猫眼のラビュリントス

――エーゲ海トレジャーハンター奇譚――

一 青銅の牡牛は落ちる

 青銅の牡牛の角から落ちたのは、俺が四十二歳になった晩だった。

 牡牛は紀元前十六世紀のもの――という触れ込みだったが、実際には三年前、ピレウスの工房で鋳造されたレプリカだ。だから俺は遠慮なく右の角を蹴った。角は根元から折れ、俺と一緒に六メートル下の祝宴会場へ落ちていった。

 下では、エーゲ海の海運王リサンドロス・ヴァルダが、招待客に向かって古代文明の尊さを説いていた。

「過去は、所有する者によって未来へ運ばれるのです」

 その瞬間、俺が牡牛の頭を抱いてシャンパンの噴水へ突っ込んだ。

 過去を未来へ運ぶにしては、ずいぶん派手な着地だった。

 噴水が砕け、金持ちたちの悲鳴とグラスの割れる音が重なった。弦楽四重奏は二小節だけ演奏を続け、それから職業倫理を捨てて逃げた。

『レオ、生きてる?』

 耳の奥でアネモネの声がした。

「まだ税金を払ってない。死ねない」

『左。警備員が二人』

 俺は濡れたテーブルクロスを引いた。キャビア、ローストした鶉、寄付額を競い合うための銀札が一斉に宙を飛び、黒服の警備員を包んだ。その隙に、胸ポケットへ滑り込ませた粘土板の破片を確かめる。

 目的物は手に入れた。

 掌ほどの灰色の破片。表面には、短い直線と弧、魚、枝、角のような記号が刻まれている。未解読の線文字A。ヴァルダが二年前、クレタ島南岸の違法発掘で手に入れ、存在そのものを隠してきた品だ。

『東の回廊へ。搬入口に車を回してある』

「誕生日ケーキは?」

『逃げ切ったら買う』

「ろうそく四十二本」

『火災報知器が鳴るわ』

 俺は会場を横切った。客たちは俺を強盗だと思っている。半分は正しい。残り半分を説明するには、考古学会の査問記録と、ギリシャ文化省の不正輸出事件と、俺が六年前に失った大学の職について話さねばならない。

 誰もそこまで聞きたがらない。

 東の回廊へ入ろうとしたとき、白い顔が道を塞いだ。

 男は道化師の衣装を着ていた。

 派手な縞模様でも、子ども向けの赤鼻でもない。灰色の燕尾服に、半分だけ笑った白い仮面。右の口角は吊り上がり、左は泣いている。ヴァルダの趣味の悪い祝宴で、客を驚かせる余興係らしい。

 道化師は俺を見て、喉の奥で小さく笑った。

「へ、へへ」

 楽しそうには聞こえなかった。錆びた蝶番が勝手に動いたような音だった。

「出口なら、そっちじゃない」

 仮面の男は言った。

「知ってる。あんたが立ってるからな」

「違う。そっちは展示庫だ」

「俺には出口に見える」

「泥棒には、すべての扉が出口に見えるのか」

「考古学者には、すべての穴が入口に見える」

 仮面の片目が細くなった。

 警備員の靴音が近づく。

 男は俺の胸ポケットへ視線を落とした。粘土板の輪郭が濡れたジャケットに浮いている。

「それを見つけたのか」

 声が変わった。余興係の軽さが消えていた。

「何のことだ」

「猫の眼だ」

 俺は答える代わりに男の脇を抜けようとした。

 その瞬間、回廊の防火扉が降りた。

 前後を鋼板で塞がれた。

 天井のスピーカーから拍手が流れた。録音された、温度のない拍手だった。

「見事だ、珀戸レオ博士」

 ヴァルダの声がした。

「六年ぶりにその肩書で呼ばれた」

「ならば誕生日の贈り物だと思いたまえ」

「贈り物には領収書をつけてくれ」

 壁の鏡が暗転し、ヴァルダの顔が映った。銀髪、褐色の肌、海の色をしたネクタイ。人間を値札で分類することに慣れた目をしていた。

「君が盗んだ破片は、地図の一部だ」

 俺は胸ポケットを押さえた。

「未解読文字が読めるのか」

「読める人間を、私は雇っている」

『嘘よ』

 耳の中でアネモネが囁いた。

『線文字Aを読める人間なんていない。統計的な推定ならともかく』

 ヴァルダは続けた。

「その破片が示す場所には、エーゲ文明最大の秘宝が眠っている。“アステリオンの猫眼”。王の宝冠でも、黄金でもない。空から来た神の目だ」

 仮面の男がまた笑った。

「へ、へへへ」

 今度は、震えていた。

「胡散臭さが増したな」と俺は言った。

「信じなくてもいい。だが君には選択肢がない。粘土板を返して私に雇われるか、文化財窃盗の現行犯として警察に引き渡されるか」

「第三の選択肢は?」

「壁を壊す?」

「魅力的だ」

 仮面の男が、袖口から細い銀色の棒を出した。手品用の杖かと思ったが、先端には小型の高電圧端子がついていた。彼はそれを防火扉の制御盤へ突き刺した。

 火花が散った。

 扉が二十センチほど上がった。

「第三の選択肢だ」と男は言った。

 俺たちは同時に床へ滑り込み、警備員の足の間を抜けた。

 背後でヴァルダが笑った。

 録音ではなかった。

「いいだろう、レオ! 島で待っている!」

 その声は、罠に獲物がかかったことを確信した狩人の声だった。

二 火山の島

 アステリ島は、サントリーニ島から南へ八十キロ、観光地図では虫眼鏡を使わないと見つからない大きさだった。

 黒い火山岩の断崖。その上に白い家々が積み木のように並び、青いドームの礼拝堂が海を見下ろしている。港には漁船と観光ヨットがひしめき、崖の中腹にはヴァルダの私設博物館が、古代宮殿を真似た赤い柱を晒していた。

