無貌の凱旋

 帝国は、土地を奪うより先に顔を配る。

 貨幣に、旗に、壁に、そして人間の心に。

序 顔のない銀貨

 午前三時十七分、ローマは雨に磨かれていた。

 古代浴場を改装した会員制競売場〈テルマエ・アウレア〉の天井では、二千年前の女神たちが青い水面を見下ろしている。水面といっても本物ではない。強化ガラスの下を薄い水が流れ、そのさらに下を、タキシードと宝石で武装した人々が歩いていた。

 空木遼介は銀盆を片手に、その群れを泳いだ。

 給仕服の襟には盗聴器。左の靴底にはガラス切り。右袖には炭素繊維の巻き取り索。胸ポケットには、競売場の見取り図を暗記したあとで燃やした灰が、まだ少し残っている。

「十三秒遅い」

 耳の奥で男の声がした。

 骨伝導端末から聞こえる、低く乾いた声。発信者名はいつも同じだった。

 NEMO。

「古代ローマ人は時間に寛容だった」

「だから滅びた」

「ローマは滅びていない。入場料を取るようになっただけだ」

 遼介は唇を動かさずに答え、銀盆からシャンパンを一本抜いた。

 円形の競売台では、最後の出品物が黒い絹の上に置かれていた。

 直径二センチほどの銀貨。

 表にも裏にも肖像がない。文字も、月桂冠も、鷲もない。ただ、磨き上げた鏡のような面が二つある。会場の照明を受けても光を返さず、そこだけ夜を切り抜いたように暗かった。

「第三百一号品。“無貌銀貨”。三世紀後半、ダルマティア属州の地下墓所より出土」

 競売人が告げた。

「同時代の銀貨と同じ重量、同じ銀含有率。しかし、鋳型の痕跡が一切ない。皇帝の顔を持たぬ貨幣は、帝国に対する反逆そのものです」

 客席に笑いが起きた。

 価格表示が跳ね上がる。十万。三十万。百万ユーロ。

 遼介は客の顔を眺めた。彼らは銀貨を欲しがっているのではない。銀貨を欲しがる自分を、他人に見せたがっている。

 二階の貴賓席に女がいた。

 白いスーツ。銀色の髪。細い指で頬杖をつき、競りにも加わらず、遼介だけを見ている。

 イザベル・ヴァロ。

 世界最大の体験設計企業〈オルビス〉の創業者。人間の嗜好を予測し、欲望を商品に変え、商品を人格に変える女。

 彼女が微笑んだ。

「見られている」と遼介。

「見せている」とNEMO。

「何を」

「おまえを」

 価格が二百万を超えた瞬間、遼介はシャンパンの栓を抜いた。

 栓は天井へ飛ばず、競売台の真上にある熱感知器へ命中した。続けて瓶を床へ叩きつける。飛び散った酒に、袖口から落とした発火剤が触れた。

 青い炎が走った。

 警報。悲鳴。防火扉の作動音。

 だが、天井の散水装置から水は出なかった。

 二千年前の鉛管を模した装飾配管には、本物の水圧がかかっている。遼介は配膳台の陰へ滑り込み、床近くの青銅弁を蹴り折った。

 壁が破裂した。

 水の塊が競売台を横殴りにし、客も椅子も黒絹も押し流す。照明が落ちた。

 三秒後、遼介の指の間には無貌銀貨があった。

「北側の通路」とNEMO。

「警備が三人」

「二人だ」

「三人見える」

「一人は鏡だ」

 遼介は走った。

 復元された蒸気浴室を抜け、非常口を無視し、モザイク床の海神像へ飛び込む。三叉槍の先端を踏むと、補修用ハッチが開いた。

 地下の暖房空間――ハイポコースト。

 腰ほどの高さしかない暗渠を這う。背後で警備員の怒声。銃声。石灰の粉が頬を打つ。

 前方に人影が立った。

 黒い防水服。顔の下半分を覆うマスク。オルビス警備部の紋章。

「空木遼介」

 男が日本語で名を呼んだ。

 遼介の動きが一瞬止まる。

 この仕事で本名を使ったことはない。

 男はマスクを下げた。舌の上に、一枚の黒い硬貨が載っていた。貨幣は肉に半ば埋まり、細い金属の根を喉の奥へ伸ばしている。

「あなたの顔は、もう購入されています」

 男が笑った。

 銃口が上がるより早く、遼介は手の銀盆を投げた。縁が男の手首を打ち、銃弾が天井へ逸れる。遼介は懐へ入り、肘を顎に、膝を腹に叩き込んだ。

 男は倒れなかった。

 代わりに、首を不自然な角度へ曲げ、別人の声で言った。

「市民よ。名を告げよ」

 遼介の右手が勝手に動いた。

 無貌銀貨を男の額へ押し当てる。

 男は電流に撃たれたように痙攣し、崩れた。額には丸い凍傷が残った。

「今のは何だ」

「走れ」とNEMO。

「答えろ」

「おまえが答えを盗みに行く」

 暗渠の先で、排水口が雨の夜へ開いていた。

 遼介はテヴェレ川沿いの泥へ転がり出た。遠くで警報が鳴り、古い都の輪郭を赤く染めている。

 握った銀貨は、氷のように冷たかった。

 その鏡面に映るはずの自分の顔は、どこにもなかった。

一 死んだ皇帝の依頼

 翌朝、テルミニ駅の地下にある二十四時間営業の食堂で、リヴィア・セラは銀貨をエスプレッソの湯気にかざした。

 三十代半ば。黒い巻き毛を無造作に束ね、丸い眼鏡の奥から世界を疑うように見ている。ローマ碑文学の専門家だが、大学を追われたあと、戦争地帯から盗掘品を回収する仕事で名を上げた。

