『牙の神殿と嘘つきの花嫁』
※本作は完全なフィクションです。実在のチャビン文化と遺跡の造形・建築を着想源としていますが、人物、秘宝、地下施設、事件はすべて創作です。
一 値札
妻が消えたのは、私が彼女の発見に値札をつけた翌朝だった。
値段は四十万ドル。
安いと思うか、高いと思うかは、何に払った金かによる。
私は遺物そのものを売ったのではない。ペルー北部の山中で真帆が採取した拓本と、まだ報告書に載っていない地形データを、収集家ダミアン・エズミラスの財団へ見せただけだ。石に刻まれた、牙のある人面。髪は蛇、両手には上下を向いた杖。図像を逆さにすると、眉が嘴になり、杖が二本の川へ変わる。
財団は「学術調査への先行投資」と呼んだ。
真帆なら「墓泥棒の予約金」と呼んだだろう。
本人に確認する機会はなかった。
午前六時、ワラスのホテルで目を覚ますと、隣のベッドは冷たかった。浴室の洗面台には血が広がり、私の折り畳みナイフが沈んでいた。鏡には口紅で一行だけ書かれていた。
――あなたは、私より先に宝を探す。
警察が来るまで二十分。地方局のカメラが来るまで四十分。世界中の配信サイトへ真帆の動画が公開されるまで、きっかり一時間だった。
画面の中の妻は、黒い背景の前に座っていた。白いシャツ。結婚指輪。いつもの、相手が嘘をつく直前だけ見せる静かな顔。
『この映像が公開されたということは、私は自由に話せない状態にあります。夫の久我遼は、古代遺物の回収を仕事にしています。本人は回収と言いますが、持ち主の同意がない回収は、普通、盗難と呼ばれます』
続いて、私が過去に関わった発掘、沈没船、密輸品返還交渉の映像が流れた。合法だった仕事と違法だった仕事が、見事な編集で同じ色に塗られていた。
『遼は私を愛していると言います。ただし彼にとって、愛と所有はとてもよく似ています』
映像はそこで切れた。
取調室で、バルデス警部は私を二時間眺めた。
「奥さんを殺したか」
「まだ死んだ証拠がない」
「そういう答えをする夫は珍しい」
「そういう質問をする警官は珍しくない」
警部は机の上に透明袋を置いた。真帆の結婚指輪が入っていた。ホテル裏の排水溝で見つかったという。
「血液は奥さんのものだ。量から見て、重傷の可能性がある」
「遺体は」
「ない」
「目撃者は」
「ない」
「なら、彼女は生きている」
「なぜ言い切れる」
私は袋の中の指輪を見た。内側にあるはずの傷がなかった。三年前、エーゲ海の沈没船で梯子にぶつけた傷だ。真帆は指輪を作り直さなかった。傷は夫婦の履歴書だと言っていた。
「偽物だからだ」
私がそう答えたとき、扉が開いた。
入ってきたのはエズミラス財団の弁護士だった。
頼んでいない保釈人ほど、高くつくものはない。
証拠不十分でホテルへ戻ると、室内金庫の中に黒い石のペンダントが置かれていた。警察は見落としたのではない。私が連行されたあと、誰かが入れたのだ。
表には牙のある顔。裏には細い溝。鎖の代わりに、赤い糸が結ばれている。
添えられた紙には、真帆の字でこうあった。
天地を返せ。
私の嘘は二つ。
あなたの嘘は一つ。
三つ目の嘘の下で会いましょう。
私はペンダントを逆さにした。
牙は階段になった。
蛇は二本の水路になった。
顔の輪郭は、雪山に挟まれた谷の形になった。
妻は私を告発し、警察に疑わせ、エズミラスに保釈させた。
そして地図を残した。
真帆は正しかった。
私は彼女を探しに行くことにした。
その地図を持って。
二 逆さの顔
アナ・ルセロは、チャビンを「宝」と呼ぶ人間に必ず二秒の沈黙を与える。
その二秒は祈りではない。軽蔑を研ぐ時間だ。
「遼。これは宝の地図ではない」