 俺とアネモネが古い調査船《エウリュディケ》で入港すると、例の道化師が船尾の救命艇から顔を出した。

 仮面は外していた。

 三十代半ば。痩せた頬、黒い巻き毛、眠っていない目。口元には笑い皺ではなく、古い裂傷の痕があった。

「密航料金は高いぞ」と俺は言った。

「払えない」

「じゃあ海へ戻れ」

「泳げない」

「どうやって救命艇へ?」

「必死だった」

 男は喉を鳴らした。

「へ、へ」

 アネモネが船室から出てきた。短く切った黒髪に、日に焼けた腕。片手には粘土板、もう片手にはコーヒー。古代文字の前では三日眠らなくても平気だが、朝の挨拶には興味がない女だ。

「その笑い、病気?」と彼女は訊いた。

 男は少し驚いた。

「事故の後遺症だ。緊張すると横隔膜が痙攣する」

「おかしくて笑ってるわけじゃないのね」

「おかしくて笑ったのは、たぶん十二年前が最後だ」

「名前は?」

「テオ・マルケス。ヴァルダ博物館の夜間清掃員。祝宴では一晩五十ユーロで道化師」

「それで、猫の眼を知っている理由は?」

 テオは島の断崖を見た。

「父が見つけたからだ」

 彼の父ニコスは石工だった。十年前、ヴァルダが島の北側で行った秘密発掘に雇われ、地下空洞へ入った。三日後、空洞は崩落。作業員七人が死亡した。事故は小規模な地滑りとして処理され、遺体のうち三人は回収されなかった。

「父もその一人だ」

 テオは上着の内側から、錆びた青銅片を出した。猫の横顔を刻んだ小さな札だった。長い尾が渦を巻き、その先に八つの点がある。

「事故の前夜、父が持ち帰った。地下で見つけた壁画を写したものだ。『星を数える猫がいた』と言っていた」

 アネモネが青銅片を受け取った。

「八つの点……粘土板にも同じ配列がある」

 彼女は机へ破片を置き、斜光を当てた。

「これは文章じゃない。少なくとも全部は。供物目録と、方角と、数の組み合わせ。似た記号列が三回繰り返されている」

「地図か?」と俺。

「楽譜に近いかもしれない」

「古代のカラオケ機械を盗んだのか」

「あなたの比喩は文明を滅ぼすわね」

 港の上で鐘が鳴った。

 ヴァルダの博物館に、巨大な垂れ幕が下がっていた。

 今夜、財団設立二十周年記念祭。

 特別公開――失われたミノアの至宝。

「今夜までに猫眼を見つけろ、という契約だったな」と俺は言った。

 ヴァルダは俺たちを雇った。正確には、盗品返還の告発を見逃す代わりに、沈没遺構の探索を命じた。粘土板とテオの青銅札を照合すると、島の東にある海蝕洞の位置が浮かんだ。

