『無音城の第十三射』

 最初の巨人には、胸骨のかわりに鐘があった。

 環城アマガネの西外壁から二千歩。暮れ残る荒野に膝をついたそれは、城壁の三倍ほどの高さがあり、皮膚は濡れた和紙のように半透明だった。肋骨の内側で、黒い鐘がゆっくり揺れている。

 ごうん、と鳴るたび、城壁の石灰が白い粉になって落ちた。

 砲台が火を噴いた。鉄弾は巨人の肩をえぐったが、肉は泥のように盛り上がって傷を塞いだ。鐘だけが無傷のまま、次の一打を待っていた。

 枯野迅は、閉ざされた城門の前で長い銃箱を下ろした。

「止まれ。城内は戒厳下だ」

 狭間から衛兵が怒鳴った。迅は返事のかわりに、黒い封蝋の押された通行証を掲げた。城の評議会しか使えない、九つの輪の紋章である。

「名は」

「枯野」

「職は」

「依頼書にある」

 衛兵たちのざわめきが、石の向こうで一瞬止まった。

 枯野迅。

 戦場では〈遠雷〉と呼ばれる射手だった。合戦の最中、三里先の旗頭だけが倒れ、銃声はあとから届く。王の寝室に窓がなくても、彼に狙われた王は朝を迎えない。そんな噂が、本人より先に国境を越えていた。

「証明できるか」

 迅は城壁を見上げた。

「西の狭間、右から四つ目。半歩どけ」

「何を――」

 巨人の鐘が二度目の音を孕んだ。

 迅は箱を開いた。中に収まっていた長銃は、艶のない黒。銃床には一つの傷も、飾りもなかった。組み上げ、膝をつき、風を見た。荒野を渡る枯れ草の波。城壁を舐めて上がる粉塵。巨人の鐘は肋骨に隠れ、見えるのは揺れるたびに生じる指二本ぶんの隙間だけだった。

 迅が引き金を絞った。

 銃声は乾いていた。

 二千歩先で、鐘の内側に吊られた舌が跳ねた。根元の金具だけが砕け、重い舌は巨人の腹へ落ちていった。

 巨人は口を開いた。

 声は出なかった。

 やがて、糸を切られた人形のように前へ倒れた。地面が揺れ、城壁の上から悲鳴が降った。

 迅は空薬莢を拾い、懐へ入れた。

「門を開けろ。依頼の時刻が近い」

 厚い鉄門が、ためらうように軋み始めた。

 彼の懐には、一枚の依頼書があった。

 ――深夜零時より数えて第十三鐘。

 ――天蓋塔の最上層に立つ鐘守、九曜ユイナ。

 ――その左胸を、一発で射抜け。

 ――時刻の前後は認めない。二発目も認めない。

 ――報酬は全額、前払い。

 依頼人の名はなかった。

 迅にとって、名のない依頼人は珍しくない。

 珍しかったのは、殺せ、とはどこにも書かれていないことだった。

 アマガネは、三重の円環壁に守られた城塞都市だった。

 外から順に、灰環、鉄環、金環。壁と壁のあいだに町が詰め込まれ、屋根は隣家の屋根と重なり、路地は人ひとりが肩を横にして通るほど狭い。最も内側の金環には評議殿と天蓋塔があり、その地下深くに城の炉がある。

 町には十三の鐘楼があった。

 巨人――〈鳴骸〉が近づくと、一番外の鐘から順に警鐘が渡される。十三番目、天蓋塔の大鐘が鳴れば、全門を閉ざし、外に残った者を見捨てる決まりだった。

 迅が入城したとき、五番鐘までが鳴っていた。

「枯野迅だな」

 門の内側で待っていたのは、十七、八ほどの女だった。濃紺の短衣に革の胸当て。腰には反りの浅い片刃の刀を差している。刀身ではなく鞘に、びっしりと細い銀線が巻かれていた。

