『灰都ベルセインの竜槍』

一 勝利の鐘

「戦争が終わった」と、鐘は十一度鳴った。

 敗戦処理院の規則では、鐘が十度を超えた日は、勝者が決まっただけで戦争は終わっていない。

 リディア・クロウ少佐は、その規則を信じていた。神を信じるよりは、ずっと安全だった。

 灰都ベルセインの空には、石炭煙と焼けた祈祷紙が低く垂れ込めていた。東区を占領した帝国軍の飛行艇が、白い腹を見せて旋回している。砲撃で半分になった大聖堂の尖塔には、勝者の黒金旗が巻きつき、その下では敗者の旗が雨に濡れて泥と同じ色になっていた。

 通りには市民が並ばされていた。

 パンの配給ではない。国勢再登録である。

 名前、年齢、職業、信仰、利き腕、過去五年の納税額、戦時債券の保有数、反乱歴の有無。書記官は一人ずつ質問し、答えを銀針で黒い帳面へ刻んでいく。針が紙を走るたび、市民の影から細い光が抜け、帳面へ吸い込まれた。

 帝国の聖算術は、数えられたものを支配する。

 人間も例外ではない。

 リディアは馬車の窓から行列を眺め、手元の書類に目を戻した。

 ベルセイン暫定人口、十七万四百十二。

 稼働可能労働力、八万一千九百。

 徴発可能食糧、十九日分。

 予想される反乱鎮圧費、金貨二十七万枚。

 そして、最後の欄だけが赤い封蝋で隠されていた。

 馬車が旧王宮の地下玄関に着くと、衛兵は敬礼しなかった。敗戦処理院は軍人から嫌われている。死者の数に価格をつけ、英雄の突撃を費用超過と記録し、勝利の翌日に連隊を解散させる役所を、好きになる者はいない。

 リディアはそれを気にしたことがなかった。好意は通貨として不安定すぎる。

 地下三階の会議室で、帝国特務卿ヴァルツが待っていた。

 男は六十を過ぎていたが、銀糸の礼装に皺ひとつなかった。右目には水晶の単眼鏡が嵌め込まれ、その奥を小さな数字が流れている。机の上にはベルセインの模型と、赤封蝋の命令書があった。

「クロウ少佐。君の損耗予測は正しかった。攻略は予定より三日早く、死者は許容範囲内だ」

「光栄です」

「そうは聞こえんな」

「光栄という言葉は、会計上の価値を持ちませんので」

 ヴァルツは口元だけで笑った。

「君を選んだ理由が、それだ」

 封蝋が割られた。

 文面はわずか七行だった。

 特別清算令第零号。

 対象、灰都ベルセインおよび周辺三村。

 目的、第一級戦略遺物〈灰星槍〉の起動。

 必要投入量、登録生命十七万以上。

 執行時刻、明日午前零時。

 執行担当、敗戦処理院第十三計理官リディア・クロウ。

 守秘区分、死後解除。

 リディアは二度読んだ。読み違いがないと確認してから、模型上の街を見た。

「市民全員を、燃料として計上するのですか」

「正確には、国家防衛のための神秘資産へ転換する」

「言い換えは不要です。生存率は」

「市内に残った者は、零・〇七パーセント」

「私を含めて?」

「君は儀式開始前に退避する。成功すれば中佐、そして本国勤務だ」

 昇進。

 清潔な官舎。

 凍った前線で眠らずに済む生活。

 それは、リディアが十七歳で軍務学校へ入って以来、望み続けたものだった。

 望み続けた、はずだった。

「灰星槍の起動に王家の血が必要だと、古文書にはあります」

「そのための鍵は用意してある」

 ヴァルツが指を鳴らすと、壁の地図が透けた。裏側に、一人の女の肖像が浮かんだ。

 白銀の髪。黒いドレス。笑っていない青い目。

 処刑されたはずのベルセイン王女、セラフィナ・オルデン。

「生きていたのですか」

「血統だけはな。彼女は現在、反帝国組織〈燭台〉を率いている。今夜、君に接触する。君は寝返ったふりをし、彼女たちを王宮地下の封印庫へ導け。王女が槍を抜いた時点で、我々が制圧する」