ワラス郊外の倉庫で、アナはペンダントをライトに透かした。彼女は考古学者で、真帆の共同研究者で、私の数少ない友人だった。最後の肩書については、この朝から過去形になりかけていた。
「人が隠したものへ行く地図なら、世間ではそう呼ぶ」
「世間ではあなたを妻殺しと呼び始めている」
「世間は仕事が早い」
アナは舌打ちし、机に衛星地図を広げた。
ペンダントの図柄は、チャビン・デ・ワンタルの既知の神殿配置とは一致しなかった。だが川の合流、段状の基壇、内部回廊を思わせる溝がある。真帆が半年前から調べていたのは、主遺跡の南東にある無名の支谷だった。かつてタングステン鉱山の試掘が行われ、地滑りで閉鎖された場所だ。
「彼女は古い地質調査図から、不自然な空洞を見つけた」
「教えてもらっていない」
「あなたが何でも売るから」
「今回はまだ売っていない」
アナが私を見た。
「今回は?」
言葉は、ときどき罠より正確に作動する。
倉庫の外でエンジン音がした。黒い四輪駆動車が二台。エズミラス財団の車両だった。弁護士が私を釈放させた理由が、ずいぶん早く到着した。
「彼らは地図を持っていない」と私は言った。
「だから、持っているあなたを自由にした」
「賢い金持ちは嫌いだ」
「あなたは金持ちでなくて幸運ね」
裏口から出て、アナの古いピックアップへ飛び乗った。倉庫街を抜けるころには、二台が後ろについた。
標高が上がるにつれ、道は舗装をやめ、山肌に刻んだ細い傷になった。左は岩壁、右は谷底。雨季の残り水が茶色い筋を引いている。
「次の橋を渡ったら止めろ」
「撃たれる」
「止めなければ追いつかれる」
橋といっても、コンクリート管の上へ土を盛っただけのものだった。私は荷台に移り、アナが減速した瞬間、予備の牽引ワイヤを欄干代わりの杭へ巻いた。もう一端は、荷台に積んであった錆びた発電機へ結ぶ。
「それ、大学の備品よ!」
「寄付者の名札がエズミラス財団だ」
「なら落として」
発電機を蹴り出す。谷へ落ちた重みでワイヤが張り、杭が抜け、盛り土の一部が崩れた。私たちの車が渡り切った直後、道の半分が茶色い濁流へ消えた。
一台目は止まった。二台目は止まりきれず、前車の尻へ突っ込んだ。
誰も谷へは落ちなかった。
私は人殺しではない。少なくとも、まだ公判で証明されてはいない。
支谷の入口で車を捨て、徒歩に変えた。雪をかぶった峰の下に、黒い雲が集まっていた。午後には雨になる。
真帆の地図が示す場所は、崩れた試掘坑のさらに上だった。岩壁に、四角い石が一列だけ露出している。自然の地層には見えない。
近づくと、石の端から人の顔が突き出していた。
丸い目。大きな鼻。噛み合わない牙。
壁へ差し込まれた石の首――釘頭だった。
全部で七つ。
入口から奥へ進むにつれ、人間の顔が獣へ変わっていく。最後の一つは、髪が蛇になり、口の両側から長い牙が出ていた。
ただし、四番目だけが抜かれていた。
私はペンダントを穴へ当てた。
大きさが合った。
「真帆は最初から、これを鍵として作ったのか」とアナが言った。
「作ったのは古代人だ。真帆は持ち出しただけだろう」
「そう思いたい?」
ペンダントを逆さにし、牙を下へ向けて押し込む。
壁の内部で、石が石を噛む音がした。
七つの首が、同時に少しだけ回った。
岩壁の継ぎ目から、冷たい息が吹き出した。
山が口を開けた。
三 山の肺
入口の向こうは、人ひとりが通れる幅の回廊だった。
天井には等間隔の穴があり、どこか遠くの風を吸っている。床の中央には浅い水路。壁には猫科の目、蛇の体、猛禽の爪が、一つの生き物として組み合わされていた。
アナがライトを近づけた。