「断響衆、朱鷺玲霞。あんたを天蓋塔の射線が取れる場所まで案内する」

「護衛は頼んでいない」

「案内だ。迷路みたいな町で、勝手に屋根を踏み抜かれちゃ困る」

 玲霞は迅の銃箱を見た。

「鐘守を撃つって、本当か」

「依頼の内容は話さない」

「町じゅうが知ってる。評議会は、ユイナ様が鳴骸を呼んでいると言ってる。今夜、十三番鐘が鳴る前に処刑するって」

「なら、俺は要らない」

「公開処刑じゃ民衆が割れる。事故に見せたいんだろ」

 迅は答えず、歩き出した。

 玲霞は舌打ちし、先に立った。

 大通りには荷車が横倒しになり、家財を抱えた人々が内壁へ押し寄せていた。誰もが声を潜めている。泣く子の口を母親が手で塞ぎ、鍛冶屋は鎚に布を巻いていた。

「大きな音を立てるな」と玲霞が言った。「鳴骸は音を食う。響きの強い方へ集まる」

「鐘で警報を鳴らす町が?」

「皮肉は昔からだ」

 六番鐘が鳴った。

 遠くで何かが崩れる音がした。人波が一斉に速くなる。

 玲霞は大通りを避け、染物屋の裏口から細い通路へ入った。藍の匂いが残る暗がりで、迅が足を止めた。

「前に三人」

「見えるのか」

「聞こえる」

 ぺた、ぺた、と濡れた足音が近づいた。

 角から現れたのは、避難民に見えた。老女と、作業着の男と、片腕に赤子を抱いた若い母親。だが三人とも口を丸く開け、同じ言葉を同じ調子で繰り返していた。

「門を、開けて」

「門を、開けて」

「門を、開けて」

 老女の首が不自然に伸びた。耳の後ろから、透明な膜が鰓のように開く。六番鐘の余韻を吸い込み、腹が膨れた。

〈響き人〉だ。下がれ」

 玲霞が鞘ごと刀を抜いた。

 老女が叫ぶより早く、玲霞は鞘の銀線を指で弾いた。澄んだ一音。三人の首にある透明な膜が同時に震えた。

 その震えだけを追って、刀が走った。

 音を立てずに三つの膜が断たれた。

 老女と男はその場に崩れた。若い母親だけが、赤子を抱いたまま玲霞へ飛びかかった。赤子だと思われた包みの中で、鐘の舌に似た黒い肉がのたうっている。

 迅の短銃が一度鳴った。

 弾は壁の釘を飛ばし、跳ね返って母親のこめかみへ入った。銃口は最初から彼女へ向いていなかった。

 玲霞は目を見開いた。

「跳弾で?」

「正面から撃てば、包みの中身が破裂する」

 黒い肉は母親の腕から落ち、床で干からびた。

 迅は短銃の空薬莢も拾った。

「響き人は、鳴骸の音を浴びた人間だな」

「ああ。最初は同じ言葉を繰り返す。次に骨が空洞になる。最後は壁の外へ走っていって、あれになる」

 玲霞は倒れた母親の瞼を閉じた。

「だから鳴骸を斬るのは、化け物退治じゃない。手遅れになった人を、二度目に殺す仕事だ」

 迅は長銃を箱に戻した。

「道を急げ」

「何も思わないのか」

「何か思えば、戻るのか」

「……戻らない」

「なら、今は歩け」

 玲霞は迅を睨んだが、反論しなかった。

 七番鐘が鳴る直前、灰環が破られた。

 最初に見えたのは指だった。

 家並みの向こうから、塔ほどもある五本の指が灰環の縁にかかる。次いで、顔のない頭が持ち上がった。目も鼻もなく、口だけが縦に裂けている。その胸には大小七つの鐘が房のように埋まり、互いにぶつかりながら鳴っていた。

 七鐘持ち。

 鳴骸の中でも、城ひとつを滅ぼすといわれる個体だった。

 灰環の一角が内側へ倒れた。

 石と人と屋根が、白い波になって押し寄せる。

「伏せろ!」

 玲霞が迅を引いた。

 迅は引かれながら、軒下にぶら下がる防火水槽の鎖を撃った。巨大な木槽が落ち、砕けた水が路地を横切る。舞い上がった石灰塵が水に吸われ、二人の前だけに呼吸できる空間が残った。