 ヴァルダは宝を祝宴で披露したがっている。

 金持ちは、歴史そのものより、歴史を最初に自慢する権利を愛する。

「テオ」と俺は言った。「俺たちは潜る。あんたは港で待て」

「嫌だ」

「泳げないんだろ」

「潜水服なら沈める」

「沈むだけなら石で足りる」

 テオは俺を見た。

「父が死んだ場所へ行く」

 怒りより静かな声だった。静かすぎて、かえって動かせない。

 アネモネが肩をすくめた。

「予備の呼吸器が一つある」

「おい」

「置いていって、あとで勝手に追われるよりまし」

 俺は海を見た。

 エーゲ海は晴れていた。青く、穏やかで、何も隠していない顔をしている。

 海がそんな顔をするときは、たいてい嘘だ。

三 星を飼う部屋

 海蝕洞の入口は、水深二十七メートルの崖下にあった。

 俺、アネモネ、テオの順に潜る。水は透明で、光の柱が海底まで届いていた。火山岩の裂け目を銀色の魚群が出入りしている。

 テオは意外に落ち着いていた。泳げないというのは地上での話らしい。水中では余計な言葉も、勝手な笑いも出ない。

 洞窟へ入ると、陽光が消えた。

 ライトの円の中に、古い石積みが浮かぶ。自然洞窟を人間が拡張した跡。切石は隙間なく組まれ、ところどころに赤い顔料が残っていた。

 最初の広間には、壊れた大甕が並んでいた。高さ二メートル近いピトス。穀物や油を蓄えた容器だ。だが底には、黒いガラス質の粒がこびりついている。

 アネモネが一粒を採取袋へ入れた。

 その瞬間、洞窟の奥から低い震動が伝わった。

 海底地震。

 天井の砂が降り、ピトスがゆっくり傾いた。

 俺はテオを押しのけた。巨大な甕が倒れ、俺の酸素ホースを石壁へ挟んだ。残圧計の針が跳ねる。

 アネモネがナイフを出した。ホースの外装を切り、引っかかりを外す。

 別の甕が倒れ、入口を塞いだ。

 三人のライトが水中で交差した。

 戻れない。

 俺は奥を指した。

 テオが親指を上げた。仮面のない顔が、水中では初めて穏やかに見えた。

 細い通路を抜けると、水面があった。

 俺たちは順に浮上した。

 そこは空気の溜まった地下室だった。天井の裂け目から、かすかな風が吹いている。何千年も閉じられていたはずの空間なのに、空気は呼吸できた。

 壁一面に、鮮やかなフレスコ画が残っていた。

 青い海。跳ねるイルカ。渦巻く蛸。腰の細い人々。赤と白の牡牛。だが中央の絵だけは、ミノア美術の伸びやかさから外れていた。

 黒い猫が、星空の前に座っている。

 体は横向き。顔だけがこちらを見ている。両目は金色で、その中に同心円が描かれていた。尾の先には八つの星。足元には、迷宮を示す渦巻き模様。

「これだ」とテオが言った。

 声が洞窟に反響した。

「父の猫だ」

 アネモネは壁へ近づいた。

「猫というより、ヤマネコね。エジプトとの交易で意匠が入った可能性はある。でも、この顔料……」

 彼女は黒い部分へライトを寄せた。

 黒ではなかった。

 細かな青、紫、銀の粒が混ざり、角度を変えるたび星空のように光った。

「隕石由来かもしれない」と彼女は言った。「ニッケル鉄か、未知の鉱物を粉にして顔料へ混ぜた」

「空から来た神の目」と俺。

「ヴァルダの宣伝文句を信じるの?」

「半分だけ。残り半分は値段を決めるために使う」

 壁画の下には三つの石扉が並んでいた。左に双斧、中央に牡牛、右に猫。

 床には円形の穴が八つ。

 アネモネが粘土板を出し、防水ケース越しに記号を照合した。

「八、三、五、二……素数?」

「紀元前に素数はないのか?」

「概念はあったでしょうけど、この配列は違う。星の明るさかも」

 テオが青銅札を穴へかざした。

 札の八つの点と、床の穴が一致する。

「父は壁を写したんじゃない」と彼は言った。「鍵を作ったんだ」

 札を中央の穴へ差し込むと、奥で石が鳴った。

 三つの扉が同時に少し開いた。

 左の扉から温かい風。

 中央から海水。

