『無名王の黒いジッグラト』
その粘土板は、人間の手で焼かれたものではなかった。
一九三七年六月、バスラ旧市街。
夜半を過ぎた骨董商アル=ザフラの地下競売室で、鷹峰宗吾は、黒布の上に置かれた小さな板を見つめていた。
大人の掌ほどの灰色の粘土板だった。楔形文字が九行。周縁には、翼ある牡牛でも獅子でもない、細長い頭を七つ持つ生き物が刻まれている。
粘土板の表面は、地下室の熱気の中でも冷たく濡れているように光っていた。
「ウル第三王朝以前。出土地はエリドゥ南方。真贋の保証はしない」
競売人が言った。
保証する必要などなかった。
宗吾には読めた。正確には、最初の七行だけが読めた。
――王権が天より降る以前、名を持たぬ王がいた。
――その王は七賢を海より迎え、第八の賢を星の外より迎えた。
――第八の賢は土を焼かず、石を刻まず、夜そのものを積み上げて都を築いた。
――都の門は七つ。門ごとに一つを捨てよ。
――刃を、灯を、水を、影を、記憶を、名を、そして王を。
第八行目は、既知のシュメール語に似ていながら、どの音価を当てても意味を結ばなかった。
第九行目は、文字ではなかった。渦巻く星空を上から押しつぶしたような、幾何学的な傷だった。
「五百ポンド」
宗吾が札を上げると、競売室の奥から別の声が飛んだ。
「千」
黒い夕礼服の男が、真鍮の左手を膝に置いていた。
サー・エドマンド・ヴェイル。石油採掘と海運で財を成し、世界中の発掘隊を金で飼っている英国人だった。十年前、北アフリカで宗吾を砂漠に置き去りにした男でもある。
ヴェイルは薄く笑った。
「まだ墓泥棒を続けていたか、タカミネ」
「墓のほうから口を開けるものでね」
競売人が槌を上げた、その瞬間だった。
地下室の明かりが消えた。
悲鳴。
銃声。
油灯が倒れ、青い炎が床を走った。
闇の中で、誰かがシュメール語を囁いた。
――第八行を読むな。
宗吾は椅子を蹴り倒して身を伏せた。頭上を弾丸が抜ける。炎に照らされ、灰色の長衣をまとった男たちが見えた。全員、目の位置を縫い閉じた黒い革面をつけている。
灰の僧。
南部湿地帯の古い伝承に現れる、遺跡の番人たちだ。
粘土板を掴んだのは競売人ではなく、一人の老人だった。白髪の考古局監査官、サミール・サリーム博士。老人は板を胸に抱えて出口へ走ったが、灰の僧の湾曲刀が背を裂いた。
宗吾は炎を跳び越え、倒れた博士を抱き起こした。
「これを……娘に」
博士は粘土板を差し出した。血に濡れた指が、第八行を隠している。
「ナディアに渡せ。ヴェイルより先に……都を、眠らせろ」
「場所は?」
老人は笑った。
歯の間から血がこぼれた。
「場所ではない。時だ」
その手が落ちた。
宗吾は粘土板を内ポケットに滑り込ませ、地下室の厨房へ走った。背後で真鍮の指が机を叩く音がした。
「生け捕りにしろ!」
厨房の窓から路地へ飛び出す。魚市場の屋根を渡り、干した網を切り落として追手を絡め取る。露店の天蓋を踏み台に運河へ跳ぶと、係留されていた小型発動艇の綱をナイフで断った。
エンジンを蹴って始動させたとき、岸壁にヴェイルが現れた。
その真鍮の左手には、いつの間にか半分に割れた粘土板が握られていた。
宗吾は胸を探った。
内ポケットの板も、斜めに割れている。
競売室の混乱で、ヴェイルは上半分を奪っていたのだ。
「半分ずつだ、タカミネ!」
銃声が夜の水面を叩く。
「先に墓へ着いたほうが、死人に値段を聞くことにしよう!」
発動艇はシャット・アル=アラブの闇へ滑り出した。
宗吾は胸元の半片を取り出した。
そこに残っていたのは、第八行と、文字ではない第九行だけだった。
「父はあなたを信用していなかったわ」
翌朝、バスラ考古局の書庫で、ナディア・サリームは宗吾に拳銃を向けたまま言った。
二十八歳。黒髪を短く切り、砂色の男物シャツを着ている。机の上には粘土板の拓本、地質図、星図が積まれていた。父の死を聞いた直後だというのに、目は乾いていた。