 倒壊が収まると、町の半分が消えていた。

 七鐘持ちが腕を入れ、瓦礫の中の音を探るように指を這わせる。潰れた家の下から、子どもの泣き声がした。巨人の指がそちらへ曲がる。

 迅は長銃を組んだ。

「鐘の舌は七つだぞ」

「全部は撃たない」

 狙ったのは巨人ではなかった。

 崩れかけた鐘楼の根元、一本だけ残った支柱だった。

 弾丸が支柱を抜いた。

 鐘楼が傾き、巨人の手首へ倒れ込む。大鐘が鳴りながら肉へ食い込み、七鐘持ちは反射的に腕を引いた。巨体が自分の音を追って横を向く。

「今だ」

 迅は瓦礫へ走った。

 玲霞も続き、二人で梁を持ち上げた。下から煤だらけの少年が這い出す。胸に幼い妹を抱いていた。

「金環へ行け」と玲霞が言った。「振り返るな」

 少年は迅を見た。

「おじさんは、どこへ行くの」

「人を撃ちに」

「化け物じゃなくて?」

「人だ」

 少年は意味がわからない顔をした。玲霞が二人の背を押し、避難民の流れへ送り出した。

「助けるんだな」と彼女が言った。

「射線上の騒音を減らしただけだ」

「そういうことにしておく」

 八番鐘が鳴った。

 灰環の突破口から、小型の鳴骸が這い込んできた。人の二倍ほどの背丈。胸の鐘はまだ柔らかく、産声のような高音を撒き散らす。その音を浴びた避難民が次々と立ち止まり、同じ方向へ顔を向けた。

 天蓋塔。

「ユイナ様を探してる」と玲霞が呟いた。

「なぜわかる」

「響き人も鳴骸も、ずっとあの塔を見てる。あんたの標的は、本当にあいつらを呼んでるのかもしれない」

 迅は塔を見た。

 金環の中心に立つ黒い塔。その頂に、夜空を切り取ったような鐘楼がある。

「呼ぶ者と、呼ばれる者が敵とは限らない」

 玲霞が眉を寄せた。

「それ、どういう意味だ」

「まだ意味はない」

 迅は風向きを確かめた。

 外から吹き込む風に、鉄と雨の匂いが混じり始めていた。

 金環へ通じる跳ね橋は上げられていた。

 橋の向こうには武装した衛兵が並び、その背後で守府長の伴堂左京が雨具の襟を正していた。痩せた男で、髪には白いものが多い。アマガネの防衛と戸籍と処刑を一手に握る人物だった。