「チャビンの工人は、見たものをそのまま彫ったんじゃない。見るという行為そのものを彫った。どこを顔と思うかで、別の存在になる」
「真帆が好きそうな話だ」
「彼女は、あなたの顔も見る角度で別人になると言っていた」
「どの角度がましだ」
「背中」
二十メートルほど進むと、壁龕に巻貝が置かれていた。大型の巻貝を加工した古代の吹奏具に見えたが、口の奥に小さな黒い点がある。
カメラだった。
私が近づくと、巻貝から真帆の声が流れた。
『一つ目の質問。あなたは、私を守るために地図を売った?』
間があった。録音は私の返事を待っているようだった。
「売ったとは限らない」
『今のは嘘』
アナが眉を上げる。
「よくできた仕掛けだ」
「あなたなら、最初にそう答えると知っていたのね」
「夫婦は長い」
「五年で長い?」
「嘘をつくには十分だ」
巻貝の下に矢印が彫られていた。右の通路を指している。
私は左へ進んだ。
「なぜ逆へ行くの」
「真帆は、私が指示に従わないと知っている」
「なら、逆へ行くと予測して右を示した可能性は?」
「結婚生活とは、その可能性を毎日考えることだ」
左の通路は十歩で行き止まりになった。
アナは何も言わなかった。
沈黙が二秒を超えた。
右の通路へ戻った直後、足元で石板が沈んだ。
低い唸りが地中から響いた。最初は風のようだった。すぐに獣の声へ変わった。水路の奥から、白い泡を噛んだ水が押し寄せてくる。
「走れ!」
回廊は下り坂だった。水は背後ではなく、前方からも来た。交差する排水路が一斉に開いたのだ。
アナが滑った。私は腕をつかんだが、腰まで水に浸かった。ライトが流され、闇が跳ねた。
壁から突き出た釘頭へ指をかける。牙が掌へ食い込んだ。アナを引き上げ、二人で壁の上部にある通気孔へ体を押し込んだ。
直後、回廊を水塊が通過した。
石造りの地下が吠えた。
低い振動が胸骨を揺らし、歯の根をかすかに震わせる。獣の声に聞こえるのは偶然ではない。水路、段差、空気孔のすべてが一つの楽器として作られていた。
アナが暗闇で息を整えた。
「儀礼参加者を、音と暗闇で変性状態へ導いたのかもしれない」
「学術用語は便利だな。怖がらせた、と言えば短い」
「怖れは、知識の入口になる」
「出口にもなる」
水が引くまで待ち、回廊へ降りた。
床には新しい靴跡があった。複数。エズミラスの人間が別の坑道から先回りしている。
少し進むと、男が一人、壁にもたれて座っていた。財団警備員の制服。銃は足元に落ちている。外傷はなかったが、両耳から細い血が流れていた。
「誰にやられた」と私は訊いた。
男は私を見上げた。焦点の合わない目で笑った。
「妻だ」
「お前の妻がここにいるのか」
「いない。だから声だけ来た」
男は壁を指さした。
黒い筋が石の継ぎ目を走っていた。濡れた黒曜石に似ている。だが表面は、ごくゆっくり収縮しているように見えた。
「石が、妻の声を借りた」
アナがコンパスを近づける。針が北を捨て、黒い筋へ向いた。
「建材じゃない」と彼女は囁いた。「母岩を貫いている。神殿より古い」
そのとき、通路の奥から真帆の声がした。
「遼」
録音ではない。
彼女が私を呼ぶときだけ、二音目がわずかに低くなる。
「こっちよ」
私は走った。
背後で警備員が、子供のように泣き始めた。
四 失踪者
回廊の先は、円形の沈んだ広間へ開いていた。
周囲を二重の石壇が囲み、中央には細長い柱が立っている。柱の表面には、笑っているのか威嚇しているのかわからない顔が彫られていた。上顎の牙は空へ、下顎の牙は地へ伸び、頭頂と足元の両方が天井を支えている。
柱の向こうから、真帆が姿を現した。
髪を後ろで束ね、灰色の登山服を着ていた。頬に泥。手には小型拳銃。失踪者としては、ずいぶん健康そうだった。