「私への接触を、すでに把握している」

「当然だ。反乱とは、出口を一つだけ開けておけば、そこへ流れ込む水にすぎん」

 リディアは命令書を畳んだ。

「拒否した場合は」

「君の名前を、清算対象名簿の最上段へ移す」

「合理的です」

「理解が早くて助かる」

 会議室を出る直前、リディアは振り返った。

「閣下。一点、確認を」

「何だ」

「十七万人を焼いて得るものは、本当に兵器ですか」

 ヴァルツの水晶眼で、数字が止まった。

「兵器と神の違いは、運用規則があるかどうかだ」

 その答えで、リディアはすべてを理解した。

 帝国は、運用規則のないものを起こそうとしている。

二 死体安置所の王女

 接触場所は中央市民病院の地下死体安置所だった。

 時刻は午後九時。外では夜間外出禁止令が敷かれ、銃声が一定の間隔で響いていた。鐘が鳴るたび、死体棚の扉がかすかに震えた。

 リディアは軍服の上から黒い外套を羽織り、指定された十三番の引き出しを三度叩いた。

「遅刻は二分四十秒」

 背後から女の声がした。

 振り向くと、王女が死体洗いの白衣を着て立っていた。

 肖像より痩せていた。銀髪は煤で曇り、左の頬には古い火傷がある。それでも姿勢だけは、焼け落ちた宮殿の玉座より傲慢だった。

「尾行を三人つけられました」

「二人は屋上で眠っている。もう一人は、そこ」

 王女――セラフィナが床を指した。

 解剖台の下から帝国兵の靴が覗いていた。死んではいないらしく、規則正しい鼾が聞こえる。

「睡眠薬ですか」

「説得よ。薬物を用いた」

 奥の暗がりに、三人の影がいた。

 片腕に鋼鉄の義手をつけた石工ボルド。元聖堂騎士の大男ヨルン。霧術師フィーは少年のように細く、両目を黒布で覆っていた。

 これが帝国特務局を七年間悩ませた〈燭台〉の中核らしい。

 リディアは少し失望した。伝説は、たいてい人員不足でできている。

「時間がありません」

 彼女は言った。

「明日午前零時、帝国は市民全員を使って地下の何かを起動します。私はあなた方を封印庫へ案内し、槍を抜かせた後に引き渡す役目です」

 ヨルンが剣へ手を伸ばした。

 セラフィナは動かなかった。

「知っているわ」

「どこまで」

「命令書の七行目まで」

 王女は白衣の懐から薄い紙片を出した。特別清算令第零号の複写だった。リディアの署名欄まで、見事に写されている。

「敗戦処理院の暗号は昨日変わったばかりです」

「だから昨日のうちに盗んだの」

 フィーが口元だけで笑った。

「少佐殿の執務室は、窓の鍵が甘い」

「六階です」

「霧に階数はありません」

 リディアは反論をやめた。

「それで。私を殺しますか」

「殺さない」

 セラフィナは即答した。

「あなたには、私たちにないものがある」

「帝国の通行証?」

「いいえ。悪事を最後まで計算できる頭」

 褒め言葉ではなかった。

 セラフィナは解剖台の上へ都市図を広げた。王宮から大聖堂へ伸びる地下線。明日まで封印庫にあるはずの灰星槍が、実際には今夜、装甲聖列車で移送されること。列車は市内を一周しながら国勢原簿と各区の生命記録を集め、午前零時に大聖堂地下へ到着すること。

「槍は封印庫にはない」

 リディアは呟いた。

「私たちを地下へ誘い込み、空の台座を開けさせる。王家の血が封印に触れれば、儀式が始まる仕掛けか」

「そう。あなたも私も、同じ罠に入れられた」

「では、列車から槍を奪う?」

「奪って、地下の竜を殺す」

 ボルドが義手で都市図を叩いた。

「街の基礎を掘った石工は昔から知っていた。ベルセインの地下は岩じゃない。骨だ。橋脚は肋骨に打ち込まれ、下水道は血管に沿っている。帝国が起こそうとしているのは、古竜オルヴァンだ」