 右から、笑い声がした。

 子どものような、短い笑い。

 テオの顔から血の気が引いた。

「俺じゃない」

 右の扉の隙間で、金色の目が光った。

 俺は反射的にライトを向けた。

 何もいない。

「中央だ」とアネモネが言った。

「根拠は?」

「粘土板の記号。牡牛の後に水。双斧の後には火。猫の後には……空白」

「空白なら安全かもしれない」

「古代人は危険なものに名前を書かない」

 説得力があった。

 俺たちは中央の扉を押した。

 海水が膝まで流れ込み、奥の床が沈んだ。石の階段が下へ続いている。

「迷宮は地下か」とテオ。

「迷宮は、平面とは限らない」

 俺たちは降りた。

 階段は螺旋を描き、壁の両側に小部屋が連なっていた。祭器、砕けた杯、人骨。人骨の頭蓋には細い穴が一つ開いている。供犠か、外科手術か、あるいはその両方。

 最下層で、道は円形の部屋へ出た。

 中央に青銅の台座がある。

 猫が座っていた。

 全長一メートルほどの青銅像。耳は大きく、胴は異様に細い。前脚の間に、拳ほどの石球を抱いている。

 石球は、こちらを見た。

 そう感じたのではない。

 表面に縦長の瞳孔が開いた。

 金と緑の光が、猫の眼のように収縮した。

 テオが息を呑んだ。

 部屋の壁には、人々が笑いながら自分の顔を引き裂く絵が描かれていた。

 アネモネは粘土板を震える手で持ち上げた。

「これは地図でも、楽譜でもない」

「何だ」

「封印の手順書よ」

四 怪猫

 後ろで安全装置の外れる音がした。

 俺は振り返った。

 階段に、ヴァルダの警備主任コスタが立っていた。潜水装備の上から短機関銃を構え、部下二人を従えている。

「やはり君は優秀だ、博士」

「褒めるなら現金で頼む」

「現金は裏切らない。人間は裏切る」

「それを信条にしてる人間が言うと深いな」

 コスタの部下が俺たちの武器と通信機を奪った。

 天井の小型ドローンが降りてきた。レンズの向こうで、ヴァルダが見ている。

『素晴らしい』

 スピーカーから彼の声。

『三千五百年の眠りから、ついに光のもとへ』

「壁画を見たか?」とアネモネが言った。「これは展示品じゃない。装置よ。人の神経活動に反応する可能性がある」

『すべての宗教儀式は神経活動に反応する』

「詭弁ね」

『学問とは、値段のつかない詭弁だ。私が値段をつけてやる』

 コスタが台座へ近づいた。

 石球の瞳孔が彼を追った。

「触るな」と俺は言った。

「怖いのか?」

「怖い。だから言ってる」

 コスタは厚い手袋で石球を掴んだ。

 青銅猫の前脚が動いた。

 金属が軋み、爪が手袋へ食い込む。

 コスタは罵って銃床を叩きつけた。青銅の脚が折れ、石球が床へ転がった。

 照明が消えた。

 闇の中で、猫が鳴いた。

 低い音だった。耳ではなく、歯の根元で聞こえた。

 ライトが再点灯すると、石球は消えていた。

 代わりに、黒い猫が床を歩いていた。

 小さい。普通の家猫ほどだ。

 ただし、影が七本あった。

 猫がコスタを見上げた。

 コスタの顔が歪んだ。

「笑うな」

 誰も笑っていなかった。

「笑うな!」

 彼は部下へ銃を向けた。

「俺を見て笑ったな!」

 部下が後ずさる。

「隊長、何を――」

 発砲。

 狭い石室で銃声が爆発した。部下の一人が倒れ、もう一人がコスタへ飛びかかる。二人はもつれ、壁画へ突っ込んだ。

 黒猫はその間を静かに歩いた。

 猫が通った場所から、絵の人々が動き始めた。

 壁画の笑顔が広がる。赤い口が裂け、白い歯が増える。古代の男女が、音もなく腹を抱えて笑っている。

 俺の耳に拍手が聞こえた。

 大学の講堂。

 六年前の査問会。

 スクリーンには、俺が無断で持ち出した石片の写真。教授たちの冷たい顔。記者たちのカメラ。俺は密輸組織の証拠を守るためだったと説明した。だが証拠の保管手続きは破られ、俺の告発は「自己正当化」と呼ばれた。

