『無名旗』

 国が滅びるとき、最初に失われるのは王の首ではない。

 村の井戸の名である。

 井戸の名が消え、畑の境が消え、昨日まで隣にいた者がどこで死んだか分からなくなる。王が死ぬのは、そのあとだ。

一 死札

 大曜王朝が崩れて四十一年。

 中原には七つの国が立ち、七人の王が天下を名乗り、七十万の兵が毎年どこかで土に還った。

 景国西境、黒梁城。

 城外を埋める朔国軍の篝火は、地に落ちた星の群れに見えた。その数、六万。

 城内に残る兵は二千七百。民は二万三千。

 食糧は、九日分だった。

 杜真(としん)は、城壁の下で死者の胸を探っていた。

 矢の雨が止んだわずかな間に、縄を腰へ結び、崩れた女壁の外へ身を乗り出す。足下には、夜明けの攻防で落ちた兵が三人、折り重なっていた。

「おい、木札。首を出しすぎるな」

 背後から孟牙(もうが)が怒鳴った。鍛冶屋上がりの大男で、肩幅は城門の閂ほどもある。

「首じゃない。手だけだ」

「手の先には首がついてる」

 杜真は答えながら、一人目の腰紐を探った。

 兵は戦場へ出るとき、名、郷里、所属を書いた木札を二枚持つ。一枚は役所へ残し、一枚は己の腰へ結ぶ。死ねば札を回収し、遺族へ知らせるためだ。

 だが、戦が長引くほど札は粗末になった。墨が雨で流れたもの。持ち主同士で入れ替わったもの。そもそも字を知らず、何も書かれていないもの。

 一人目は「南泉郷、呂平」。

 二人目は札が割れ、「……家、次男」としか読めない。

 三人目に手を伸ばしたとき、杜真の指が止まった。

 まだ十五、六の顔だった。

 右の眉に、幼いころの火傷がある。

「阿洛(あらく)」

 名を呼んだ瞬間、少年の口から返事が出そうな気がした。

 阿洛は三日前まで、兵糧庫で杜真の後ろをついて回っていた。槍の持ち方も知らず、敵兵を一人倒せば十人前の飯が食えると本気で信じていた。

 杜真は少年の札を外し、自分の胸元へ入れた。

 そのとき、城外で弦が鳴った。

「伏せろ!」

 孟牙の腕が杜真の襟首をつかみ、石床へ引き倒す。次の瞬間、矢が二人の頭上を走り、背後の柱へ突き立った。

 矢尻には白い布が結ばれていた。

 杜真は布をほどいた。

 墨痕は太く、迷いがない。

 ――日没までに城門を開け。

 ――武器を捨てた兵は殺さぬ。

 ――民の戸籍と穀倉を渡せば、井戸も畑も守る。

 ――拒めば、黒梁の名を地図から消す。

 末尾には、朔国上将軍・楼煬(ろうよう)の印。

「ずいぶん親切な文だ」

 孟牙が鼻で笑った。

「殺さぬ、守る、消す。三つのうち、どれが本当だ?」

「全部だろう」

 杜真は城外を見た。

 黒い大旗の下、敵陣は整然としていた。井戸を掘る隊、柵を立てる隊、負傷者を運ぶ隊。六万の軍が、一匹の獣のように動いている。

「楼煬は降った兵を殺さない。民の畑も焼かない。その代わり、逆らった城は一人残らず戸籍から消す」

「戸籍から?」

「名がなければ、殺した数にも入らない」

 孟牙の顔から笑いが消えた。

 遠くで太鼓が三度鳴った。

 軍議の合図だった。

二 王の倉

 黒梁城の大広間には、鎧の音より算木の音が響いていた。

「兵糧、九日。馬草、五日。矢は一人あたり二十七本」

 杜真が読み上げるたび、卓上の算木が一本ずつ動かされた。

 上座に座る城守・閻商(えんしょう)は、白い指で髭を撫でた。王家の外戚に連なる男で、戦場へ出たことはない。だが衣だけは将軍より重かった。

「民へ配る粟を半分にせよ」

 閻商が言った。

「すでに一日一椀です」

 杜真は顔を上げた。