「銀じゃない部分がある」

 彼女は言った。

「表面の結晶の間に、炭素でも金属でもない繊維が入ってる。熱で配列が変わる」

 湯気に濡れた銀貨の鏡面へ、細い文字が浮かび上がった。

 IMP・NEMO・AVG

 ROMA・SVB・ROMA

「“皇帝ネモ・アウグストゥス”。それから“ローマの下のローマ”」

 リヴィアは眉を寄せた。

「ネモはラテン語で“誰でもない”。皇帝の名としては悪趣味ね」

「歴史にいるのか」

「いない。少なくとも、公認された皇帝名簿には。けれど三世紀は、兵士が朝に皇帝を立て、夕方には殺す時代だった。十七日だけ皇帝だった男がいても不思議じゃない」

 遼介は店内を見回した。

「昨夜、警備員がこれと似た硬貨を舌に埋めていた」

「薬物?」

「硬貨が喋っていた」

「寝不足?」

「その可能性がいちばん安い」

 リヴィアは銀貨を白い布で包んだ。

「この略号、見覚えがある。二年前、バルカン山中の碑文写真を買った。石碑には“第十三門より下、顔なき皇帝の造幣所”とあった。写真を送ってきた男は三日後に死んだ」

「誰だ」

「鷺井凌月」

 遼介はコーヒーカップを置いた。

 陶器が皿に当たり、乾いた音を立てた。

 鷺井凌月は、遼介の兄だった。母親が違い、姓も違った。考古学者になり損ねた密輸屋で、八年前、オルビス傘下の鉱山調査中に事故死した。

「兄は何を見つけた」

「私には写真だけ。あなたには?」

 遼介は答えなかった。

 事故の前後三日間、彼の記憶はない。

 病院で目覚めたとき、兄は死に、右手の生命線に沿って細い黒い傷が残っていた。その半年後、NEMOから最初の仕事が届いた。

 盗まれた聖遺物を盗み返せ。

 報酬は現金。

 質問は禁止。

 以来、NEMOは遼介を世界各地の墓と金庫へ送り込んだ。一度も姿を見せず、一度も約束を破らなかった。

 食堂の全モニターが同時に消えた。

 黒い画面へ、白い輪が現れた。無貌銀貨と同じ、顔のない円。

 続いてイザベル・ヴァロの顔が映った。

「おはようございます、空木さん。昨夜は見事でした」

 客たちは気づかず、新聞を読み、パンを齧っている。音声は遼介とリヴィアの端末だけへ届いていた。

「銀貨を返せと?」

「いいえ。持っていてください。それは鍵ですから」

 画面のヴァロは微笑む。

「あなたのお兄さまが発見した地下遺構を、私たちは再び見つけました。場所はドゥラ山脈、ヴルトゥル峰。旧鉱山のさらに下です」

「八年前の事故は?」

「事故ではありません。凌月さんは何かを封じようとした。その結果、坑道が崩れ、二十七人が死んだ」

「兄を殺したのはおまえか」

「彼を止められなかったのは私です」

 画面が切り替わった。

 赤外線で撮影された山体の断面。地下深く、幾何学的な空洞が広がっている。道路。広場。円形闘技場。まるごと一つの都市。

「三世紀末、ローマ軍の一個軍団が記録から消えています。彼らが運んだのは、帝国の金庫でも、聖杯でもない。人間を皇帝にする装置だった」

「比喩か?」

「いいえ」

 ヴァロの声が少しだけ低くなった。

「人間を、別の人間にする装置です」

 リヴィアが画面へ身を乗り出した。

「あなたはそれを商品にする」

「人はすでに、毎日自分を商品にしています。服、職業、思想、恋人、怒り方まで選び、それを“自分”と呼ぶ。私たちは選択を簡単にするだけです」

「断る」と遼介。

 その瞬間、卓上の無貌銀貨が震えた。

 耳の奥でNEMOが囁く。

「依頼を受けろ」

「理由は」

「凌月の遺体は見つかっていない」

 遼介は目を閉じた。

 八年間、誰も口にしなかった事実だった。

 事故現場から出たのは兄の血と、焼けた腕時計だけ。

「条件がある」と遼介は言った。

「どうぞ」

「リヴィアが同行する。現地で見つけた記録はすべて彼女が複製する。俺たちの退出経路は、あんたの警備部ではなく俺が決める」

「受け入れます」

「それと、俺に嘘をついたら――」

「そのときは?」

 遼介は画面の女を見た。

「皇帝の墓に、女王を一人追加する」

 ヴァロは楽しそうに笑った。

 モニターが元のニュース番組へ戻る。

 リヴィアは冷めたコーヒーを飲み干した。

「最悪の就職面接だった」

「まだ辞退できる」

「凌月は私にも借りがある」

 彼女は立ち上がり、銀貨を遼介へ返した。

「それに、死んだ皇帝が人を雇うなんて、一生に一度よ」

 遼介は銀貨をポケットへ入れた。

 NEMOの声はもうしなかった。

二 山はローマを食べる

 ヴルトゥル峰は、雲の中で獣の背のようにうねっていた。

 ドゥラ山脈の最奥部。国境線が三度引き直され、そのたびに地図から村が消えた土地だ。山腹にはローマ時代の採石場、中世の修道院、社会主義時代の鉱山施設が層になって貼りついている。