「六時間遅い」
妻は言った。
私は壇を降りた。
抱きしめる代わりに、頬を叩いた。
真帆の顔が横を向いた。
次の瞬間、彼女は私の腹へ拳を入れた。
結婚以来、もっとも正直な再会だった。
「ホテルの血は」と私は息を整えながら訊いた。
「私の。検査のたびに少しずつ保存した」
「指輪は」
「複製」
「動画は」
「あと二本、公開待ち」
「警察は私を殺人犯だと思っている」
「殺していないなら、堂々としていれば?」
「君がそれを言うのか」
真帆は拳銃を下ろした。
「あなたは地図を売った」
「調査費が必要だった」
「一つ目の嘘」
「エズミラスが掘削を始める前に――」
「もう始めていた。三か月前から。あなたが見せた拓本で、ここが本物だと確信した」
アナが壇を降り、真帆の胸元をつかんだ。
「私にも黙っていたの?」
「あなたには遺跡を守る義務がある。知れば通報した」
「当然よ」
「だから知らせなかった」
「私たちを餌にしたのね」
真帆は否定しなかった。
計画はよくできていた。
エズミラスは地下空洞を見つけていたが、正規の調査許可を取れず、鉱山跡から秘密の坑道を掘っていた。真帆はその証拠を集めた。しかし中心部へ入る鍵――黒いペンダント――と水路図の読み方が必要だった。
ペンダントを私へ渡し、自分は先に別の入口から侵入する。
私を失踪事件の容疑者にし、世界中の目を集める。
エズミラスには弁護士を使って私を自由にさせ、追跡させる。
私は地図を解き、エズミラスの掘削隊は閉ざされた区画を開ける。
誰かが彼女を殺せば、予約投稿が財団の違法取引記録を公開する。
「私が警察に捕まれば、地図はここまで来ない。エズミラスが捕まれば、坑道が開かない。だから二人とも、しばらく自由でいる必要があった」
「私は夫か、それとも運搬用のラマか」
「ラマは地図を売らない」
言い返せなかった。
真帆は私の胸元からペンダントを抜き取った。
「質問に答えて。あなたは私を探しに来たの。それとも、この先にあるものを?」
「君が死んだ証拠がなかった」
「それは鑑定。愛情じゃない」
「生きていると知っていたなら、急ぐ必要もない」
「二つ目の嘘」
彼女は笑わなかった。
広間の外から拍手が聞こえた。
「感動的だ」
ダミアン・エズミラスが、六人の武装警備員を連れて立っていた。
銀髪。濡れても皺一つ崩れない登山服。彼は美術館の寄付者名簿に載るときも、密輸業者の通信記録に出るときも、同じ穏やかな顔をしていた。
「久我夫妻は、互いを破滅させるためなら大陸を一つ掘り返す。じつに効率的な結婚だ」
警備員が私たちの武器を奪った。
エズミラスは中央の柱へ手を触れた。
「十六世紀の修道士が、先住民から聞いた話を書き残している。山の下には、告白した言葉を食べ、望んだ答えを返す石があった、と。私は迷信を買う趣味はない。だが磁場異常、低周波、未知の結晶構造には値段がつく」
「あなたは何でも市場へ連れていく」と真帆が言った。
「市場に出ないものは、存在しないのと同じだ」
「愛情も?」
「とくに愛情は」
エズミラスは私を見た。
「中心室まで案内してもらおう。水路を読めるのは君だ。奥さんの脚本では、そういう配役だった」
真帆が私を見た。
初めて、計画外の出来事に遭遇した顔をしていた。
私は少しだけ安心した。
完璧な妻ほど、信用できないものはない。
五 王の口
中央柱の背後には、三つの扉があった。
一つは人の顔。二つ目は牙のある猫。三つ目は翼を広げた猛禽。どの扉にも取っ手はなく、床の水路だけが柱の周囲を巡っている。
エズミラスが私の後頭部へ拳銃を当てた。
「選べ」
「選択肢を銃で増やす人間は嫌われる」