 竜。

 リディアは、その言葉を迷信として帳簿の外へ追いやってきた。

 だが帝国の軍事予算には、迷信対策費が毎年計上されている。

「灰星槍は竜殺しの武器」

「竜を殺すために、別の竜の骨で作られた槍よ」

 セラフィナが言った。

「帝国はオルヴァンを従わせ、東方諸国へ向けるつもり。失敗すれば、この街だけでなく、山脈まで焼ける」

「成功しても十七万人が死ぬ」

「ええ」

 王女の青い目が、初めて揺れた。

 その一瞬だけで、リディアは彼女が王女らしく見えた。

「作戦成功率は?」

「あなたが参加すれば、上がる」

「数値で」

「三パーセントくらい」

「帝国案は私個人に限れば九十九パーセントです」

「でも、あなたはここへ来た」

「命令だからです」

「命令書を持って逃げることもできた」

「逃亡兵の平均生存期間は十一日です」

「それでも、ここへ来た」

 セラフィナは静かに笑った。

「あなたは自分で思うほど、計算どおりには生きていないのね」

 リディアは腹が立った。

 だから、協力することにした。

「作戦を修正します。成功率三パーセントでは、開始前に全員死にます」

「具体案は?」

「まず、列車を止めるという発想を捨てる。帝国の装甲聖列車は軌道上の祭壇です。止めれば、各区に配された補助祭壇が代行する。乗り込んで、走らせたまま奪います」

 ボルドが口笛を吹いた。

「気に入った。狂ってる」

「狂気ではありません。代替案がないだけです」

「同じことさ」

 セラフィナが手を差し出した。

「では少佐。今夜だけ、私の国に仕えて」

 リディアはその手を見た。

「あなたの国は、今どこに?」

「ここに四人」

 王女は答えた。

「あなたが加われば、五人になる」

 国家予算としては、絶望的な規模だった。

 リディアは手を取った。

三 聖列車

 装甲聖列車〈聖エルモ号〉は、午後十一時十二分に北駅を出た。

 十三両編成。先頭は聖素炉、二両目から五両目までが護衛兵、六両目が司祭団、七両目が灰星槍、八両目以降に国勢原簿と各区の登録簿。最後尾には移動式の鐘楼があり、車輪が一回転するたび、死者の名を一つ鳴らした。