「賢明な人だった」
「でも最後に、あなたへ託した」
「死にかけた人間は、ときどき判断を誤る」
銃口がわずかに上がった。
「冗談だ」
宗吾は両手を見せ、粘土板の半片を机に置いた。
ナディアは銃を下ろさず、拡大鏡を当てた。
「これは文字じゃない」
「第九行か?」
「星図よ。けれど、地上から見た空じゃない。天球を外側から見た配置になっている」
宗吾は椅子を引き寄せた。
ナディアが透明紙を重ね、点と線を写す。別の星図を下に置くと、いくつかの星が一致した。
「さそり座。夏至の夜明け前。でも中心がずれている」
「歳差だ」
「ええ。基準年代を逆算すると、約一万二千年前」
宗吾は笑わなかった。
シュメールの都市が生まれるより、はるか以前だ。
ナディアは父のノートを開いた。
最後のページに、同じ星図と、湿地帯の略図があった。
「父は十二年前、エリドゥ南方で黒い玄武岩の階段を見つけた。けれど翌朝、遺跡は塩湖の下に消えていた。記録を発表しようとした共同研究者が三人、同じ夢を見たあと自殺した」
「どんな夢だ」
彼女は答える前に、机の引き出しから封筒を出した。
中には古い写真が一枚。白い塩原の中央に、黒い階段の先端が突き出ている。その背後に立つ発掘隊員たちの顔は、すべて針で潰されていた。
ただ一人、若いヴェイルの顔だけが残っている。
当時はまだ両手があった。
「都の夢。空のない街を歩き、地下から星を見上げる夢。夢の最後に、誰かが自分の名を粘土へ押しつける」
宗吾は半片の第八行を指でなぞった。
見る角度を変えると、楔形の傷が虫の脚のように動いた。
「読めるか?」
「読んではいけないと父は書いている」
「読まなければ、ヴェイルを止められない」
「読めば、止めるべきものを起こすかもしれない」
しばらく二人は黙った。
窓の外では、荷車の車輪が石畳を鳴らし、ミナレットから昼の礼拝を告げる声が流れていた。世界はいつもどおりだった。だが、机の上の粘土板だけが、別の夜の冷気を放っている。
ナディアは拳銃の安全装置をかけた。
「夏至まで三日。星図が示すのは、ハンマール湖西岸の干上がった支流よ。ヴェイルは上半分を持っている。そこには門の位置が記されているはず」
「君は残れ」
「父の遺言を、墓泥棒一人に任せると思う?」
「墓の中には、学位を尊重する怪物ばかりじゃない」
「怪物の文法を読めるのは私よ」
宗吾は帽子を被った。
「では、契約だ。見つけた金銀は半分ずつ」
「遺物はすべて考古局へ」
「交渉決裂だな」
「ただし、あなたが命を拾ったら、それは全部持って帰っていい」
「悪くない」
その日の夕刻、二人は湿地帯へ向かう郵便飛行艇に乗った。
飛行艇は、葦の海に浮かぶ小さな集落へ降りた。
そこから先は平底のマシューフだった。舟頭サマドは、宗吾の倍ほどもある肩を持つ湿地の男で、舳先に古い長銃を置いていた。
「西の塩原へ行く者は、三種類だ」とサマドは言った。「石油を探す者、昔の王を探す者、死ぬ場所を探す者」
「俺たちは?」
「全部に見える」
葦原は夕焼けの中で金色に燃えた。
水牛が半身を水に沈め、白鷺が赤い空を横切る。遠くには土と葦で築かれた家々が浮かんでいる。
ナディアは父のノートを読み続けていた。
宗吾は眠るふりをしながら、後方の水面を見ていた。
細長い舟が三艘、音もなく追ってくる。
灰色の長衣。
黒い革面。
「サマド」
「見えている」
舟頭が長銃を掴むより早く、葦の中から矢が飛んだ。
舷側に突き立ち、黒い油が滴る。
「伏せろ!」
次の瞬間、矢が燃えた。
火は水面へ落ち、まるで水そのものが油だったかのように走った。
サマドが舵を切る。マシューフは炎の帯を裂いて進んだ。宗吾は荷の中から発煙筒を取り出し、火をつけて後方へ投げる。赤煙が葦原に広がり、追手の視界を奪った。
だが灰の僧は迷わない。
