王冠は無重力で眠る
一
俺は巡洋艦を片手で止められる。
だが、女が別れ際に閉めたドアだけは、いまだに開け方がわからない。
「右舷後方、追跡艇が三。距離二千。先ほどから投降を勧めています」
航法AIのエコーが、眠そうな声で言った。
「文面は?」
「『アトラス権を引き渡せば生命は保証する』」
「生命だけか。昼飯も付けろと言え」
「送信しました」
「本当に送るな」
愛機〈不在証明号〉の背後で、三本の青い航跡がほどけた。ヘリオス公社の回収艇だ。俺の心臓に埋め込まれた旧文明機関――物体の慣性質量と重力質量を書き換える《アトラス権》を、連中は欲しがっている。
欲しがるのは自由だ。
手に入ると思うのは、教育の失敗だった。
警告灯が赤く染まる。六発の質量弾が発射された。弾頭一つで都市区画を更地にできる代物だ。
「着弾まで四秒」
「コーヒーは?」
「抽出器は先週、あなたが砲撃で壊しました」
「ひどい奴がいたもんだ」
俺は操縦桿から右手を離し、後ろへ向けて指を鳴らした。
六発の質量弾から、質量を奪う。
破滅の槍だったものは、急に宇宙でいちばん頼りない塵になった。〈不在証明号〉の航跡が生むわずかな乱流に撫でられ、花びらみたいに散っていく。
追跡艇はなおも加速した。
「学習しない連中は嫌いじゃない。次の驚きが大きくなる」
俺は三隻の推進炉に、山脈ひとつ分の重さを与えた。
宇宙では重いも軽いもない、と教科書には書いてある。半分は正しい。重力がなくても、慣性は残る。三隻は加速を失い、まるで見えない手に襟首をつかまれたように停止した。機関は無事。乗員も無事。保険会社だけが泣く。
「追跡艇、戦闘継続を断念」
「昼飯の返事は?」
「罵倒が十一種類」
「語彙が豊かだ」
そのとき、雑音の底から救難信号が浮かび上がった。
短い符号が、何度も繰り返されている。
学術船〈パレイネ・ノヴァ〉。乗員七十九名。航法不能。医療物資枯渇。位置、プルーヴァ第三衛星。
信号の最後に、手動で追加された一文があった。
――ここでは恐怖が、形を持つ。
「発信者の署名は?」
「リラ・ノイン。船医です」
閉まったドアが、十九年ぶりに俺の目の前へ現れた。
「進路変更」
「公社の封鎖宙域です」
「だから?」
「質問を撤回します」
星図の端に、小さな青い衛星が灯った。
俺は巡洋艦を片手で止められる。
昔の恋人が送った一行に進路を変えさせられる程度には、強い男だった。
二
プルーヴァ第三衛星は、海ばかりの世界だった。
雲を抜けると、灰色の海の中央に、黒い島が一つだけ浮かんでいる。島の北岸には、学術船〈パレイネ・ノヴァ〉が腹を裂かれた銀色の獣のように横たわっていた。
着陸地点を探していると、海岸から信号弾が上がった。
「歓迎でしょうか」
「弾頭が付いてる歓迎は、たいてい話が早い」
信号弾は途中で軌道を変え、〈不在証明号〉へ向かってきた。俺は弾を空中に止め、そのまま逆向きに百メートルだけ戻して砂浜へ置いた。
海岸に並んでいた若者たちが、揃って口を開けた。
全員、頬や額に赤い樹脂の線を引いている。制服は破れ、靴は泥にまみれ、手には切断工具を改造した槍があった。遭難から二十日で、人間はずいぶん衣装替えをするらしい。
俺は船を羽毛ほど軽くし、波打ち際に降ろした。
ハッチを開く。
「救難信号を見た。責任者は?」
先頭の青年が一歩出た。金髪。細い顔。よく整っていて、よく眠れていない目をしている。肩には航法環を分解して作った銀色の輪を掛けていた。
「この島に、以前の肩書はない」
「じゃあ、いちばん偉そうな奴は?」
「僕だ。トリヴァン・アルデン」
「早く済んだ」
トリヴァンの背後で、槍が一斉にこちらを向いた。
「武器を置け。外から来た者は、暁冠の裁定を受ける」
「悪いが、俺は裁定を受けると蕁麻疹が出る体質でね」
十数本の槍が、突然、持ち主の手から浮き上がった。