 リディアたちは、疫病死体回収班を装って六両目へ乗り込んだ。

 ボルドは棺桶の中。フィーは死体袋の中。ヨルンは顔の半分を包帯で隠し、セラフィナは老修道女に化けていた。

 リディアだけは軍服だった。

 嘘は一つだけ本物を混ぜると強くなる。

 乗車口の中尉が書類を確認し、眉をひそめた。

「回収命令は聞いていない」

「伝達が遅れています」

「どの部署からだ」

「敗戦処理院」

 中尉の顔に嫌悪が浮かんだ。

 正常な反応だった。

 リディアは赤封蝋の命令書を見せた。

「清算令第零号に基づく緊急監査です。拒否する場合、貴官の部隊を儀式費用の不足分へ充当します」

 中尉は二秒で道を開けた。

 人間は死を恐れる。軍人は、死ぬ理由が帳簿に残ることをもっと恐れる。

 列車が動き出す。

 窓の外で、灰都の灯が流れた。

 六両目には十二人の司祭がいた。全員が銀の面をつけ、膝の上に小さな算盤を置いている。珠を弾くたび、車内に青白い数字が浮かび、市内のどこかで誰かの影が薄くなった。

「何をしているのです」

 リディアが尋ねると、最年長の司祭が答えた。

「魂量の均衡です。東区は反抗心が高く、価値の減衰が激しい」

「人命の評価額に、思想を反映させている?」

「忠誠な魂ほど、神は好まれる」

「それは神ではなく、役所の都合でしょう」

 司祭の銀面が、わずかに傾いた。

 その隙に、フィーが死体袋から霧を吐いた。

 白い霧は床を這い、司祭たちの足首へ絡みつく。彼らは一斉に算盤を構えたが、ボルドが棺桶の蓋を蹴り飛ばし、義手から短銃を三発撃った。

 弾丸は人ではなく、天井の聖句灯を砕いた。

 車内が暗くなる。

 ヨルンの剣が一閃し、司祭たちの算盤だけを切り落とした。

「殺さないのか」

 ボルドが訊く。

「祈れぬ司祭は、兵より役に立たん」

 ヨルンは答えた。

 セラフィナは老修道女の仮面を脱ぎ、七両目へ続く扉に手をかけた。

 扉には王冠、竜、天秤の三つの鍵穴があった。

「王冠は私」

 彼女が言う。

「天秤は少佐。竜は?」

 ボルドが義手を外した。中から、黒く焦げた竜の牙が現れた。

「先祖の形見だ。使い道があってよかった」

 三つの鍵が同時に回る。

 扉の向こうで、何かが息をした。

 七両目は、車両ではなかった。

 夜だった。

 床も壁も消え、星のない暗闇が広がっている。その中央に、灰色の槍が浮かんでいた。長さは人の背丈の二倍。穂先は黒い玻璃で、柄には無数の名前が刻まれている。

 槍の周囲を、鎖につながれた小さな影が回っていた。

 子供、老人、兵士、娼婦、病人。

 すべて半透明で、口を開けても声は出ない。

「これは」

 セラフィナの声が掠れた。

「過去の起動試験に使われた人々でしょう」

 リディアは答えた。

「失敗分まで資産として保存していた」

 槍が、彼女たちの気配を感じた。

 柄の文字が一斉に赤く光る。

 頭の中へ、声が流れ込んだ。

 ――名を申告せよ。

 ボルドが膝をついた。フィーの黒布から血が滲む。ヨルンは剣を床へ突き立てて耐えた。

 セラフィナだけが、一歩前へ出た。

「セラフィナ・オルデン。ベルセイン王家最後の――」

「待って」

 リディアは彼女の肩を掴んだ。

 槍の柄に刻まれた文字の一つが、王女の名を先回りして形作ろうとしている。

 だが、綴りが違った。

 セラフィナではない。

 ファフィア・ヴェイ。

 リディアはその名を知っていた。十二年前、王宮に雇われた影武者候補の孤児。公式記録では、訓練中の事故で死亡。

「あなたは王女ではない」

 ヨルンとボルドが同時に振り向いた。

 フィーだけは動かなかった。

 セラフィナは、ゆっくりとリディアを見た。

「今それを言う?」

「槍は本名を読んだ。王家の血を持たない者が触れれば、全員死ぬ可能性が高い」

「本物の王女は七年前、処刑場へ向かう馬車の中で死んだ」

 彼女は静かに言った。

「毒を飲んだの。帝国の見世物にはならないと。私は隣に座っていた。彼女は服と指輪と、最後の命令を私にくれた」

「命令?」

「王女として生き延びろ、と」

 ヨルンが目を閉じた。

「知っていたのか」

「処刑場で気づいた。だが、群衆が彼女を王女と呼んだ」

 元騎士は剣を握り直した。

「ならば、俺にとってはそれで十分だ」

 ボルドも肩をすくめた。

「俺は王家に雇われた覚えはない。こいつに雇われた」

 フィーが笑う。

「霧は顔を区別しない」

 リディアだけが槍を見ていた。

 武器は区別する。

 国家の魔術は、記録に従う。

 そのとき、車両後方で爆発が起きた。

 列車が大きく揺れる。

 警報鐘。銃声。装甲扉が外から叩かれた。

 天井の聖句灯が赤く点滅し、ヴァルツの声が車内に響いた。