彼らは目を縫い閉じているのだ。
一艘が横づけしてきた。
革面の男が鉤縄を投げ、舟同士を引き寄せる。宗吾は鉤を蹴り外し、飛び移ってきた僧の手首を櫂で打った。湾曲刀が水へ落ちる。二人目が背後から抱きつく。宗吾は腰を沈めて投げ飛ばした。
ナディアが拳銃を撃った。
弾丸は僧の肩を貫いたが、男は声も上げずに前進する。
「人間よね?」
「今のところは!」
サマドの長銃が火を噴いた。追跡舟の舳先が砕け、二人が水へ落ちる。
そのとき、最も遠い舟の僧が、革面を自ら剥いだ。
目はなかった。
縫い閉じられていたのではない。眼窩の奥まで滑らかな灰色の皮膚で覆われていた。
男は口を大きく開き、第八行の最初の音を発した。
音というより、圧力だった。
水面が円形にへこみ、空の鳥が一斉に落ちた。宗吾の頭蓋の内側で、何千本もの爪が引っ掻いた。
ナディアが悲鳴を上げ、粘土板の半片を取り落とす。
板は舟底に触れる直前、空中で止まった。
ほんの一呼吸。
重力を忘れたように浮かび、第八行の文字が青白く光った。
宗吾は布で板を包み、音を遮るように抱え込んだ。
サマドが舟を葦の狭い水路へ突っ込ませる。追跡舟は曲がりきれず、互いに衝突した。
背後から、目のない僧の声が追ってきた。
「門はすでに一つ開いた!」
やがて炎も叫びも遠ざかった。
ナディアは青ざめていたが、板を受け取るとすぐに包みを二重にした。
「第八行は言葉ではない」
「ああ」
「命令よ。物質に対する」
サマドが低く祈りの言葉を唱えた。
夜半、彼らは泥の小島に上陸した。
サマドは火を起こさなかった。代わりに月明かりの下で、古い話をした。
「灰の僧は、昔から都を守っているのではない。都から世界を守っている。彼らの祖先は、名を捨てた王の奴隷だった。目を潰したのは、地下の星を見ないためだ」
「地下に星があるのか?」と宗吾。
「空が下にある場所ではな」
サマドは塩原の方角を見た。
「明日の夜、風が東から吹く。塩湖が割れる。黒い階段が出る。だが、お前たちより先に鉄の虫が着いている」
遠い地平に、白い探照灯が何本も立っていた。
ヴェイルの掘削隊だった。
塩原の上に、鋼鉄の櫓が建っていた。
蒸気掘削機、発電機、トラック、武装した傭兵。地面には爆薬で開けた巨大な穴があり、その底から黒い石段が現れている。
宗吾たちは夜明け前、廃水路を伝って野営地へ近づいた。
ヴェイルはすでに最初の門の前にいた。
門は一枚岩ではなかった。
二頭のラマッスが互いの翼を噛み合い、アーチを作っている。人面はなく、代わりに星形の穴が開いていた。穴の奥には、昼間だというのに夜空が見える。
ヴェイルのそばには、捕らえられた灰の僧が三人、鎖につながれていた。
真鍮の手には粘土板の上半分。
「開け方を言え」
僧たちは沈黙した。
ヴェイルは一人の革面を剥いだ。
灰色の皮膚に覆われた顔が現れる。
「目を捨てた。名も捨てた。残っているのは命くらいか」
真鍮の指が男の喉を掴む。
宗吾が動こうとすると、ナディアが腕を押さえた。
「今撃てば全員に囲まれる」
「三秒後でも同じだ」
宗吾は携帯鏡で朝日を反射させ、掘削機の油溜まりへ光を送った。サマドが火薬包を投げる。
爆発。
黒煙と砂が噴き上がった。
傭兵たちが振り返る。
宗吾は斜面を滑り降り、鎖の錠を撃ち抜いた。
「走れ!」
灰の僧たちは散った。
ナディアが門へ駆け、上半分と下半分の刻文を頭の中でつなぐ。
「第一の門は、刃を捨てよ!」
「聞こえたか、諸君!」
宗吾は傭兵の短機関銃を奪い、弾倉を抜いて門前へ放った。
ナディアも拳銃を置く。
サマドは長銃を抱いたまま首を振った。
「これは祖父の銃だ」
「門が家宝を尊重するといいが」
ラマッスの星形の穴から、低い唸りが響いた。
銃身が一斉に赤熱する。傭兵の武器も、宗吾のナイフも、サマドの長銃も、まるで長年炉に置かれていたように溶け始めた。