「半分では、子どもと老人が先に死にます」

「だから何だ」

 広間の空気が凍った。

「兵が立っていれば城はある。民は戦が終わればまた増える」

 卓の反対側で、老将・燕崇(えんすう)が片目を開いた。

 七十に近い。左肩には昨日の矢がまだ深く残り、鎧の下から血が滲んでいる。それでも、城内でこの男より大きく見える者はいなかった。

「城とは、石垣のことではない」

 燕崇の声は低かった。

「井戸を掘る者、道を直す者、子を産む者。その者らが城だ。兵だけ残して、何を守ったと言う」

 閻商の眉が吊り上がる。

「老いたな、燕将軍。情で六万に勝てるか」

「おぬしよりは長く、情のない戦を見てきた」

 燕崇は卓上の地図を指した。

「三日前、東の援軍は白河で敗れた。王都から次の軍が来るまで、早くて十五日。籠もっても餓死、打って出ても全滅だ」

「ならば、なおさら決断せねばならぬ」

 閻商は袖から小さな竹簡を出した。

「今夜、南の水門から騎兵八百を出す。王家の印、金、兵糧三千石を運び、鷹嘴関まで退く」

 杜真は耳を疑った。

「兵糧三千石……?」

 黒梁の民が十日を生きる量だった。

「残る外郭は焼く。朔軍が火を避ける間に、我らは脱出する」

「外郭には一万四千人がいます」

 杜真の声が掠れた。

「東西の門を閉じてから火を放つ」

 閻商は淡々と言った。

「民が逃げ出せば、敵の足止めになる」

 算木が一つ、卓から落ちた。

 乾いた音だった。

 杜真には、その一本が一万四千人に見えた。

「それは退却ではない」

 気づけば、口が動いていた。

「城を敵へ渡すより先に、国が民を殺すのですか」

「帳簿係が国を語るな!」

 閻商の杯が飛び、杜真の額で砕けた。

 護衛が両腕をつかむ。

 燕崇が立ち上がろうとしたが、傷が開き、膝をついた。

「閻商……それをやれば、景国は今日ここで滅ぶぞ」

「滅ぶのは黒梁だけだ」

 閻商は冷たく言った。

 杜真は広間から引きずり出された。

 廊下を曲がる直前、燕崇と目が合った。

 老将の片目は、怒りではなく、何かを測っていた。

 杜真は兵舎裏の柱へ縛られ、鞭を二十受けた。

 意識を失い、目を覚ましたとき、鼻先に薬草の匂いがあった。

「死札を集める男が、自分で死者になってどうする」

 紀霞(きか)が傷へ膏薬を塗っていた。

 染物職人の娘で、城の井戸と水路を管理する水役でもある。髪を男のように束ね、指先は藍で青く染まっていた。

「縛り縄は」

「孟牙が噛み切った」

「人間の歯じゃないな」

「鍛冶屋の歯よ」

 隣で孟牙が誇らしげに歯を見せた。

 杜真は起き上がろうとしたが、背中に火が走った。

「閻商は今夜、外郭を焼く」

「知ってる」

 紀霞は短く答えた。

「だから、見せたいものがある」

三 眠る河

 紀霞が連れていったのは、城の西端にある枯れ井戸だった。

 底へ降りると、石壁の一部が外され、地下へ続く狭い道が現れた。油灯の先に、黒い水がわずかに光っている。

「龍骨渠(りゅうこつきょ)」

 紀霞が言った。

「大曜の時代、黒梁は西の山から水を引く灌漑城だった。河が北へ移ってから埋められたけれど、地下の幹渠は残ってる」

 道の奥には、巨大な木の水門があった。

 青銅の輪は錆び、柱には亀裂が入っている。

「これを開ければ?」

「平時なら、泥が出るだけ」

 紀霞は灯を低くし、水面を指した。

 赤い砂が、細い筋となって流れていた。

「でも上流で大雨が降ってる。赤砂は西嶺の土。今夜半には山水がここへ来る」