『クロウ少佐。予定外の行動だ』

「監査中です」

『反逆を、そう呼ぶのか』

「敗戦処理院では、予算未承認の作戦をすべて予定外支出と呼びます」

『君は逃げられん。列車そのものが儀式陣だ。槍を奪っても、午前零時には大聖堂へ到着する』

 リディアは懐中時計を見た。

 十一時三十八分。

「ボルド。連結器を切れますか」

「普通なら」

「普通では?」

「車両同士が鉄じゃなく、血でつながってる」

 床下から、どくん、と脈動がした。

 列車は軌道を走っているのではない。

 地下の竜の血管に引かれている。

 リディアは決断した。

「槍は抜かない。この車両ごと大聖堂へ入ります」

「敵の望みどおりよ」

 セラフィナが言う。

「違います。槍を抜ける王がいない以上、敵も儀式を完成できない。そこに交渉余地がある」

「相手は十七万人を燃やす男よ」

「だからこそ、完成直前に最も合理的でなくなる」

 装甲扉が歪んだ。

 ヨルンが前へ出る。

「大聖堂まで、あと何分だ」

「二十二分」

「なら、二十二分ここを守る」

「一人では無理です」

「一人ではない」

 ボルドが義手を装着し、フィーが霧を集めた。

 セラフィナはリディアを見た。

「少佐。交渉材料を作って」

「何を」

「私を、本物にして」

 装甲扉が吹き飛んだ。

 帝国兵が雪崩れ込んだ。

 ヨルンの剣が、最初の火花を散らした。

四 竜の会計

 聖エルモ号は午前零時の三分前、大聖堂の正面階段を突き破った。

 石像が砕け、長椅子が宙を舞い、鐘楼が根元から折れた。それでも列車は止まらなかった。床下から現れた黒い血管が車輪へ絡みつき、十三両を祭壇の奥へ引きずり込む。

 七両目の扉が開いたとき、生きて立っていたのは四人だった。

 ヨルンは来なかった。

 最後に見たのは、車両間の狭い通路で三十人の帝国兵を押しとどめる背中だった。扉を閉める直前、彼は一度だけ振り返り、セラフィナへ剣を掲げた。

 王女へではない。

 自分が王女と認めた女へ。

 大聖堂の祭壇は割れ、その下に巨大な空洞が口を開けていた。

 列車はそこへ落ちた。

 墜落の衝撃で、フィーの霧が消えた。ボルドの義手が砕け、リディアは左肩を石へ打ちつけた。骨が折れる音がしたが、痛みは後回しにした。

 周囲は赤い闇だった。

 天井のはるか上で、ベルセインの街灯が透けている。地面は緩やかに上下し、硫黄と血の匂いがした。

 彼女たちは、巨大な胸郭の中にいた。

 肋骨一本が橋ほど太く、その間を鎖と鉄道線路が縫っている。中心には、山のような心臓が吊られていた。鼓動のたび、街全体が震える。

 古竜オルヴァン。

 その首は大聖堂の地下から北壁の外まで伸び、頭部だけで広場ほどある。両目には金属の杭が打ち込まれ、口には数千本の祈祷鎖が噛ませてあった。

 竜は眠っているのではなかった。

 目を開けられないまま、何百年も起きていた。

 ヴァルツ特務卿は、心臓前の鉄橋で待っていた。

 背後に親衛兵。足元に国勢原簿。巨大な黒い本の頁から、十七万の名前が赤い糸となって心臓へ伸びている。

「到着が乱暴だな、少佐」

 ヴァルツは言った。

「経路に不備がありました」

「王女も連れてきた。結局、任務は果たしたわけだ」

「彼女は王女ではありません」

 セラフィナが一歩前へ出た。

「知っていたのね」

「影武者ファフィア・ヴェイ。君の存在を消した記録に、私が署名した」

 ヴァルツは穏やかに答えた。

「本物が死んだ夜から、君は便利だった。民衆には希望を、反乱者には旗を、特務局には標的を与えた。今夜は最後に、絶望を与えてもらう」

 親衛兵が槍を構えた。

「王家の血がない以上、灰星槍は抜けない。だが偽王女が失敗する瞬間を市民へ見せれば、抵抗の意志は折れる。その後、原簿から直接生命を徴収する」

「竜は従うのですか」

 リディアは訊いた。

「従わせる」

「運用規則もなく?」

「規則は、勝者が作る」

「違います。規則のない兵器は、事故です」

 ヴァルツはため息をついた。

「君は優秀だが、小さい。歴史とは常に、誰かを勘定から外すことで前へ進む」

「ですから私は、勘定を確認しているのです」

 リディアは国勢原簿を見た。

 第一頁に、帝国皇帝の印。

 第二頁に、占領地編入令。

 第三頁に、ベルセイン王家断絶の宣言。

 その下に、非常時統治条項。

 彼女は笑った。

 肩の痛みでなく、あまりに帝国らしい間違いを見つけたからだ。

「閣下。王家は断絶していません」

「何?」

「編入令第十八条。旧王族が存在しない場合、占領地の全資産は帝国へ帰属する。ただし第十九条は、民衆の過半が特定個人を正統統治者と認めた場合、一時間に限り暫定主権者として扱う、と定めています」