サマドは罵りながら銃を投げた。
門が開く。
三人は闇へ飛び込んだ。
直後、ヴェイルと傭兵たちも武器を捨てて続いた。
第二の門は、鏡のような黒い壁だった。
「灯を捨てよ」とナディア。
ランタン、懐中電灯、マッチ。すべてを床へ置くと、壁が液体のように割れた。
向こう側には淡い青光を放つ通路が続いている。光源はない。石そのものが、深海の生物の腹のように脈動していた。
第三の門の前には、乾いた水盤があった。
「水を捨てよ」
彼らは水筒を空にした。
サマドだけは一口を口に含み、飲み込んでから残りを捨てた。
「これで神と半分ずつだ」
背後からヴェイルの笑い声がした。
「相変わらず、他人が罠を解くのを待つのが得意だな、タカミネ」
傭兵たちが無灯火で迫ってくる。
先頭の男が、水筒を隠したまま第三の門を越えた。
門の内側から透明な腕が伸びた。
男の胴を掴み、壁へ引きずり込む。壁の向こうで身体が平たく伸び、皮膚の下の骨まで影絵になった。やがて、その影は水盤の底へ一滴の黒い水となって落ちた。
誰も水を隠さなくなった。
第四の門は、影を捨てよ。
床に七つの窪みがあった。
青い光を背にして立つと、それぞれの影が窪みに吸い込まれた。
影を失った瞬間、宗吾は、自分の身体が世界へ縫いつけられていないような感覚に襲われた。
足音が半拍遅れる。
手を動かすと、指の輪郭が残像を引く。
「戻るとき、返してくれるのか?」とサマド。
「契約書はないわ」とナディア。
第五の門は、記憶を捨てよ。
扉には無数の小さな手形が刻まれていた。
中央に掌を置くと、石が温かくなった。
宗吾の脳裏から、ひとつの光景が抜き取られた。
東京の雨。
病院の白い廊下。
誰かが彼の手を握っていた。
とても大切な誰かだった。
次の瞬間、その顔も名も、何が起きたのかも消えた。
胸に穴だけが残った。
ナディアは唇を噛み、涙を一筋流した。だが何を失ったのか、もう語れない。
サマドは長く立ち尽くしていた。
「俺には娘がいた気がする」
彼はそう言った。
それが本当かどうか、誰にもわからなかった。
第六の門は、名を捨てよ。
門前には湿った粘土が敷き詰められていた。
足を踏み入れると、頭の中で自分の名が遠ざかった。
鷹峰宗吾。
音がほどける。
誰かに呼ばれた記憶が薄れる。
ナディアは小刀もない指先で、自分の腕に爪を立てた。
「名前を忘れても、傷は残る」
彼女はアラビア文字で「ナディア」の頭文字を皮膚に刻んだ。
宗吾も掌に漢字の「鷹」を爪で刻んだ。
サマドは胸を叩いた。
「俺は俺だ。名など舟の番号と同じだ」
門を越えたとき、三人は互いを知っていたが、呼び方を失っていた。
その先で、地下世界が開けた。
都は、空洞の底にあった。
見渡すかぎりの黒い建物。
階段状の神殿、円筒形の塔、葦束を模した橋。どれも石ではなく、光を吸う滑らかな物質でできていた。街路は幾何学的に曲がり、遠近法を裏切って、近い場所ほど小さく、遠い場所ほど大きく見えた。
頭上には岩盤があるはずだった。
だがそこには星空があった。
星は瞬かない。
黒い天井の内側に、青白い光点が埋め込まれている。時折、星の一つがゆっくりと位置を変えた。まるで巨大な眼球の瞳孔が動くように。
街の中央に、逆さまのジッグラトが浮かんでいた。
基部を上に、尖端を下にして、何の支えもなく吊られている。底面には大陸図が刻まれていた。
ナディア――腕の傷でそう呼ぶべきだと思い出した女が、息を呑んだ。
「地球よ」
地図には、現在の海岸線とは違う大陸が描かれていた。
ペルシア湾は陸地で、北アフリカには巨大な内海がある。南極は氷に覆われず、中心に同心円状の都市が刻まれている。
そしてメソポタミアの位置から、細い線が南極へ伸びていた。
「父の年代計算は間違っていた」とナディア。「一万二千年前じゃない。これは、その星の配置が最後に地球から見えた時代を示していただけ。都そのものはもっと古い」