 ヘリコプターを降りたのは七人だった。

 遼介、リヴィア、ヴァロ。

 オルビス警備部長のカッシアン・ミュドル。坊主頭に灰色の目をした大男で、軍人のように歩くが、軍人より静かに人を殺す種類の男だった。

 残りは武装した三人の警備員。ミュドルは彼らを名前では呼ばず、番号で呼んだ。

「装備確認。通信は地表から五百メートルまで。以深は有線中継器を設置する。目的物を発見した場合、接触前にヴァロ代表の許可を取れ」

 遼介は肩に古びた革袋を提げた。ロープ、チョーク、折り畳み式の鏡、手回し発電機、磁針の狂った方位磁石。電子機器が死んだ墓で生き残るのは、たいてい百年前の道具だ。

 山腹の修道院跡で、老人が一人待っていた。

 羊皮の外套に、木の杖。片目が白く濁っている。

「案内人のペタルです」とヴァロ。

 老人は一行を見回し、遼介の前で止まった。

「山へ入ったら、名を言うな」

「理由は?」

「名は扉になる」

 ペタルはミュドルの銃を嫌そうに見た。

「金も持ち込むな。顔のついた金は、とくに」

「迷信だ」とミュドル。

「ローマ人もそう言った」

 老人は修道院の祭壇を動かした。

 下から、石段が現れた。

 階段は鉱山の保守坑へ続いていた。湿ったコンクリートの通路を一時間下り、錆びた昇降機の底を抜ける。やがて壁面が荒い岩から、ぴたりと組まれた玄武岩の切石へ変わった。

 ローマの壁だった。

 松明を持つ兵士、翼を広げた鷲、月桂冠を戴く皇帝。だが、すべての顔だけが丹念に削り落とされている。

 正面に巨大な門があった。

 左右に六体ずつ、計十二体の皇帝像。中央には首のない十三番目の台座。

 門の上の碑文をリヴィアが読む。

「“十二の顔は帝国を守る。十三番目は帝国から守る”」

「鍵を」とヴァロ。

 遼介は無貌銀貨を取り出した。

 台座の上面に、貨幣と同じ大きさの窪みがある。だが彼は銀貨を置かなかった。

 十二体の像を一つずつ調べる。目は削られているが、首の角度がわずかに違う。全員が中央ではなく、斜め下を見ていた。

 視線の先は床のモザイク。

 盾を重ねた軍団兵の図柄。盾の一枚だけ、裏返っている。

 遼介がそこを踏むと、石床が沈んだ。

 壁から刃が飛び出した。

 彼は身を伏せた。頭上を青銅の鎌が走り、後ろにいた警備員の銃身を切断する。

「鍵穴に鍵を入れるのは、観光客だ」と遼介。

「では盗賊は?」とヴァロ。

「鍵穴を作った奴の性格を考える」

 裏返った盾のモザイクを回すと、十三番目の台座が開いた。内部には、人間の頭ほどもある石の球が入っている。

 球には顔がなかった。

 遼介とリヴィアが球を持ち上げ、首のない像へ載せる。

 十二体の皇帝像が一斉に中央へ向いた。

 石門が腹の底に響く音を立てて開いた。

 その先には深い裂け目があり、細い石橋が渡されていた。谷底は見えない。向こう岸には、鷲の軍旗が立っている。旗竿の先に赤い宝石が嵌まっていた。

 ミュドルの部下の一人が呟いた。

「ルビーだ」

「触るな」と遼介が言うより早く、男は宝石を引き抜いた。

 石橋が傾いた。

 足元の石板が一枚ずつ谷へ落ちていく。

「走れ!」

 一行は橋を駆けた。

 背後から崩壊が追ってくる。ヴァロの足が石の隙間へ挟まった。遼介は戻り、彼女の腕を掴む。

「私を助けるの?」

「依頼人を失うと報酬が減る」

 二人が跳んだ直後、最後の石板が闇へ消えた。

 宝石を取った警備員だけが向こう岸へ届かなかった。

 彼の手が縁を掴む。ミュドルが腕を伸ばす。

 だが谷底から、白いものが伸びた。

 指だった。

 何十本もの青白い指が男の脚へ絡みつき、闇へ引きずり込む。悲鳴は長く続き、やがて水の中で喋るような音に変わった。

 沈黙の中で、ペタル老人が十字を切った。

「山が一人、覚えた」

「戻るなら今だ」と遼介。

 老人は首を振った。

「わしはここまでだ」

 彼は革袋から古い銅貨を出し、遼介へ渡した。皇帝の肖像は刃物で削られ、滑らかになっている。

「下で声に訊かれる。“おまえは誰だ”と。そのとき本当の名を言うな」

「何と答える」

「誰でもない、と」

 ペタルは踵を返した。

 崩れた橋を前にしても、来た道へ戻ることを選んだ。

 ミュドルが嘲るように言った。

「臆病者だ」

「臆病者は長生きする」と遼介。

 前方の闇から、かすかな足音が聞こえた。

 さっき谷へ落ちた警備員の歩幅と、よく似ていた。

三 第十三の門

 通路は山の中心へ向かって下っていた。

 壁には等間隔で青銅板が嵌め込まれ、名前が刻まれている。兵士、石工、奴隷、役人、娼婦、子供。数千、数万。帝国の住民名簿だった。

 ところどころ、名前の上に丸い窪みがある。

 硬貨を押しつけた痕だ。

「国勢調査」とリヴィアは言った。

「墓に?」

「ローマにとって人口は、兵士と税金の別名だった。数えられた人間だけが市民になり、数えられない人間は存在しない」

「今と変わらない」とヴァロ。

「今はもっと親切よ。自分から数えてもらいに行く」

 やがて一行は円形の部屋へ出た。

 天井は見えない。床の中央に石の口が開いている。人間の唇を何倍にも拡大した形だ。