「反乱鎮静用の形式条項だ」

「形式は、聖算術において現実です」

 ヴァルツの顔から笑みが消えた。

「過半の証明などできん」

「できます」

 フィーが黒布を外した。

 その下に目はなかった。空洞から白い霧が噴き出し、肋骨の間を駆け上がっていく。

 霧は下水道へ、地下室へ、砲撃で割れた窓へ、街中の隙間へ広がった。

 ボルドが最後の爆薬を国勢原簿の横へ置き、導線を列車の鐘楼へつなぐ。

「街じゅうの鐘と排気管を、一本にした」

 石工は血まみれの顔で笑った。

「今なら、王女さんの声はどの家にも届く」

「そんな準備をいつ」

「七年かけた」

 セラフィナが槍の前に立った。

 灰星槍はまだ夜の中に浮かび、彼女を拒むように震えている。

 フィーの霧が、その声を街へ運んだ。

『ベルセインの人々へ』

 竜の胸郭に、王女の声が響く。

『私はセラフィナ・オルデンではありません。王家の血を一滴も持たない。名はファフィア・ヴェイ。下町で生まれ、パンを盗み、王女の歩き方を教え込まれた影武者です』

 街の上で、ざわめきが起きた。

 赤い糸が揺れる。国勢原簿の頁が風もないのにめくれた。

『本物の王女は死にました。私は七年間、嘘をついた。けれど、その嘘で一人でも明日まで生き延びたのなら、私は恥じません』

 ヴァルツが親衛兵へ手を上げた。

「止めろ!」

 兵が駆け出す。

 ボルドが進路を塞いだ。

 義手を失った片腕で短銃を撃ち、一人を倒す。二人目の槍が腹を貫いた。それでも石工は退かず、相手の兜へ額を叩きつけた。

「急げ、王女さん!」

『帝国は今夜、私たちを名前ごと燃やします。私は王冠を望まない。宮殿も、跪く民もいらない。ただ五十三分だけ、あなたたちの王でありたい』

 リディアは懐中時計を見た。

 午前零時七分。

 残り五十三分。

『私を正統と認める者は、声を。声が出なければ、壁を。手がなければ、足を。生きていると、帝国の帳簿へ教えて』

 一秒。

 二秒。

 最初に鳴ったのは、遠くの鍋だった。

 次に、銃床で床を叩く音。

 教会の鐘。

 工場の蒸気笛。

 病院の鉄扉。

 牢獄の鎖。

 東区から西区へ、音が広がった。

 十、百、千、万。

 ベルセイン全体が、一つの巨大な心臓のように鳴った。

 国勢原簿の数字が狂い始めた。

 人口十七万四百十二。

 暫定主権者承認、八万七千二百九。

 過半。

 第三頁の王家断絶宣言に、赤い亀裂が走る。

 セラフィナの名が消え、代わりに新しい文字が浮かんだ。

 ファフィア一世。

 統治期間、残り五十二分四十一秒。

 灰星槍が落ちた。

 彼女の手の中へ。

 槍を握った瞬間、銀髪が炎のように舞い上がり、全身の傷から星明かりが噴き出した。

 そして、古竜オルヴァンが目を開いた。

五 五十三分の王国

 竜の瞳は、空より古かった。

 金属杭が弾け飛び、親衛兵をまとめて壁へ串刺しにした。祈祷鎖が千本の悲鳴を上げて切れ、黒い炎が胸郭を満たす。

 火ではない。

 記憶が燃えていた。

 炎に触れた兵は肉体より先に名前を失った。隣にいた者が彼を見ても、誰だったのか思い出せない。倒れた兜の中には、顔のない影だけが残った。

 オルヴァンが咆哮する。

 ベルセインの建物が地上で跳ねた。

 セラフィナ――五十三分の王ファフィア一世は、灰星槍を構えた。

 槍は彼女の生命を吸っていた。頬が痩せ、指先が灰になる。それでも足は震えなかった。

「心臓を狙え!」

 ヴァルツが叫んだ。

「竜を殺せば、力は帝国へ移る!」

 セラフィナは槍先を心臓へ向けた。

 オルヴァンの瞳が彼女を見る。

 その瞬間、リディアの頭へ、竜の記憶が流れ込んだ。

 まだ街も国もなかった時代。

 山を越える旅人へ、竜が火を分けた。

 人間は火を神と呼び、神を所有するために名をつけた。

 名を鎖に刻み、竜を地の底へ縫いつけた。

 ベルセインは竜に守られた街ではない。

 竜を礎石にして造られた牢獄だった。