街路脇に、像が並んでいた。
最初はシュメールの有翼神に見えた。
近づくと違った。魚のような外套ではなく、身体そのものが鱗に覆われている。頭部から七本の触角が伸び、胸には放射状の口が開いていた。六本の腕がそれぞれ異なる道具を持つ。
鍬。
葦筆。
測量縄。
刃。
卵。
そして星。
「七賢、アプカルル」とナディアが囁く。
「六本しか腕がないぞ」
「像は七体ある。でも、あそこにもう一体」
列から離れた暗がりに、第八の像が立っていた。
他の七体とは似ても似つかない。
薄い膜で包まれた柱状の身体に、上下の区別がない。表面に無数の人間の顔が浮かび、現れては沈んでいる。
顔の一つが、サミール博士になった。
次に、宗吾が第五の門で失ったはずの誰かになった。
顔を見た瞬間、胸の穴が痛んだ。
思い出せない。
だが、愛していた。
「見るな!」
宗吾はナディアの肩を掴み、像から引き離した。
遅かった。
サマドが像へ歩いていく。
「娘だ」
柱の表面に、幼い少女の顔が浮かんでいる。
「俺には娘がいた。あそこにいる」
「それは奪われた記憶だ!」
サマドは振り向いた。
泣きながら笑っていた。
「なら、返してもらう」
像へ触れた。
柱の膜が破れ、黒い液体が男の腕を包んだ。
宗吾が腰の綱を投げて胴へ巻きつける。ナディアと二人で引いた。だが液体はサマドの皮膚の下へ入り込み、血管を黒く染めていく。
「切れ!」
武器は第一の門で捨てた。
宗吾は綱を柱に巻き、全身で引いた。
サマドの身体がこちらへ倒れた。
右腕だけが像の中に残った。
男は地面で痙攣し、失った腕の付け根から血ではなく細い葦が生えた。葦は瞬く間に伸び、花をつける。花の中心には小さな目があった。
サマドはそれを左手で引き抜いた。
「娘など、いなかった」
かすれた声だった。
「都が、俺に欲しい記憶を植えた」
彼は立ち上がろうとしたが、膝をついた。
黒い血管が胸へ広がっている。
「行け。鉄の手の男が来る」
背後の街路から、足音が響いた。
ヴェイルと残った傭兵たちが、第六の門を越えてきたのだ。
「一緒に行くぞ」と宗吾。
サマドは笑った。
「舟頭は、客を岸まで送るものだ。だが地下に川はない」
彼は傭兵の一人へ飛びかかった。
身体から伸びた葦が蛇のように絡みつき、二人を街路の亀裂へ引きずり込む。
宗吾とナディアは走った。
背後で銃声はしなかった。
かわりに、人間が植物へ変わる湿った音が長く続いた。
逆さのジッグラトへ至る道は、街のどこからでも見えた。
だが歩くほど遠ざかった。
宗吾は街路の形を見た。
建物の配置、橋の角度、広場の窪み。すべてが楔形文字を巨大化したものだと気づく。
「道じゃない。文章だ」
「何て書いてある?」
「まだ読めない。上から見れば……」
彼は壊れた塔へ登った。
都を見下ろす。
街全体が一枚の粘土板だった。
逆さのジッグラトは、文章の最後に押された印章だ。
そして街路は、第八行と同じ形をしていた。
「第八行は都そのものよ」とナディア。「読むというのは、歩くこと。正しい順に通れば、命令が完成する」
「ヴェイルは上半分を持っている。前半の道順を知っている」
「私たちは後半を持っている」
宗吾は包みから半片を出した。
青い光にかざすと、文字の溝へ街の星明かりが流れ込んだ。後半の四つの楔が、それぞれ遠くの塔と一致する。
二人は道を選び、走った。
第一の角を右。
下り階段を三十二段。
水のない運河を渡り、顔のない王像を背にする。
円形広場を半周し、星の井戸を越える。
井戸の底には宇宙があった。
ただの投影ではない。身を乗り出すと、凍った惑星の表面を嵐が走り、その向こうで巨大な何かが星を横切った。
ナディアが宗吾の腕を引く。
「見続けると、落ちるわ」
「足からか?」
「心から」
二人が最後の街路へ入ると、前方にヴェイルがいた。