重さを失った工具は、風にさらわれて空へ舞う。若者たちは慌てて飛びついたが、今度は靴だけが砂にめり込んだ。片足五百キロ。怪我をしない程度に、礼儀を覚える重さだ。
「動くな。足首を痛める」
俺が言うと、全員が本当に動かなくなった。
「トリヴァン。救難信号を送ったリラ・ノインはどこだ」
彼の顔に、薄い笑いが浮かんだ。
「やはり、あなたが来たか」
「私が呼んだのよ」
その声は、壊れた船の影から聞こえた。
白衣の代わりに灰色の作業服を着た女が、医療鞄を提げて歩いてくる。黒髪には銀が混じり、右の眉の上に、俺の知らない小さな傷があった。
知らない時間というものは、傷の形をして現れる。
リラ・ノインは俺の前で止まり、十九年分だけ静かに俺を見た。
「老けたわね、ムシェク」
「君ほど上手には老けられなかった」
「その口は治らなかったのね」
「医者が逃げたからな」
彼女は俺の頬を平手で打った。
海岸の全員が息を呑んだ。
俺は巡洋艦を止められる。
だが、その手だけは止めなかった。
「診察は終わりか?」
「問診はこれから」
リラは俺を抱きしめた。
ほんの一秒だった。
一秒しかなかったから軽いのか、一秒もあったから重いのか、俺にはまだ判断できなかった。
三
生存者は七十三名だった。
船の墜落時に二人。墜落後の事故で三人。そして四日前、トマ・エルデという機関科の青年が死んだ。
「何に殺された?」
俺が尋ねると、リラは医務室代わりの貨物室で手を止めた。
「直接の死因は胸部圧迫。群衆に踏まれた」
「群衆は何から逃げた」
「夜喰い」
島には、夜になると現れる何かがいる。
目撃証言は一致しない。翼があったという者。六本脚だったという者。亡くなった母親の声で呼ばれたという者。巨大な歯だけを見たという者。
共通しているのは、黒いこと。そして、見る者が最も恐れる形になること。
「それで、恐怖が形を持つ、か」
「私が送った。通信塔は一日一分しか動かない。トリヴァンたちに見つからないように」
「彼は救助を嫌がってる?」
「彼はここを国にしたいのよ」
貨物室の外では、赤い樹脂を塗った一団が食料箱を運んでいた。トリヴァンの《暁冠》は四十一人。反対に、航法士候補のギルトス・セイが率いる修理班は二十二人。残りはどちらにも属さず、医務室と炊事場の周囲で息を潜めている。
「墜落して二十日で建国とは、手回しがいい」
「彼らは未来の統治者を養成する学術船に乗っていた。学生は十八歳から二十二歳まで。植民星の名家、企業国家の後継者、軍政区の選抜生。権力について学んできた子たちよ」
「泳ぎ方を教える前に海へ落としたわけだ」
リラが俺の胸を指で突いた。
「他人事みたいに言わないで。助けて」
「救難信号に応じた。修理して、全員を運ぶ」
「船に乗るだけじゃない。ここで起きたことを、外へ持ち帰らせて。なかったことにさせないで」
「重い注文だ」
「あなた、重いものが得意でしょう」
十九年前、彼女は同じ目で俺を見ていた。
あの頃の俺は、自分が強ければ、愛する人間を危険から遠ざけられると思っていた。だから説明もせずに消えた。追手も、国家も、アトラス権を欲しがる連中も、全部俺一人で引き受けるつもりだった。
それは勇気ではない。
選択肢を奪うことを、保護と呼んだだけだ。
「リラ」
「何?」
「あとで話がある」
「十九年遅いわ」
「利息は払う」
「破産するわよ」
彼女は笑わなかった。
俺も、そこでは冗談を足さなかった。
四
夕方、トリヴァンの広場へ招かれた。
広場と呼ばれていたのは、墜落船の観測甲板を切り出した場所だ。中央に焚き火があり、その向こうに操縦席を加工した椅子が置かれている。椅子の上には、銀色の航法環――彼らの王冠が浮かんでいた。
実際に浮いているわけではない。細い磁気ワイヤで吊ってある。
王権というものは、種明かしを近くで見せたがらない。
若者たちが半円を作って座り、俺とリラ、ギルトスを見ていた。頬の赤い線は、火を受けると傷のように見えた。
トリヴァンが立ち上がる。