「心臓ではありません!」

 リディアは叫んだ。

「鎖を!」

 セラフィナが振り向く。

「殺さなければ、街が焼ける!」

「殺しても焼ける。槍は竜の力を所有者へ移す契約です。帝国が受け皿を用意している!」

 心臓の下で、国勢原簿から無数の赤い糸が帝国旗へつながっていた。

 竜が死ねば、その死まで国家資産に計上される。

「なら、どうするの」

「所有者をなくす」

 リディアは国勢原簿へ駆けた。

 ヴァルツが剣を抜き、立ちはだかる。

「それに触れるな」

「閣下。命令系統上、敗戦処理院は特務局より清算権限が上です」

「今さら規則か」

「最後まで規則です」

 ヴァルツの剣が振り下ろされた。

 リディアは避けきれず、刃が外套と脇腹を裂いた。熱い血が流れる。彼女は床へ転がりながら、赤封蝋の命令書を抜いた。

「特別清算令第零号。対象、灰都ベルセインおよび周辺三村」

「それがどうした」

「清算対象は、法的に存在する資産に限る」

 リディアは命令書を、国勢原簿の第一頁へ重ねた。

「よって、都市そのものを除籍します」

 ヴァルツの顔が引きつった。

「できるものか。都市除籍には皇帝印が要る」

「平時は」

 彼女は血のついた指で、非常時条項を示した。

「主権者と敗戦処理官の共同署名があれば、戦災による全損認定が可能です」

 セラフィナが理解した。

「ベルセインを、帳簿の上で滅ぼすのね」

「市民は土地、身分、財産、国籍をすべて失います。帝国法上、存在しない者になる」

「でも、生きられる」

「保証はありません」

 ヴァルツが笑った。

「無国籍の難民が十七万だ。冬を越せん。隣国は門を閉ざす。帝国軍は盗賊として撃つ。今夜死ぬか、来月死ぬかの違いだ」

 リディアは彼を見上げた。

「来月まであれば、来月の計算ができます」

 セラフィナが槍を振り上げた。

 穂先が、竜の心臓ではなく、国勢原簿と胸郭をつなぐ最大の鎖へ向く。

「リディア!」

 王が叫ぶ。

「署名を!」

 リディアは命令書へ自分の名を書いた。

 敗戦処理院第十三計理官、リディア・クロウ。

 セラフィナは灰になりかけた指で、隣へ記す。

 ベルセイン暫定主権者、ファフィア一世。

 二つの署名が燃えた。

 国勢原簿の表紙に、巨大な文字が浮かぶ。

 全損。

 人口、零。

 資産価値、零。

 徴収可能生命、零。

 赤い糸が一斉に切れた。

 十七万の名前が頁から飛び立ち、光る鳥の群れとなって胸郭を駆け上がる。

 ヴァルツが絶叫した。

「帝国の財産だ!」

 切れ残った一本の糸が、彼の胸へつながっていた。

 ベルセインの管理責任者。

 全損資産の最終保有者。

 オルヴァンの瞳が、男を捉えた。

「違う」

 ヴァルツは後ずさる。

「私は皇帝の代理人だ。私は――」

 竜の息が彼を包んだ。

 肉体は燃えなかった。

 肩書だけが剥がれ、勲章が意味を失い、命令書から署名が消える。最後に残ったのは、老いた一人の男だった。

 誰の代理でもなく、何も所有しない男。

 オルヴァンは、彼を一息で灰にした。

「今よ!」

 リディアが叫ぶ。

 セラフィナが灰星槍を投げた。

 槍は銀の流星となり、最大の祈祷鎖を貫いた。

 世界が割れた。

 鎖の破片が星のように降り、古竜が身体を起こす。地上で大聖堂が崩れ、北壁が持ち上がった。街路が波打ち、家々が傾く。

 フィーの霧が人々を下水道と西門へ導いた。ボルドは腹を槍で貫かれたまま、最後の爆薬へ火をつける。

「王女さん」

 彼は笑った。

「五十三分にしては、悪くない国だった」

 爆発が橋を落とし、追ってきた親衛兵を闇へ沈めた。

 反動でボルドの身体も消えた。

 セラフィナの腕はもう肘まで灰だった。

 竜を縛る鎖は、あと一本。

 それは王冠の形をし、彼女自身の胸へつながっていた。

「槍を抜いた主権者が、最後の封印になる」

 リディアは悟った。

「最初から、王を生贄にする武器だった」