傭兵は二人だけになっている。真鍮の手に半片を持ち、青い光を頼りに進んでいた。
ヴェイルは振り返り、笑った。
「ようやく来たか。下半分を寄越せ」
「先に墓へ着いたほうが死人に値段を聞くんじゃなかったか?」
「ここに死人はいない」
彼は街を見回した。
「いるのは、死を発明する以前の者たちだ」
真鍮の手首が開き、小型の単発拳銃が現れた。
第一の門へ捨てた武器ではない。義手の内部に隠していたのだ。
銃声。
弾丸が宗吾の肩を掠める。
次の瞬間、都全体が反応した。
第一の門の掟を破って持ち込まれた「刃」が、存在を拒絶された。
義手が赤熱し、白く輝く。ヴェイルは叫びながら腕を地面へ叩きつけた。真鍮が溶け、皮膚へ流れ込む。
だが彼は拳銃を放さなかった。
苦痛に耐え、残った右手で撃つ。
ナディアが倒れた。
脇腹から血が広がる。
宗吾は彼女を柱の陰へ引きずり、肩の包みを渡した。
「道を完成させるな」とナディア。「第八行が命令なら、最後まで読ませてはいけない」
ヴェイルが近づく。
融けた真鍮の腕は黒い石と融合し、床から生えた金属の根になっていた。
「私はここを十年前に見つけた」
彼は息を荒らしながら言った。
「門を三つ越え、仲間を失い、左手を失った。だが、都は私に未来を見せた。王たちがひざまずき、国境が消え、私の名がすべての粘土板に刻まれる未来を」
「都は欲しい記憶を植える。未来も同じだ」
「欲望こそ、人間が未来を知る唯一の器だ」
ヴェイルは真鍮の根を引きちぎった。
血と金属が床に散る。
「王印は最上層にある。下半分を渡せ。お前には金をやる。博物館を買えるほどの金を」
「博物館を買ったら、展示品を全部売る」
「なら世界を買え」
宗吾は笑った。
「世界は持ち運びに不便だ」
彼は腰の綱を柱へ回し、勢いよく引いた。
細い塔が倒れ、ヴェイルとの間を塞ぐ。宗吾はナディアを背負い、最後の道をわざと逆順に走った。
街が震えた。
文章が誤読されたのだ。
建物の角度が変わる。
橋が空へ持ち上がり、街路が壁になる。
上も下もなくなった都を、二人は落ちながら登った。
逆さのジッグラトが目の前へ降りてくる。
第七の門は、ジッグラトの尖端にあった。
そこには扉も文字もない。
人が一人立てる黒い円盤だけがある。
ナディアは傷を押さえながら、粘土板を見た。
「最後に捨てるのは、王」
「王印を捨てろという意味か?」
「違う。王になろうとする者を捨てるのよ」
ヴェイルが背後から現れた。
左腕を失い、顔の半分が金属の熱で焼けている。それでも右手には拳銃、胸には粘土板の上半分があった。
「そのとおりだ」
彼は上半分を円盤へ置いた。
宗吾の手から下半分を奪い、二枚を合わせる。
割れ目が消えた。
粘土板は一つになり、九行の刻文が青白く燃えた。
都の全街路に光が走る。
逆さのジッグラトが回転し始めた。
頭上の星空も回る。いや、動いているのは星ではない。空洞そのものが巨大な球体の内壁として回転している。
円盤の中央から、黒い円筒印章がせり上がった。
長さは指ほど。
材質は石でも金属でもない。表面には、王が神々から王権を授かる場面が彫られている。ただし神々は人間ではなく、七体のアプカルルと、顔の群れを持つ第八のものだった。
ヴェイルは印章を掴んだ。
その瞬間、都が目を覚ました。
無数の建物が生き物のように折れ曲がる。
星の井戸から黒い風が噴き出し、街路を流れる。像の胸の口が開き、声なき合唱を始める。
ジッグラトの壁が透明になった。
内部に、巨大なものが眠っている。
それは都の地下に埋まっていたのではない。
都そのものが、その生き物の殻だった。
大陸ほどの長さを持つ脊柱。
惑星の海を吸い上げるための管。
星の光を食べる膜状の翼。
人類が神話の中で竜、洪水、冥界と呼んだ形の原型が、壁の向こうでゆっくりと身じろぎした。
ナディアが震える声で言った。