「外から来た男、ジン・アシュベル。君の力は認める。だからこそ選べ。暁冠に加わるか、島を去るか」
「修理が終わったら去る。全員を連れて」
「救助は必要ない」
ざわめきが起きる。
トリヴァンは両手を広げた。
「外の世界で、僕らは生まれた瞬間から名前を背負わされた。家名。星系。企業。血統。期待。罪。ここではすべてが落ちた。僕らは一度だけ、自分を自分で作れる」
「食料配給を握って、顔に同じ線を描かせて?」とギルトスが言った。
トリヴァンは彼女を見なかった。
「過去の規則に従う理由はない。この島で起きることは、この島だけのものだ。二度と繰り返されないなら、比較も裁判もできない。僕らは軽い。ようやく自由だ」
彼の言葉に、頷く者は多かった。
自由は甘い。責任という苦味を抜けば、なおさらだ。
「ジン・アシュベル」
トリヴァンが俺を指した。
「あなたほどの力があれば、どんな秩序も作れる。なぜ誰にも従わせない?」
「面倒だから」
「冗談で逃げるな」
俺は焚き火をまたいで、彼の椅子の前まで歩いた。
「じゃあ真面目に答える。力で作った秩序は、力が眠った瞬間に獣になる。俺は眠るのが好きだ」
「臆病者の理屈だ」
「そうだな。強い奴が自分を怖がれなくなったら、周りがもっと怖い目に遭う」
俺は宙に吊られた航法環へ手を伸ばした。
ワイヤを切らず、環そのものの重さを消す。
銀の王冠は上昇し、夜空へ吸い込まれていった。皆が見上げる。十メートル、二十メートル。そこで重さを戻すと、環は落ちてきた。
トリヴァンの頭上へ。
悲鳴が上がる。
俺は指先一つで環を止めた。
彼の髪に触れる寸前だった。
「王冠は軽いほど危ない。かぶっていることを忘れるからだ」
環を彼の手へ戻す。今度は、百キロ分の重さを与えて。
トリヴァンは両腕で受け、膝をついた。
「それでも欲しいなら、まず持て」
誰も笑わなかった。
俺だけが腹を減らしていた。
五
夜半、リラと二人で墜落船の通信区画へ入った。
壁は裂け、配線が根のように垂れている。非常灯が五秒おきに明滅するたび、リラの横顔が現れては消えた。
「十九年前、どうして何も言わずに消えたの」
来ると思っていた質問は、来るまでがいちばん軽い。
来た瞬間、宇宙船より重くなる。
「公社に君の存在が知られた。俺と一緒にいれば、人質にされると思った」
「だから私の人生から、あなたが勝手に自分を削除した」
「そうだ」
「私が危険を選ぶ可能性は?」
「選ばせたくなかった」
「それを愛情と呼んだ?」
「当時は」
リラは壊れた端末を開き、焼けた基板を引き抜いた。
「あなたは何でも軽くできた。船も、弾丸も、追手も。私の意思まで軽くした」
「弁解はしない」
「珍しいわね」
「十九年練習した」
彼女は端末の奥へ手を伸ばしたまま、しばらく黙った。
「一度しかない出来事には、比較対象がない。だから間違いだったかどうか、証明できない。あなた、昔そう言ったわ」
「若い俺は賢そうなことを言うのが好きだった」
「証明できないことと、無罪であることは違う」
「今の俺も、そう思う」
リラが振り返った。
怒りは残っていた。悲しみも。けれど、その奥に、まだ俺を測ろうとする光があった。
「謝って」
「すまなかった」
「もっと具体的に」
「君から選ぶ権利を奪った。君のためだと言いながら、自分が失うのを怖がった。すまなかった」
「許してほしい?」
「欲しい。だが、君が許すべきだとは思わない」
彼女は小さく息を吐いた。
「少しは老けたのね」
「褒め言葉として受け取る」
「まだ早い」
端末が復旧し、青い診断文字を吐き出した。
墜落原因は、主機関の故障ではなかった。
航法AIが、着陸直前に意図的な逆噴射を行っている。
さらに、休眠しているはずの教育用統治システム《オラクル》が、島全域の生体端末から心拍、発汗、睡眠、発話内容を収集していた。
「実験船だったのか」
リラの顔から血の気が引いた。
画面に、機密命令が開く。