「枯野殿、ご足労だった」

 伴堂は声を張らずに言った。周囲の騒音の中でも、不思議によく通る声だった。

「予定が変わった。鐘守を今すぐ撃っていただきたい」

 迅は懐から依頼書を出した。

「時刻の前後は認めない、とある」

「状況が変わったのだ。灰環は落ちた。十三番鐘を待てば、金環まで破られる」

「条件を変えるなら、契約は無効だ」

「報酬を倍にする」

「金額の話ではない」

「三倍」

「聞こえなかったか」

 伴堂の目から、社交的な薄笑いが消えた。

「では、こちらにも考えがある。断響衆の娘。そいつを拘束しろ」

 橋上の衛兵が弓を構えた。

 玲霞が刀へ手をかける。

「私もか」

「鐘守への私怨を利用できると思ったが、役に立たなかったな。お前の第六班が灰環の外に取り残された夜、門を閉めたのは九曜ユイナだ。そう教えたはずだ」

「教えたのは、あんただ」

 玲霞の声が低くなった。

「記録を見せろ。ユイナ様の命令書を、一度も見せなかった」

「死人の記録に何の意味がある」

 九番鐘が鳴った。

 その振動で、橋の鎖が軋んだ。

 迅は橋ではなく、左右の建物を見ていた。屋根から屋根へ、細い銅管が渡されている。火災時に水圧を送る古い設備だった。

「玲霞。三つ数えたら、右へ跳べ」

「橋はないぞ」

「三つ」

 伴堂が手を上げた。

「一」

 弓弦が引かれる。

「二」

 迅の短銃が火を噴いた。

 弾は頭上の銅管を撃ち抜いた。高圧の水が噴き、衛兵たちの視界を白く塗り潰す。

「三」

 迅と玲霞は欄干から飛んだ。

 落下の途中、迅がもう一発撃つ。対岸の巻き上げ機から垂れた補助綱が切れ、跳ね橋が一気に落ちた。二人は傾斜した橋板へ叩きつけられ、そのまま金環側へ滑り込む。

 玲霞は転がりながら抜刀し、迫る衛兵の槍を二本まとめて斬った。刃ではなく、柄頭で二人を昏倒させる。

「殺さないのか」と迅。

「こいつらは、まだ人だ」

 二人は水煙を抜け、天蓋塔へ走った。

 背後で伴堂が叫んだ。

「鐘守を生かせば、城が死ぬぞ!」

 十番鐘が鳴った。

 天蓋塔の基部には、扉がなかった。

 かわりに人ひとりが通れる亀裂が開き、地下へ向かう螺旋階段が続いていた。石壁の中を、血管のような銅線が何百本も走っている。下へ行くほど、足元から低い唸りが上がってきた。

「最上階へ行くんじゃないのか」と玲霞。

「先に確かめる」

「何を」

「標的が本人かどうか」

 迅は契約を受けると、必ず標的の顔と生存を自分で確認した。肖像や噂だけでは撃たない。それが彼の数少ない規則だった。

 階段の底に、円形の部屋があった。

 壁一面に、十三人の肖像画が並んでいる。

 どれも若い男女で、時代も衣装も違う。だが全員、左胸から鎖骨にかけて同じ形の黒い傷があった。最後の一枚だけが未完成で、白い下絵の横に名が記されていた。

 九曜ユイナ。第十三代鐘守。

 部屋の中央に、その本人がいた。

 白い祭服。短く切った黒髪。年は二十を越えたばかりに見える。左胸の布は開かれ、皮膚には肖像と同じ、枝分かれした黒い縫合痕が走っていた。その中心で、何か硬いものが心拍に合わせて皮膚を押し上げている。

「遅かったですね、枯野迅」

 ユイナは笑わなかった。

 恐れてもいなかった。

「俺を知っているな」

「私が呼びましたから」

 玲霞が刀を抜いた。

「どういうことだ」

 ユイナは壁の肖像を見上げた。

「アマガネの地下には、千年前に落ちた巨大な器官があります。鐘に似ているから、私たちは〈母鐘〉と呼んでいる。城の炉も、壁を固める振動も、すべて母鐘の力で動いています」

 床の下で、どくん、と低い音がした。

 迅の靴底に微かな震えが伝わる。

「けれど母鐘は、十二年ごとに目覚める。その音を浴びた人は響き人になり、やがて鳴骸になる。評議会は目覚めを遅らせるため、選んだ人間の胸に〈鎮め楔〉を埋め込み、母鐘と繋いだ。それが鐘守です」

「じゃあ、壁の外の鳴骸は……」

「かつてこの町にいた人たちです。効き目を失った鐘守。炉で働かされ、響きを浴びすぎた者。秘密を知った者。皆、外へ捨てられた」

 玲霞の指が震えた。

「第六班も?」

 ユイナは目を伏せた。

「あの夜、門を閉じたのは伴堂です。班の中に母鐘の真実を知った人がいた。私は開門を命じた。でも命令書は握り潰され、私の印だけが偽造された」

「なぜ黙ってた」

「公にすれば、伴堂は炉の出力を上げたでしょう。町全体を一晩で響き人にできる」

 玲霞は刀を下ろせなかった。

 怒りを向ける先が消え、刃だけが空中に残った。

 迅はユイナの傷を見た。

「第十三鐘に何が起こる」

「鎮め楔が完全に母鐘と同調します。評議会の予定では、その瞬間より前に私を殺し、楔ごと切り取って次の鐘守へ移す。そうすれば町は、また十二年延命できる」

「予定では?」

「私の予定は違う」

 ユイナは胸の黒い傷へ指を置いた。

「同調した瞬間、楔は母鐘と同じ硬さになります。その一瞬だけ、外からの衝撃を母鐘の中心まで伝える道になる。楔を正しい角度で砕けば、母鐘の振動は反転する。鳴骸を生む音そのものが消える」