 全員が部屋へ入った瞬間、背後の扉が閉じた。

 石の口から風が吐き出された。

「QVIS・ES?」

 低い声が響く。

「“おまえは誰だ”」とリヴィア。

 ミュドルが一歩出た。

「カッシアン・ミュドル。オルビス警備部長だ」

 青銅板が鳴った。

 壁の名前が一斉に赤く光る。

 床から細い針が飛び出し、ミュドルの足首を狙った。彼は跳んで避けたが、後ろの警備員が肩を刺された。

 男は針を抜き、悪態をついた。

 針の先に血はついていなかった。代わりに、銀色の糸が皮膚の中へ潜っていく。

「切れ!」と遼介。

 ミュドルがナイフで傷口を抉る。銀糸は肉の奥へ逃げた。男の瞳孔が大きく開き、口が勝手に動く。

「マルクス・アエリウス・フェリクス。第三補助軍団、第二百人隊――」

 知らないラテン語が流れ出す。

 男は自分の喉を掴み、泣きながら笑った。

「俺は……俺は、誰だ?」

 石の口が再び問う。

「QVIS・ES?」

 遼介は無貌銀貨を握った。

「NEMO」

 誰でもない。

 部屋が静まった。

 正面の壁に細い亀裂が入り、扉が開く。

 同時に、刺された警備員の身体が弓なりに反った。皮膚の下を、硬貨ほどの円盤がいくつも移動する。胸から首へ、首から頬へ。

 男の顔が内側から丸く盛り上がった。

「離れろ!」

 遼介はリヴィアを扉へ押した。

 男の口から銀色の円盤が吐き出された。床へ落ちたそれぞれに、小さな顔が浮かんでいる。老人、少年、女、兵士。どの顔も目を開き、同時に息を吸った。

 ミュドルが火炎弾を撃ち込む。

 白い炎が男を包んだ。燃えながらも、彼は直立し、胸の奥から何人分もの声を響かせた。

「市民よ。国勢調査は完了した」

 遼介たちは扉の向こうへ転がり込み、石扉を閉じた。

 炎の向こうから、拳が門を叩く。

 一度。

 二度。

 三度。

 やがて音が止んだ。

 誰も口を開かなかった。

 ヴァロだけが携帯型の分析器を見つめていた。

「反応が取れた」と彼女は呟く。

「人が死んだ」とリヴィア。

「だからこそ、無駄にしてはいけない」

 遼介はヴァロの手から分析器を奪い、床へ叩きつけた。

「次に人を実験材料と呼んだら、おまえを先に投げる」

「私は呼んでいません」

「目が呼んでいる」

 ミュドルが銃を遼介へ向けた。

 ヴァロは手で制した。

「彼の言う通りです、カッシアン。ここから先は、私たちは客ではない」

 通路の先に、淡い光が見えた。

 外ではない。

 山の中に、空があった。

四 地下の市民

 黒い岩盤をくり抜いた巨大な空洞に、都市が眠っていた。

 石畳の大通り。列柱の並ぶ広場。神殿。浴場。円形闘技場。丘の上には皇帝宮殿。

 天井一面に青白い菌糸が広がり、星座のように光っている。ローマを模した街の上に、異星の夜が張りついていた。

 広場には市民がいた。

 数百体の石像。

 市場で魚を買う女。喧嘩する男。パンを運ぶ奴隷。演説する元老院議員。遊ぶ子供。都市の日常を一瞬で石にしたように見える。

 だが、近づくと石ではないとわかった。

 皮膚を石灰と金属で覆われた、人間の遺体だった。

 全員の口に貨幣が挟まれている。

「冥界への渡し賃じゃない」とリヴィア。

「じゃあ何だ」

「接続端子」

 彼女は壁画を照らした。

 星が山へ落ちる。兵士たちが黒い石を掘り出す。石から伸びた白い根が、死者の口へ入る。次の場面では、死者が立ち上がり、皇帝へ跪いていた。

「彼らは隕鉄を見つけた。そこに付着していた何かが、人間の神経情報を金属へ写した。ローマ人はそれを神託だと思った」

「死者を兵士にした?」

「死者だけじゃない。別人の記憶を、生者へ移した」

 ヴァロが壁画へ触れた。

「人格の複製」

 その声には、畏怖より欲望があった。

 広場の中央に凱旋門が立っている。

 門の上には顔のない皇帝像。その足元に、十三本の軍団旗。

 リヴィアは碑文の埃を払った。

「“ルキウス・アウレリウス・ヌルス、世界の父、名を捨てし者”」

「実在したのか」

「少なくとも、ここでは皇帝だった」

 続く文章を読み、彼女の表情が変わった。

「ヌルスは皇帝になる前、造幣官だった。貨幣の顔が変われば、昨日まで敵だった男も今日から正統な支配者になる。それを見て考えた。“人間の顔も鋳直せるのではないか”」

 ミュドルが鼻で笑った。

「古代人の迷信だ。さっきの兵士は毒で錯乱しただけだ」

「なら、あれも毒か」

 遼介は大通りの奥を指した。

 人影が歩いていた。

 橋から落ちた警備員だった。

 服は裂け、片脚があり得ない方向へ曲がっている。それでも一定の歩調で進み、広場の石化した市民たちへ近づいた。

 彼が口を開く。

「第十三軍団、帰還」

 数百体の市民が、一斉に顔を上げた。

 硬貨が歯の間で光った。

「走れ!」

 一行は皇帝宮殿へ向かった。

 背後で石灰の殻が割れ、人々が動き出す。骨の軋み。硬貨の触れ合う音。何百もの足が、軍団の歩調へ揃っていく。

 ミュドルが自動小銃を撃つ。弾丸は市民の身体を砕くが、倒れた破片から銀糸が伸び、近くの遺体へ繋がる。腕を失った者は別の腕を拾い、脚を折られた者は四つん這いで追ってきた。