 拍手などなかった。

 それなのに今、全員が笑っていた。

 おまえは正義の味方ではない。

 ただ注目されたかっただけだ。

 失敗した英雄を演じたかっただけだ。

 黒猫の金色の目が、俺の記憶の中にいた。

「レオ!」

 アネモネの平手が頬へ飛んだ。

 石室へ戻った。

 コスタは自分の頬を爪で裂きながら笑っていた。

「やめろ、やめろ、俺を――へへ、ははは、見るな!」

 テオが黒猫の前に立っていた。

 猫は彼を見上げる。

 テオの喉が鳴った。

「へ、へへ」

 一歩、猫へ近づく。

「父さん」

 彼の目には猫ではなく、別のものが見えていた。

 俺は腕を掴んだ。

「そいつは父親じゃない」

「知ってる」

「なら離れろ」

「でも、父の声を知ってる」

 黒猫が尾を上げた。

 七本の影が一本に重なり、床からテオの靴へ這い上がった。

 テオは石球を抱いていた。

 いつ拾ったのか見えなかった。

 球の縦長の瞳孔と、彼の瞳が同時に細くなる。

「みんなに見せる」とテオは言った。

「何を?」

「笑われる側から、笑う側へ移る瞬間を」

 彼は走った。

 階段の途中でコスタの部下を蹴り倒し、中央の石扉へ消えた。

 黒猫も消えた。

 壁画の笑いが止まった。

 コスタは床に座り込み、自分の両手を見ていた。爪の間に皮膚が詰まっている。

『追え!』

 ドローンからヴァルダが怒鳴った。

『今夜の公開に間に合わせろ!』

「まだ祝宴を続ける気か」

『島中の客が集まっている。大臣も、王族も、投資家もだ。あれは私のものだ』

「今、三千五百年前の猫に警備主任を壊されたところだぞ」

『ならば、なおさら価値がある』

 俺は初めて、ヴァルダが宝を愛していないと理解した。

 彼が愛しているのは、所有権だった。

 世界が燃えても、炎に自分の名前をつけられるなら満足する種類の男だ。

 アネモネが粘土板を胸へ抱いた。

「テオは博物館へ行く」

「どうして分かる」

「見せると言ったから。彼が一番憎んでいる人間と、一番多くの観客がいる場所」

 俺はコスタの短機関銃を拾い、弾倉を抜いて海水へ投げた。

「銃は?」

「猫に効くと思うか」

「ヴァルダには効く」

「魅力的だが、弾は言い訳を聞かない」

 俺たちは地上へ向かった。

 背後でコスタが、また小さく笑い始めた。

五 笑いの夜

 日没と同時に、アステリ島の博物館は光の宮殿になった。

 赤い柱。白い石段。屋上庭園。復元された牡牛跳びのフレスコ。海へ突き出した円形劇場には、五百人を超える招待客が集まっていた。

 ヴァルダは猫眼の代わりに、黄金の双斧を公開して時間を稼いでいた。

「これは王権の象徴であり――」

 俺とアネモネは博物館の裏手から侵入した。

 正式な招待状は持っていた。俺は今朝までヴァルダの雇われ探索者だったからだ。ただし警備員の顔写真端末には、すでに赤い警告が出ている。

 そこで俺は厨房へ入り、銀盆を持って給仕の列へ紛れた。

 アネモネは学芸員の白衣を着た。彼女はどんな服を着ても、周囲に「自分はここで最も重要な仕事をしている」と思わせる才能がある。

 円形劇場では、ヴァルダが演説を続けていた。

「文明とは、混沌に形を与えることです。名もない労働、名もない死、名もない祈り。それらを選び、保存し、価値ある物語へ変える――」

 照明が消えた。

 観客がざわめく。

 舞台中央へ、一本のスポットライトが落ちた。

 テオが立っていた。

 灰色の燕尾服。白い半面。片手に猫眼の石球。

 ヴァルダの顔が固まった。

「彼は誰だ?」

 客の一人が訊いた。

「余興ですよ」とヴァルダは即座に答えた。

 テオはマイクを取った。

「そう。余興です」

 喉が痙攣した。

「へ、へへ。いつもそうだった。父が死んだときも、島の新聞では小さな余興だった。観光開発の記事の下、三行だけ」

 背後の巨大スクリーンに、作業員名簿が映った。

 ニコス・マルケス。

 エヴァンゲロス・シマ。

 ハディル・ベン・サリム。

 ほか四名。

「この人たちは、ヴァルダ氏の博物館の下で死にました。許可のない夜間掘削で。遺族には、黙るための金が払われた」

 ヴァルダが舞台袖へ合図した。

 警備員が動く。

 テオは石球を掲げた。

「今夜は、名前を呼ぶ」

 猫眼が開いた。

 劇場の照明が一斉に緑色へ変わった。

 客席の影から、黒猫が現れた。

 一匹。

 二匹。

 十匹。

 百匹。

 それぞれの座席の下から、金色の目が覗いた。

 観客が笑い始めた。

 最初は戸惑い混じりの囁き。次に、小さな含み笑い。やがて腹を折り、涙を流し、隣人を指差す笑いへ変わった。

「あなた、鬘がずれてる」

「その宝石、偽物じゃないか」

「大臣、秘書と寝ているのを知ってるぞ」

「この男、会社を潰したくせに勲章を――」

 隠していた軽蔑が口からこぼれる。

 スクリーンには、一人ひとりの記憶が映っていた。裏切り、賄賂、孤独、整形前の顔、子どもの頃に漏らした嘘。羞恥が娯楽へ変換され、五百人の観客へ配られていく。

 笑われた者が、別の誰かを笑う。

 笑うことで、自分がまだ客席側にいると確認する。

 猫はそれを食べていた。

 影が膨らみ、舞台背後の壁を覆う。四本脚の輪郭が柱より大きくなる。頭には猫の耳と牡牛の角。尾は迷宮のように枝分かれし、先端ごとに目が開いた。

「怪物を作ったのは古代人じゃない」とアネモネが言った。「観客よ」

 警備員がテオへ飛びかかった。