「金で減らす人間よりましだ」
壁の浮彫を観察した。
左右対称に見えるが、蛇の目だけが非対称だった。上を向く三匹と、下を向く四匹。柱の顔は、見る位置によって口が上下へ入れ替わる。
真帆の紙にあった言葉を思い出した。
天地を返せ。
「水が必要だ」
床の溝を塞いでいた石栓を外す。アナが手伝おうとすると、警備員に止められた。
細い水が広間へ入り、柱の周囲に浅い鏡を作った。
水面に映った浮彫は逆さになった。
人の眉は嘴へ変わり、猫の牙は階段へ、猛禽の翼は左右の水路へ変わった。三つの扉は別々の入口ではない。同じ構造を、三つの段階で表している。
「人、猫、鳥の順だ」とアナが言った。
「違う」
私は水面を指した。
「人は入口。猫は水。鳥は空気だ。開けるのは扉じゃない。山全体だ」
通気孔の一つへペンダントを差し込む。続いて人面扉の下にある水栓を回した。
遠くで水が落ちる音がした。
空気が吸われ、広間の圧力が変わる。
猛禽の扉が外へ開くのではなく、ゆっくり床へ沈み始めた。
その奥には、急な階段が下っていた。
エズミラスが満足そうに頷いた。
「四十万ドルは安かった」
「追加請求する」
「生きて戻れたら」
警備員二人が先に降りた。
その瞬間、巻貝の音がした。
低く、長い一音。
誰も吹いていない。広間のどこかで風が貝殻を鳴らしたのだ。
床下の水路が共鳴した。
音は一音のまま、何十もの声へ分かれた。男の声、女の声、老人、子供。聞き取れない言葉が重なり、その奥から、私自身の声がした。
『地図だけのつもりだった』
エズミラスが私を見た。
真帆も見た。
「言っていない」と私は言った。
黒い筋が、柱の表面で脈打った。
『入口だけ開けさせる。先に入れば、すべて取り返せる』
私がエズミラスへ地図を見せた夜、頭の中で考えた言葉だった。
口にはしていない。
警備員の一人が悲鳴を上げ、隣の男へ銃を向けた。
「黙れ! 母さんの声を使うな!」
銃声。
石壁が火花を散らした。
私は身を沈め、警備員の膝を払った。真帆が落ちた拳銃を蹴り、アナが拾う。エズミラスの手が私の襟をつかんだが、真帆が彼の手首へ噛みついた。
妻の牙は、石像より実用的だった。
アナが天井へ一発撃つ。
「全員、武器を捨てて!」
命令は通らなかった。
回廊から、それぞれが最も聞きたくない声が押し寄せていた。
私は床に転がった巻貝を拾い、思い切り吹いた。
腹に響く低音が出た。
水路がそれを拾い、増幅し、広間全体を揺らした。警備員たちが耳を押さえる。黒い筋が一斉に縮み、石の継ぎ目から冷気が噴き出した。
「階段へ!」
私たちは猛禽の扉の奥へ走った。
背後でエズミラスが叫んだ。
「閉じろ!」
命令されたのが人間だったのか、山だったのかはわからない。
扉は閉じなかった。
代わりに、もっと深いところで何かが目を覚ました。
六 客
階段は、神殿の地下ではなく、山の内部へ降りているようだった。
壁の石積みが途中で終わり、黒い岩盤が露出する。そこに細い結晶が無数に生えていた。枝分かれし、絡み合い、脈のように淡い緑の光を送っている。
空気は金属の味がした。
アナが携帯測定器を当てた。表示が乱れ、再起動した。
「鉄とニッケルが多い。でも隕鉄とも違う。有機物の反応まである」
「生きているのか」
「石と生命の境界を、私たちが勝手に決めているだけかもしれない」
「チャビン人が作ったもの?」と真帆。
アナは首を振った。
「彼らが作ったのは、この周囲の神殿。これはもっと古い。たぶん、彼らは発見して、閉じ込めて、扱う方法を考えた」
それは重要な違いだった。
山から来た客を神と呼ぶことと、神に文明を作ってもらうことは同じではない。