 遼介たちは浴場へ飛び込んだ。

 広い冷水浴室。干上がった池の底に、青銅の排水蓋がある。

「出口は?」とミュドル。

「浴場なら地下に排水路がある」

 遼介は蓋へ手をかけた。

 動かない。

 市民たちが入口へ押し寄せる。

 リヴィアが壁の水道弁を見つけた。獅子の口をした青銅栓が三つ。刻印はCALDA、TEPIDA、FRIGIDA――熱湯、温水、冷水。

「どれ?」

「全部だ」

 三つを同時に回す。

 山の奥で何かが目覚めた。

 天井の導水管から黒い水が噴き出し、浴室を満たし始める。二千年ぶりに開いた貯水槽の水は腐り、金属臭を放っていた。

 遼介は無貌銀貨を排水蓋の窪みへ嵌めた。

 蓋が回転した。

「先に入れ!」

 リヴィア、ヴァロ、ミュドルが排水路へ滑り込む。

 遼介が最後に続こうとしたとき、水面に兄の顔が映った。

 鷺井凌月。

 八年前と同じ、無精髭。困ったような笑い。

「遼介」

 水の中から手が伸び、遼介の手首を掴んだ。

 冷たくない。

 生きた人間の温度だった。

「兄貴?」

 凌月の顔が水面から現れる。

「やっと来たな」

 耳の奥でNEMOが怒鳴った。

「それを見るな!」

 遼介の右手が勝手にナイフを抜き、水面を切った。

 兄の顔が縦に裂けた。

 皮膚の下に無数の銀貨が詰まり、それぞれが別々の口を開いて笑っている。

 遼介は排水路へ飛び込んだ。

 直後、浴室の水があふれ、市民たちを押し流した。

 暗い管の中を転がりながら、遼介は叫んだ。

「NEMO! なぜ兄貴の顔を知っている!」

 返事はなかった。

 右手の黒い傷だけが、脈を打っていた。

五 皇帝工房

 排水路の先は、巨大な工房だった。

 天井から何百本もの鎖が垂れ、青銅の鋳型、鉄の槌、歯車、圧搾機が並んでいる。床の溝には水ではなく、黒く固まった金属が流れていた。

 造幣所。

 ただし、作られていたのは貨幣だけではない。

 壁一面の棚に、人間の顔を写した薄い金属板が収められている。男、女、老人、子供。目を閉じた顔。叫ぶ顔。笑う顔。

 遼介は一枚を手に取った。

 鷺井凌月の顔だった。

 裏面に日本語で日付が刻まれている。

 八年前。

「嘘だ」

 さらに奥の棚には、遼介自身の顔があった。

 一枚ではない。

 怒っている遼介。泣いている遼介。無表情の遼介。頭を剃り、口元だけで笑っている遼介。

 最後の一枚の裏に、ラテン文字が刻まれていた。

 NEMO。

 ミュドルが銃を上げた。

「代表、目的物を確認。回収を開始します」

「待って」とリヴィア。

 彼女は遼介を見ていた。

「話す時が来た」

「何を知っている」

 リヴィアは自分の端末を取り出した。地下へ入ってから通信は死んでいる。だが保存映像は再生できる。

 画面に男が映った。

 遼介だった。

 頭を剃り、頬が痩せ、右手の傷がまだ赤い。八年前の病院着を着ている。

『これを見ている俺は、たぶん何も覚えていない』

 映像の遼介が言う。

『凌月は死んだ。オルビスが殺した。正確には、ここで見つけたものを商品にしようとして、封鎖を破った。凌月は坑道を爆破した。俺は逃げ遅れた』

 画面の男は右手を見せる。

 黒い繊維が皮膚の下を走っている。

『こいつは記憶を金属に写せる。逆もできる。俺の頭には、凌月の記憶の一部と、地下都市の記憶が入った。オルビスはそれを取り出そうとしている』

「これはどこで?」

「凌月から預かった暗号庫」とリヴィア。「彼は事故の前に、私へ鍵を送った。映像を開けたのは半年前。あなたから連絡が来たあと」

『だから、俺は俺を二つに分ける』

 映像は続く。

『昼の俺には、場所も証拠も持たせない。盗みの技術と、兄を失った怒りだけを残す。もう一人には、計画を持たせる。名はつけない。名があれば、オルビスに見つかる』

 映像の遼介が、カメラへ顔を近づけた。

『NEMO。誰でもない。俺が自分に雇われていると気づくまで、俺をここへ連れてこい』

 映像が終わった。

 工房の歯車が、遠くで一つ動いた。

 遼介は笑おうとしたが、喉が鳴っただけだった。

「NEMOは……俺?」

「あなたが作った避難所」とリヴィア。「別人格というより、封印した記憶と命令の束。自分の脳を金庫にして、鍵を別の自分へ渡した」

「なぜ黙っていた」

「映像の最後に、あなた自身が命じていた。“地下都市へ着くまで言うな。早く知れば、オルビスも知る”」

 ヴァロが静かに拍手した。

「見事です。自分を二重盲検にするなんて」

 遼介は彼女へ向き直った。

「全部知っていたな」

「推測はしていました。あなたがNEMOから指示を受けるたび、脳波に同じ署名が出ていたから」

「俺を泳がせた」

「あなたほど優秀な案内人はいない」

 ミュドルの部下がリヴィアの腕を捻り上げた。

 ミュドルは遼介のこめかみに銃口を当てる。