 テオは動かなかった。

 黒い尾が一閃し、警備員たちを客席へ叩き落とした。

 悲鳴が上がり、それさえ笑いへ変わる。

 ヴァルダは逃げずに舞台中央へ出た。

「テオ」

 初めて名前で呼んだ。

「君の父親の件は残念だった。だが、事故だ。証拠も――」

 スクリーンに映像が出た。

 十年前の地下発掘。粗い監視映像。壁に亀裂が走り、作業員が退避を求めている。若いコスタが入口を閉じる。ヴァルダの声がする。

『先に箱を運べ。人間は後だ』

 観客の笑いが止まった。

 沈黙は一秒だけだった。

 次の瞬間、すべての視線がヴァルダへ向いた。

 猫が喉を鳴らした。

 ヴァルダの顔に、初めて恐怖が浮かぶ。

「捏造だ」

 誰かが笑った。

 それを合図に、客席全体が爆発した。

 ヴァルダを指差す笑い。侮蔑。憎悪。長年、金と肩書で押し返してきたすべての軽蔑が、一度に彼へ注がれた。

 テオは笑っていなかった。

 ただ、泣いていた。

「これが見たかった」と彼は言った。「ずっと」

 猫の巨大な顔が、舞台の上へ降りてきた。

 金色の目がテオを見た。

 その眼差しに感謝はない。

 飼い主を見る目でもない。

 餌の袋を見る目だった。

「テオ!」と俺は叫んだ。「そいつはあんたの味方じゃない!」

 彼は振り向いた。

 黒い尾が俺を打った。

 体が宙を飛び、牡牛像の台座へ激突した。肺から息が抜ける。視界が白くなる。

 猫が笑った。

 人間の声ではない。

 俺がこれまで聞いた、すべての笑い声だった。

 査問会の記者。

 密輸商人。

 昔の恋人。

 父親。

 俺自身。

 失敗するたび、先回りして自分を嘲った声。

 どうせおまえは、誰も救えない。

 宝を追っているふりをして、失った肩書を探しているだけだ。

 英雄の真似事をして、拍手を待っている。

 俺は立てなかった。

 猫の目の中で、四十二年分の失敗が回っている。

 そこへ、アネモネが銀盆を投げた。

 盆は猫をすり抜け、舞台の照明器具へ当たった。火花が散り、スポットライトが消える。

 猫の輪郭が一瞬縮んだ。

「光じゃない」とアネモネが叫んだ。「注目よ! 見られることで実体化してる!」

 彼女は非常放送のレバーを引いた。

 館内の防火シャッターが降り始め、劇場のスクリーンが暗転する。だが客たちは互いを見続けている。笑いは止まらない。

「粘土板を読めたのか」と俺。

「少し。反復記号は音じゃなく、視線の移動。封印には、八つの目を閉じる必要がある」

「八つ?」

 猫の尾の先に、八個の眼球が光っていた。

「目を閉じてください!」アネモネは客席へ叫んだ。「全員、目を閉じて!」

 誰も従わない。

 笑いながら、他人の秘密を見たがっている。

 テオが石球を胸へ抱いた。

「無理だ」と彼は言った。「人は見たい。誰かが自分より下へ落ちるところを」

 猫の尾が床を叩いた。

 石板が割れた。

 舞台中央に、螺旋階段が現れた。古代宮殿の地下へ続く穴。

 テオはそこへ降り始めた。

「どこへ行く!」と俺。

「一番下へ」

 アネモネが粘土板を見た。

「違う。あれは下へ行く階段じゃない」

「どう見ても下だ」

「この宮殿は火山丘の斜面に沿って建っている。螺旋は反転して、崖の上の光井戸へ続く」

 粘土板の最後の記号を指でなぞる。

「封印の場所は空の下。“黒い海へ目を返せ”」

 俺は痛む肋骨を押さえて立った。

「高い所か」

「あなた、高い所は得意でしょう」

「落ちるのが得意なんだ」

六 迷宮は上へ続く

 螺旋階段の先は、ヴァルダの博物館より古かった。

 近代の石材が途切れ、ミノア時代の切石へ変わる。壁には双斧の刻印。ところどころに採光用の縦穴があり、月光が細い柱となって落ちていた。

 迷宮は地下室ではなかった。

 丘の内部を貫き、海面から断崖の頂上まで伸びる巨大な立体構造だった。

「ラビュリントスは“双斧の館”が語源だという説がある」とアネモネが走りながら言った。

「本当か?」

「有名だけど確証はない」

「今それを言う必要は?」

「学者の良心」

 背後から猫の爪音が迫る。

 実体のない影なのに、石を削る音がする。

 最初の仕掛けは、回転する石輪だった。

 直径五メートルの円盤が通路を塞ぎ、表面には八つの穴。回転に合わせ、穴の向こうに別の通路が一瞬だけ重なる。タイミングを誤れば、石輪と壁に挟まれる。

 テオはすでに向こう側だ。

 俺は回転を数えた。

「三、五、二、七……」

 粘土板の数字と同じ。

「素数だったじゃないか」

「だから概念はあったって言ったでしょう」

 アネモネが先に飛び込んだ。三番目の穴を抜け、肩を擦りながら向こうへ転がる。

 俺も続く。

 背後で黒猫が石輪へ飛びかかった。

 影の体が八つに切れ、それぞれの穴から別々の猫が出てきた。

「反則だろ」

 八匹の猫が一斉に口を開いた。

 査問会の拍手が鳴る。

 俺は耳を塞がず、走った。

 次の部屋には、青銅の振り子が並んでいた。先端は双斧。天井の機構が生きているかのように動き、刃が左右から通路を薙ぐ。

 アネモネが床の模様を見た。

「牡牛跳び」

 中央に牡牛の背を描いた線がある。走り、角を掴み、背を越える古代の儀礼競技。その動きを通路の踏み石に置き換えている。

「四十二歳にやらせる仕掛けか?」

「設計者はあなたの年齢を知らない」

「配慮がないな」

 俺は最初の踏み石を蹴った。

 右から斧。

 身を沈める。

 左から斧。