 杜真は壁に触れた。かすかに震えていた。

「どれほどの水だ」

「渠を全部開けば、西外郭と乾いた堀が膝上まで浸かる。黒梁の土は粘土よ。水を含めば、馬も車も動けない」

 孟牙の目が光った。

「敵を入れて、泥に埋めるのか」

「簡単に言うな」

 紀霞は睨んだ。

「水門を開けるには、城内の支渠を七つ切り替える。外郭の民を高台へ移し、崩れる家から人を出す必要がある。千人が動いても半日はかかる」

「日没まで、あと四刻」

 杜真は暗闇で目を閉じた。

 六万を倒す策ではない。

 だが、六万を一度だけ止めることはできる。

 問題は、敵が入ってくるかどうかだった。

 楼煬は愚将ではない。白旗が上がっても、まず斥候を入れる。地形を調べ、罠を潰し、城兵を武装解除してから本隊を進めるだろう。

 ならば、慎重であることそのものを、急がせればいい。

「紀霞。城内の戸籍はどこにある」

「府庫。閻商が持ち出す準備をしてる」

「王家の印も?」

「一緒よ」

 杜真は薄く笑った。

「閻商には予定どおり逃げてもらう」

「何を考えてる」

「楼煬が欲しいのは城じゃない。人を支配するための名簿と、国を支配した証になる印だ。あれが南へ逃げると分かれば、必ず兵を割く」

 孟牙が腕を組んだ。

「その間に西門から入れる?」

「いや。南へ兵を割らせたうえで、西門から急がせる」

「どうやって」

 杜真は胸元から、阿洛の死札を取り出した。

 濡れた木札に、少年の名が残っている。

「城中の名を使う」

 地上へ戻ると、城の中央から鐘の音が響いた。

 一度。

 二度。

 三度目は、途中で途切れた。

 燕崇の兵が駆けてきた。

 顔が青ざめている。

「燕将軍が……毒を盛られた!」

四 旗のない兵

 燕崇は大広間の階段に座り、口から黒い血を流していた。

 閻商の姿はない。

 南の水門へ向かったのだ。

 老将の周囲には、近衛兵百人と、命令を聞きつけた民が集まっていた。だが誰も声を発せず、燕崇の荒い息だけが響いている。

 杜真が膝をつくと、老将は片目を開いた。

「帳簿係……遅いぞ」

「将軍」

「策はあるか」

 問われ、杜真は一瞬だけ迷った。

 成功する保証はない。

 失敗すれば、城内の者を逃げ場のない泥の中で殺す。

 自分は兵法書を三冊読んだだけの小役人で、百人を指揮したことすらない。

 それでも、答えは一つだった。

「あります」

「勝てるか」

「分かりません」

 周囲がざわめいた。

 杜真は続けた。

「ですが、民を焼かずに朝を迎える道はあります」

 燕崇の口元が、わずかに上がった。

「それでいい」

 老将は腰から半分に割れた虎符を外し、杜真へ差し出した。

「兵符は将を選ばぬ。持った者を将と呼ぶだけだ」

「私には――」

「だが旗は、人を選ぶ」

 燕崇は集まった兵と民を見た。

「この城には、もう王の旗も、閻商の旗もない。残っているのは、ここで死ぬか、ここで生きるかを選ぶ者だけだ」

 老将は血に濡れた手で、杜真の腕をつかんだ。

「壁を守るな」

 指が食い込む。

「朝を守れ」

 その言葉を最後に、燕崇の手から力が抜けた。

 誰かが泣いた。

 誰かが膝をついた。

 杜真は立ち上がった。

 足が震えていた。

 震えたまま、階段を三段上った。

「泣くのは朝にしろ!」

 自分のものとは思えない声が出た。

「水役は紀霞に従え。鍛冶、石工、染物、桶屋は西外郭へ。歩ける者は老人と子どもを内城へ移す。兵は門を守るな。民を運べ!」

 一人の百人将が叫んだ。

「誰の命令だ!」