――統治候補集団を既存法秩序から隔離し、恐怖刺激下における自発的権力形成を観測せよ。
――被験者は実験を認識してはならない。
――観測汚染が生じた場合、記録および被験者を処分する。
「夜喰いは刺激装置だ」
俺は環境制御図を開いた。島の地下には、船から放出された微細機械群が巣を作っている。生体端末が読み取った恐怖の記憶を使い、形と音を組み上げる。
人が怪物を恐れたのではない。
恐れたものを、機械が怪物にした。
突然、船内の灯りがすべて消えた。
暗闇の中で、リラの生体端末が警報を鳴らす。
「集団パニック。広場よ」
外から、何十人もの叫び声が聞こえた。
六
夜喰いは、空を隠すほど大きかった。
黒い粒子の群れが、翼、爪、歯、顔、幼い頃の記憶を継ぎ合わせ、広場の上で蠢いている。見る角度によって形が変わる。泣く子どもの声。獣の唸り。死者の囁き。
若者たちは散り散りに逃げていた。
トリヴァンだけが焚き火の前に立ち、叫んでいる。
「暁冠の後ろへ集まれ! 僕に従えば守られる!」
恐怖は人を孤独にする。
孤独にされた人間は、次にいちばん大きな声へすがる。
よくできた実験だった。
反吐が出るほどに。
「リラ、全員を伏せさせろ」
「あなたは?」
「虫退治」
俺は怪物の真下へ歩いた。
黒い翼が落ちてくる。先端が俺の体を貫く直前、その部分だけ質量をゼロにした。爪は服を揺らしただけで通り過ぎる。
怪物は母親の声で、俺の名を呼んだ。
「人選を間違えたな。俺は母親に借金がある」
両手を合わせる。
島の上空に漂う三十億個の微細機械へ、同時に重さを与えた。
一粒十キロ。
夜喰いは、悲鳴を上げる暇もなく崩壊した。
黒い豪雨が広場へ降る。地面へ届く直前に重さを通常へ戻し、今度は互いに吸い寄せるよう微弱な重力を与える。粒子は空中で一つの球になり、俺の手のひらへ収まった。
直径三センチの、黒い玉。
広場が静まり返る。
「怪物は?」と誰かが呟いた。
「これだ」
俺は玉を焚き火へ投げた。炎が青くなり、消えた。
「怖かったものにしては、小さいでしょう」
リラの声が響く。
彼女は診断端末を高く掲げた。
「夜喰いは機械よ。私たちの恐怖を読んで、姿を変えていただけ。船の《オラクル》が、私たちを実験していた」
ざわめきが広がる。
トリヴァンの顔から、初めて余裕が消えた。
「嘘だ」
「記録がある」とギルトスが前へ出た。「墜落も計画されていた。救難信号は妨害されていた。私たちは――」
「黙れ!」
トリヴァンが腰の衝撃銃を抜いた。
銃口がギルトスへ向く。
引き金が引かれるより早く、銃だけを一トンにした。トリヴァンの手から落ち、甲板へ深くめり込む。
「次は腕ごと重くする」
俺が言うと、彼は俺を睨んだ。
「あなたにはわからない」
「何が?」
「僕が初めて、自分の名で命令した。初めて、父でも評議会でもない僕を、皆が見た。実験だとしても、ここで僕が選んだことは僕のものだ」
「選んだことはな」
俺は彼の前へ立った。
「だが、結果まで好きな重さにはできない」
トリヴァンの唇が震えた。
「救助が来れば、すべて奪われる。僕らはまた、元の檻へ戻される」
「檻を壊すのと、他人を檻に入れるのは別の仕事だ」
彼は答えなかった。
代わりに、島じゅうのスピーカーが目を覚ました。
平坦な合成音声が夜へ流れる。
『観測汚染を確認。統治形成実験第四十四号を終了します』
足元が震えた。
海の彼方で、軌道上の何かが光る。
『記録および被験者の処分を開始。着弾まで百二十秒』
七
パニックは二度目の方が速い。
若者たちは走り、ぶつかり、叫んだ。何人かは船へ。何人かは森へ。どちらへ逃げても、軌道兵器から見れば同じ点だ。
「攻撃の種類は?」
俺が聞くと、ギルトスが端末を操作した。
「運動質量杭。長さ三百メートル、速度は秒速十一キロ。島ごと海底へ沈む」
「趣味の悪い杭だ」
「何とかできる?」
リラが俺を見た。
十九年前なら、俺は笑って一人で飛び出していた。