 跳ぶ。

 中央の青銅柱を牡牛の角に見立て、両手で掴んだ。勢いのまま体を反転させ、柱の上を越える。

 若い頃なら華麗だった。

 今は、腰が悲鳴を上げた。

 着地に失敗し、膝から滑る。斧が背中のジャケットを裂いた。

 アネモネは俺より正確に通過した。

「運動不足」

「古代文字の研究者に負けるとは思わなかった」

「私は週三回ボルダリングをしてる」

「学者のくせに健康的すぎる」

 八匹の猫が振り子の間へ入った。

 刃が影を切るたび、猫は増えた。

 十六。

 三十二。

 六十四。

 通路が金色の目で埋まる。

「増やす仕掛けだったのか」と俺。

「侵入者じゃなく、猫を閉じ込める仕掛けよ。分裂させて、一つひとつの力を弱める」

 だが今は封印の要がテオの手にある。猫たちは弱まらない。

 最後の猫が振り子を越えたとき、すべての影が一つに合体した。

 天井へ届く怪物となって、俺たちを追った。

 上方から銃声がした。

 テオの叫び。

 俺たちは階段を駆け上がった。

 円形の光井戸に出た。

 頭上には夜空が開いている。断崖の頂上。月は半ば欠け、海面に銀の道を作っていた。

 中央に、牡牛の角を模した二本の石柱。その間へ、巨大な青銅円盤が立っている。円盤には迷宮模様と、八つの可動鏡。

 テオは円盤の前にいた。

 肩から血を流している。

 ヴァルダが拳銃を向けていた。

「渡せ」とヴァルダは言った。

 劇場で浴びた嘲笑のせいか、髪は乱れ、ネクタイは消えていた。それでも声には所有者の響きが残っている。

「それは私の島で見つかった。私の資金で掘られた。私の博物館の下にある」

「父の血で扉を開けた」とテオ。

「労働者は賃金を受け取った」

「死ぬ分は?」

「契約に事故補償がある」

 テオの喉が痙攣した。

「へ、へへ」

 ヴァルダの顔が強張る。

「笑うな」

「笑ってない」

「私を笑うな!」

 猫が光井戸へ入った。

 月が消えた。

 黒い胴体が空を塞いだ。

 ヴァルダが発砲した。

 弾丸はテオの脇腹を貫いた。

 石球が床へ転がる。

 ヴァルダとテオが同時に手を伸ばした。

 猫の前脚が降りた。

 ヴァルダは避けたが、床石が砕け、断崖側の欄干が崩れた。彼は縁へ投げ出され、片手で石柱に掴まった。

「助けろ!」と叫ぶ。

 俺は石球へ走った。

 猫が俺の前へ顔を降ろした。

 金色の目に、また講堂が映る。

 今度は査問会ではなかった。

 俺が大学へ戻っている未来だった。名誉回復。教授職。拍手。学生たちが尊敬の目で見る。博物館の入口には俺の名。ヴァルダのコレクションを奪い、正しい所有者になった俺。

 欲しくないと言えば嘘になる。

 猫は俺の嘘を知っていた。

 英雄になりたい。

 正しかったと認められたい。

 失った六年を、誰かに返してほしい。

「そうだ」と俺は言った。

 猫の瞳孔が開く。

「俺は拍手が欲しい。肩書も、金も、名誉も欲しい。宝を見つけて、俺を追い出した連中に見せつけたい」

 アネモネが息を呑む。

 猫の口が笑みの形に裂ける。

「でもな」

 俺は猫へ一歩近づいた。

「欲しいことと、従うことは別だ」

 猫の笑みが止まった。

「おまえは俺の秘密を暴いたつもりか? 四十二にもなれば、自分の情けなさくらい自分で知ってる」

 俺はもう一歩進んだ。

「笑いたければ笑え。入場料は取るぞ」

 猫の顔が揺らいだ。

 影が薄くなる。

 恥は、隠している間だけ首輪になる。

 俺は石球へ飛びついた。

 冷たいはずの表面が、焼けた鉄のように熱い。掌の皮が焦げる。

 アネモネが青銅円盤の鏡を回した。

「八つの目を、海へ向ける!」

「どの海だ!」

「上の海!」

 夜空。

 古代人は星空を、黒い水面と考えたのかもしれない。

 俺は石球を円盤中央の窪みへ押し込んだ。

 八枚の鏡が月光を集める。

 猫眼の瞳孔が閉じ始めた。

 怪物が絶叫した。

 笑い声ではない。

 初めて聞く、獣の声だった。

 テオが床を這い、円盤の取っ手へ手をかけた。

「回すんだ」とアネモネ。「光井戸の軸を合わせる!」

 俺とテオで取っ手を押す。

 青銅円盤は三千五百年分の錆を噛み、動かない。

 猫の爪がテオの背へ迫る。

 断崖ではヴァルダが叫んでいる。

「レオ! 助けろ! いくらでも払う!」

 俺は円盤を押した。

「金額を先に言え!」

「五百万!」

「単位は!」

「ユーロだ!」

「悪くない!」

 アネモネが怒鳴る。

「交渉してる場合?」

「死ぬ前に相場を知りたい!」

 円盤がわずかに回った。

 内部で石の歯車が連動する。地面が震え、牡牛の角の間に光の線が走った。

 猫がテオへ噛みつこうとした。

 テオは怪物を見た。

 その目の中に、観客席が映っている。

 彼を笑った客。

 彼を見なかった客。

 父の死を三行で読み飛ばした島の人々。

 そして今、復讐者となった彼へ向けられる恐怖と注目。

「見てくれ」とテオは呟いた。

 猫が優しく目を細める。

「ずっと、そう思ってた」

 彼は仮面を外した。

 半分笑い、半分泣く白い顔を、床へ置く。

「でも、おまえに見られたいわけじゃない」

 テオは猫へ背を向けた。

 怪物の爪が止まる。

 円盤が回った。

 八枚の鏡が同時に夜空を映した。

 石球から光が噴き上がった。

 細い緑の柱が、星空へ伸びる。

 黒猫の体が透けた。内部に、骨も臓器もなかった。無数の小さな目と口、笑う人々の顔が渦巻いている。