「刀では無理か」と玲霞。

「刃が届く前に、私の心臓が止まる。火薬もだめ。衝撃が広がりすぎる。細く、速く、まっすぐな一撃が要る」

 迅は依頼書を開いた。

 ――その左胸を、一発で射抜け。

「報酬は」

「歴代鐘守が隠してきた金を使いました。汚れた金です」

「依頼人の署名がない」

「書けば、あなたは受けなかったかもしれない」

「相手が自分を撃たせる依頼は受けない、と?」

「違いますか」

 迅は紙を畳んだ。

「依頼文に嘘はない」

「ええ」

「射線は」

「天蓋塔の西窓。第十三鐘の瞬間、私が立ちます。あなたの位置は西内壁の旧砲台。距離千八百四十二歩。射角、下から十一度。今の風なら可能なはずです」

 彼女はすべて計算していた。

「成功した場合、お前が生きる確率は」

「一割ほど」

「失敗した場合は」

「全員、死にます」

 迅はユイナの顔を見た。

 肖像と同一人物であること。呼吸があり、生きていること。左胸の楔の位置。すべてを確認した。

「標的を確認した」

 玲霞が振り向く。

「おい。話を聞いて、それでもそんな呼び方をするのか」

「呼び方で弾道は変わらない」

 十一番鐘が鳴った。

 伴堂左京は、天蓋塔の上から降りてきた。

 衛兵を連れてはいなかった。

 ひとりだった。

 だが胸元の衣服が裂け、その下で青銅色の骨が波打っていた。喉から腹まで、いくつもの小さな鐘が脊椎のように並んでいる。鳴骸の器官を自分へ移植したのだ。

「炉の力を最も長く浴びた者が、最も長く生きる」

 伴堂の声には二重の響きがあった。

「私は六十年前からこの城を守ってきた。鐘守を替え、不要な者を外へ出し、恐怖に秩序を与えた。真実で腹は満たせん。秘密で壁は守れる」

 玲霞が一歩前へ出た。

「第六班を外へ出したのも、あんたか」

「百二十七人で、十万人が静かに眠れた」

「名前を覚えてるか」

「数で十分だ」

 玲霞の刀が、初めて音を立てた。

 鞘の銀線が怒りに震え、甲高く鳴った。

 伴堂の胸の鐘が応じた。

 衝撃が部屋を走り、肖像画が一斉に裂けた。玲霞は壁へ叩きつけられる。迅は床に伏せながら長銃を組み、伴堂の胸の左右へ二発撃った。

 弾は青銅の骨を掠めて火花を散らし、その背後を走る銅線を二本切った。

「通常弾では私を抜けんよ、遠雷」

「お前を狙っていない」

 天井から束になった線が落ち、伴堂の身体へ絡みつく。母鐘と繋がった器官が、銅を通じて逆流する振動を受けた。伴堂が膝をつく。

「玲霞、三十息もたせろ」

「その後は?」

「俺が撃つ」

「誰をだ」

「契約どおりだ」

 玲霞は口の端の血を拭い、笑った。

「気に入らない答えだ」

 それでも立ち上がり、刀を抜いた。

 迅は地下室を出て螺旋階段を駆け上がった。

 地上へ戻ると雨が降り始めていた。金環の街路では、伴堂の命令を失った衛兵と避難民が入り乱れている。小型の鳴骸が屋根を踏み潰し、その足元を響き人が群れになって走っていた。