 杜真は虎符を掲げた。

「黒梁城を生きて朝へ渡す者の命令だ!」

 百人将は虎符を見た。

 次に、死んだ燕崇を見た。

 そして剣を抜き、石床へ突き立てた。

「俺は百人将・侯端! 朝まで貴様の兵になる!」

 孟牙が大槌を振り上げた。

「鍛冶組六十七人! 死んでも水門を開ける!」

「死ぬな!」

 紀霞が怒鳴った。

「死んだら回せない!」

 笑いが起こった。

 絶望の底で生まれた、ひどく不格好な笑いだった。

「旗が要る」

 誰かが言った。

「どの隊か分からん」

 紀霞は近くの家から白い布を引き剥がした。

 死者へ掛けるための麻布だった。

「これでいい」

「白旗は降伏の印だぞ」

 杜真は阿洛の札を布の中央へ結んだ。

「まだ何も書かれていない。だから、誰の旗にでもなれる」

 民が次々と木札を持ち寄った。

 昨日死んだ父の札。

 行方の分からぬ夫の札。

 名だけを覚えている子の札。

 白い布に、何百もの木片が結ばれていく。

 風が吹くたび、札が触れ合い、乾いた音を立てた。

 それは剣戟より小さく、太鼓より弱い。

 だが城中の誰もが、その音を聞いた。

五 空城

 日が西へ傾くころ、閻商の一行が南水門から出た。

 騎兵八百。

 金銀を積んだ車二十。

 兵糧車百。

 王家の朱印と、黒梁二万三千人の戸籍。

 杜真は止めなかった。

 むしろ南の丘へ、わざと多くの松明を持たせた。

「本当に行かせるのか」

 侯端が歯を噛んだ。

「あの兵糧があれば――」

「取り返すのは朝だ」

「敵に奪われたら?」

「それも朝だ」

 城外の朔軍では、すぐに騎馬隊が動いた。

 楼煬は南へ一万二千を差し向けた。

 速い。迷いがない。

 だが本陣の黒旗は動かなかった。

 杜真は西門楼へ上がった。

 眼下に、乾いた堀と、敵の攻城塔が並んでいる。その向こう、黒旗の下に楼煬がいた。

 遠目にも分かるほど、背の高い男だった。

 黒い甲冑に装飾はなく、兜もかぶっていない。兵を威圧するためではなく、兵と同じものを見るために立っている。

 杜真は白い旗を掲げさせた。

 西門が、軋みながら開く。

 朔軍から斥候二十騎が進み出た。

 予想どおりだった。

 杜真は門前へ、一人で歩いた。

 武器は持たない。

 胸には無数の木札。

 斥候の隊長が馬上から問う。

「城主はどこだ」

「南へ逃げた」

「戸籍と印は」

「持っていった」

 隊長の顔色が変わった。

「城兵は降るのか」

「城兵など、もういない」

 杜真は開いた門の奥を示した。

 大通りには人影がなかった。

 武器は路上へ積まれ、家々の扉は開いている。炊きかけの鍋から湯気だけが上がっていた。

「民は?」

「逃げた者もいる。隠れた者もいる。好きに探せ」

 斥候隊長は門内を一巡し、引き返した。

 しばらくして、朔軍の前列が動いた。

 三千。

 五千。

 歩兵が慎重に城門をくぐる。

 工兵が路面を槍で突き、井戸を調べ、屋根を見上げる。

 罠は見つからない。

 なぜなら、罠は城内になかった。

 まだ西の山中を走っていた。

 朔兵一万が外郭へ入ったところで、進軍が止まった。

 楼煬は来ない。

「やはり食いつかん」

 侯端が呟いた。

 杜真は門楼から黒旗を見つめた。

 楼煬は南へ逃げた閻商を追わせた。城内に一万を入れ、武装解除を進めている。それで十分だ。急ぐ理由がない。

 慎重で、正しい。

 だからこそ、別の正しさを与える。

「火を上げろ」

 東の府庫から、黒煙が立った。