「七賢は文明を授けたんじゃない。これを眠らせるため、人間に文字を教えた」
宗吾は理解した。
文字は記録のためではない。
命令を封じ、世代を越えて正しく誤読し続けるための檻だった。
王たちは粘土板へ法を刻んだ。
神殿は星を測った。
祭司は決められた音を唱えた。
文明そのものが、眠りを維持する巨大な呪文だったのだ。
ヴェイルは王印を円盤へ押しつけた。
「王権は天より降る!」
円盤に印影が現れる。
七体の賢者。
第八のもの。
そして中央に、冠を戴く人間。
その人間の顔はヴェイルだった。
彼の身体が変わり始める。
背が伸び、皮膚が黒い鱗に覆われる。失った左腕の断面から真鍮と骨の枝が生え、六本の腕へ分かれた。
「見ろ、タカミネ! 王は選ばれた!」
「選ばれたんじゃない。空席に座らされたんだ」
宗吾は粘土板へ目を落とした。
第八行の前半と後半がつながり、意味が見えた。
それは、こう読めた。
――名ある王が印を押すとき、都はその名を門として世界へ出る。
ヴェイルは王になったのではない。
怪物が地上へ出るための「名」になったのだ。
そして第九行。
星図だと思っていた傷は、印章を転がした跡だった。
正しい向きではない。
逆向きの印影。
「ナディア。粘土が要る」
「床がそうよ」
円盤の周囲には、湿った灰色の土が満ちていた。
宗吾は両手ですくい、ヴェイルの印影の上へ塗りつける。
怪物へ変わりつつあるヴェイルが振り向いた。
六本の腕が伸びる。
ナディアが彼の足へ飛びついた。
爪のような指が彼女の背を裂く。
宗吾は王印を奪った。
熱くも冷たくもない。握ると、自分の手が遠い星の海へ沈む感覚がした。無数の都市が生まれ、栄え、同じ印の下で崩壊する光景が流れ込む。
彼は印章を逆向きに転がした。
七賢が逆立ち、第八のものが裂け、人間の王が冠を脱ぐ。
都の合唱が止まった。
ヴェイルが叫ぶ。
「何をした!」
「王を捨てた」
逆向きの印影が青く燃えた。
ヴェイルの身体から、名前が剥がれた。
彼が誰だったのか。
どの国で生まれ、何を欲し、何を恐れたのか。
そのすべてが、都の壁から、粘土板から、宗吾たちの記憶から消えていく。
目の前にいるのは、もう名前のない肉体だった。
空席を得た第八のものが、その肉体へ流れ込んだ。
無数の顔が皮膚に浮かぶ。
競売人、灰の僧、サミール博士、サマド、知らない子どもたち、まだ生まれていない者たち。
最後に宗吾自身の顔が現れた。
「お前の名を知っている」
口がいくつも同時に動いた。
「門はどこにでも作れる」
宗吾は王印を床へ叩きつけた。
割れない。
もう一度。
ひび一つ入らない。
ナディアが粘土板を持ち上げた。
「印が壊れないなら、読むものを壊す!」
彼女は板を円盤の縁へ打ちつけた。
一度。
二度。
三度。
粘土板が九つに割れた。
第八行が失われた。
都全体が、文法を失った。
崩壊は音より先に始まった。
星が一つずつ消える。
街路が意味を失い、建物が文字ではない形へ崩れる。逆さのジッグラトは支えをなくし、空洞の底へ落ち始めた。
宗吾はナディアを抱え、傾く円盤から跳んだ。
影のない身体は奇妙に軽く、二人は壁となった街路へ着地した。
後方で、名前のない王が追ってくる。
六本の腕で石を砕き、無数の顔で泣き笑いながら。
第一の門から第六の門まで、来た道は消えていた。
代わりに、崩れた地面の下から大量の水が噴き出した。
「地下に川はない」とサマドは言った。
だが、都のさらに下にはアプスー――古代人が世界の底にあると考えた淡水の深淵があった。
水は街を呑み、黒い塔を倒し、二人を押し流した。
宗吾は浮かぶ石片へ綱を絡め、ナディアを結びつける。
「泳げるか?」
「傷がなければ!」
「俺も影があれば得意だった!」
濁流が二人を円形の坑道へ運ぶ。
壁には、七つの門で捨てたものが埋まっていた。
溶けた刃。
消えた灯。
黒い水。