 十二番鐘まで、あとわずか。

 迅は西内壁へ向かった。

 正面の道は塞がれていた。彼は市場の屋根へ上り、干し肉の綱を渡り、崩れた水路を滑った。途中、響き人が十人、二十人と追ってきた。銃声を使えば、さらに鳴骸を呼ぶ。

 迅は一度だけ振り返った。

 市場の天井を支える要石を撃つ。

 石造りの屋根が落ちた。

 響き人の群れと迅の間に、厚い壁ができた。

 西内壁へ着いたとき、十二番鐘が鳴った。

 町中の窓が震えた。

 地面が持ち上がった。

 金環の中央で、天蓋塔の周囲に亀裂が走る。地下の母鐘が目覚め始めたのだ。灰環を破った七鐘持ちが両手で鉄環を引き裂き、無数の鳴骸がその隙間から流れ込む。

 そして荒野の向こうで、さらに大きな影が立ち上がった。

 肩が雲に届いていた。

 胸には鐘がない。かわりに胴そのものが空洞で、全身がひとつの巨大な鐘になっている。

 その巨体が一歩進むたび、アマガネの十三の鐘楼が勝手に鳴った。

 迅は旧砲台へ入り、射台に銃を据えた。

 距離、千八百四十二歩。

 高低差、三百一尺。

 雨、斜め右から。

 風は一息ごとに向きを変える。

 天蓋塔は母鐘の鼓動で左右に揺れ、最上層の西窓は、振り子のように弧を描いていた。

 通常なら撃たない条件だった。

 通常の依頼ではない。

 迅は銃箱の底から、一本だけ別に納められた弾薬を出した。

 鈍い銀色の弾頭。母鐘の殻を削って作られた〈空鉄弾〉。契約書とともに届いた、二発目のない弾だった。

 装填する。

 銃架の脇に、古い伝声管があった。

 天蓋塔から伸びる銅管で、かつて砲撃の合図に使われたものだ。管の中で雑音が鳴り、やがてユイナの声がした。

『聞こえますか』

「聞こえる」

『伴堂は?』

「玲霞が止めている」

『ひとりで?』

「三十息の約束だ」

『もう五十は経っています』

 迅は照準器を覗いた。

 遠い窓に、白い祭服が現れる。ユイナだった。風に髪が乱れ、左胸の黒い傷が雨に濡れている。

『枯野さん』

「なんだ」

『依頼を受けてくれて、ありがとう』

「礼は命中のあとで言え」

 伝声管の向こうで、彼女が小さく息を吐いた。

『怖くないと言えば、嘘になります』

「喋ると心拍が変わる」

『では、黙ります』

 迅は照準を左胸へ置いた。

 そのとき、天蓋塔の窓の背後に伴堂が現れた。

 半身が人ではなくなっていた。

 玲霞の刀が胸へ刺さったまま、青銅の骨が腕と顔を覆っている。その手には、気を失った玲霞の襟が握られていた。

 伴堂は彼女を窓際へ投げ捨てた。

『撃て!』と伝声管で別の声が轟く。『今すぐ鐘守を殺せ!』

「まだ十三番鐘ではない」

『町が滅びるぞ!』

「契約違反だ」

 伴堂がユイナの首を掴んだ。

 胸の小鐘が一斉に鳴り、塔の揺れが大きくなる。

 巨大な鳴骸が鉄環を跨いだ。

 その手が西内壁へ伸びる。迅の射台に影が落ちた。

 十三番鐘の撞木が、ひとりでに引かれていく。

 あと三呼吸。

 伴堂がユイナを窓から引き離そうとした。

 倒れていた玲霞が手を伸ばした。

 胸に刺さった刀の柄から銀線を一本引き抜き、伴堂の喉へ巻きつける。全身の力で後ろへ引いた。

 伴堂の動きが、一瞬止まった。

 ユイナは自分から半歩前へ出た。

 窓の中央。

 伴堂の胸と、一直線に重なる位置。

 あと二呼吸。

 西内壁へ巨人の指が触れた。

 石が盛り上がり、射台が右へ傾く。

 迅は照準を外さなかった。

 風。

 雨粒。

 塔の揺れ。

 ユイナの心拍。

 母鐘の鼓動。

 巨人の指が城壁を押す周期。

 十三番鐘の撞木が落ちる速度。

 すべてが別々の時間で動いていた。

 迅は、その時間が一点で重なる場所を待った。

 あと一呼吸。

『私を殺せば、城は十二年生き延びます』

 ユイナの声が伝声管から聞こえた。

『私を撃てば、城は初めて生きられる』

 十三番鐘が鳴った。

 同時に、迅は引き金を絞った。

 空鉄弾は、雨を裂いた。

 西内壁が崩れ始めるより速く、巨人の指の下を抜ける。

 逆風に押され、わずかに左へ流れる。