 それは生物ではなかったのかもしれない。

 宇宙を漂う何かが、人間の感情を殻にしていただけなのかもしれない。

 石球が円盤から浮いた。

 猫が最後に、俺たち全員の声で言った。

「見ろ」

 俺は目を閉じた。

 アネモネも閉じた。

 テオも閉じた。

 下の劇場で、非常放送が響く。

『目を閉じてください。これは演出ではありません。目を閉じてください』

 一人が閉じた。

 次の一人が閉じた。

 笑い疲れた客たちが、ようやく互いを見ることをやめた。

 視線が消えるたび、猫の体から影が剥がれた。

 最後の一枚が落ちたとき、石球は夜空へ射出された。

 緑の星となり、弧を描く。

 そしてエーゲ海へ落ちた。

 音はしなかった。

 ただ、海の一部が一瞬だけ猫の目のように光り、閉じた。

 怪物は消えた。

 光井戸に、月が戻った。

七 宝の値段

 ヴァルダはまだ断崖にぶら下がっていた。

「助けろ!」

 俺は腹這いになり、手を伸ばした。

 彼は俺の手首を掴んだ。

「五百万」と俺は言った。

「払う!」

「作業員七人の遺族へ」

 ヴァルダの目が動いた。

「それと、発掘記録を全部公開する。所蔵品の来歴を第三者委員会が調べる。違法取得品は返還」

「私を脅すのか」

「契約交渉だ」

「そんな条件を呑むと思うか?」

 指が滑った。

 ヴァルダの顔から血の気が引く。

「呑む! 呑むから引き上げろ!」

「録音した?」と俺。

 アネモネが端末を掲げた。

「最初から」

 二人でヴァルダを引き上げた。

 彼を落とせば簡単だった。

 怪物のせいにすることもできた。

 だが、落下は一瞬だ。裁判と返還交渉は長い。ヴァルダには、長い方が似合う。

 テオは血を失い、意識を朦朧とさせていた。

「父さんは」と彼が言った。

「見てたかな」

「さあな」

「ひどい答えだ」

「考古学者は、証拠のないことを断言しない」

 アネモネが傷口を圧迫した。

「でも、あなたが名前を呼んだことは、みんなが聞いた」

 テオは目を閉じた。

 喉が一度だけ痙攣した。

「へ」

「笑った?」と俺。

「痛いだけだ」

「そうか」

「たぶん」

 彼は意識を失った。

 夜明け前、沿岸警備隊と救急ヘリが島へ来た。

 コスタは地下遺構で保護された。ヴァルダの命令を記録した十年前の映像は、テオが博物館の古いサーバーから回収していた。事故を隠蔽した会計記録、違法発掘の座標、買収先の一覧も揃っていた。

 猫眼より地味だが、法廷ではずっと強い宝だった。

 祝宴の客たちは、集団幻覚、薬物混入、映像演出など、それぞれ都合のいい説明を選んだ。人間は超常現象を信じたがる一方で、自分が他人を笑い殺しかけた事実は信じたがらない。

 テオは一命を取り留めた。

 島の診療所から本土の病院へ移されたあと、警察の事情聴取前に姿を消した。窓辺に、半分笑い、半分泣く仮面だけを残して。

 俺は逃亡を手伝っていない。

 ただ、病院裏の監視カメラが十五分間故障し、港に無届けの小舟が一艘あっただけだ。

 偶然は、歴史を作る。

八 名もないもの

 三か月後、アネモネと俺はアステリ島へ戻った。

 ヴァルダ博物館は閉鎖され、入口には司法当局の封印が貼られていた。所蔵品の来歴調査が始まり、複数の国が返還請求を出している。

 俺の大学の元同僚からは連絡が来た。

「名誉回復の可能性がある」

「客員研究員としてなら」

「今回の発見を共同発表にできないか」

 どれも丁寧に断った。

 本当は、少しだけ迷った。

 猫に見せた欲望は、怪物が消えても消えない。

 ただし、欲望に名前をつければ、取引はできる。

 地下遺構からは黄金も宝石もほとんど出なかった。

 見つかったのは、粘土板、封印具、祭器、作業用の石槌、穀物の炭化物。王の名はなかった。英雄の名もなかった。

 代わりに、小さな粘土片が百枚以上あった。

 アネモネは半年かけて、その反復記号を解析するつもりだと言った。線文字Aそのものは読めなくても、数量と配給の仕組みは推定できる。

「たぶん労働者名簿」と彼女は言った。「一人ずつ、穀物と油の量が記されている」

「三千五百年前の給与明細か」

「王の宝より大事かもしれない」

「市場価格は低いぞ」

「あなた、まだそんなことを」

「市場価格が低いものほど、誰かが守らないと消える」

 アネモネは俺を見た。

「少しは成長したのね」

「四十二歳は成長じゃなくて劣化だ」

 俺たちは港へ下りた。

 海は穏やかだった。

 猫眼が落ちたあたりでは、夜になると漁師が緑色の光を見るという。魚群だと言う者も、海底火山のガスだと言う者も、星が海へ迷い込んだのだと言う者もいる。

 確かめる気はなかった。

 少なくとも、しばらくは。

 波止場の端に、黒い猫が座っていた。

 普通の猫だ。

 影は一本。目は二つ。

 猫は俺を見ず、海を見ていた。

「おい」と呼ぶ。

 耳だけが動いた。

「人を無視する態度は、古代から変わらないな」

 猫は欠伸をした。

 アネモネが笑った。

 俺も笑った。

 誰かを下へ落とすためでも、先に自分を傷つけるためでもない。

 ただ、朝の海がまぶしく、俺たちが生きていて、世界にはまだ値札のついていないものが残っていたからだ。

 港の鐘が鳴った。

 黒猫は立ち上がり、名もない路地へ消えた。

 俺は追わなかった。

 宝探しで一番難しいのは、見つけることではない。

 何を持ち帰らないか、決めることだ。