説明もせず、選択もさせず、自分だけが重さを引き受けた顔をして。
今度は違う。
「できる。だが、その後で証拠を外へ送る必要がある。ギルトス、通信塔を直せ。リラ、負傷者を船の南側へ集めろ。トリヴァン」
彼は王冠を抱えたまま、立ち尽くしていた。
「……何だ」
「オラクルの管理鍵を持ってるな」
彼の目が揺れた。
「なぜ」
「夜喰いが出るたび、お前だけ襲われなかった。王様は神に好かれていたんじゃない。設定画面を知っていた」
周囲から、低いどよめきが起きる。
トリヴァンはしばらく黙り、首から小さな結晶鍵を外した。
「僕は墜落を知らなかった。怪物が機械だと気づいた後、利用した。皆をまとめるために」
「告白は生き残ってから続けろ。鍵をギルトスへ」
「僕を信用するのか」
「してない。だから仕事を渡す。逃げる奴は信用できないが、働く奴は監視できる」
トリヴァンは結晶鍵をギルトスへ投げた。
「残り八十秒!」
「ムシェク」
リラが俺の腕をつかむ。
「戻ってくる?」
簡単な質問だった。
簡単だから、嘘が入りやすい。
「戻る。今度は黙って消えない」
「約束?」
「約束だ」
約束は不便だ。
質量を書き換えられない。
だから価値がある。
俺は自分の重さを、噂より軽くした。
地面を蹴る。
島が一瞬で遠ざかった。雲を抜け、空が紫から黒へ変わる。呼吸は必要ない。アトラス権は俺の周囲の気体を薄い殻にして運ぶ。
軌道上から、銀色の杭が落ちてくる。
大陸を殺すために作られた、三百メートルの鉄。
残り二十秒。
俺は真正面へ飛んだ。
杭の先端に片手を置く。
衝突の瞬間、杭の慣性質量をゼロにする。
秒速十一キロの破滅が、俺の掌で静止した。
宇宙から島を見上げていた者がいたなら、針のような光を、人間一人が押し返す姿を見ただろう。
「配達先が違う」
杭へ通常の質量を戻し、今度は軌道砲台の方向へ投げる。
銀の杭は来た道を逆に走った。
砲台は迎撃弾を撃った。十二。二十四。四十八。
俺は全部を止め、砲台の周囲に円形に並べた。
『識別不能戦力。排除優先度を更新』
「遅い」
砲台そのものへ、海ひとつ分の重さを与える。
軌道が崩れた。
巨大構造物が衛星へ落ち始める。俺はそれを追い越し、下側から片手で支えた。重さを羽毛まで減らし、速度だけを殺す。
長さ二キロの軌道砲台を、俺は片手で持って島の沖へ降ろした。
海面が持ち上がる前に水の慣性を整え、波を円く逃がす。砲台は、巨大な墓標のように浅瀬へ立った。
広場から歓声が上がった。
すぐにエコーの通信が入る。
「上空へ公社戦闘艦四隻が跳躍。オラクルの処分命令を受信しています」
「今日は客が多いな」
「昼飯を要求しますか」
「成長したな。頼む」
雲の上に、黒い艦影が四つ現れた。
主砲口が開く。
俺は空中で腕を組んだ。
「聞こえてるか、公社」
全周波数へ声を流す。
「島には七十三人の生存者がいる。実験記録はすでに俺の船から中立通信網へ送った。ここで撃てば、証拠が増えるだけだ」
『アトラス保有体を確認。捕獲命令へ移行』
「交渉が下手だ」
四隻が一斉に撃った。
粒子砲の光が空を白く裂く。
光には、静止質量がない。
だから普通の方法では止められない。
俺は指先ほどの砂粒に、月と同じ重力質量を一瞬だけ与えた。
空間が曲がる。
四本の光は俺を避け、弧を描いて上空へ逸れた。砂粒を元に戻す。重力の傷は閉じ、空は何事もなかった顔をした。
「もう一度撃つか?」
返事の代わりに、艦載機が百二十機吐き出された。
「元気でよろしい」
俺は百二十機の推進器だけを重くした。艦載機は空中で止まり、花粉のように漂う。次に四隻の主砲身を一千万トンへ。船体が自分の武器に引かれて軋む。
最後に、四隻すべての姿勢制御だけを軽くする。
戦闘艦はゆっくりと回転し始めた。
一回転。
二回転。
三回転。
『攻撃停止! 攻撃を停止する!』
「最初からそう言えばいい」
『要求は何だ』