この迷宮を設計し、水と風を操り、石の顔に複数の意味を埋め込んだのは人間だ。
最下部に、巨大な縦穴があった。
中央を黒い柱が貫き、その周囲へ石造りの回廊が螺旋状に巻きついている。柱は彫刻ではない。結晶が長い時間をかけ、人間の立像に似た形へ育ったものだった。
頭に見える部分は三つに裂け、蛇、牙、嘴の影を作る。
胸の位置に、拳ほどの透明な黒い塊が埋まっていた。
それが鼓動するたび、私たちの声が一拍遅れて返ってきた。
「遼」
真帆が呼ぶ。
『遼』
黒い柱が答える。
次は、私の記憶の声だった。
『ねえ、結婚する?』
五年前、カリブ海の調査船で真帆が言った言葉。
だが続きが違う。
『あなたが私より宝を選ぶところを、いちばん近くで見たいから』
真帆の顔から色が消えた。
「私はそんなこと言っていない」
「知っている」
「あなたが考えたの?」
「考えたこともない」
黒い柱は、記憶を再生しているのではない。
記憶に入り込み、もっとも痛い形へ編集している。
真帆は柱へ近づいた。
「これが、三つ目の嘘」と彼女は言った。
「何が」
「私は、エズミラスを暴くためだけにここへ来たと言った」
彼女は胸の黒い塊を見つめた。
「古い記録には、ここで神託を受けた者は、自分でも知らない真実を聞いたとある。私は確かめたかった。あなたが一度でも、私を発見物としてではなく、人間として愛したのか」
「そのために失踪を?」
「そのためだけじゃない」
「便利な言い方だ」
「あなたに習った」
柱が、真帆の声で囁いた。
『愛していないと言われたほうが、楽だった』
真帆が振り返る。
その言葉は、彼女が口にしていないものだったらしい。
私はようやく理解した。
この場所は真実を告げる神託所ではない。
人間が真実と信じたがっている物語を、本人の声で返す装置だ。
チャビンの彫刻が一つの顔に牙と嘴と蛇を重ねたのは、装飾ではない。
見る者へ、警告していたのだ。
顔は一つではない。
声も一つではない。
答えは、望んだ形に化ける。
「真帆。これに訊いても意味はない」
「あなたに訊いても、同じでしょう」
足音がした。
エズミラスが降りてきた。警備員は二人に減っていた。額から血を流しているが、目は黒い塊へ釘づけだった。
「意味はある」と彼は言った。「真実である必要はない。人が真実と信じる答えを作れるなら、それは宗教、広告、政治、裁判のすべてに使える」
真帆が拳銃を向けた。
引き金を引くより、エズミラスの部下が撃つほうが早かった。
弾丸が石床を砕き、真帆が身を伏せる。
私はエズミラスへ飛びついた。
もみ合いながら、彼は黒い柱の胸へ手を伸ばした。
「これは人類最古の録音機ではない」と私は言った。
「だから価値がある」
「封印されていた理由を考えろ」
「価値あるものは、いつも誰かに封印されている」
エズミラスは透明な黒い塊をつかんだ。
柱が初めて、他人の声ではない音を発した。
石が空腹を思い出す音だった。
七 宝か妻か
黒い塊が柱から抜けた。
縦穴のすべての結晶が、同時に光った。
壁の黒い筋が縄のように浮き上がり、エズミラスの腕へ絡みつく。彼は悲鳴を上げたが、塊を放さなかった。
水路の奥で何かが破裂した。
冷たい水が螺旋回廊へ噴き出す。
神殿は客を閉じ込める檻であると同時に、檻が破られたとき自分ごと沈める仕掛けだった。
「上へ!」アナが叫んだ。
警備員の一人が出口へ走る。結晶から妻の声が聞こえたのか、途中で振り返った。足を踏み外し、暗い縦穴へ消えた。
もう一人は銃を捨て、耳を塞いで動かない。
エズミラスは黒い塊を抱え、階段へ向かった。
その背後で、黒い柱が裂ける。
人の形を保っていた結晶が、無数の細い枝へ戻り、獲物を探す植物のように伸びた。