 次いで北の兵糧庫。

 油を含ませた藁が燃え、炎が屋根を舐める。

 朔軍の陣で角笛が鳴った。

 戸籍も印も逃げ、残った穀倉まで焼ければ、楼煬が黒梁を取る意味はなくなる。六万の兵を動かし、得るものが灰だけなら、上将軍の威信は地に落ちる。

 黒旗が前へ進んだ。

 楼煬の本隊が動く。

 一万。

 二万。

 三万。

 攻城塔の間を抜け、乾いた堀を渡り、西外郭へ入ってくる。

 杜真の掌に汗が滲んだ。

「まだだ」

 遠く、西の空で稲光が走った。

 城壁の下では、孟牙たちが水門の輪へ丸太を差し込み、百人がかりで押している。

「まだだ」

 門楼へ楼煬の先鋒が迫る。

 通りの両側には、空家。

 屋根裏には弓兵。

 床下には槍兵。

 内城の高台には、二万の民。

 白旗の木札が、風に鳴った。

 楼煬自身が西門をくぐった。

 その瞬間、地下から雷のような音がした。

「開けええええっ!」

 孟牙の咆哮。

 龍骨渠の水門が折れた。

六 名を呼べ

 最初に来たのは水ではなく、風だった。

 地下道に閉じ込められていた冷気が、井戸と排水口から噴き上がる。朔兵が足を止め、次の瞬間、赤黒い水が街路の石蓋を跳ね上げた。

 山を下った濁流が、龍骨渠へ殺到する。

 乾いた堀へ。

 西外郭へ。

 敵兵三万の足下へ。

 水深は膝にも届かない。

 だが一歩ごとに土が沈み、草鞋を吸い、馬の蹄を絡め取った。戦車が傾き、後続が衝突し、長槍の列が崩れる。

「今だ!」

 空家の戸が一斉に開いた。

 屋根から瓦が降る。

 窓から矢が飛ぶ。

 路地の柵が倒れ、朔軍の隊列を細かく分断する。

 鐘が鳴った。

 太鼓が鳴った。

 白旗が翻った。

 黒梁の兵と民、合わせて五千が、泥の中へ突っ込んだ。

 杜真も槍を取った。

 敵兵の胸を狙うが、穂先が甲に弾かれる。相手の剣が頬を裂いた。杜真は槍を捨て、泥をつかんで敵の目へ投げた。

「卑怯者!」

「帳簿係に作法を求めるな!」

 孟牙の大槌が敵の盾をまとめて吹き飛ばす。

 紀霞は屋根から矢を射ち、水路の分岐を指示していた。

「二番支渠を閉じろ! 北へ回せ! 味方まで沈む!」

 戦いは、勝っているように見えた。

 だが楼煬の軍は崩れなかった。

 黒い旗が三度左右へ振られる。

 朔兵は戦車を捨て、十人ごとに輪を作り、盾を外へ向けた。泥に足を取られながらも、弩兵が中央から射る。黒梁兵が次々と倒れた。

「隊形を作るな!」

 杜真が叫ぶ。

「三人で走れ! 倒したら留まるな!」

 しかし声が届かない。

 鐘と悲鳴と水音がすべてを呑んでいる。

 敵の黒甲隊が門楼へ迫った。

 百戦を生きた楼煬の親衛だ。泥の中でも歩調が乱れず、一歩ずつ白旗へ近づいてくる。

 侯端が迎え撃ち、胸を貫かれた。

「侯端!」

 杜真が駆け寄る。

 百人将は口から血を溢れさせながら、笑った。

「朝まで……お前の兵だ」

 敵の刃が振り下ろされる。

 杜真は侯端の剣を拾い、受けた。腕が痺れ、膝が泥へ落ちる。

 周囲で、黒梁の兵が後退し始めた。

 無理もない。

 彼らは昨日まで別々の隊にいた。民の多くは槍すら初めて持った。旗はあっても、命令を運ぶ将校がいない。

 このままでは、押し潰される。

 杜真の胸で、木札が鳴った。

 阿洛。

 呂平。

 侯端。

 死者の名が、頭の中に浮かんだ。

 杜真は門楼の石段を駆け上がった。

 矢が肩を掠める。

 白旗の柱へしがみつき、腹の底から叫んだ。

「南泉郷の者は、井戸鐘の下へ!」

 数人が振り向いた。