 母鐘の鼓動で天蓋塔が右へ振れる。

 窓の中で、ユイナの身体が伴堂に引かれて半寸沈む。

 それらすべてを越え、弾丸は彼女の左胸へ入った。

 皮膚の下の鎮め楔が砕けた。

 弾は心臓の縁を掠め、背中から抜ける。

 そのまま後方の伴堂へ飛び込み、胸に並ぶ小鐘の中心を貫いた。

 最初に消えたのは、音だった。

 雨音も、崩れる石も、人の叫びも、すべてが切り取られた。

 次に、光が走った。

 ユイナの胸から黒い枝のような線が広がり、天蓋塔の銅線を伝って地下へ潜る。母鐘の鼓動が一度だけ大きく膨らみ、反対向きに鳴った。

 聞こえない鐘の波が、アマガネを通り抜けた。

 響き人たちは走るのをやめた。

 耳の後ろの透明な膜が、朝露のように消えていく。

 小型の鳴骸は胸を押さえ、膝をついた。鐘が内側から砕け、長い年月を巻き戻すように肉が灰へ変わる。

 七鐘持ちの七つの鐘にも亀裂が走った。

 巨人は崩れた灰環へ手を伸ばし、誰かに帰ろうとするような仕草をした。次の瞬間、全身が白い砂になって風へ散った。

 城壁を掴んでいた巨大な鳴骸は、最後まで立っていた。

 雲に届く頭が、ゆっくり天蓋塔を向く。

 顔のないはずの場所に、一瞬だけ、人間の男の横顔が浮かんだ。

 それは泣いているようにも、笑っているようにも見えた。

 巨体に無数の亀裂が走る。

 朝焼けほどの光が内側から溢れ、荒野へ静かに崩れ落ちた。

 音が戻った。

 雨。

 瓦礫。

 咳。

 泣き声。

 そして、十三番鐘の余韻が途中で途切れる、かすかな金属音。

 伴堂は自分の胸を見下ろした。

 青銅の骨が粉になり、六十年ぶんの老いが一度に押し寄せる。皮膚が縮み、背が曲がり、最後には空の衣服だけが床へ落ちた。

 玲霞は這ってユイナを抱き止めた。

 左胸から血が溢れている。だが、心臓は動いていた。

「生きてる。おい、ユイナ様、生きてるぞ」

 ユイナは薄く目を開けた。

「……一割、でしたね」

「十割にしろ。鐘守だろ」

「もう、鐘守ではありません」

 西内壁の旧砲台は崩れた。

 迅は長銃を抱え、落下する石の上を二歩走った。壁の外へ投げ出される寸前、切れ残った旗綱を掴む。肩が外れそうな衝撃を受けながら、半壊した見張り台へ振り子のように飛び移った。

 足元で、彼の撃った空鉄弾の銃声がようやく町へ届いた。

 遠雷。

 その一発が、アマガネで最後に鳴った戦の音になった。

 三か月後、灰環の門は開かれたままになっていた。

 鳴骸のいなくなった荒野へ、調査隊と農夫と墓を探す者たちが出ていく。崩れた壁の石は家を建て直すために運ばれ、母鐘の止まった地下炉には封印が施された。

 評議会は解体された。

 地下室から見つかった記録には、外へ捨てられた者の名がすべて残っていた。数ではなく、ひとりずつの名で。

 朱鷺玲霞は断響衆を辞めなかった。

 ただし組織の名を〈帰音衆〉へ変え、荒野に散った遺品を家族へ返す仕事を始めた。腰の刀からは銀線を外した。もう、斬るべき響きはなかった。

 九曜ユイナは生き残った。

 左胸には銃弾の痕が残り、長く歩くと息が切れた。医師は、弾道が心臓を三厘ほど避けていたと言った。偶然と呼ぶには近すぎ、狙ったと呼ぶには不可能な距離だった。

 ある朝、ユイナのもとへ封筒が届いた。

 差出人の名はない。

 中には、あの依頼書と、一行だけの短い文が入っていた。

 ――契約は左胸を射抜くこと。心臓を止めることではない。

 玲霞はそれを読んで、呆れたように笑った。

「礼を言う暇もくれなかったくせに」

 ユイナは窓を開けた。

 町は騒がしかった。

 石工の槌。荷車の車輪。市場の呼び声。喧嘩する夫婦。泣く赤子。笑う子ども。

 かつてなら、誰もが恐れて押し殺した音だった。

 今は、その一つ一つが、生きている者の居場所を知らせていた。

 遠い街道を、ひとりの男が歩いていた。

 背には細長い銃箱。振り返らず、次の国境へ向かっている。

 アマガネでは正午を知らせるため、新しい小さな鐘が一度だけ鳴った。

 その音を恐れる者は、もう誰もいなかった。