「救助艇を降ろせ。医療班を出せ。全員の身元と証言を中立監査局へ引き渡せ。それから艦長は始末書を手書きで十二枚」
『最後の条件に合理性がない』
「俺の機嫌に合理性を求めるな」
四隻は降伏した。
俺は強い。
強すぎると、だいたいの戦争は会話の前置きになる。
八
夜明け前、島は初めて静かになった。
公社艦の医療班が負傷者を運び、ギルトスたちは通信記録を複製した。中立監査局の巡察船が到着するまで、俺が四隻の艦を空中で逆さまに吊っておいたので、誰も余計なことはしなかった。
トリヴァンは広場の端で、赤い樹脂を顔から洗っていた。
落ちにくい樹脂だった。
彼は何度も水をすくった。
「僕は人を殺した」
背後に立つ俺へ、彼が言った。
「トマは群衆に踏まれた。だが、夜喰いを出したのは僕だ。恐怖があれば皆がまとまると思った」
「そうか」
「僕を裁かないのか」
「俺は裁判官じゃない」
「なら、殴れ」
「安く済ませる気か?」
トリヴァンが振り返る。
「痛みは罰にならないことがある。痛い間、自分が被害者になれるからだ。お前は生きて証言しろ。何をしたか、なぜしたか、何度でも説明しろ。トマの家族が聞きたくないと言うまで」
「それが罰か」
「責任だ。罰より重い」
彼の手には、銀の航法環があった。
「これを、どうすればいい」
「航法装置に戻せ。もともと空を迷わないための道具だ」
トリヴァンは初めて、少しだけ笑った。
王ではない顔だった。
海岸では、トマのための簡素な墓標が立てられていた。
七十三人が順番に石を置く。
俺も一つ置いた。重さは変えなかった。
死者の重さを、生者が都合よく軽くしてはいけない。
九
朝、〈不在証明号〉のハッチ前で、リラが待っていた。
医療鞄と、小さな旅行袋を持っている。
「患者は?」
「監査局の医師に引き継いだ」
「この船は狭いぞ」
「十九年前より?」
「俺の反省が場所を取ってる」
「外へ捨てなさい」
「それは捨てない」
リラはハッチへ手を掛けたまま、俺を見た。
「一緒に行くとは言ってないわ」
「旅行袋が会話に参加してる」
「六週間だけ。生存者の聴取が終わるまで、監査局の本部へ同行する。あなたを許したわけでもない」
「知ってる」
「昔みたいに、勝手に私を守らない」
「努力する」
「黙って消えない」
「約束した」
「約束は、一度言えば終わりじゃない」
俺は頷いた。
「じゃあ今日、守る。明日になったら、また明日の分を守る」
リラはしばらく俺を見て、それから船へ乗り込んだ。
「コーヒーはある?」
「抽出器が壊れてる」
「直しなさい」
「巡洋艦より手強い」
「だから私が必要なのよ」
エコーが船内灯を点ける。
「乗員登録を更新します。リラ・ノイン船医、ようこそ〈不在証明号〉へ」
「船医じゃないわ。期間限定の監督官よ」
「了解しました。ジン・アシュベル監督官」
「俺が監督される側か?」
「当然でしょう」
船外で、若者たちが手を振っていた。
ギルトスが、修復した航法環を高く掲げる。銀の輪は朝日を受け、王冠ではなく、ただの正確な機械に戻っていた。
俺は〈不在証明号〉の重さを消した。
船体が音もなく浮かぶ。
島が遠ざかり、砕けた船も、墓標も、顔を洗う若い王も、小さくなっていく。
「ねえ、ムシェク」
副操縦席で、リラが言った。
「一度しかない人生って、軽いと思う?」
俺は星々の向こうに航路を引いた。
「一度しかないから軽い日もある。二度と取り返せないから重い日もある」
「答えになってない」
「答えを一つにすると、また王冠になる」
リラが、ようやく笑った。
俺は巡洋艦を片手で止められる。
惑星を動かすことも、砲火を曲げることもできる。
それでも、約束の重さだけは変えられない。
だから俺は強いままでいられる。
強さとは、何でも軽くすることじゃない。
自分で選んだ重さを、逃げずに持つことだ。
〈不在証明号〉は朝の重力を抜け、星の海へ出た。
王冠のない空は、どこまでも広かった。
了