「石橋村の者は、孟牙の右へ! 染物組は青い屋根を守れ! 北市の桶屋は紀霞の声を聞け!」

 城の戸籍を十二年書き写した。

 徴税のために家族の数を数えた。

 兵役のために若者の名を並べた。

 飢饉のたび、消された名へ横線を引いた。

 そのすべてを、杜真は覚えていた。

「陳周! お前の弟は内城にいる!」

 一人の兵が顔を上げた。

「馬林! 母親を朝まで待たせるな!」

 後退していた男が踏みとどまる。

「蘇白! 梁女! 関父! 張陶!」

 名を呼ぶたび、人が振り向いた。

「お前たちは数ではない!」

 杜真は剣を掲げた。

「六万対二千ではない! 一人が一人を守る戦だ! 隣の名を呼べ! 倒れたら、次の者がその名を呼べ!」

「陳周!」

 誰かが叫んだ。

「ここだ!」

「馬林!」

「生きてるぞ!」

「孟牙!」

「うるせえ、見りゃ分かる!」

 笑いと咆哮が広がった。

 名が名を呼び、路地から路地へ伝わる。

 軍令ではない。

 だが、誰がどこで生きているかが分かった。

 黒梁の戦列が、初めて一つになった。

 白旗が前へ進む。

 朔の黒甲隊と激突した。

 楼煬は、水に浸かった戦車の上から戦場を見ていた。

 黒梁の罠を見抜けなかったことより、名を呼ぶ声に驚いていた。

「戸籍官か」

 楼煬は呟いた。

「兵を束ねるのは旗でも金でもない。己が見られているという確信……面白い」

 副将が叫ぶ。

「上将軍、北門側はまだ乾いております! 本隊を回せば――」

「遅い」

 西の山で二度目の雷が鳴った。

 水量は増え続けている。南へ分けた一万二千は戻らない。攻城具は泥に沈み、日没まで半刻。

 ここで退けば、黒梁は落とせない。

 ここで押せば、勝てるかもしれない。

 楼煬は黒旗を見上げた。

「勝てるかもしれぬ戦は、国を滅ぼす」

 撤退の角笛を命じようとした、そのとき。

 一本の矢が黒旗の綱を断った。

 紀霞の矢だった。

 旗が泥へ落ちる。

 朔軍の一部がどよめいた。

 白旗を背負った杜真が、泥を蹴ってくる。

 孟牙と数十人が道を開き、楼煬の戦車へ迫った。

「上将軍を守れ!」

 黒甲兵が壁を作る。

 孟牙の槌が一人を倒し、二人目の槍が孟牙の脇腹へ刺さる。それでも大男は槍ごと相手を抱え、泥へ沈めた。

 杜真は戦車へ飛び乗った。

 楼煬が剣を抜く。

 速かった。

 杜真の剣が半ばから折れる。

 次の斬撃が胸甲を裂き、木札が宙へ散った。

 阿洛の札が、楼煬の足下へ落ちた。

「これが、お前の軍か」

 楼煬は札を見た。

「死者を背負って、生者を戦わせる。美しい言葉だ。だが天下は美しさでは治まらぬ」

「恐怖なら治まると?」

「少なくとも、数えられる」

 楼煬の剣先が杜真の喉へ向く。

「七国が争えば、毎年十万が死ぬ。私が六国を滅ぼせば、死ぬのは一度だ。名を惜しんで戦を長引かせる者こそ、最も多くを殺す」

 杜真は息を切らしながら立った。

「国は、死者の合計じゃない」

「では何だ」

「明日も同じ井戸を、同じ名で呼べることだ」

 楼煬の目が細くなる。

「小さいな」

「小さいものを守れない天下は、大きな墓だ」

 剣が動いた。

 同時に、戦車が大きく傾いた。

 泥に沈んだ車輪を、下から孟牙が持ち上げたのだ。

「帳簿係! 話が長え!」

 楼煬の足が滑る。

 杜真は飛び込み、折れた剣の柄で楼煬の手首を打った。

 剣が落ちる。

 紀霞たちが戦車を囲んだ。

 朔兵も弩を構える。

 互いに放てば、全員が死ぬ距離だった。