私は真帆の手をつかんだ。
アナが先に走る。
天井から石材が落ちた。
真帆を突き飛ばした直後、長い梁石が二人の間へ落ちた。彼女の右脚が下敷きになった。
「遼!」
水が膝まで上がっていた。
私は石を持ち上げようとした。動かない。
真帆が歯を食いしばる。
足元へ、黒い塊が転がってきた。
エズミラスが落としたものだった。
透明な内部で、緑の光が渦を巻いている。
階段は数メートル先。
黒い塊を拾えば、逃げられる。
真帆を助けようとすれば、塊は水路へ流れる。天井も長くはもたない。
妻はそれを見た。
「取って」
「黙れ」
「それを選べば、少なくともあなたは最後に嘘をつかずに済む」
柱の残骸が私の声を返した。
『宝を選べ』
真帆の声も重なる。
『私を選んで』
どちらも本人の言葉ではない。
どちらも、私が恐れていた言葉だった。
私は黒い塊を拾った。
真帆が目を閉じた。
その塊を、梁石の下へ差し込んだ。
硬い結晶が石材を数センチ持ち上げた。私はそこへエズミラスの金属製測定ケースを押し込み、梃子にした。
「脚を抜け!」
真帆が這い出す。
ケースが潰れ、黒い塊に亀裂が走った。
無数の声が一斉に叫んだ。
私は最後に蹴り込んだ。
梁石が傾き、真帆の脚が自由になる。
黒い塊は二つに割れた。
一つは梁の下で粉砕され、もう一つは水にさらわれた。緑の光が水路を走り、縦穴の底へ落ちていく。
「試験なら落第だ」と私は真帆を担ぎ上げた。「設問を壊した」
「昔から、試験問題を盗む人だった」
真帆が私の首へ腕を回した。
その力は弱かったが、本物だった。
アナが上段から叫ぶ。
「排水路が閉じる! 早く!」
螺旋階段を上がった。
背後から黒い枝が追ってくる。石床へ触れるたび、私たちの声を吐いた。
『置いていけ』
『愛している』
『最初から全部知っていた』
『助けたことを後悔する』
どれが嘘かを考える時間はなかった。
上の広間へ戻ると、水位は胸まで来ていた。猛禽の扉が上がり始めている。閉じれば挟まれる。
アナが壁の水栓を蹴った。
「主排水路へ飛び込む!」
「出口は?」
「たぶん外!」
「考古学者の『たぶん』は信用できない」
「トレジャーハンターの確信よりまし!」
エズミラスが広間の端にいた。
右腕へ黒い結晶の破片が食い込み、皮膚の下で緑に光っている。
「待て」と彼は言った。
声が二重に聞こえた。
本人の声と、石が真似る声。
「助けてくれ。金なら――」
真帆が私の肩越しに答えた。
「市場に出ないものは、存在しないのと同じでしょう」
エズミラスの背後で、亡くなった誰かの声が彼を呼んだらしい。
彼は振り返った。
黒い枝が水面から立ち上がり、その腕を取った。
私たちは主排水路へ飛び込んだ。
狭い石の管を、激流が押し流す。肩と背中を何度も打った。途中で真帆を見失いかけ、手首をつかむ。アナの靴底が私の顎へ当たった。
闇の先に白い光が見えた。
次の瞬間、三人まとめて山腹から吐き出された。
泥と水と小石の奔流に乗り、斜面を転がる。背後で岩壁が沈み、入口の釘頭が一つずつ崩れ落ちた。
最後の牙の顔だけが、土砂に埋まる寸前まで笑っていた。
八 帰還者
夜が明けた。
雨雲の切れ間から光が差し、雪山の頂だけを白く燃やしていた。
真帆の脚は折れていなかった。ひどい打撲と裂傷。アナは肋骨を一本痛め、私は左肩が上がらなくなった。
それでも全員、生きていた。
山腹の下で救助隊のサイレンが聞こえた。
「誰が呼んだ」と私は訊いた。
真帆が泥だらけの端末を見せた。圏外表示が消え、予約送信の印が点灯している。
「三本目の動画が公開された」
「私を無罪にするやつか」