「鍵を出せ」

「鍵はもう使った」

「もう一つだ」とヴァロ。「あなたの右手にある」

 彼女は遼介の掌の傷を指した。

「凌月さんは中枢装置の生体鍵を、あなたへ移した。無貌銀貨は扉を開く。けれど皇帝を起こせるのは、あなたの中にいる“誰でもない者”だけ」

 工房の奥で、巨大な圧搾機が動き始めた。

 地面が震え、壁の顔板が一斉に目を開く。

 何百人もの声が、同時に囁いた。

「NEMO」

 遼介の意識の底から、もう一人の自分が浮かび上がる。

「遅かったな」とNEMO。

「ずっと俺の中に?」

「どこにいると思っていた」

「兄貴の記憶も持っているのか」

「一部だけだ」

「本物の兄貴は死んだ?」

「凌月は最後に笑っていた。おまえが生きたからだ」

 遼介は目を閉じた。

 一瞬、工房の匂いが消えた。

 八年前の坑道。煙。崩れる岩。兄が遼介の右手へ黒い銀貨を押しつける。

『顔を渡すな。どんなに楽でも、自分で選べ』

 忘れていた声が戻る。

 遼介は目を開いた。

「NEMO」

「何だ」

「契約を更新する」

「条件は?」

「俺の身体で勝手に死ぬな」

「難しい注文だ」

 遼介は笑った。

 次の瞬間、頭を銃口から外し、ミュドルの手首を掴んだ。

 NEMOが知る軍人の動きと、遼介が身につけた盗賊の動きが一つになる。

 銃を捻る。肘を折る。発砲。弾丸が鎖を切る。

 天井から巨大な貨幣鋳型が落下し、ミュドルと遼介の間へ突き刺さった。

「走れ、リヴィア!」

 彼女は拘束していた警備員の足を踏み、頭突きを入れた。ヴァロが工房の奥へ逃げる。

 遼介は追った。

 顔板の棚が次々と震え、金属の顔が床へ落ちる。それらは蜘蛛のように縁を曲げ、壁を這い始めた。

 皇帝が、目を覚まそうとしていた。

六 誰が誰を作った

 工房の最奥には、円形の神殿があった。

 中央に黒い隕鉄が浮いている。

 人間の心臓ほどの大きさ。表面から白い菌糸が伸び、天井、床、壁、都市全体へ繋がっている。その周囲を、無数の金貨が環のように回転していた。

 金貨には同じ顔がない。

 若者、老人、男、女、子供。人類のあらゆる顔が一瞬ずつ現れ、溶け、次へ変わる。

 隕鉄の下には玉座があった。

 ヴァロがそこへ座る。

「これが〈ペルソナ・プリマ〉。最初の人格鋳造機」

 彼女は腕を広げた。

「ローマは未完成だった。道路を敷き、法律を統一し、貨幣に皇帝の顔を刻んだ。けれど市民の内側までは統一できなかった。だから反乱が起き、宗教が割れ、帝国は崩れた」

「人間が人間だったからだ」とリヴィア。

「人間は自分であることに耐えられない」

 ヴァロは優しく言った。

「毎朝、鏡の前で別人になりたいと願う。もっと強く、もっと美しく、もっと愛され、もっと正しい誰かに。私たちの製品は、その願いを叶える」

「十二種類の勇気、八種類の反抗、季節限定の個性」と遼介。「値段はいくらだ」

「無料です」

 ヴァロの微笑みが深くなる。

「支払いは、選択権だけ」

 ミュドルが神殿へ入ってきた。

 折れた腕をぶら下げている。その頬には、銀色の円盤が半分埋まっていた。背後には、地下都市の市民たちが整列している。

 彼らは一つの声で言った。

「顔を捧げよ」

 ヴァロは遼介へ手を差し出した。

「右手を中枢へ」

「断る」

「あなたが拒めば、あの人たちがリヴィアを一枚ずつ鋳型にします」

 市民たちが彼女を取り囲む。

 リヴィアは遼介を見た。

「やめて。私のために――」

「おまえのためじゃない」

 遼介は隕鉄へ歩いた。

「俺は財宝を見つけたら、価値を確かめる主義だ」

 右手を黒い石へ触れる。

 世界が裏返った。

 遼介は広場に立っていた。

 空は赤い。百万人の市民が彼を見上げている。全員が同じ顔――遼介の顔をしていた。

 玉座に男がいる。

 紫の衣。月桂冠。顔がない。

「私はヌルス」

 男の声は、老人でも少年でもあった。

「私は最初に名を捨て、すべての名を得た」

「死んだ皇帝か」

「皇帝は死なぬ。顔を変えるだけだ」

 群衆の遼介たちが口を開く。

「帝国とは命令ではない。命令を望む心だ。責任を預け、欲望を与えられ、顔を選んでもらう安堵だ」

 顔のない皇帝が立つ。

「おまえはすでに私だ。二つの人格を一つの身体に置いたとき、私の技法を完成させた」

 遼介の隣にNEMOが現れた。

 同じ顔。違う目。

「聞くな」とNEMO。

「おまえはこいつの一部か」

「そうかもしれない」

「俺が作ったんじゃないのか」

「おまえが作った。だが道具はこいつのものだ」

 ヌルスが両手を広げる。

「違いはない。父が子を作り、子が父を発明する。顔は鋳型を作り、鋳型は顔を作る」

 群衆が一歩近づいた。

「私を受け入れよ。痛みは終わる。迷いも終わる。おまえは一人で選ばなくてよい」