切り取られた影。
無数の記憶が映る鏡。
名前を刻んだ粘土。
最後に、王たちの冠が山のように積まれている。
水流の中で、宗吾の影が足元へ戻った。
続いて、掌の傷から自分の名が頭へ流れ込む。
鷹峰宗吾。
ナディアが自分の名を叫んだ。
その声が、崩れる都の中で初めて人間のものとして響いた。
記憶も戻り始めた。
東京の雨。
病院の廊下。
妹の手。
宗吾が発掘へ出ている間に亡くなった、十七歳の妹。
彼が墓を暴き、宝を追い続けた理由。
死者から何かを持ち帰れば、いつか一人くらい取り戻せると思っていた。
宗吾は目を閉じた。
痛みが戻った。
だが痛みは、空白より軽かった。
背後の水面から、名前のない王が現れた。
顔の群れが開き、宗吾の妹の声を出す。
「兄さん」
宗吾は振り返らなかった。
「それは返さなくていい」
坑道の先に白い光が見えた。
朝日ではない。塩原を覆う雷光だ。
二人は水とともに地上へ噴き出した。
夏至の夜明け、塩原は海になった。
掘削櫓は倒れ、トラックは泥へ沈み、傭兵たちは逃げ散っていた。
黒い階段の周囲で大地が陥没し、巨大な渦を作っている。
宗吾とナディアは、半ば沈んだ燃料樽につかまっていた。
地の底から、名前のない王の咆哮が響く。
塩湖の水が数十メートルも盛り上がり、黒いジッグラトの尖端が一瞬だけ姿を現した。
その表面に、都市ほど大きな眼が開いた。
宗吾は見た。
ナディアも見た。
眼の奥にあったのは瞳ではない。
星々の間を進む、同じ形の都の群れだった。
砂漠の下、海底、南極の氷床、月の裏側。人類がまだ名をつけていない場所で、無数のジッグラトが眠っている。
そして、どれか一つがこちらを見返した。
次の瞬間、地面が閉じた。
水が落ち、黒い階段も、櫓も、怪物も、すべて塩と泥の下へ消えた。
朝日が昇る。
世界は金色になった。
灰の僧たちが岸辺に立っていた。
目のない顔を朝日に向け、低い歌を唱えている。
一人が宗吾の前へ来た。
競売室で第八行を囁いた男だった。
「王印は?」
宗吾は空の両手を見せた。
「都と一緒だ」
僧は長く黙った。
やがて、革面を戻した。
「ならば、眠りは続く」
「どれくらい?」
「文字が読まれるかぎり」
ナディアが苦しげに笑った。
「人類が文字を捨てる日は来ないわ」
「人類が、文字に読まれる日は来る」
僧たちは葦原へ去っていった。
三か月後、カイロ。
ナディアは傷が癒えると、父の遺稿を整理して考古局へ戻った。
南部塩原の事件は、石油試掘中の地盤沈下として処理された。ヴェイルの会社は主を失って解体され、彼の名を覚えている者は誰もいなかった。帳簿にも新聞にも、最初から存在しなかったかのように空白だけが残った。
宗吾だけは、ときどき真鍮の左手が机を叩く音を夢に聞いた。
彼は安宿の部屋で、バスラから持ち帰った荷を調べていた。
金銀はない。
宝石もない。
粘土板の欠片さえ残っていない。
あるのは、湿地で使った綱、錆びたコンパス、妹の古い写真だけだった。
写真の裏へ、彼は自分の名を書いた。
鷹峰宗吾。
毎朝、忘れていないことを確かめるためだった。
窓の外で雨が降り始めた。
乾いたカイロには珍しい、重い雨だった。
宗吾は机の上の水滴を拭おうとして、手を止めた。
水滴の下に、黒い円筒形のものがある。
王印。
地底で何度叩いても壊れなかった、夜色の印章だった。
宗吾は触れていない。
持ち帰った記憶もない。
それでも印章は、濡れた机の上をひとりでに転がり始めた。
木目へ、青白い印影が刻まれていく。
七賢。
第八のもの。
冠を捨てる王。
そして最後に、一人の男。
男の顔は宗吾だった。
印影の下に、楔形文字が一行だけ浮かんだ。
今度は、読むことができた。
――都は名を失った。ゆえに、お前の名を借りる。
部屋の灯が消えた。
窓の外、雨に濡れたカイロの街路が、ゆっくりと巨大な楔形文字へ組み替わっていった。
了