「正確には、エズミラスが違法掘削と密輸を行い、私を拘束した証拠をまとめたもの。あなたが善良だとは一言も言っていない」
「夫への配慮が足りない」
「犯罪被害者への配慮はした」
動画には、彼女が隠し撮りした財団坑道、搬出予定品の一覧、エズミラスの通信記録が含まれていた。地下広間での会話も、胸元のカメラが記録していた。
私が地図を売った事実まで、きれいに入っていた。
「そこは削れたはずだ」
「作品の誠実さを優先した」
「失踪を偽装した監督が?」
「手法と主題は別よ」
アナが地面へ座り込んだまま言った。
「遺跡の場所は伏せる。崩落で失われたことにする。中で見たものも」
「信じてもらえるか」と私。
「学会は、未知の宇宙生命より、予算不足による調査不能のほうを信じる」
救助隊の姿が近づいてくる。
真帆は私を見た。
「私が生きて戻ったから、殺人容疑は消える。でも地図売買、捜査妨害、不法侵入は残る」
「君の偽装失踪もな」
「だから私たちは、互いに役立つ証言を持っている」
それは愛の告白ではなかった。
しかし私たちの結婚生活で、もっとも具体的な将来設計だった。
「一つだけ答えろ」と私は言った。「あの動画で、私が君を所有物として扱うと言った。あれも筋書きか」
真帆はしばらく考えた。
「半分は演出」
「残りは」
「あなたが決めて」
「神託みたいな答えだ」
「結婚も、似たようなものよ」
救助隊が私たちを見つけた。
カメラも一緒だった。
真帆は一瞬で、誘拐から生還した研究者の顔になった。私の胸へ倒れ込み、涙を流した。演技かどうか、私にはわからなかった。
だから抱きしめた。
こちらも、演技かどうか決めないまま。
九 四つ目の嘘
三か月後、真帆の映像作品『山が妻の声で呼ぶ』は、世界二十七か国で配信された。
エズミラス財団は解散。複数の倉庫から未登録遺物が押収された。ダミアン・エズミラスの遺体は見つからなかった。
私は罰金と執行猶予を受け、国際的には「妻を救った疑惑の遺物ハンター」という、以前より少し高く売れる肩書を得た。
アナは報告書に、支谷の空洞は地滑りで完全に失われたと書いた。
嘘ではない。
完全でもない。
リマのアパートで、私たちは完成版を見た。
画面の中の私は、崩れる神殿から真帆を担いで現れる。実際には排水口から泥まみれで吐き出されたのだが、編集は人間を英雄にも怪物にもできる。
エンドクレジットが流れた。
「最後が甘すぎる」と私は言った。
「観客は、夫が妻を選ぶ話にお金を払う」
「実際には黒い石を梃子にした」
「細部ね」
真帆はグラスへワインを注いだ。
右手の指輪に、黒い小さな石が留められていた。
私はその指を取った。
「それは何だ」
「黒曜石。市場で買った」
「いくら」
「あなたの値札より安い」
石の内部で、緑の光が一度だけ瞬いた。
真帆は手を引かなかった。
「あなたこそ」と彼女は言った。「あのとき、どうして私を助けたの?」
「宝には代わりがある」
そう答えた。
キッチンの引き出しから、私自身の声がした。
『君が見ていたからだ』
真帆が動きを止めた。
私は引き出しを開けた。
中には、排水路で拾った爪ほどの黒い欠片があった。捨てたつもりはなかった。拾った記憶もなかった。
欠片は、まだ生まれていない口のように震えた。
『愛していたからだ』
今度は真帆の声だった。
妻は私を見た。
「どちらが本当?」
「好きなほうを選べ」
「四つ目の嘘ね」
「誰の?」
真帆は答えず、黒い指輪を私の欠片へ触れさせた。
二つの石が澄んだ音を立てた。
一拍遅れて、山の底から聞いた獣の唸りが、アパートの壁を静かに震わせた。
私たちは乾杯した。
石の中で、私たちより先に、誰かがグラスを合わせた。
――了――