 杜真は楼煬の剣を拾い、その喉元へ当てた。

「殺せ」

 楼煬は静かに言った。

「私の首を掲げれば、朔軍は一時崩れる。お前は英雄になれる」

「そのあと、副将が城を焼く」

「分かっているではないか」

 杜真は剣を下ろした。

「南へ出した兵を退かせろ。攻城具と兵糧を置いて、十里下がれ」

「私を生かすのか」

「お前を殺した数を、帳簿へ書きたくない」

 楼煬は初めて笑った。

 嘲りではない。獣が、別の獣を認めた笑いだった。

「名は」

「杜真」

「覚えたぞ、杜真」

「忘れるな。次は戸籍に載せる」

 楼煬は撤退の角笛を吹かせた。

七 白旗

 夜半、朔軍は黒梁から十里退いた。

 南へ逃げた閻商の一行は、朔の騎馬隊に追いつかれ、兵糧も戸籍もすべて奪われていた。だが楼煬は約定どおり、車ごと城外へ置いていった。

 閻商だけは戻らなかった。

 どこへ消えたか、誰も探さなかった。

 黒梁では、夜通し名が呼ばれた。

 生きている者の名。

 負傷した者の名。

 返事のない者の名。

 杜真は府庫の前に座り、一つずつ木札を並べた。

 戦死、六百八十二。

 行方不明、百十一。

 民の死者、二百九十四。

 勝利と呼ぶには、多すぎる。

 全滅と比べれば、少ない。

 だが杜真は、どちらの言葉も帳簿へ書かなかった。

 ただ、一人ずつ名を書いた。

 夜明け前、紀霞が隣へ座った。

 左腕に布を巻き、顔は煤で黒かった。

「朝よ」

 杜真は顔を上げた。

 東の空が白んでいる。

 燕崇が守れと言った朝だった。

 城門の上では、昨日の白旗が風に揺れていた。

 無数の木札を結びつけ、泥と血に汚れ、それでも落ちなかった旗。

「これからどうする」

 紀霞が問う。

「王都は、勝手に門を開け、虎符を使った私を反逆者と呼ぶだろう」

「そうね」

「朔国はまた来る」

「来るでしょうね」

「食糧は、敵が置いた分を入れても二十日」

「少しは明るいことを言えないの?」

 杜真は考えた。

「井戸が残った」

 紀霞は笑った。

「十分ね」

 その日の昼、王都からの早馬が到着した。

 使者は城門前に集まった兵と民を見て、用意していた捕縛命令を読むことができなかった。

 誰も武器を向けてはいない。

 ただ全員が、白旗の下に立っていた。

 使者は震える声で、別の詔を開いた。

「黒梁の防衛を賞し、燕崇将軍の副官を城守に任ずる。副官の名を申せ」

 杜真は答えた。

「副官はいません」

「では、誰が指揮した」

 杜真は振り返った。

 孟牙がいる。

 紀霞がいる。

 片腕を吊った兵がいる。

 父を失った子がいる。

 昨日まで名も知らなかった者たちが、互いの名を呼んでいる。

「黒梁の者です」

 使者は困り果てた。

「それでは詔に書けぬ」

「ならば、こう書いてください」

 杜真は白旗を指した。

「名のない者は、一人もいなかった、と」

 のちに、この戦は「黒梁泥戦」と呼ばれた。

 兵書には、古渠を使った奇策として記された。

 王の年代記には、景国軍が朔国六万を退けた大勝と書かれた。

 だが黒梁の民は、別の名で呼んだ。

 ――無名旗の朝。

 杜真がその後、景国の将となり、やがて七国すべての戸籍を一冊に集めようとしたこと。

 楼煬と三度戦い、二度敗れ、一度だけ酒を酌み交わしたこと。

 白い旗へ死者だけでなく、生まれた子の札も結ぶようになったこと。

 それらは、また別の物語である。

 ただ一つ、確かなことがある。

 降伏の印として上げられたあの白旗は、黒梁の空で一度も降りなかった。