「王冠らしい最期ね」

 セラフィナは笑った。

 痛みで唇が震えていた。

「外せませんか」

「外せば竜はまた原簿につながる。誰かが王である限り、誰かが所有できる」

 彼女は胸の鎖を両手で掴んだ。

「なら、王国を終わらせる」

「まだ四十六分残っています」

「払い戻しは?」

「規定にありません」

「役所は融通が利かないのね」

 セラフィナは笑い、鎖を引いた。

 胸から光が溢れる。

 リディアは彼女の手を掴んだ。

「あなたは偽物ではなかった」

「知ってる」

 答えは、あまりに早かった。

「でも、あなたが帳簿に書いてくれたのは嬉しかった」

 鎖が切れた。

 王冠が砕ける音とともに、セラフィナ・オルデンでもファフィア一世でもない女の身体が、白い灰になった。

 古竜オルヴァンは自由になった。

 巨大な翼が地上を破り、夜空へ広がる。灰都を覆っていた煙が一息で吹き払われ、星が現れた。

 竜は街を焼かなかった。

 一度だけ旋回し、長い首を折れた大聖堂へ向けた。

 そこに王がいないことを確かめるように。

 そして北の山脈へ飛び去った。

 灰星槍は、その背に刺さったまま、夜の彼方で小さな星になった。

六 名のない者たち

 帝国の公式発表では、灰都ベルセインは反乱分子の破壊工作により壊滅した。

 死者十七万四百十二。

 生存者、零。

 古竜の存在は否定され、ヴァルツ特務卿は殉職者名簿の先頭に記された。帝国新聞は彼を「市民救出のため最後まで現地に残った英雄」と称えた。

 数字だけなら、すべて正しかった。

 ベルセインという都市は法的に消滅し、そこに住んでいた者は一人も残っていない。

 ただし三週間後、北方国境の雪原を、名前のない人々が歩いていた。

 老人、子供、元兵士、元商人、元娼婦、元司祭。

 誰も身分証を持たず、帝国の国勢原簿にも載っていない。追跡魔術は名を探せず、徴税官は請求先を作れず、徴兵令は宛先不明で戻った。

 自由とは、暖かい言葉ではなかった。

 食糧は足りず、凍傷は増え、国境の村は門を閉ざした。昨夜まで銀行家だった男が雪を掘り、盗人だった女が子供へ最後の干し肉を分けた。

 フィーは先頭を歩いた。

 目のない顔を風へ向け、霧の流れから帝国の斥候を見つける。彼の隣では、片腕を吊ったリディアが新しい帳面を抱えていた。

 黒ではなく、白い表紙。

 帝国印も、王冠もない。

 ある夜、焚き火のそばで一人の少女が訊いた。

「会計官さん。あの人は、本当の王女さまだったの?」

 リディアは帳面から顔を上げた。

 少女の名前は知らない。知る必要があるかどうかも、まだ決めていなかった。

「法的には、五十三分だけ」

「それだけ?」

「帝国の皇帝より、長く王だった人もいます。時間では測れません」

「じゃあ、本物?」

 リディアは少し考えた。

 計算には、入力値が必要だ。

 だが世の中には、答えが先にあり、数字が後から追いつくこともある。

「本物でした」

 少女は満足して眠りに戻った。

 リディアは白い帳面を開く。

 最初の頁には、すでに何百もの名があった。

 強制ではない。

 配給を受けたい者、家族を探したい者、死んだ仲間を忘れたくない者が、自分の意思で書いた名だった。偽名も多い。綴りの間違いもある。空欄のまま、印だけ押した者もいた。

 帝国の帳簿なら、不備として差し戻すところだ。

 リディアはすべて受理した。

 頁の上部には国名を書く欄があった。

 フィーが焚き火越しに訊く。

「何と書く?」

「まだ国ではありません」

「五人でも国になれた」

「ええ。だから慎重に決めます」

 リディアはペンを取り、国名の欄を横線で消した。

 代わりに、その下へ一文を書いた。

 ――ここにいる者は、誰の資産でもない。

 風が頁をめくろうとした。

 彼女は手で押さえた。

 遠い北の空で、竜の咆哮が聞こえた。

 それは祝福にも警告にも似ていたが、どちらとして記録するかは、まだ決めなかった。