は泥だらけだが、傷はない。

「馬車を回しておきました」と彼は言った。

「館ごと燃えてるわよ」

「では、少し急いだほうがいい」

 ミルチャが階段を降りてくる。オルガが手を引いている。

「朝は?」少年が尋ねた。

 玄関扉の隙間から、光が差していた。

 環は扉を開けた。

 外に丘も雨もなかった。

 発掘坑の上から、本物の夜明けが射し込んでいた。淡い金色の光が、焼けた土の壁を照らす。リュフォルが梯子を登り、地上の仲間たちが彼女を引き上げている。腕には双生壺を抱えていない。

 壺は炉の中で溶け、二つの螺旋だけが赤い光となって宙に浮かんでいた。

 一つは内へ。

 一つは外へ。

 オルガとミルチャが光の中へ歩いた。イオンも続く。

 環は最後に、自分の掌を見た。

 生きていたころの指紋が戻っている。欠けた小指もあった。

 胸ポケットから真鍮のライターを出す。「環」の文字は煤で黒くなっていた。

 彼女はそれを、入口近くの焼土へ押しつけた。

 まだ柔らかな一片に、文字が刻まれる。

 環。

 完全な円ではない。

 一か所だけ、外へ開いた輪。

 家を出るための、切れ目。

 炎が視界を満たした。

 発掘責任者リュフォル・ポペスクの報告書には、説明不能という言葉が十一回使われた。

 区画七の最深部で、約六千年前の未焼成住居が突如として高温焼成状態へ変化したこと。

 現場に火源となる燃料がほとんどなかったこと。

 崩落に巻き込まれた三名が、見えない誰かに押し出されたように安全区画へ転がり出たこと。

 そして、炉の内部から発見された双胴土器が、外面を融着させながらも完全な形を保っていたこと。

 壺の内側には、古代のものではない指紋が一つ残っていた。

 右手の小指が欠けている人物の指紋だった。

 同じ場所から、錆びた真鍮のライターも見つかった。八十七年前、行方不明になった日本人調査員、槙原環の所持品と一致した。

 リュフォルは報告書の末尾に、学術的でない一文を書き足した。

 ——住居焼却は破壊ではなく、別れの技術だった可能性がある。

 その一文は査読で削除された。

 だが、壺は博物館へ移されなかった。

 リュフォルの申し立てで、焼けた住居とともに現地保存されることになったからだ。ガラスも照明も置かれず、入口だけが静かに封じられた。

 最後の作業日、リュフォルは一人で区画七へ降りた。

 朝の光が縦坑から差し、赤い壁に二重螺旋の影を落としていた。片方は内へ巻き、片方は外へほどけている。

 焼土の一片に、見慣れない文字があった。

 環。

 リュフォルは指先で、その開いた輪郭をなぞった。

 どこか遠くで、馬車の鈴が鳴った。

 今度は、館へ向かう音ではなかった。

 黒土の丘を越え、朝の側へ遠ざかっていく音だった。