 遼介はNEMOを見た。

「どうする」

「俺に訊くな」

「おまえは俺だろ」

「だから訊くな」

 遼介は笑った。

 それが答えだった。

 他人に選ばせないために、彼はNEMOを作った。なら最後の選択まで、NEMOに預けてはいけない。

 遼介は顔のない皇帝へ歩み寄った。

「帝国の弱点を教えてやる」

「何だ」

「皇帝が一人しかいないことだ」

 彼は月桂冠を奪い、自分の頭へ載せた。

 群衆が止まる。

 空が裂けた。

 現実の神殿で、回転する金貨のすべてに遼介の顔が浮かんだ。

 ヴァロが立ち上がる。

「何をしたの?」

「即位した」

 遼介の声に、地下都市全体が震えた。

 白い菌糸が彼の身体へ集まり、骨の中まで冷たい光が満ちる。何万もの記憶が押し寄せた。剣闘士の恐怖。奴隷の怒り。母親の子守歌。処刑人の手。皇帝の孤独。

 すべてが「私」と名乗る。

 遼介は歯を食いしばり、玉座の脇にある巨大な造幣槌を掴んだ。

 その先端には皇帝の肖像が刻まれている。

「ローマ法には、奴隷を自由にする儀式がある」とリヴィアが叫んだ。「主人の前で杖を触れ、自由人だと宣言する!」

「じゃあ主人は俺だ」

 遼介は槌の肖像面を床へ叩きつけた。

 一度。

 皇帝の鼻が潰れる。

 二度。

 目が消える。

 三度。

 顔が完全に平らになる。

 無貌の鋳型。

 遼介はそれを隕鉄へ向けた。

「全市民に告ぐ」

 彼の声が、ローマの下のローマへ響く。

「今日から、誰の顔も借りるな。誰の顔も売るな。名前のない者は自分で名を選べ。名を持つ者は、捨ててもいい」

 ヴァロが叫んだ。

「そんな命令は矛盾している! 自由を命じるなんて!」

「だから最後の命令だ」

 遼介は槌を振り下ろした。

「皇帝を必要とするな」

 無貌の鋳型が隕鉄を打った。

七 最後の凱旋

 音はしなかった。

 代わりに、地下都市のすべての貨幣が同時に割れた。

 市民たちの口から硬貨が落ちる。

 ミュドルの頬に埋まった円盤が砕け、彼は膝をついた。金属の殻の下から、自分自身の目が一瞬だけ戻る。

「私は……」

 彼は何かを思い出そうとした。

 だがヴァロが玉座から飛び、隕鉄へ両腕を巻きつけた。

「止めさせない」

 白い菌糸が彼女の皮膚へ潜る。

 銀色の髪が金属線へ変わり、頬に黄金の光が走った。回転していた金貨が彼女の身体へ貼りつき、鱗のような鎧を作る。

「人は自由なんて望んでいない!」

 ヴァロの声に、何千もの広告音声、恋人の囁き、教師の叱責、母親の慰めが重なった。

「人は選ばれたい! 正しい服を、正しい愛を、正しい敵を、正しい悲しみを! 私が与える!」

 彼女の顔が変わり続ける。

 少女。老女。兵士。聖人。遼介。凌月。

 最後に、見る者が最も信じたい顔になる。

 遼介には、兄の顔に見えた。

「遼介」とそれが言う。「もう休め」

 遼介の手が止まる。

 リヴィアが無貌銀貨を投げた。

 銀貨は兄の顔へ当たり、鏡のように張りついた。そこに何も映らない。

「凌月は、そんな顔で命令しない!」

 ヴァロが悲鳴を上げた。

 遼介は造幣槌を横薙ぎに振る。黄金の鎧が砕け、ヴァロは回転する貨幣環へ投げ出された。

 彼女は金貨を掴み、なお這い上がろうとする。

「私は帝国を完成させる!」

「帝国はもう完成してる」と遼介。「おまえみたいな奴が、何度でも同じ台詞を言うところまでな」

 隕鉄に亀裂が走った。

 天井の菌糸が一斉に消え、地下の空が闇へ戻る。

 都市が崩れ始めた。

「出口!」とリヴィア。

 神殿の床が割れ、下から水柱が噴き上がる。浴場で開いた貯水槽が、ひび割れを通って流れ込んだのだ。

 遼介は玉座の背後に、凱旋式を描いた浮彫を見つけた。

 皇帝の戦車が都市の西門を抜け、その先に水道橋が続いている。

「凱旋路が排水路だ!」

 二人は神殿を飛び出した。

 背後でヴァロの笑い声が響く。

 振り返ると、彼女は割れた隕鉄を抱き、金貨の渦の中心に立っていた。顔はもうない。滑らかな黄金の面だけが、暗闇に浮かんでいる。

 次の瞬間、造幣機の巨大な圧搾板が落ちた。

 轟音。

 ヴァロも、隕鉄も、玉座も、一枚の巨大な金属塊の下へ消えた。

 遼介とリヴィアは大通りを走る。

 市民たちは倒れ、石灰の殻へ戻っていた。ある者は恋人を抱き、ある者は空へ手を伸ばし、ある者は自分の顔を確かめるように頬へ触れている。

 崩れる列柱の向こうから、ミュドルが現れた。

 片腕を引きずり、銃を持っている。

「止まれ」

 彼の声はもう一人分だった。

「代表を回収する」

「もう代表はいない」

「命令は残っている」

 銃口がリヴィアへ向く。

 遼介は床から円形の青銅盾を拾い、投げた。

 盾は柱へ当たって跳ね、ミュドルの銃を弾く。リヴィアが横から体当たりする。三人は崩れた凱旋門の下でもつれた。

 ミュドルの力は異常だった。

 遼介の喉を掴み、持ち上げる。

「私は命令だ」

 ミュドルが言う。

「違う」

 遼介は彼の頬に残った貨幣片へ指をかけた。

「おまえは命令に隠れている人間だ」

 破片を引き抜く。

 ミュドルの顔が苦痛に歪んだ。

 その目に、灰色の光が戻る。

「……カッシアン」

 彼は自分の名を初めて口にした。

 天井から石塊が落ちた。

 ミュドルは遼介を突き飛ばし、代わりに下敷きになった。

 瓦礫の隙間から、血に濡れた手が伸びる。

「行け」

 遼介はその手を一度握り、離した。

 二人は西門へ走った。

 門の先に、急勾配の水道橋が伸びている。水が濁流となって流れ始めていた。

 橋の上には、儀式用の青銅戦車が残されている。

「まさか」とリヴィア。

「凱旋式だ」

 二人は戦車へ飛び乗った。

 遼介が車輪止めを蹴る。

 青銅戦車は水に押され、暗い水道橋を滑り始めた。

 速度が上がる。

 左右の壁が崩れ、石片が雨のように降る。前方の水路は途中で途切れ、その先に鉱山の縦坑が口を開けている。

「道がない!」

「ローマ人は道を作る!」

 遼介は革袋から炭素繊維の索を取り出し、戦車の鷲飾りへ結ぶ。反対側を頭上の保守梁へ撃ち込む。

 水路の端。

 戦車が宙へ飛ぶ。

 二人の身体が投げ出され、索が張る。青銅戦車だけが縦坑の闇へ落ちていった。

 遼介とリヴィアは振り子のように弧を描き、対岸の保守通路へ叩きつけられた。

 背後から水と崩壊が迫る。

 二人は這い、走り、錆びた梯子を登った。

 最後のハッチを押し上げる。

 朝の光が差し込んだ。

 遼介たちは雪の斜面へ転がり出た。

 直後、ヴルトゥル峰が低く唸った。

 山腹の古い坑道から黒い水が噴き、ローマの石材、金貨、顔板、折れた軍旗を吐き出す。だが無貌銀貨だけは出てこなかった。

 それは地下で、最後の皇帝とともに砕けた。

終 無銘の朝

 三日後、世界中のオルビス端末が十七分間停止した。

 利用者の顔写真はすべて白い円へ置き換わり、推薦欄には商品ではなく、一つの質問だけが表示された。

 ――あなたは、誰ですか。

 障害はすぐに復旧した。

 会社はサイバー攻撃だと発表し、イザベル・ヴァロは山岳事故で行方不明になった。株価は落ち、翌週には戻った。人々は白い円を面白がり、模倣し、流行として消費した。

 帝国は一度の爆発では終わらない。

 形を変え、名前を変え、また誰かの顔を借りる。

 遼介はローマへ戻った。

 テルミニ駅の同じ食堂で、リヴィアが新聞を読んでいる。

「あなたの口座、全部消えてる」と彼女。

「NEMOが処分した」

「家も?」

「借り物だった」

「身分証は?」

「三枚あったが、全部偽名だ」

 リヴィアは呆れたように眼鏡を外した。

「自由になった感想は?」

「不便だ」

「でしょうね」

 遼介はエスプレッソを飲んだ。

 耳の奥は静かだった。

 地下都市を出てから、NEMOの声は一度も聞こえない。人格を分けていた金属繊維は、隕鉄が砕けたときに沈黙したらしい。

 寂しいとは思わなかった。

 ただ、右側にいつもあった壁がなくなり、世界が少し広すぎる。

 リヴィアが小さな封筒を出した。

「凌月の暗号庫に、最後の映像があった」

 端末に兄の顔が映る。

 坑道崩落の数時間前。凌月は煤だらけで、笑っていた。

『遼介。これを見る頃、おまえは俺を救えなかったと思ってるかもしれない。逆だ。おまえが生きることで、俺は助かる』

 映像の兄はカメラの外を見た。

『顔を持つってのは、同じ顔でい続けることじゃない。昨日の自分を裏切っても、明日の自分を選び直せることだ』

 映像はそこで終わった。

 遼介はしばらく画面を見た。

 やがて食堂の紙ナプキンを一枚取り、ペンを借りた。

 そこへ、ゆっくり名前を書く。

 空木遼介。

 盗みの現場で一度も使わなかった名。

 兄が呼んだ名。

 誰にも買われていない名。

「これからどうする?」とリヴィア。

 遼介は窓の外を見た。

 朝のローマを、通勤者と観光客と物売りが行き交っている。皇帝たちの像は広場に立ち、貨幣の顔は無数の手を渡り、巨大な広告塔では新しい生き方が発売されていた。

 それでも、人々の顔は一つとして同じではない。

「盗まれたものを取り返す」

「誰から?」

「顔を値札にする連中から」

 リヴィアは笑った。

「それ、仕事にすると儲からないわよ」

「財宝は金とは限らない」

 遼介は紙ナプキンを折り、ポケットへ入れた。

 立ち上がったとき、耳の奥で声がした気がした。

 ――十三秒遅い。

 彼は足を止める。

 だが、それがNEMOなのか、自分自身の記憶なのか、もう確かめる必要はなかった。

「行こう」と遼介。

 帝国のない朝は来ない。

 だから人は毎朝、自分の顔を選び直すのだ。